外に出すこと vol.2 - 2018.12.11 Tue
ただし!
その使い方、使う人によっては、ハラスメント的支配にはならずとも、疎外として使われてしまう場合はあります。
適切に使う分には、子供の自立、大人側の依存の助長を防ぐ、良い関わりとなります。
少しこの違いを見ていきましょうか。
まず、外に出すという行為。
これは、理由はどうあれ、「人が嫌がることをすることで、子供を○○にする」という関わりです。
この○○の部分がどんなに正しいことであったとしても、相手が嫌がることをして、その相手の行動を作り出そうとしています。
その○○の部分が、反省をうながすことを目的としたものであっても、嫌がることをを用いているわけです。
一面の目的の正しさが、行為の不適切さを隠しているだけで、子供を伸ばそうと思ったときこれは少しも有効ではないのです。
もっとあからさまに「罰」として使う場合、それはなおさら支配でしかありません。
体罰を使う人も同じ理屈になっています。
正しさにかこつけて支配をし、それが完成した状態に自己満足することが目的化していってしまいかねません。
保育士や学校教員などでこの状態になっている人も少なくありません。
タイムアウトは、感情の応酬になりがちな場面において、一旦そのやりとりからはなれ、自分の感情の整理や、思考をする時間をとらせる手法です。
これはかならずしも、反省や罰ではありません。
また、子供の行動を非難し、大人の望む通りに作り替えようとするものでもありません。
しかし、人によってはタイムアウトという名目でそれをする人もいます。
冷たくし疎外することで、子供への否定の感情や自分が気に入らないという負の感情を知らしめることに使ったり、許容しないという大人の姿勢を見せつけることで、子供にすがりつかせ、自分への依存を強め、自分の顔色をうかがわせるように仕向けるやり方です。
コメント下さった方が、タイムアウトの手法にあまり好ましさを感じなかったのは、その人たちがこういった姿勢でしていたからかもしれません。
僕はタイムアウトという言葉を使っていませんが、「葛藤の保障」というお話はこれまでにもしたかと思います。
・冷たく突き放すのではない
・否定でも肯定でもない態度で見守る
(直接視野に起き続けるという意味ではない、大人自身も子供とその事象から離れてもよい)
・謝ることや反省することを目的とするのではない
・短期的に結果(子供の行動)を作り出すことが目的ではない(短期的な結果を望むと支配になる)
・子供自身が考え、自分と向き合い行動する中で自立的にに身につけることを長期的に目指す(子供は何度も失敗しながら経験的に学ぶため)
このような自立的な成長を目指すための手法のひとつがタイムアウトです。僕自身は「葛藤の保障」と呼んでいます。
外に出す、閉め出すという行為は、結局のところ「自分に従え」になります。子供を伸ばそうとする行為ではありません。
いじめで真っ先に使われる方法が「仲間はずれ」であるのと無関係ではないでしょう。
また、このスタンスで子供に関わっている人は、普段から子供へ支配による負荷をその人本人は気づかないまま子供に蓄積し続けて行っています。
そういった状況にあると人(子供も大人も)は、時にその人への抵抗や反発を示さざるを得なくなります。
するとこのような外に閉め出す行為をする場面が生まれ、そういう場面で強い支配としての不適切行為が(それをする人からは)正当な行為として行われてしまいます。
つまり、支配を子育ての中で使うことを許していると、マッチポンプになってしまうわけです。
◆
タイムアウトの運用や解釈が難しいのは、適切な使い方と不適切な使い方の境目が、それをする側の大人の姿勢、内面的なものに由来しているからです。
同じ場面で同じ関わり方だとしても、その人が子供への否定的な感情、うんざり感などから関わってしまうと、疎外→依存の強化として子育ての悪循環ともなりかねません。
あっけらかんとする。
否定でも肯定でもない態度。
あまり入れ込まない姿勢。
ある意味では、どこか他人事のように子供の姿をとらえる姿勢とでもいいましょうか。
冷たくではなく、ドライに。
「私がこの子の行動を正しくしなければならない!」というような思い詰めた姿勢だとうまくできないです。
だから、規範意識が強い人、真面目すぎる人、神経質な人、過干渉な人、すでに子育てに疲弊してしまっている状態の人には、この関わり方を勧められない場合もあります。
そのケースだと、疎外としてのタイムアウトになりやすくなってしまうからです。
冷たくではなく放っておけること、これが意外と難しいのです。
すでにこのブログで書いていることでは、「信じて待つ」などの語句で検索すると関連することが出るでしょう。
子育てを「しつけ」と考えている場合も、どうしても罰や反省、疎外の方に流れやすくなります。
しつけという考え方そのものが、大人が上、子供が下という支配構造を前提としているからです。
適切にタイムアウトが使える人は、相手の子供を一人の人格として扱うことができるということも意味しています。
ここ、この前のオビ=ワンの話と通じていることがわかるかと思います。
外国では自我の尊重ということが、その歴史的社会的な経緯なども相まって、それが子供にも及ぶものとなっているのに対して、日本ではどうしても子供を親の従属物のようにとらえる意識が良くも悪くも強いので、こういった関わりがドライにできずウエットになってしまいます。
ウエットになるというのは具体的には、支配を避けようとすると依存の助長になってしまう現象として表れます。ここが前回の終わりに「ここにもいくつもネックになることがあり」と言ったことでもあります。
| 2018-12-11 | 子育てノウハウ? | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
外に出すこと - 2018.12.10 Mon
「お父さんが、子供が言うことを聴かないとベランダの外に出すので困っています」
子供に言うことを聴かせようと、外に閉め出すこと。
これは疎外を使った大変強い否定であり、他者を支配しようとする行為です。
ここで子供が受けること。
・家に入れてもらえない(小さい子ほどそれが一時的なものであるとは考えません)という、自身の安心の基盤を奪われる恐怖。
・信頼すべき人が、自分を攻撃することがあるという事実
・理由があれば他者を攻撃していいという経験
・他者から支配されたことによる心の抑圧、負荷
もし、これと同種のものを会社で考えるとすると。
「あなた今月のノルマ達成していないから、部署にあなたの机はありません。廊下ででも仕事して下さい」というモラハラ。
学校で考えると、
「あいつ○○だから仲間はずれしようぜ」といういじめ。
(○○のところは、勉強ができるでも反対にできないでも、太っているでも、小さいでも、なんでもよい。口実になればいいのでそこに理非はいらない)
子育ての中で無自覚に使われることのある、外に閉め出すという行為。
これは、純粋にモラハラであり、それを子育てとして使うことで、子供にモラハラ体質や、被モラハラ体質を持たせる確率を上げることになります。
そしてこのことは、家庭外でいじめをする子に向かわせる可能性を高めます。
なぜなら、
・他者をいじめる理由(支配による抑圧、負荷を受ける)
・いじめる方法(他者の非をあげつらって攻撃的なことをする)
・いじめの大義名分(理由があれば、そのハラスメント行為が正当であるという主張)
この3つを、経験的に獲得させられるからです。
僕は、これを子育ての中で使ってしまう人を責めて書いているわけではありません。
これまでの子育て、また大人の置かれている社会に、こういったモラルハラスメントの考え方とまた実際のその行為が満ちており、それ気づけなくなってしまっていること。
子育てだけでなく、ハラスメントやいじめがない社会を今後作っていくためには、ここに気づいて、この負の連鎖を断ち切る役目を今子育てする世代の人が果たさなければならないことに気づいて欲しいと思っています。
さらに見ると、この行為をする人は対人上の経験を奪われているとも言えます。
それは、する側の大人が、支配関係でないところで子供と関わる方法を知らないという問題です。
子供時代、家庭の子育てで支配を受け、学校で支配を受け、部活で支配を受け、社会で支配を受け。こういった中で生きてくれば、我が子にも支配で対峙してしまうことはある種の必然です。
では、支配以外の関わり方とはなんでしょう?
それは、信頼による関係です。
子供ほど親を信頼している存在はいません。
向こうから信頼を寄せてくれているのだから、親はなにも子供を短絡に支配する必要など、これっぽっちもないのです。
しかし、私たち大人のもつ先入観や、これまでの経験が子供に支配で関わることを無自覚にとらせてしまいます。
結果、子供も親も好ましくない状況におちいってしまいます。
このことは大変残念なことです。
親は子育てを楽しめなくなり、子供は家庭が自分の居場所に感じられなくなってしまいます。
また、ここから派生する問題。
父親がそれをした場合、それによる子供の抑圧、負荷の解消を結果的に母親がするはめとなり、別の時にゴネやぐずりが母親に向かいます。
これを受けるのはとてもしんどいことなので、母親も子供の相手が大変、子育てが大変ということになりかねません。
母親がした場合でも、別の時にゴネやぐずりなどの形で、子供はその負荷をぶつけてくるでしょう。
これでは原因と結果がサイクルしてしまう悪循環になるので、子供への関わりによる疲弊が避けられません。
支配的な強い関わり
↓
言いなりなどの弱い関わり
↓
無視や疎外などの冷たい関わり
それゆえにこのような、強い関わりと弱い関わりが交互に顔を出すような子育てになってしまっている人が少なくありません。
支配ではなく信頼関係を使った関わりを、あらかじめ認識しいていればこの状態は避けられる可能性もあるでしょう。
では、信頼関係を使った関わりとはどういうものなのかということになります。
ここにもいくつもネックになることがあり、それをすることが日本の子育てでは難しくなっています。
これについてはまた時間のあるときに書けましたら。
| 2018-12-10 | 子育てノウハウ? | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
オビ=ワンに見る主体尊重の関わり - 2018.12.03 Mon
(エピソード4~6では、アレック・ギネス、エピソード1~3ではユアン・マクレガー演じる)
スターウォーズというのはおもしろい物語です。
たくさんの雑多な物語のモチーフを本歌取りして、くどいくらいにぶち込んでいるのにそれをうまい具合にまとめ上げて、しかもすごいことにアメリカのアイデンティティに関連づけてまとめています。
元老院と共和制からの皇帝独裁に移行する銀河帝国の姿は、古代ローマ時代の政治のあり方そのもの。
SFの枠組みはアイザック・アシモフの『ファウンデーションの彼方へ』からそっくりそのまま借りてきており。
戦争の構図は、第一次大戦の形。描かれる帝国軍は第二次大戦のナチスがモチーフ。
ジェダイは黒澤映画に影響された、日本の武士のイメージ。
老年のジェダイと、若年の弟子パダワンの組み合わせは、ソクラテスの頃のギリシャの師弟関係を彷彿とさせる。
キリスト教的には善とは揺るがないあり方であるのに対して、スターウォーズの中では善と悪は混在しそれらは可変するという、諸行無常のインド・東洋哲学の思想を取り入れる。
辺境において、法の支配が及ばない地域で賞金稼ぎがいたり、人々が武器を持ち自治しているアメリカの西部開拓時代。
反乱者というと日本人にとっては、あまり好ましいイメージではないけど、アメリカ人にとっては反乱者とは建国の父達をそのままイメージさせるもの。エピソード4~6の最初の一連の映画も、次のエピソード1~3でも、独立戦争の勝利というアメリカのルーツで大団円を迎える。
それでいて、エンタテインメントとして完成度が高いのだから大したものです。
さて、なぜ子育ての話でスターウォーズが出てきたかというと、エピソード1~3(子供のアナキンを見いだし、その成長と暗黒面に落ちるまでが描かれる)の中で師弟となるオビ=ワンとアナキンの関わりにおいて、ユアン・マクレガー扮するオビ=ワン・ケノービは、徹底してアナキンの主体性を尊重していくからです。
これが一般的な日本の子育ての感覚からするともどかしいほどです。
なんといっても、アナキンは「宇宙のバランスを取り戻す」とジェダイの古書物に書かれ将来を嘱望される存在です。そのアナキンが、目の前で暗黒面に引き込まれそうな兆候を見せているにもかかわらず、1シーンを除いて感情的になることなくオビ=ワンはアナキンを導こうとしています。(まあ、この点は欧米人から見ても多少もどかしくみえるかもしれませんが)
オビ=ワンはアナキンの行動や考えを直接的に否定するのではなく、主体的に考え理解し翻意をうながそうとします。
「恋愛禁止のルールを破りましたね、はい、では罰として丸刈りです」
これは、以前日本のアイドルグループで実際にあり大きな話題となりましたね。
ジェダイも恋愛禁止なのですが、罰するのではなくあくまで主体的に考え直すようアプローチされます。宇宙の将来がかかっていても。
罰したり、命令して行動をねじ伏せたり、師匠の権威で押さえ込んだり、モラルで圧したりをオビ=ワンはしないのですね。
これが現代的な、個・主体性・他者の尊重に基づいたアプローチの表れといえるでしょう。
支配することは簡単だけど、それでは本当の意味でその人が納得して理解し成長するわけではないので、遠回りに見えるけどそのように関わる方がベターなのだというのが、20世紀から21世紀になる過程での文化的進歩です。
では、これを日本の親子関係のシーンに置き換えて具体的に見てみます。
バイクに乗りたい子供と、それをさせたくない親のケースです。
子供は自分のバイト代を一部は生活費として親に渡し、残った分からコツコツ貯めた分でバイクを買いたいと言っています。親は子供の安全が心配でそれをさせたくありません。そのことで意見が対立してしまいました。
親の支配的言い分あれこれ
・「親として許さない」(上下関係を使った支配、いわゆるパワハラ)
・「親がここまで頭を下げて言っているのに聴けないのか」(上下関係&モラハラ)
・「誰のおかげでここまで大きくなったと思っているのだ」(上下関係&モラハラ)
・「親の言うことが聞けないあなたは親不孝者だ」(愛情を使った支配)
・「どうしてもそうするというのなら私を殴ってからいけ」(選択肢を狭め相手を悪者にするモラハラ)
・「あなたは聞き分けがない」(支配のための個人批判)
・「あなたは昔からガンコだった」(支配のための個人批判)
オビ=ワンに見習って、支配的なアプローチをしない方法は、例えば以下のような関わり。
・「バイクは大変事故の遭遇率が高く、また事故に遭ったとき重傷になりやすいので、そこをよく考えて欲しい」
・「私はあなたのことが大切なので事故に遭って欲しくない」
・「私自身、あなたのことを気にかけるところから子離れすべきことはわかっているのだが、それでもバイクに乗るというのは心配な気持ちが抑えられない。だから考えて欲しい」
など。
オビ=ワンは、アナキンが暗黒面に転落する直前の重大な場面ですら、こういった主体尊重の関わりをしています。
上であげた例みたく、「どうしても行くというのならばライトサーベルを抜いて私を倒してから行け」という、これまでの映画や物語のありきたりな対応もできたはずなのに、どれだけあなたのことを思っているかを感情を抑制しながら、しかしそれでも出つつも切々と伝えようとします。
しかし、失敗が予測されているにもかかわらず、オビ=ワンはアナキンの自由を束縛しません。
それが後年なにをもたらすかを、エピソードの順番から見るものはすでに知っているわけですが・・・。
この他者を支配せず、尊重しなければならない、それが難しいのもわかっているがそうありたいという現代的な考え方が、オビ=ワンの苦悩としてよく描かれています。
| 2018-12-03 | 子育てノウハウ? | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
子育てのパラダイム転換 vol.2 ー本当の尊重ー - 2018.10.04 Thu
前の記事では、「させる」ではなく、子供自身が「する」を目指しましょうというお話をしました。
この字面だけだと実際の子供への関わりが、大人がひたすら我慢して子供が自分から行動するのを待つといった、自己犠牲的な子供への関わりになってしまう人が少なからずいることでしょう。
これなってしまっても子育てはなかなか安定化しません。
なぜなら、子供が大人に対して依存的になってしまったり(大人が待つのが当たり前といった子供の心理)、子供が周囲の状況を考えることもなく自ままな状態になってしまったりが起こるからです。
ですので、子供が「する」を目指すということを自己犠牲的にする必要はありません。
しばしば聞くのが、子供が自分から行動するのを待とうとしてしんどくなるケースです。
例えば、お風呂になかなか入らないことが慢性的になってしまっている子に、自分から来るのを待とうと、大人がひたすら裸になったまま待っていたり、お風呂で1時間も待っていたり。
こういった自己犠牲的な「待つ」をする必要はありません。
子育ては滅私奉公ではないからです。
家族は大人である私という構成員がいて、子供であるあなたという構成員がいて、それで日々の生活を営んでいます。
どちらかがひたすらに我慢や自己犠牲を重ねていくことで、その家族という共同体はなりたちません。
「私も大事。あなたも大事」
だから、私が困ることをし続ける必要はありません。
「私が困るので、いまは待てません」とか「これ以上待てません」といった関わりがあっていいのです。
日本では、この「私」を押さえ込むことが、相手の尊重であるという誤解があって、子育てに一生懸命な人、子供が大事と思う人ほど自己犠牲的な関わりにおちいりやすいです。
「子育ては愛情こそ大事」といった一般的な感覚も、この自己犠牲状態を後押ししてしまう場合があります。
むしろ、相手をひとりの人間として、必要なことを嘘偽りなく伝えていくことが、本当の意味での尊重ということになります。
ですので、私の気持ちや思い、感情を押さえ込むのではなく、それを子供にも堂々と提示して考えさせるプロセスをもっと意識していいのだと思います。
子供との関わりの前提に、受容やそこから生まれる信頼関係があれば、子供は子供なりにそれを踏まえ考えた上での行動をだんだんと取るようになっていきます。
お風呂のシーンで言えば、生活のルーティンを第一に考えて最初から「お風呂にいま入ります。来て下さい」と言ってもいいし、「私はもう待てません。お風呂に入ります」と子供に伝えてしまってもいいわけです。
これは、前記事で書いたことと何ら矛盾しないのです。
ここには「必要なこと」という視点があります。
必要なことという視点については過去記事でも書いたことがあったと思います。
上の例で「お風呂に入ります」という「言いきりの形」を使っているのは、あえてそうしています。
昨今では他者との関わりへの難しさから、婉曲ないい方を使う人が増えています。
例えば、同じシーンで言えば「そろそろ私お風呂入らないといけないんだけど、あなたにも来て欲しいな」といった遠回しないい方です。
これで伝わる子供相手であればそれでも全然かまわないでしょう。
しかし、この言い方は、言葉への認識の力が未発達な子や、自分の注意が自分の興味に向きやすい子(つまりほとんどの子)にとっては、伝わりにくい表現です。
あえて言えば、「来て欲しいな」という問いかけは、「来なくてもいいですよ」ともとれます。
こういった子供にとってわかりにくい言い方をしながら、大人がイライラを募らせていくというのは、互いにとっていいことではありません。
だったら、最初からやわらかい言葉を使わず、子供にとって伝わりやすい形で言った方が本当の意味で親切なのです。
婉曲な言い方は、一見優しい言い方に見えます。ごまかしや釣りなども近いものがありますね。
これは「優しさ風味」にしてしまうだけで、子育ての安定化から言えばさほどプラスにならないことです。
であれば、大人が必要と思うことに対して、それだけのトーンで最初から伝えた方がはるかに子供も動きやすいというものです。
別の視点からいうと、これは「嘘のない関わり」ということです。
子育てというか、安定的な対人関係というものは、自分も子供(相手)もあざむく必要はないのですね。
| 2018-10-04 | 子育てノウハウ? | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
子育てのパラダイム転換 ー「させる」から「する」へー - 2018.10.03 Wed
ここを理解することで、子育て、保育、教育は大きく変わります。
今日は、そこを具体例を使ってざっくりとですが書いていこうと思います。
ここでは、外から帰ってきたときなど手を洗うことを例にとって見てみます。
3歳くらいまでの子に対してだと、丁寧な人だと一緒に手を持って洗ったりします。これが悪いわけではありません。洗い方を伝えたりするのにそういったことも必要ですね。
子育てに丁寧な人、一生懸命な人ほどこういう関わりが多くなります。
これは悪いわけではありませんが、「やってあげる」という状態になっています。
これがだんだん年齢があがっていくにつれて、「ほら、手を洗ったの?」「ちゃんと洗いなさい」といった関わりになっていきます。
これは「やらせる」という関わりです。
程度にも寄るので一概に言えませんが、それらが過剰になっていけば前者は過保護、後者は過干渉となります。
これは日本の一般的な子育て観を背景にした、大人がおちいりやすい関わりの典型例です。
まじめな人、子育てに一生懸命な人、子供をきちんと育てなければというプレッシャーを持っている人ほどこのような関わりが多くなりがちです。
子供に対して親切であったり、子育てが丁寧であったりするのだけど、そういった人ほどこの流れになりやすいです。
「やってあげる」 → 「やらせる」
小さい内は「やってあげる」から、大きくなるにつれて「やらせる」へと。この構図です。
別にこれでもなんてことなく育っていくケースもあります。
しかし、客観的に細かく見ると、この関わりは「子供の行動を(大人が)作っているけど、子供自身を伸ばしていない」というものになっています。
場合によっては、この構図の子育てを頑張れば頑張るほど、「やらせなければやらない子」になってしまう可能性があります。
すると自分ではやらなくなるので、より強く言ったり干渉することで「やらせる」という関わりが増加していくという悪循環の構造になります。
多くの人が、「子供ってどうせ自分ではやらないよね。だから大人がやらせなければならないよね」というスタンスを無意識に持っています。
それは実は大人が作り出してしまっている面があるのです。
子供とは不思議なもので、子供の力は大人が信じているところまでしか伸びなくなってしまいます。
◆
じゃあどうすればいいか?
子供は「ああしなさい」「こうしなさい」を大人が過干渉に言わない方が、むしろ自分の力で成長していくことができます。
それが「伸びる」ということです。
手洗いの例で言えば、大人自身がそれを大切なことだと理解して自分で率先してやっていれば、子供はそれを見て同じようにしていきます。
ただ、普段から過保護や過干渉、もしくは支配やコントロールの関わりをたくさんしていると、その率先する姿を大人が見せても子供はあまりそれに寄り添った姿を出しません。
子供ができるだけ小さいときから、必要に応じて手伝ってあげたりやってあげたりはしつつも、それらは過剰にならない塩梅にしておくといいでしょう。
それが子供に関わるときのポイントです。
「(大人が)やらせる」のではなく「(子供が)する」のです。
やらせてしまうと、すぐに結果が出るので大人は安心感や満足感がありますが、子供の成長の実際は時間のかかるものです。
失敗もするし、なかなか大人の思い通りにもいきません。
でも、そこを「待てる」ことが必要です。「信じて待つ」わけですね。
もちろん、こういった関わりは手洗いだけではありません。
歯磨きやお箸使い、片付けといった子供の生活上の行動面から、他者への思いやりやモノを貸せるといった精神面まで、子供の成長のほぼ全てです。これらの成長の姿は、本来、大人の干渉だけで成立しているものではありません。
しかし、そういったほぼ全ての面においてまで「(大人が)させる」を要求してきたことが、これまでの日本の子育ての問題点であり、難しくなっている子供の姿の様々なことの遠因にあるのだと思います。
「させる」ことが場合によっては必要になることはあるにしても、そこが子供の姿の目指すべきところではなく、本当に目指すところは「する」というところなのです。
子供の個性もいろいろあり(もっというとその子のおかれた状況や、関わる大人もいろいろなので)、それが簡単にはいかないケースもあるかもしれませんが、この「する」という自主性の視点が大人の念頭にあるかないかで、子供に与える影響は大きく変わってくるでしょう。
| 2018-10-03 | 子育てノウハウ? | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
子育てで本当に大切なこと - 2017.12.26 Tue
現代は医療や栄養が充実しているので忘れられがちではあるけれども、圧倒的に一番大切なのは健康です。
身体だけでなく、心も健康であること。
また、子供だけでなく、子供に関わる大人にとっても健康であることは大切。
ここからわかることは、健康を害してまでしなければならないことなどなにもないということ。
当たり前のことのようだけれど、健康を犠牲にして仕事をしなければならなかったり、心を病んでまで仕事に無理をして行くといった状況のあるいまの日本においては、実は当たり前でなくなっていることなので、いまいちど再確認しておきたいね。
もうひとついえるのは、とりあえず子供が健康であればそれで子育ては及第点になっているんだよということ。
多くの人が子育ての情報に振り回されてしまう状況があります。
そういった情報の多くは、「○○しなければならない」「○○にならなければならない」といった「こうすべき・こうあるべき」といったものになっています。
こういったものは、子育てに限らず健康や美容など、そうでありたいと思う一方で不安や心配をかき立てる類いのものに多く見られます。
子育てでも山のようにあるのだけど、わかりやすいところでは
・母乳で育てると健康によい(ソフト)
→ 母乳で育てないと子供の情緒が育たない(ミディアム)
→ 母乳で育てないと○○の病気になる(ハード)
そのように母乳で育てることを強調しておきながら、一方で「早々に断乳(卒乳)しなければならない」と同じ人が言っていたりします。
もうそういった子育ての情報は、聞く人を縛る方にしか機能していませんね。
・布オムツで育てるとよい(ソフト)
→ 布オムツで育てないとオムツが外れにくい(ミディアム)
→ 布オムツで育てないと大きくなって情緒がおかしくなる(ハード)
こういったものは、不安や心配を刺激したり、悪いものだと脅しになっています。
実のところこのような「こうすべき・こうあるべき」系の子育て論は、どれもあまり意味はないのです。
「健康であればそれでいい」
当たり前のようだけど、これを子育ての一番基礎のところに明確に置いておく必要があるのではと感じます。
2,笑顔
子供への関わりに、たしかに上手い下手というのはあるでしょう。
でも、ひとつひとつの関わりの上手い下手といったレベルよりも、もっと基本的なところで大切なのは大人がかもし出す雰囲気・情緒です。
笑顔はそれの最大のバロメーターであり、子供に対しての無形の関わりです。
子供への関わり方がどんなに教科書的に上手い関わりができていたとしても、笑顔のない大人しか子供の周りにいなければ、子供は安定できないのに対して、
子供への関わりがたとえダメダメだったとしても、笑いがたくさん出せる大人であれば、子供は無理なく育っていけるというのが現実です。
「健康であればそれでいい」
「笑顔があればなんとかなる」
このふたつが子育てのいろんな虚飾をとりはらったところにある、本当の真実です。
| 2017-12-26 | 子育てノウハウ? | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
大人は「結果」を作り出したくなる - 2016.11.30 Wed
まあ、道に迷っちゃったんですけどね。
そうしたらちょうど観光バスなどの降り口のところで、小学校高学年の遠足に出くわしました。
どうも、上に登るのに時間調整でしばらく待たなければならなかったみたい。
先生たちが一生懸命大きな声で、「一列に並びなさい」とか「静かにしなさい」だとかをしつこく指示してします。
しかし、子供たちにはあまりそれは伝わっていないようです。
「子供のあるべき姿」のようなものを設定して、そこに子供を「当てはめようとする」というのは、まさに日本の子育ての考え方であり、学校の先生方がおちいりやすい関わり方です。
一度「正しいこと」を設定すると、大人はそれに当てはまっていない状態を許容できなくなります。
結果的に、子供の行動に「干渉」をせざるを得なくなり、それが募って「過干渉」を生み出します。
しかし、子供は「過干渉」になると、かえって大人の言うことに耳を傾けなくなるので、大人は子供を従わせるために強制力を用いなければならなくなります。
その結果として、日本の子育てでは「叱る」「怒る」「威圧する」「脅す」が導き出されてしまいます。
それら強い関わりが苦手な人は「ごまかす」「子供だまし」「釣る」「おだてる」を使うことになります。
僕はその先生たちが一生懸命、使命感や善意でやっているのはわかるのだけど、子供に関わるプロとしてはとても大切なことの覚悟が欠けていると感じます。
それはどういうことかというと、「子供を信じる」ということです。
その人たちが悪いと言っているわけではありませんよ。
おそらく多くの人がここを実践的に習わないことには、みなそのようになってしまいます。
どういうことかというと、みな無意識に「子供は大人が管理すべきもの」という先入観を持っているのです。
だから指示や命令がいきなり出てしまいます。
実は、この場面ではたった一言で子供たちは大人の望む行動をとってくれるようになるのです。
たった一言です。
では、それはどんな言葉でしょうか?
それは、状況により、そのときどき、その子たちにより多少変わっては来るでしょうけれども、例えばこうです。
「周りの人の迷惑にならないように待っていて下さい」
もしくは、「他のお客さんの通行の邪魔にならないように並んでいて下さい」といった言葉です。
どうして、これでいいのでしょうか?
また、どうしてこれだと子供を「信じていること」になるのでしょうか?
それは、大人が結果を作り出そうとはしていないからです。
子供に問題を投げかけ、それを子供たち自身で解決することを促す言葉掛けになっているからです。
大人はそこで「どうしなさい!」とは言っていません。
「○○という必要なことがあります。それを達成できるようにあなたたちが自発的に行動して下さい」という問題提起になっているのです。
(もし、この子供たちが対等の大人だとしたら、先生たちもそのような指示的な関わり方をしなかったはずです。
例えば「そこだと他の人が通れなくなってしまうので、もう少し端によって下さい」などのように、問題提起&提案のようなかたちになったのではないでしょうか。
それは相手の能力を信頼でき、それを尊重して信じているからです。
いきなり指示や命令をしてしまうというのは、相手を下位の存在と考えているか、その能力に欠けていると判断しているからです。)
これを子供と大人の信頼関係に基づいて(ここが重要です、昨日まで管理や支配しかしていなかった人が言葉だけ上のように使っても子供には通じないことでしょう、その場合は信頼関係を作るところからがスタートです)、伝え、待ち、実行してもらいます。
その実行の仕方は、ある程度ばらつきのあることでしょう。
もし、そのばらつきが必要条件を満たしていなかったら、またそこを指摘して子供の行動を待てばいいでしょう。
そうすると最終的に、大人は子供の行動とその結果に対して、「肯定」や「認める」ことができます。
「はい、長い間待たせてしまったけれども、皆さんのおかげで周りの人の迷惑にならずにすみました。ご協力ありがとう」
例えば、こんな風にね。
しかし、多くの人がするのは、直接的に子供の姿をこねくり回すことで、大人の望む「結果」を子供に短絡的に持たせる関わりです。
毎回、最終的に叱ったり、怒ったりになっているとすれば、子供が獲得するのは「叱られないと実行しない」「怒られないとやらない」という習慣です。
「怒られるからやる子」は、もし怒られない状況だったら、例えば誰も見ていないところや、怖い大人が見ていないところではやろうとしない子に育つ可能性はぐっと高まってしまうことでしょう。
「もっと叱りなさい」、「怒りなさい」、「子供をたたいてしつけなさい」という人たちが作り出すのはそういう子です。
子育ては短絡的に「結果を作る」のではなく、「子供を伸ばす」必要があるのです。
さて、ではこれを乳幼児の子供の関わりのシーンで見てみましょう。
子供が食事をしていて、口の周りを汚してしまうなんていうことはよくありますよね。
1歳でもあるし、小学校高学年だって汚したまま気づかないなんてことは普通にあります。
相手が小さい子だとすると、大人はついつい親切心で、子供の口の周りをいきなり拭いてしまったりします。
実は、これは「結果を作り出す」関わりなのです。
「口元をきれいにする」という結果を大人が作り出してしまったのです。
これが例えば0歳や1歳でも前半の子供だったとしたら、それでもいいかもしれません。(本当はその場合でも一声かけるべき ex.「ついているから拭きますよ」)
でも、子供の発達段階が進んで、口の周りを拭くことができる子供が相手だったら、その関わりは実は子供の力を奪うことになっています。
どういうことでしょうか?
もし、子供を伸ばす関わりを目指すのであれば、このとき手拭きなどが用意してある状態で、またはなにか拭くものを渡しながら、「口の周りが汚れていますよ」と伝えることで、それが達成できます。
子供は、それを受けて「自分が口の周りを汚していること」「食べ方によって汚してしまったこと」などに気づくことができ、さらに自分で気に掛け、考え、実際に拭くという行為を経験することができます。
これは相手が1歳の子供であったとしても、その積み重ねはきちんと活かされます。
大人が親切心だとしてもおもむろに口の周りを拭き取ってしまうといった対応だと、場合によっては子供はなにが起こったのかも理解することなく、その経験が過ぎ去ります。
なにが必要かを伝え、子供にどうすべきかを考えさせ、そして実行させる。
それでもうまくいかなかったり、失敗したら、そこにサポートをする。
それでもできなければそこから大人が手を貸すのでも遅くはありません。
いい結果が得られたならば、大人はそこに自然に肯定を送る。
こういったことが、日々の生活習慣の中で行われていれば、それをしないケースと比べて子供の成長にどれほどの違いがでてくるでしょうか。
些細なことであっても、日々の積み重ねは大きな違いをもたらします。
行動の自立は精神の自立をうながし、精神の自立は行動の自立をうながします。
それらは互いに車輪の両輪のように、子供を大きく成長させていきます。
小学生も同じです。
管理と支配がいかに上手にできたとしても、子供を伸ばさなければそれは大人の自己満足に終わりかねません。
子供自身を伸ばす視点を持って関わったら、6年間の積み重ねはどれほど大きいでしょうか。
しかし、日本の子育て観では、どうしても子供の管理と支配になりやすく、大人は「結果」を作り出したくなってしまいます。
以前にも書いていますが、「信じて待つ」。
このことは子供を伸ばす上でとても大切なことです。
そのような対応は、それを大人が身につけるまでは、意識的な配慮がいるけれども、一度身につけてしまえば自然とできるようになることでもありますよ。
自分のしていることに無自覚になってしまうと、ときとして保育士も学校の先生も「もっとも子供を信じない人」になりかねません。
しかし、仕事で長いことしていると自分のしていることには無自覚になりやすいものです。気をつけたいですね。
| 2016-11-30 | 子育てノウハウ? | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
「正解」と「考え方」 vol.2 - 2016.11.26 Sat
なんとなく、昔読んだSF小説にこんなような情景があったのを思い出します。
さて、このところ多忙につきなかなかブログの更新ができておりませんでしたが、前回の記事には多くの方の反響が寄せられていました。
事例を見ながらもう少しこのテーマをお話ししていきましょうか。
ある1歳の子がいました。
どうもこの子は大変暑がりなようで、夜布団を掛けているとそれを大変いやがります。
(もしかすると、暑がりなだけではなく、皮膚感覚の過敏さなどがあって布団の触感を好まないという特徴をその子の個性として持っていたのかもしれません)
ただ、布団をはいでしまう、けっとばしてしまうというだけではなく、布団をかけようとすると激しく抵抗して、キーキーと情緒不安定になってしまうことがあります。
真冬ですらそうなのです。
そのお父さんお母さんはいろいろと試行錯誤して、寝静まってから布団を掛けたり、布団やタオルなどいろんな種類を試したりしてみましたが、どれもうまくいきません。
一度、不安定になると夜中でもずっと激しくぐずったりするので、その対応に親としてもいっぱいいっぱいです。
しかし、なにも掛けないで寝ていたら体調を崩したり、風邪をひいたりしやしないかと心配になるので親としても必死です。
そんななか、あるときお父さんが「どうせ掛けてもはいでしまったり、ぐずった子供の対応に大人もへとへとになったり、寝れなくてイライラして日中不機嫌になったりしてしまうのだから、好きにさせてみようよ」と提案して、布団に寝かせてもあえてなにも掛けないということをやってみました。
すると、それでなんの問題もなくうまくいくのでした。
体調を崩すことも、風邪をひくことも、夜中にキーキーと起きてあばれることも、親がそこでイライラしたりストレスを溜めることもなく過ごせたのでした。
この事例の意味するところは、「子供が布団をいやがるのならば掛けなくていい」という「正解」を伝えているわけではありません。
「そういうやり方もあるんだ」という「考え方」のひとつを示しているだけです。
この子のケースではそれがうまくいきましたが、他の子では同じようにうまくいくというわけではないかもしれません。
そうしたところで、夜泣きやぐずりが出るかもしれませんし、すぐに体調を崩してしまうかもしれません。
いろんなやり方を考えてみて、または試してみて、その子、その家庭に合うやり方を模索するというのが、実際のところの真実であって、「これこれこうすべき」という子育ての「正解」があるのではないのですね。
なので、なにかを「正解なのだ」と親が思い込んでしまうと、それ自体が子育てのストレスを大きくしたり、我が子を否定的にとらえる原因になってしまったりしかねません。
しかし、現代の子育てする人には、そのように「正解」を求めたくなってしまう理由があります。
それが、子育てに対する「不安と心配の大きさ」です。
多くの人が、「子育て」というなじみの少ない仕事に対して(しかし責任は重く見える)、「不安と心配」を持ったところからスタートしています。
それがまず前提としてあるものですから、なんらかの「正解」によりどころを求めたくなってしまいます。
そして世の中の子育ての情報の中には、「これが正解です」といった文脈で言われているものも実際すくなくありません。学者の言うことの中にもそういうことはあるし、子育て産業の示すもののなかにもそれらはたくさんあります。
周囲の人の中にも「これが正解なのよ。できてないあなたはダメね」という方向で言ってくる人、見てくる人もいることでしょう。
「これが正解ですよ」と言われているわけではないことに対しても、そう思い込むこと、すがりつくことで安心したいという心理的な理由も親の方にはできてしまいます。
特に日本の子育てでは、「しつけ」という「山ほどの”できること”を目指す子育てメソッド」が一般的なので、「正解」を求める親の心理は強迫観念的になりやすいです。そしてそれが達成されなければさらに「不安と心配」が大きくなるという悪循環になりやすくもあります。
そういうわけで、子育ての「これはこうすべきだ」「こうしなければならない」といった「絶対的な正解」があるわけではなくて、
「その子供の姿」と「その子への対応」をつねに天秤に掛けながら、「その子には、なにがよりよいか?」という「相対的な正解」模索するというのが実際のところなのです。
そして実は、そこにはもう一つの要素が加わってくるというのが現実です。
それは、大人の心情です。
さっきの事例に戻って、ちょっとした仮定を入れてみます。
お父さんは、なにも掛けないで寝かせることで問題ないと思えました。
そしてそれを続けても実際問題は起こっていません。
現実を見ればそれがひとつの「その子にとっての正解」には達したと言えるでしょう。
しかし、お母さんはそれだと「体調を崩したりしないかとても心配」という気持ちが払拭できなかったとします。
「それでも大丈夫そうだ」とはなんとなくはわかってはいたとしても、でもどうしても「不安を感じる」という状況です。
その不安がストレスとなり、イライラを生んで、子供に優しく接することができなくなってしまったり、そのことでお父さんと対立して夫婦げんかが増えてしまったり・・・・・・。
そんなことが現実の子育てでは起こります。
子育てというのを理屈の上や、育児書の中では、「子供」と「子供への対応」があるばかりです。
しかし、実際はそれだけではありません。
そういった要素も軽視できないことです。
このような事態に対して、「これでいいんだから、あなたが我慢しなさいよ」と母親を責めてもなにも解決しません。
それだと母親が心理的な「我慢」を強いられるばかりで、それはストレスやイライラ、怒りとなり、やがては回り回って子供にも悪影響を与えてしまいます。
「個々の子供の状況を踏まえた上での正解」であっても、それが必ずしも「解決」にはならないわけですね。
子育ての問題では、しばしばこちらの方のウエイトが大きいこともあります。
ここからさらにその人に合わせていろいろなやり方が考えられるわけですね。
「子供に必要なこと」だけでなく、「そこでその人ができること。また、できないこと」という視点が出てきます。
子供だけでも個々に違いがありますが、さらにそこでの親のあり方によって、子育てのあり方・実際の対応で考える範囲は広がってきます。
それらもひっくるめて、はじめて「その子の子育て」が見えてきます。
| 2016-11-26 | 子育てノウハウ? | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
「正解」と「考え方」 - 2016.11.19 Sat
そこで、「過去記事にある”遊びの保証”のお話とは対立しはしないか?」というご質問がありましたので、それについてお答えしていこうと思います。
子供への対応は、その子がどんなポジションにいるかによって変わってきます。
そこでいうポジションとは、その子の発達段階や置かれた状況、他児との関係などです。
例えば、まだ社会性が未熟で他児とうまく関われなかったり(それがよくないということでなく、その発達段階に来ていないのだから求めることそのものに大した意味がない)、その場やそこの人間関係に慣れておらず他児と関わる事を求めることが無理だったり、負担になってしまうといった場合などがあります。
さらに具体的に見ると、おおよそ社会性が芽生えてくるのが3歳前後くらいと考えられますが、それだって個人差が大きいものです。
2歳くらいでも、他児と関わることに抵抗感がなかったり、その子自身の情緒の安定度が高かったりする同士であれば、子供同士での他児との関わり合いをそのまま見守ることも可能でしょう。
しかし、ある子が3歳半だとしても、幼かったり、遊ぶ力がついていない、賑やかしや過剰な刺激にならされてしまっており落ち着いて遊べなかったりするケース、または他の子供の存在に抵抗感が強い個性を持っていたりするならば、子供同士で他児と関わることを優先するよりも、その段階ではまずは遊びの力をつけてあげたり、その場に慣れる期間をもうけてあげたりする方がよくなります。
その場合は「遊びの保証」をしてあげることが、その子には必要であったり、有効であったりするわけです。
例えば、出先の児童館や公園などに行って、そこで知らない子同士で互いに抵抗感があったりする場合は、友達関係を優先させる必要もなく、遊びの環境の保証から始めて、その場やそこでいろんな子がいることにだんだんと慣れていけばいいわけです。
また、今日はちょっとイライラしているなというときだって、その状況で他児とうまく関係することを求める必要はありません。
「ああ、きょうはそういう日なんだな」と思って、落ち着いて過ごせる状況を優先させていいわけですね。その場合は遊びの保証を先に持ってくればいいのですね。
そのように、「遊びの保証をすることがよいことなのだ」とか、「友達同士の関わりを手を出さず見守ることがよいのだ」というように、子育てには「こうすることが正解」といったものがあるわけではないのです。
いろんな状況や、いろんな子供がいて、その中で「その子にとってはいま何が必要なのか」を考え続けていく必要があります。
しかしそれは難しく考える必要はありません。
厳密に「その子にぴったり合った対応を大人は常にできなければならないのだ」というようなものではないからです。
それはどういうことか?
簡単です。
「この子にはまだ早かったかな」「合わなかったかな」と思うのならば、次から別のやり方を試せばいいだけです。
つまり、”トライ&エラー”ですね。
「子供も失敗していい」というのと同じように、「大人も失敗しながら子育てしていい」というわけなのです。
さて、実はこの質問の背景にあることが、現代の子育てする多くの人の持つポイントになっています。
それは、「子育ての正解探し」になってしまうことです。
人は「我が子の現実の姿」と「子育ての情報・知識」のふたつを見比べながら子育てをしています。
どちらがより重要で先にあるかというと、これはまぎれもなく「我が子の現実の姿」なのです。
でも、子供と関わる経験がこれまで少なかったり、子育てに一生懸命だったり、まじめな性格だったりすると、無意識に「子育ての情報・知識」の方がより重要で、「それが正解である」という気持ちになってしまいます。
そして、そちらに子供の姿を合わせようとする関わりになってしまったり、「我が子の姿を”正解”に合わせられないこと」について悩むようになってしまいます。
「子育ての情報・知識」として言われていることが重要で、そちらが「子供の現実の姿」よりも先にあると考えてしまうのですね。
でも、子育ての出発点はつねに目の前にある子供の姿の方なのです。
「”正解”に子供を合わせる」のではなく、「子供の姿に合うやり方をトライ&エラーで模索していく」ことが必要なんですね。
そもそも誰しもに共通の「正解」があるわけではないのです。
だから、僕は「絶対こうですよ」と言った書き方をしている箇所はほとんどないと思います。
むしろ「~~かもしれない」と、なんともしまりのない書き方ばかりをしているでしょう。
それは、子供の個性や置かれた状況はみんな違うので、その子に合うか合わないかは、その当事者が実際にやってみないとわからないからです。
なので僕は、子育ての「正解」を述べているのではなく、子供の姿をとらえるときの「考え方」をお伝えしようと思っています。
| 2016-11-19 | 子育てノウハウ? | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
子育ての「正解探し」にならないで - 2016.08.16 Tue
アデノウイルスはこの時期はやりやすい病気で、症状はだいたい風邪と同じようです。
しかし、抗生物質などの薬は効きません。
ですので、自然治癒するまで約1週間くらいかかってしまいます。
娘の場合は38℃~39℃くらいの熱がずっとある状態なので、つらそうで親としてはどうにも心配になってしまいます。
でも、心配をいくらしたからといって、それで治るわけではないのですよね。
そこで親があまりにも心配からオロオロしてしまっては、かえって子供を不安にしてしまいかねません。
だから、以前の
子供への関わり方のコツ 「不安は隠す」
の記事のように、平気なふりをしてどーんと構えているくらいでないといけないのですよね。
さて、そんなように親ですから子供のことを心配する気持ちになってしまうのは当然なのですが、ですがそれゆえにかえって子育てを難しくしてしまうケースが少なくありませんので、それについて触れておくことで子育てする方にはちょっと気をつけてほしいなと思います。
それはタイトルにあげましたように、「子育ての正解探し」になってしまうことです。
現代の子育ては、どうしても未知のものである子育てに対しての不安をなかなか拭い去れません。
それはしかたがない部分があるのですが、それをちょっと自分でわきまえていないと子育ての迷走がはじまってしまうことがよくあります。
例えば先日、積み木についての記事を僕が書きましたね。
子育てに不安や心配がたくさんあって、「正解探し」の気持ちになってしまっている人は、こういった記事を読むと「我が子にも積み木をさせなければ!」と考えたり思ったりしてしまいます。
不安が強いと、どうしても「安心したい」という気持ちになってしまうので、「正解」に見えるものに飛びついてそれを教科書的に「〇〇しなければ」というふうになってしまいやすいです。
しかし、子供はひとりひとり違いますので、「子育てするのに〇〇がいいですよ」という情報は、必ずしも「子育てするのに〇〇しなければならない」と言っているわけではないのですね。
(「〇〇しなければならない」と強硬に主張してくる子育て情報があるとしたら、それはあなたを騙しておそらくは不当にお金を儲けようとしているものである可能性があります。気をつけましょう)
僕も、例えば積み木で遊ぶのはいいですよ、大切ですよ、必要ですよ、といったことは述べます。
ですが、それはあくまで一般論としてのもので、「誰しもどんな子供もが絶対〇〇しなければならない」という意味ではないのです。
これは僕が述べていることのほとんどがそうです。
子供によっては、積み木を好まない子もいます。
そういう子にまで、「何が何でも積み木で遊ばせる必要がある」というわけではないのですね。
積み木にしたって、必ずしも「どこそこの〇〇でなければならない」と言っているわけではありません。別に他のものだっていいのです。
しかし、自身が不安と心配を持っていて「正解探し」の状態になっている人には、これらの情報は「〇〇しなければならないのだ」というニュアンスで取れてしまいます。
それで、「それをしてみてそのとおりになって安心できた」という結果ばかりならば、それでも問題はないかもしれませんが、まずそのようにはなりません。
子供は、個性があってその好みはいろいろだし、その発達段階も個々によりまちまちです。
しかし、「正解探し」になってしまっている人には、それらにそういう長い目や広い目で子供を見てあげられる余裕はなくなってしまいます。
不安や心配がその原動力にあるので、明らかなに好ましいと見える状態以外は、その多くがマイナスに見えてしまいます。
すると余計に子育ての心配事、不安事は増えていきます。
そして、そうなると
大人: 「不安」「心配」→「正解探し」
子供: 大人の思い通りにならない状態
このようなことが子育てにずっと続いていきますので、
ある人は、自分を責める心情になっていきます。
「私は、子育てが下手だわ…」
「私には愛情が足りないのかしら」
「私はなんて悪い母親なのだろう」
またある人は、
その思い通りにならない状況に直面することのお手上げ感が、他者への怒りとなっていきます。
過去記事のコメント欄まで目を通されている方は、「こうするといいですよ」といった趣旨の記事にときどきそうした怒りに満ちたコメントが寄せられていることをご覧になっているかもしれません。
そういった状況から子育てが怒りを生んでしまうということはよくわかるし、理解もできるのだけど、でも怒りになってしまうと、その人の子育てを救ってあげられる人はどんどん少なくなっていってしまいます。
人間ですから、どうしても行動が感情に引きずられることがあります。
でも、ちょっと気づいておくことができると、その影響を小さくしたり回避することも可能になってきます。
ですから、世にある子育ての情報があくまで「一般論」であると思って理解するようにしましょうね。
どんな情報も、「絶対に〇〇しなければ子供がどうにかなってしまう!」と言っているわけではないし、自分のしていることと同じことを「それをするのはよくないことだ!」と書いてあったとしても、それは誰かがその人の子育てを見て名指しで非難しているわけでもありません。
もし、「自分は子育ての情報を読むと余計に不安になってしまう」とか、「それを絶対に正しいものとして正解探しになってしまう」、「人の意見を読むと多くの場合怒りになってしまう」といった人は、情報に振り回される前に、ちょっと自分の気持ちと向き合ってみましょう。
子供というのは、健康で、家庭で安らげることができていれば、そうそう取り返しの付かないようなことになったりはしないのでおおらかにいきましょうね。
| 2016-08-16 | 子育てノウハウ? | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
「不安と心配」について - 2015.11.15 Sun
下書きもしないで勢いで書いたものですから、僕の悪いクセがでてしまいました。
もう少し本来書きたかった前半部分を掘り下げてみようと思います。
子育ての多くのことに対して、この「不安と心配」をたくさん持っていると、子供の姿や行動に対して「怖れ」を持つようになります。
するとその姿が「でないように、でないように」と子供の行動を無意識にコントロールする方向で関わりを考えてしまいます。
例えば、最近保育園で多く見かけるようになってきた、「子供を園に連れてくることができない」といったケースを見てみます。
その子は、登園途中にごねたりぐずったり、または言うことを聞かずどこかへ走っていってしまったりして、親を手こずらせてしまいます。
親は、その子供の難しい姿を自分では如何ともしがたいので、そうされることを「怖れ」てしまっています。
そのため、子供のご機嫌を損ねないようにと、「あ、トラック走っているよ、見てみて」とか「犬がいる」などと、気を紛らわそう紛らわそうと関わっています。
子供のいいなりになって、本心では親自身もするべきと思っていない、させては困ることなどにもなんでも聞いて、子供のご機嫌をとりつくりながら連れてきたり、または、お菓子で釣りながら歩かせようとする人もいます。
これらは、子供の困った姿を出して欲しくないといった「怖れ」から、子供への対応が「ごまかし」になっているわけです。
または、母親ひとりで連れてこれないからと、お父さんや、おばあちゃんと一緒に来て、いざごねたら力ずくで連れてこれるように、人手を増やすことでそれに対処しようと考える人もいます。
これは、物理的に問題を解決したり、なかったことにしようとする、一種の「対症療法」です。
どちらも、問題の根本的解決にはつながりません。
むしろ、それらの対応はその場では、なんとかなってしまうので効果があるようにも感じられますが、「諸刃の剣」となって、さらに子育てを難しいものにしてしまいます。
現代の人がおちいりやすい、こういった後手後手の関わりになってしまうことには、先に子供の姿に対する「怖れ」があるのです。
(誤解のないように補足しておくと、具体的なそれらの対応のひとつひとつに対して、それがいい悪いと言いたいのではありません。
「私が実際にしていることを指摘された」と、怒りがわいてしまった人や、自分が責められたと落ち込んでしまう人がいましたら、この記事はそういった難しい状況をどうしたら改善できるかという趣旨のものと書かれているということをご理解いただいて、いまいちど冷静に読んでみてください。
それでも、わだかまりがぬぐえないという人は、おそらくこのブログを読んでも苦しめるだけでプラスにはならないと思いますので、他の情報に当たったほうが精神衛生上よろしいかと思います)
この種の、手に負えなくなる子供の姿を怖れて、子供に不適切な関わり方を積み重ねていってしまうケースには、非常に大きく考えて2パターンがあります。
ひとつは、それ以前の子育てに「受容」が積み重ねられてこなかったケース。
もうひとつは、「受容」はなされていたとしても、大人の側の「弱さ」ゆえに子供に必要なだけの関わりができないケース。
(もし、この両方が兼ねられていた場合は、さらに難しい子供の姿に直面することとなってしまうでしょう)
「受容」や「弱さ(弱いタイプの大人)」に関しては、関連記事がたくさんあることですので、ここでは深く触れません。
もし、子育ての基礎に「受容」がないと、子供との関係の中に「信頼関係」がなかなか構築されていきませんので、親が手こずる子供の姿が増えていくことになります。すると、そういった姿を親は「怖れ」なければならなくなってしまうのです。
そうなると、そこから”子育ての迷走”が起こりやすくなります。
「ごまかし」や「いいなり」「脅し」、物理的な解決を多用していくと、本来はそこで子供が得ていったはずの”心の成長”を得られないことになってしまいます。
そうすると、大人の対応がつねにその場しのぎになり、年齢が上がれば上がるほど子育ては大変になります。
このような子育ての積み重ねから、3歳、4歳、5歳~になって、「もう子供は見たくない」「子供と一緒に過ごしたくない」「子供なんかひとりで十分」と感じるようになってしまう人がいます。
実際に、我が子の子育てに投げやりになってしまう人も少なからず見てきました。
現代の多くの人にとって、子育ては未知のものです。
「〇〇になったらどうしよう」と、ネガティブな姿を頭に思い描いて、そうならないようにならないようにと、先回りした”囲い込み”のような過保護な対応になってしまう人が多くなっています。
でも、「問題がでないように」とおっかなびっくり子育てする必要はないのです。
むしろ、それをするとかえって問題をつくってしまいます。
子育てをしていれば、みんな子供の大変な姿に当たることがあります。
しかし、そういった経験も子供の成長には必要なことなのです。
それを適切に乗り越えて子供は育っていくのですから、「問題の起こらないように」とあらかじめ考えてしまうのではなく、「問題が起きたらそこから考えればいい」のです。
そのときの対応は親にとっても、しんどいかもしれません。
でも、それをすることによって親も年齢を重ねていく子供に対応する力をつけることができていきます。
挙げたようなごまかしや対症療法、または子供を大人の意のままにコントロールするようなテクニックに頼って、「問題の回避」ばかりに気が向いてしまうと子育ては迷走し、つらい、しんどいものになってしまいます。
まずは子育ての基礎に受容を置きましょう。
すると、怖れなければならない姿そのものを、減らしたりなくしたりすることができるはずです。
「保育園につれていくことができない」という例示したケースで、もう一度それを考えてみましょう。
その子は、「自分が十分に受け止められていない」と感じるがゆえに、保育園にいくことを心から”よし”とできないわけですね。
根底にあるのは、「あたたかく自分を見て欲しい受け止めて欲しい」という気持ちです。
そこにあるのは、「園にいきたくない」とか「親を困らせたい」と思っているわけでなく、「向き合って欲しい」という想いなのですね。
しかし、それに対して「お菓子で釣る」という対応をしてしまうと、子供は年齢が小さければなんらかの「ごまかし」や「釣り」がその場では通じますが、自分の本心に気づいてもらっていない、求めていることが少しも達成されていないという気持ちは持ちますので、それらの対応でごまかされてしまう一方で、感情的には”いらだち”、”欲求不満”を募らせていくことになります。
そのいらだちはもともとあった、受容不足にさらに加算されて、余計に難しい姿を出す原因となっていきます。
もし、先にそれなりにでもいいから「受容」がなされているのであれば、「ここでごねられたら困ります」といった毅然とした態度を親の方が自信を持って取ることもできますし、また同時に、子供の方もそういった関わりを受け止めることができるようになります。
「受容はしているつもりだけど、自分は弱いタイプでなかなか堂々とした関わり方ができない」という人も、普段から「受容」を心がけた関わりをしたり、言葉で「あなたのことを心から大切に思っているわ」といった気持ちを伝えることができていれば、そこに”自信を持って”毅然とした関わりを取りやすくなります。
こういうとき、むかしながらの「しつけ」メソッドの子育ての考え方でいると、「子供が言うことを聞かないならば、強くいいなさい、叱りなさい、怒りなさい、叩きなさい」といったことを求めてきました。
(お菓子やモノでつったり、鬼などで脅したりすることも、大人の求める「正解」の結果の姿だけを作り出そうとする関わりで、結局の所は「叱りなさい、叩きなさい」と言っていた「しつけ」」メソッドの派生形に過ぎません)
家族のあり方や、子育て状況の変化があって、昔はそれで通じた関わりも現代では同じようにはいかなくなっています。
「自分はそれに納得しているわけでもないのだけど・・・・・・」とそういった「借り物の価値観」を持ってきて、それをしたところで、必ずしも適切な関わりにはなりません。
子育ての基礎に「受容」を持ってくることで、”自信を持った”関わりができるようになります。
「自分は弱いタイプだな」と思う人も、まずは子供をしっかりと受け止めること、子供へ想いを伝えることを意識してみて、そこから子供の困った姿を怖れて横から裏からの関わりをするのではなく真正面から子供に向き合うのが、一見すると遠回りや大変なようかもしれませんが、実は一番の近道ではないかと思います。
| 2015-11-15 | 子育てノウハウ? | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
悩みの後ろ側にあるもの - 2015.11.14 Sat
ブログの更新を楽しみにしていただいている方には、本当に申し訳ないのですが、そんな状況ですのでご理解ください。
コメントにて相談もいただいておりますが、現在は育児相談を休止しております。
記事の整理整頓がきちんとできていないので恐縮なのですが、さまざまなケースに対する、かなり多くの質問への返信が過去記事やコメントの中にありますので、そちらを探していただけたらと思います。
気づいていない方もいらっしゃるかと思いますが、『相談』のカテゴリーのみならず、該当する記事の下にあるコメント欄で、相談返信のやりとりをしている箇所もたくさん(むしろそちらのほうが多く)ありますので、コメント欄に目を通していただけると幸いです。
このブログの価値は、コメント欄にあるといってしまっても過言ではないかもしれません。
そんなわけで、相談のひとつひとつにお返しすることはできないのですが、子育ての悩みの元になっているものについて”気づく”ことで、子育ての悩みを軽くできるかもしれないことを今回は書いてみようと思います。
多くの人が、子育ての具体的なことや、子供の成長のあり方、子供の行動する姿について悩みを持ちます。
でも実のところ、その子供の姿のとらえ方によって悩みは大きくもなり小さくもなります。場合によっては、その悩みそのものが、「ああ、気にしないでいいものだったのだ」となることだってあります。
そんな、悩みを大きくしてしまうものの正体のひとつが、「不安と心配」です。
ほとんどの人にとって、「子育て」は未知のものです。
「こうなってしまったらどうしよう」
「これってよくないことなのではないか?」
「このままでは将来子供のためにならないのでは?」
そんなたくさんの先の見えない「不安・心配」が、ものごとをより大きな問題にみせ、悩みを深くしてしまいます。
そこからかえって逆効果なことをしてしまったり、それは解決しても別のところで問題を生み出してしまうといった、過剰な対応をしたりして、子育てを迷走させてしまうことも少なくありません。
例えば、「子供が泣くことをよくないこと」と考えている人だと、子供が泣くたびにオロオロして不安になってしまいます。
「よくないこと」だと考えているので、泣き止ませなければと必死にならざるを得ませんし、もしそこで頑張って対応しても泣き止ませることができなければ、「自分ではダメなのだ」とそこで子供への関わりの悩みがより深くなってしまいます。
自分の力でどうにかすることができないので、モノや食べ物で釣って泣き止ませようとしたり、なにか音の出る玩具で気を惹くことで泣かないようにしたりしてしまいます。
子供が泣かないようにと、あらかじめ先回りしてなんでも子供のよいようにと、過保護にしたり、要求をなんでも聞く「いいなり」になることで、泣かないでいてくれるようにと、腫れ物に触るような子育てになってしまう人もいます。
世間には、そのような「泣かせてはならない」といった子供を育てる人に強迫的に求める規範がゴロゴロしているのも、そういう親たちを苦しめる一因となっています。
いわく、
「人見知りはよくない」
「指しゃぶりはよくない」
「いつまでも授乳していてはいけない」
「いつまでもおむつしていてはいけない」
「好き嫌いはいけない」
「友達とうまく遊べなければならない」
「ものの貸し借りができなければいけない」
などなど、山のようにあります。
そういった規範のいちいちを、一生懸命子供に獲得させようとすればするほど、子育てはつらくなってしまうでしょう。
それは、本来自由闊達な子供を、ある一定の枠に押し込めよう押し込めようとする関わりだからです。
日本の子育ては、「しつけ」のメソッドの先入観が強くあるために、そういった傾向の子育てに非常になりやすいです。
でも、子供は往々にして、型にはめようとすればするほど、意のままにならなくなるのが現実です。
その結果、悩みが深い人、子育てにまじめなひと、一生懸命な人ほど、子育てを大変にしてしまう傾向があります。
子供は大人の気持ちのあり方にとても敏感です。
大人が「この子を泣き止ませなければ」と切羽詰まった気持ちになればなるほど、不思議なことにかえって泣き止まなくなってしまうものです。
子供の対応がうまい人ほど、おおらかに子供を受け入れることができる人であることが多いです。
子供が泣いていたら、「泣き止ませなければ!」と力んでしまうよりも、「あ~泣いているんだね~」とあるがままをなんのてらいもなく受け止められると、子供の心にもその余裕が伝わってその後の対応がたやすいということなどがあります。
他にも「不安・心配」を先に立たせてしまうケースを見てみましょうか。
例えば、早期教育がいま大変関心を持たれています。
では、その人たちにそれをさせている理由を聞いてみると、意外なことに明確な目的や必要性を持ってやらせている人はそう多くありません。
多くの方は、「周りがやっているから、うちもやっておいたほうがよいかと思って」、「先々になって、やってないことで困るよりも、やらせておいたほうがよいと感じて」、「遅いよりは早い内の方がいいだろうと思って」などなど。
そのように、必要性やその実用性を理解した上でというよりも、「安全パイ」として考えている人が多数を占めています。
なぜ安全パイを求めるかというと、やはり子供の将来に対する漠然とした「不安・心配」を解消するために、親は子供に「なんらかの行動の習得」(親の考えるところの”正解”)を求めているわけです。
ほどのよいところであれば、さほどの問題にもなりませんが、そういった親の「不安・心配」が大きく強く、それに歯止めをかける存在もいないと、子供に対する過剰な要求として、子供の成育を圧迫していってしまうことすらあるので、「不安・心配」を大人自身がセーブできないことは、子育てを難しくすることにつながってしまう場合もあります。
どうやってそれをセーブしたらいいかと考えると、子供についての知識を深めたり、子育ての経験者や専門家に適切な対応の方法を教えてもらったり、それは気にしなくても大丈夫なことだと言ってもらうこともそうでしょう。
でもその前に基本的には、必ずしも問題解決、ここでいうと「子育ての正解」を教えてもらうことを求めるのではなく、子育てのいろんなことを話せる場や相手があって、自分の思いや感じていることが「悩み」になってしまう前の段階で、小出しにできていることがいいのではないかと思います。
僕はこれを、「共有化」と呼んでいます。
いまは人とコミュニケーションをとることが難しくなりつつある時代なので、子育ての「便利グッズ」のようなものは増えたけれども、こういったヒューマンリソースの部分は著しく少なくなってしまっています。
(実際に、人付き合いが苦手な人ほど、子育てを難しく感じている人が多いようです)
子育てをする仲間同士で、そういう場を持ったりするのも大切でしょう。
特にこれからの時代は、お父さんにこの点の意識を持ってもらうことが、子育てを良いものとしていくためには大事かなと感じています。
お仕事が忙しくて直接子育てに関われる機会は少なくても、子供に直接関わる人(実際的には今のところたいていはお母さんでしょう)の気持ちを受け止めてあげて、共有してあげることが子育ての大きなサポートとなっていくと思います。
このとき、お父さんの方も「それは間違っているだろ」「こうしたほうがいいんじゃないか」ということは別にいわなくてもいいんですね。かといって、自分の意見を出してはいけないということではありません。
その問題に対して、「自分はこう思っているのだけど」と結論を急がずに、まずは考えや想いを両者で共有していくことこそがいいのだと思います。
子育てには「正解」を見いださなくてもいいのですね。
子供はとても柔軟な存在なので、素晴らしいことにけっこうアバウトなものですらきちんと育っていけます。
ですので、まずは焦ったり不安になって正解探しをするのではなく、「共有すること」が大切と覚えておいてください。
| 2015-11-14 | 子育てノウハウ? | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
イニシアチブは大人でいい - 2015.10.20 Tue
『“王様子ども”にしないために、親が日々心がけることは?』
その関連で、先日あったこんなことを紹介したいと思います。
パン屋さんでのこと。
3歳くらいの男の子とそのお母さん。
そのお母さんが、お店に入ってくると同時に「なんでも好きなもの選んでいいわよ」と子供に伝える。
それで、男の子はチョコパンを選んでくるが「それは虫歯になっちゃうからダメ」とお母さん。
また、別の物を持ってきて「それはダメ」をお母さんは繰り返している。
第三者的にみていると、これは「えっ?」となって「オイオイ・・・」と思うわけですが、当のお母さんは自分の言動と行動に矛盾があることに気がついていません。
実は似たようなことは、多くの人の子育てのなかにしばしば見られます。
なんでそうなってしまうのでしょう?
その背景には、大人の持つ「価値観」と「実際の子育て」にギャップがあることが一因ではないかと思います。
僕自身も、「子供を尊重すべき」とか「個々を大切にして」と言ったことを述べています。
世間でも同様の考え方はたくさん流布しており、多くの人がそれらに接しています。
そんななかで、漠然と「子供の意見を聞く人が、いい親」といった意識を多くの人が持っています。
「子供も一人の人格であり、大人と対等の尊重すべき意思や意見を持っている」というのが日本も批准している『子どもの権利条約(児童の権利に関する条約』にもいわれているところです。
僕もそのことは、子育ての上でも、現代の子供の教育や未来を考える上でとても大切なことだと考えています。
こういった理念は、ちょっとずつにしても多くの人に浸透しています。
でも、意識にあるだけで、なかなか実際の子育てにはマッチングしていません。
子供の存在は、大人と同等のものであるといっても、子供は大人の導きがあって過ごし、学び、成長していくものです。
ですから、実際の育児のなかでは、「”なんでも”子供の意見を聞く、従う」というわけではありません。
この例でいえば、”子供がなにを食べるか”ということは子供の健康に直結するものです。それは大人がきちんと管理、判断すべきものです。
ですから、ここで「好きなものをなんでも選んでいい」などという必要はないのです。
大人が、”食べさせたくないものがある”のならば、「今日はこれにします!」で何ら問題ありません。
なんでもいいと言っておきながら、「それはダメ、それはいい」と矛盾した対応をするほうがよほど問題です。
選ばせたいと思うのならば、大人がよいと思うものから「こっちとこっちで、どちらがいい?」と選択させればいいでしょう。
子供の意思を「”なんでも”聞く親」が「いい親」なわけではありません。
それを子育てのなかで積み重ねてしまうと、親はものごとをイヤイヤ子供に許容することで、日々の子育てストレスを増大させたり、「ダメダメ黙認」のような子供の姿が大変になる関わりにおちいって、そこから抜け出せなくなったりしてしまいます。
◆「必要なこと」は堂々と
これの類似、派生で、こんなことも多くの人に見受けられます。
おむつ替えの際に、
「おむつ替えてもいい?」と子供に聞いて、子供がそれを嫌がって逃げるところを、うんざりした顔で追いかけているといったケース。
おむつを替えることは、これは「必要なこと」なのですね。
衛生面や、健康面でもそれは必要です。
そういうものですから、子供に「おうかがい」を立てなければならない種類のことではありません。
とはいえ、子供は「モノ」ではありませんから、黙って持ち上げて移動させて替えていいということでもありません。
ですから、ここは大人が「おむついっぱいだから替えますよ」、「これから外出するから替えますよ」などと事実を告げて替えればいいのです。
「〇〇してもいい?」と聞くということは、「〇〇するのも、しないのもお好きにどうぞ」ということです。
最初のチョコパンの事例と同じですね。
大人が困ることまでその選択肢に入れる必要はないのです。
それをしていれば、子供にとっては「”すべきこと”や”大人の思い”に寄り添わない行動」を取るよくない習慣をつけてしまうし、大人にとっては育児における大変さをたくさん感じさせることになります。
そこで育児ストレスを増大させて、子供との関わりに余裕がなくなれば、子供はその人との受容関係、信頼関係に不安・不満を覚えやすくなります。
すると、そこから子供のネガティブな行動が増えたり、大人からのアプローチが余計に通じにくくなるという悪循環をもたらします。
それと同様の構造を持っているものは他にもあります。
例えば、「子供を保育園にあずけること」。
また、「下に弟妹が生まれたこと」などです。
子供を保育園に預けるのは、なんらかの必要があって預けているわけですよね。
ですから、それは「生活のために必要なんだ」と割り切ったブレない気持ちを大人が持っていた方が子育てはすんなりいきます。
しかし、最近の人はそれを子どもに対して負い目や引け目に感じたり、そこから「かわいそう」という意識で子供を見てしまいます。
そのために、本当ならば許容したくない”わがまま”などを、「かわいそうなことをしているから」といった意識から認めてしまったりしています。
子育ては積み重ねですから、そういったわがままの許容がその場だけのことで終わればいいですが、子供にとってはそれが習慣・既得権になってしまうこともあります。
すると、あとになって子供のそういった要求・行動を、たくさんうんざりして聞くことにもなりかねません。
そういったところから、子育てを投げ出したくなってしまう人もいるのも事実です。
しかし、もとはというと、それは大人自身の”ブレ”にあったわけです。
弟妹がいることで、負い目や引け目、「かわいそう」になる人も少なくありません。
弟妹が生まれたことは、まったくなにも悪いことなどありはしないのですから、それは堂々としていていいことです。
大人が「かわいそう」と思うと、子供は「ああ、やっぱり自分はかわいそうなことをされているのだ」と感じます。
そこから卑屈になったり、やさぐれた行動をするようになりかねません。
例えば、”わがままな要求をして親を困らせていいのだ”といった意識や、”弟妹がいることで自分はかわいそうにされているから、弟妹を攻撃していいのだ”といったものなど。
下に弟妹ができたということは、上の子自身が乗り越えなければならない課題です。そしてそれはみな乗り越えることができる課題でもあります。
しかし、大人の方が負い目や「かわいそう」という意識を持つことで、進んで子供にそれを乗り越えなくていいという依存をもたらしてしまっています。
そしてそれが乗り越えられないまま年齢を重ねている子が少なくありません。
最近、兄弟仲がよくない家庭が増えています。こういう点も大いに関係あるのではないかと感じます。
負い目や引け目、「かわいそう」はなにほども、その子供のプラスにはなりません。
大人は必要なことなのだと、ブレずに割り切って、堂々としていた方が子供は安心して過ごせます。
もし、それによってその子に負荷をかけてしまっていると感じるならば、「ありがとう」を伝えればいいのです。
「あなたが保育園で元気に過ごしているから私もお仕事頑張れるよ、ありがとう」
「赤ちゃんのお世話の間、ひとりで遊んでいてくれるから助かるわ、ありがとう」
などなど。
親から向けられる「かわいそう」という意識は、ネガティブな感情を子供に持たせてしまいますが、「ありがとう」という感謝の言葉は子供にとって肯定であり、前向きのモチベーションをたくさん与えてくれます。
「イニシアチブは大人でいい」、「必要なことには堂々と」というお話しでした。
| 2015-10-20 | 子育てノウハウ? | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
「言い聞かせる」補足 Vol.3 - 2015.05.01 Fri
◆だだっ子は大人によっても、作り出される
もともとのその子の個性でだだっ子をしていることもありますが、大人の関わりゆえにそうなってしまう子もいます。
個性でそうなるのならばいいのですが、「大人がそうしてしまった」のならばそこは見直す余地がありますよね。
「子供だから、だだっ子するのが当たり前だ」
と思っている人は少なくないかもしれません。
でも、それが一般的な子供の見方になってしまったのには、「受容」が少なく「抑圧や支配」の多かったこれまでの日本の子育て文化が、作り出してしまった子供像なのかもしれません。
意外かもしれませんが、実は子供はそうそうモノを欲しがるわけではありません。
特に年齢が小さい子はそうです。(もちろんこれもケースバイケースではありますが)
2~3歳の子でなにかにつけてモノを欲しがる子、それをダダで出す子だとしたら、その姿はおそらく大人への関わりや要求を、モノをもらうこと通してするものだと学習してしまったためでしょう。
もしくは、「受容」がストレートに受け入れてもらえないために、その代わりとしてモノの要求をすることを身につけてしまった可能性があると思われます。このケースがが実はとても多いです。
「子供がモノを欲しがるのが当たり前」と思うようになってしまったのは、これまでの子育てで「子供が甘えを出すのはよくない、それを受け止めて助長してはいけない」といった認識がありましたので、その代わりとして「モノの要求」が子供たちの姿として一般化してしまった経緯があるのではないでしょうか。
つまり、受容が適切になされて、それなりにでも子供が満たされていると、モノを欲しいとごねたりするような、大人を困らせる子供の姿自体がでにくくなるということが言えると思います。
子供の個性により多少のばらつきはあるにしても、
「受容が不足すると、子供の難しい姿がでる」というのは、これはもう間違いのないことです。
ここで言えることは、子供がゴネやダダなどの難しい姿を出したとき、その場での対応に悩むよりも、そのときはもうその場しのぎの対応(それこそ、釣りやごまかし、疎外をつかってでも)でいいからやり過ごしてしまい、できるときに例えばくすぐりをしたり、笑顔で共感したり、ともに遊びを楽しんだりといった子供との関わりを持つことを試してみた方がいいことだってあるでしょう。(「こうしなさい」と言っているわけではなく、あくまで方法のひとつとしてです)
そして、「イヤイヤ期」のように、どんな対応もうまいことはいかずに、そういった姿がでるのを、ただ”はしか”が過ぎるのを待つように、やり過ごしていくしかないといった場合だってあります。
「子供に言い聞かせる」という対応にしても、そもそもの親子間での受容が不足したり、子供が素直な甘えで自分の気持ちを出す道をふさがれてしまっている子であったら、いくら頑張ったところで、そこで大人の思うような子供の姿がでてくることはありません。
また、前回のところで述べたように、過保護・過干渉や支配的な関わりが多いといったケースも同様にその場の対応をいくら頑張っても、そのゴネ以前のところに理由があるので、「その場の対応だけ」では思うようにはならない場合もあることでしょう。
このように、一見同じような子供のゴネだったとしても、その理由や背景が違ってきますので、前回、「大人がきちんと決断することが大切」といいましたが、ではそれを何が何でも子供に押し通せばいいかというと、絶対にそうであると単純にいえることでもないのです。
押し通した方がいい場合もあれば、引っ込めたってかまわないということだってあるでしょう。
こういったことは「正解」を求めるよりも、実地に関わって、「我が家の」、「自分なりの」、「その子への」、関わり方を模索していくことが大切なのだと思います。
ただ、大人がきちんと決めることが大切ということ自体は間違ってはいないでしょう。
最大公約数的なところで考えれば、近頃ではそういった大人の姿勢のあいまいさによって、子供のゴネやわがままが助長されているケースは多いと思われます。
※過保護・過干渉にならないためや、叱ってばかりの状況を改善していく方法、公園での他児とのトラブルに困っている、などについては、すでに過去記事がいくつもあります。
そちらをご覧になってください。
| 2015-05-01 | 子育てノウハウ? | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
「言い聞かせる」補足 Vol.2 - 2015.04.30 Thu
特に文字にして伝えるのはそうです。
子供との関わり方に、「これひとつだけの正解」はありません。
子供も違うし、大人も違うし、そのときどきでも違います。
こっちの人にはいい関わり方が、あっちの人には良くない関わり方になってしまうことなどもたくさんです。
またさまざまなバランスも重要です。
紋切り型に「いつでもこうすればOK」ともなかなか言えません。
疲れていて、ゴネること自体が目的になってしまうようなこともあれば、感情の袋小路に入ってしまって、いまは何をしてもだめなんてこともよくあります。
僕もなんとかそのところをうまくお伝えしたいとは思うのですが、具体的な話で万人向けというのはなかなか難しいです。
ですから、こういった話は関わり方の”方向性のひとつ”くらいに思ってもらうのがよいでしょう。また、”バイブル”にしてしまう必要もありません。
以前どこかでも書きましたが、子育てに行き詰ったり、子育てに自信が持てなくなってしまうと、「子育ての正解探し」をして、”安心”を得ようとしてしまう心理が人にはあります。
この「正解探し」をしはじめると、そのことだけでも子育てが難しくなってしまいます。
目の前の子供の在り様を見ることよりも、その正解にあてはめることが目的になってしまうからです。
そういった不安や心配があまりに深いと、「これをすればなんでも解決します」といった極論を述べる「トンデモ論」などが大変魅力的に見えて、それに引き寄せられてしまうなんてこともあります。こういうのにはまってしまうと、思わぬ影響を残していきますので気をつけたいです。
そういうわけですので、僕が書いたことと、同じでないから、できるから、できないから、と一喜一憂する必要はありません。
自分とわが子に合うやり方があるならば、それでいいのです。
そんなわけですが、せっかくですから前回の話をもう少し掘り下げてみましょうか。
<視点の切り替え>
◆子供のゴネは、そのゴネていることが問題ではない
子供のそういった姿に直面すると、大人はそこからの対応ばかりに目が向いてしまいます
しかし、子供のゴネはそれ以前のなんらかの抑圧が、そういう形をとって出していることが少なくないですから、そこでの対応をいくら頑張っても、根っこの部分を解決しないとなにも生み出さないという場合もあります。
例えば、子供が公園で遊んでいるときに、「この子はまた何かよからぬことをしはしないか」と子供を監視するような厳しい目つきや、そういった心配を前面に出して、不安げな様子で過保護・過干渉ばかりになってしまっていたとしたら、そのこと自体がゴネをする理由を作ってしまっています。
このケースに対しては、いくら「ゴネたときのうまい対応」をやってみたとしても、あまり好転はしないことでしょう。
また、受容や、その大人に対しての信頼感が不足していたりしても、同様にその場だけのうまい対応にあまり意味はありません。
先ほどの「正解探し」になっている人も、視野が狭くなってしまいやすいので、そのゴネの場面だけに目が行きがちで、根っこのところへのアプローチができなくなってしまいます。
また例えば、子供が遊んでいる間スマホばかりを見て、こちらに少しも笑顔を向けてもらえなかったという子は、そこでの満足感や安心感が低下して、大人の目を自分に向けなければと不安になってしまいますので、その後にゴネる理由を作りだされてしまっているとも言えます。
もちろん、これらも個々によりそうなるかならないかはケースバイケースです。
ですが、こういった子供との関わりの難しさに直面したとき、その対応だけでは解決しないこと、もしかするとその原因を大人が作ってしまっているかもしれないという視点を持つことで、対応が変わってくるかもしれませんね。
つづく。
| 2015-04-30 | 子育てノウハウ? | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
「言い聞かせる」補足 - 2015.04.28 Tue
ただ、この記事はどうも運用上誤解を与えているところがあるのではないかと、かねがね気になっていました。
そこでいまさらですが、これについて掘り下げて補足をしていきたいと思います。
まず、なにを誤解させてしまっているかといいますと、「言い聞かせる」というのが必ずしも「子供の承認を得なさい」という意味ではないことです。
これをして、子供にこれからすることを納得してもらおうと、聞き入れるまでしつこく説得することを重ねてかえって、お手上げになってしまうケースを招いているようです。
この上記の「言い聞かせる」を、特に「弱いタイプ」の大人がしようとすると、子供に主導権を与えることになってしまっています。
以前に、別の記事で「イニシアチブは大人が持つ」という記事もありましたね。
なにか子供がゴネるたびに、”子供が納得するまで”大人が言い聞かせることだと考えてこれをしていると、ものごとのイニシアチブが子供に移ってしまって、子供はかえってゴネで自己主張をすることがとても多くなってしまいます。
これは、大人が子供をゴネる子にしてしまっているということです。
すると大人は、子供との関わりに疲れ切ってしまうことでしょう。
子供を尊重するというのは、「子供の言うことを何でも聞きなさい」ということではありません。「子供の意に反することをしてはいけない」ということでもありません。
人としては対等だとしても、大人が子供の導き手であることは揺らがない事実です。
当然ながら、イヤイヤ期など子供は親への反発する行動を示します。
それらを出すこと自体は悪いことではありません。このことはこの前の「疎外」の記事にも書きましたね。
ですから、反発する行動自体を「出すな」と押さえつける必要はありません。
子供がここで学ぶもっとも大切なことは、その感情をどうコントロールできるようになるか、ということなのです。
なので、必ずしも子供が納得する答えを、わざわざ大人が段取りしてまで出してあげる必要はないわけです。
では、どうすればいいかというところがこの問題に直面している人の悩みですよね。
まず、大人が ”どうしたいのか” をはっきりとさせてください。
はっきりと決断できない人が、このシーンでの難しさを感じています。
例えば、公園から「帰りますよ」と伝えたときに、それに子供が納得しなかった、反発したからと、「じゃあまだしばらくいいかしら」としてしまえば、子供はどんどん、大人の言葉に重きを置かなくなりますし、ゴネることでどうにかなることを学習していきます。
その大人の決断できない姿勢が、子供をゴネる子、関わりにくい子に助長していってしまいます。
よしんば、「じゃあしばらくいいかしら」の後に子供をその希望通りに遊ばせたとしても、親はそれを快く思っていません。
子供はそれを感じますから、その時の遊びに大きな満足感を感じることもありません。
「まだしばらくいいかしら」ができるのであれば、最初からその時間まで遊ばせていたほうがよほどいいでしょう。
そして行くべき時になったら、「もう買い物に行く時間だから」「ご飯の時間だから」ときっぱりと言って帰るのです。
大人が子供にどうすべきか示したのに、それを譲歩していくということは、「その言葉が嘘であった」ということになってしまいます。
ここの「言い聞かせる」で僕が伝えたかったのは、子供にこの決断を伝えるという意味でした。うまく伝えられずすみません。
子供への距離感がつかめていない人には、ここがわかりにくく、誤解を与えてしまっていたかもしれません。
しっかりと決断して、それを揺らがずに子供へと伝えること、これが「言い聞かせる」ことなのです。
さらにもうひとつ補足をしておきましょう。
さっき出てきた「自己主張」についてです。
「自己主張」というと、反抗したり、反発することが「自己主張」なのだと考えている人は多いと思います。
しかし、本当はそればかりではありません。
ほかにもあるのですが、そのほかの自己主張の道がふさがれてしまっている子は、反抗や反発で出すしかなくなってしまいます。
じゃあなにが「自己主張」かと言えば、もっとも基本的なことは「甘え」でありそれを受け止めてもらうことです。
「甘え」を出すことが子供が最初にする「自己主張」なのです。
でも、子供に「○○をさせなければ」「もう、お姉さんなんだから」などと、「素直な甘え」を出す道をふさいでしまうと、その子たちまちは反発や反抗、ゴネが増えてしまいます。
子供のゴネにうまく対応できなくて、イライラや大変さうんざり感がつのってしまう人は、余計に甘えを受け止める余裕もなくなってしまいますから、さらに大変な方へという悪循環になってしまいます。
子供のゴネなどが大変だと感じる人がいたら、その対応の出発点は、そのときのゴネなどへの対応をうまくするではないのです。
まず「受容」をそれ以前のお互いに気持ちよく関われるときにすることです。
さっきの例のように公園で遊んでいたのならば、そのとき笑顔で気持ちよくおいかけっこをしたり、そこで満足感を得ていれば、そもそものゴネ自体を減らす方向へ持っていけることでしょう。
反対に、その遊びの最中、「あぶないあぶない」で行動の規制や、「〇〇するな」、「それは汚いから触るな」といった指示、「その行動はよくない」といった否定の方向性での関わりが多ければ、その後に子供がゴネを出す理由をたくさん大人が作ってしまいかねないのです。
「素直な甘え」のところで書きましたが、イライラやゴネで自己主張することがクセになってしまっている子には、「ゴネで出さずに、素直に甘えていいんだよ」と出し方を変えてあげます。
「いつでも甘えていいんだよ。大人はそれをちゃんと受け止めるからね」ということを、頭でも身体でも、経験でも理解している子は、一般的な人が子供に持っている「子供は大変なもの」といった印象とは大きく違った姿になっていることと思います。
| 2015-04-28 | 子育てノウハウ? | Comment : 14 | トラックバック : 0 |
『イクメン』の落とし穴 - 2015.04.03 Fri
育児をする男性、「イクメン」という言葉が広まってきてずいぶんたちます。
ブームのようになっていましたが、これまで男性の育児参加が極端に少なかった日本の社会においては、一定の意味のあったことだと思います。
しかし、イメージ先行、一種のファッションになってしまったようなところもあって、ちょっと気をつけないとそれゆえの落とし穴にはまってしまう部分があるかなと思って、少し書いておこうと思います。
◆「ダイナミックな遊びをして子供の相手をするパパ」
「イクメン」にそんなイメージを持っている男性も多いでしょう。
もちろん、それが悪いわけでもないし、子供と向き合って遊んだりすることもそれはそれでひとつの育児参加ではあります。
でも、それだけで「自分は立派に子育てに参加した」と満足してしまうのはやや早いです。
かつての日本の父親像のように、休みの日であっても子供のことは母親まかせで、自分は好き勝手していたといった状況からみれば、それでも大きな進歩かもしれませんが、「イクメン」の「イク」つまり「育児」はそれだけではありません。
育児の中で遊びの相手をするだけならば、それはいいとこ取りみたいなものです。
身体が健康で、遊びを楽しめる安定した心の状態があって、おなかをすかせてもおらず、着るものも清潔で、汚れたときの替えも用意してあって・・・などなど。
そんなたくさんのお膳立てがあって、子供と楽しく遊べる環境が確保されているわけです。
その父親が遊びの相手”だけ”をしていた場合、それらのお膳立ては誰か他の人がしているということです。
たいていは母親がそれらをしてくれているのでしょう。
もちろん、個々の家庭の事情もありますから、それだけでも「大助かりだわ」という母親もいるでしょう。
それはそれで結構なことだと思います。
でもそれによって、父親の方が、
「子供の遊びの相手をしてやっているんだから自分の育児の責任は果たした。後のことは母親の責任だ」
と考えてしまうようでしたら、あんまり「育児参加する父親」という考え方は、昔からたいして前進していないことになります。
遊びの相手って、本当に子育ての一部でしかないのです。
なかには、子育てが大変で遊びの相手をすることすら苦痛になってしまう人もいます。
でも、それは「遊びの相手」が大変なのではなくて、もろもろの子育てや子供への関わりの大変さ、育児の責任の重圧、子供の将来への不安、自分の時間のない息苦しさ、それらからくるストレスの蓄積などがあって、その上にでてくる「子供を見ることの大変さ」なわけであって、「遊びの相手」をすることだけを切り抜いて、それだけで大変と言っているわけではないのですね。
なので、
「母親が大変だと言っている子供の遊びの相手を、自分は立派にこなしている。子供も大喜びで遊んでいる。むしろ、楽しいじゃないか。こんなことを普段から大変だと言っている母親はたるんでいるんじゃないか」
と父親が思ってしまうようでしたら、それは早計というものです。
(ときに、その思考はモラハラにつながります)
「育児」は、まずもって子供を健康で日々のなにげない生活を送らせることです。
健康でいさせるためには、栄養バランスを考えた食事を作り、清潔を保ち、そのためにはたくさんの衣類やオムツなど洗濯したり、用意したり、サイズが合わなくなれば買い換え、風呂に入れ、爪を切り、耳掃除をし、顔色や発熱などを意識しないでもできるようになるくらいに日々気に掛け、さまざまな子供のかかる病気や、予防接種などの知識を持ち・・・。
それに加えて、ぐずったり、泣いて感情を爆発させたり、大人を相手にするのとは全然違う、子供への関わりというものをいちからしていかなければなりません。
また、保育園や幼稚園や学校を探したりそこに入れたり、それにともなうたくさんの手続きをしたり、そこでの人とのつきあいがあったり・・・。
挙げればきりがありません。
そういったことがたくさんあって、それでようやく「育児」なわけですね。
とくに一番、目につくのは、テレビや雑誌・店舗など、なんらかの宣伝・コマーシャルの類いで「イクメン」が利用されているケースだと思います。
そこではファッショナブルで、「かっこいいパパ」が子供をレジャーに連れて行ったり、男性ならではの遊びを子供としているところが好んで描かれます。
でも、それを鵜呑みにして、そこまでの意識で止まっていたら、それでは昭和のお父さんとたいしてかわらないです。
個々の状況にもよりますから、とうていより細かいそういった育児には関われない父親もいるでしょう。
でも、「遊びの相手をしたから自分はイクメンだ」とふんぞり返っていてはまずいことになります。
子供の笑顔を支えているたくさんのことを、母親がしてくれているのだという「理解」だけは、最低限きちんと持っていた方がいいですよね。
逆に考えると、この遊び相手以外の子育てのことを、父親が積極的にしたとき、母親としては「パパにも育児を協力してもらっている」と強く感じるのではないでしょうか。
| 2015-04-03 | 子育てノウハウ? | Comment : 16 | トラックバック : 0 |
前向き抱っこ - 2014.06.17 Tue
抱っこと言ってもスリングでする前向き抱っこではなくて、要するに「リフト」として使われる前向きの抱っこのことです。
「リフト」に関してはこちら
乳児の遊び・関わり Vol.8 力で子供を動かしてしまうこと
具体的には両の脇の下に手をいれそこから抱え上げて、前向き(大人の進行方向と同じ向きに子供の顔が向いている)で子供を移動させたり、腰や足から抱え上げて前向きで移動させたりする、という関わりです。
これをここ最近になってとても頻繁に見かけるようになりました。
実はこのこと、1年半くらい前に親戚のおじいちゃんおばあちゃんが1歳の孫に頻繁にしているのを見てからいずれ記事にしようと気になっていることでした。
気にしていたものですから、周りでそうしている人がいると目ざとく観察していたのです。
どうにも最近特に多くなっているような気がします。
子供には個人差あるから一概には言えません。
でも、この関わりは「リフト」の中でもかなりよくない形のものです。
子供を抱えて動かすにしても、通常の抱っこ、つまり大人と子供が向い合わせになる形というのであれば、それがたとえモノ扱いのようなリフトであったとしてすら、まだ子供の方も大人に抱きつくという行動がとれます。
ある意味では、子供にとっても「抱っこしてもらっている」ことになります。
でも、前向きに抱え上げられる形だと、子供はなんにもできないのです。
大人に抱きつくことすらできません。
特に脇の下に手を入れて捧げ持つような形にしてしまっていると完全にそうなります。
動物を抱え上げる時に引っ掻かれたりしないようにそのように持ち上げることがありますね。
(あとおしっこ漏らしてしまった子供をお風呂場まで運んでしまうようなときにこれをしますね。その状態で抱きつかれたりするのは困るのでそういった時ならわかるのですが。)
あんな感じになって、子供はなにもできない状態でキメられてしまうのです。
抱きつくこともできないので、よりモノ扱いに近いです。
これを繰り返しして積み重ねてしまうと、その一年後くらいには大人と手をつないだりしない子、大人の言葉を聞かない子になっていく可能性というのが高くなっているのではないかと感じます。
子供の意思をまったく汲み取ろうとしない関わり、大人と意思を通わせないで子供に行動を強いるということになっているからです。
特に「弱い大人」タイプの人に多く見られます。
子供が行っては困るところに行こうとしているとき、有無を言わせず後ろから抱え上げて連れ戻したりするときや、素直に従おうとしない子供をトイレに連れて行ったりするようなときなどにこれを頻繁にしています。
そのときはそれで済んでしまいますが、もともと素直に従おうとしない子にこのようなリフトの経験を積み重ねていけば、余計に大人の意図に従おうとしない子になっていってしまうでしょう。
子供が大きくなってリフトもできなくなったとき、その人の子育てはお手上げになってしまわないとも限りません。
このことはその大人が、自分で自分の子育てをより大変なものにしてしまっているということです。
見ていてとても心配です。
「危険だと思う」、「してはいけないと思う」ということを子供がしているのならば、その行動を無理やりやめさせてしまえばいいのではなく、自分でやめるよう、少なくとも大人がそれはよくないという明確な意思を表していることが伝わるように関わっていく必要があります。
「弱い大人」タイプの人は、子供に毅然と対峙することが苦手なので、これを無意識に回避していってしまいます。
言葉で伝えたとしても、「あぶないあぶない」の繰り返し言葉であったり、子供の頭の上を通りすぎるだけの弱い言葉なので、子供に明確に伝わりません。
言葉で伝わらないので、そのうち物理的に動かす方へといってしまいます。
そこでリフトになります。
「弱い大人」や人とのコミュニケーションにストレスを感じる人は、相手が子供であっても目と目を合わせたりすることが得意ではありません。
なので、前向き抱っこになってしまうということがあるのかもしれません。
もうひとつあります。
「弱い大人」でなくとも、「過保護・過干渉」な人は指示的な関わり、子供に「どうすべき」という要求が多いので、どうしても「子供を動かさなければならない」という場面が増えてしまいます。
さらには子供がスルーしたりすることも多くなっているので、物理的に子供を扱ってしまうということがでてきてしまいかねません。
これもリフトを多くしてしまうことに一役かってしまっているでしょう。
「弱い大人」に関してはこちらからシリーズ記事になっています
相談 「弱い大人」と「強い大人」
| 2014-06-17 | 子育てノウハウ? | Comment : 13 | トラックバック : 0 |
子育ては雪だるま作りに似ている - 2014.06.05 Thu
「毎日子供と一緒にいることが楽しくなった」
「小さいうちから読んで子供の姿がとても可愛く育てることができた」
「あんなに大変だった子供と過ごす時間が楽しくなってきた」
というようなお言葉をたくさん頂戴するようになりました。
特にイヤイヤ期あたりや、行動が活発になるその少し前くらいの時期、また保育園に通っているお子さんをお持ちで子供の行動が気になるようになったりしたことで、ここにたどり着く方も多いようです。
「子育て」というのは、雪だるまを作ることになぞらえられると感じています。
最初は小さな雪玉を作ってそれを正しい方向にコロコロと転がしてあげる。
そうするとそれがだんだんと勢いづいていって、なめらかに回転させていける。
ときには、それでもうまく転がらないときがあったりして、誰かに押すのを手伝ってもらったりもするけどね。
僕が書いたことが少しでも役に立って、子育てが楽しくなったと言ってもらえるのは大変うれしいです。
でも、たぶん僕がしていることは、「こっちの方向にこうやって転がすといいですよ」と伝えてせいぜい最初の数回、転がすのを手伝っているようなものなのだと思います。
子育てっていうのはどうも循環式になっていて、いい方へ回るとさらによい方に回るようになり、逆に悪い方へ回ってしまうと、どんどん悪い方へといってしまいがちです。
なので最初のひと転がしふた転しをいい方向へむけるか、うまく回っていないときはいい方へと切り替えるなんらかのきっかけが必要なのでしょう。
いまは子育てというものが難しく感じられるようになってしまっていて、闇夜に手探りで雪だるま作りをしている人や、一生懸命に頑張って難しい方へと転がしてしまっている人、ここまではなんとか持ってきたけどにっちもさっちもいかなくなってしまったという人が多いのだと思います。
そしてその難しさを大きく捉えてしまうので、どこから手をつけたらいいかわからない、どうやっても自分には無理というように感じてしまうこともあるのだけど、本来は子育てというのは単純なもので、テコでも動かないなと感じていたようなことが、些細な気づきやちょっとした関わりで回せることもあります。
たとえば「くすぐり」のようにね。
このブログを読んでくれる人の中には、何冊もの育児書や育児雑誌、さらには専門的な子供関連の本などを読んでいらっしゃる方もいます。
それでもここで書かれていたことが一番役に立ったと言ってくれます。
多分、今求められているのは、そういった単純で些細なきっかけなのかもしれません。
| 2014-06-05 | 子育てノウハウ? | Comment : 9 | トラックバック : 0 |
『お約束』 - 2014.05.28 Wed
もちろん、それが絶対によくないというわけでもないけれども、なんかひっかかる気もします。
「お約束したでしょ!」
「約束したのになんでしてくれないの」
こんなのを小さい子に対して使っている場面にしばしば出くわします。
そもそも、これらは本当に「約束」として使われているのかな?
例えば、「あれ買ってこれ買ってとごねるならスーパーに連れて行きませんよ。そうしないと約束できるのなら連れて行きます」のように、使われていたりしているわけですけど、
まあ、たしかに「約束」には違いありません。
でも、世間一般にも約束というのはいろいろあるわけですが、こういう種類の約束というのは「片務契約」というやつで、一方だけが他方に義務を負い、他方はフリーハンドというやつです。
(↑のケースでは、「連れて行く」という点で相互のようでもあるが、誰かが子供の面倒を見なければならないというのは大人の責務としてすでに定められているので、実は対価にはできない)
これを国家間でした場合は、不平等条約となります。
みなさんも日本の歴史の授業でならいました領事裁判権(治外法権)撤廃と関税自主権回復なんかが有名です。陸奥宗光と小村寿太郎ですね。
まあ、それはどうでもいいのですが、ようするに「約束」という形をとった、一種の押し付けもしくは命令なわけです。
いや別に買い物に行くのにごねないことを要求してはいけないという話をしているわけではないですよ。例え話ですからね。
それはそれでいいのですが、この種の「お約束」という使い方には、「やさしさ風味」で見たようなのにも似た、大人の都合のいいようにオブラートをかぶせただけという点があるということです。
なので、「お約束」でもって子供の適応的な姿を求めていくというある種の子育ての手法というものには、実は大人と子供のあいだの信頼関係をわずかづつでも使い潰していくような側面というものがあるように僕には感じられます。
子供が守らなかった時に、それでもって責めることを前提に罠を仕掛けるというようなニュアンスがありますので。それは信頼のなせるわざではないわけです。
なので多用したり、「あなたは約束を守らなかった」とそれでもって子供を責め立てていくのは多分結局のところプラスにはならないだろうと思うのです。
そのような関わり方をするのであれば、よっぽどそのまま「ごねられたら私は困るの ムキー」と素直に怒ってしまうほうがいいような気がします。
まあ、ケースバイケースではあるのだけどね。
ルールとして明確に定まっているものを「それは約束だから」と伝える分には、そのまま完全に正当なものだと思います。
例えば、「図書館は走ったり、大きな声をださないところです、守ってください」という意味合いで「お約束」ならば、その通りです。
でも、大人から見た適応的なものを子供に求めるために、大人がいろいろと自分に都合のいい「お約束」を作り出していくのは、それとはちょっと違うのです。
| 2014-05-28 | 子育てノウハウ? | Comment : 13 | トラックバック : 0 |
苦手を決めつけない - 2014.03.11 Tue
これが実においしくできたんです。
夕食に焼いて出したところ、兄は魚好きなので普通に食べましたが、むーちゃんは一本食べて「もう一本いる?」と声をかけるもあんまり浮かない顔で、「ううん、むーちゃんもういい」と。
ややワタの苦みもあるし、まるごとなので背骨や小骨もあるので、まあそんなものかなと「うん、そっかー」とそのまま受けました。
しかし、数日してまた出すと、今度は味に慣れたせいかおいしさがわかったみたいで、自分からとって食べていました。
僕はしばしば子供に対して「肯定も否定もしない」という姿勢を用います。
上の例だと、「うん、そっかー」という部分です。
そのまま、ありのままを「受けるだけ」にしています。
食事のことに限らないけど、世の大人たちが子供に対して、「うちの子それ苦手なので」「それできないので」と先回りして決めつけてしまうのをときどき見かける。
僕はこういうのを「もったいないなー」と感じます。
子供の姿・成長というのは今が終点ではありません。つねに過渡期にあります。
今日苦手であっても、明日はそうではないかもしれない。
でも!
大人が「ああ、あなたはこれが苦手だよね」と言ってしまったら、かなりの子がそこから自分で足を踏み出そうとはしなくなってしまいます。
本当はそれをクリアできる力がある子であっても、苦手として確定してしまいます。
ある意味では、これは子供の力、子供の成長の伸びしろというものを大人が信じていないということです。
大変もったいないと僕は思います。
今、「子供の尊重」ということ、現代でどうもそのベクトルがずれてしまっていることについて考えをまとめています。
以前ドラえもんでの食事のシーン「親は焼き魚、子供はハンバーグ」というのをあげましたが、「それは苦手だよね」と親が決めつけて、「どうせたべないから」と次の時から食卓に出さないという様子は、今では普通のものとなっています。
こういうことを、子供を「尊重して」「配慮して」「大事にして」という意味合いでしている人もいるかもしれません。
でも、なんかずれているようにも感じます。
そのずれ始めたところをさかのぼって見つけ、そこを見直すことで現代の子育ての不安定さというものを、もしかするとより安定した方へとすることができるのではないかという感触がなんとなくあります。
まあ、そんな大げさなものでもないのですが、近いうちそれをまとめて書いてみようと思っています。
追記
→こちらの記事を書きました
大人と子供の位置 《やさしさ保育園とさばさば保育園の記事・コメントを読み返してみて》
| 2014-03-11 | 子育てノウハウ? | Comment : 12 | トラックバック : 0 |
レゴの車と子供の自信 Vol.2 - 2014.03.09 Sun
実は、昨日のレゴでの子供の姿は、最初は子供について書こうとしてたのではありませんが、ついでなので書いてしまいました。
本当は、ああいったけっこういいものができていてすら自信がもてないで、うまくいくものもうまくいかなくなってしまっているという今の大人の子育てと重なるところがあると思い、それの例としてあげようかと構想していました。
子供のレゴの話と同じように、「子育て」ということも必ずしもうまく出来る必要はないと思います。
自分の作った車がそれなりにうまくできていても、「これでいいのかわからない」「これではこの先失敗してしまうのでは」などと自信がもてなかったり、「ひとのものよりおとっているのでは」と考えてしまったりしてそれを肯定できずにいるのと、
>その子達が作るものより、ずっと大したことのないものしか作っていないのに、「みてみてー、すごいかっこいいのできたよー」と見せびらかしに来て、さらにそれでどんどん遊び込める子もいます。
のように、うまいへたということ関係なしに、そのこと自体を肯定できているのとではあとあと大きく違ってきます。
「車」のところを「子育て」に、「子供」のところを「親」に置き換えてみると、それと同じことが子育てでも起こっているようです。
子供の育ち・成長発達の具合そのものの優劣よりも、親がその状態を自信をもって受け入れているか・肯定できているかということの方が、先々の成長によほど影響を与えるように思います。
子育ての終点は「今」ではありません。
はるかずっと先です。
なにか気になることがあったとしても、そのずっと先で折り合いがついてさえいれば問題はないことです。
なかには放っておいても時間の経過・年齢が解決してしまうこともあるでしょうし、まったくの取り越し苦労ということだってあるでしょう。
もし、なにかその子育てのなかに失敗していることがあったとしても、取り返しのつかないような失敗などというものはそうそうありません。
しかし、いまの現実の中では、そのような子育てに対する「自信」というものが持ちにくくなっているのでしょうね。
>>その子達が作るものより、ずっと大したことのないものしか作っていないのに、「みてみてー、すごいかっこいいのできたよー」と見せびらかしに来て
↑この状態って、子育てに置き換えるとなんだかんだで、「親バカ」という状態かなと思うのです。
「まだまだのところはあるけど自分の子供がかわいくてしようがない」
そういう心持ちが子育てを円滑にしていってくれるのではないかと、いろいろな子供・大人を見ていて思います。
昨日の記事の反響で、お子さんについての萎縮してしまっている姿があるとか、いろんなことに自信をもてていないというコメントが多数寄せられたのだけど、基本的に子供が小さいうちは「その萎縮してしまっている部分」をどうにかしようではなくて、たくさんの笑顔とともに生活して「かわいいかわいい」をしていれば、子供のそういった「全般的な自信」というようなものはいずれ育ってくるのではと思います。
親の気持ちが子供に投影されるということもあるので、親自身が「現状の肯定」・「自信」を持てていないという人の場合だったら、そこも意識して変えていく必要もあるかもしれませんね。
| 2014-03-09 | 子育てノウハウ? | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
レゴの車と子供の自信 - 2014.03.08 Sat
あるときレゴブロックを遣って車を作って遊んでいました。
ある子は、それなりにきちんとした車ができているのに、「それの形が立派ではない、自分にはどうせ立派なものはできないのだと」、萎縮してしまってそこから先の遊びに発展できない子。
なかには手を出す前から、自分にはどうせ満足いくものはできないのだと決め付けてしまって遊びに参加すらしない子もいます。
かと思うと、その子達が作るものより、ずっと大したことのないものしか作っていないのに、「みてみてー、すごいかっこいいのできたよー」と見せびらかしに来て、さらにそれでどんどん遊び込める子もいます。
たまたまレゴを引き合いに出しましたが、もちろんそればかりでなく、粘土や絵、工作や折り紙などの形を作るものを前にしたとき、子供のこういった姿が顕著にでてきます。
前者の萎縮してしまう子と、後者の見せびらかしに来る子の差はなんでしょう?
モノの出来不出来ではないのは明らかです。
ここでの違いの大きな原因となっているのは、「自信」です。
「自分に対する自信」の少なさ、持てなさというものが、子供が本来持っている無邪気さ、前向きさというものをおおい隠してしまっています。
もともとの持って生まれたような気質として、自信たっぷりな子もいれば、自信に乏しい子もいるでしょう。
それならば、よしんば自信に乏しい子だとしても、それはそれでそういう個性なのだというところから出発すればいいだけの話です。
でも、これらの萎縮してしまっている子達の「自信のなさ」というものが、大人の関わり方ゆえだったとしたらどうでしょう。
それは大変もったいないことです。
しかし、こういうケースは少なからずあります。
受容されることの少ない子、肯定されることの少ない子、否定されることの多い子の中には、こういったものごとに自信をもって取り組めずに萎縮してしまう子がいます。
子供の成長の中で重要なのは「自信」です。
大人はどうしても目に見える形での結果を子供に求めてしまいがちですが、子供は成長の過程にいるわけですから、多くのことが「まだ」できなくても大した問題ではありません。
それに取り組む意欲さえあれば、それがいずれは結果をつれてきます。
その意欲となるのが、この「自信」です。
小さい子が工作などをすると、大人の目にはなにかをぐちゃぐちゃと丸めたようなだけの、まるでゴミのようなものすら作ってきます。
それに対して、大人が「こうすればもっとよくなる」と教えなくても、そうやって遊ぶことが好きでさえいればおのずと子供は成長に応じてその子のそのときなりのものを作るようになっていけます。
いくら立派につくれるようになったとしても、それが好きでなくなったり、自信がなくなったりしてしまえば、そこまでで終わってしまいます。
極端な話、なにかをうまくできなくとも、それを嫌い・苦手にさえしなければそれなりに問題なく成長していけるものです。
| 2014-03-08 | 子育てノウハウ? | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
《プラスの関わりとマイナスの関わり》 Vol.2 - 2014.03.06 Thu
これまで「マイナスの関わり」が多くなってしまっていた人は、子供の良くない部分を見てそこを指摘することがクセになってしまっています。
クセを変えるのは少々大変かもしれないけど、大人の自分自身の行動の部分ですから意識さえきちんと持てばできないことではないでしょう。
「子供の良くない部分を見てそこを指摘すること」これの逆というのは、つまりこれまでにも何度も書いている「認める」ということです。
これは過去記事を検索するといろいろ見つかると思います。
一応参考のひとつとして『Fがない』をあげておきます。
例えば、子供がなんかしてくれたとき、子供の顔をちゃんと見て笑顔でにっこり「ありがとう」と言う、こんなことも「認める」という行為なのです。
「ありがとう」というのは、単にお礼の言葉というだけでなく、あなたの行為を「認める」ということであり、ひいてはあなたの存在を「認める」ということになります。
生活の中にそういった部分がたくさんあると、自然と認めるということができていいきますよね。
わざわざなにかをしなくとも、マイナスの部分を見る関わりでなく、プラスの部分を見る姿勢を大人がもっていると、これまでに普通にしていることのなかにもそういう部分はけっこうあるものです。
ないなら作ったっていいのです。
例えば、おむつ替えの時おむつを持ってきてもらったり、ズボンを脱がす間手に持っててもらったり、そんなちょっとしたことでも、「ありがとねー」って笑顔で言ってもらえれば子供にとってはとてもプラスになるものです。
「いいよー」に関してもですね。
最初っから大人が、子供を「誘導してやろう」というような気持ちで使ってしまうと、これはやっぱり子供はなにかひっかかるものを感じるのですね。
なので、元の記事には「魔法の言葉」などとオーバーな言葉を使っちゃってますが、それで子供が「大人の思い通りに誘導される」ということではないわけです。
子供にマイナスの関わり方・言葉掛けをしてしまうところを、子供の自発的な行動へと切り替えることによって、同じ場面でもそれをプラスの方向に変えていけるというところがキモになっているのです。
なので、結局「いいよー」も「誘導してやろう」という意味合いで使ってしまえば、さほど意味がありません。
こういった関わりは、普段から自然体で使えているといいと思う。
「モイッカイ、ホンヨンデー」 「いいよー」
「オカワリチョウダイ」 「いいよー」
「ダッコシテー」 「いいよー」
といった、普通のいい場面で使っている言葉であるから、なにか子供に行動を促すようなシーンで使った時も、それをすんなりといいものとして受け取っていけるのではないかと思います。
また、誘導しようとして「いいよー」を使っているわけではないので、それで子供が従わなかったとしてもそれはそれでいいのです。
「かわいい子供にしよう」「よく笑う赤ちゃんにしよう」といった記事がブログの昔の記事にもありますが、この第二回目に先立つ第一回のお話が「子育ての第一の目標はかわいい子を目指すことですよ」という内容でした。
これも実は、生活・子育ての中に「プラスをたくさん散りばめておいてほしい」ということなのでした。
子供が一人歩きをするようになると、どうしても止めたり行動を制限したりということが増えます。
これは当然でしょうがないことです。
でもだからこそ、その前の段階では子供への余計な要求や、心配の先取りをするよりも、たくさんプラスの関わりだけをただ積み重ねるだけでいいのです。
そこでのプラスの貯金が、その後一人歩きをするようになり、さらに2歳になり成長期を迎えるにあたってのさまざまな関わりの中で生きてくるのです。
前回お話した、「プラスがたくさんあって、マイナスが少しだけ意味を持てる」というあれですね。
この講演はちょうど0、1歳対象だったのでこういう構成にしたのですが、別に「かわいがること」に遅いなんてことはないですから、何歳だってそのときからプラスを多くしようとしたって全然いいはずです。
よく「祖父母が甘やかして困る」などといった悩みもありますが、たしかに行き過ぎはよくありませんが、こういう面で忙しい(または叱ったり注意をしなければならない)親に代わって祖父母がプラスの関わりをすることでバランスが取れているというようなこともあるわけです。
| 2014-03-06 | 子育てノウハウ? | Comment : 14 | トラックバック : 0 |
《プラスの関わりとマイナスの関わり》 - 2014.03.05 Wed
実は先の原稿は、講演の尺の関係で本当は伝えたい部分を一部はしょってしまっています。
>では、どう関わっていったらよいでしょうか。
以下の、「プラスの関わり」についての解説部分です。
文中では「いいよー」の部分を主軸に話を進めてしまっています。
口頭で伝えるという性質上、焦点を集約してしまったほうが理解してもらいやすいので、「いいよー」を話の中心に持ってきてしまったのですが、本当は「プラスの関わり」というものがあって「いいよー」はその中のほんのひとつの関わり方に過ぎません。
なので「いいよー」さえ使えば、それで万事丸く収まるというものではありません。
特に、すでに子供の姿が手に負えなくなりつつあるという人が、いくら生活の中で「いいよー」を多用したからといってそれで好転するということはないでしょう。
この講演は対象者がほとんど0歳1歳のお子さんのお持ちの方ばかりでしたので、本当にそのような意味での手がかかるようになる前の段階のお子さんということもあり、「いいよー」という気持ちのニュアンスに重点を置いたところで話をすすめてしまいました。
ですのでここではその部分を補えるよう、その「プラスの関わり」の部分について手に負えなくなりつつある子への対応ということを想定して、具体的に以下に追記したいと思います。
まず、第一に「注意や制止・叱る」といった行為を必要なときに使う分にはかまいませんが、それで子供の姿が良いものになるわけではないということを理解しましょう。
これらは、手に負えなくなりつつある子供にとっては、結局のところ「マイナスの関わり」になってしまうからです。
かと言って、すべきでないこと、危険なこと、人に迷惑をかけるような行動をしているときにも、野放しにしてよいということではないですよ。
そういうときは必要があってするのですから、躊躇することはありません。
毅然と自信をもって対応しましょう。
「叱ることはマイナスの関わりだから、これをしたらよくないのではないかしら」などとおっかなびっくり、関わりに自信を持てずにしていたら、その大人の弱さがさらに子育てを大変にしてしまうことになります。
「毅然と自信をもって」です。このことは大変重要です。
ただ、本当の意味でそれらの「注意・制止・叱責」などが子供に適切に伝わって、その子の身になっていくためには、たくさんの「プラスの関わり」があった上で少量の「マイナスの関わり」が必要なときだけ出てくるという状態が必要なのです。
よく、「難しい人にお願いをするときは、相手の話を10コきいてから、ひとつお願いをするくらいがいい」などと言われますよね。
そういうのと同じように、「プラス」が10コ先にあってはじめて、ひとつの「マイナス」が子供の力になるというような認識でいいと思います。
つまり、手に負えなくなりつつあるという状態にあったら、まず「マイナスを減らし、プラスを増やす」という状態を目指すことが大切です。
そのためには、
ハードルを下げてしまう《子育ての大変を変えていくために》
の記事に書いたように、生活の枠組み自体を見直してしまうというようなことも有効です。
「注意・制止・叱責」をたくさんしなければならないという状態にある子は、もしかすると大人によって子供がそうせざるをえない状況を作られてしまっているのかもしれません。
例えば、他児と関わるところにいくと、他児を叩いたり、モノをとったりすることが多くて、どうしても制止などの「マイナスの関わり」が多くなってしまっている人は、その「他児と関わる所に行く」という前提条件自体を見直ししてしまえばいいのです。
そういうところにいくから子供は制止される行動をとってしまうし、大人は制止しなければならなくなってしまっています。
もうすこし成長したり安定したりして、そういう行動が減ってからいくようにしたって遅くないのです。
また例えば、「このおもちゃがあるといつも兄弟で取り合いになってしまって毎回叱られている」というような状況があるならば、そのおもちゃを子供の見えないところにしまってしまうというようなことをして、そのマイナスの関わりをせざるを得ない原因を減らしてしまうのです。
こういった見直しをすることによって、まずは「マイナスの関わり」をしてしまう部分を、子供そのものを変えることではなく大人の配慮によって減らしてしまうのです。
子供を変えることは一朝一夕では行かないこともありますが、大人の前もっての配慮でしたらそこは大人の意識次第でどうとでもなることですよね。
注意や制止、叱責が多くなっている人は、子供のそういった部分を見つけ出すような関わりがクセになってしまっている人もいるので、このような枠組み自体の見直しをするのはとても有効になります。
本当にそういう粗探しのような子供への見方がクセになってしまっている人は、ちょっと意識をセーブして、ちょっとしたようなことには目をつぶってしまったり、これまで言い続けてきて何の効果もないような言葉だったらいくら重ねても全く意味のない「マイナスの関わり」にしかなっていないような場合もあるので、あえて言わないというような対応・大人の姿勢も場合によっては必要かもしれません。
(このことは子供へのアプローチを放棄したというわけではなくて、マイナスの多い状態で意味のないマイナスを増やすくらいならば、その状態をすこしでも是正するために相対的にマイナスを減らしプラスの多い状態に持っていくための手段としてあるのです)
そして当然ながら、この「マイナスを減らす」ということと同時に「プラスを増やす」ということが大事です。
「プラス」の一番の基本は、「受容」です。
これは過去記事にたくさんあることですから、細々書きませんが「かわいがってもらうこと」が子供の育ちにはどうしても必要なものなのです。
かわいがったり、笑顔を向けたり、抱きしめたりなどの、気持ちよく一緒に時間を過ごすという経験を大事にしましょう。
つぎに「あるがままを受け入れる」こと。
最近の記事ですと『子供は欠如体ではない』
にこのことは詳しく書かれています。
子供は大人に認めてもらっていない・今ある姿を受け入れいてもらっていないと感じていると、その満たされない気持ち・不安感からどうしてもネガティブな行動が増え、結果的に「注意や制止」のマイナスの関わりが増えることとなってしまいます。
逆に、自分を認めてもらっている・今の姿を受け入れてもらっていると感じていれば、ネガティブな行動は減り、かわいい姿を出しやすくなります。
あとになれば必ずできるようになるようなことを、今望むことで子育てのハードルをあげてその結果、子供が安定しなくなるというようなことは、本当につまらないことです。
あるがままの姿を認めてあげることで、子供は安心してその子のペースで前向きに成長していくものなのです。
ここまでが心構えの部分です。
つぎからは実際の関わり。
長くなったので、つづく。
| 2014-03-05 | 子育てノウハウ? | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
やさしさ保育園とさばさば保育園 Vol.2 - 2014.03.03 Mon
必ずしも、ぶっきらぼうに言うのがよくて、「○○ちゃんも、△△だったのよねー。」というような言い方が悪いというわけではありません。
過去記事に、気持ちを受け止めるような言い方をしましょうと書いているところもあるしね。
でも、次に続くところはあんまりよくないかな。
>「でも××したらいやよねー。あなただって××されたらいやでしょ。もし、××されたらどんな気持ちがする?ね、イヤでしょー。」
これだと大人の意思を押しつけているし、誘導しようとしているし、子供によってはあんまり心に響かない子もいるかもね。
さばさばとかぶっきらぼうに言うのだって、本当に意地悪にとか、冷たく伝えるのだったらそれはそのまんま良くない関わりにしかならないし。
前回の記事で伝えたかったのは、具体的な関わり方そのものではなくて、大人の関わる時の姿勢だとかニュアンスとでもいうものです。
例であげたように、良かれと思ってしている関わりが単に「やさしさ風味」になっているだけという人も少なくないので前回のような記事を書きました。
このことに限りませんが子育ての多くのことが、良いとされる行動だけなぞればそれでいいというものではありません。
しかし、そういったニュアンスというか心持ちのちょっとした部分というのを文章で表していくのは難しいんですよね。
例えば、成長期の時にグズグズにはまってしまったり、なりそうな子供の気持ちを他の物に向けることで切り替えたりするというようなことも、使い方しだいで「ごまかし」と紙一重です。
でも、それをする人が、「子供なんかごまかしてなんぼ」と思ってしているのと、「できるだけストレートに伝えたいけど、今回はしょうがないな、ウン」と思ってするのとでは、ほんとにニュアンスの違いだけなのだけど、実際の関わりとしてはずいぶんと変わってくるものです。
「これをしなさい、あれをしちゃいけない」というようなことで子育てを埋め尽くしていくことがいいとは思わないので、そういう窮屈な子育てをすることもないけれども、「子育てに嘘をつく必要はない」というのを努力目標として捉えていくようにしていけばいいのではないかな。
| 2014-03-03 | 子育てノウハウ? | Comment : 14 | トラックバック : 0 |
やさしさ保育園とさばさば保育園 - 2014.03.02 Sun
ひとつは、子供たちにいつもやさしく暖かい感じで接しているところ。
もうひとつは、子供たちへの対応もさばさばしていて、見方によればぶっきらぼう。
仮に前者をA、後者をBとしておきましょう。
それだけを見れば、Aの方が良い保育をしていると感じるかもしれません。
しかし、よくよく子供たちの様子をみていると、Aのほうはむしろ子供たちがゴネたり、グズったり、他児とのトラブルも多かったりするのです。
局面的にだけではなく、全般的にそうなのです。
なぜでしょう?
さばさば・ぶっきらぼうなBの方が、そのような子供たちの不安定な様子がずっと少ないのです。
その両者には、ぱっと見の様子からはわからないなんらかの違いがあるはずです。
その違いとは一言で言ってしまえば、「Bの方が嘘がない」ということです。
Aのやさしさ保育園の方では、いかにも子供向けな声色をつかって話したり、子供にやさしく言い聞かせるような話し方をしています。
それらは、「子供を大切にする」とか「子供を尊重する」という思いでそのようにしているのでしょう。
でも、正味のところでは実はそれらはそのように機能してはいません。
例えば食事の場面を見てみましょう。
そこの保育士は子供たちにたくさん食べさせようと一生懸命子供に働きかけています。
苦手なもののある子に、「ほうれん草もおいしいよ、(まだ食べていないのに)えらいなー食べられる○○ちゃんえらいなー」と優しく笑顔で言っています。
それでも「イヤダーイヤダー」と泣いている子に、
「そうだよねー食べてもらえなかったらほうれん草さんイヤダよねー」
と言いながら、泣きわめいて開いている口に、ほうれん草を放り込んでしまっています。
それでさらに赤い顔をして泣いている子に、「えらいなーちゃんと食べられて○○ちゃんえらいなー」
Bの方では例えば、真顔でぶっきらぼうに声色をつくることもなく「残さずたべなさい」と言い放ったりしています。
これは例え話ですので、事細かに事例をあげませんがAではこのようなことを、多くの場面でしています。
BはBで多くの場面で同様の対応をしています。
Bは傍目にはぶっきらぼうでそっけない対応のように見えるのだけど、「嘘」がないのです。
Aは一見、優しく暖かい関わりをしているように見えるのだけど、その実、ごまかしやおどし・誘導などのたくさんの「嘘」があるのです。
大人だってそうですが、誰かに自分のことを思い通りにしてやろうと接せられるのはとても嫌なものです。
1、2歳の乳児ですら、それはそう感じますし、また、そのように関わられるのを敏感に感じ取りもします。
なので、そのような抑圧された気持ちや不満を、なんらかの形で放出しなくてはならなくなってしまいます。
それゆえに、つまらないところでゴネたり、グズったり、他児とのトラブルという形で出すことが必然的に多くなってしまうのです。
しかし、そこでのゴネやグズリに対して、またごまかしなどの対応をされてしまうので、なかなかそれらは根本的に解消することがありません。
そのようななんとはなしに納得のいかない気持ちを抱えたまま、子供たちはそこでの日々を送らなければならなくなっています。
しかし、そこにいる保育士たちは、良かれと思うことを一生懸命やっていると考えているので、その事実にはずっと気がつきません。
また、正味のところで嘘があることのほかに、やさしさ保育園にはもうひとつ、子供たちがゴネたりグズったりして大人を困らせるようになってしまう理由があります。
それは、さまざまな行動を身につけるにおいて「混乱」があるということです。
Bのさばさば保育園では、子供がなにか「すべきでない・困る」行動をしたときに、「なにやってるのっ」と不機嫌な顔をして言われてしまうのに対して、
Aの方では、「○○ちゃんも、△△だったのよねー。でも××したらいやよねー。あなただって××されたらいやでしょ。もし、××されたらどんな気持ちがする?ね、イヤでしょー。」などなど、と笑顔ですが毎回くどくどと言われます。
これも一見Aの方が丁寧な対応をしているように見えますが、このようなクドクドした対応はその実、子供にはわけがわからなくなってしまうのです。
Bの方が、子供が自分のした行為に対して大人の取った反応というのが明快な形で伝わっています。
次に取るべき行動を学ぶという点からして、優しくであろうと、笑顔で言われようと、明快でない対応というのは子供にとって混乱を招くのです。
なので、なかなかそこでの経験は次に生かされにくくなってしまいます。
さて、こういうような保育になってしまっているところは実際ありますが、今回の話は例え話です。
なぜ例え話かと言うと、このAのような対応になってしまっている親がとても多くなっているからです。
「子供を大事に・子供を尊重して・子供に優しく」そういう思いでしている関わりが、その実、子供との関わりに「嘘」をたくさん持ち込んでしまってはいないでしょうか。
それではいくら「一生懸命子供と接しているはず」と思っていても、それは空回りに終わってしまいます。
「子供向けの対応」はときに「子供だまし」でしかなくなってしまうこともあるのです。
そうなってしまうくらいならば、ぶっきらぼうであっても「嘘」がない方がずっといいのです。
ちなみに、Aの保育園でもBの保育園でも、子供たちはそこの保育士を慕っています。心根が意地悪な人だった場合そうではありませんが、根っこのところで子供のことを大事にしてそうしているのならば、AでもBでも子供は信頼して慕ってくれます。
しかし、Aの場合、子供たちが慕ってくれていることで安心してしまって、本当の意味では子供を尊重していないということに保育士は気づかなくもなってしまうのです。
子供の方の純真な期待や信頼があるからこそ、本当は理不尽な対応をされても我慢し、それでも子供はそこの大人を慕っているのです。
それはある意味では、子供たちの期待や信頼を逆手に取っているということにもなりかねません。
保育士などへ向ける信頼よりも、親へ向ける信頼というのははるかに大きいですから、気をつけなければ親はずっと簡単にそして長期間それを行えてしまいます。
| 2014-03-02 | 子育てノウハウ? | Comment : 15 | トラックバック : 0 |
地域事業 第二回 原稿 《子育てを無理のないものに》 - 2014.02.19 Wed
その「積み重ね=関わり」の方向性は、子供が小さいうちに良いやり方を見いだせてしまうと、その後の子育ても円滑に運んでいきやすくすることができます。
そしてその分かれ目が一番最初に現れてくるだろうというのが、赤ちゃんから乳児になる頃、親が子供に言う事をきかせるのが難しくなってきたなぁと感じ出すようになる頃です。
何歳になってからでも遅いということはありませんが、特にこの時期に子供への関わり方を理解してしまうと、あとあとまでずっと子育てを楽にもっていきやすいです。
そこでできるだけ、この時期の子供の親に子育てのコツといいますか、方向性を示してあげられればと常々考えています。
その場でちょっとした子育てのお話や相談を受けるということになり、そのお話の原稿を頼まれました。
以下、それをほぼそのまま掲載します。
これは二回目の原稿なのですが、なんと一回目の原稿は保存をし忘れてしまったみたいで、探したのだけど見つかりませんでした。(泣)
一回目の内容は、ブログの過去記事で何度か述べているような、子育ての第一の目標というのは「かわいい子供」にすることですよというのと同じようなことです。
「子供が赤ちゃんから小さいうちは、ひとみしりだとかしつけだとか、他人の評価だとかつまんないことは考えないでいいですから、あなたから見てかわいい子供にすることですよ。ほかのことはそれからでどうとでもなるから、まずはそこを目指すといいですよ」
というのを、初めて聞く人にもわかりやすくまとめたつもりだったのですが、なくしてしまって残念です。
まあ、ブログの過去記事を読んでいれば、大体のことはどこかに書いてあるはずなので、内容的には以前から読んでいる方には初見のことはないと思いますので、二回目だけでも問題はないかと思います。
といっても、この二回目の内容も全て過去記事にあることなのですが。
ではちょっと長いですが、以下がその内容です。
前回は、子育ての第一の目標は「かわいい子供にしよう」というお話をしました。
今回は、その次の段階として少し具体的な子供との関わり方についてお話していきます。
子供が赤ちゃん赤ちゃんしているときは、まだ「かわいいかわいい」で済んでしまいますが、立って歩くようになり、さらには走り回るようになってくると、それがそうばかりも言っていられなくなってしまいます。
この時期からの対応しだいで「子育てが楽しい」という人と、「子育てがしんどい」という人の分かれ目がでてきます。
人によってはこのころから、子供に対して否定や制止の言葉、注意などが多くなります。
ここに、子育てを楽しくするかしんどくするかのポイントがあります。
多くの人がこの時期からの子供の自由奔放な姿に対して、子供のその行動を止めようとしたりする注意や規制の対応、叱ったりや怒るなどが多くなっていきます。
なかでも特に「ダメ」という言葉が大変多くなります。
この言葉は、実はかなり強い響きがあるのですが、否定や注意・制止としてたくさん便利使いされてしまっています。
さらには「○○させないため」にと、大人はおどしやごまかし、もので釣るということを使ってしまったりもします。
もちろん安全を守ったり、大切なことを伝えるために、制止や注意などを使う必要があることもあるでしょう。
しかし、気をつけないと子育てを難しくしてしまう落とし穴がここにあります。
それは、多くの人が「すべきでないことを子供に指摘していくことによって、子供は正しい行動をするようになる」と漠然と考えてしまっている点です。
要するに、注意や制止をそのつどたくさんしていれば、子供はそのうちそういわれるようなことをしなくなると思い込んでしまっていることです。
実は、子供はすべきでない行動を止めるだけ、させないだけで、大人から見たときの好ましい行動を身につけるわけではないのです。
大人がそのままこういった規制や制止・注意ばかりを日常の中で増やしていくと、当の大人自身も子供との関わりに疲れてくるし、関わる際の余裕もどんどん失われていきます。
そうなってしまうと、子供を「かわいい」などと思って見守る余裕もまたなくなってしまいます。
また、子供の方も、注意や規制といった自分を押さえつける対応ばかりをされていると、返って大人の言葉に耳を貸さなくなったり、押さえつけられることは居心地がよくないので大人の意図に従わない行動が多くなります。
これが繰り返されていくと、子育ては本当に大変になってしまいます。
大人だって、例えば職場で上司から毎日なにかにつけて何度もダメ出しされていたら、その人の言葉なんか聞きたくもなくなってしまいますよね。
この子育ては言ってみれば、子供のマイナスの部分に注目・着目して関わっていく子育てと言えます。
日本人は真面目な人が多いので、子供と関わる経験も知識もないまま子育てをするようになると、この注意などをたくさんするという「マイナスの関わりの子育て」になってしまいやすいです。
また、子育てを「しつけをしっかりしなければ」というスタンスで考えている人もそうなりやすいです。
実際、多くの大人がこういったマイナスの部分を指摘されるのが中心という、かつてからの子育てをされているという理由もあるでしょう。
では、どう関わっていったらよいでしょうか。
マイナスの反対はもちろんプラスですね。
そのプラスの関わりをするようにしていくのがコツです。
プラスの関わりとは、子供の良いところや、現にできている部分を見て、そこを認めていく関わりです。
先ほどのマイナスの関わりを重ねていくと、それはどんどん悪循環になっていってしまいます。
注意や制止をする → 子供は従わない → 大人は疲れ果てる → 子供は満足しない → さらに注意や制止が必要な行動に
こういった悪循環にはまると、大人はいい部分を見る余裕も失われて、さらに子供の注意する点を探すような関わりにおちいってしまいます。
だから、プラスの関わりにするための良い部分をみるようなこともできなくなってしまいます。
まだみなさんはお子さんが小さいですから、そういった本格的な悪循環にはなっていないと思います。
今からプラスの関わりで子育てを形作っていくと、子育てを楽しいものとしていくことができます。
では、具体的なプラスの関わりについて、簡単に説明します。
さっきは「良いところを見る」と言いましたが、それだけではなかなかプラスの関わりは作っていけません。
子供が良い姿を出してくれるのをまっているだけではうまくいかないからです。
大人の方からプラスの部分を作り出せるような関わりをすると、それをよい循環へもっていくことができます。
そのためにとっておきの魔法の言葉があります。
それは「いいよ~」です。
この「いいよー」を忘れずにうまく使っていくと、それまでマイナスの関わりをしていたところでも、プラスの関わりに転じていけます。
例えばの話ですが、それまで「ここではあそぶな」という規制の関わりをしていたところに、「ここだと通れないから、あっちであそんでいいよー」に変えてみます。
この「いいよー」は指示や命令とはちょっとニュアンスが違いますね。
この「いいよー」は提案の形になります。
これにすることで、子供は自分のとる行動について「考え」自分で「選択する」というプロセスを持つことができます。
ひとつひとつは小さくても、行動のたびに「考える」と自分で「選択する」ことを積み重ねていった子供は、そうでない子供にくらべてずっと大人の言葉を意識して聞くようになります。
そして、行動も落ち着いたものになります。
遊びから食事にさそうにしても、「ご飯になるから遊びを終わりにしなさい」というよりも、「ご飯になるから座ってまってていいよー」とか「手を洗ってきていいよー」などとも言い換えられますね。
とくに、この「いいよー」が力を発揮するのは、それまで「ダメ」などの制止の言葉で子供を動かそうとしていたところを「いいよー」に変えられるところです。
例えば病院の待合室で、子供が動き回ってしまう時「そっちへ行ってはダメ」「座ってなさい」などの言い方をする前に、「ここで遊んで待っていていいよー」と行動の選択肢を提示することができます。
そして、それができたとき「静かに待っていてえらかったね」などとプラスの関わりをそこですることができるのです。
このプラスの関わりは積み重ねとなって、子供の行動を自発的に大人の好ましいものへと導いてあげることができるようになっていきます。
もし、それができなかったとしても、そこから「病院では走りません」や「病院では静かに待ちます」などと必要な注意や指示を毅然と伝えていけばいいのです。
ここで大切なこと。
「いいよー」などの関わりで子供が好ましい行動をとったならば、大人はそれに対してきちんと「認める」リアクションをとることです。
さっきの例で言えば、好ましくないところで遊ぶことをやめ、好ましいところで遊ぶことができたのならば、「ちゃんとわかってえらいね」など、その姿を大人は認めてあげるのです。
するとそこに、大人の好ましい行動をとれたというフィードバックが生まれます。
このことは大人の言葉を聞こうというモチベーションになります。
それによって次も大人の気持ちを考えて行動しようと子供は思えるようになります。
これを小さいうちから積み重ねていくと、子供の姿は大きく変わります。
身の危険があるようなときは別ですが、もし注意や規制・指示などの行動を大人がとるにしても、この「いいよー」をして子供が自分で動くのを待ってみて、待ってみても自分でそれができないときにしてからでも遅くはありません。
もちろん「いいよー」だけでなくともプラスの関わりはいろいろできます。
子供に歌を歌ってあげたり、絵本を読んだり、微笑んだり、一緒に笑ったり、楽しく遊んだり、一緒にご飯を食べておいしいねと言い合ったり、そんな親子の心地よい時間の多くが、ひとつひとつは小さいけれど子供にとってのプラスの関わりです。
プラスの関わりをたくさんしていくと、そうでないときにくらべてずっと育てやすい子供になっていきます。
今日は、これからの子育てを楽しいものにするために、マイナスの関わりよりもプラスの関わりを増やしていこうというお話でした。
○今回の要点
・マイナスの関わりよりもプラスの関わりを
・子供のプラスは大人の対応しだいで作りだせるということ
・「ダメ」と簡単に言ってしまうところを、子供に考えさせる言い方で
・「認める」というフィードバックを忘れずに
| 2014-02-19 | 子育てノウハウ? | Comment : 17 | トラックバック : 0 |
子供の上限を決めつける - 2013.08.12 Mon
多くの人に共通して、「まだ小さいから」「子供だから」「どうせわからないから」「言ってもしないから」というような「決めつけ」があるのを感じます。
大人が言葉や態度で示したとしても、「どうせそれにしたがえないので、大人の手を増やすしかない」と考えてしまうようです。
なかにはそういう子もいるでしょう。
発達上の問題がでていたり、なにか特徴が強く行動に現れていたりするとそれはあります。
ですがそうしてしまっている家庭の多くが、それらにはあてはまっていないようです。
こうして大人が子供を「どうせ○○できないと決めつけること」、つまり大人が勝手に「子供の能力の上限を決めつけてしまうこと」はひとつの悪循環を生み出します。
このように大人が「子供はここまでしかできないのだ」と考えて、子供の「大変さ」に常に見合うような大人の手や手数を増やす対応をしていくと、子供は本来ならばそこで学ぶべき、自分でその行為をするだとか、待つという経験や、我慢するなどの経験もせずに成長していくこととなります。
これをたくさん積み重ねていくと、もともとは大人が決めつけて「させなかった」ことが、本当にその子にはできないことになってしまいます。
大人が決めつけをしてそれに見合う関わりをしてくと、本当に子供は「大人が決めつけた」ところまでしか成長していかないのです。
つまり、大人の思い込みで「子供の育ちの上限」をつくってしまうのです。
ですので、こういう悪循環になってしまっていると、「小さいうちはわからないから、できなくてもしょうがないわね」と考えてそのように対応しているほど、年齢が上がってもずっとできないままというようなほとんど横ばいの成長しかしてくれなくなってしまいます。
だから、こういった大人の対応は、「育ちを奪う」ものだと僕は思っています。
子供にかけられる手が多いというのは悪いことではありません、子育てというのは一人でするものではないと僕も考えています。
しかし、この問題とそれとは違います。
「子供を一人では見きれないから、人手を増やさなければならない」という状況に、もしなっていたとしたら、それはなにか問題があるということです。問題というと大げさかもしれないので、なんらかの「まずさ」とでもいいましょうか。
大人の子供への関わり方に、もしくはこれまでの積み重ねに、子供のおかれた状況(環境的や精神的など)に。
もしくは子供の発達上の難しさや問題がでているのかもしれません。
子供の様子に直面してそこをきちんとみつめることも、子育てにおいてはまた大事なことです。
大変だから手を増やすことで安易に乗り越えてしまう前に、今までの子育ての仕方や子供の様子に注目してみるきっかけとしてみることも必要ではないかと思います。
「たくさんの大人で子供に関わる」ということと、「たくさんの大人がいないと関われない」とはまったく違います。
でも、この「たくさんの大人がいないと関われない」状態が、子育てというものなんだと思ってしまっている人が大変多くなっています。
子供に関わる経験の少ない現代ではこう思ってしまうことも無理からぬ面があるのかもしれません。
保育園に通っている家庭でもとても増えています。
・母親一人では、園までつれてこれないので父親や祖母など二人でないとこれない
・一人では登園させて、その持ち物の用意までできないので、一人が登園させたら、一人が時間差で持ち物の仕度だけくる
・家にいても大人ひとりでは、子供をみながら家事ができないので、誰かに家事をしてもらうか、子供のめんどうをみてもらわなければならない
などなど。
確かに、子育ての中には大変なことはあります。
一人では手が回りきらないこともあります。
でも、それはそういう状況に直面しても、まずは少しずつ乗り越えていこうとすることです。
それを当たり前として、大人がそれを乗り越えたり、子供に成長させて乗り越えさせたりすることもなく、そのまま「大変さの大きさ」に合わせて、それを押さえつける大人の手だけ増やしていたら、子育てはどんどん難しいものとなっていってしまいます。
こういう状況はとくに「弱い大人」タイプのひとにとても多いです。
「どうせこの子はできない」と決めつけてしまっていることが、実は大人が勝手にそう思い込んでいるだけだったり、大人がそうさせるだけのすべや自信・強さがないので、そう考えることに逃げてしまっているということも感じます。
このように子供の「上限をきめつける」子育てを積み重ねられてしまった影響は、そのときだけでなく大きくなってからもずっと尾を引きます。
成長期の姿が強くでてしまったり、3~4歳ごろの乳児から幼児への過渡期の葛藤も強くでたり、4~5歳のそれなりに自立が出てくるはずの年齢になっても自分に自信がもてなかったり、対人関係での調整能力が年齢に比して弱かったりなどなど。
世間ではしばしば「子供は小さいからどうせわからない」とかいう言葉を聞きますが、そう考えてしまうことは僕にはとてもこわいことです。
「男の子だから大変」といった世間一般で流布しているある種の決めつけなども心配です。
また、「小さいうちは子供に手をかけてあげないとかわいそう」といった理屈で、ここに述べたような子供の力を低く決めつけた上での囲い込みの対応をしているのをみたりすると、本当に「かわいそう」なのは「子供の成長を奪ってしまうこと」なんだけどなぁなどと思ってしまいます。
現代の子育ての「大変さ」というものの背景には、大人が子供の能力を正しく知っていないことや、それらをひきだせるだけのすべをしらないということが多分にあるように感じます。
| 2013-08-12 | 子育てノウハウ? | Comment : 13 | トラックバック : 0 |
親の思い その2 - 2013.02.13 Wed
「対価を求める親の思い」とは
知らず知らずに、子供に要求や、親の期待の達成を望まれているような思いのことである。
ときには「ほめる」ということにすら、隠れた大人の要求や現状の否定が含まれていることすらあります。
(これについてはこちらとこちらの過去記事参照)
このことは、子供の立場からみるとわかりやすい。
例えば、親が「○○の習い事をやりたい?」と聞いたとしても、そこに親の強い期待が込められていれば、子供は本心はどうあれ「やりたい」ということがある。
これが、普段の関心や関わりが少なかったり、肯定が少なかったり、暖かみのある関わりが少ない親からだとなおさらになる。
なぜなら、そのように親が示した期待・要望に応えることで親からの関心や肯定を求めようとしてしまうからである。
このことを親の立場からみると、「子供のため」「子供が望んだのだから」という認識でいることもできる。
つまり、親自身が子供に対してそこでプレッシャーをかけていたという意識なしにいられてしまうのだ。
そのような状況でも無理なくできればよいだろうが、大人にもオーバーワークがあるように、子供にも頑張れるキャパシティというものはある。
子供が本心では望んでいないことであるならば、そのキャパシティが一杯になるのはさらに早いだろう。
こういった親の思いは、なにも習い事や勉強ばかりとは限らない。
親が子供に望む「あるべき子供像」だったり、「よい子」を求めることなどもときには、子供に見返りを求める親の思いともなることもある。
なぜこれらのことを指摘するかといえば、このような親の期待に応えようと努力することは、子供にとってとても心のエネルギーを使うことだからである。
それゆえに、心に余裕のない状態に置かれ続けていると、日々の子供の様子・育ちへと影響してくる。
多いところでは、無気力や幼さ、萎縮、意地悪などへとつながることも見られる。
こういった子供の姿が、年々保育園の子供にも増えているように感じる。
これらのケースの親に共通して覚えるのは、「子供」へ期待・要求の大きさに対して、「子供そのもの」への関心の薄さというギャップである。
子供への要求や期待は大いにする、そのために習い事や勉強などたくさんのお金もかけはする。
しかし、一方で子供そのものの世話をしたり、関心をもったり、直接関わったりということが、それらに比してあまりに少なく感じるケースが多いのだ。
このアンバランスさというのは、どこかで解消されればよいが、そのまま要求が増大し続けていけば、大きな破綻を迎えてしまわないかとても心配なことである。
| 2013-02-13 | 子育てノウハウ? | Comment : 18 | トラックバック : 0 |
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