WS 第五回 過保護と過干渉 - 2015.07.08 Wed
このブログでも本でも、「受容」についてのお話しはたくさんしてきました。
「受容を意識するようになって、それまで難しいと思っていた子供の姿がまったくなくなって子育てが楽しくなりました」
という方もおります。
でも、
「受容が大切なことは理解して、それをしてみることでの手応えも感じる。
けれど、それでもなんだかまだまだ子供の姿が難しく感じるなあ」
という方もいることでしょう。
その背景にあるもので少なからぬケースは、この「過保護と過干渉」の問題ではないかと感じます。
現代の子育ては、「過保護と過干渉」にとてもなりやすいからです。
「なぜなりやすいのか?」は、理屈っぽくなるので省略。
ここでは、「どこに気をつけていこう」のポイントだけに絞って書いていきます。
<過保護・過干渉にならないために>
◆安全・危険には毅然と
→このことを幼少期の子供にしっかりと伝えられないのであれば、子育ての全期間を通して他の何ものも伝えることはできない
”安全に留意すること”、”危険から身を守ること”
これらは言うまでもなく、子育てする上でとても大切なことですよね。
例えば、子供が車道に飛び出そうとしたとき、大人はそれを止めなければなりません。
そして、また同時に二度と同じことを繰り返さないように、その子に浸透するように伝えなければなりません。
優しく言って伝わらないのであれば、大人は強さを持って「それは危ないから決してしてはいけないのだ!」と言う必要もでてきます。
しかし、現代ではそれができない人が増えています。
その子に伝わるだけの強さを持って言うことができないので、子供はそれを芯から理解することなく、また同様の行動を繰り返し、大人はそこに対して「ダメよー」、「危ないわよー」と、その子に伝わっていない頭の上を通り過ぎるだけの空虚な言葉を繰り返すことになってしまっています。
この空虚な言葉の繰り返しは、子供に伝わらないどころか、単なる過干渉となってしまい、子供に大人の言葉を聞かなくていいといったよくないクセをつけてしまいます。
昔の人は、いまの人よりも、命に対する切迫感を持っていたのではないかと思います。
かつて、僕の父よりも前の時代は、子供が死ぬのは珍しいことではありませんでした。
「兄弟姉妹は6人いたけど、その内二人は幼少期に病気や身体の弱さで亡くなった」
などということは、普通にあることでした。
そういう状況で生きてきた人は、「命は守らなければならない」と強い気持ちを自然と持っていました。
その人たちは、もし子供が危険な車道に飛び出そうとしたとき、一片の躊躇もなく「バカヤロー」、「なにやってんのあんたは!」
と怒鳴りつけてでもやめさせることができました。
もし、それに子供が驚いて泣きわめいたとしても、「ちょっと言い過ぎてしまったかしら・・・」などとブレることも一切なく、「あなたのために必要だから言ったのだ」と堂々としていられました。
現代人には、そういった切迫さというものは薄れてきています。
子供に決してさせたくないと大人が心から思っていることに対しても、そこを毅然として堂々と子供に示すことが不得手になっています。
でも、”命を守る”という一歩も譲れないことに対してすら、強さを大人が持てないとしたら、これから直面する子育ての中で子供に伝えなければならないなにものをも、なにひとつ子供に伝えることはできなくなってしまいます。
安全・危険についての必要なことを伝えられるだけの強さを持てない人は、例えば、子供がいつも食事中立ち歩いてしまい、それは困ると思っていてもそれを子供に浸透するように伝えることはできないでしょう。
その人は、そういう姿に直面するたびに子供の頭の上を素通りするだけの空虚な言葉を、ただ何度もしつこく繰り返し、
「なんでうちの子は、わからないのかしら。ハァ」と徒労感を感じたり、
「小さい子供は、言ってもわからないからしょうがないわね」とか、「男の子は言うことを聞かないものなのね」などと、子供のせいにして自分をなだめてしまったり、
”小言過干渉”を重ねて、イライラやうんざり感を蓄積させ子育てそのものを嫌なものにしていってしまいます。
「私は強くいうことが苦手だわ」、「人と争うことは好まないわ」という人もたくさんいます。
僕は、人の弱さであってもそれはその人の個性として尊重すべきものだと考えています。
でも、安全と危険について伝える場面だけは、最低でも子供にそれが伝わるだけの強さや、もしくは毅然とした態度を持てなくてはならないのです。
それがなければ、過保護や過干渉を子供にしてしまうことに歯止めをかけることはとても難しくなることでしょう。
その強さや自信が、子供に過度な干渉や、過度な保護をしないですむためには必要になってくるからです。
”安全・危険に対する配慮”、”命に対する真剣さ”というものは、子育ての出発点であり、同時にここからここは譲れないという最後の一線でもあるのです。
これがきちんと持てないと、それは子供に対するときの”弱さ”になり、子供を持て余し、過保護や過干渉をする元となってしまいます。
まずはこの点を、大人としてしっかりと持つことが大切だと思います。
つづく。(多忙のため、不定期)
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● COMMENT ●
No title
これは…寄り添ってるのではなく、親の責任放棄なのでは(・・;)
幼子に寄り添うのなら、子供の様子を感じ取って(おでこや首筋触った体温とか、目の充血具合とか、機嫌の善し悪しとか)判断してあげるのが本当ですよね…。
No title
私は危ないときは真剣に子どもに対して怒っています。
繰り返し言うのに疲れていましたが、やっと最近
手をつないで落ち着いて歩けるようになってきました。
おとーちゃんさんの育児は、とても参考になりますし
実際子どもとの関係も良くなっているのですが、
むーちゃんの良い子さを知ると、自分の育児がまだまだ
と思ってしまいヘコみます(笑)
でも自分が常に良い子ぶる子どもだったので、
あまりに我が子が良い子過ぎてもそれはそれで心配
するんだろうと思います。
とりあえず、できることを一歩ずつしてみようと思います。
いつも参考になる記事をありがとうございます。
駐車場
沢山の親がこども達が遊んでいます。
勿論危ないので、うちはさせない方向なのですが、周りが走り回りボールなどで遊んでる中、これでいいのかなぁと迷う事があります。本当に都会には、遊ぶ公園も少ないですし。
おとーちゃんさんは、危険な意識が周りと異なることはありますか?
信頼関係について
口ではあなたのことが大切、大好きと言っていても、チャイルドシートを嫌がるから乗せないや道路で手を繋ぎたがらないときには繋がないなどは、子どもの中に不信感を募らせる原因になると感じます。
癇癪を起こしたり、泣いたりしたら嫌なことをしなくてすむと子どもが学習してしまうことも後々大変だと思いますが、命の危険につながるようなことをも受け入れてしまっては、本当は大事と思われてないとかあなたの命などどうでもいいと誤ったメッセージを受け取ってしまいかねません。
親子はこういう腹の探り合いで誤ったメッセージを受け取り合うことによってお互いに溝を深くし信頼関係が崩れ、思春期以降に深刻な問題が発生し、その間も同じことを繰り返し修復不可能な状態を作っていってしまうと考えます。
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子供の気持ちに寄り添っているので、前夜に熱があった次の日に幼稚園に行くかどうかも子供次第。夜のおねしょも、本当はお母さんが夜中に起こしているから失敗しないで済んでいるにもかかわらず自尊心が傷つくからと本当の事は伝えていない。お友達を叩く事にもバシッといけないと伝えられない。
我慢すべき事にも我慢しなさい!とハッキリ言えない。
大切な事はなんなんでしょう?
私自身も分からなくなりそうです。
それなら封建的な厳しい家庭の方が良いのではとすらも思ってしまいます。もちろんそちらに問題がある事も重々承知していますが。