イニシアチブは大人でいい - 2015.10.20 Tue
『“王様子ども”にしないために、親が日々心がけることは?』
その関連で、先日あったこんなことを紹介したいと思います。
パン屋さんでのこと。
3歳くらいの男の子とそのお母さん。
そのお母さんが、お店に入ってくると同時に「なんでも好きなもの選んでいいわよ」と子供に伝える。
それで、男の子はチョコパンを選んでくるが「それは虫歯になっちゃうからダメ」とお母さん。
また、別の物を持ってきて「それはダメ」をお母さんは繰り返している。
第三者的にみていると、これは「えっ?」となって「オイオイ・・・」と思うわけですが、当のお母さんは自分の言動と行動に矛盾があることに気がついていません。
実は似たようなことは、多くの人の子育てのなかにしばしば見られます。
なんでそうなってしまうのでしょう?
その背景には、大人の持つ「価値観」と「実際の子育て」にギャップがあることが一因ではないかと思います。
僕自身も、「子供を尊重すべき」とか「個々を大切にして」と言ったことを述べています。
世間でも同様の考え方はたくさん流布しており、多くの人がそれらに接しています。
そんななかで、漠然と「子供の意見を聞く人が、いい親」といった意識を多くの人が持っています。
「子供も一人の人格であり、大人と対等の尊重すべき意思や意見を持っている」というのが日本も批准している『子どもの権利条約(児童の権利に関する条約』にもいわれているところです。
僕もそのことは、子育ての上でも、現代の子供の教育や未来を考える上でとても大切なことだと考えています。
こういった理念は、ちょっとずつにしても多くの人に浸透しています。
でも、意識にあるだけで、なかなか実際の子育てにはマッチングしていません。
子供の存在は、大人と同等のものであるといっても、子供は大人の導きがあって過ごし、学び、成長していくものです。
ですから、実際の育児のなかでは、「”なんでも”子供の意見を聞く、従う」というわけではありません。
この例でいえば、”子供がなにを食べるか”ということは子供の健康に直結するものです。それは大人がきちんと管理、判断すべきものです。
ですから、ここで「好きなものをなんでも選んでいい」などという必要はないのです。
大人が、”食べさせたくないものがある”のならば、「今日はこれにします!」で何ら問題ありません。
なんでもいいと言っておきながら、「それはダメ、それはいい」と矛盾した対応をするほうがよほど問題です。
選ばせたいと思うのならば、大人がよいと思うものから「こっちとこっちで、どちらがいい?」と選択させればいいでしょう。
子供の意思を「”なんでも”聞く親」が「いい親」なわけではありません。
それを子育てのなかで積み重ねてしまうと、親はものごとをイヤイヤ子供に許容することで、日々の子育てストレスを増大させたり、「ダメダメ黙認」のような子供の姿が大変になる関わりにおちいって、そこから抜け出せなくなったりしてしまいます。
◆「必要なこと」は堂々と
これの類似、派生で、こんなことも多くの人に見受けられます。
おむつ替えの際に、
「おむつ替えてもいい?」と子供に聞いて、子供がそれを嫌がって逃げるところを、うんざりした顔で追いかけているといったケース。
おむつを替えることは、これは「必要なこと」なのですね。
衛生面や、健康面でもそれは必要です。
そういうものですから、子供に「おうかがい」を立てなければならない種類のことではありません。
とはいえ、子供は「モノ」ではありませんから、黙って持ち上げて移動させて替えていいということでもありません。
ですから、ここは大人が「おむついっぱいだから替えますよ」、「これから外出するから替えますよ」などと事実を告げて替えればいいのです。
「〇〇してもいい?」と聞くということは、「〇〇するのも、しないのもお好きにどうぞ」ということです。
最初のチョコパンの事例と同じですね。
大人が困ることまでその選択肢に入れる必要はないのです。
それをしていれば、子供にとっては「”すべきこと”や”大人の思い”に寄り添わない行動」を取るよくない習慣をつけてしまうし、大人にとっては育児における大変さをたくさん感じさせることになります。
そこで育児ストレスを増大させて、子供との関わりに余裕がなくなれば、子供はその人との受容関係、信頼関係に不安・不満を覚えやすくなります。
すると、そこから子供のネガティブな行動が増えたり、大人からのアプローチが余計に通じにくくなるという悪循環をもたらします。
それと同様の構造を持っているものは他にもあります。
例えば、「子供を保育園にあずけること」。
また、「下に弟妹が生まれたこと」などです。
子供を保育園に預けるのは、なんらかの必要があって預けているわけですよね。
ですから、それは「生活のために必要なんだ」と割り切ったブレない気持ちを大人が持っていた方が子育てはすんなりいきます。
しかし、最近の人はそれを子どもに対して負い目や引け目に感じたり、そこから「かわいそう」という意識で子供を見てしまいます。
そのために、本当ならば許容したくない”わがまま”などを、「かわいそうなことをしているから」といった意識から認めてしまったりしています。
子育ては積み重ねですから、そういったわがままの許容がその場だけのことで終わればいいですが、子供にとってはそれが習慣・既得権になってしまうこともあります。
すると、あとになって子供のそういった要求・行動を、たくさんうんざりして聞くことにもなりかねません。
そういったところから、子育てを投げ出したくなってしまう人もいるのも事実です。
しかし、もとはというと、それは大人自身の”ブレ”にあったわけです。
弟妹がいることで、負い目や引け目、「かわいそう」になる人も少なくありません。
弟妹が生まれたことは、まったくなにも悪いことなどありはしないのですから、それは堂々としていていいことです。
大人が「かわいそう」と思うと、子供は「ああ、やっぱり自分はかわいそうなことをされているのだ」と感じます。
そこから卑屈になったり、やさぐれた行動をするようになりかねません。
例えば、”わがままな要求をして親を困らせていいのだ”といった意識や、”弟妹がいることで自分はかわいそうにされているから、弟妹を攻撃していいのだ”といったものなど。
下に弟妹ができたということは、上の子自身が乗り越えなければならない課題です。そしてそれはみな乗り越えることができる課題でもあります。
しかし、大人の方が負い目や「かわいそう」という意識を持つことで、進んで子供にそれを乗り越えなくていいという依存をもたらしてしまっています。
そしてそれが乗り越えられないまま年齢を重ねている子が少なくありません。
最近、兄弟仲がよくない家庭が増えています。こういう点も大いに関係あるのではないかと感じます。
負い目や引け目、「かわいそう」はなにほども、その子供のプラスにはなりません。
大人は必要なことなのだと、ブレずに割り切って、堂々としていた方が子供は安心して過ごせます。
もし、それによってその子に負荷をかけてしまっていると感じるならば、「ありがとう」を伝えればいいのです。
「あなたが保育園で元気に過ごしているから私もお仕事頑張れるよ、ありがとう」
「赤ちゃんのお世話の間、ひとりで遊んでいてくれるから助かるわ、ありがとう」
などなど。
親から向けられる「かわいそう」という意識は、ネガティブな感情を子供に持たせてしまいますが、「ありがとう」という感謝の言葉は子供にとって肯定であり、前向きのモチベーションをたくさん与えてくれます。
「イニシアチブは大人でいい」、「必要なことには堂々と」というお話しでした。
● COMMENT ●
長文ですみません
うんうん
(「ごめんね」じゃなく「ありがとう」とか一部の行動は真似できるけど、スタンスが身についてないから無意識に行うのが難しい)
記事にしてくださったこと、嬉しいです!
こんにちは
大変ご無沙汰しております。
今年もよろしくお願いします!
息子のこうちゃんはもうすぐ6歳。
春には小学生になります。(早い)
みごとに、遊ぶのが上手な子に
なってくれました。
ゲームといえば、トランプかカルタか、はたまたしりとりか…
というくらいの昭和な子。
スマホもパソコンでもゲームも動画も関係ない、
自立した遊びを出来ることが、うれしいです。
家ではあやとり、こままわし、そんな遊びに夢中になり、外で一日中走り回って遊んで、太陽みたいに笑う、息子が眩しいです。笑
今日は友達がハンバーガーを買って食べると聞いて、いいな、と思ったのか、
「ママ、モ○バーガー、家で作って!」
買いにいくよ?
「ママが作って。」
わかった!ハンバーガー屋さんやってみるよ!
で、じゃがいもでフライドポテト作り、ハンバーグ作ってとびきり美味しいハンバーガー屋さんごっこを楽しみました!
子供にきっかけをもらい、童心に帰れるのは嬉しいですね。
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一つ伺いたいと思うことがあるのですが、私のクラスに、都合の悪いことがあるとすぐに叩いたり、先生嫌いと言ったりして様子を伺う子がいます。新人の私に対してはその傾向が強く、自分の接し方を反省しつつも滅入ってしまっています。どうしたらいい関係が築けるのか、嫌いっていうことにはどんな意味があるのか、なんとなく考えを教えて頂けたらと思います。