本当は誰かの役に立ちたい - 2015.02.24 Tue
子供は自分のことしか考えていないか、というとそれがそういうわけでもないようです。
子供は「子供らしさ」をふんだんにもっていると、素直で、純粋で、子供らしい正義感にあふれています。
「子供らしい正義感」というのは、信頼している人が言ったこと・したことなどを、そのまま「正しいこと」として持っている気持ちです。
そういうものがあるので、人に親切にしたり、なにかを手伝ってあげたりということにも積極的です。
人と関わるのが得意・苦手といった個性によりその出し方はさまざまではありますが。
そういった他者への行動を、子供同士の間で自発的にすることもあれば、大人からきっかけをもらってそれを自分の役割として「したい!」と思うようになることもあります。
人の役に立つことにも、子供はきちんと満足感を見いだすことができているわけですね。
しかし、自分のことで精一杯な子は、なかなかその気持ちに到達しづらいです。
また、普段からたくさん指示や命令・支配されてしまっている子も、あまり他者のための行動に意欲を示しません。
ではどんな子が、人のために行動することに喜びを見いだせるかというと、人に優しくされ大切にされた経験をたくさん持っている子が、そうなりやすいようです。
保育園の子供たちには、年々この「自分のことで精一杯な子」が増えているように感じます。
別の言い方をすれば「満たされていない子」です。
滑り台で遊んでいるだけで、「はやくいけよ」と後ろから突き飛ばしたり、手を洗うのに水道に並んだといったちょっとしたことでも、「ボクのほうがはやくならんだ」「いいや、ボクだ」と言い争いになってしまったり。
クラスの中でそんな子の割合が高くなってしまうと、満たされていて他者に優しい行動を示せる子も、なかなかそのままの形でその優しさを発揮することが出来にくくなってしまいます。
逆だと、ちょっとしたことでも突っかかるような子のほうが、「自分の行動は友達同士の中で許容されないのだ」と感じることができるので、自然と収まりやすいのですが、(そういう子に対しても気持ちを慮ってあげられるようなとても優しい子も出てきます)
同じような子がたくさんいる環境だと、「売り言葉に買い言葉」のようなことが日常茶飯事になって、子供たちだけの集団の関係の中だけでは収まっていきにくいです。
これは年齢が上がれば上がるほど大変さが増していきますので、小学校などでこのような問題が出た場合は随分と対応が難しいのではないかと思います。
「本当は誰かの役に立ちたい」ということは、実のところ大人もそうなのですよね。
大人であっても自分が誰かの役に立っていると感じることは、精神的な満足感、自身の存在肯定を得られることです。
でも、いまの時代は大人も子供と同じように「自分のことで精一杯」になってしまっている状況がたくさん増えてしまっているのでしょう。
仕事も忙しかったり、単に忙しいだけではなくそれがストレスフルだったり、納得がいかない状況でも我慢して働いていたり、時間に余裕もなく、気持ちにも余裕がない、そんな状態で家庭のことや子育てもしなければならない。
子供たちの余裕のなさ、「自分のことで精一杯」になっている原因の根っこをたどっていってみると、この大人の方の「余裕のなさ」がその大元にはあるようです。
子供は「子供らしさ」をふんだんにもっていると、素直で、純粋で、子供らしい正義感にあふれています。
「子供らしい正義感」というのは、信頼している人が言ったこと・したことなどを、そのまま「正しいこと」として持っている気持ちです。
そういうものがあるので、人に親切にしたり、なにかを手伝ってあげたりということにも積極的です。
人と関わるのが得意・苦手といった個性によりその出し方はさまざまではありますが。
そういった他者への行動を、子供同士の間で自発的にすることもあれば、大人からきっかけをもらってそれを自分の役割として「したい!」と思うようになることもあります。
人の役に立つことにも、子供はきちんと満足感を見いだすことができているわけですね。
しかし、自分のことで精一杯な子は、なかなかその気持ちに到達しづらいです。
また、普段からたくさん指示や命令・支配されてしまっている子も、あまり他者のための行動に意欲を示しません。
ではどんな子が、人のために行動することに喜びを見いだせるかというと、人に優しくされ大切にされた経験をたくさん持っている子が、そうなりやすいようです。
保育園の子供たちには、年々この「自分のことで精一杯な子」が増えているように感じます。
別の言い方をすれば「満たされていない子」です。
滑り台で遊んでいるだけで、「はやくいけよ」と後ろから突き飛ばしたり、手を洗うのに水道に並んだといったちょっとしたことでも、「ボクのほうがはやくならんだ」「いいや、ボクだ」と言い争いになってしまったり。
クラスの中でそんな子の割合が高くなってしまうと、満たされていて他者に優しい行動を示せる子も、なかなかそのままの形でその優しさを発揮することが出来にくくなってしまいます。
逆だと、ちょっとしたことでも突っかかるような子のほうが、「自分の行動は友達同士の中で許容されないのだ」と感じることができるので、自然と収まりやすいのですが、(そういう子に対しても気持ちを慮ってあげられるようなとても優しい子も出てきます)
同じような子がたくさんいる環境だと、「売り言葉に買い言葉」のようなことが日常茶飯事になって、子供たちだけの集団の関係の中だけでは収まっていきにくいです。
これは年齢が上がれば上がるほど大変さが増していきますので、小学校などでこのような問題が出た場合は随分と対応が難しいのではないかと思います。
「本当は誰かの役に立ちたい」ということは、実のところ大人もそうなのですよね。
大人であっても自分が誰かの役に立っていると感じることは、精神的な満足感、自身の存在肯定を得られることです。
でも、いまの時代は大人も子供と同じように「自分のことで精一杯」になってしまっている状況がたくさん増えてしまっているのでしょう。
仕事も忙しかったり、単に忙しいだけではなくそれがストレスフルだったり、納得がいかない状況でも我慢して働いていたり、時間に余裕もなく、気持ちにも余裕がない、そんな状態で家庭のことや子育てもしなければならない。
子供たちの余裕のなさ、「自分のことで精一杯」になっている原因の根っこをたどっていってみると、この大人の方の「余裕のなさ」がその大元にはあるようです。
| 2015-02-24 | 満たされた子供 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
子供を子供にする - 2014.04.26 Sat
多くの親の関わり方を見ていてしばしば思うのだけど、子供を一生懸命大人にしようとしているのだなと感じることがあります。
とくに子供への関わりが熱心な人、教育熱心な人などにそれは顕著です。
例えば、フラッシュカードなんかもそうです。
まだなにものもわかっていない0歳、1歳の子にフラッシュカードを使って漢字や英語を覚えさせようとするわけです。
その能力というのは、学ぶのは子供時代だとしても実用に供されるのはそれなりの年齢になってからのことです。
0歳、1歳の子供にまでひと足飛び、ふた足飛びで要求されることを持たせようとしてしまっています。
以前あった(いまもあるのかな?)、子供向け株式投資講座なんていうのはその最たるものですよね。
株式投資などというのは、完全に大人がすることです。
しかし、それを子供に要求しようとする親がいるわけです。
僕からするとこれは異常事態です。
そこまで極端でなくとも、最近では保育園に通う子にも多く見られるようになってきた小学校受験する子なんかもそうです。
別にそれが悪いというのではないけれども、親は子供の将来を考えてとか、子供の可能性が広がるようにとかのスタンスでいるのだろうけど、なんかむしろそれによって子供の可能性を狭めてしまっているようなケースもあるように感じます。
子供っていうのは、まず「子供」にしてあげることが大事なのだと思います。
なんか今の時代は、そこをすっとばして「大人」にするための訓練を子供に課してしまっているかのようです。
今の子供たちを見ていると、「無邪気」でいられなくなっている子が多いです。
子供の無邪気さが最初からないわけではなくて、大人が「大人」にしようとばかりしているので、それに合わせていくうちに、とても「無邪気」ではいられなくなっているかのようです。
「大人」になるというのは、実はそんなに難しいことではありません。
誰でも年齢さえ重ねればなれます。あたりまえなんだけど。(笑)
でも、大人が子供になるということはできません。
子供のうちしか「子供」にはなれないわけです。
たいていの子供は生産性というものを持っていません。
マコーレ・カルキンのように子供時代に莫大な生産性を獲得した子供というのもいますが、まあそれはまれです。ついでに言えば、彼が必ずしも幸せな人生を送ったわけではないというのも広く知られているでしょう。
「子供」というのは、生産性とは無縁な、無邪気な状態であっていいのだと僕は思います。
そしてそこでしか獲得できないものがたくさんあります。
それは当然、お金では換算できません。
でも、現代の大人は子供に「大人」になることばかりを望んでいるかのような節があります。
ルソーが『子供』概念を発見するまでは、現代的な意味での「子供」というのはなくて、「生産性を要求される小さい大人」だったのですが、そこを考えると、いまの「子供」をすっとばして「大人にすること」を求めてしまう子育ての仕方は、ルソー以前の子供に逆戻りを目指しているともとれます。
いまでも子供が兵士にされたりする社会があります。
子供が「子供」でいられるということは、実はとても幸せなことで、大切なことでもあります。
以前事例で紹介した、早期教育を熱心にさせられたけど小学校受験に失敗し、卒園式で突然下着や性器を見せる行動をとったという子は、その後小学生になって山ほどの問題行動を示すようになりました。
これは早期教育だけが問題だったわけではなくて、ただでさえ過重な保育時間に加えて頑張りを要求されすぎたことや、もともとの親の無機的な関わりというものが背景にあったのだけど、これなどもやはり「子供」でいさせてもらえなかったケースのように感じます。
子供はまず「子供」にしようと僕は思っています。
大人にするのを考え始めるのは思春期くらいからでいいのではないかな。
子供時代が充実している人は、大人になっても充実した人生をおくり易いのではないでしょうか。
その逆でも、うまくいくひともいるだろうけど、あとからは取り戻せないことだけに「やり残した感」というのを引きずることになったらそれはその人にとってけっこう辛いことだろうね。
僕は卒園式なんかでスピーチするようなときは、「あなたがたの子供時代が一日でも長く続くことを祈っています」というようなことをいつも話しています。
それは「自立できない大人」としての状態のことではないですよ、もちろん。
屈託なく、無邪気でいられる子供時代というのはそのひとそのひとの人生の代えがたい基礎になることなのだと思うからです。
とくに子供への関わりが熱心な人、教育熱心な人などにそれは顕著です。
例えば、フラッシュカードなんかもそうです。
まだなにものもわかっていない0歳、1歳の子にフラッシュカードを使って漢字や英語を覚えさせようとするわけです。
その能力というのは、学ぶのは子供時代だとしても実用に供されるのはそれなりの年齢になってからのことです。
0歳、1歳の子供にまでひと足飛び、ふた足飛びで要求されることを持たせようとしてしまっています。
以前あった(いまもあるのかな?)、子供向け株式投資講座なんていうのはその最たるものですよね。
株式投資などというのは、完全に大人がすることです。
しかし、それを子供に要求しようとする親がいるわけです。
僕からするとこれは異常事態です。
そこまで極端でなくとも、最近では保育園に通う子にも多く見られるようになってきた小学校受験する子なんかもそうです。
別にそれが悪いというのではないけれども、親は子供の将来を考えてとか、子供の可能性が広がるようにとかのスタンスでいるのだろうけど、なんかむしろそれによって子供の可能性を狭めてしまっているようなケースもあるように感じます。
子供っていうのは、まず「子供」にしてあげることが大事なのだと思います。
なんか今の時代は、そこをすっとばして「大人」にするための訓練を子供に課してしまっているかのようです。
今の子供たちを見ていると、「無邪気」でいられなくなっている子が多いです。
子供の無邪気さが最初からないわけではなくて、大人が「大人」にしようとばかりしているので、それに合わせていくうちに、とても「無邪気」ではいられなくなっているかのようです。
「大人」になるというのは、実はそんなに難しいことではありません。
誰でも年齢さえ重ねればなれます。あたりまえなんだけど。(笑)
でも、大人が子供になるということはできません。
子供のうちしか「子供」にはなれないわけです。
たいていの子供は生産性というものを持っていません。
マコーレ・カルキンのように子供時代に莫大な生産性を獲得した子供というのもいますが、まあそれはまれです。ついでに言えば、彼が必ずしも幸せな人生を送ったわけではないというのも広く知られているでしょう。
「子供」というのは、生産性とは無縁な、無邪気な状態であっていいのだと僕は思います。
そしてそこでしか獲得できないものがたくさんあります。
それは当然、お金では換算できません。
でも、現代の大人は子供に「大人」になることばかりを望んでいるかのような節があります。
ルソーが『子供』概念を発見するまでは、現代的な意味での「子供」というのはなくて、「生産性を要求される小さい大人」だったのですが、そこを考えると、いまの「子供」をすっとばして「大人にすること」を求めてしまう子育ての仕方は、ルソー以前の子供に逆戻りを目指しているともとれます。
いまでも子供が兵士にされたりする社会があります。
子供が「子供」でいられるということは、実はとても幸せなことで、大切なことでもあります。
以前事例で紹介した、早期教育を熱心にさせられたけど小学校受験に失敗し、卒園式で突然下着や性器を見せる行動をとったという子は、その後小学生になって山ほどの問題行動を示すようになりました。
これは早期教育だけが問題だったわけではなくて、ただでさえ過重な保育時間に加えて頑張りを要求されすぎたことや、もともとの親の無機的な関わりというものが背景にあったのだけど、これなどもやはり「子供」でいさせてもらえなかったケースのように感じます。
子供はまず「子供」にしようと僕は思っています。
大人にするのを考え始めるのは思春期くらいからでいいのではないかな。
子供時代が充実している人は、大人になっても充実した人生をおくり易いのではないでしょうか。
その逆でも、うまくいくひともいるだろうけど、あとからは取り戻せないことだけに「やり残した感」というのを引きずることになったらそれはその人にとってけっこう辛いことだろうね。
僕は卒園式なんかでスピーチするようなときは、「あなたがたの子供時代が一日でも長く続くことを祈っています」というようなことをいつも話しています。
それは「自立できない大人」としての状態のことではないですよ、もちろん。
屈託なく、無邪気でいられる子供時代というのはそのひとそのひとの人生の代えがたい基礎になることなのだと思うからです。
| 2014-04-26 | 満たされた子供 | Comment : 33 | トラックバック : 0 |
「ねちっこい甘え」について ― 受容の大切さ ― - 2012.09.29 Sat
『最近の親の意識・あり方の変化 Vol.2』 の事例の中で出てきたこの「ねちっこい甘え」についてですがコメントでどういうものなのですかと質問があったので、ここではそれについて書いていこうと思います。
ですが、その前に実を言いますと、このくだりはあえて具体的に書いていません。
なぜなら、似たような行動というものは、こういった深刻な程度でなくとも普通に出てくることがあります。
そういった似たような行動が我が子に出ている(もしくは我が子にでているととった)場合、その人が過剰に気にしたり、気にやんでしまうことが心配されたからです。
そうやって、自分の子育てや関わり、ひいては自分を否定してしまうことは、子育てにとっても子供にとっても親にとってもけしてプラスになりません。
ですが、現代の子育てのように、孤立した子育てを行っているような状況では、この気にやんでしまうということが大変多いです。
なので、この事例の行動に限りませんが、似ている行動があるからといって、それでどうか自分の子育てや自分を否定しないで欲しいと思うのです。
よしんば、それらが根拠のないものでなかったとしても、否定したり自分を責めたりすることでは何も解決しません。
それどころか、親がネガティブな気持ちになることは、子供にもそれが伝わりより難しい方へと行きがちです。
そして、もうひとつ気をつけたいのが、親が自分を責めるということそのものが、親にとっての逃げ道、現実逃避にもなりかねないということです。
親が日々の行動を変えたり、気難しくなって対応の大変な子供に接したり、思い通りにならない子供に面と向かってなにかをするよりも、自分を責めて気にやんでいる方がはるかに楽な場合だってあるからです。
子育てがわからない、手伝ってくれる人もいないという状況にある、今の親御さんたちをせめているわけではありません。
そういった状況や気持ちもよく理解できますが、気にやむことに留まってしまうと、なにも改善しないままずるずると年齢だけを重ねて、そうなったときには本当に対処がしきれない状況になってしまうという例もたくさんあります。
「大人が変われば子供は変わる」 これは本当です。自分では今の状況をどうにかできないと感じることもあるかもしれませんが、子供の行動にはひとつひとつ理由のあるものですから、ちょっとずつだとしても対応していけばその状況を改善することは必ずできるものです。
ですからどうか書いてあることを読んで自分を責める方には取らないでください。
似たような行動がお子さんにでていたとしても、多くの場合僕が事例で上げているようなものよりも深刻度ははるかに低いはずです。
では、前回の事例の子供の甘え方について具体的に見ていきましょう。
>担当の保育士と信頼関係を作って、その保育士がきちんと受け止めるようにしていくとだんだん甘えを出せるようになってはきたが、気持ちに余裕がないのでその出し方が「子供の可愛らしい甘え」という程度ものではない。
>なんともねちっこいのだ。担当保育士は多大なストレスに耐えながらもなんとか受け止め続けていく。
該当記事では具体的に書くつもりがなかったので、「ねちっこい」と雑駁に表現してしまっているが、慢性的に受容が不足して甘えに飢えた状態にいる子だと、しばしば相手が不快に感じるようなことまでして自分の甘えを受け止めてもらうことを確認しようとする行動をしめすようになる。
この事例の担当保育士は女性なのだが、この子が胸を触ってくる。それだけならよくあることだが、わざと痛くするように乳首をに爪を立てたりして、痛がる反応を見てニヤッっとしたりする。
ほかにも、嫌だということを示しても執拗に耳をいじってきたりと、素直な甘えの段階ではなくなっている。
(繰り返しになりますが、こういった行動は深刻な受容不足でなくとも同じようにでることはあります過剰に気にしないようにしましょう。また、うちの子にも同じようにでているがどうなんでしょう?と相談されても実際の様子が見えない僕からはその程度がどのくらいだとかは判別のしようがありませんので、あしからず)
また、他児に自分から手を出して、それにリアクションを取られることで自分が被害者の立場になって甘えを求めたりする。
ほかにもあえて排泄を失敗することで、世話をしてもらうことに満足を見出したり、それをきっかけにして甘えたりなどなどの行動を示す。
単に抱きしめてもらうことでは満足できないようなこういった甘えの仕方は、慢性的な受容不足でしばしばでる。
こういうのには、「嫌がることをしてでも、それでもさらに受け止めてもらいたい」という気持ちからきていると思われる。
どれだけのことをしても自分を受け止めてもらえるかという一種の試す行動という部分もあるだろう。
虐待されている子などでは、自分を受け止めてくれる人にあえてつばを吐きかけたり、暴言をはいて納得のいくまで試してから、ようやく少しずつ甘える行動を示すといったこともある。
このように甘え方にも様々な形があるのだが、子供は意識してとか悪意があってしているわけではない。
そういう出し方をせざるを得ない状況に大人によって置かれてしまっているからこうなっているのであって、子供に責められるところはない。
しかし、そうはわかっていたとしても、素直に出せなくなってしまっているこのような「ねちっこい甘え」を大人がひとつひとつ大きな包容力でもって受け止めていくのは、多大なストレスを感じることではある。
だが、それでも子供の安定や健全な成長につながってくれるならばよいのだが、本当に子供が望んでいることは親に受け止めてもらうことなので、(親がいなかったりそれが到底できない状況にあるというならば話は別なのだが、)保育士や祖父母が親の代わりに受け止めたりしてもなかなか、子供が本心から満足できるところまでは到達しえない。
日本では子育ての先入観として「甘やかしてはならない」というものが大変強いのだが、子供の「甘え」を受容することと、「甘やかす」ということは根本的に違うことである。
子供が大人に素直な甘えを出せるようにすることは、乳児期における子育ての最重要課題だと僕は思う。
「甘えを出せるようにする」と書いたが、「素直な甘え」というのは放っておいても子供から出せるものではない。
大人の方に「甘えを受け止める姿勢」つまり「受容的態度」がなければ、子供はその甘えたい気持ちを素直に出すことはできない。
その結果、だんだん屈折した甘えになっていく。
親がなかなか「受容」を示さないと、子供はそれまでの経験から少しでも受け止めてくれる状況をつくったりする。
例えば、ケガをしたときや病気の時には親が受容してくれた経験を持つ子は、転んだ時に必要以上に泣き騒いで親の受容を引き出そうとしたりなどである。
また、よく見られるのは食事時のわがままによって甘えたい気持ちをみたそうとする行為である。
親は子供に食事をしっかり食べて欲しいと思うので、子供はそれを見透かして、食事の時にごねたり、わがままを言ったり、親をいいなりにさせるようなことをして、それを受けてもらうことで「甘えの受容」の代償行為にする。
一種「食べることを人質にとって親をいいなりに」しているようなものである。
「ごはん食べさせて」くらいならば可愛い甘えだが、「こんなのは食べたくなかった、うどんがいい」などと親に作り直しをさせたり、親がそれを許容していたりすると、その子は素直な甘えではなく「わがまま」を甘えの代償行為にしてしまう。
こういう経験をしてしまうと、それを学習してしまう。
つまり、親が素直な甘えを受けないで、それがねじれてネガティブな出し方になったものを受けていると、それがその子の「甘え」になってしまう。
しかし、「代償行為」では本当の意味で満足を見出すことはなかなかできない。
そしてより大人が気持ちよく受け止められない方に、エスカレートしていってしまう。
こうなると、子育ては大変である。
しかもずっと続く。
まず「甘えの受容的態度」、そして「素直な甘えの出せる子供にすること」これを乳児期に経験的に積み重ねることはそれゆえにとても大切なことである。
もし、乳児期に獲得できなかったとしても、あとからでもそれは大人の関わりしだいで修復も可能である。
「甘えの受容」が「あまやかし」や「わがまま」と違うのは、そこに大人からもらう安心感や自己肯定など、人間の成長にとって必須のものがたくさん含まれているからである。
ですが、その前に実を言いますと、このくだりはあえて具体的に書いていません。
なぜなら、似たような行動というものは、こういった深刻な程度でなくとも普通に出てくることがあります。
そういった似たような行動が我が子に出ている(もしくは我が子にでているととった)場合、その人が過剰に気にしたり、気にやんでしまうことが心配されたからです。
そうやって、自分の子育てや関わり、ひいては自分を否定してしまうことは、子育てにとっても子供にとっても親にとってもけしてプラスになりません。
ですが、現代の子育てのように、孤立した子育てを行っているような状況では、この気にやんでしまうということが大変多いです。
なので、この事例の行動に限りませんが、似ている行動があるからといって、それでどうか自分の子育てや自分を否定しないで欲しいと思うのです。
よしんば、それらが根拠のないものでなかったとしても、否定したり自分を責めたりすることでは何も解決しません。
それどころか、親がネガティブな気持ちになることは、子供にもそれが伝わりより難しい方へと行きがちです。
そして、もうひとつ気をつけたいのが、親が自分を責めるということそのものが、親にとっての逃げ道、現実逃避にもなりかねないということです。
親が日々の行動を変えたり、気難しくなって対応の大変な子供に接したり、思い通りにならない子供に面と向かってなにかをするよりも、自分を責めて気にやんでいる方がはるかに楽な場合だってあるからです。
子育てがわからない、手伝ってくれる人もいないという状況にある、今の親御さんたちをせめているわけではありません。
そういった状況や気持ちもよく理解できますが、気にやむことに留まってしまうと、なにも改善しないままずるずると年齢だけを重ねて、そうなったときには本当に対処がしきれない状況になってしまうという例もたくさんあります。
「大人が変われば子供は変わる」 これは本当です。自分では今の状況をどうにかできないと感じることもあるかもしれませんが、子供の行動にはひとつひとつ理由のあるものですから、ちょっとずつだとしても対応していけばその状況を改善することは必ずできるものです。
ですからどうか書いてあることを読んで自分を責める方には取らないでください。
似たような行動がお子さんにでていたとしても、多くの場合僕が事例で上げているようなものよりも深刻度ははるかに低いはずです。
では、前回の事例の子供の甘え方について具体的に見ていきましょう。
>担当の保育士と信頼関係を作って、その保育士がきちんと受け止めるようにしていくとだんだん甘えを出せるようになってはきたが、気持ちに余裕がないのでその出し方が「子供の可愛らしい甘え」という程度ものではない。
>なんともねちっこいのだ。担当保育士は多大なストレスに耐えながらもなんとか受け止め続けていく。
該当記事では具体的に書くつもりがなかったので、「ねちっこい」と雑駁に表現してしまっているが、慢性的に受容が不足して甘えに飢えた状態にいる子だと、しばしば相手が不快に感じるようなことまでして自分の甘えを受け止めてもらうことを確認しようとする行動をしめすようになる。
この事例の担当保育士は女性なのだが、この子が胸を触ってくる。それだけならよくあることだが、わざと痛くするように乳首をに爪を立てたりして、痛がる反応を見てニヤッっとしたりする。
ほかにも、嫌だということを示しても執拗に耳をいじってきたりと、素直な甘えの段階ではなくなっている。
(繰り返しになりますが、こういった行動は深刻な受容不足でなくとも同じようにでることはあります過剰に気にしないようにしましょう。また、うちの子にも同じようにでているがどうなんでしょう?と相談されても実際の様子が見えない僕からはその程度がどのくらいだとかは判別のしようがありませんので、あしからず)
また、他児に自分から手を出して、それにリアクションを取られることで自分が被害者の立場になって甘えを求めたりする。
ほかにもあえて排泄を失敗することで、世話をしてもらうことに満足を見出したり、それをきっかけにして甘えたりなどなどの行動を示す。
単に抱きしめてもらうことでは満足できないようなこういった甘えの仕方は、慢性的な受容不足でしばしばでる。
こういうのには、「嫌がることをしてでも、それでもさらに受け止めてもらいたい」という気持ちからきていると思われる。
どれだけのことをしても自分を受け止めてもらえるかという一種の試す行動という部分もあるだろう。
虐待されている子などでは、自分を受け止めてくれる人にあえてつばを吐きかけたり、暴言をはいて納得のいくまで試してから、ようやく少しずつ甘える行動を示すといったこともある。
このように甘え方にも様々な形があるのだが、子供は意識してとか悪意があってしているわけではない。
そういう出し方をせざるを得ない状況に大人によって置かれてしまっているからこうなっているのであって、子供に責められるところはない。
しかし、そうはわかっていたとしても、素直に出せなくなってしまっているこのような「ねちっこい甘え」を大人がひとつひとつ大きな包容力でもって受け止めていくのは、多大なストレスを感じることではある。
だが、それでも子供の安定や健全な成長につながってくれるならばよいのだが、本当に子供が望んでいることは親に受け止めてもらうことなので、(親がいなかったりそれが到底できない状況にあるというならば話は別なのだが、)保育士や祖父母が親の代わりに受け止めたりしてもなかなか、子供が本心から満足できるところまでは到達しえない。
日本では子育ての先入観として「甘やかしてはならない」というものが大変強いのだが、子供の「甘え」を受容することと、「甘やかす」ということは根本的に違うことである。
子供が大人に素直な甘えを出せるようにすることは、乳児期における子育ての最重要課題だと僕は思う。
「甘えを出せるようにする」と書いたが、「素直な甘え」というのは放っておいても子供から出せるものではない。
大人の方に「甘えを受け止める姿勢」つまり「受容的態度」がなければ、子供はその甘えたい気持ちを素直に出すことはできない。
その結果、だんだん屈折した甘えになっていく。
親がなかなか「受容」を示さないと、子供はそれまでの経験から少しでも受け止めてくれる状況をつくったりする。
例えば、ケガをしたときや病気の時には親が受容してくれた経験を持つ子は、転んだ時に必要以上に泣き騒いで親の受容を引き出そうとしたりなどである。
また、よく見られるのは食事時のわがままによって甘えたい気持ちをみたそうとする行為である。
親は子供に食事をしっかり食べて欲しいと思うので、子供はそれを見透かして、食事の時にごねたり、わがままを言ったり、親をいいなりにさせるようなことをして、それを受けてもらうことで「甘えの受容」の代償行為にする。
一種「食べることを人質にとって親をいいなりに」しているようなものである。
「ごはん食べさせて」くらいならば可愛い甘えだが、「こんなのは食べたくなかった、うどんがいい」などと親に作り直しをさせたり、親がそれを許容していたりすると、その子は素直な甘えではなく「わがまま」を甘えの代償行為にしてしまう。
こういう経験をしてしまうと、それを学習してしまう。
つまり、親が素直な甘えを受けないで、それがねじれてネガティブな出し方になったものを受けていると、それがその子の「甘え」になってしまう。
しかし、「代償行為」では本当の意味で満足を見出すことはなかなかできない。
そしてより大人が気持ちよく受け止められない方に、エスカレートしていってしまう。
こうなると、子育ては大変である。
しかもずっと続く。
まず「甘えの受容的態度」、そして「素直な甘えの出せる子供にすること」これを乳児期に経験的に積み重ねることはそれゆえにとても大切なことである。
もし、乳児期に獲得できなかったとしても、あとからでもそれは大人の関わりしだいで修復も可能である。
「甘えの受容」が「あまやかし」や「わがまま」と違うのは、そこに大人からもらう安心感や自己肯定など、人間の成長にとって必須のものがたくさん含まれているからである。
| 2012-09-29 | 満たされた子供 | Comment : 11 | トラックバック : 0 |
『満たされた子供』 その4 -満たされている姿- - 2010.12.06 Mon
今回は満たされた子供はどんな姿をみせてくれるかということについて見ていきたいとおもいます。
ただし、「満たされたらこんなことが出来るようになります」という意味ではないですからね。
なにかを獲得させるための手段としてこの「満たす」という行為があるわけではないということを理解してください。
「出来ること」を望んでやったところでそれは親のエゴであって、ほんとの意味で「満たす」ことではないような気がします。
今回から読み始めた方や、なにを言っているのかいまいちわからないという方は『過保護と過干渉』その1から読んでいってみてください。
また、こういった姿が見られないからといって、それが即「満たされていない」ということにもなりませんから、そのことで心配になってしまう必要もないですよ。
それでは、満たされた子がどんな姿を見せてくれるかというと・・・
ただし、「満たされたらこんなことが出来るようになります」という意味ではないですからね。
なにかを獲得させるための手段としてこの「満たす」という行為があるわけではないということを理解してください。
「出来ること」を望んでやったところでそれは親のエゴであって、ほんとの意味で「満たす」ことではないような気がします。
今回から読み始めた方や、なにを言っているのかいまいちわからないという方は『過保護と過干渉』その1から読んでいってみてください。
また、こういった姿が見られないからといって、それが即「満たされていない」ということにもなりませんから、そのことで心配になってしまう必要もないですよ。
それでは、満たされた子がどんな姿を見せてくれるかというと・・・
・ぬいぐるみや人形などが、あたかも生きているかのように大事にし可愛がることをします。
1歳くらいの子でもすでにかわいいかわいいとなでたり、キスしたり、トントンして寝かしつけたりの姿をみせてくれます。
それはもう可愛らしいです。
満たされている子は、これができるんですね。それもそのはずそういった行為を自分が普段、大好きな大人からしてもらっているからなんですよね。
・そこからさらに物に愛着をもって大事にしたり、大切に扱うという姿もみられます。
子供だから「物の扱いがぞんざいなのが当たり前」ではないんです。
きちんと満たされていて、そこにプラス「大人が物を大切にあつかう姿」を見せているだけで子供だってできることなんですね。
・物の貸し借りをする姿もみられるようになってきます。
公園などでいる親子を見ていると、自分の子供に無理やり「貸させている」姿をよく見かけるので、「いや~貸したくないっていう気持ちも尊重してあげようよ」とはいつも思うのですが。
子供の気持ちをしっかり満たし続けていってあげれば、その心の余裕からいずれ友達と遊ぶことができるようになる年齢(およそ3歳くらいが目安かな)になってくれば、そのときに自発的に物を貸すということができるようになってくるでしょう。
しかし、今の親は「しつけ」なのか「日本的謙譲の美徳」なのか、まだ一人遊びや平行遊びの段階である1~2歳児の段階から、なだめたりすかしたりして無理やり「貸すこと」を強要しすぎです。
これでは満たされるものも満たされなくなってしまいますよね。
まずはその子の「遊び」、「自分のもの」という気持ちを尊重してあげましょうね。
「自分のもの」というのを尊重されず、無理やり親に奪われて「貸さされた」子供は、人のものを尊重しなくなるのでむしろ他児のものを奪っていく子になりかねません。
ちょっと脱線しましたが、他者を大切にできるのは自己を大切にされた人でないとなかなか難しいものです。このことは「満たされる」ことと無関係ではありません。
そういうわけで満たされた子は、自然と物を貸したりする姿がいずれみられるようになっていくでしょう。
もちろんできるこであればすでに1歳くらいで物を貸したり、あげたりできるようになってしまいますよ。
・よく笑う、よくしゃべる。
例えば、日常からおしゃぶりをくわえさせられてしまってきた子は、しゃべる機会を奪われているからだけでなく、気持ちが満たされていないこともあって、言葉を発することが少なくなったり、遅くなってしまうことがあるのかもしれませんね。
・じっくりあそべる
満たされている子はそうでない子にくらべて、遊びにとりくめる時間も長かったり、遊びの質も高かったりします。
はるかに月齢が高いのに満たされていない子が、おもちゃを溜め込むだけできちんと遊べていないのに、月齢の低い子がじっくりひとつの遊具で遊びこめているなんてことはよくあります。
また、満たされていない子はしばしば他の子を支配したがります。
親に自分がそうされているのでしょうね。人に自分のやり方を押し付けてそれをさせることを遊びにしたりと、遊具でじっくり遊びこむということが、満たされている子に較べて不得手なようです。
・絵本などがよく楽しめる。またその絵本に愛着をもてる。
満たされていると心が通じるのかな。悲しいお話なら、自分もほんとに悲しくなるし、楽しいお話ならそれで楽しい気分になる様子がみられます。それだけ深く物語に没入しているのですね。
そういうお話のニュアンスのわかる子は、さらに心の豊かな優しい子になれますね。
・そして当然優しいです。
親が暖かい優しい関わりを積み重ねて来てくれたからこそ満たされているわけであって、そんな子は当然ひとに優しくできるわけですよね。
・話を聞くことができる。いわれたことに素直にしたがえる。
満たされる過程で大人との信頼感も形成されてるし、支配ばかりされている子はあまり満たされないわけだから、しっかり満たされている子はそれほど支配型の子育てをされてないわけです。だから大人が言うことに反発せず素直にしたがってくれるんですね。
まあ、もちろん満たされている子であっても「成長期」なんかはありますから、すんなり行かないこともありますよ。
「やだやだ」ばかりになって満たされている子でもしたがえないというときはあります。
でも、きちんと満たされている子ならばそれを乗り越えていくことも、満たされていない子よりもずっと容易だと思います。
・食べ物の好き嫌いが少ない
満たされていない子だと様々なところで、要求を出して親に受け入れてもらおうとします。
多くの親が食べ物を食べてくれなかったりすることで心配したりするので、そんなことでも自分に注意を向けてもらいたいという気持ちがあるのでしょうか、満たされない子には偏食が多かったり食事のときに立ち歩いたりと食習慣がつきにくいといった感があります。
また満たされた子であると、親が「これもしっかり食べてほしい」という気持ちなんかをきちんと受け止めてくれるのでしょう、食習慣の形成もしっかりとできていると感じます。
・甘えられる
このことはとてもとても大事なことです。満たされている子は素直に甘えられます。まあ性格であまりそういうのを出さなかったり、家庭でしっかり甘えてきているので他所で出さないとったタイプの子もいますが、満たされている子は大人も心地よく受け入れられる形で甘えをだすことができます。
満たされていない子は、大人がそういう受容をしてきてくれなかった結果だったりするので、甘え方を知らなかったりします。そのため、大人に受け入れてもらおうとする行動がネガティブな形で出たりします。
ようするに甘えをうまく大人に出せないので、かわりに怒られるようなことをして大人に目をむけてもらおうとしたり、ダダをこねたりして受容してもらうことを求めてきます。
まあこういう行動がでたときに、大きな心でそれを受容してくれる大人なんて多くはありません。
そもそもそんな人が親であれば満たされない子供になっていることはまずないでしょう。
たいていはそういう姿をだせば、叱られたり怒られたり、無視されたりととうてい子供が本当に求めている「親からの受容」ということは引き出せません。
ここに「満たされない子の悪循環」ができてしまいます。
満たされない子はさらに満たされない方向へ、満たされている子はさらに満たされる方向へと行き易いのです。
だからかなり以前書いていますが、「小さいうちに甘えの出すことのできる子にしよう」と述べたのです。
素直に甘えられる子ならば、自分で満たす方向へもっていくことができるからです。
また親も精神的にずっと楽ですよ、我が子が可愛く甘えてくる子ならば。
あんまりにも親の受容を得られない子だと、怒られることすら心地よくなってしまいます。
ネガティブなことをして親が怒るときは、親が感情のベクトルを自分に向けてくれるからです。
それですらうれしいわけです。なんとも健気で涙ぐましい努力ですね・・・。
(「甘やかす」のと「甘えさせる」のはぜんぜん違うことですので気をつけてくださいね)
とまあ、あげていったらキリがないのですが、子供のすべての「育ち」の前提にこの「満たされること」があるといって過言ではありません。
まだ少しも満たされていない子に対して、「しつけ」を徹底していったり、習い事や早期教育をほどこしたり、外見だけを飾り立てるようなことを親が好んでしたり、そうして伸び悩んでいたり、押しつぶされていった子供を大勢みてきました。
子供が親のエゴからだんだん意地悪になっていく姿をリアルタイムで見せられてきたりすることもたくさんあります。
保育士をしていてこんなにつらいことはありません。
「満たされること」は人格形成にも大きな影響があるし、子供時代だけでなくその後もこのことはあとをひきずります。
この記事を読んで、自分の子は満たされていないのではないかと思う人がいるかもしれません。
それならこれから満たせばいいんです。遅すぎるということはありません。
また、一生懸命満たす関わりをしているのに、我が子はちっとも満たされているように思えないという人もいるかもしれません。きっとその子は「入れ物」が大きいんですよ。長い目でみて、子育てを投げないでじっくり関わっていってあげましょう。たくさんもらった分きっと人一倍優しさをもった子に育ちますよ。
子供を満たすのは徒労に終わるなんてことはないはずです。
きちんと満たされた子供は必ずそれ以上の物を返してくれるはずです。
うちはたくさんのそのような満たされない子も見てきてしまった保育士夫婦なので、我が子にはそんな子達が、自分の親に望んでももらえなかった、良い関わりをたっぷりして育ててきました。「うちの子は少なくとも300%くらい満たされてるよね・・」なんてときどき話します。
まだ上の子は5歳にもなってないですが、しっかりとそれまでに満たされているのでなんの心配もしていません。
勉強だって人間関係だって必要なときになれば、必要なだけできる力の基礎がすでに出来上がっていると思います。
(勉強ができることなんてこれっぽっちも望んで育てていませんが、おそらくなんの問題もなくできるでしょう)
そして、それはもう優しくて可愛いですよ。
1歳2ヶ月のむーちゃんですら、「あ~疲れたな~腰いたいなー」(笑)なんて僕らが独り言いってると、ひょこひょこやってきて、背中を「エシ、エシ」って押してくれるんですよ~。嘘とか誇張とか思うでしょ~でもほんとなんだなこれが~。
↓励みになります。よろしかったらお願いします。

1歳くらいの子でもすでにかわいいかわいいとなでたり、キスしたり、トントンして寝かしつけたりの姿をみせてくれます。
それはもう可愛らしいです。
満たされている子は、これができるんですね。それもそのはずそういった行為を自分が普段、大好きな大人からしてもらっているからなんですよね。
・そこからさらに物に愛着をもって大事にしたり、大切に扱うという姿もみられます。
子供だから「物の扱いがぞんざいなのが当たり前」ではないんです。
きちんと満たされていて、そこにプラス「大人が物を大切にあつかう姿」を見せているだけで子供だってできることなんですね。
・物の貸し借りをする姿もみられるようになってきます。
公園などでいる親子を見ていると、自分の子供に無理やり「貸させている」姿をよく見かけるので、「いや~貸したくないっていう気持ちも尊重してあげようよ」とはいつも思うのですが。
子供の気持ちをしっかり満たし続けていってあげれば、その心の余裕からいずれ友達と遊ぶことができるようになる年齢(およそ3歳くらいが目安かな)になってくれば、そのときに自発的に物を貸すということができるようになってくるでしょう。
しかし、今の親は「しつけ」なのか「日本的謙譲の美徳」なのか、まだ一人遊びや平行遊びの段階である1~2歳児の段階から、なだめたりすかしたりして無理やり「貸すこと」を強要しすぎです。
これでは満たされるものも満たされなくなってしまいますよね。
まずはその子の「遊び」、「自分のもの」という気持ちを尊重してあげましょうね。
「自分のもの」というのを尊重されず、無理やり親に奪われて「貸さされた」子供は、人のものを尊重しなくなるのでむしろ他児のものを奪っていく子になりかねません。
ちょっと脱線しましたが、他者を大切にできるのは自己を大切にされた人でないとなかなか難しいものです。このことは「満たされる」ことと無関係ではありません。
そういうわけで満たされた子は、自然と物を貸したりする姿がいずれみられるようになっていくでしょう。
もちろんできるこであればすでに1歳くらいで物を貸したり、あげたりできるようになってしまいますよ。
・よく笑う、よくしゃべる。
例えば、日常からおしゃぶりをくわえさせられてしまってきた子は、しゃべる機会を奪われているからだけでなく、気持ちが満たされていないこともあって、言葉を発することが少なくなったり、遅くなってしまうことがあるのかもしれませんね。
・じっくりあそべる
満たされている子はそうでない子にくらべて、遊びにとりくめる時間も長かったり、遊びの質も高かったりします。
はるかに月齢が高いのに満たされていない子が、おもちゃを溜め込むだけできちんと遊べていないのに、月齢の低い子がじっくりひとつの遊具で遊びこめているなんてことはよくあります。
また、満たされていない子はしばしば他の子を支配したがります。
親に自分がそうされているのでしょうね。人に自分のやり方を押し付けてそれをさせることを遊びにしたりと、遊具でじっくり遊びこむということが、満たされている子に較べて不得手なようです。
・絵本などがよく楽しめる。またその絵本に愛着をもてる。
満たされていると心が通じるのかな。悲しいお話なら、自分もほんとに悲しくなるし、楽しいお話ならそれで楽しい気分になる様子がみられます。それだけ深く物語に没入しているのですね。
そういうお話のニュアンスのわかる子は、さらに心の豊かな優しい子になれますね。
・そして当然優しいです。
親が暖かい優しい関わりを積み重ねて来てくれたからこそ満たされているわけであって、そんな子は当然ひとに優しくできるわけですよね。
・話を聞くことができる。いわれたことに素直にしたがえる。
満たされる過程で大人との信頼感も形成されてるし、支配ばかりされている子はあまり満たされないわけだから、しっかり満たされている子はそれほど支配型の子育てをされてないわけです。だから大人が言うことに反発せず素直にしたがってくれるんですね。
まあ、もちろん満たされている子であっても「成長期」なんかはありますから、すんなり行かないこともありますよ。
「やだやだ」ばかりになって満たされている子でもしたがえないというときはあります。
でも、きちんと満たされている子ならばそれを乗り越えていくことも、満たされていない子よりもずっと容易だと思います。
・食べ物の好き嫌いが少ない
満たされていない子だと様々なところで、要求を出して親に受け入れてもらおうとします。
多くの親が食べ物を食べてくれなかったりすることで心配したりするので、そんなことでも自分に注意を向けてもらいたいという気持ちがあるのでしょうか、満たされない子には偏食が多かったり食事のときに立ち歩いたりと食習慣がつきにくいといった感があります。
また満たされた子であると、親が「これもしっかり食べてほしい」という気持ちなんかをきちんと受け止めてくれるのでしょう、食習慣の形成もしっかりとできていると感じます。
・甘えられる
このことはとてもとても大事なことです。満たされている子は素直に甘えられます。まあ性格であまりそういうのを出さなかったり、家庭でしっかり甘えてきているので他所で出さないとったタイプの子もいますが、満たされている子は大人も心地よく受け入れられる形で甘えをだすことができます。
満たされていない子は、大人がそういう受容をしてきてくれなかった結果だったりするので、甘え方を知らなかったりします。そのため、大人に受け入れてもらおうとする行動がネガティブな形で出たりします。
ようするに甘えをうまく大人に出せないので、かわりに怒られるようなことをして大人に目をむけてもらおうとしたり、ダダをこねたりして受容してもらうことを求めてきます。
まあこういう行動がでたときに、大きな心でそれを受容してくれる大人なんて多くはありません。
そもそもそんな人が親であれば満たされない子供になっていることはまずないでしょう。
たいていはそういう姿をだせば、叱られたり怒られたり、無視されたりととうてい子供が本当に求めている「親からの受容」ということは引き出せません。
ここに「満たされない子の悪循環」ができてしまいます。
満たされない子はさらに満たされない方向へ、満たされている子はさらに満たされる方向へと行き易いのです。
だからかなり以前書いていますが、「小さいうちに甘えの出すことのできる子にしよう」と述べたのです。
素直に甘えられる子ならば、自分で満たす方向へもっていくことができるからです。
また親も精神的にずっと楽ですよ、我が子が可愛く甘えてくる子ならば。
あんまりにも親の受容を得られない子だと、怒られることすら心地よくなってしまいます。
ネガティブなことをして親が怒るときは、親が感情のベクトルを自分に向けてくれるからです。
それですらうれしいわけです。なんとも健気で涙ぐましい努力ですね・・・。
(「甘やかす」のと「甘えさせる」のはぜんぜん違うことですので気をつけてくださいね)
とまあ、あげていったらキリがないのですが、子供のすべての「育ち」の前提にこの「満たされること」があるといって過言ではありません。
まだ少しも満たされていない子に対して、「しつけ」を徹底していったり、習い事や早期教育をほどこしたり、外見だけを飾り立てるようなことを親が好んでしたり、そうして伸び悩んでいたり、押しつぶされていった子供を大勢みてきました。
子供が親のエゴからだんだん意地悪になっていく姿をリアルタイムで見せられてきたりすることもたくさんあります。
保育士をしていてこんなにつらいことはありません。
「満たされること」は人格形成にも大きな影響があるし、子供時代だけでなくその後もこのことはあとをひきずります。
この記事を読んで、自分の子は満たされていないのではないかと思う人がいるかもしれません。
それならこれから満たせばいいんです。遅すぎるということはありません。
また、一生懸命満たす関わりをしているのに、我が子はちっとも満たされているように思えないという人もいるかもしれません。きっとその子は「入れ物」が大きいんですよ。長い目でみて、子育てを投げないでじっくり関わっていってあげましょう。たくさんもらった分きっと人一倍優しさをもった子に育ちますよ。
子供を満たすのは徒労に終わるなんてことはないはずです。
きちんと満たされた子供は必ずそれ以上の物を返してくれるはずです。
うちはたくさんのそのような満たされない子も見てきてしまった保育士夫婦なので、我が子にはそんな子達が、自分の親に望んでももらえなかった、良い関わりをたっぷりして育ててきました。「うちの子は少なくとも300%くらい満たされてるよね・・」なんてときどき話します。
まだ上の子は5歳にもなってないですが、しっかりとそれまでに満たされているのでなんの心配もしていません。
勉強だって人間関係だって必要なときになれば、必要なだけできる力の基礎がすでに出来上がっていると思います。
(勉強ができることなんてこれっぽっちも望んで育てていませんが、おそらくなんの問題もなくできるでしょう)
そして、それはもう優しくて可愛いですよ。
1歳2ヶ月のむーちゃんですら、「あ~疲れたな~腰いたいなー」(笑)なんて僕らが独り言いってると、ひょこひょこやってきて、背中を「エシ、エシ」って押してくれるんですよ~。嘘とか誇張とか思うでしょ~でもほんとなんだなこれが~。
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| 2010-12-06 | 満たされた子供 | Comment : 15 | トラックバック : 0 |
『満たされた子供』 その3 -マイナスのもの- - 2010.11.30 Tue
今回は「マイナスのもの」についてです。
以前でてきたときには詳しく書けませんでしたが、ここで「マイナス」といっているのは「デメリット」という意味ではなくて、人が自分にとってマイナスになることを受け入れられる「心の余裕」とでもいうようなもののことなんです。
ちょっとわかりにくいので、例をとって説明すると。
子供がそれぞれ持っている「入れ物」をクッキーの缶だとします。
親や身近な大人が、大切に思ったり優しくしてもらったりすることでその缶にクッキーをちょっとずつ入れてもらっているとします。
缶一杯になったらそれが満たされた状態ですね。
(今回ものすごく長くなってしまいました。途中で分ければいいのだけどもう深夜でその気力もありません~。ごめんなさい。)
以前でてきたときには詳しく書けませんでしたが、ここで「マイナス」といっているのは「デメリット」という意味ではなくて、人が自分にとってマイナスになることを受け入れられる「心の余裕」とでもいうようなもののことなんです。
ちょっとわかりにくいので、例をとって説明すると。
子供がそれぞれ持っている「入れ物」をクッキーの缶だとします。
親や身近な大人が、大切に思ったり優しくしてもらったりすることでその缶にクッキーをちょっとずつ入れてもらっているとします。
缶一杯になったらそれが満たされた状態ですね。
(今回ものすごく長くなってしまいました。途中で分ければいいのだけどもう深夜でその気力もありません~。ごめんなさい。)
では、だれかお友達がそのクッキーを「ちょうだい!」と言ってきたとします。
どんな人だったらそのクッキーをわけられるでしょうか?
1クッキーが少ししかない人でしょうか?
2半分たまっているひと?
3満タンになっているひと?
4満タンよりたくさんもらっていて缶からあふれている人?
人にあげられるとしたら1よりも2の人、2よりも3の人、そして一番わけてあげやすいのは当然4の人ですよね。
クッキーをあげられるというのが、友達に物を貸してあげられたり、優しさをあらわしたり、親切にできるってことです。
また、親の注意を受け入れられたり、話を聞いて自分の過ちを認めたりすることも、心の余裕がないとなかなか出来ないことなので、このクッキーをあげることに他ならないわけです。
まず満たされていなければ、どんな正論だとしても受け入れられないと以前述べました。
それはつまりここ↑なのですよ。
0~3歳くらいまでは誰しも「入れ物」にクッキーを溜め込んでいる時期です。
その最中に、否定や正論で押し切る関わりを重ねていくとどうでしょう?
個人差もあることですけど、なかなか満たされた気持ちにはなりにくくなってしまいますよね。
保育園などで多数の子供を見ていると、この「満たされている・満たされていない」の違いがとても大きな物だと嫌でも気づかされます。
それはもうすべての行動に関わってきます。
遊びから生活面まで様々な影響が如実にあらわれてきます。
例えば前回の話ででた「噛み付き」や「ひっかき」なんかはそのよくあるものです。
放任などで本当に満たされていない子だと、その噛み付きの程度も激しい物となります。
単に噛みあとがつく程度ではすまず、血がにじむくらいの噛み付きになったり、なんの理由もなく近くにいるというだけで噛んだりするようになってしまいます。
本当に満たされていないと攻撃性が高まるようです。自分よりもはるかに年齢や体の小さい子にたいしても本気で突き飛ばしたり、叩いたりなどの手を出すことを平気でしてしまったり。
5歳児が1歳児を突き飛ばしたりなんてほんとに危ないことも実際ありました。
普通ここまで体格差があったり、年齢が離れていれば5歳児からみれば1歳の子はなんの脅威にもならないので、そんなふうに本気で手を出すということはないのですが、満たされていない子だとこういうことがありえるので怖いです。
満たされていない=心に余裕もない という状態なので、大人の指示に従ったりすることも苦手になっていきます。
また、友達とかかわることが出来ず、集団での遊びなんかに入れなくなってしまうというタイプの子もあります。
満たされていないのでお昼寝なんかにもすんなりは入れません。
着替えや排泄などの生活のリズムの切れ目では、満たされていない子でなくともなかなか切り替えができにくいものですが、満たされていない子はさらにこういうことがすんなりいかず、遊びを切り上げて外から帰るとか着替えをするとかそんな些細なことでも激しくゴネたりします。
おそらくはそうやってゴネを出すことで受け入れてほしいという気持ちの表れなのでしょうね。
悲しいことに、満たされていない子ほど大人から満たされる行為を引き出すことが出来なくなってしまうのです。
「ただちょっと可愛がってもらいたい」それだけなのだけど、甘え方がわからなかったり、自分から甘えにいけるほどの余裕もないのでゴネて大人を困らせたり、感情をむきだしにして噛み付いたり、泣き喚いたりという行為にいってしまいがちです。
また、満たされていない子は遊びもじっくりとは出来ないことが多いです。
自分の遊びがきちんとできず、他の子の遊びに目移りがしてその玩具を奪ったりします。
しかし、その玩具で遊べるかというとやはり遊べず、むしろ他児の作った物を壊したりすることが遊びになってしまったり、物をとられた子の反応を見て楽しんだりするようになってしまいがちです。
ずっと以前にも紹介した「物を抱え込んで遊びにする」タイプの子もいます。
物をたくさん持ってそれらを支配しているというのはどうやら心のすきまを埋めてくれるようです。
なんかカードで破産するまで買い物をしてしまう大人なんかにも一脈通じるものを感じますね。
(↑これらは極端な例を出しましたので、必ずしもすべてがこうなるというわけではありません。
またここで述べたような様子が現れているからといっても、他にもいろいろな理由があってこういう姿がでることもありますので、それが即「満たされていないから」というわけでもありあませんよ。)
3歳くらいまでの子だと、そうやってダダをこねたりグズったりすることで良い関わりを大人から引き出そうとするのだけれども、それ以上の年齢になっていくとだんだんそうはしなくなっていってしまうこともあります。
大人に不信感をもってしまったり、良い関わりをもらうことをあきらめてしまったりするのかもしれませんね。
今度は良い関わりを求めることよりも、別のことでそれを埋め合わせようとしていくようです。
例えば、「過食」なんかもそうです。
小児肥満の大きな原因のひとつは、親に省みられず満たされない気持ちからくる「過食」があるといわれています。
また「意地悪」ということもあります。
人を思い通りに動かしたり、人の感情をもてあそぶことは、いいか悪いかを抜きにしたらこれはとてつもなく面白い行為なのでしょうね。
4、5歳の子供であってもずいぶん意地悪なことをするようになってしまいます。
悲しいことですが、そもそも満たされない気持ちがあってやっていることなので、善悪を教えたところで改善できるものでもないんですよね。
そういうことをすると大人が怒ったりするのを知れば、今度は大人の見ていないところで巧妙にするようになります。
そのくらいの年齢になって人格がある程度出来上がってしまうと、なかなか良い関わりをしても伝わらなくなってしまうこともあります。
もうすでに大人を信頼しなくなってしまっているのかもしれません。
それでも子供は柔軟なので、親の対応や家庭の環境が改善することでいくらでも変わることはできます。
父親が子供嫌いで子供や母親につらく当たっていて、とても荒れていた子供が、父と別居し母子家庭になったことで落ち着けすっかり穏やかな子供になったなんていう例もありました。
今では0歳児保育なども当たり前になってきましたが、保育園にあずけるということそれ自体、子供からすれば満たされるのとは反対の行為です。
どんなに優れた保育士が最良の保育環境で子供を保育したとしても、それでも子供からすればなかなかに満足できるものではありません。
なぜなら、子供が本当に求めているのは自分の家庭であり親と過ごすことだからです。
「家庭的な保育をしています」などと宣伝文句を保育園は言うかもしれませんが、どうしたって「家庭」になることはできません。他人同士(大人も子供も)が集まってひとつの集団を作っている以上それは「社会」です。
「家庭的なもの」は目指せたとしても「家庭」になることができるわけはないのです。
ごくごく低年齢の0歳児などでも保育園に入れてまっすぐ育たないかというと、もちろんそんなことはありません。
でも、それには他人に預けてしまった分だけのフォローがその子の家庭で(つまり親のフォローが)絶対的に必要です。
少しでも早く迎えに行ってあげようと、走って保育園に駆け込んできて「ごめんね~まってた?ママも会いたかったよ~」なんて笑顔で言える人であれば心配いりませんが。
仕事が休みの日でも早番から遅番まであずけ、さらにはその時間にすら遅れて迎えにきて、子供がぐずって泣けばうるさいとばかりにすかさずおしゃぶりをくわえさせ、子供に笑顔もみせず、子供のめんどうなんかみたくないとばかりにいる人が増えてきたのも現実です。
0歳からこんな風で保育園に預けられてきた子は当然満たされているはずもなく、卒園まで常に職員会議で「対応の必要な子」と話にのぼってくるようなことも少なくありません。
またそういう子が小学校にあがり、学級崩壊の原因の一人となったり、いじめに関わったりということも耳にします。
本当に人が人生の最初の数年間に、良い関わりをたくさんもらい満たされた気持ちを持つことがなににもまして重要なことだと強く強く感じています。
(こういう問題をたくさん知っているので、早期教育などでリスクを負うかもしれないことには賛同できなかったのもあるわけです。)
マイナスのものについて書いたら、満たされた子はどんな様子を見せてくれるかということも書きたかったのだけど、ついつい「満たされないこと」の問題の大きさからネガティブなことが多くなってしまいました。
次回に満たされた子の姿を書いていこうと思います。
何度も言いますがここで書かれたような姿がお子さんにあったとしても、だからといってそれがすぐに「満たされていない」からということではないですからね。
子供の姿はいろいろな要因ででるものですから、現象が同じだから原因が同じとは限りません。
お子さんのちょっとした姿から「自分の子は満たされていないのではないか」なんて心配にとりつかれないでくださいね。
では、次回はもっとポジティブにいきますね~。
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どんな人だったらそのクッキーをわけられるでしょうか?
1クッキーが少ししかない人でしょうか?
2半分たまっているひと?
3満タンになっているひと?
4満タンよりたくさんもらっていて缶からあふれている人?
人にあげられるとしたら1よりも2の人、2よりも3の人、そして一番わけてあげやすいのは当然4の人ですよね。
クッキーをあげられるというのが、友達に物を貸してあげられたり、優しさをあらわしたり、親切にできるってことです。
また、親の注意を受け入れられたり、話を聞いて自分の過ちを認めたりすることも、心の余裕がないとなかなか出来ないことなので、このクッキーをあげることに他ならないわけです。
まず満たされていなければ、どんな正論だとしても受け入れられないと以前述べました。
それはつまりここ↑なのですよ。
0~3歳くらいまでは誰しも「入れ物」にクッキーを溜め込んでいる時期です。
その最中に、否定や正論で押し切る関わりを重ねていくとどうでしょう?
個人差もあることですけど、なかなか満たされた気持ちにはなりにくくなってしまいますよね。
保育園などで多数の子供を見ていると、この「満たされている・満たされていない」の違いがとても大きな物だと嫌でも気づかされます。
それはもうすべての行動に関わってきます。
遊びから生活面まで様々な影響が如実にあらわれてきます。
例えば前回の話ででた「噛み付き」や「ひっかき」なんかはそのよくあるものです。
放任などで本当に満たされていない子だと、その噛み付きの程度も激しい物となります。
単に噛みあとがつく程度ではすまず、血がにじむくらいの噛み付きになったり、なんの理由もなく近くにいるというだけで噛んだりするようになってしまいます。
本当に満たされていないと攻撃性が高まるようです。自分よりもはるかに年齢や体の小さい子にたいしても本気で突き飛ばしたり、叩いたりなどの手を出すことを平気でしてしまったり。
5歳児が1歳児を突き飛ばしたりなんてほんとに危ないことも実際ありました。
普通ここまで体格差があったり、年齢が離れていれば5歳児からみれば1歳の子はなんの脅威にもならないので、そんなふうに本気で手を出すということはないのですが、満たされていない子だとこういうことがありえるので怖いです。
満たされていない=心に余裕もない という状態なので、大人の指示に従ったりすることも苦手になっていきます。
また、友達とかかわることが出来ず、集団での遊びなんかに入れなくなってしまうというタイプの子もあります。
満たされていないのでお昼寝なんかにもすんなりは入れません。
着替えや排泄などの生活のリズムの切れ目では、満たされていない子でなくともなかなか切り替えができにくいものですが、満たされていない子はさらにこういうことがすんなりいかず、遊びを切り上げて外から帰るとか着替えをするとかそんな些細なことでも激しくゴネたりします。
おそらくはそうやってゴネを出すことで受け入れてほしいという気持ちの表れなのでしょうね。
悲しいことに、満たされていない子ほど大人から満たされる行為を引き出すことが出来なくなってしまうのです。
「ただちょっと可愛がってもらいたい」それだけなのだけど、甘え方がわからなかったり、自分から甘えにいけるほどの余裕もないのでゴネて大人を困らせたり、感情をむきだしにして噛み付いたり、泣き喚いたりという行為にいってしまいがちです。
また、満たされていない子は遊びもじっくりとは出来ないことが多いです。
自分の遊びがきちんとできず、他の子の遊びに目移りがしてその玩具を奪ったりします。
しかし、その玩具で遊べるかというとやはり遊べず、むしろ他児の作った物を壊したりすることが遊びになってしまったり、物をとられた子の反応を見て楽しんだりするようになってしまいがちです。
ずっと以前にも紹介した「物を抱え込んで遊びにする」タイプの子もいます。
物をたくさん持ってそれらを支配しているというのはどうやら心のすきまを埋めてくれるようです。
なんかカードで破産するまで買い物をしてしまう大人なんかにも一脈通じるものを感じますね。
(↑これらは極端な例を出しましたので、必ずしもすべてがこうなるというわけではありません。
またここで述べたような様子が現れているからといっても、他にもいろいろな理由があってこういう姿がでることもありますので、それが即「満たされていないから」というわけでもありあませんよ。)
3歳くらいまでの子だと、そうやってダダをこねたりグズったりすることで良い関わりを大人から引き出そうとするのだけれども、それ以上の年齢になっていくとだんだんそうはしなくなっていってしまうこともあります。
大人に不信感をもってしまったり、良い関わりをもらうことをあきらめてしまったりするのかもしれませんね。
今度は良い関わりを求めることよりも、別のことでそれを埋め合わせようとしていくようです。
例えば、「過食」なんかもそうです。
小児肥満の大きな原因のひとつは、親に省みられず満たされない気持ちからくる「過食」があるといわれています。
また「意地悪」ということもあります。
人を思い通りに動かしたり、人の感情をもてあそぶことは、いいか悪いかを抜きにしたらこれはとてつもなく面白い行為なのでしょうね。
4、5歳の子供であってもずいぶん意地悪なことをするようになってしまいます。
悲しいことですが、そもそも満たされない気持ちがあってやっていることなので、善悪を教えたところで改善できるものでもないんですよね。
そういうことをすると大人が怒ったりするのを知れば、今度は大人の見ていないところで巧妙にするようになります。
そのくらいの年齢になって人格がある程度出来上がってしまうと、なかなか良い関わりをしても伝わらなくなってしまうこともあります。
もうすでに大人を信頼しなくなってしまっているのかもしれません。
それでも子供は柔軟なので、親の対応や家庭の環境が改善することでいくらでも変わることはできます。
父親が子供嫌いで子供や母親につらく当たっていて、とても荒れていた子供が、父と別居し母子家庭になったことで落ち着けすっかり穏やかな子供になったなんていう例もありました。
今では0歳児保育なども当たり前になってきましたが、保育園にあずけるということそれ自体、子供からすれば満たされるのとは反対の行為です。
どんなに優れた保育士が最良の保育環境で子供を保育したとしても、それでも子供からすればなかなかに満足できるものではありません。
なぜなら、子供が本当に求めているのは自分の家庭であり親と過ごすことだからです。
「家庭的な保育をしています」などと宣伝文句を保育園は言うかもしれませんが、どうしたって「家庭」になることはできません。他人同士(大人も子供も)が集まってひとつの集団を作っている以上それは「社会」です。
「家庭的なもの」は目指せたとしても「家庭」になることができるわけはないのです。
ごくごく低年齢の0歳児などでも保育園に入れてまっすぐ育たないかというと、もちろんそんなことはありません。
でも、それには他人に預けてしまった分だけのフォローがその子の家庭で(つまり親のフォローが)絶対的に必要です。
少しでも早く迎えに行ってあげようと、走って保育園に駆け込んできて「ごめんね~まってた?ママも会いたかったよ~」なんて笑顔で言える人であれば心配いりませんが。
仕事が休みの日でも早番から遅番まであずけ、さらにはその時間にすら遅れて迎えにきて、子供がぐずって泣けばうるさいとばかりにすかさずおしゃぶりをくわえさせ、子供に笑顔もみせず、子供のめんどうなんかみたくないとばかりにいる人が増えてきたのも現実です。
0歳からこんな風で保育園に預けられてきた子は当然満たされているはずもなく、卒園まで常に職員会議で「対応の必要な子」と話にのぼってくるようなことも少なくありません。
またそういう子が小学校にあがり、学級崩壊の原因の一人となったり、いじめに関わったりということも耳にします。
本当に人が人生の最初の数年間に、良い関わりをたくさんもらい満たされた気持ちを持つことがなににもまして重要なことだと強く強く感じています。
(こういう問題をたくさん知っているので、早期教育などでリスクを負うかもしれないことには賛同できなかったのもあるわけです。)
マイナスのものについて書いたら、満たされた子はどんな様子を見せてくれるかということも書きたかったのだけど、ついつい「満たされないこと」の問題の大きさからネガティブなことが多くなってしまいました。
次回に満たされた子の姿を書いていこうと思います。
何度も言いますがここで書かれたような姿がお子さんにあったとしても、だからといってそれがすぐに「満たされていない」からということではないですからね。
子供の姿はいろいろな要因ででるものですから、現象が同じだから原因が同じとは限りません。
お子さんのちょっとした姿から「自分の子は満たされていないのではないか」なんて心配にとりつかれないでくださいね。
では、次回はもっとポジティブにいきますね~。
↓励みになります。よろしかったらお願いします。


| 2010-11-30 | 満たされた子供 | Comment : 14 | トラックバック : 0 |
『満たされた子供』 その2 -入れ物の大きい子- - 2010.11.25 Thu
先日まったくの偶然から妻が教え子に会い、僕が卒園させた教え子の中学校の学校公開があることを知り行ってきました。
いまは小学校だけでなく中学校でも学校公開あるんですね。
僕が担任した子供達は中学2年生で2歳から6歳の卒園まで見た子供達でした。
その前後の1年生と3年生も同じ幼児で早番・遅番などでも一緒だったので知っている子がたくさんいました。
中学生になりどんな風になってるだろうとドキドキしましたが、基本的にその人の性格とかってかわらないですね。
まあ、もちろん変ってないわけではないのだろうけど、その子の持ち味というか性格のエッセンスみたいなのってそのままなんですよね。
見た目はとってもかわってましたが。(笑)
本人達が忘れてしまっている小さい頃のエピソードを話してあげると恥ずかしいけどうれしそうに聞いていました。
その子たちは僕が初めて持った乳児(3歳未満児)であり、初めて卒園させた子供達でもあるのでとても思い入れがあります。
4年間連続で担任できたのもとても幸運でした。
しかし、僕自身まだまだ未熟だったので今思えばうまく出来ないこともたくさんあり、いまならもっと良い関わりをしてあげられたのにとその子たちには申し訳なく思う気持ちもあります。
2歳クラスで苦労したのは「噛み付き」の問題でした。
その2歳クラスに新入園で入ってきた女の子がいました。
2月生まれで月齢が低くとても幼い子でした。
新入園説明会でその子もいたのですが、僕はてっきり入園する子の妹かなんかの1歳児なのかと思ったくらいです。
その子が入園後たびたび他児に噛み付きがでるようになりました。
登園は早番の時間で8時前後、迎えはおばあちゃんに協力してもらっていて4時過ぎと保育時間は短いほうでした。
でも、ほぼ毎日噛み付き行為がでるのです。
遊べるように遊びを教えて相手をしたり、たくさん可愛がって安心して過ごせるようになどして、それでも噛み付きがいつ出るかわからないので、こちらも絶えず緊張してみているので毎日午睡の時間になる頃にはもうぐったりでした。(笑)
しかしそれでも他の子のところにいったり、ほんのちょっとした一瞬で噛み付きって出てしまうのですよね。
なんとか噛み付きがなくなるよう試行錯誤するのですが、初めての乳児でもあり経験がないのであまりうまくいきませんでした。
同僚の保育士はベテランでしたが、昔式のきちんと叱る、しつけるタイプの保育だったので、今思えばその子には逆効果になっていたようです。
家庭では家族やおじいちゃんおばあちゃんにとても可愛がられていて、満たされていないというタイプではありませんでした。
だから「なぜ、この子は噛み付きがでるのだろう?」と原因がわからないでいました。
いまならば、なぜかわかります。
ひとつにはまだ心が幼く環境に適応できなかったということです。
それまで集団の経験もなく、家庭でとても可愛がられ(ある意味甘やかされ)ていたので、他児との集団生活・大勢いる見知らぬ大人(職員など)といった環境に対する不安で、噛み付き行為がでてしまっていたということ。
そしてもうひとつは、「入れ物」が大きいタイプの子であったということです。
家庭でも可愛がられ、おじいちゃんおばあちゃんにも可愛がられ、保育園でもほかの子に較べてすらはるかにたくさんの関わりをもらっているのに(手がかかる?笑)それでも、この子の「入れ物」は満タンにならないほど大きいものであったということです。
「入れ物」は大きいから良い、小さいから悪い、またはその逆といったことはありません。
なぜか人それぞれ違った大きさの「入れ物」を持って産まれてくるというだけのことだと思います。
だからこの子に対しては、きちんと担当保育士(この場合僕でした)とのきずなを深め、安心してすごせるようにしていきながら、暖かい関わりを続けていくことで満たしていってあげれば、時間とともに改善していけたはずです。
しかし、僕も経験が少なく同僚のベテラン保育士がするように、噛み付きに対して叱ったりで対応していたために逆に悪化させ長引かせてしまいました。
たしかに噛まれてしまった子もかわいそうだけど、噛み付きがでるほど不安感をもって過ごしている子供も可愛そうなのですよね。
「大人の理屈」とか「正論」で子供に対応してしまうと、加害者のほうを叱ったりしてしまうわけだけれども、それではよい子育て・よい保育にはならなかったわけです。
いまではいい思い出なのですが、その子の登園拒否事件というのがありました。
クラス担任で打ち合わせをしているときに、その子の噛み付きが問題になり、「いつまでも保育士(僕のこと)に依存するばっかりではダメだから、自立に向かえるように毅然とした態度であなたばかりを相手していられないってことをしっかり伝えなさい」と先輩保育士に僕が指導されました。
その子はなぜか僕に担当が決まる前から、僕のことが気に入ってくれたみたいで、その後もずっと僕にまとわりついていることが多かったからです。
それで、あるときその子に「僕は○○ちゃんだけの先生じゃないから、他の子のお世話もしなきゃいけないんだから、いまは離れていてね」みたいなことを伝えました。
それからしばらくなんとなくいつもの元気がないな~とは思っていたのだけど、ある日お母さんから相談を受けました。
お母さんの話によると、「もう△△先生(僕のこと)は○○の先生じゃないからだめなんだって、もういかない~;;」と家で泣いているとのこと。
さすがにそれを聞いて先輩保育士も含めて話し合いをし、この子には自立を促すよりまずきっちり関係を作ることのほうが重要だということになり、その後関係を深めていくことで、噛みつきの方も終息に向かうのでした。
もともとが家でもたくさん良い関わりをもらっている子だったので、満たされてしまえばその後少しも手のかからない子になりましたよ。
今思うと、4、5歳の頃にはしっかりしていて手がかからないし、自分でなんでも出来るようになっていたので、1日のうちで直接関ることも少なくなってしまい、なんでもっとたくさん関わってあげなかったのかと悔やまれるくらいです。
30人近いクラスで他に手がかかる子が多かったりしたので、やむをえない部分もあるのだけど、まあいいほうに考えれば子供は小さいうちにしっかり向き合って関われば、その後余計な手がかからないということは言えるかな。
卒園してからもほぼ毎年バレエの発表会に呼ばれていったり、小学校の運動会にいったりして成長をみまもってきたけれども、2歳だった子がもう14歳。僕自身なんてほとんどなんにも変らないのに、子供が成長していくスピードの速いこと、なんとも不思議な気分にさせられます。
「入れ物」が大きい子もいれば、逆に小さい子もいます。
ある女の子なのだけど、親はかなり放任気味。
あまり良い関わりをもらっているようには見えないのだけれども、それでもその子は満たされない様子もなく笑顔で過ごせている子だったのです。
むしろその子に噛み付きが多発したとしてもだれも不思議に思わないような環境だったのだけど、その子は何の問題もなくまっすぐ育っていけました。
親の放任を補える人が周囲にいたとしても、それでは足りないのが普通なのですがね。
神さまはちゃんと見ていて、そういう家にそういう性格や入れ物をもった子が生まれるようにしてくれたのかな~?とやっぱり不思議な気分にさせられたエピソードでした。
まあ、こういうケースはまれだと思います。
たいていは放任されて育てばそれはもう、噛みつきまくりキレまくりの「満たされない」子になりますからね。
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いまは小学校だけでなく中学校でも学校公開あるんですね。
僕が担任した子供達は中学2年生で2歳から6歳の卒園まで見た子供達でした。
その前後の1年生と3年生も同じ幼児で早番・遅番などでも一緒だったので知っている子がたくさんいました。
中学生になりどんな風になってるだろうとドキドキしましたが、基本的にその人の性格とかってかわらないですね。
まあ、もちろん変ってないわけではないのだろうけど、その子の持ち味というか性格のエッセンスみたいなのってそのままなんですよね。
見た目はとってもかわってましたが。(笑)
本人達が忘れてしまっている小さい頃のエピソードを話してあげると恥ずかしいけどうれしそうに聞いていました。
その子たちは僕が初めて持った乳児(3歳未満児)であり、初めて卒園させた子供達でもあるのでとても思い入れがあります。
4年間連続で担任できたのもとても幸運でした。
しかし、僕自身まだまだ未熟だったので今思えばうまく出来ないこともたくさんあり、いまならもっと良い関わりをしてあげられたのにとその子たちには申し訳なく思う気持ちもあります。
2歳クラスで苦労したのは「噛み付き」の問題でした。
その2歳クラスに新入園で入ってきた女の子がいました。
2月生まれで月齢が低くとても幼い子でした。
新入園説明会でその子もいたのですが、僕はてっきり入園する子の妹かなんかの1歳児なのかと思ったくらいです。
その子が入園後たびたび他児に噛み付きがでるようになりました。
登園は早番の時間で8時前後、迎えはおばあちゃんに協力してもらっていて4時過ぎと保育時間は短いほうでした。
でも、ほぼ毎日噛み付き行為がでるのです。
遊べるように遊びを教えて相手をしたり、たくさん可愛がって安心して過ごせるようになどして、それでも噛み付きがいつ出るかわからないので、こちらも絶えず緊張してみているので毎日午睡の時間になる頃にはもうぐったりでした。(笑)
しかしそれでも他の子のところにいったり、ほんのちょっとした一瞬で噛み付きって出てしまうのですよね。
なんとか噛み付きがなくなるよう試行錯誤するのですが、初めての乳児でもあり経験がないのであまりうまくいきませんでした。
同僚の保育士はベテランでしたが、昔式のきちんと叱る、しつけるタイプの保育だったので、今思えばその子には逆効果になっていたようです。
家庭では家族やおじいちゃんおばあちゃんにとても可愛がられていて、満たされていないというタイプではありませんでした。
だから「なぜ、この子は噛み付きがでるのだろう?」と原因がわからないでいました。
いまならば、なぜかわかります。
ひとつにはまだ心が幼く環境に適応できなかったということです。
それまで集団の経験もなく、家庭でとても可愛がられ(ある意味甘やかされ)ていたので、他児との集団生活・大勢いる見知らぬ大人(職員など)といった環境に対する不安で、噛み付き行為がでてしまっていたということ。
そしてもうひとつは、「入れ物」が大きいタイプの子であったということです。
家庭でも可愛がられ、おじいちゃんおばあちゃんにも可愛がられ、保育園でもほかの子に較べてすらはるかにたくさんの関わりをもらっているのに(手がかかる?笑)それでも、この子の「入れ物」は満タンにならないほど大きいものであったということです。
「入れ物」は大きいから良い、小さいから悪い、またはその逆といったことはありません。
なぜか人それぞれ違った大きさの「入れ物」を持って産まれてくるというだけのことだと思います。
だからこの子に対しては、きちんと担当保育士(この場合僕でした)とのきずなを深め、安心してすごせるようにしていきながら、暖かい関わりを続けていくことで満たしていってあげれば、時間とともに改善していけたはずです。
しかし、僕も経験が少なく同僚のベテラン保育士がするように、噛み付きに対して叱ったりで対応していたために逆に悪化させ長引かせてしまいました。
たしかに噛まれてしまった子もかわいそうだけど、噛み付きがでるほど不安感をもって過ごしている子供も可愛そうなのですよね。
「大人の理屈」とか「正論」で子供に対応してしまうと、加害者のほうを叱ったりしてしまうわけだけれども、それではよい子育て・よい保育にはならなかったわけです。
いまではいい思い出なのですが、その子の登園拒否事件というのがありました。
クラス担任で打ち合わせをしているときに、その子の噛み付きが問題になり、「いつまでも保育士(僕のこと)に依存するばっかりではダメだから、自立に向かえるように毅然とした態度であなたばかりを相手していられないってことをしっかり伝えなさい」と先輩保育士に僕が指導されました。
その子はなぜか僕に担当が決まる前から、僕のことが気に入ってくれたみたいで、その後もずっと僕にまとわりついていることが多かったからです。
それで、あるときその子に「僕は○○ちゃんだけの先生じゃないから、他の子のお世話もしなきゃいけないんだから、いまは離れていてね」みたいなことを伝えました。
それからしばらくなんとなくいつもの元気がないな~とは思っていたのだけど、ある日お母さんから相談を受けました。
お母さんの話によると、「もう△△先生(僕のこと)は○○の先生じゃないからだめなんだって、もういかない~;;」と家で泣いているとのこと。
さすがにそれを聞いて先輩保育士も含めて話し合いをし、この子には自立を促すよりまずきっちり関係を作ることのほうが重要だということになり、その後関係を深めていくことで、噛みつきの方も終息に向かうのでした。
もともとが家でもたくさん良い関わりをもらっている子だったので、満たされてしまえばその後少しも手のかからない子になりましたよ。
今思うと、4、5歳の頃にはしっかりしていて手がかからないし、自分でなんでも出来るようになっていたので、1日のうちで直接関ることも少なくなってしまい、なんでもっとたくさん関わってあげなかったのかと悔やまれるくらいです。
30人近いクラスで他に手がかかる子が多かったりしたので、やむをえない部分もあるのだけど、まあいいほうに考えれば子供は小さいうちにしっかり向き合って関われば、その後余計な手がかからないということは言えるかな。
卒園してからもほぼ毎年バレエの発表会に呼ばれていったり、小学校の運動会にいったりして成長をみまもってきたけれども、2歳だった子がもう14歳。僕自身なんてほとんどなんにも変らないのに、子供が成長していくスピードの速いこと、なんとも不思議な気分にさせられます。
「入れ物」が大きい子もいれば、逆に小さい子もいます。
ある女の子なのだけど、親はかなり放任気味。
あまり良い関わりをもらっているようには見えないのだけれども、それでもその子は満たされない様子もなく笑顔で過ごせている子だったのです。
むしろその子に噛み付きが多発したとしてもだれも不思議に思わないような環境だったのだけど、その子は何の問題もなくまっすぐ育っていけました。
親の放任を補える人が周囲にいたとしても、それでは足りないのが普通なのですがね。
神さまはちゃんと見ていて、そういう家にそういう性格や入れ物をもった子が生まれるようにしてくれたのかな~?とやっぱり不思議な気分にさせられたエピソードでした。
まあ、こういうケースはまれだと思います。
たいていは放任されて育てばそれはもう、噛みつきまくりキレまくりの「満たされない」子になりますからね。
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| 2010-11-25 | 満たされた子供 | Comment : 14 | トラックバック : 0 |
『満たされた子供』 その1 -うちのむーちゃんの場合- - 2010.11.18 Thu
最近、むーちゃんがだいぶ歩くのが上手になってきたのでよく外をお散歩します。
するといろんな人に声をかけられるのが、「まだ、そんな小さいのにちゃんと手をつないで歩いてすごいですね」という言葉です。下町のせいか見知らぬおばちゃん、おばーちゃんでもよく言われます。
そしてそのあとだいたい続いて聞かれるのが、「やっぱりちゃんと教えているんですか?」
さらに、「うちの孫はすっとんでっちゃってちっとも一緒になんか歩いてくれないんですよ~」としばしばグチを聞かされます。(笑)
するといろんな人に声をかけられるのが、「まだ、そんな小さいのにちゃんと手をつないで歩いてすごいですね」という言葉です。下町のせいか見知らぬおばちゃん、おばーちゃんでもよく言われます。
そしてそのあとだいたい続いて聞かれるのが、「やっぱりちゃんと教えているんですか?」
さらに、「うちの孫はすっとんでっちゃってちっとも一緒になんか歩いてくれないんですよ~」としばしばグチを聞かされます。(笑)
「教えているんですか?」と言われると教えているわけではないので、「いや~、とくに教え込んでるわけじゃないんですよ、いつもそうするのを習慣にしているだけなんですよ」としかお答えできないのだけど。
立ち話であんまり深くも話せないのでたいていはそういう風にしか言えないのだけど、もっときちんと言えば、子供が十分に満たされた状態にあるので、なにげなくさらっとすることがすんなり子供は受け入れられるし、またそれが習慣化できる理由なのです。
つまり、子供が満たされた状態にあればなんであれ教え込まなくとも、子供は大人の意を汲んで大事なことはきちんと受け入れてくれるのです。
もちろん必要だと思うことは教え込んだっていいんですよ。
例えば、「ここは自転車がいっぱい走ってくるからきちんと手をつないで歩きますよ」と伝えたとします。
しかし、ここで満たされているか満たされていないかで、そのことがきちんと入っていくかいかないかは分かれてきます。
普段から満たされている子は、最初から完全にそうできないとしてもだんだんと理解していくことができます。だが、満たされていない子だとそういった自分の行動を規制する言葉はすんなりと受け入れがたいので、なかなか習慣化することは難しいのです。
むーちゃんは現在14ヶ月半くらい、でも理解力や思ったことを伝える力はとてもきちんと出来ています。
例えば、12ヶ月くらいですでに「手伝って」という言葉を適切に使って助けの必要なことを大人に表現していました。もちろんそんなはっきりした言葉でなくて「えっあっテ~」みたいな感じですが。
(くつした履くときとか、物を入れる遊びがうまくできないときや、目当ての遊具に手が届かなかったり、ひっかかって出せないときなど。「手伝ってほしかったの?」とかうまくいかなくてキーキーわめいてしまうときに「そういうときは手伝ってって言っていいんだよ」などと毎回声がけしてきたことで覚えたようです。)
「お散歩いこうか」といえば靴下と帽子をもってきて自分ではこうとするし、「そろそろお風呂はいるか」と呼びかけるわけでもなく口にだすだけで、いつもしているところにきて「お風呂だよっ♪」の踊りをします。
お風呂に入ったら入ったで、「ゴシゴシするよ」というと石鹸ついたのをみるとお腹を手でこすり出すし、「頭洗いますよ」といえば、お湯を手ですくって頭を濡らしています。
やらせようと思ってそうさせているわけではないですよ。ひとつひとつ理解しているので自分でそのことを進んでしているわけです。
絵本や遊びを繰り返ししてほしいときは「もう一回やって」というのができます。
これは1歳になる少し前くらいにはもう使えてたかな。
人差し指をたてて「も~ぃっかい」。当時はいまより言葉がうまくでてなかったのでなぜか「じっじー」
そんな言葉でも本人はきちんと「もう一回やって」といっているつもりだったんでしょうね。
いろんなものに興味があってなんでも持っていくけど、「それは大事な物だから返してね」というと1度で理解して返してくれるし、ご飯中に楽しくなったりしてよくイスから立ち上がるけど「食べるから座ってね」といえば座ることができます。
そういうのは僕や妻が保育士だから関わり方や伝え方がひとよりうまいから、というわけではなくてきちんと満たされた状態にあるから、すべてすんなり入っていけるのだと思うのです。
子供を満たす行為ってなんだろう?
前回のところでは、さまざまなうれしくなるような暖かい行為みたく書いたけど、本当はそれだけじゃないんだよね。
また、「甘やかす」ことで満たされるわけではないんですよ。(これに関してはこの辺を参照→ 「甘やかす」と「甘えさせる」のちがい )
日常のどんなことでもやりようによっては子供を満たしてあげる行為になるんだよね。
例えば、相手が生まれたばかりの赤ちゃんだからって「どうせわからないから」と無表情でオムツ換えるよりも、「きれいになってよかったね~気持ちよくなったね」とニコニコされながらすることできちんと子供の心は満たされていけるんだと思う。
以前にも紹介したけれど、言葉かけひとつでも「はやく○○しなさい」と命令されるより、「それがおわったら○○していいよ~」っていう言われ方をしたほうが、子供はずっと気持ちいいわけだね。
そんな普段からのちょっとした関わりの積み重ねが「子供を満たす」ということにつながるのでしょう。
僕はこの分かれ目は、「大人がその子供をひとりの人間・人格として尊重できるかできないか」の違いにあるんではないかとよく感じます。
まあ、そんな難しく考えなくたって、「我が子がかわいいな~」って思えてればその条件はクリアできるんだけどね。
だから、実はそんなに難しいことではないんですよ。
僕が保育士だから出来ているということでないんです、普通の人でも出来ている人はたくさんいますしね。
まあ、なにか必要な物があるとすればそれは親のほうの「心の余裕」かな。
「それがなかなか難しいんだよ」と言う人もいるかもしれないけど、『子育ての時間制限』なんかに書いたように、ちょっとした気づきでまったく気持ちを変えられるってこともありますので、考え方・心の持ち方しだいって部分もありますね。
なので僕はいつも「子育ては楽しんでしまった者勝ちだよ」というわけです。
そういうわけで、子供が満たされてさえいれば、わざわざしましまのトラがでてきて「○○ができるようになる」なんていうビデオを見せたり、「○○のしつけのための絵本」みたいなのを読んであげなくたって出来るようになっていくわけです。
小さい子供って教え込んだからといってなにかが出来るようになるわけではないから、そういうものを見せて出来るようになったと思っている人も、実は満たされていた子がたまたまそのできる時期になったから出来るようになったというだけなんじゃないかな。
満たされていない子はいくらそんなのを見せたり読んだところで、ちっとも出来るようにはならないからね。そういう子を実際に保育園でたくさん見てきました。
今は一般人にとって子育てってとても特殊なスキルになってしまっているから、現実には、満たされずに子供がいうことを聞かなくなってしまっている人ほど、そういった「○○ができるようになる」育児書やら、絵本やら、ビデオやら玩具に魅かれてしまうんだよね。
そんなことをするのだったら、子供にちょっとの時間でもしっかり向き合ってくすぐって遊んだり、「くっついた」みたいな親子で心が通い合うような絵本でたのしい時をすごしたりするほうがよっぽどいいと思うのです。
そんなことを言うのも子供は満たされていなければちっとも前には進めないからです。
これは嫌というほどこれまで目にしてきたから、断言できることなんです。
満たされた子と満たされていない子でははっきりとした違いがでてきます。
次回その辺の違いというものを具体的に書いていこうと思います。
また、前回のところででた「入れ物」と「マイナスの物」のお話も今後していくつもりです。
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立ち話であんまり深くも話せないのでたいていはそういう風にしか言えないのだけど、もっときちんと言えば、子供が十分に満たされた状態にあるので、なにげなくさらっとすることがすんなり子供は受け入れられるし、またそれが習慣化できる理由なのです。
つまり、子供が満たされた状態にあればなんであれ教え込まなくとも、子供は大人の意を汲んで大事なことはきちんと受け入れてくれるのです。
もちろん必要だと思うことは教え込んだっていいんですよ。
例えば、「ここは自転車がいっぱい走ってくるからきちんと手をつないで歩きますよ」と伝えたとします。
しかし、ここで満たされているか満たされていないかで、そのことがきちんと入っていくかいかないかは分かれてきます。
普段から満たされている子は、最初から完全にそうできないとしてもだんだんと理解していくことができます。だが、満たされていない子だとそういった自分の行動を規制する言葉はすんなりと受け入れがたいので、なかなか習慣化することは難しいのです。
むーちゃんは現在14ヶ月半くらい、でも理解力や思ったことを伝える力はとてもきちんと出来ています。
例えば、12ヶ月くらいですでに「手伝って」という言葉を適切に使って助けの必要なことを大人に表現していました。もちろんそんなはっきりした言葉でなくて「えっあっテ~」みたいな感じですが。
(くつした履くときとか、物を入れる遊びがうまくできないときや、目当ての遊具に手が届かなかったり、ひっかかって出せないときなど。「手伝ってほしかったの?」とかうまくいかなくてキーキーわめいてしまうときに「そういうときは手伝ってって言っていいんだよ」などと毎回声がけしてきたことで覚えたようです。)
「お散歩いこうか」といえば靴下と帽子をもってきて自分ではこうとするし、「そろそろお風呂はいるか」と呼びかけるわけでもなく口にだすだけで、いつもしているところにきて「お風呂だよっ♪」の踊りをします。
お風呂に入ったら入ったで、「ゴシゴシするよ」というと石鹸ついたのをみるとお腹を手でこすり出すし、「頭洗いますよ」といえば、お湯を手ですくって頭を濡らしています。
やらせようと思ってそうさせているわけではないですよ。ひとつひとつ理解しているので自分でそのことを進んでしているわけです。
絵本や遊びを繰り返ししてほしいときは「もう一回やって」というのができます。
これは1歳になる少し前くらいにはもう使えてたかな。
人差し指をたてて「も~ぃっかい」。当時はいまより言葉がうまくでてなかったのでなぜか「じっじー」
そんな言葉でも本人はきちんと「もう一回やって」といっているつもりだったんでしょうね。
いろんなものに興味があってなんでも持っていくけど、「それは大事な物だから返してね」というと1度で理解して返してくれるし、ご飯中に楽しくなったりしてよくイスから立ち上がるけど「食べるから座ってね」といえば座ることができます。
そういうのは僕や妻が保育士だから関わり方や伝え方がひとよりうまいから、というわけではなくてきちんと満たされた状態にあるから、すべてすんなり入っていけるのだと思うのです。
子供を満たす行為ってなんだろう?
前回のところでは、さまざまなうれしくなるような暖かい行為みたく書いたけど、本当はそれだけじゃないんだよね。
また、「甘やかす」ことで満たされるわけではないんですよ。(これに関してはこの辺を参照→ 「甘やかす」と「甘えさせる」のちがい )
日常のどんなことでもやりようによっては子供を満たしてあげる行為になるんだよね。
例えば、相手が生まれたばかりの赤ちゃんだからって「どうせわからないから」と無表情でオムツ換えるよりも、「きれいになってよかったね~気持ちよくなったね」とニコニコされながらすることできちんと子供の心は満たされていけるんだと思う。
以前にも紹介したけれど、言葉かけひとつでも「はやく○○しなさい」と命令されるより、「それがおわったら○○していいよ~」っていう言われ方をしたほうが、子供はずっと気持ちいいわけだね。
そんな普段からのちょっとした関わりの積み重ねが「子供を満たす」ということにつながるのでしょう。
僕はこの分かれ目は、「大人がその子供をひとりの人間・人格として尊重できるかできないか」の違いにあるんではないかとよく感じます。
まあ、そんな難しく考えなくたって、「我が子がかわいいな~」って思えてればその条件はクリアできるんだけどね。
だから、実はそんなに難しいことではないんですよ。
僕が保育士だから出来ているということでないんです、普通の人でも出来ている人はたくさんいますしね。
まあ、なにか必要な物があるとすればそれは親のほうの「心の余裕」かな。
「それがなかなか難しいんだよ」と言う人もいるかもしれないけど、『子育ての時間制限』なんかに書いたように、ちょっとした気づきでまったく気持ちを変えられるってこともありますので、考え方・心の持ち方しだいって部分もありますね。
なので僕はいつも「子育ては楽しんでしまった者勝ちだよ」というわけです。
そういうわけで、子供が満たされてさえいれば、わざわざしましまのトラがでてきて「○○ができるようになる」なんていうビデオを見せたり、「○○のしつけのための絵本」みたいなのを読んであげなくたって出来るようになっていくわけです。
小さい子供って教え込んだからといってなにかが出来るようになるわけではないから、そういうものを見せて出来るようになったと思っている人も、実は満たされていた子がたまたまそのできる時期になったから出来るようになったというだけなんじゃないかな。
満たされていない子はいくらそんなのを見せたり読んだところで、ちっとも出来るようにはならないからね。そういう子を実際に保育園でたくさん見てきました。
今は一般人にとって子育てってとても特殊なスキルになってしまっているから、現実には、満たされずに子供がいうことを聞かなくなってしまっている人ほど、そういった「○○ができるようになる」育児書やら、絵本やら、ビデオやら玩具に魅かれてしまうんだよね。
そんなことをするのだったら、子供にちょっとの時間でもしっかり向き合ってくすぐって遊んだり、「くっついた」みたいな親子で心が通い合うような絵本でたのしい時をすごしたりするほうがよっぽどいいと思うのです。
そんなことを言うのも子供は満たされていなければちっとも前には進めないからです。
これは嫌というほどこれまで目にしてきたから、断言できることなんです。
満たされた子と満たされていない子でははっきりとした違いがでてきます。
次回その辺の違いというものを具体的に書いていこうと思います。
また、前回のところででた「入れ物」と「マイナスの物」のお話も今後していくつもりです。
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