人は「自己満足」を「指導」と思い込める - 2017.09.27 Wed
『嫌いな給食嘔吐 女性教諭「逃げないでの思いで…」』(テレ朝news)
このニュースのケースには、教える側のはまってはいけない主観的論理がハイブリッドで含まれている。
学校がその体質を改善しなければならない理由が凝縮したような事件だ。
「残すな」・・・
教える側は「無理矢理食べさせれば食べられるようになる」という専門的と言えない論理の指導レベルにある。
さらには、「残すのは良くない」という主観から、食べさせることが教える側自身の満足感を求める行為になってしまっていることに気づけなくなっている。
おそらく多くの施設のおちいってしまうところがここ。
本人も「指導」と思い込みつつ、大人の自己満足だけの無意味な行為が子供に課せられてしまう。
これにより不利益をこうむるのは子供。
ここにはまらない意識を組織全体で自覚的に共有していく姿勢が常にないと、ハラスメントは起こるべくして起こる。
(例えば、
「そのきまり本当に必要?」
「その子供への要求って本当に子供のため?大人の都合になってない?」
「その目的・ねらいって、子供たちの状況、発達段階に合っている?」
「”○○できることが大事”といった根拠のない素人考えで要求していない?」
「大人の成果ありきになっていない?」
「それ子供を伸ばすためにやっているの?本当は上司が望むから・自分の功績を作りたいからでない?」
「見栄えを立派にするために大人が手を貸しすぎ・手を出しすぎになっていない?」
「その行事・イベント・企画のねらいは子供のため?大人の自己満足や成果づくりに子供を利用していない?」
「それって結果を力技で作り出すだけのテクニックでないの?子供はそれで成長している?子供が自分からやるときそれできてる?」
といった視点、ディスカッションを!)
「達成感」・・・
どんなことであれ強要されたもので達成感を得ることはほとんどない。
自発的に取り組むことにより、はじめて達成感が得られる。
その「自発」に至るプロセスを作り出すことが、本当にあるべき子供へのアプローチ。これができて「専門性がある」と言える。
強制してやらせること、釣りやおだての小手先の技で「結果」を作るのならば専門性とは言えない。
「逃げるな」・・・
現実から逃避をしてはならないという気持ちから自殺者を生むように、現代は「逃げてはならない」ということをもはや洗脳レベルで先入観や同調圧力として抱えてしまっている。学校はその点に自覚的にならなければ、人を幸せにするどころか不幸にしていってしまう。
また、少し考えればわかるが、食べ物の好き嫌いがあるからといって、困難なことに立ち向かえなくなるわけではない。
「食べ物の好き嫌いがあること」と「困難に立ち向かうこと」はなんの因果関係もないこと。
つまりはただの教える側の主観的根性論でしかない。
例えば、プロ野球選手のイチローはかつてカレーしか食べられなかったが、大リーグで偉大な成績を残している。
精神論・根性論・・・
上記の「残すな」「達成感」「逃げるな」といったことは、教育とは名ばかりで単なる精神論・根性論としてある。それらは言い換えれば、「主観的な偏見」である。
精神論・根性論を「教育」ととらえてしまうと、不適切な行為は簡単に起き、また訂正されることなく続いてしまう。これはハラスメントの構造をもたらす。
◆教える側の背景として
信頼関係・・・
子供との信頼関係の上に教育が成り立つことを忘れ、支配することを教育と見なすようになってしまっている。
子供観・・・
子供の成長の余地を理解せず、「いま私の目の前で!」と結果を急いでいる。それは「子供を信じない」ということであり、「子供を低いもの」と見なす教える側の未熟な子供観がある。
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● COMMENT ●
現在、1歳半の一人娘がいます。娘には、社会と調和して、自分らしく、自立した人生を歩んで欲しくて、おとーちゃんのブログに書いてある内容を参考に育児をしております。
娘とはまだ一年半の付き合いですが、叱らなくても済む子育て、本当だなと実感しております。最近、自己主張がはっきりしてきて、これからイヤイヤ期に入ってくると思いますが、イヤイヤが最小限で済むなと、一人で確信しています(^-^)
子供というのは、自分の考え方、在り方を気付かせてくれる、ありがたい存在だなと感じており、娘には日々、感謝しています。もちろん、まだ1歳半ですから、自分の気持ちを言葉で伝えられず、プチ癇癪を起こすこともあります。子供をよく観察していると、何を言いたいのか、何をしたいのかなんとなく分かるので、気持ちを受け止めてあげると、不思議と収まります。
親の関わり方ひとつで、こんなにも素直に育ってくれるのかと、たまに涙が出てきます。
叱らなくても、しつけをしなくても、子供は素直に育ってくれる。日を追うごとに実感してます。おとーちゃんのブログに出会えて本当に感謝です!!
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おとーちゃんさんの言わんとすること、分かります。ただ、実際の場だと、どこまでやらせなくてよいのか、迷うところです。その子やその場で違いますよね~。
うちの娘は5歳4か月、年中さんで、もうすぐ幼稚園の運動会です。通っている幼稚園はのびのび系?で、運動会も、ありき、ではなく、子どもたちがやりたいって自発的に言い出してからじゃあこの日にしようね(でも日は前もって決まっていますが)とやっています。なので、練習も無理やりさせられる感じではないのですが、娘は、みんなに見られるのが恥ずかしい…と、練習を拒んでいたそうです。先生もそれを見守ってくださっていたようです。
先生に「お家で声を掛けるなら、無理やりさせようとするんではなくて、○○ちゃんのがんばってる姿が見たいな~などの声掛けをしてあげてくださいね」と言われました。
無理やりさせたくはありませんが、まだ幼く経験も少ない子どもに、「ちょっとイヤだったけど頑張ったら、良い思い出になった」という経験も必要だよな~とも感じます。(それが運動会という場である必要はないのかもしれませんが。)
娘は、恥ずかしいけどちょっとやりたい気持ちも垣間見えるので、頑張らせても問題ないかなとは思っているのですが、もしも本当にいやそうにしている時、「やらせない」という選択を私は冷静に出来るのかな…とも思ってしまいます(特に運動会などの記念になる行事)。
娘への声掛けで、「頑張ってる姿が見たいな~」とは言ってきましたが、なんで頑張るのがいいのかなと、自分でも疑問に思いました。なので、「ちょっと嫌なことでも、がんばってやってみたら、できてもできなくても、こころが大きくなるんだよ」なんて話してみてましたが。無理やり頑張ることを助長しない言い方って難しいですね。期待がにじみ出てしまいます(^^;)