教育について考える Vol.1 ―お金のためにする勉強なの?― - 2012.09.05 Wed
という意見があります。
そしてそれはいろんなところで、もてはやされています。
この意見はとても説得力をもっているし、実際のところ事実でもあるでしょう。
一見、僕が言っていることとも、求めているところは同じように見えます。
しかし、この考え方をそのまま鵜呑みにしていると、教育という百年の計を見誤るおそれがあると思います。
その部分はここです。
「国際競争力をつけるために」
ここでいう「国際競争力」とは経済的な問題のことでしょう。
この意見は、教育の前提に経済原理を置いているのです。
つまり、経済ありきで教育の形を策定しようとしているわけです。
確かに、教育がその国の経済を支えているのは紛れもない事実である。
しかし、「経済があって国民がある」のではない。
「国民があって経済がある」のである。
教育とは国民の幸福のためにあるのだから、この言葉は、
「経済があって教育があるのではない。教育があって経済があるのである」と言い換えられるだろう。
もし、教育の方向性を決めていくのに経済原理を第一義に置いていくことを認めていたら、最初に提示した「国際競争力をつけるために意見を言えるような教育を」というのはいいとしても、そのほかお金儲けにならないことは最小限に、お金儲けになるならば多少のことは目をつぶってというようなことが平気で行われていくことだろう。
現に少し前の文科省の大臣が提唱していた「エリートを作り出すような欧米式の教育を」というようなのはそれそのものと言えるだろう。
国際間で打ち負けないように、優秀なものに重点を絞って高度な教育をし、落ちこぼれるような人間は能力や努力が足りないのだから落ちこぼれたところでやむをえない。
そういうことをご自分の口から直接言っていましたが、とても民主主義国家の大臣の発言とも思えませんでした。
しかし、経済原理を第一義においた教育観というのは、むしろ多くの人がもっているとすら言えます。
なぜならこれまでの日本の教育がそうだったからです。
第二次大戦後、経済復興を遂げるために日本という国のさまざまな部分は形作られてきました。
教育もまさにそうで、極端な言い方をすれば「会社人間を作るために、日本の教育の方向性もさだめられてきた」そういっても過言ではないでしょう。
ずっと上り調子の経済発展を遂げていましたから、そのときはそれで問題なかったのです。
なにか社会のどこかで不具合が起きたとしても、経済の好調というのはそれを埋め合わせても十分お釣りの来るほどのものだったからです。
今後も教育の施策を、経済発展の方に向けたいという多くの人の考えは、こういう経緯がありますからしごくもっともです。
経済さえ良い形で回っているならば、いま問題となっていることも多くがそれを背景として解決してしまうのだから。
いま日本でさまざまな社会問題化しているものは、以前からあったことなのにそれほど問題になっていませんでした。
なぜか?
経済の好調でそれを埋め合わせることが、できていたからです。
年金の問題、医療費の問題、こういったことも経済が右肩上がりの成長をしていて今後もしていけると判断できるなら、さして大きな問題ともならなかったでしょう。
それがいまや日本は経済的に深刻な落ち込み具合を見せていて、生活保護すら槍玉にあげています。
もちろん、不正受給は問題ですが、正当な理由がある人すら白い目で見られる世の中になってしまっています。
こういったことも、経済の不調が引き起こしていることでしょう。
ですから、もし経済を良くすることができれば、いま起こっている問題の多くもさして悩ましいものでなくすことができます。
それゆえに、教育も「経済のためにあるべき」と考える人が大勢います。
そもそもそういう世界で育ってきているので、その先入観がほかのあり方など思いつかせていないのかもしれません。
しかし、ここで僕は思います。
経済発展につぐ経済発展で日本人は果たしてなにを手に入れたのだろうか、と。
たしかに世界の中でも非常に恵まれた豊かさを手に入れることはできました。
景気がどん底といういまですら、世界の多くの発展途上国から見たら、考えられないような贅沢な暮らしをしているでしょう。
しかし、そのような豊かな国であっても、自殺者は過去最高を年々記録していて、会社や学校で抑圧されている人たちや心に病を抱えずにはいられない人のなんとおおいことか。
「経済のため」と必要もない高速道路や高速鉄道やダムや飛行場を、たいして使われないことがわかっていながら作り、それを許容してきました。
そのときは一時的に潤ってもあとの世代に「維持費」という膨大な赤字を押し付けているだけだったりしています。
そういった「経済のため」でさまざまな問題点を我慢してきたのだけど、もうそれはいいのではないかという時代になっていると僕は思います。
また経済を発展させ続けたところで、いきつくところはあのバブル経済のようなものでしょう。
あれだけ豊かだと思っていた富は、いまでは何も残っていません。
大変うまく経済を発展させてあのバブルのような失敗がなかったとしても、経済的な豊かさだけで人間そのものが豊かになれないということは、あのバブル期にさえ様々なカルト宗教が猛威を振るったのからもうかがえます。
しかし、リーマンショックでわかったように、あれだけ大きなバブルの失敗を世界は知っていたのにまた繰り返しました。
実際のところ、歴史を振り返れば貨幣経済が発達した近世の頃から、しばしばバブル経済の失敗を繰り返しています。
結局のところ経済の頂点はバブル経済に過ぎないのかもしれません。
経済の発展だけが人の豊かさではないこと。
ヨーロッパでワークシェアリングなどが導入された国を見ますとそれがわかります。
ワークシェアリングをすると、つまりは時短ですからそうしないよりも、その人の収入は減ります。
しかし、その職つまり収入を社会の中で広く分け合うことで、社会自体が安定してよりよい世の中で過ごすことができ、結果的に実感的な豊かさを得ることができるということです。
これは「経済を伸ばし続ける」というある種の自転車操業からの脱却だと言えるでしょう。
それができたのは、価値観を転換したからに他なりません。
日本はいまこの時期がそれを考える段階だと思う。
様々な社会の齟齬が吹き出している状況だからこそ、それを今一度考えていかなければならないだろう。
社会が様々な問題を吹き出しながらも、それを有り余るお金の力で許容範囲に抑えながら続けていく世の中を選ぶのか。
それとも、問題自体を見据えてそれをみなで解決しようとする世の中を選ぶのか。
現実にはそんな2つで割り切れるようなことではないけれども、教育とは本当に明治時代の人たちが言ったように「国家百年の計」だと思うからこそ、目先の問題だけで流されてはいけないと思い、こんな駄文を書きました。
最後まで読んでくださってありがとう。
今回僕にしては珍しくマクロ的な視点なのだけど、「お金のためにする勉強なの?」はミクロ的にも感じます。
それは今の親が、「子供の将来のための教育」を「子供の将来の経済的豊かさのための教育」と考えている人がおおいなぁ、という点です。
そういえば、今日 BLOGOS を読んでいたら前号の「個々の価値観をもてる教育」について学校の先生の立場から書かれている方がおりました。
大変興味深い内容でしたのでご紹介します。よろしければどうぞ。
『子どもの自主性、主体性、自発性を養う教育』は、いじめを助長するか。
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● COMMENT ●
娘の愚図り方の違いについて
先月、積み木について調べていたときにこのブログと出会い、以来時間があるときにカテゴリごとに読ませていただいております。
今回娘について相談させていただきたことがありコメントさせていただきました。
まず簡単に私たち家族について書かせていただきます。
私は働くことが出来ず現在主夫業を行いつつ子育てをしております。子供は1歳3ヶ月になる娘が一人です。妻はシフト制の出勤・帰宅時間も一定ではない仕事をしています。(帰宅してくるごろには娘はいつも寝ていて休日以外は朝出勤前に会うぐらいです。)
ここからが相談になります。
妻が休日や出勤時間前など娘が起きている時間帯に家に居るときと妻が居ない私と娘2人だけのときで娘の過ごし方が全く違うのです。
大まかに言うと、妻がいるときは妻にべったりでちょっと何かがあるとすぐに愚図りだします。そして私あまり寄ってきません。
しかし、私と娘の2人だけになると、愚図ることもあまり無く家の中ででも一人遊びをしたりしてとても手のかからない生活を送っています。(叱らなくていい子育てを意識してやってます。)
具体的に言いますと、娘が興味を持って触っているもので親としてはあまりおもちゃにされたくないものを娘から離そうとした場合、妻の場合「返して」「ちょうだい」などと伝えてもらおうとしてもすごく嫌がり愚図りますが、私と2人のときはすっと返してくれます。
時々2人のときでも愚図ることはありますが、私は愚図ったからと言って「ほしいの?じゃああげる」というようなことはしませんが、妻は「だって、だめなんだもん」などと言いつつも娘に物を返してしまいます。
また、寝起きについても妻がいるときは愚図ることが多く、私と2人のときは滅多に愚図って起きることもありません。あったとしても、少しそばに居て話をしていると愚図らなくなります。
遊びに関しては上記でも書きましたが妻がいると一人遊びすることは無く、妻がキッチンに入ると(娘から離れると)途端に愚図りますが、2人のときは私が家事などでキッチンにいると1人で遊んだりキッチンのそばまで私を見にきたりして愚図ることはありません。
このように妻がいるときといない時で娘の愚図り方や愚図る度合いが変わってくるというのは私の普段の接し方に問題がある可能性があるのでしょうか?
それともただ単に普段母親が家に居ないため、家にいるときには甘えているというだけのことなのでしょうか?
昨日などは妻が休日だったのですが、私も妻も手の付けられないほど愚図ってしまったり、いつもの時間に寝てくれなかったりで、2人でいるときと違うので私自身どうしていいかわからなかったり、妻もどうしていいかわからず疲れ果ててしまいました。
今日は妻が出勤でいないのでいつもどおりにお昼ごはんを作っているときには1人遊びをしてくれて、ご飯を食べた後いつもの時間にお昼寝してくれました。
まとまらない文章で申し訳ありませんが、何か考えられることがあればご教授いただきたいと思いコメントさせていただきました。情報として足りない部分があれば追加してお伝えさせていただきます。
よろしくお願いいたします。
最後に、可能であれば記載いたしておりますメールへ返信いただければ幸いです。
No title
今日の記事は、おとーちゃんさんがよく仰る現代の保育に関する行政の問題と似てますね。
大量生産できる低コスト・低クオリティーの保育施設の増加を目指していることなどは、正に経済を第一義に置き、最も重要な子供のことは置き去りです。
文科省大臣の「エリートを作り出すような欧米式の教育を」発言でかなり引っかかったのですが、そもそも“エリート”って何なのでしょうね?一流の学校を出て、一流の企業に就職して活躍し、外国語もペラペラで……そんなイメージです。
じゃあ、スーパーでレジを打つ店員さんは世の中には必要ないのでしょうか、給食を作る調理師さんは落ちこぼれなんでしょうか、働きに行かずお金にならない家事と育児しかしないお母さんは社会にはお荷物なんでしょうか。
何だかそのように取れて、とてもイヤな気持ちです。
これだけはという自分の武器を持って、活躍出来るようなエキスパートを作る教育なら分かりますが。(←言葉選びが間違ってたらごめんなさい)
No title
私は本当におとーちゃんの考えファン!なので、ちょっとずれた要望になってしまうのは重々承知で…。
今回程、おとーちゃんさんのブログの書籍化を強く願い、『おとーちゃんさんが政治家になって貰えないだろうか…』なんて、真剣に思ってしまいました。
それほど、おとーちゃんさんの考え、胸に持っていらっしゃる思い、物事の捉え方、考え方、受け止め方…。これからの日本に、本当に必要だと思います。
大津市のいじめの事件をきっかけに、私自身も本当に色々なことを考えさせられました。
今の政治についても、ほとんどの政治家がまず第一にあるのは『自分自身』。本当に国民生活の改善を願って、それを第一に動こうとしている政治家、これからの日本を危惧して、変わるのは今だ!と考えている政治家は一体何人居るのでしょうか?
愛しい、自分の命に代えても守りたいと願う、子供という存在。
そんな愛しい子供達がこれから過ごしていくであろう日本。
おとーちゃんさんのブログを読んで、BLOGOSを読んで、結局のところ何にもできない自分の無力さを痛感しています。。。
私達主婦が何かできることはないのでしょうか・・・。
せめて、1人でも多くの人がおとーちゃんさんのブログに辿り着いて欲しい。『いじめられない子供に…』ではない、『人を傷つけたり、いじめをする子供にしない為に・・・』日々様々な問題、葛藤にぶつかりながらも我が子に愛情を注ぎ、子育てを悩みながらも楽しめるお父さん、お母さんが増えることを切に願います。。。
とりとめのないコメント失礼しました。これからも楽しみにしています。
教育について考える
そして、それ以上に、今回の話題のような、保育の世界を超えて社会を広く見渡してのご意見には、いつも大きく頷いています。BLOGOSに取り上げられた先生のご意見にも、とても賛同できる部分が多いです。
明治維新、第二次世界大戦の敗戦と、日本の社会は大きな節目を越えるたびに、それ以前の、伝承されてきた日本の良さをどんどんそぎ落として、「富国強兵」「殖産興業」とか、「戦後復興」に邁進する教育に突き進んで、外国の目新しい理論(「スポック博士の育児書」のような)にはすぐ飛びついて、気がつけば、「支持待ち症候群」やら、「キレル子ども」、「いじめをやめられない子ども」やらをたくさん生んでしまったみたいですね。
実は、私の子ども達は、もう20歳を過ぎていますが、今1歳~2歳児のクラスを担当して2年目になってみて、つくづく、3歳くらいまでの子どもは、昔も今も大差ない、子どもの本質は変わっていないと思っています。3歳を過ぎ、年長へと成長していく間に、どんどん子ども達がその家庭・保護者の色・置かれた社会環境の色に染まっていくと感じています。
まさに「子は親の鏡」「社会の鏡」だと思いませんか?おとーちゃんさんがおっしゃっている通り、例えば、経済成長が見込めなくなった社会の不安が親の不安につながり、不安な親の心が形を変え、時を移して、さまざまな子どもの問題行動という目に見える‘症状’として現れてきているような気がしてなりません。
「日本の教育について考える」というなら、まさに、就学前の保育園の現場こそ、「なぜお母さんがここに預けるのか」という問いにすべてが集約されているように、日本の現状のさまざまな‘しわ寄せ’を蒙っている幼い子どもたちの育ちを支える最前線だと私は思っているのです。いかがでしょうか?
>かわいがられて育った子ども(本当の意味で)
は、陰湿・残酷ないじめに関わることもないと思いますし、おのずと自主性も主体性も自発性も育っていくものではないかと思うのです。
なので、非常勤の保育士ではありますが、週3日の関わりの中で精一杯、目の前の子どもたちを心の底から「かわいがり」、言葉になる前のどんな小さなサインも見落とさないように受け止めて、本気で人間対人間の付き合いをすることをモットーに頑張っています。
私は、自分の関わった子どもの誰一人として、将来暗いニュースの主人公になって欲しくないと思っていますし、成績いかんではなくて、「知る」ことの喜びや「学ぶ」ことの楽しさのわかる子どもになって欲しいと思っています。
今後とも、若いお母様方の力強い味方であるおとーちゃんさんの実践やご意見を参考にさせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
主夫ぱぱさん
丁寧に読んでくださってありがとうございます。
いきなりですがお詫びから。
いろいろな経緯がありまして、今現在はメールでの返信はしておりません。
皆様への相談への返信はコメント欄で行っておりますので、今回もそうさせていただきます。
なにとぞご了承ください。
まず、そのぐずってしまう姿は普通のことです何も心配いりませんよ。
うちも似たようなものです。
やはり、子供は往々にして、母親からもらうべきなにかと、父親からもらうべきなにかというのがあるようです。
>普段母親が家に居ないため、家にいるときには甘えているというだけのことなのでしょうか?
つまりは↑これなのだと思います。
こういう行動は、ほとんどの子供にあります。
お父さんと過ごす時間を、保育園で過ごす時間と置き換えてみれば、保育園でも同様の姿が日々たくさんみられます。
保育園にいるときはなんでもがんばってやってしまうけど、お母さんがお迎えに来ると、ぐずったり、幼くなって本当はできることができないという姿をだしたりします。
全く自然な姿ですから、ネガティブに捉えずに「ああ、甘えたかったんだな」とそのまま受け止めてあげるのがいいです。
うちでは「がんばったから、おかーちゃんが足りなかったんだね~」と笑って受け止めてあげています。
奥さんもお仕事でお疲れだったりするでしょうけど、無理のない範囲で受け止められるならばそれでいいと思います。
ただ、あんまりグズグズが強くなるとそれだけで大人も疲れたり、イライラしてしまいますよね。
その点は、多少変えていく方法はあります。
ひとつは「ぐずりをいい甘え方にしてあげる」ということです。
いまはぐずることで甘えたい気持ちを出してしまっています。
それを「そんなことしなくても、素直に甘えていいんだよ」と伝えてあげます。
「可愛く抱っこしてって言ってごらん」などと、どうすればいいか伝えてもいいでしょう。
「じゃあ、一緒に絵本をよもうか」などと、ぐずることでなく遊びを一緒にすることを提案してもいいでしょう。
そうやって、いい甘えの出し方を経験していけばぐずらずとも、そういう姿を自分からだしていけるようになります。
そうして、いい甘え方をしたほうが、大人もいい受け止め方をしてあげられるので、子供の満たされ具合はよっぽど大きくなります。
子供はときに、キーキーとした誰が聞いても不快な奇声をだして、ぐずりを表現したりします。それをずっと続けているとクセになります。
僕はそういうとき、「そういう声は大人の人はだれも好きじゃないんだよ。そうするよりもかわいく甘えてくる○○ちゃんのがずっと好きだよ」ときっぱり伝え、よい甘え方を知らせていきます。
ただ、こういったよい甘え方を素直に出せるためには、ある程度受容されているという安心感も必要ですので、くすぐり遊びをして楽しい時間を共有したりする「さきまわりした関わり」を少し意識すると、より伝わりやすくなるかもしれません。
お母さんとそういうことができる時間を、無理のない範囲で確保してあげるといいと思います。
そして、普段のいい部分・できたこと・好きなことをたくさん認め、自信を持たせていくことでも気持ちを自立の方向にもっていけますので、それも結果的には激しいぐずりをださないことにもつながります。
女の子は精神的な成長が比較的早めですから、こういう姿もそうそう長いものでもありません。
来年の今頃にはもうとっくに、笑い話になっているかもしれませんよ。
とかちさん
↑実はこれを目指す人は、自分の考えや自主性をもった人間を育てることは目指しません。
なぜなら、一部の人間(エリート)がその他大勢をうまく治めるためには、個々の意見や自主性などは邪魔にしかならないからです。
これまでの日本の政治も会社もこの立場にあるといっていいでしょう。
だからなおさら、日本の教育は個性・自主性は伸ばせないのではないかと思います。
国がうまくいっているときならばそれでもいいのだけど、これからの日本はもはやそうではないからこそ、この考え方は怖いです。
歴史を振り返ると、国が低迷している時ほど人々が衆愚化してあやつられてしまうと、とんでもない方向へ行ってしまう例がごまんとあるからです。
そういうこともあって、教育にはもっとがんばってほしいのだけどね。
向日葵さん
たくさんの子供を育てていると、単に子育てではとどまらない多くの問題と行き当たります。
そういうことを否応なしに考えさせられるだけで、ぼくは大局的なビジョンなどはさしてありません。
ただ、子供たちが幸せに育ち生き、次の世代はいまよりも良い社会を作って欲しいとおもうだけです。
そういった意味では、一市民でも自分の子供をしっかりと育てることが、そのまま大きな社会貢献になると言えるのではないでしょうか。
返信ありがとうございました
お忙しい中相談の返信を頂きありがとうございます。
そして、私の方こそ状況を把握せずメールでの返信をお願いしてしまい申し訳ありませんでした。
今後もコメント欄にてお伺いしたいことがあれば書かせていただきます。
まず「普通の姿なので心配ない」とのことですごく安心しました。
妻もどうしたらよいのかわからず困っていたのですが、私の方がなんだかイライラしてしまう部分があったものですから心配ないということでもう少し心の余裕を持って見ていこうと思います。
やはり母親と父親では違うのですよね。母親のお腹から出てきているので当然と言えば当然ですよね。
>お父さんと過ごす時間を、保育園で過ごす時間と置き換えてみれば、保育園でも同様の姿が日々たくさんみられます。
やはりそういう感じなんですね。
実は毎朝妻の出勤時になるとものすごく泣きます。しかし、妻が玄関をドアを閉めるとパタッと泣きやみスタスタと玄関からリビングへ歩いていって、笑いながら遊び始めます。この姿を見たときに「保育園に預ける時の母親との別れだな」と思ったことがありました。
対策も教えていただきありがとうございます。
これはぜひ妻に伝えて実践してみたいと思います。
子育てってまだまだ母親と子供という観点が多く、父親がメインで子育てすることについてなかなか話を聞けるところが無くて、単純に母親を父親に置き換えられる部分であれば良いのですが今回のような父親ではどうにもならないような場面に出くわしたときにどうしたものかと悩んでしましました。
もし御迷惑でなければまた子育ての中での疑問などがあればコメントさせていただきます。
最後になりましたが、子育てという難しい部分の話をわかりやすく丁寧に書いてくださりありがとうございます。
これからも新しく書かれる内容もそうですが、まだ拝見しきれていない部分もじっくりと読ませていただきます。
無理の無い範囲で色々とご教授いただければと思います。
やまねこさん
おっしゃることよくわかります。
あまり一般に語られることはないですが、明治以降の日本の「近代」がもたらした子育てにおける影響というのはいまでもとても大きいと思います。
たしかに、子供そのものはいつの時代もかわらないようです。
しかし、社会や環境、大人のありかたというのはどんどん変わっているし、いまではその変化のスピードがとても早くて、これからの子供とのあり方をどうしていくのかなどと考えている暇もなく進んでしまっています。
人間はなかなかいくところまでいかないと省みないものですが、できれば早い段階で子供についての味方の見直しを大きな視点で行われるといいと思います。
主夫ぱぱさん
そうなんですよね。
子供のこの部分は、保育士でもない限りなかなか見る機会がないと思います。
これが見れるのは、主夫ならではですね。
そういうように、自分で頑張れる強い部分が有り、また甘えを求める子供らしい部分が有り、それがバランス良くあって子供は成長していくのだと思います。
こちらこそこれからもどうぞよろしく。
高度成長期の日本・新興国は、貧しけど成長率が高かったですね。
だから将来に希望を持てるし、明るい気持ちになれます。
しかしバブル崩壊以降、日本はマイナス成長が続いています。
これだけ長い不況というのは、景気循環ではなく国力の衰退です。
先進国でもアメリカは、3%成長をしてるのに・・・
長期不況による人余りが、ブラック企業を増やしているのも現実です。
氷河期世代の就活は、まさしく減点法でした。
大人に余裕がなれなれば、子供に愛情を注げなくなりやすいです。
仕方なく共働きが増えてるし、少子化の原因にもなっています。
※先進国では貧乏子沢山ではなく、貧乏=未婚・子無し・一人っ子。
最近は少子化の影響・団塊の退職で、人手不足になっています。
労働者には朗報だが、公定価格で値上げ・賃上げできない保育士は不足。
お金のための勉強は、仕方ない・・・
高い教育費・学費は、良い大学に入って高収入を得るため。
子供に良い教育を与えるためには、ある程度のお金は必要である。
※格安の無認可園だと、どうしても安かろう悪かろうになってしまう。
小さいうちは専業主婦にメリットだし、そのためには稼ぎも必要。
なんだかんだ学歴フィルターは残っており、マーチ・駅弁が基準になる。
同じ偏差値なら、需要の高い機械・電気が良かったりする。
※また文系は営業・接客ばかりで、コミュ障だと詰みやすい・・・
ただ女子の場合、お嬢様大学⇒一般職⇒専業主婦が幸せだったりする。
学歴がいらない保育士・介護士などは、なんだかんだブラックが多い。
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都内で忙しく働いていたころは、(差別的発言だったらごめんなさい)貧しい国に生まれそだっても、毎日のんびり海でも眺めながら、時々仕事さぼったりしながら仲間や親戚とワイワイ暮らしたら幸せだろうななんて思ってました。
経済の為にとならないように、娘をもっとのんびり、育てていこうと思いました。