「父兄」と「父母」の違いの裏にあるもの ~女性の人権~ - 2018.01.18 Thu
これはある種の必然で、男性保育士の問題の背景には、人権の理解の乏しさが関わっていることが多いからです。
そして、この問題は男性に限ったことではありません。
人権というのは、なにも大仰なことではないのです。
人を相手にしている職業においては日常の中で不断に関わってきます。
特に、保育はとても近い距離で人(子供・大人)と関わります。
一般的なサービス業といった職種も人と関わりますが、それは接遇マナーといったものを守れば事足りる範囲であるのに対して、保育はさらにそこからもっと踏み込んだ立場で関わっています。(医療・介護・教育なども同様の性質を持つ)
それゆえに、保育士は人権についての理解と、その継続した学びが必要です。
例えば、おむつ替えひとつとっても、相手の人権について理解している人とそうでない人では関わりの実際、そこにおける感情の交流がまったくと言っていいほど変わってきます。そして、そこから子供の中に育まれるものも・・・・・・。
これについてはまた別の機会に見るとして、今回は「父兄」と「父母」という言葉について考えてみたいと思います。
「父兄」と「父母」といういい方、みなさんは通常どちらを使うでしょうか?
おそらく多くの方が、現在では一般的に「父母」という表現を使っているのではないでしょうか?
かつては「父兄会」と呼んだものも現在では「父母会」「保護者会」といったいい方になっています。
以前は、一般に保護者を指して「父兄」と呼び習わしていましたが、そこから「父母」さらには、「保護者」、いまでは保護者といういい方も避けて「おうちの方」と呼んだりするところもあります。
しかしながら、古くからある施設や、年配の保育士などでは昔からの習慣で、つい「父兄」といったいい方を使ってしまう人も見られます。
おそらく、いまの方はほとんど「父兄」といういい方はしなくなっているかと思います。
では、なぜ「父兄」ではなく「父母」と呼ぶべきなのかその理由も理解しているでしょうか?
ここにもやはり人権の問題が関わっており、これからの家庭支援を考える上でも基本的なところです。
まず、この問題の背景をとりあえず理解するには、「選挙権」で考えるとわかりやすいです。
はるか昔、王様がいた時代は、政治に参加する権利はごく一部の人のものでした。
その後、近代にいたり、参政権がだんだんと広がっていきます。
それでも最初は、ごく一部の人だけのものでしたが、「市民」という考え方の広まりとともに、さらに拡大されます。でも、まだ男性の一部だけです。
そこから、さまざまな努力の上に、成人男性全体へと広がりました。
それでもまだ、女性には参政権がありません。
この時代は、「女性は男性に劣るもの」といった社会通念がありました。(その後の女性参政権獲得への激動期を私たちは小説『赤毛のアン』の中で触れることができます)
日本で、女性も選挙権が得られたのは、戦後になってからの1945年(昭和20年)です。
しかし、その後も男性が上で女性が下といった通念は社会の中で残り続けます。
そのひとつの表れが子供の保護者を指して「父兄」とする呼び方です。
その呼び方をなんの悪意もなく使ったとしても、そこには歴史的背景として、「女性は取るに足りないもの」という考えを反映したものであることは揺らぎません。
ですから、現在は「父兄」という呼び方は不適切と考えられるのです。
日本でこの背景にあるのは、戦前にあった「家父長制」というものです。
この制度は、法的には戦後の日本国憲法下では失効しますが、現実問題としてそういった通念は残り続けます。むしろ、高度経済成長期において父親が、家庭内唯一の収入の主体になったことで「強い父親像」が強化されたとすらいえるでしょう。
現在でも、児童虐待の被害にあった人の支援をしている方などは、「私たちは日々家父長制の亡霊と戦っている」といったことをもらしています。
これと同様のことを、子育てカウンセリングをしている僕自身、多くの人の相談の背景に頻繁に感じます。
◆おわりに
「父兄」という言葉を使わなければ問題ないのではないか、と思うかもしれません。
しかし、僕がなぜいまさら「父兄」と「父母」の違いを指摘したかというと、実はこの問題は終わっていないからです。
仮に、園に荒れている子がいたとします。
もしかすると、その子が荒れている背景には、母親が夫から経済DVを受けていたり、その親や義父母から攻撃的だったり、支配的な関わりを受けているのかもしれません。
それがまわりまわって子供に影響を与えています。
その子の問題を解決しようと思ったとき、その親への理解が必要です。
そういった子や親に支援をしなければならない時代になっています。
今度改訂の保育所保育指針も、家庭支援を重視していますよね。
言葉の上のアプローチだけならば、そういった対応の上手い人の受け売りでもできます。しかしそれでは、そこにともなう感情までは寄り添ったものになるとは限りません。
そのとき、その親の立場を理解し寄り添えるか、それとも否定的にとらえることになるのか、それは保育者のそのような背景への理解がものをいうのです。
参考:『家父長制とジ ェ ンダー平等 -マイノリティ女性条項が新設された2004年DV法1を手がかりに-』 三重大学教授 岩本 美砂子
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nenpouseijigaku1953/57/1/57_1_171/_pdf
:『日本の家族制度』 小樽商科大学教授 江頭 進
http://www.otaru-uc.ac.jp/~egashira/diary/Cambridge/family.htm
| 2018-01-18 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
名前を呼び捨てにすること ~子供の人権~ - 2018.01.17 Wed
なぜ子供を呼び捨てで呼ぶべきでないのか?
◆「男性だから許される」はない
女性でもこの問題は同様ですが、一般的な男性観から、男性保育士の中には「男性だからそれが許される」といった感覚を持つ人もいるようです。
これは性差を強調することであり、男女平等を旨とする現在の社会においてそれはそぐわしいことではありません。
ゆえに、「男性だからそれをしても許される」という意見や意識は、論理的な主張になりえません。
この点、男性であろうと、女性であろうと関係ないのです。
このような主張をしてしまうと、男性保育士は社会的に受け入れられない方向にいきます。
男性保育士の方は、この見解におちいらないよう気をつけましょう。
◆閑話 アニメ『サザエさん』に見る一般的男性観
あのアニメはあのアニメなりに、その時代の意識を反映させるべく意識をしていますので、現在は変わっているかもしれませんが、かつてはその時代の感覚のまま性差をそのまま出している表現がありました。
例のごとく、カツオ君がなにかをやらかしたときに、
ふね「おとうさんにいいつけますよ」
また別の場面では、
サザエ「とうさんが帰ってきたら叱ってもらいますからね」
この言葉に違和感を感じますでしょうか?
または、この違和感の正体がわかりますでしょうか?
この言葉には、前提として「男性が叱るもの」「男性は子供に強く出るもの(or出ていい)」というとらえ方があります。
この感覚は、上で述べたような「男性だから子供を呼び捨てにしていい」といった理解を人に持たせる背景にあるものと同じです。
また、それが派生すると「男性は子供に体罰を振るっていい」といったものへ発展する可能性を秘めています。
このふねさん、サザエさんのスタンスは子供を適切に子育てする見地から見ても不適切な対応と言えます。
もし、その子供の行動を見た当事者として、ふねさんなり、サザエさんなりがいるのならば、その人自身の意見・感覚から「その行動はおかしい」とか「それはやめて下さい」と伝えるべきことです。
これが、1対1、人対人としての適切な関わりです。
にもかかわらず、そこにいた当事者でもない人を出してきて、「その人から叱ってもらう」というアプローチは、完全に「子供を力で押さえつける」(威圧)方向での子育てになってしまいます。
これをすれば、子供は力で押さえつけられているときだけは大人の要求する行動を取るが、その押さえつけがないところでは大人の要求に自発的に従わない子に導いてしまいかねません。
ここからわかることは、男性だから女性だからといった価値観や、どちらが上だから下だからといった価値観でもなく、子供も大人も同じウエイトを持った人対人の関係から子供へのアプローチを出発することの大切さです。
子供にすべきでないことを指摘するのならば、「誰かに叱られるから」(威圧)ではなく、「私が嫌です」と正直な気持ちや感情を提示する「信頼関係」を用いた関わりの方がそぐわしいのです。
閑話休題。
ここからが本題です。
◆呼び捨てにしてきた事実の背景
子供を呼び捨てにすべきでない理由は、子供の人権にあります。
人間の人権は、誰しもが等しいものです。
そこに、年齢や性別、国籍、人種といったことの差異はありません。
人権の観点から見れば、子供も大人も同様ということがわかります。
しかし、それが昔からまっとうされていたわけではありません。
子供はその未熟さゆえに、不十分な人間と見なされていた時代があります。
そもそも「子供」という、現在ではだれもが当たり前と考えているとらえ方そのものがありませんでした。
当たり前すぎて、現在ではいちいち気に留めることもなくなっていますが、では「子供」とはなんでしょう?
現代では、子供は守られ、食事をしたり清潔にしたりといった基礎的なことも含めて適切に養育され、教育を受け、遊び、健やかに大人になっていくべき存在としてあります。さらに忘れてならないのは、子供が親(大人)の従属物でなく、独立した主体ということです。
しかし、それは昔からではありませんでした。
子供の命は安かったり、子供の健康を社会的に守ってあげる必要もなかったり、教育を受ける権利が保障されていなかった時代・社会があり、そこからだんだんと現在に至るまで改善されてきています。
このあたりは、ルソーの『エミール』から「子どもの権利条約」への流れで、保育士になる際にみな学んでいます。
そのさらに元には「近代的自我」ということがあります。「人権」という概念を理解するには「近代的自我」が密接に関連しています。
「近代的自我」の確立ゆえに、「個人の独立」があり、そこから「個人の尊重」「個人の人権」「市民権」といったものが派生します。
そこに遅れて「子供」という概念の確立が加わり、ようやく「子供の人権」に至ります。
この部分は、あまり保育士養成の過程では習わないかと思いますので、ここでは軽く触れるにとどめておきましょう。
何が言いたいかというと、現在当たり前と思っている「子供」というものは、もともとあったものではなく、社会の進歩にともなって先人たちが築きあげてきたものだということです。
また、それは同時に壊れてしまう可能性もはらんでいるということです。
その時代時代を生きる人が守っていかねば、簡単に壊れてしまう砂の城のようなものです。
ですから、その時代に生きる人は、それら人権を損ねることなく、むしろ向上させ、次の時代にバトンタッチしていく責務があります。
◆それらを踏まえて、名前を呼び捨てにすることを今一度振り返ってみましょう
1,かつて子供が尊重されていない時代があった
↓
2,多くの人の努力で子供を尊重する時代になってきている
現代はこの2,のところにいます。
子供を呼び捨てにするといった行為は、1,の時代にしていたことです。
では、2,の時代である現代において、子供を守る立場である資格を持った保育士が呼び捨てにすることは果たして許容されることでしょうか?
このことは、保育士でない一般の人であったとしても尊重して守っていくべきことであるのですから、保育士がその点に留意しなければならないのは言うまでもないことです。
大人が子供を呼び捨てで呼ぶことは、「大人が上で子供が下」という上下意識を強調するものであり、そこから子供の存在を軽んじる方へつながる可能性を否定できません。
私たちの歴史は過去にそういった子供を不当に扱っていた時代を経てきており、その片鱗はいまに至ってもまだ残っている現実の中におります。
だからこそ、保育者が率先してそれに留意していかなければならないのです。
(もし、子供の呼び捨てが人権を損なわない例外があるとすれば、同時に子供にも大人を呼び捨てで呼ばせるケースです。
インターナショナル系の保育施設などは、このケースが該当し、文化的な経緯とあいまって、一定の論理的主張となりえるでしょう。
ただし、現状の日本の子育て文化の中では、外国のような上下関係を強調せずに人を愛称としての呼び捨てで呼ぶ文化が一般的とは言いがたいため、このケースをすべてに当てはめることには無理があると言えます。
それゆえ、一般的な保育施設では園側が「我が保育園ではそのようにしています」と主張したとしても、預ける保護者側が必ずしもそれに同調できるとは限らないのでそれが適切と判断できる状況は多くないでしょう)
◆子供の人権についての法的根拠は?
児童福祉法のさだめるところや、「子どもの権利条約」への批准にあります。
条約への批准には、法的効力があります。
よって、日本国民には、子供の人権を守り、それをさらに推し進めていく義務があるのです。
いわんや保育士をや。
◆「自分にはそんな悪意はない」という主張に対して
「私はそれをしていたが、そんな差別的な意図はなかった」という反論があった場合。
それ自体は、「ああ、そうだったのですね。今後重々注意して下さいね」と返していいでしょう。
無知は必ずしも罪ではないからです。
しかし、本来理解していなければならない有資格者が無知であったというのは、あまり褒められたものではありません。実際はあってはならないことですが、人は誰しもあやまちをおかすものですから、そこは理解をうながして許容していっていいでしょう。
しかし、
「自分にはそんな悪意はないのだからやっていいのだ!」という強弁につながってしまう人はまた別です。
知らずに間違ってしまったことが大目に見て許されたとしても、不適切であることを指摘されたのであれば、それを理解するよう努めるのが社会人としての大人の態度です。
問題を明確に指摘されたにもかかわらず、自身の我を通そうというのは、大人になりきれていない未成熟な態度と言えます。
類するものに、「私は愛情を持ってやっているのだ」というものもあります。
「悪意がないのだからやっていい」というのも、「愛情があるのだからやっていい」という主張も、人間的にはあまりに幼い未成熟な態度と言えます。
これは児童虐待をする人の主張に通じます。
「これは悪意なくしつけとしているのだから暴力を使うことに問題ない」
「愛情があるから子どもに暴力を振るっていい」
このような主張が現代において通らないことは、当然のこととして理解できることと思います。
ちなみに、この「悪意がないのだからやっていいのだ」という主張は、先般、芸能人がブラックフェイスをしてコントをした事件と同様の構造を持っています。
いまだに正式な謝罪がでていないようですが、その態度は「悪意がないのだから問題がない」という、社会的に大変未成熟な主張にしかなりません。
諸外国も注目する事件なだけに、国際社会の一員として大人の対応が求められていると言えるでしょう。
| 2018-01-17 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
男性保育士のあり方について vol.2 - 2018.01.16 Tue
一般に、「大人になっても子供の心を持つ男性」「ガキ大将的存在」といったものをもてはやすムーブメントがあります。
なるほど、それもひとつの個性であり、悪いことではありません。
なかにはキャラクターとしてそれを意識しているひともいるかもしれません。それもまた、そういうこともあっていいでしょう。
しかし、保育の専門家として保育士をするのでしたら、その借り物のイメージにまんまと乗せられすぎてもそれはそれで問題がでてきます。
そういったものは、例えば普段の言葉遣いなどに端的に出てきます。
こんなケースがありました。
ある園に男性の新卒新人保育士が入ってきました。
その男性保育士は、子供に声をかける際、名前や名字を呼び捨てにしたり、「ガキども」と呼んだりします。
その男性に悪意はないようです。
同僚の女性保育士が、その行為が不適切であることを指摘し説明しましたが、ふてくされた態度をとりきちんと受け止めようとしません。
数度それが繰り返され、表面上はそれをしなくなりましたが、職場での態度を硬化させ、また同僚の保育士が見ていないところや、非常勤やパート職員の前では呼び捨てなどを続けています。
◆子供の呼び方、言葉遣い
子供を呼び捨てで呼んだり、「ガキども」といったぞんざいないい方をすることで、男性性をアピールする文化・価値観が、たしかに一般にはあります。
しかし、そのスタンスからステップアップしないままでは、プロとして保育士をするには、不見識・不勉強というものです。
その男性保育士は、その人自身の、自意識・美意識の中では、そのように男っぽく振る舞うことがかっこいいという気持ちがあるのではないでしょうか。
その人は、そういったポジションに収まることで、自分の自己表現・自己実現をしたかったのでしょう。
残念なことに、この人が見ているのは子供でも保育でもなく、「自分」です。
それでは、職場の中でも、社会の中でも男性保育士の存在が認められるべくもありません。
もちろん、このような人は一部です。
多少そういった傾向がある人がいるとしても、それをみながみな問題となる程まで出しているわけではありません。
しかし、男性保育士という職業はその希少性ゆえに、自己アピールのためにその仕事を選ぶ人もおります。それ自体は否定しませんが、結果的に、口だけは立派だけど「自分のための保育」をしてしまう人が見られます。
これはどの職業でも言えることですが、真摯な助言には、我を張らず耳を傾ける必要があります。
たとえ間違いがあっても、それで改善がなされればいいのです。
もし、問題を他者に指摘されて傷ついてしまうほど高いプライドを持っているならば、それに倍するだけ自分で率先して学び、問題とされないだけの見識を持つ必要があります。
しかし、往々にして「自意識としてのプライド」の高い人は、自身の考えに迎合する意見しか学ぼうとしないものです。
持つべきは、「職務に対してのプライド」なのです。
職務に対して誠実な責任感や意欲としてのプライドを持てているのならば、自身への否定的な意見であっても消化していくことができるはずです。
男性保育士に対するさまざまな意見を聞いていると、単に「我が強いだけの困ったちゃん」であるケースが少なくありません。
「プライド」という概念を誤解すると、我を押し通すだけの問題児になってしまいます。若い人は得てしてそういう傾向のあるものかもしれませんが、保育は対人が基本の仕事ですので、他者との信頼関係の形成ができない人には向きません。
この点、意識する必要があると思います。
視点を子供に持っていって、「自分のための保育ではなく、子供のための保育」を考えていくようにするといいのではないでしょうか。
その上で、そこに自己実現ができるようになったとき、自他ともに認められる仕事ができるでしょう。
実は、この自身の自意識と対人関係の問題は、男性ばかりとはかぎりません。
非常に多くの保育施設での問題となっています。
この点から、職員間の人間関係の問題や、保護者とのトラブル・対立などの問題が起こることがあります。
ここを見据えての園内研修なども、問題を未然に防ぐために有効です。。
もし、研修などをお考えの方がいらっしゃいましたら、僕のホームページの方にお問い合わせ下さい。
関連で、次回は呼び捨てで子供を呼ぶことのなにが問題なのか考えてみましょう。
実は、子供に関わる際のとても大きな問題がそこには隠れています。
| 2018-01-16 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
男性保育士のあり方について vol.1 - 2018.01.13 Sat
しかし必ずしも、いい話ばかりではありません。
男性保育士ゆえに、おちいりやすいところがあるように感じます。
まったくの私見ではありますが、なにかの参考になればと僕の気づきを書いておこうと思います。
◆他の保育士に対するライバル心からはステップアップしよう
女性中心の職場に飛び込むわけですから、それなりの意気込みやモチベーションが必要ではあるでしょう。
それゆえにか、「自分は女性保育士には負けない」とか、「他者に上回りたい」といった心情になっている人もおります。
若いうちは得てしてそういうものかもしれませんが、まあそう気負わなくてもいいでしょう。
なぜなら、それは子供の育ちには関係ないからです。
保育は、誰かに「勝つ負ける」ではありません。
その思いで保育をしていたとしたら、その人は保育と子供の向こうにいる「自分」を見ていることになります。
それでは、子供は誰かに勝つための材料になってしまいます。
個々の子供になにができるかが保育の目的であって、自分のための目に見える手柄を追求する必要はありません。
しかしながら、子育てや教育の本当の成果は短期的に結果がでないものなので、ともすると目先の手柄を追うことにおちいってしまいます。
その傾向は、男女問わず存在するものですが、男性保育士には特にそれが強くある人もおります。
そういったライバル心ゆえに、先輩保育士(特に女性)からの真摯なアドバイスも受け止めないケースがしばしばあります。
そうなると、保育はチームで取り組まなければできないことなのに、同僚との信頼関係の構築ができなくなってしまいます。
その結果、年齢や経験年数が上がったとしても、若いときから変わらない我流の保育のままになります。
◆主観(自己満足)の保育にならないよう、冷静に自分を見る視点を持とう
自分の手柄を追求するための保育をしている人は、本当に保育の専門性の必要な子へのケアができません。
できる子やできる子の親からすると、その人は「個性的でおもしろい」とか「いい先生」に映ります。
でも、そうでない子やそうでない子の親からは、プラスに受け止めてはもらえません。しかし、そうそうそのことを指摘する親はいないので、そういった保育を長年続けていてすら、その保育士は「自分は仕事ができている」と自己満足をし続けることが可能になってしまいます。
ある種の自己満足をすると、さらに同僚や先輩からのアドバイスを受け付けなくなってしまうので、悪循環が起きます。
男性保育士の問題点を指摘する声には、非常にこのふたつのケースが多いです。
方々から同様の意見が寄せられます。
男性保育士の方には、どうか気をつけていただきたい点です。
◆悪しき男性文化におちいらないだけの見識を持とう
僕自身、現場の保育士だったときに、男の子を持つ父親から「うちの子がなにか悪さしたら遠慮無くひっぱたいて下さい」ということをいわれた経験が複数あります。
ここに見られるのは、これまでの男性の価値観として「子供に対して強く出られる男性像」を美化する意識が世間一般にはあるということです。
平たくいえば、「子供をひっぱたける俺かっけー」という男性の持つマッチョイズムです。
(同時にここには、性差による対応の違い、「男子には叩いてよい」「女子は叩くべきでない」という理解も見受けられます。この意識は、ひいては性差別の多い生きにくい社会の元ともなってしまいます)
言うまでもなく、それは保育や教育においてしてはならないことです。
この意見に同調してしまうことは、現代の保育士として不適切な態度です。
それは単に「子供に手を上げてはならない」ということだけを言っているのではありません。
実際に手を上げなかったとしても、このスタンスで多様な子供に臨むことは、できない子、幼い子、弱い子、家庭に問題を抱える子などに対しての不寛容さ、非許容的な態度を形成してしまうことにつながります。
特に、上で指摘したような自分の手柄を立てるための保育になっていれば、そういった子に対して排除の論理・感情が生まれます。
例えば、
「練習に参加しないなら、あっちへいきなさい」
といった、不寛容で冷たい態度、疎外の保育が導き出されます。
ですから、男性保育士と言えども、昔あった価値観に流され、子供に対して強圧的になるなどの「男性の武器」を使うべきではないのです。
しかし、残念なことにこの傾向を持つ男性保育士の話は、いまだに少なくないのが現実です。
このブログのコメント欄でも、子供をあずける親や同僚保育士の声として、「整列しようとしない子に対してとても怖い顔を向けたり、怒鳴ったり、叩いている男性保育士がいて胸が痛い」といった意見がときどき寄せられます。
「男だから子供に強く出るものだ」
という理解は、社会が封建的だったり、前近代的だったりする古い時代の考え方です。
わざわざ男性として保育の世界に飛び込むのですから、むしろ「男なのに、ことさら強さや力を使わずとも子供を適切に育てられる」ということを体現できてこそ、プロとして男性の保育士をすることの意味合いがより大きいのではないでしょうか。
◆威圧でない保育を模索しよう
力に依存する保育は大変危険なことです。
家庭や子供の情緒、発達が安定している子であればまだしも、そうでない子がの問題の指摘が増えているのが現代です。
例えば、発達障がいのある子に、力や威圧によって「できること」を求めていくとどうなるでしょう。
それをしたところでその子はその保育士思い通りにならないので、結果的にだんだんとそういった威圧(怒る、叱る、注意、疎外など)は強まっていくことになります。
すると、その子は他者への信頼感や、自己肯定感、ものごとに取り組む意欲を奪われていきます。つまり、二次障がいを生みます。
保育士の不見識によって、本来の力を奪われ「落ちこぼれ」にされてしまいます。
このことは発達障がいの子だけではありません。全ての子において同様です。
威圧や体罰のような力に頼った保育をしてはならないのです。
余談ですが、僕のようにスポ根世代に育った人間にとって、野球の清原選手の一連の顛末は、こういったマッチョイズムのむなしさを端的に浮き彫りにしたものだったと思わずにはいられません。
あれが「男」をひけらかすことで生きてきた人の真実像ではないでしょうか。
自身の自尊心を、強い男性性に依拠することで、かえって生きづらさを持つことになってしまっていました。
すでに諸外国では、男性性、女性性によらない社会を作る努力をかねてよりしています。
日本も遅まきながらそれを目指す時代になっています。
しかし、昔ながらの考え方とそこから形成されている社会のあり方があって、それは遅々として進みません。
男性でありながら、保育というそれまで女性の世界だったところに飛び込んだ人には、単に「保育」にとどまらないさまざまな意味合いと可能性があるとは思いませんか。
それを果たしていけば、「男性保育士には、うちの娘のオムツを替えてもらいたくない」といったことも言われない日が来るはずですよ。
| 2018-01-13 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
『「自主性・主体性」の保育の理解と実践』セミナーを終えて vol.2 - 2017.07.05 Wed
僕の保育セミナーにいらっしゃる人には、保育士以外の前職があってそこから保育士資格をとって保育施設で働いたという方が比較的多いようです。
中にはそれこそ僕の本やブログを読んで、迷っていたけど背中を押されてなりましたなんていう方もいらっしゃって恐縮です。
しかし悲しいのは、そんな志あって保育士になったのに、勤めてみたところはそれこそ僕が旧態依然とした無自覚な保育と書いているような施設で日々の仕事がつらいです、というケースが少なくないことです。
また、非常勤やパートで働いているのだけど「職員の先生たちの保育に疑問を感じているので学びに来ました」という方も多いです。
これもまた悲しいことなのだよね。
非常勤やパートの保育士が学びに来てはいけないということではなくて、本来率先して自分たちの保育を考えたり向上させたりしなければならない正規の職員が、問題に気づかず動こうともしていないということが。
非常勤やパートの人のさらに少し先には、保護者の目があるわけですから、そのような保育は遠からず保護者からも不満を持たれていたり、おかしいのではないかと指摘される、そういったことが現在進行形であったり、近い将来起こりうるということも示唆しています。
保育は常に対象が移り変わっていくわけですから、どんなにいい保育ができていたとしてすら「これでいい」という終点があるわけではないのですね。
常に、「これでいいのかな?」という視点を持って自身の保育を見つめていく必要があります。
そうであれば、40年前と同じレベルといったことはないはずなのだけど、人の性(さが)というもので「自分のしていること、してきたことは正しい」という気持ちから、無自覚な保育におちいりやすいもののようです。
今回のセミナーのアンケートの中で、「一緒に働く同僚や先輩にも、知ってもらいたいと思う内容は何でしたか?」という質問に「今日のセミナーの内容すべて」という方も多く、無自覚な保育が行われている施設の多いなかでみなさん悩んでいることを感じます。
自分で言うのもなんですが、今回のテーマと内容は非常におもしろかったと思います。
こういった保育の講演などをしている方は結構な数いるけれども、今回のような話ができる人はそう多くないのではないかな。
というのも、確かに「子供の自主性・主体性」といったことを語る人はたくさんいます。
しかし、保育の研究者などはその理念的なウエイトが大きくなり、高尚な話になりがちだったり、子供に対しての展開の模範的ケース(最近の流行だとレッジョエミリアなど)を語るものがほとんどです。
つまり、研究レベルでの話と、きれいに整った話になってしまいます。
それらはそれらでもちろん意味があるのだけど、こういった話が保育にプラスの影響を与えられる現場のケースは、「もともと一定レベルの保育をしている良質な施設」というのが現実なのです。
多くの施設でも、そういったものを上辺だけ取り入れて「子供に”自主的で主体的な”素晴らしい芸術活動を保育に取り入れた」ということはできるのだけど、一方で、例えばお散歩ロープで子供を引っ張って歩いていることに自主性や主体性を損なってしまうものが含まれていることに気がつかせることはありません。
このあたりが、これまでの保育の学びの在り方が、本質的な保育の向上につながっていかないジレンマを表しています。
僕は、「高尚な保育」「メディアでもてはやされてしまうような見た目の立派な保育」は実のところあんまり興味はありません。(それはそれで素敵だとは思うけどね)
それよりも、「より適切な子育てをいかに保育の中に落とし込んでいけるのか」という、基本的なところにあります。
最近、大日向雅美先生が「保育に哲学を」ということをおっしゃっていますが、
今回のセミナーで僕がしたのはまさにそれだと思っています。
いままで目に映らなかったことの意味をきちんと提示して、保育をする人の目に映るようにし、
それまで当たり前だと思っていたものの意味を問い直し、考える視点を保育する人にもってもらうようにしました。
「自主性・主体性」というと、「子供にいかに活動を自主的・主体的に取り組ませるか」ということだと考える人が圧倒的であったと思います。
それは、「子供の活動における子供の自主性・主体性」です。
現在の保育において本当に考えるべきは、「保育における子供の自主性・主体性」なのです。
ちょっと文章だとピンとこないかもしれませんが、セミナーに参加なさった方はいまはそれがわかるかと思います。
現在の問題の多い保育の在り方を考えるためには、この「保育における子供の自主性・主体性」の視点が欠かせません。これは保育の根幹に関わる問題です。
このテーマを確立することが僕の今年の目標のひとつでした。
今回こうしてお伝えできる形でまとめることができましたので、今後も繰り返しお伝えしていく機会を設けたいと思っております。
また、これを実践する際に大切になってくる「受容と信頼関係の保育」(これはすでに何度もセミナーや講演・研修をしております)も、さらに深めてお伝えしていきたいです。
アンケートの中でも、もっと事例や具体的対応が聴きたかったという声が多くありました。
僕も、それはお伝えしたいのだけど時間的にあれがぎりぎりでした。
連続研修のような事例を掘り下げてみていく場で、そういったことをしていきたいと思いますので、どうぞぜひご参加下さい。
もし、講演や研修などお考えとのことでしたら、僕のホームページでも、今回の企画をしてくださったHOIKU BATAKEさんの方にでもお問い合わせいただければと思います。
さて、前置きがだいぶ長くなってしまいました。
前回の質問「優しい支配でない対応について」の回答の続きを書いていきます。
1,「カードを出す」アプローチ
・大人は指示ではなく、行動する理由や必要性を提示するだけ
・行動の結果を大人は見守る、待つ
・少しでも行動できた際は認めるアプローチ
・できない状態や失敗も許容する姿勢
カードを出すアプローチが通じないケースには↓
●要求するものごとがその子、もしくはその子たちの発達段階に合っていない可能性
●諸条件の方に問題がある場合
前回は以上のものについて述べました。
2,「私メッセージ」を使う
「私」を主語にした言葉を使うことで、指示ではなく自発的な行動を期待する。
例:「私はそれは困ります」
「私は○○したいです」
・心のパイプ
上のような言葉は、子供に管理や支配で関わる傾向のある人が使うと、それを冷たくとか厳しく伝えるので、場合によっては「疎外」としての関わりになることがあります。
「そんなの困るんだど・・・」と冷たい目線・表情で、子供に受容的でない気持ちですれば、同じ言葉だとしても疎外の関わりになり、結局のところ子供に大人の顔色をうかがわせることで支配することになります。
僕がここで述べているのは、それではありません。
あくまで、子供と保育者の信頼関係を元にして、「私が~~~」というメッセージで子供の自発的な行動を待つのです。
もちろん、これを使ったとしても子供は思った通りに動いてくれないこともあるでしょう。
相手にしているのは人間ですから、当然そういうこともあります。そのときの対応はそのケースにより様々ですが、よしんばそこでの状況からどうしても行動してもらわねばならなくなって、その後に指示的な関わりが必要になってしまったとしても、それは最初から頭ごなしに指示をするのとは意味合いが変わってくることです。
※保育士でない家庭の子育てをしている方もこれを読んでいることと思いますので、補足しておきます。
このアプローチは、依存が強くなってしまっているケースでは通じない、逆効果ということも場合によってはあります。
その場合は、依存にならないようにする姿勢などを気をつける必要もあるかと思います。
保育施設では通常あまりこの依存の問題には(家庭内でほど)直面しにくいので、これがしやすい部分があります。
3,ひとりの人間として大人と同様に考えてみる
次に、指示や命令、管理や支配ではない関わりとしてこのことがあります。
いたってこれは当たり前のことなのだけど、子供に関わるのは管理や支配で関わるのが当然、もしくは子供に対して大人は上にいるといった気持ちを持っていると気がつけなくなってしまう点です。
なんてことはない、普通に話せばいいんです。
大人が大人に呼びかけるとき、「おいでー」と呼ぶことはそうそうないでしょう。
あるとしても、そういう言い方をしても失礼にならない限定的な関係や状況になるかと思います。
じゃあ、なんて言っているでしょうか?
「こっちに来て下さい」
「こちらです」
「こちらへどうぞ」
などが使われます。
「○○が子供に適切でないならばどうすれば?」というとき、相手が大人だったらどう言うかを考えれば、おのずと答えは見えてくるかと思います。
・子供の人権
このことを深く考えていくと、「子供の人権」というテーマにもつながっていることがわかります。
保育指針の中にも「子供の人権に留意して」など、人権という語がしばしば出てきます。
保育士にはそういった感覚も要求されているのですね。
これも、保育士としての学習のテーマのひとつです。
4,子供の理解しやすい、わかりやすい言い方
・「いいきりの形」をつかう
日本語にはひとつ不思議な特徴があります。
それは、婉曲(遠回しな表現)にしたり、語や文章を長くすると丁寧に聞こえるというものです。
子供に丁寧に関わろうとして、しばしばこれにおちいってしまう人は少なくありません。保育士も無意識にそうなってしまっていることがあります。
その人は、子供に高圧的に関わりたくないと思ってそのようにしているのかもしれませんが、それが伝わらなければ、子供がその要求に従うこともできず意味がありませんね。
英語のような外国語ですと、重要なセンテンスが文頭に来ますので、行動への要求などが理解しやすいのですが、日本語では文章が長くなると逆に後の方に重要なセンテンスが持って行かれてしまうので、子供には伝わりにくくなります。
そこで、言い方を変えることで、子供が理解しやすくなり自発的に動きやすいということがあります。
それがこの「いいきりの形」です。
文章のワンセンテンスを短くして、極力必要なことをシンプルに伝えます。
「これから公園に行きます (間) その前にお部屋を片付けます」
ですます調を使うことで、語がシンプルになり、年齢の小さい子、理解の力の育っていない子、言葉の指示が入りにくい子にも伝わりやすくなり、結果として子供の自発的な行動の取りやすい状況を保育者が意図的に作り出すことになります。
この関わりは一見指示的にも見えます、言葉でのメッセージの伝わりにくい状況(個々の子供の個性・発達段階・その日の状態)に対して、もっとも必要な行動をわかりやすい表現を求めた結果のアプローチなので、その精神と実際上の運用としては指示ではありません。
「これから公園に行くから片付けをしてちょうだい」
こうすると、指示的な言い方+文章が長くなりわかりにくくなるというものになっていますね。
5,(上級編)子供が主体的に行動できる →そもそも指示をする必要のない子供たちを育てる
まあ、これが本来目指すべきところなのですが、
その園の保育全体が、子供の自主性・主体性を理解していて、指示的管理的に関わる保育者がおらず、0歳児クラスや新入園のときから、保育者との信頼関係を元にして生活の隅々までその精神の元に保育ができていたら、子供はびっくりするほど指示や命令の必要のない存在に育てます。
例えば、上の
「これから公園に行くから片付けをしてちょうだい」
もしくは、
「これから公園に行きます (間) その前にお部屋を片付けます」
この場面。
保育者が、時計を見て「そろそろ戸外保育の時間だから使っていない遊具を片付けておこう」と動いたときや、散歩用のカバンを準備しはじめたのを子供たちが目に留めて、大人がなんの指示どころか言葉ひとつ発さなくとも、子供たちがそれと気づいて片付けをはじめ散歩の準備をしだしたりする子供に育てることが可能です。
それがどういった子供の行動になるかは、それぞれです。
それをできる子供にしなさいという話ではありません。
子供の個性や発達段階、家庭の状況などにより、大きな違いは当然あります。
だから、立派に行動できることがいいことというわけではありません。
ただ、自主性を重んじた関わりにはそれだけの力があるということです。
それに年齢は関係ありません。
自主性主体性は大人がきちんと意識して伸ばしていかなければ、何歳になっても表れては来ませんし、年齢がちいさくともそれを踏まえた保育をしていればそれが表れてきます。
ある、1歳児クラスの事例ですが、これから戸外遊びにいくという状況で、やはり大人の動きをみて自発的に片付けが始まり、片付けが終わると月齢の高い子がみんなの靴下が入っている靴下入れを持ってきて配り、それにうながされるように自然と月齢の低い子も含む他の子も自然と準備をしています。
その間、保育士はなにを言うでもなく、にっこりとほほえんで待っているだけ。
ときおり、靴下が引っかかって上手くはけない子や上着が自分で着れない子が、「てつだってー」と保育士のところに自分からくるので、それに応えていくだけです。
これは、子供が自分でできるように「仕込んだ」わけでも、「しつけた」わけでもありません。
その保育士との信頼関係ゆえに、そういった自主性自発性が出ているのです。
この保育士が力を入れるのは、短絡的な目の前の「子供に~~させる」ということではありません。
その子が他者を信頼することができるような準備段階や、受容、愛着の問題解決、自立心などの心の発達の援助、そのようなところです。
子供の見た目の短期的な行動というのは、それらのあとについてくるものでしかありません。
これが、本来保育所保育指針が示しているところの、自主性・主体性を尊重した保育です。
なにもすごいことではなく、指針がもう何十年も前から指し示していることなのです。
にもかかわらず、一般的には「しつけ」の考え方に寄った子供の管理と支配の関わりをしてしまっている施設が大半です。これでは「保育士の専門性」ということは言えないのだよね。
上のような保育をすると、子供との生活の隅々にまで「私とその子供が心地よく心でつながっている」という手応えを常にしっかりと感じられて、保育の仕事にやりがいと達成感を感じることができます。
そしてなにより楽しいよ。
とりあえず、今回の回答はこれで終わりです。
他にもなにか質問やセミナーの感想などありましたら、コメント欄に遠慮なくどうぞ。
| 2017-07-05 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
『「自主性・主体性」の保育の理解と実践』セミナーを終えて - 2017.07.02 Sun
控えめに言っても大盛況だったのではないかと思います。
ご参加下さったみなさん、お疲れ様でした。そしてありがとう。
午後の部に参加なさる方も、「10名くらいのものかな~」と考えておりましたが、想定以上の人数に急遽入れ替え制にさせていただきました。
結局、自由参加の午後の部にも30名以上の方がご参加下さいました。
本当はもっといま悩んでいる子供の対応で聴いてみたかったけど遠慮してしまって聴けなかった、もっとみなさんのお話を聴きたかったなんて方も、きっといらっしゃったのではないかと思います。
保育施設で働いていたとしても、なかなか保育について面と向かってみんなで語り合う機会というのがないので、あのような座談会的な時間は貴重ではないでしょうか。
通常、保育のセミナーや講演があっても、わざわざそれと別個に会場を設けて下さるということはありません。
今回、よりよい保育、また保育士の方により高いモチベーションをもって日々の保育に望んで欲しいという主催のHOIKU BATAKEさんのご厚意によるものです。
HOIKU BATAKEさんにはあらためて感謝申し上げます。
会場に来ていただいた方には先行でお伝えしました、今後予定されている全6回の連続研修では、参加者みなさんの考えや思いをだせる場としての機能を重視して、さらに掘り下げたところで実践的な保育を学んでいきたいと考えております。
(その連続研修については、ブログをご覧のみなさまには申し込みページが作成されしだいお知らせいたします)
さて、午後の会の第一部の方で、セミナー内容に対する具体的な質問がでてきました。
それは<優しい支配>※のところについてです。
※<優しい支配>について
「優しい支配」とは、保育の気づきのために須賀が作った言葉。
「うるさい」と声を荒げて言ったり、「こっちへ来い」などの命令などは、良くない関わり方と認識されやすい。だからこれらの関わりがよろしくないということを保育者は理解している。
しかし、それらを優しく言い換えた「しー」や、「おいでー」とかわいく言い換えられたものには、なんの違和感もなく、そのように優しく伝えればそれらはなにも問題ないと見なされ、それらについて特段の意識をされることすらない。
しかし、子供への関わりの本質を見据えれば、優しく言ったとしてもそれらは子供に対する指示や命令であることは変わらない。
こういった指示や命令を何の気なしに無自覚に使ってしまうことにより、保育がいつのまにか管理や支配の保育となってしまっている。
本当の保育の専門性を持つためには、このような何気ないところに気づく必要がある。
このお話をしたところについて、さらなる質問が出ました。
午後の第一部に参加なさった方にはお伝えできたのですが、そうでない方にはここでお伝えしたいと思います。
まず質問は、
「しーやおいでーが結局のところ指示・管理・支配になってしまうということに気づかされ、それについてはわかりました。
では、そうならないためにはどういった関わり方をすればよかったのでしょうか?」
セミナー本編のなかでは、この点についてさらっとしか触れませんでしたので、この質問は保育実践につなげるためにとても重要なものだと思います。
では、それに対してのお答え。
まず、頭に置いておいて欲しいことが2点あります。
そのひとつは、ここで例に挙げた「しー」や「おいで」以外にも、このような「優しい支配」になっている関わりはたくさんあることです。
あくまで、わかりやすい例としてここでは挙げました。
この「しー」や「おいで」だけにとらわれず臨機応変に考えてみて下さいね。
例えば他によく使われるところでは「ダメっ」「メッ」といったものもありますね。
これは、「こらっ」などと怖い顔で言っている人の保育は、「その関わりはまずいだろう・・・」とわかりやすく気づけますが、かわいらしく「ダメっ」や「メッ」と言っているのをおかしいと気づけなくなってしまいますね。
ふたつめに、僕はこれらを使ってはならないと「禁止」で考えているわけではないことです。
「優しく言えば問題ないだろう」と結局管理・支配におちいってしまう、現実の子供への関わりについての注意を喚起しています。この「気づき」によって保育を自覚的にとらえられるようになることが大切です。
「しーやおいでを使ったら子供が正しく育たないからそれは良くない」と言っているわけではないことにご注意下さい。
(保育にはさまざまな場面や子供がおり、場合によってはそれらが必要な場面や、適切な関わりとなることだって可能性として考えられます)
ですから、もし「しー」や「おいで」、「メッ」を別の言い方に変えたからといって、それが管理的な関わりであれば問題はなにもなくなりませんね。
実際こんなことがありました。
その園では「ダメ」を子供にたくさんいってしまうことがよろしくないということに気づきました。
そこで保育士たちは、「ダメ」を「×」に言い換えたのです。
かわいらしく「ば~つ~♪」と言うようになりました。
これでは問題の本質が理解されず、なにも解決されていませんね。
では、どうすればいいのでしょう?
それに関しても答えはひとつではありません。
これからそれを述べますがマニュアル的に考えずに、臨機応変にとらえて下さいね。
1,「カードを出す」アプローチ
指示的管理的アプローチをする前に、「カードを出す」アプローチをしてみるという対応が考えられます。
カードを出すというのは、必要なことを大人が提示することに留め、あとは子供に考えさせるアプローチです。
例えば、「ここは静かにするところですよ」「いまは静かに聴く時間ですよ」
このような言い方は、大人が指示・命令・注意などの否定のニュアンスを持った関わりではなく、必要な事実だけを述べています。
これを「カードを出す」アプローチと僕は呼んでいます。
カードって本当にカードを紙で作って出しなさいということじゃなくて、あくまで比喩です。念のため。難しく言うと「必要な事実の提示」ということです。
これにより子供はどうなるでしょう?
子供はそれによって、静かにするかもしれません。しかし、それでも静かにならないかもしれません。
大人が「こうあるべき」(ここでは「静かにすべき」)から出発してしまえば、子供の主体性は伸ばせないというのは、セミナーの中でお伝えしていました。ですから「静かにならない」という結果も忌避すべきことではありませんね。
「静かにすること」だけを短期的に求めてしまえば、子供が主体的に考え行動するときはずっとこなくなってしまいますので、「静かにならない」という結果を「大人に従わない悪いことだ」などととらえる必要はありません。
もし、そこで子供がカードを見て考えたことにより、少しでもそこで必要な行動をとれたときは、そこをにっこりとうなずいたり、「ちゃんとわかったね」「わかってくれてありがとう」「よかったわ」などの「認めるアプローチ」をします。
こうすると、指示や注意・怒るといった否定のニュアンスを持ったアプローチではなく、最終的に「認める」という肯定のニュアンスをもったアプローチで子供の姿を伸ばしていくことができます。
一見、まわりくどいような関わり方に見えるけれども、このように肯定で子供の姿を伸ばしていくことの方が圧倒的に子供は成長していけます。
この点、子供を「支配すること・管理すること」があるべき保育と考える保育士には理解できないところです。
では、カードを出すアプローチをしても少しも響かない子に対してはどうすればいいでしょう?
ここにも、いくつもの可能性が派生してきます。それに対して臨機応変に対応する必要が保育士にはあります。
●要求するものごとがその子、もしくはその子たちの発達段階に合っていない可能性
事例で考えてみましょう。
例えば、0歳児や1歳児に1時間もの集会に参加させようとして、そこで子供が座っていない、静かにしていない、だからカードを提示するアプローチをしたが子供が言うことを聴いてはくれない。
こんなケース。
これは極端な例だけれども、それは当然だよね。
だって、保育士が正しく「発達段階」というものを理解せず、子供への保育を組み立ててしまっているから。
0~1歳児に1時間もの集会をこなさせることは、発達段階上無理がありますし、よしんばそれができたところで発達段階的にそれらの活動の敏感期ではありませんので、さしたる意味がありません。
ですからそもそも、その枠組みに子供を合わせよう、合わせなければと考えている保育士があきらかに間違っています。
その保育は発達段階を踏まえずに、「集会に参加できることは大事」「どうせなら低年齢でそれができればなおいいだろう」という、非専門的な素人考えにすぎません。それが達成できたところで大人の自己満足があるばかりで、子供の成長からいって意味がないのです。
保育の第一はどんなときも発達段階ですよね。
最初から無理なことを子供に要求している保育士の方に問題点があります。
それではどんなアプローチをしたとしてもその通りにならないのは当然。
「自主性・主体性」ということを理解しておらず、「管理・支配」で保育を考えてしまう保育士は、こういったとき威圧を強めることで子供を従わせて、それに自己満足をしてしまいますが、
それらは子供の何ものをも伸ばすことになってはいません。
この点については、こう覚えておいて下さい。
子供たちに絵本を読み聞かせしました。しかし少しも楽しめず聴くことができません。
このとき、「聴けない子供が悪い。聴くようにアプローチしなければ」という方向性で考えるのではなく、枠組み問題があると理解すればいいのです。
つまり、「この絵本は現段階ではこの子たちは楽しめない。では、この子たちが楽しめる内容の絵本(もしくは他の活動)に変えてしまおう。絵本のレベルを下げてしまおう」
「難しい本を適切に聴かせたい」というのは大人の欲目なのです。
「個々の子供たちありき」という保育の原点に戻りましょう。
子供に管理・支配でかかわる保育士は、「去年の3歳児はこの本を聴けていた」「3歳児ならばこれを聴けるべき」といった、目の前の子供不在の保育になってしまいがちです。
●諸条件の方に問題がある場合
個々の子供は発達の進み具合も違えば、それぞれの状況もあります。
例えば、親子関係に問題があって他者への信頼感を育めていない子は、カードを出すアプローチをしてもそれに気持ちを留めることが難しいでしょう。
であれば、この子は短期的にいまそれに従わせることよりも、圧倒的にその前の段階である、他者への信頼感を育むことが保育士の仕事となります。
普段から密接な関係性を大切にしたり、積極的に楽しい関わりをするなどして信頼関係の蓄積こそを優先しましょう。これが必要な諸条件を整えることになります。
またある子は、精神的に幼いために、カードを提示するアプローチが響かないのかもしれません。
そう判断される子でしたら、その子の自立心を育んだり、依存にならないような普段の関わりを意識することで精神的な成長をうながすことが諸条件を整えることになるでしょう。
こういった諸条件の問題は子供の数だけありますので、臨機応変にとらえて下さい。
このような諸条件を個々の子供に整えるアプローチをコツコツとしていった先に、また同じような状況がでてきて、そのときカードを示す行動でその子が少しでもそれを理解する行動をとれたとき、そこに意図を持った専門的な保育の成果が見られることになります。
それこそが「保育の力」です。
大切なのは「この子はできない、できるようにしなければ!」ではなく、
「この子はできない。どうしてなのだろう?」とその子の問題点を理解し引き受けてあげる「援助の姿勢」です。
まだまだあるけど、長いので続きにします。
質問への回答だけで、セミナーが一本できあがってしまいそうです。
保育って本当に奥が深いね。
| 2017-07-02 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
「支配の保育」と保育者の自己満足 - 2017.06.28 Wed
こちらの記事を叩き台に保育について述べたものです。
森友問題 保育士「休園でよい」服従…子どもは限界だった(毎日新聞)
>「お絵描き」を完成できそうにない園児には「昼ご飯を食べなくていいの?」とせかす保育士もいた。
>注意を聞かないと廊下に立たせることもあり、「子どもに考えさせるのではなく、服従させる雰囲気だった」
(記事中より)
それをしていた保育士は、保育楽しかったのかな?
このインタビューを受けている保育士はその問題点に気づいている人だけど、子供たちをそのようにしていた元からいた保育士たちはそれを当然のこととして行っています。
こんな保育をしていたら、まっとうな保育士は早々に辞職するでしょう。
実は、このように子供に支配的になってしまう保育施設というのは、程度の差こそあれ山のようにあります。
まさに、ここが保育士の専門性の低さです。
「自分たちの意に従わせること」、しかも「うまく従わせること」が保育士の力量なのだと勘違いしてしまっています。
この方向の保育をしていても保育は少しも楽しくなりません。
子供の成長した姿を見て自身の仕事の満足感を得たりすることもありません。
ではこの保育だとなにを求めて仕事をすることになってしまうのでしょうか?
先日のFacebookで僕が、ハラスメント体質について述べたところで「逆の全能感」というのが出てきました。(※)
※(数日前教員のハラスメント行為について述べたFacebookでの記事をさしている。
「逆の全能感」は僕が勝手に作った言葉。
・・・全能感とは通常、自分の思い通りになる感覚、またそこに充足を感じることを指しますが、子供に支配的に関わってしまう傾向のある人は、自身の「思い通りにならない状態」に強いイライラや不満を感じる。それを僕は「逆の全能感」と名付けました)
その不適切な保育士たちも、それが保育で子供たちに関わるときの出発点になってしまっています。
「こうあるべき」 →現実の子供たちはそうなってはいない →「そのようにしなければ」 →子供へ管理・支配的な関わり →子供の保育者への信頼感の低下 →より従おうとしない子供たちの姿 →「逆の全能感」ゆえにそれを許容できない保育者の心理 →怒り・イライラの蓄積 →さらなる冷淡or厳しい子供への関わり →さらに信頼感の低下 →保育者の心情「この子たちには問題がある」
こういうプロセスで悪循環になります。
この保育の特徴は何か?
保育者が「主観的」であることと「個性の尊重の視点のなさ」です。
まず最初の「こうあるべき」というビジョンの時点でおかしいのです。
「こうあるべき」というのは、一方的な保育者の主観でしかありません。
本来、保育士が従うべき「保育所保育指針」には、子供の姿で「こうあるべき」といった箇所はひとつとしてありません。
あくまで「個々に配慮して」というスタンスです。
「このようになってほしい」といった視点はあるにしても、それは個々の状況を踏まえて、子供自身がそれを達成していく配慮をする必要があります。それが保育の専門性です。
「こうあるべき」、だから「大人が無理矢理その姿を作り出す」これは非常に主観的な保育の在り方です。
本来の保育の精神からしてそれは「保育」と呼ぶのにすら値しません。
しかし、現状こういった保育は珍しくありません。
現状の多くの保育は程度の差、上辺の違いこそあれ、このような保育者の主観から発した管理・支配保育なのです。
こういったところを是正していかなければ、保育士は「専門性が高い」と認めてもらうことはできません。
このような保育になってしまう保育士は、子供の姿がうまくいくところは自分の手柄、子供の姿が良くないところは「子供が悪い」「家庭が悪い」という主観的な結果判断でとらえてしまうので、自分たちの問題に気づくことができず、自浄作用がありません。何十年とこういった保育を続けられてしまいます。
>「お絵描き」を完成できそうにない園児には「昼ご飯を食べなくていいの?」とせかす保育士もいた。
↑この関わりのどこが問題だかわかりますでしょうか?
このような関わり方は一般の子育ての中で多く使われていることでもあり、もしかすると問題点に気がつかない方もいるかもしれません。
少し解説します。
ここにある「こうあるべき」は、「お絵かきを完成させるべき」もしくは「お絵かきを時間内に完成させるべき」、または「食事を食べるべき」です。
そのための手段として、怖い顔厳しい言葉言い方を使って、「いつまで時間かかってんだ!この愚図!早く完成させなさい!」と強圧的に関わったとしたら、その関わりには問題があると多くの人に感じられることでしょう。それはわかりやすいタイプの「支配」であり、場合によっては虐待と判断できます。
ですから、実際にそこで出てくるのはもう少しスマートなやり方です。
ここでは「昼ご飯をあげないよ」という、脅しを使ってそれをしているのです。脅しの他にもう一つ使っています。それは「あなただけ食事に参加できない」という「疎外」によって子供にダメージを与える関わりです。
子供はそれらが怖いし嫌なので、絵を一生懸命完成させようとその場ではするでしょう。
その保育者からすると、それを見て満足感を得られます。
この点「私のねらい通りに子供にアプローチしてその通りになった」という「全能感」を感じることができます。
つまりこの方向の関わりをする保育士は、管理や支配を上手くすると仕事の満足感があがるのです。
しかし、子供は・・・・・・?
真実は、「脅されたからやっただけ」なのです。
この保育によって、その子はなにも得ていません。
つまり、この保育は保育者の主観からスタートして、その主観を満たしただけで、子供そのものを伸ばしてはいないのです。
しかし、主観で保育をとらえている人たちにはその現実は目に映りません。
「私たちは上手な保育ができているわー」と仲間内でたたえ合えるのです。
これがきわまってしまうと、その職場はハラスメント体質を持つ人の天国になります。
この森友学園では、子供たちに食事を残すことを一切許してこなかったとのことです。
お腹がいっぱいであろうとも、量が多すぎたとしても無理矢理にでも食べさせていました。
ここでの「こうあるべき」は「食事は残してはならない」という規範意識ですね。
子供は大人の期待に応えるために、頑張って食べるのだけどそこでもし子供が嘔吐してしまったりすると、その戻したものをまた食べさせたそうです。
これ普通の感覚を持っている人からすると、ちょっとそんなことできないですよね。
これは完全に虐待です。
しかし、「こうあるべき」を子供に押しつけることが「正義」であると視野狭窄になってしまう人にとっては、これが保育として成り立ってしまうのです。
そのような施設では、もともとの人格がハラスメント体質の人が主流派となり、それが「保育」として全体の保育になっていきます。
この森友学園保育園は事実上のトップであった副園長(籠池氏夫人)が、その言動や逮捕歴などからもわかるように非常に主観の強いハラスメント体質を持っていましたから、園がそのような保育になってしまったのも、ある種の必然といえるでしょう。
僕はこういった日本中にはびこる間違った保育を改善していきたいと思っています。
そのために、このような保育に明確にNOと言えるだけの保育観を、学ぶ姿勢を持った保育士に伝えていきます。
大変残念なことに、程度の差があるだけ、オブラートがかぶっているだけで、まだまだこのような保育がたくさんあるのが現実なのです。
今度の7月1日(土)の保育セミナーでも、
・なぜこのような管理的な保育が生まれてしまうのか
・そうならないためにはどこに気をつければいいのか
・管理的な保育でなければどんな保育を目指せばいいのか
・その理念的根拠
・その実践方法
・保育実例
これらのテーマについて触れる内容を盛り込んでいます。
現在38名の方のお申し込みがありますが、もう少し定員に余裕がありますので、もしよろしければいまからでもご応募下さい。
公開保育研修会 「自主性・主体性」の保育の理解と実践
この管理と支配の保育を乗り越えたところに、本当にやりがいを感じられる保育があります。
それをまだ獲得していない方はぜひいらして下さい。ともすると人生が変わります!
| 2017-06-28 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
保育士試験の季節になってきました - 2017.05.11 Thu
簿記だとか宅建だとかの資格のように、取り立てて一般の就職に有利になるといったものではないのですが、子育てや保育に興味を持って資格取得やその勉強をされる方が増加しているようです。
とてもおもしろい動きだなと思います。
しかし、その一方で講演やセミナーなど僕の話を聴きに来て下さる方の声に多いのが、そういった経緯で資格を取って保育施設で働き始めたのだけど、実際内部に入ってみてみると子供をかわいがるどころかその逆のことが多く胸が痛いですというものです。
これが、新卒でそのままストレートに就職してしまった若い人だと、そうは思いつつも「そういうものなのだろう」とそういった保育に同化していってしまう人もおりますが、自身の子育てをしてきた人や、他の社会経験もある方だとその点がより客観的に見えるようです。
もちろん、そんな保育施設ばかりではないのですが、管理的・支配的・威圧的な保育になってしまっている施設・保育士が少なくないのが日本の保育の実情です。
そういった保育のあり方が根強い中で、とりわけお金儲け主義で営利に傾いた施設になれば職員にも子供にもブラック化してしまうのはある種の必然です。
経営者が施設長を監視し、施設長が保育士を監視し、保育士が子供を監視するといったように・・・・・・。
これが子供にも働く保育士にとってもよい環境であるわけがありませんよね。
みんな日々ピリピリしてしまいます。
そこにもうひとつ拍車をかけるのが、子育てにまつわるところに必ずといっていいほど増えてしまうハラスメント体質です。
最近、保育研修の仕事が多くなってきました。
なんとか適切な保育を多くの人に伝えることで保育の専門性を上げ、よりよい子供たちの成長につなげる力となっていきたいと思います。
保育士試験についてこちらがよくまとまっております。
『保育士試験|筆記試験・実技試験の内容・科目と申し込み手続きの概要』(ジョブデポ保育士 保育のヒント)
| 2017-05-11 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
「道徳」が危険信号になっている - 2017.03.26 Sun
「教科化」とはどういうことかというと、その習得度によって評価をしたり・点数をつける科目になることです。
それにともなって道徳の教科書も今度から国の検定を受ける必要がでてきました。
そのニュースがこちら↓
「道徳」教科書の初検定 8社すべてが一部修正し合格
はっきり言って、これにより日本の教育はまずい方向へ行くことでしょう。
そしてそれは教育だけに留まりません。
この問題は単に学校の教科の一部が変更になったというだけではなく、人々の「内面の自由」に国が介入することを制度化したことに他ならないからです。
極端な言い方をすれば、「はい、みなさん。これが正しい価値観ですよ。覚えましたか、テストに出ますからね。それ以外の答えを書いたら間違いですよ!」
というようなことになりかねません。
テスト云々は誇張にしても、実際にやっていることの本質はそれと変わりなくなります。
例えば、今後展開されるこの「道徳」の中で重視されるもののひとつが、「伝統的家族観」や「家族愛」なるものです。
「家族を大事にしましょう」「家族は互いに助け合いましょう」
こういったことを字面だけで読めばそれはいかにも「正論」に聞こえます。
しかし、これを価値観として押しつけていくのはとてもとても怖いことになります。
僕、ひとつ予言をします。たぶん、これは残念なことに当たるでしょう。
近い将来、5年遅くとも10年以内に、「学校の教師が、ひとり親家庭の子を、ひとり親家庭であることを理由に差別したり、いじめに荷担する」といった事件を目にすることになるでしょう。
おそらく複数件こういったケースを目にするようになってしまいます。
ある種の理想像をして、「これが正しい価値観ですよ」と言ったり、「これが正しい家族のあり方ですよ」と考えることは、結果的に「排除の論理」を生むことになります。
そうでない状態を「否定する」心理を人に持たせてしまうことを防げません。
正しいものをひとつに決めてしまうことを僕は「統一的価値観」と呼んでいますが、それを持ってしまうと、それ以外の状態を人は許容できなくなってしまう心のクセを人間は持っているものです。
学校の先生が、「そういった家族観が正しいのだ」と考えるようになると、そうでない状態の子供を許容できなくなります。
すると、そうでない家庭の子に対して否定的な見方や対応をしていくことになります。それはその内、無自覚な行動になり差別的な対応を生むことにつながりかねません。
また逆に、それに適合する家庭の子供をえこひいきするといったことも起こりうるかもしれません。
なぜそんなことが言えるかというと、これまでさんざんそういうことが現にあったからです。
しかし、そういった統一的な価値観でものを判断するのではなく、当事者の立場になった考え方などが普及することにより、だんだんとそのような不適切な対応を克服してきたという経緯があります。
その間、何十年とかかって現場の心ある先生やそれを指導する立場の人たちの努力によって、本当に少しずつ改善されてきたのです。
そして、そのように統一的な価値観によって、それに合わない子を否定してしまうような教員が居ても、それをしてはよくないことという空気を作ってなんとか押さえられるようにしてきました。
しかし、今後、国のお墨付きを得て「これが正しいのだ!」ということを教えられるようになると、その空気は吹き飛んで、差別やえこひいきをする教員がその主張を強めていくことでしょう。
そもそも現代の「道徳」のあり方として、「これが正しい考え方です」という押しつけがそもそも間違った方向性です。
これからの「道徳」はとりもなおさず、「多様性の許容」である時代になっています。
「これが正しいものです」をしていくと、それはマジョリティにのみ都合のよいものとなっていきます。
「お父さんお母さんそしておじいちゃんおばあちゃんと一緒に暮らしているのが正しい家族のあり方です」なんてことを教えれば、それを教わった子供にとって「排除の論理」を生み出しかねません。
例えば母子家庭や児童養護施設の子供は、それを理由にいじめられたりするでしょう。
そのようになってしまえば、「道徳」がむしろ「いじめ」を助長するということです。
なんとも本末転倒ですが、それが現実のものとなるでしょう。
昨今ではよくLGBT(性的少数者)のことが話題になりますが、こういった人たちもその道徳が説くところの「正しい家族のあり方」の前には排除されることとなってしまうでしょう。
発達障がいなどがあって、他の子と同じように行動できない子も排除されることになるでしょう。
上のリンク先の記事の中でも
>小学1年生のある教科書では、申請段階では、物語に友達の家のパン屋を登場させていましたが、「国や郷土を愛する態度」などを学ぶという観点で不適切だと意見がつけられ、教科書会社は「パン屋」を「和菓子屋」に修正しました。
というところがありますが、これもよくよく考えると少しおかしいのです。
このごろ教育の現場などで「愛国心」を取りざたされることをよく見かけますが、
そもそも「道徳」と「日本を愛する心」はイコールでしょうか?
現在の小学校には、日本以外にルーツを持つ子供もたくさん通っています。
僕が直接知っているだけでも、ロシア、ブラジル、フィリピン、中国、韓国、台湾、メキシコ、アメリカ、イギリスなど、それらの国の子だったり、両親のどちらかがそのような外国の人というケースの子供も普通に小学校に通っています。
「日本って素晴らしい、日本人であることに誇りを持ちなさい」的なことを学校で子供に教えはじめたら、それ自体は悪いないようでなかったとしても、結果として「排除の論理」を生み外国にルーツを持つ子供たちはいじめられたり否定されかねません。
いまですら、外国の血が流れている子供の多くがいじめや嫌がらせにあった経験を持っているのに、学校がそれを助長するようなことになるでしょう。
国は一方で「グローバル化」を進めているのだから、道徳もそれにあった形で「多様性の許容」でなければならないはずなのに、矛盾した状態になっています。
本来の、人としての基本的な「道徳」には、「どのどこの国」は関係ないですよね。
どの国の人であれ、人としての道徳は共通するものがあり、それらこそ普遍的な道徳と考えられるものです。
ましてや、「”パン屋”をわざわざ”和菓子屋”に変える」なんていうのは、あまりに稚拙すぎるこだわりで恣意的な介入であることを隠す気もないかのようです。
でも、「道徳」=「日本を愛する心」にしたい人が、この道徳をめぐるところではロビー活動などを今に始まったことではなく何十年も前から暗躍していて、その人たちの主張がこうして現実のものとなってきてしまっています。
このまえの教育勅語の問題もそうですが、「道徳」=「日本を愛する心」にしたいのは、戦前の道徳の教科であった「修身」に通じる思想なのですね。
今、森友学園問題を契機として、ようやくそのことが一般の人にも見え隠れしはじめています。
しかし、マスメディアはこの問題を理解しているはずなのにきちんと伝えようとしていません。
それも不安をかき立てます。
この問題に興味がありましたらどうぞ↓
『特集ワイド「家庭教育支援法」成立目指す自民 「伝統的家族」なる幻想 家族の絆弱まり、家庭の教育力低下--!?』(毎日新聞)
『議事録から臭い立つ、「道徳」の教科化を目論む文科省のホンネ』(武田砂鉄)
『幼稚園は「能力」を育てる場所なのか 2018年度改訂「幼稚園教育要領」への疑問』(Newsweek ニュースの延長戦 武田砂鉄)
『道徳教科化 皇民化教育の再来を危ぶむ』(琉球新報)
これは何かの冗談ですか? 小学校「道徳教育」の驚きの実態(現代ビジネス 木村草太)
『道徳教育の充実に関する懇談会』(文部科学省HP)
(↑委員の中には今話題の日本会議系の人もしっかり入っています)
今後の道徳教育の改善・充実方策について(報告) (↑の報告書)
| 2017-03-26 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
「介入しない」の裏にある保育士の配慮 - 2017.03.23 Thu
(保育の話なのでカテゴリーは「保育の質」のところにしておきます)
その中で保育士が「介入しないこと」にこそ高い専門性があると述べました。
せっかくですからそこをもう少し書いてみます。
「介入しない」のと「子供を見ていない」のは当然ながら違います。
例えば、保育士が保育士同士の私語で盛り上がって子供を見ていないような状態が慢性的になっていたら・・・・・・。それでも「介入しない」には違いありませんが、保育としてみたとき子供の様子はまったく違ってきます。
それだと子供たちは「見守られている」安心感がないので、危険なことの頻度があがったり、子供同士のトラブルなどもより余裕のない形で出てしまったりします。
「見守られている安心感」というのは無形のものなので、目に見えませんがこれの積み重ねはとても大きな影響を与えます。
ですから、子供を見ていないがゆえに介入しないことと、見守られてはいるが介入しないことはまったくといっていいほど違います。
(ただ、これはあくまで保育上でのことです。
家庭での子育てであれば、もっと気をゆるめて考えてもいいかもしれません)
では、「私語は一切禁止!子供にケガや不適切なことがないようにしっかりと見ていなさい!」と保育士が上から命令されているような保育もまた違います。
そのような姿勢では、大人のピリピリとした緊張感があり、笑顔や保育士の心が開示された状態(受容的な姿勢)が失われがちで、子供は心から安心感を持って過ごしたり遊んだりすることができません。
子供をまったく見ていないよりははるかにましではありますが、あまり好ましいこととは言えません。
この「保育士の心が開示された状態」(受容的な姿勢)というのは、保育士をする上でとても重要な適正ではないかと僕は感じています。
これが元々その人の性格やセンスでできてしまう人もいますし、経験を積む内に習得できるようになる人もいます、演技や意識的な努力・職業的な人格(ペルソナ)を使ってそれを打ち出せるという人もいるように思います。
しかし、これができない、不得意という人がいるのもまた現実ではないかとも思います。
それが下手な保育士を責めるわけではありません、僕自身ももともとそのセンスがない人間です。
僕は経験により習得しました。
まあ、難しいことを考えずに「リラックスして保育ができる」くらいにとらえてもいいかと思います。
さて話を戻しましょう。
この「介入しない」というのも、なんでもかんでも「介入してはならない」ということではありません。
臨機応変に、そのとき、その子、その状況を踏まえて判断していくことが大切です。
例えば、噛みつきが慢性的に出ている子や、なんらかの問題を抱えていて他児を傷つけるような行為が普段から出ている子と、トラブルやケンカになっても他児を傷つけるようなことをしないとわかっている子だとしたら、どの程度介入するべきかはおのずと変わってきます。
また、そういった判断も日々、そのときそのときで違います。
普段は他児を傷つけることをしないような子でも、なんらかの事情で疲れていてイライラしていたり、朝登園前にお母さんに激しく怒られて不安定になっているなどといった様子があれば、どこまで介入しないで見ていられるか、どこから介入すればいいか、また相手によっても「ああ、あの子相手だと激しいケンカになりかねないな」などなど、いろいろな要素がありそれらへの判断と対応が要求されます。
また、その子たちを見守っている間も、その子たちだけを見ていればいいのではなく、子供全体への視点を維持しています。
「まだ幼くて公園から出て行ってしまいかねない○○ちゃんはどこにいるな」「他児に手が出てしまう○○ちゃんは、だれとどうやって遊んでいるかな」「滑り台で遊んでいる子たちは安全に遊べているかな」「なんでも拾って食べてしまうくせのある○○ちゃんからは目を離せないな」などなどを同時進行で意識しています。
一見、公園で子供たちと楽しそうに遊んでいるだけに見える保育士も実はその背後でなかなかの職人芸を発揮しているのでした。
しかしまあ、保育士になって2~3年目でそれができてしまう人もいれば、30年やっているのに全然できないなんて人もいて保育って難しいなとも思います。
そのようにそういったさまざまな配慮を勘案して、「介入しない」という専門性が発揮されるわけです。
ですから、前の記事でも誤解のないように(ここは誤解されることがおおいので)括弧付きで書いていますが、「介入してはならない」という意味ではないことをご承知置き下さい。
以上は保育上のお話ですが、別に家庭で我が子の子育てをする分には、そのように厳密に考える必要はまったくありません。
子供の「依存」の問題は、大人の姿勢・考え方から無意識に作られる部分が大きいですので、「できるか、できないか?」よりも、「気づいているか、気づいていないか?」に左右される部分があります。
だから、「依存ってものがあるんだな。このようだとなりやすいらしい、ちょっと心に留めておこう」くらいでも家庭の子育てであればずいぶん軽減されるところがあるのではと思います。
| 2017-03-23 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
「いい保育」と「上手い保育」 vol.8 『包括的受容』 - 2016.10.29 Sat
多くの人は、「子供になにかをすること」が「立派な子育て」なのだという無意識の先入観を持っています。
ですから、子育てや保育を「頑張る人」ほど、かえって大変な子供の姿に直面しかねません。
なぜなら「過干渉」になってしまうからです。
「そのとき大人が介入して子供が正しい行動をとることができた」というのは、逆に考えると「大人が介入しなければ正しい姿を出すことができない子供に大人がしている」ということになりかねません。
ケースは多種多様ですから、必ずそうなるとは限りません。しかし、無自覚でやっていればそうなる可能性を高めてしまうことになるでしょう。
実を言うと、この「介入しない」というアプローチは、介入することよりもはるかにする側にとっては難しいことです。
なぜ難しいかというと、大人は心理的に「正しい結果」を作り出してしまうと「安心」できるからです。
しかし、いま即座に「正しい結果」を出さずに、長い目で子供自身でその地点へ成長してくることを待つというのは、心情的な「もやもや」をずっと感じさせてしまいます。
その「もやもや」を乗り越えるためには、「子供の成長、発達への十分な理解」「経験に裏打ちされた保育への自信」「子供の個性や尊重などへの理念的理解」「保育者自身の精神的余裕」などなどが必要だからです。
子供の成長は「いまがゴール」ではありません。それは皆さん言葉としては理解することは難しくないですよね。
しかし、実際にはひとつひとつのことに対して「いますぐ」結果を出さなければとアプローチしてしまいます。心情的にも納得のいく結果を目の前に作り出して、「すっきり」したくなってしまうのが人情です。
そこに無自覚であると、それはやがて過干渉となり、管理や支配としての関わりになっていってしまいます。
保育士は、保育の専門家としてそこを明確に踏まえた上で子供に関わる必要があります。
さもないと、子供を思い通りに動かすスキルばかりが身につき「上手い保育」を目指すことになりかねません。これまでの時代の保育はそれで済んだ部分もありますが、確実にこれからはそれでは不十分になります。
子供自身を適切に成長させられることが要求されています。
僕はこのことをまとめて「保育士は子供の成長の果実を食べなくていい」とお伝えしています。
成長の果実を食べなければならないのは、当然その子供自身なのです。
「保育士である私」が自己満足するために子供を思い通りにしていかないよう、自分を省みる視点が専門性の高い保育には必要だと言えるでしょう。
さて、それではvol.7で予告した「包括的受容」のお話です。
おそらくこの「包括的受容」という言葉は、保育書や育児書には載っていないのではないかと思います。僕が子供への関わりについて研鑽する中で作り出した、考え方であり言葉です。
子供が注意されるようなネガティブな行動をとるとき、特に慢性的にそれを行うケースでは、その多くはなんらかの「理由」と「背景における原因」(根っこ)があるものです。
それに対して大人はその子供の行為しか見ず、大人の持つ「規律」や「規範意識」「善悪の判断」「正義感」で対してしまえば、「否定のアプローチ」をすることになってしまいます。
例えば、その子が単に気が強く他児のモノを取ってしまったり、手が出てしまうというだけのケースであれば、それでも問題ないかもしれません。
しかし、現代の家庭、就労状況、長時間保育などの背景があるなかでは、そんな風に単純に考えられるようなケースは少なくなっています。
子供がネガティブな行動を取るのは、「その子が悪い」からではなく、「なんらかの理由」があって子供はやむを得ずそのような行動がでてしまうのです。
それに対して、ひとつ覚えに「否定」のアプローチをし続ければ、その子供の大人に対する信頼感は低下し、自分に対する肯定感やものごとに前向きに取り組もうとする意欲などは減らす一方になります。
そこでそういったケースに対するアプローチとして、「包括的受容」ということを僕は広めています。
その言葉の意味は「包み込んで受け止める」ということですね。
ではなにを「包み込む」のでしょうか?
それは第一にはその子供のネガティブな行為です。
本来ならば注意や叱られるようなことであっても、その子の背景にあるものを踏まえて肯定を積み重ねなければならないケースであると判断されるならば、あえて注意や叱るといった「否定」のアプローチをせず、むしろ受け止めてしまうのです。
そして第二には、それらがひいては子供の存在そのもの「ありのまま」を包み込んで受容するということになっていきます。
具体的に例をとって見ていきましょう。
1歳10ヶ月の子供で、たびたび机の上に登ることを遊びとしてしまうというケースがあったとします。
この子が単に上に登ることが楽しくなってそれを遊びにしてしまっているだけであれば、「そこは登るところではありませんよ」ときっぱりと伝える対応をし、一方で外遊びなどでその登りたいという欲求を満たす遊びを提供していきそれを楽しみながらさせるといったメリハリのある対応をすることで改善が可能です。
そのケースならば、「机に登ったそのときの対応」は、注意や否定のアプローチでいいわけです。
でも、その子が机に登ることが保育士の気を惹くためであって、その背景には家庭での受容不足や情緒的な安定の欠如があったという場合は、それを注意するだけではなにも改善しない可能性が高いです。
そういうケースだと、中には保育士に「注意されること」すら自分に関心を向けてもらえる実感が得られることから、心地よくなってしまうということもあります。
そうなってしまえば、その机に登ることだけでなく、その子はさまざまなネガティブな行動をすることが増えていきかねません。それは保育士の対応が裏目に出たばかりではなく、保育士もその子への対応に振り回され、やがてはその子を許容する精神的余裕すらなくなっていきます。
(こういう状況でしばしば耳にするのが、「無視する」という対応です。無視することにより、その子供の行為を無意味化させる意図のアプローチなのでしょうけれども、それが好ましい対応でないことは考えればわかることと思います)
そこで「包括的受容」の出番です。
本来ならば注意することも、ひっくるめてさらに大きな見地から受容へと転化してしまいます。
子供が机に登ったとき。
「そんなことしなくても、私はあなたのことを見ていますから大丈夫ですよ。はい、こっちへいらっしゃい」と保育士のところへ来させ抱きしめてあげます。
いいも悪いもひっくるめて受容してしまうのです。
その基礎には当然ながら普段からの信頼関係の構築が前提としてあります。
「この人は受け止めてくれる人なんだ」と思っているところに、「こうすれば気持ちよく受け止めてくれるのだ」という道筋を実感として子供に持たせていきます。
「素直な甘え」ですね。
また、子供にとっては同時に「甘えていいという自信」でもあります。
「こうすればネガティブな行為をしなくても受けてもらえる」と子供がわかれば、わざわざ目を惹くようなことをしなくても良くなります。
素直に甘えるほうがよほどその子にとっても心地よいからです。
しかし、大人に受けてもらう経験の少なかった子は、受け止めてもらう自信がないので、素直に自分を出せず、ネガティブな行動に駆り立てられてしまいます。
「包括的受容」をすることで、その子供に「甘え方」と「甘えを出せる自信」を与えていくのです。
それによって、その子の問題の根っこから解決し、長い目で見てネガティブな行動をなくし、その子の生育を良いものへ転換していくきっかけとなります。
普段から安定しておらず、他児にちょっかいを出したりちょっとしたことで手が出る子に対して、その場面に対して注意の声をあげるのではなく、「どうしたんですか?」と問いかけて受け止める姿勢を持って関わります。
そこでは大人が善悪の判断をつけることや、子供に善悪の判断の意識を刷り込むことが重要なのではないのです。その子供がなんらかの問題の根っこを抱えている場合は、そこに手をさしのべなければなりません。
「どうしたんですか?」と問いかければ、そこでその子供がなんらかのリアクションをとることでしょう。
それを「ああ、そうだったんだね」。”ウンウン”とうなづくような気持ちで一拍二拍おいて、「うん、わかったよ。でもそんな風にしなくても私はちゃんとあなたのことを見ていますよ」と受け止めてあげます。年齢が小さい子であれば抱きしめてあげます。
それにより、その子の何らかの根っこが、もし氷のようなものだとしたらそこをあたためて溶かしてあげるアプローチとしていくのです。
または、普段から抑圧が多い関わりをされている子供も、大人の行動に反することをせずにはいられなくなってしまいます。
その子たちも、ネガティブ行動に対して「否定」の関わりをされることは、「抑圧に抑圧を重ねること」になるので、保育士は問題を解決しているつもりで火に油を注ぐことになってしまいます。
ですので、こういったケースも注意(否定)では解決しないものです。
このケースにおいても、そのアプローチのスタート地点として「包括的受容」の考え方は応用して生かせることでしょう。
この「包括的受容」の対応は年齢が小さい子ほどやりやすいです。
年齢が上がっても基本的な同様のこと(細かな関わり方は年齢に合わせて変化するが)はできますが、諸条件から0~3歳の子供に対してがやりやすく、またそういった低年齢のときこそ、基礎的な肯定感を持たせるアプローチを大人がすることで、精神的・情緒的な成長の援助を専門性をもった保育士としてするべきことでもあります。
別の見方をすれば、幼児になる前の段階で意図的に子供の基礎的な心の成長の問題をクリアしていくことが大切であるということでもあります。
そのように保育は、「目の前の子供の姿」だけを見てアプローチしていくのではなく、長期的な子供の成長・発達を考えていく視点が大切です。
これを僕は「保育の連続性」と呼んでいます。
この視点をもたないと、”担任になったときの自分のクラスだけしか意図しない保育”や”施設としての理念のかけた保育”になりやすいです。
考えていた以上に長くなってしまいましたが、今回でこのシリーズは区切りとしたいと思います。
保育実践に少しでも役立てていただければ幸いです。
保育士の本分は目先の何かを「できるようにすること」ではなく、「幸せな人生を歩める人間を世に送り出すこと」だと僕は思います。
そしてそれこそが本当の「保育の力」なのではないでしょうか。
| 2016-10-29 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
「いい保育」と「上手い保育」 vol.7 ~「介入しない」というアプローチ~ - 2016.10.25 Tue
家庭の子育てならば、あまり細かい点まで気にしなくてもいいので少し割り引いて読んで下さいね)
少し日にちが空いてしまいましたが、前回のおわり部分。
>では次に、子供が大人に一瞬視線を送ったけれども、そこで止まらずに他児の遊具を奪ってしまった場合の対応についても見てみましょう。
の続きからです。
こういう場面に直面したとき、一般的な大人の対応だったら「注意」をすることになるでしょう。
もし、その子が保育時間も負担になるほど長くはなく、家庭でも両親や家族が子供を自然に受容することができており、家庭に安定した生活基盤や経済基盤があり、家族自身もなんらかの大きな精神的負担を受けていることのない状況があり、話をしたり相談をする相手がいるなど育児に大きな不安や心配のない状況があり、子供自身も精神的身体的な安定を得られている子であれば、そこで「注意」や、「叱る」などの対応をしたとしてもそれでよいかもしれません。
かつては都市部でもそういう子供は多かったですし、現在でも地域によってはそういう子供が主流であるところもあることでしょう。
しかし、現在はさまざまな子供や家庭、就労する保護者やなんらかの理由で保育所に預ける人を取り巻く状況は変わってきており、そのような対応しかできないのであれば専門性のある保育士というには不十分になってしまいます。
では、「注意」ではないどんな対応方法が考えられるのでしょうか?
保育として考えるのであれば、ひとつは「介入しない」です。
「介入しない」というのは、イコール「放っておく」ではありません。
介入はしないのだけど、「見守る」のです。
このときの「見守る」のニュアンスは、「積極的な肯定はしないけれども否定もしない態度」です。
否定的な気持ちを持って保育者が見ていたら、その取ってしまう子はさらにそういったネガティブな行動をする理由を募らせてしまいます。かといって、好ましくないことを許容や肯定する必要もありませんね。
×「してはならないことなのに、なんであなたはするのかしら・・・・・・」
○「ああ、そうなのだね。ではこれからあなたはどうするのかな?」
これまでの既成の保育・子育てのアプローチでのもっとも大きな特徴は、「○○できる」「正しいこと」「結果」を求める余り、大人が「過干渉」になってしまうことです。
干渉をして子供にその場での正解の行動をとらせたからといって、それがそのまま子供に身につくわけではありません。
しかし、それを繰り返すことが「子供への関わりである」というのが、一般的な子育てへの認識になっています。
子供自身の力や成長として身につけさせるのならば、介入することで「正しい結果」を持たせるのではなく、子供が自分でその行動を身につけられるように導くことが大切です。
ですから、そこで注意をしてしまうことはあまり上手い対応ではないのです。
介入せずに見守っていたとします。
すると、とられてしまった相手の子ははどうするでしょうか?
それはその子によりますね。
取られたことを大して気にもとめず遊び続ける子もいます。
取られても、すぐに別の遊具を自分で見つけて遊びを切り替える子もいます。
または、
泣くことで感情を表す子。
取られることに抵抗する子もいます。
反撃する子、取り返そうとする子もいます。
そのとき噛みつきや叩くなどの行動になってしまう子もいることでしょう。
そのような相手のことも考えて保育士は、その場その場で適切な対応を取る必要がありますね。
相手が普段から噛みつきが出ていて、大きな怪我になってしまうようなことが予測されるのならば介入することも選択肢のひとつです。
そのように、「こうすべき」という正解がきまっているわけではありません。保育士ならばそのことは理解していることでしょうけれども、一応明確にしておきますね。
もし、その相手の子が取られたことによって大人に助けを求めてきたとき、それをそのまま受けて上げます。
このときも、余計な干渉にならないようにします。
どういうことかというと、ただ受けるのです。
どうすべきかを伝えたり、「返してもらってあげるから」などと大人が介入を申し出る必要はありません。
「ああ、とられちゃったんだね。それは嫌だったね」
と、ただ受けます。
「そこからどうするか?」はその子に考えさせるのです。
子供によっては、受け止めてもらったことである程度満足して、別の遊びに切り替える子もいますし、「かえして」とその子にいいにいく子もいます。
この受け止めるときに、その取られた子を「かわいそうだ、かわいそうだ」「あなたが正しい」といった大人の価値判断や主観の入った対応をすると、それを見ている取ってしまった子が疎外感を持ち(つまりはその子に否定を積み重ねること)、その子は余計に意固地にならざるを得ません。そうなればそれは、その子が自発的に正しい行動をとれるようになる芽をつむことになります。
なので、「ただ受ける」のです。
するとどうなるでしょうか?
その取ってしまった子と保育者の間に信頼関係が築かれていれば、ことさら注意などをせずともその行動が良いものではなかったことをその子は自覚し、「どうするべきなのか?」「どうすればよかったのか?」を自発的に考えるようになります。
取られてしまった子にとっては、自分でその後の行動を考え決め実行する経験となります。
このとき、大人が介入して「正しい結果」を出すことをアプローチとして繰り返していくと、子供は自分で考え行動する習慣を最初から持たなくなります。
それが積み重ねられていけば、子供たちは子供たちだけで仲間関係を営む力を何歳になっても持てなくしかねません。
このシーンを僕は2歳前後の子供で想定して書いていますが、そういった介入の多い保育を続けていればその子たちは年長になってすら、トラブルばかりの友達関係ともなりかねないのです。
ですから、大人は「正しいこと」を「作り出す」アプローチをすることは保育としては不十分なのです。
そのように、大人の意図的な介入や、「取った子に返させる」「あやまらせる」といった「落としどころ」を保育者があらかじめ設定せずに、その子への「否定」を積み重ねないで対応することができていくと、その取ってしまった子が次から取らなくなったり、取る前に大人をかえりみて踏みとどまることができたり、自分で取ってしまったものを返す姿が見られるようになっていきます。
そうしたら、そこにニッコリと肯定的な笑顔を向けたり、「うん」とうなずくなどの「認める」アプローチ(つまり肯定)を積み重ねることができます。
こうすると、「プラスの積み重ね」によって子供をより適切な姿に導いてあげることができるのです。
「正しいこと」の刷り込みのアプローチや、「しつけ」のアプローチは、「否定」になることを避けられないので、「マイナスの積み重ね」になってしまいます。
否定になってしまうところを否定にならずに子供を導ける。このことはまさに保育の専門性のあらわれではないでしょうか。
この「認める」の部分をオーバーな「褒める」ですれば、より子供を適切な方に導けるのではないかとしてしまう人もいます。
しかし、それは大人の作為が子供に見透かされるので、かえってあまりよろしくないのではないかと思います。
今回の例にとったケースはあくまで一例です。この通りにしなければならないのでもなく、この通りになるというわけでもありません。
「否定の積み重ね」にならないアプローチのモデルにしていただければと思います。
次回はまた別のかたちでのアプローチ「包括的受容」について見ていくことにします。
つづく。
| 2016-10-25 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
「いい保育」と「上手い保育」 vol.6 - 2016.10.18 Tue
子供は、管理や支配をせずとも大人の目指す方へと成長していくことができます。
そのためには「信頼関係」から子供への関わりを組み立てることです。
「信頼関係」をあつくするためには、「肯定」で子供に関わる必要があります。
しかし、これまでに述べたように、「正しい姿」を目指して、目の前にある子供の姿をその位置から見てしまうと、否定の関わり、もしくは否定の感覚・ニュアンスをもっての子供への関わりになってしまいます。(その否定のアプローチが極限までいってしまったもののひとつが「体罰」)
だからこそ、善意であっても最初から「この姿ではいけない。直さなければ」と子供を見てはならないわけです。
子供へのアプローチの最初のピースを「ああ、そうなんだ。この子はいまこの姿なのだな」とすることで、否定のニュアンス抜きの肯定の関わりにすることが大切になります。
だから、保育のプロは子育てを「しつけ」で考えては取りこぼす子を生んでしまいます。
保育園では、0~1歳児からの子供をみています。
なので、低年齢のときから「肯定」を積み重ねる保育を意識していくことができます。
このことも大変重要な点です。
これは「保育の連続性」へとつながります。これについてはまたの機会に。
では、「肯定」の関わりとはなんでしょう?
わかりやすいところでは「褒める」が思い浮かびますが、「褒める」は実は使い方・大人の姿勢しだいで「否定」にもなってしまう諸刃の剣です。
(「褒める」=「結果がよかったときに与えられる肯定」=「条件付きの肯定」 → 裏を返すと「大人の眼鏡にかなう姿(結果)でなければ肯定しませんよ」という「否定」のメッセージとして子供に伝わることもある)
本当は、そういったはっきりとした直接的アプローチよりももっと基礎的なところから肯定はあります。
まず、「見守る」ということが「肯定」です。
「見守る」といってもいろいろあります。
・「危ないことをしやしないかとハラハラ見守る」
・「他児に噛みつきや手出しをしないか見守る」
・「他児のモノを取ったりしないか見守る」
これらは、「肯定」になっているでしょうか?
これはむしろ「否定」になってしまっています。その後導き出される大人の実際の関わりを見ても「否定」の方向であることは否めません。
・「危ないことをしやしないかとハラハラ見守る」→「危ない危ない」と注意や制止、行動の牽制のアプローチ。
・「他児に噛みつきや手出しをしないか見守る」→大きな声を出して止めたり、怖い顔になっている。
・「他児のモノを取ったりしないか見守る」→注意したり、子供の関心を他に向けるようなアプローチ。
などなど、「見守る」をそのように使っている限りは、それは「肯定」になりません。
僕は「見守ることは子供へのプレゼント」であると考えています。
あたたかく子供を見守ることによって、子供に「私はあなたのことを守っていますよ、ここは安全です、あなたの居場所ですよ、私はあなたのしていることを認めていますよ」というメッセージを視線や表情によって日常の多くの場面で子供にその「肯定」を伝え続けていくわけです。
そのように「子供に○○をする」といった直接的なアプローチ以前のところから「肯定」はあるのです。
そこから肯定を積み上げていけば、その子への関わりの多くが子供を認めるニュアンスをもったアプローチになり、子供はその大人への信頼感を大きくしていきます。
子供の話を聴くこと、遊びの相手をすること、着替えや食事の介助、午睡の見守りなどの生活面の世話、これらも大人の意識しだいで「肯定」のニュアンスを持ったアプローチになり得ます。
「なり得ます」と言っているのは、「なり得ないこと」もあるからです。
それは大人の姿勢しだいなのです。
だから、「どうすべき」抜きの「ああ、そうなんだ」と子供の姿を受けることからスタートすることが非常に大切です。
最近の保護者の子供への関わり方で多く見られるのが、「子供の姿を”ちゃんと”させなければ」と真面目に一生懸命関わっている人が、年齢を重ねるほどに子供が手に余っていく状況です。
それは、上で述べたような「見守ること」が「否定」につながってしまう人に顕著です。
「”ちゃんと”させなければ」と思うあまり、結果的に子供に山ほどの「否定」を積み上げてしまいます。
それが日常における信頼関係の低下を招き、かえって子供が大人の望む姿になっていけない状況を生むケースがあります。
一緒に暮らす親子であればそうであってもカバーはできますが、本来他人であるところの保育士が「否定」をたくさん積み重ねる関わりをしてしまえば信頼関係はあつくなりません。(”その人に頼らなければ園で過ごせない”という最低限の信頼しか寄せられない。それは子供を導いていくにはほど遠いい信頼感にしかならない)
ですから、一般的な「しつけ」の感覚で子供に関わるのは保育士としては相応しくないのです。
しかし、そのような肯定的な姿勢・関わりを積み重ねた後であれば、子供を管理・支配をせずに望ましい姿を持たせていくことが可能になります。それも子供自身の自発的な姿としてです。
例えば、他児に乱暴な子がいたとします。
その子に、怒ったり叱ったりを重ね「怖い大人」になることで、その子が他児に乱暴するのを止めたり、事前に大人がそれをさせない雰囲気をかもし出すことも可能です。
しかし、それは否定の積み重ねの末に生み出された「威圧」であって、子供が自発的に乱暴しないようになっているわけではありません。
威圧でそれを押さえ込んだところで、別のところでその乱暴さを出すか、別のかたちで出させるようになるだけです。
それでは子供の成長とは言えません。
大人がその子との間に信頼関係を築く関わりを積み重ねていると、その子は例えば他児のモノを横取りしそうなになったときに、その大人に一瞬視線を送るようになります。
そのとき、「そのまま取ってしまったらその大人がどう思うだろうか?」という気持ちが、その行動をその子に思いとどまらせます。
そこで、もしその子が奪う行動を止めることができたら、すかさずそこを認めてあげます。するとその子はそうやって叩くことを思いとどまることが「よい行動なのだ」と学習し、自分から「どうすべきか、どうすべきではないか」を身につけていくことができます。
その保育士が、その子を行動でも心情でも肯定することができず、信頼関係をあつく形成していなかったら、もしくは威圧などの否定的な関わりを積み重ねていた場合は、他児のモノを取ろうとするときに一瞬その大人に視線を送る行動そのものを取りません。
子供がなぜ大人の言うことを聴こうとするかといえば、それは「大人が怖いから」ではないのです。
その大人が「好きだから」その人の言うことを聴こうとするのです。
好きだからその人の意に沿いたいと思うようになります。
これが、子供と保育士が「寄り添った関係」であるということです。
大人と子供が「支配・被支配」の関係になるのを目指すことは、保育では本来不適切なことです。
「しつけ」の子育ての考え方では、「叱ること」を積み重ねることで子供を大人に従順な状態を作り出そうとします。
それが可能なケースは、すでに人への信頼感をあつく形成している子供に限られるのです。
ごく低年齢からあずかる場合や、家庭で過ごす時間が短かったり、家庭の養育力が低下しているような保育園で直面することの多いケースでは、そのように大人が子供の上に立った状態で考えるかたちの子育てはどこかで限界がくることでしょう。
では次に、子供が大人に一瞬視線を送ったけれども、そこで止まらずに他児の遊具を奪ってしまった場合の対応についても見てみましょう。
つづく。
| 2016-10-18 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
「いい保育」と「上手い保育」 vol.5 - 2016.10.13 Thu
なぜそのような呼び方をしたかというと、「それこそが目指すべき保育だ」と考えている人が少なくないのと、保育士のスキルの「上手さ」によって子供の行動を作り出してしまう保育の問題点に気づいて欲しいからです。
大人が介入することで正しい姿を作り出すことは、保育・子育ての終点ではないのです。
でも、一般にはそのように考えられがちです。
本当に目指すべきところは、子供が自身の力で、その姿(行動)や成長を得られることなのです。
この違いを理解することは、頭の中だけでも結構難しいです。それを実践的に理解し習得することはさらに難しいでしょう。
保育士になったばかりの人は、まずほぼすべての人が程度の差こそあれ前者のポジションにいます。
そこに気づかないまま新人時代が終わってしまうと、その人は自分のしていることにある種の自負やプライド、または「こういうものだ」という先入観が生まれてしまって、それを変えることは非常に難しくなってしまいます。
だから、僕は保育を身につけるにおいて、新人時代のアプローチが非常に重要だと思います。
しかし、保育士の問題点は、それらのことを適切に習得している人であっても、そういった子供への関わり方や姿勢を感覚的にしか理解していないので、他者・後輩にそれを的確に伝えることが不得意である点です。
適切な保育ができる力量のあるベテランが、子供を力業で管理や支配をしてしまう新人保育士を止められずに対応に苦慮しているといった話をしばしば耳にします。
その新人の方にも、自身の生育歴に由来するものなどなんらかの根深い問題があることもありますが、やはり理論と実践の両方で保育を理解する必要が現代の保育士にはあるでしょう。
さて、ではここで「上手い保育」に対しておかれている「いい保育」とはどんなものなのでしょうか?
それは、大人の介入や強制力によって、子供を管理や支配、またはうまくおだてたり釣ったり誘導して大人の思うようにコントロールしてしまう関わり方をせずに、子供をその大人の目指すところに成長させていける保育のことです。
そのようなことを言うと、「この人はなにを言っているのだろう」とポカンとされてしまったり、そんなのは「理想論や机上の空論だ」といった反応がかえってくることもしばしばです。特に、その人自身がそれが緩やかなものであったとしても管理的支配的な関わり方をしてしまっている人の場合はなおさらです。
しかし、そのように子供を伸ばしていくことは、さして難しいものではなく可能なのです。
ただ、難しいのは大人の方の問題です。
日本の子育ての概念の中には、そのように「子供自身に発育させる」という考え方が希薄で、「大人が介入することで子供の正しい姿を作り出す」という見方が非常に濃厚だからです。
ですので、まずはその先入観を乗り越える必要があります。
記憶に新しいところでは、北海道の森林で「しつけのため」と小学生を放置し遭難した事件がありましたね。
このケースに見られる、”子育て観”がまさにこれまでの日本の子育ての典型なのです。
あれはたまたま遭難という事件になってしまいましたが、多くの人があのケースと同じ文脈での子育てをしています。
大人の考える「子供のあるべき姿」に従わせるべく、そこに大人が介入をするのです。
その介入の仕方は「否定」というかたちです。
子供が従わなければこの「否定」のかたちをより強めていきます。
これが日本の子育ての典型です。
多くの人にとって、これが「子育て」としての先入観になっています。
また、それがいわゆるところの「しつけ」の子育ての構造でもあります。
このあたりのことは「しつけ」についての過去記事でも述べました。
この子育て観の本質は「否定」の羅列であるところです。
現代の大人が「自己肯定感の低さ」で悩んでいるのも、この子育て観と無縁ではないと僕は強く感じます。もっとうがった見方をすると、「肯定で人と関わることを知らず、否定ばかりが多くなってしまう日本人の対人関係のあり方」にまでつながっているかもしれません。
さて、この先入観にとらわれている内は、自然自然と”大人が介入することで正しい姿を作り出そうとする”「上手い保育」を目指してしまうことでしょう。
ですから、保育士はひとつ大変重要な事実を理解しておかなければなりません。
それは、
「子供は、子供自身で育つ力を持っている」
ということです。
これが「子供の尊重」のひとつの大切なあり方です。
「どうせ子供はわからない」
「できないに決まっている」
そのような軽視した見方をしてしまうと、管理・支配のレベルでの子供への関わりに留まってしまいます。
そして、大人がその思いで子供にアプローチしていくと、子供はその管理や支配をされることが当たり前となって、「自分自身で育つ力」、「大人にさせられなくても、それらのものごとに自分から前向きに取り組むこと」などを、停止してしまいます。
すると、その管理や支配で関わる人にとっては、永遠に子供は「どうせわからない」「自分からはできない」存在にしか映りません。
なので、
「子供は、子供自身で育つ力を持っている」
このことを、頭でも実感でも保育士は理解していなければならないでしょう。
それをするのは、先輩保育士の役目です。
多くの新人保育士が、程度の差こそあれ「大人が介入して子供の姿を作り出すことが保育」という認識を持っています。
それを、支配しないでも子供が自分から大人の望ましいと考える姿に育ってくれることを実践で示して、
「子供は、子供自身で育つ力を持っている」ことを実感させていかなければなりません。
またそれが、「たまたま」とか、「その保育士が特別優れたパーソナリティを持っていた」から、「子供がいい子(安定した子)たちだった」からそうなったのだと理解させてしまうのではなく、「保育の力」によってその姿が導き出せたことを認識させる必要があるでしょう。
それを明確にしておかないと、「楽な道」=「管理や支配」に安住してしまうからです。
では、その管理や支配せずとも子供を伸ばしていく手段はどうするのでしょうか?
それが「信頼関係」を明確に意識した保育です。
つづく。
| 2016-10-13 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
「いい保育」と「上手い保育」 vol.4 - 2016.10.12 Wed
「正しいこと」という決めつけをせずに、子供に向き合っていく必要があるというところまでお話ししました。
では、それをせずに子供に関わるにはどうすればいいのでしょうか?
「ああ、そうなんだ」という言葉。
この意識で受け止めることが現代の子供への適切な関わり方のスタート地点になります。
それは「あるがままを受け止める」ということです。
例えば「○○がいい。○○は悪い」という価値判断抜きで、対象(この場合は”相手である子供”)を受け止めることが必要です。
「ああ、そうなんだ」というのは、いかにも平易な言葉ですが、これができるかできないかが現代の保育士の専門性の分かれ目となるでしょう。
「どうあってほしい」「このような成長を獲得して欲しい」ということを、考えてはならないといっているわけではありません。
でも、「○○できる」を求めて「現状の否定」から出発しても、すべての子供を本当の意味で伸ばすことはできないということに気づかなければなりません。
なかにはもちろん「現状の否定」から関わりをスタートしても、問題なく育っていける子もいます。
しかし、このやり方ではそういった「元々伸びる子」しか伸ばせないのです。
現代は、かつてよりも保育園、幼稚園、学校に入ってくる時点で、そこでのものごとが無難に送れる基礎条件を備えた子ばかりが入ってくるわけではありません。
(昔だってもちろんそういう子ばかりではありませんでしたが、現代はそのあり方がより多く、デリケートになり、多様化・個別化しています)
この「ああ、そうなんだ」という「あるがままを受け止める」姿勢から始めることによって、価値観の押しつけではない適切な援助がスタートできます。
そこを踏まえたところから、その子が必要なものを獲得させたり、問題となっていることを改善していく、次の具体的アプローチを考えなければなりません。
たったワンクッション。
「ああ、そうなんだ」と目の前の子供の今ある姿を受け止めること。
このことは、些細なことでしかないようですが、その子への関わりの最初のピースをこれにすることで、大人が行うその子への対応、そしてそれが子供に与える影響は大きく違ったものとなっていきます。
これは、カウンセリングの世界で言うところの「傾聴」と、ほぼシンクロして考えられるかもしれません。
子供は、”もの言わぬ存在”なので、「ああ、そうなんだ」と汲み取ろうという姿勢が保育者の側には不可欠なのですね。
クライアントの話も聴かず、受け止めず、自身の考えや正論を押しつけてくる人はカウンセラーとして失格という話は聞いたことがあるのではないかと思います。
子供を本当に伸ばそうと思ったら、保育にもこの「受け止めるプロセス」が重要です。
| 2016-10-12 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
「いい保育」と「上手い保育」 vol.3 - 2016.10.09 Sun
これは、人としての自然な気持ちでもあり、親心でもあり、善意でもあります。
だからそのように感じてしまうのも当然といえば当然なのですが、保育士は子供を育てる専門家としてそこにあえて「まった」をかけねばなりません。
なぜなら、その「できていないものをできるようにすること」が保育士の職務だと考えると、それが適切な援助にならなかったり、行き過ぎを生んでしまうからです。
(またもっと突っ込んだ話をすると、必ずしも大人が「できていないものをできるようにすること」という関わりをすることが、子供の成長のためにならないこともあるからです。
このことは、子育ての本質に関わるお話になってくるのでまたの機会に)
さて、そこで現代の保育士が理解していなければならない大事なことのひとつ。
それは、「”正解”を決めつけてはならない」ということです。
そのことは
「子供の理想像をあらかじめ頭に置いておかない」
「正しいか、正しくないかで子供を判断しない」
「すべての子供はみな違う」
「子供の姿を否定でとらえない」
「私が子供の姿を作り出さない」
「子供自身の成長を待つ」
などなどのことに派生していきます。
つまりは、「正しい子供像の型に大人が子供を押し込んではならない」ということです。
それをなんらかのテクニックや管理的関わり方を使って子供に「上手く」実行させていたのが、これまで一般に「保育」と考えられていたところの「上手い保育」です。
子供を「こうしなきゃ、ああしなきゃ」という思いが、念頭に強くあればあるほど保育は難しくなってしまいます。それが善意からのものであってもです。
これには、理屈ではなく心理的な面が多分に影響します。
人間は、一度「○○しなければ」といったことを決めてしまうと、それを守りたくなってしまう生き物です。特に自分の管轄下にある子供に対しては強く「守らせなければ」と考えてしまいます。(それこそ自分が守らないことであってすら、それを子供には要求してしまうこともあります・・・・・・)
「○○しなければならない」という目線で子供を見てしまえば、その○○が立派にできる子供は好意的にあたたかく見ることが簡単にできます。
しかし、そうでない子だったときはどうなるでしょう。
その大人が好意的に子供を見られる人であればまだしも、そうでなければ簡単に感情的な不快感がそこには生まれてしまいます。
「○○すべきだ!」
「しかし、この子はそれに従わない」
その状況にある保育士はどうなるでしょう。
そうなると、そこに心情的な波立ちが生まれます。
要するに、イライラやストレスを感じます。
そのイライラやストレスを、プロフェッショナルとしてコントロールし押さえられる人もいるでしょう。
しかし、それが山ほどたくさんになってくれば、そうそうはコントロールしきれません。
イライラやストレスをそこで解消する行動をとるようになります。
そして、怒ったり、叱ったり、冷淡さ、意地悪さを子供に向けかねないのです。
「その子に正しいことを身につけさせる」という大義名分の元に、自分のストレス解消のために子供に強く当たったり、疎外をし始めかねないのです。
ある大人の人が、自分の幼稚園時代の忘れられない出来事としてこんな話をしてくれました。
その人は子供のとき、食が細いタイプで給食を全部食べきることが難しい子でした。
しかし、「残してはならない」「きれいに食べなければならない」としきりにそこの先生から指導されるので、それでもなんとか頑張って食べようとしています。
しかし、食べきれないことが多くその先生からはたびたび冷たく当たられていました。
あるとき、頑張って無理して食べていたため、食べたものを吐いてしまいました。
すると、その先生は「吐いたものも全部きれいにたべなさい!」と怒ったとのことです。
大人になった今でもそのことは忘れられず、時々思い出すことがあるそうです。
現代でそのようなことをしたら、明らかに虐待です。
それは当時でも虐待ではあるのですが、そういった関わりを許容してしまう時代の空気があって、似たようなことがたくさんありました。
いまでも、そこまではしていなくとも本質的にはさして変わっていない人が存在していることを僕は感じます。
この人は、「子供は食事を残さず食べられるようになるべき」という強い信条があるわけですね。
それは職業的善意かもしれないし、その人自身の性格や、生育歴に由来するその人の持つ性向から来ているのかもしれません。
それ自体は必ずしも間違っていなかったとしても、実際にやっていることは「虐待」になってしまっています。
その人が考える「正しいこと」を、子供に「刷り込もうとすること」「実行させようとすること」、それは必ずしも適切な保育にならないのです。
しかし、往々にしてその「正しいこと」を子供に押しつける保育は蔓延してしまいます。
では、どのように関わっていけばいいのでしょうか?
つづく。
| 2016-10-09 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
「いい保育」と「上手い保育」 vol.2 - 2016.10.07 Fri
子育てに余裕のあったかつての時代であれば、その方向性の保育でもまあなんとか可能ではありました。
しかし、現代はもはやそうではなくなっています。
(これは地域によってはまだそういう状態が確保されていて、それでも無理がないということもあるかもしれませんが、それでも全体的な傾向としてはどこもまぬがれないのではないかと思われます)
かつては、子育ての基礎的な部分が家庭でそれなりに確立されることが多かったです。また、そうでない状況があったとしてもそれを望むことがさして問題ではありませんでした。
それゆえ、そのような「できる」の獲得を積み重ねていくところから保育をスタートし、多少なりとも管理や支配になってしまったとしてもそれなりに保育が無理なくまっとうできてしまいました。
保育所の本来の設置意義は、「家庭の代わりになって幼い子供たちが過ごす場所になること」ですが、その「家庭」の部分は実際の家庭でかなりの部分をまかなうことが可能だったので、保育所があえて「家庭」にならずともなんとかなってしまっていたわけです。
だからむしろ、かつての保育所のあり方は「学校」に近かったとすら言えるでしょう。
何らかの能力の獲得や集団行動などの確立、運動会、発表会や学芸会などの出し物的な部分を頑張るところにウエイトが持ってこられていました。
「家庭に代わって過ごす場所」という第一義的な機能よりも、「学んだり、習得させる」といった第二義的なところがクローズアップして当の保育士たちも考えていたわけです。
しかし、その頃から時代は大きく変わりました。
以下は、第二回保育セミナーのレジュメからの一部抜粋です。
<現代の子供たちの背景にあるもの>
a,家庭・家族のあり方 →核家族
b,親族との関わりの減少
c,地域のつながりの減少
d,保育の長時間化
e,保育の低年齢化
f,親のあり方の変化
・女性のあり方(教育・人生観など)の変化
・他者とのコミュニケーション力の低下
・子供と関わった経験
・就労の長時間化、激化 →余裕のなさへ
g,子供のあり方の変化
・きょうだいの減少
・他者のとの関わり・社会性の減少
・家庭での過保護・過干渉の影響の増大
・さまざまな経験の減少(遊び、生活)→幼さ
・親から受ける期待の増大
・早期教育、習い事の激化
h,親の関わり方の問題
・「負い目」「かわいそう」
・距離感 →どう関わったらいいかわからない
→「いいなり」や無視など。子育てそのものへの意欲がなくなってしまう
・「子供の尊重」のはき違え
・「不安、心配」の増大 →「正解探しの子育て」、早期教育などの与える「安心感」
i,親自身の生育歴上の問題 (子育てを機に表面化する諸問題)
・過度な期待 →作られた人生
・過保護・過干渉
・支配の連鎖(支配的人格の獲得)
・自己肯定感の低さ
・アダルトチルドレン
・孤立
こういった社会的、家族観的変化などが、「いい悪い」ではなく否応なしに存在していて、現代の子供たちに必要なものも確実に変化しているわけです。
これまで、学校的な第二義的な保育の職務が中心だったところから、第一義的な本来の「家庭の代わりとしてその子供の育ちの基礎的な形成を支える」ことに立ち返らなければならない時代になっています。
しかし、現行の保育施設や、保育士の意識は、それらの状況の変化や子供たちに必要なものの変化を認識しておらず、まだまだこれまでの「上手い保育」を目指してしまっています。
それが結果的に引き起こしてしまうのは、「落ちこぼれ」にされてしまう子供や、「取りこぼされてしまう」子供たちの存在です。
また、本来くつろいで過ごす場所になるはずのところで、威圧や管理、支配を受けてなければならなくなってしまう子供たちへの影響です。
さらには、本来ならば子供たち一人一人のケアをし、子育てする保護者の助けにならなければいけないのに、かえって子供に負荷をかけて家庭に返すことで子育ての負担を大きくしてしまうといったことが起こってしまっています。
もう、「上手い保育」をしていれば済んだ時代はおわったのです。
子供だましなどのテクニックや、威圧や疎外などの力業で、子供を管理・支配をして自分の目の前でだけ「いい子」にして自己満足をしていたら、保育士の専門性を世の中の人たちが認めてくれることはありません。
本当に必要なものを見据えて保育をしなければならない時代になっています。
目に見える「できる」を達成させて満足するのではなく、その子自身の本当の成長や発達として適切に獲得させる「伸ばす」ということを理解し目指さなければなりません。
そのためには、「正しいこと」「○○しなければならない」「○○できなければならない」、「ちゃんと、きちんと、しっかり」はいったんどこかに置いておく必要があります。
それらの、燦然と輝く「正義」を念頭に描いて保育をしている内は、それを力業で子供に「させる」ことが保育士の関わりになってしまいます。
実は保育士の仕事が素晴らしい点は、「あるがままを受け入れてよい職業であること」なのです。
つづく。
| 2016-10-07 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
「いい保育」と「上手い保育」 vol.1 - 2016.10.06 Thu
これは「子育て」で言い換えることもできますが、今日のところは「保育」で話を進めていきます。
これまでの保育は「上手い保育」を目指してきたといえるでしょう。
そしていまだに、それは主流であるとも言えます。
例えば今の時期であれば運動会で考えてみましょう。
その集団の子供たちに、「競技や演技を習得させてそれを見る人から立派に見える形で実演させる」ということを上手にできることが保育士には要求されていました。
ほぼすべてのことがそのように「上手に」子供に「実行させること」「能力として獲得させること」が保育の仕事だったと言えるでしょう。
おむつを外すことやお箸の使い方から、座って話を聞くことなどなどの、「できる」という目に見える力を「上手に」獲得させられることが「上手い保育」であり、それができる人が「上手い保育士」でした。
それはさらに、言うことをきかない子であっても「きちんと従わせること」もそうです。
いかに「上手く子供をコントロールできるか」がその力量の重要な点だったのです。
「きちんと」「しっかり」「ちゃんと」
そこでは、これらのフレーズをいつでも無意識に大人は考えています。
「きちんとさせなきゃ」
「しっかりやらせなきゃ」
「ちゃんとさせなければ」
それは、大人が頭の中に「子供のあるべき姿」をあらかじめ設定しているということです。
そして、そこに「上手く」近づけることが、「保育」であると考えていたわけです。
もし、「座って話を聞けない子」がいたら・・・・・・。
その子に「座って話を聞かせる」ことが目的になってしまいます。
「上手い保育」では、それは長期的な目的でなく、ごく短期的に考えてしまいます。
「いま、目の前で!」。「座って聞かせなければならない」。
そして、そのために子供を動かしてしまいます。
そこで例えば威圧的に子供に関わる人であれば、「座りなさい!」といかめしい顔で注意したり、怒ったり叱ったりしてしまう人もいます。
「ごまかし」や「脅し」を使って怒ったり叱ったりはしていなくとも、それが力業の保育であることは結局のところかわりません。
それらによって、大人の望む姿を作り出すこと。
かつてはそれが「上手い保育」でした。
いまでも、この保育になってしまっているところは少なくありません。
しかし、それは必ずしもその子供自身の獲得した育ちにならないです。
なかには、それを繰り返す内にその子がそういう習慣を獲得できる子もいるかもしれませんが、結局のところ力業でその行動を作り出しているだけなので、多くの場合は「させられているから、従っているだけ」です。
つまり、その子自身の力にはなっていないのです。
その子自身が自分から、「なぜ、座って、話を聞かなければならないか」を理解したり、「話を聞く力」を育てたり、獲得しているわけではありません。
その人が力業で子供が従っている状態で満足している内は、子供を「伸ばしている」とは言えないのです。
しかし、少なからぬ人がその状態が、「保育の成功している状態」であると勘違いしてしまいます。
その背景には、日本でこれまで一般的に行われていた子育て、学校で行われていた教育の方向性が、管理的・支配的なものであったことも大きく影響しています。
本来の保育の目的は、そのように子供を「上手く」従わせることではなかったのですが、いつの間にかそれが「上手い保育」となってしまいました。
そういう保育が当然だと思っている人、「上手い保育」ができるようになってしまっている人は、例えばこのように考えます。
その人は、その「上手い保育」の経験を積んで、それが上達してしまっていますから、ことさら怒ったり叱ったり、大きな声を出したりすることもなく、威圧的な雰囲気をかもし出して、子供の方から顔色をうかがわせて言うことをきかせることができるようになってしまっています。
そこでの子供は、その人に逆らえないので、その保育士の要求にしぶしぶ従っていきます。
従ってはいても、その人に押さえつけられたり、自我を出したりすることを我慢しているので、抑圧されたもの、ストレスが溜まっています。
若い職員や、優しく受け入れる姿勢を出している職員がいる場合は、その人に何とか受け止めてもらおうと、そこで自我を出したり、要求をつきつけたり、甘えを出したりします。
その状態を「上手い保育」を獲得してしまった人から見ると、「子供を甘やかしている」「わがままを助長している」と見えてしまいます。
その本当の原因になっているのは、その人自身がする普段からの威圧的な雰囲気や、くつろぐことができない保育施設の雰囲気なのですが、そのことに自分から気がつく人はまずいません。
子供を「言うことをきかせることが当然」だと思っているので、そういう人からはその構造が目に見えなくなってしまうのですね。
また、その子たちは、園で過ごす間「とても頑張らなければならない」ので、親が迎えに来たときや、家庭に帰ってから、その反動を出してしまいます。
親に対して、イライラをぶつけたり、理不尽なわがままとして出したり、大人が受けきれないほどの過剰な甘えとして出しがちになってしまいます。
長時間の保育は、ただでさえ子供に少なからぬ負荷をかけるものですが、子供に管理的・威圧的・支配的な保育を重ねてしまえば保育士がさらにそれを助長してしまいます。
「上手い保育」が当たり前だと思ってしまっている保育士には、やはりそこでも自分がその原因になってしまうということが見えてきません。
すると、「親が甘いからだ」とか、「ちゃんと見ていないからだ」という判断をしかねません。
このような力業で子供に言うことをきかせてしまう「上手い保育」を、その施設がし出すとその施設ではそういった力業の保育しかできなくなってしまいます。
受容的な保育をそこで展開しようとしても、まず確実にそれが確立するところまで持って行けません。
なぜなら受容よりも、管理や支配、威圧が与える影響の方がずっと多くなってしまうので、何人か受容できる人がいたとしても追いつかないのです。
受容といった心のケアはコツコツとしかできないのに対して、威圧や子供の疎外、尊厳をくじくなどの強い行為は簡単に蓄積されるからです。
ですから、それら「上手い保育」ができてしまう人は、余計にその自分の保育の仕方が正しいと思い続けることになります。
受容的な優しい人や威圧のスキルが十分でない若い保育士が保育をしている状況だと、子供が「(その”上手い保育”をする人から見て)いい子」にできていないように見えるので、「やはり私のやり方でなければダメじゃない」と思えてしまいます。
日中、その威圧や管理をする「上手い保育」をしていた人が保育して、遅番の当番にはそれをしない人が保育した場合、子供たちの姿が激しいもの、落ち着きのないものになってしまうことがあります。
そうなってしまうのは当然なのです。
その「上手い保育」はバネを上から押さえつけているようなものだから、その重しがなくなってしまえば、ぴょーんと飛んでしまいます。
押さえつけ方が強ければ強いほど、その反動は大きくなることでしょう。
保育時間が短かったりすれば、まあ多少はそのような傾向があったとしても、子供の持ち前の柔軟さで乗り越えもいけますが、長時間だったり、その押さえつけが強すぎれば子供への影響は大きくなっていくことでしょう。
つづく。
| 2016-10-06 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
『今、日本の保育の真実を探る』シンポジウム 報告 vol.1 - 2016.09.19 Mon
(学術的な見解などは主催している”発達保育実践政策学センター”の報告やその他の研究者の先生方のお書きになっているものの方が詳しく正確だとは思いますが、僕なりの見方として述べていきます。もし記載や解釈などに間違いがありましたらどうぞご指摘ください)
結論から言って、大変有意義なシンポジウムでした。
まずは「このシンポジウム自体がなんなのか?」というところから説明していきますね。
”発達保育実践政策学センター”というものが、2015年成立した国の”子育て支援法”の後押しを受けて同年東京大学内に東京大学大学院教育学研究科付属施設として設立されました。
そういった意味では公的な色の濃い研究機関である特徴があります。
それはまた、ここでの研究結果が今後の国の児童福祉・保育・教育政策に反映されやすいということでもあります。
そしてこの”発達保育実践政策学センター”が、公的な意味合いのあるものとしてはまた規模から言っても日本初といえる大規模な調査を行いました。
こういった保育現場に対する国単位の大規模な調査は、OECD加盟国ではすでに各国で行われていることでしたが、日本では遅ればせながらようやく始まったわけです。
この調査が特徴的なのは、保育現場である、各保育施設(認可無認可を含む保育施設、幼保一体型の認定こども園、幼稚園等)において1歳、3歳、5歳担当保育者への調査により、その実態を解明するとともに、各施設の施設長・主任、それから各自治体の首長・保育関係部署への調査合計約3万人を行っていることです。
その名称に「政策学」と入っているように、単なる保育現場の調査だけでなく、行政の動きがどのようにその保育の実際に影響を与えているかの関連も読み解こうとしています。
(例えば、どういう傾向をもった人が首長になることで、どういった影響がでているかなども・・・)
ただ、現状においてはまだまだ課題も多いことを率直に述べられていました。
(この第一回調査は、アンケートによる「そう思う~~~~そう思わない」式の5段階選択方式で、主観的意見が中心になっていること。全施設の全回答ではないため、データそのものに偏りがある可能性のあること。各国でも調査方法自体がいまだに未成熟であること等々。)
僕が気になったのは、アンケート調査の回収率が低い点です。
約9万人を対象に送ったアンケートですが、回答数(約30700名、7千施設)とやく3割です。
その内訳、(回収率)
・施設
幼稚園 40%
認定こども園 45%
認可保育園 50%
小規模保育所(地域型保育) 35%
認可外保育施設 15%
・自治体
首長 33.1%(回収実数577)
子ども子育て支援担当部局担当者 46.6%(実数811)
となっています。
こういった調査に協力的なところは、普段から保育の質やその向上に意識を持っているところが必然的に高くなることでしょうから、このデータ結果は本当の実情よりも”よい状況”が数値化されている可能性も高くなります。
もちろん、それでも意味のないわけではありませんが、これらの調査は実際の国の施策や保育行政に影響を与えていくものですから、むしろ大変な状況になっているところほど声を上げてもらった方がよりよい方向に動かせていける可能性があるわけです。
(人員配置や施設補助費、研修の予算がつくとか、事務補助員の予算がつくなどなど、実際的な動きとして)
ですので、今回回答できなかった施設も、今後この調査の続きや、こういった調査が活発に行われることになるでしょうから、是非とも積極的に協力していただきたいと思います。
このシンポジウム、そして”発達保育実践政策学センター”の基調にあるのは、保育の質の維持・向上であると思われます。
現在でも大変保育への関心が高まっている時代ですが、まだ「待機児解消」の観点から「量的な拡大」を中心に考えられています。
もちろん、それも大切ですがその量的拡大ばかりに目がいけば、質はおろそかになってしまいます。
次代を見据えて、その質に関しても先手先手を打っていかなければなりませんね。
今後、ここで挙げられたデータについても述べていきたいと考えておりますが、指定討論で行われた文京区長 成澤 廣修(なりさわ ひろのぶ)さんのお話も大変興味深いものでした。
そのなかの言葉
「東京都がつけた保育補助予算120億円のうち、保育の質の向上に充てられる額はそのうちの1000万円しかない」
とのことでした。
量的拡大には目が行っているが、質はほとんど顧みられていないというのが現実になっています。
(東京都HP「平成28年度9月補正予算(案)について」
こちらの、一番下 「保育施設に対する巡回指導等の体制強化【拡充】 10百万円」がそれに当たる。
注:保育指導のできる巡回指導非常勤職員10人分の予算)
また、全国的にはその量的拡大を「規制の緩和」を背景として行われていること。文京区はそれを極力せずに保育施設の拡充を行っていることなどもおっしゃっておりました。
量ばかり増やし、質を担保してこなかったところでは、これはすでに大きな問題として出てきてしまっています。
今回の調査、シンポジウムは、保育の質の維持・向上を考え切り替える、大きな節目になったのではないかと思います。
時間をみつけてまとめていきますので、続報は気長にお待ちください。
明日は多摩センターにある幼稚園で、子育て講演をしてきます。
いい会にしたいと思います。
| 2016-09-19 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
保育には「盗んで覚えろ」は通用しない - 2016.09.17 Sat
今日は勢いで二本の記事をUPしています。代わりに明日は保育シンポジウムに参加してくるので、明日の更新はありません。あ、もう日付が変わっていました・・・・・・
↓明日東大の安田講堂で開かれるこちらのシンポジウム。
ちょうどまさにこれからの保育の質の向上を考えるシンポジウムです。もし明日いらっしゃる方がおりましたら、僕もおりますので気軽に声をかけてくださいね。(青いスーツ着てうろうろしている眼鏡のおじさんです)
『今、日本の保育の真実を探る』
生活面での子供の養育があり、身体の成長、心の成長、生活習慣の獲得、集団としての行動、表現などの個々の発達、
それらだけでなく、「どうやって子供と関わるか」山ほどの状況があり、それぞれ違う背景や個性を持った子供への適切な対応を身につけていく必要があります。
それは教科書やマニュアルに書かれたことで対応できるわけでなく、学習から、実際の経験から、周囲の人たちの子供への関わり方から、自分のものとしていかなければなりません。
そういった意味では、とても職人芸的なところがあります。
その人自身にスキルが固有化しているからです。
職人芸的なスキルは、よく「盗んで覚えろ」と言われます。
「教え込んだところでけっして身につかない」とも言われます。
保育もそういう部分は多分にあるのも事実です。
その人自身で、理解し納得し、その技術を自分のものにするためには、ただ教えたからと言って身につくものではありません。
人の関わり方を見ることで、保育でのやりかたを身につけることも確かにたくさんあります。
しかし、だからといって「盗んで覚えろ」は決定的な答えではないのです。
ここが、モノを作る職人さんとは違うところです。
何かの道具や工芸品を作る人にしても、家を建てる大工さんにしても、その人たちの仕事には目に見える形での結果が伴っています。
どれだけ口で立派なことを言おうとも、その人の成果はモノという形にはっきりと表れます。
その仕事が優れているか、見てくれだけは立派でも機能に支障があったり、細部で手を抜いていたりすれば、やがては、または見る人が見れば明らかにわかってしまいます。
ですから、モノを作るいわゆる職人さんは、誰かが仕事を教えずとも明らかな結果を出せるようにならなければ、一人前とは認めてもらえません。年齢や経験年数を重ねようとも、その結果がでなければ後から入った人にも追い抜かれていきます。
実力主義の世界ですから、仕事がともなわなければ経験年数だけで大きな顔をすることもできません。
しかし、保育では職人的に力量を磨かなければならない部分があるとしても、その人の仕事の結果が明確に形で判別できるわけではないので、適切な仕事ができていなくとも上に上がっていくことも、聞きかじった受け売りで大きなことを言うこともできてしまいます。
だから、保育技術を「盗んで覚えろ」では通用しないのです。
かつての時代よりも、多様な理由から保育は難しくなっています。
保育士が、その本来の専門性を発揮しなければならない必要性は年々高まっています。
例えば、家庭で親がどうしようもなくて多少使うくらいにはさほどのことはなくとも、僕は保育において「疎外」を用いることは大変問題のあることだと思っています。(例:「みんなと一緒にできないあなたは赤ちゃん組にいきなさい」、「言うことを聞かないのならばおいていきます」など)
かつての状況であれば、保育士がそれをつかって子供に言うことをきかせるといったことをしても、子供自身に大人への信頼感がすでに形成されていたり、保育時間がさほど長くなければまあなんとか家庭で親に甘える程度で解消できていたものが、現在の親も仕事での負担が大きかったり、子育てに周囲の援助がもらえなかったり、保育が長時間にわたっている状況では、そういった関わりは子供にもその親にも大きな負担や影響を与えかねない時代になっています。
保育技術は、もはや「その人しだい」で済む時代ではなくなっているのです。
どういった理念を背景に、どういった形で子供と関わるべきなのかなどを、はっきりと明らかな形として保育士ひとりひとりが認識して、それについて同僚と共通理解を持って保育に取り組まなければならなくなっています。
しかし、現在の保育界にはそれが十分な形ではできていません。
僕はイメージとしては、保育士が保育について、子供への関わり方について話し合うとき、囲んだ机の上に、目で見える、または手で触れるような形で、目指すべき保育が置いてあるような状況でなければならないと考えています。
それができるようになって初めて、その園として理念をもった一貫した保育が展開できるようになります。
適切な保育をしていくためには、低年齢の時から丁寧に「積み重ね」ていく必要があります。
子供の安定した育ち、姿を作り出すのは、丁寧な配慮と継続したアプローチが必要です。
作るのは時間がかかり難しいのに、壊すのは簡単にできてしまいます。
0歳クラス、1歳クラスと、適切な保育を積み重ねて安定した育ちをその子たちに得させたとしても、職員が替わり2歳クラスで疎外したり支配的・抑圧的に関わる保育をしてしまえば、その子たちの安定は一瞬で崩れます。
適切な保育が一貫した形で、その園の職員に徹底されていなかったためにそれは起こります。
理念と技術そして実際の子供の姿を一致させられるだけの専門性を持った保育ができる園や保育士がどれほどいるでしょうか?
それができる保育士で、それを明確に他者に説明したり、教えたりすることができる人はさらにどれだけいるでしょうか?
「できる保育士」「うまい保育士」はそれなりにいるでしょう。
しかし、専門性の高い保育の必要性が高まっている現代においては、もはやそれだけでは済まなくなってしまっているのです。
目に見える形、手触りのある形で、「保育とはこうだ」と認識し、それを園内で共有する力が必要な時代になっています。
これから保育を学ぶ人、よりよい保育を目指したいと思っている人はぜひそれも意識して目指してみてください。
このブログのコメントに寄せられる保育園に預けている人たちの声に耳を傾けると、どれだけ多くの人が心ない保育で苦しんでいるか痛いほど聴こえてきます。
おそらく、心ない保育をする人たちをすぐになくすことはできないでしょう。どれほど説得したところで変わるわけではない人もたくさんいるでしょう。
でも、それを今後も繰り返してはいけません。
今度の保育士セミナーでは、その保育の実践につながるだけの、目に見える、手触りのある保育を伝えられるよう僕も精一杯お伝えしたいと思います。
まだ、エントリーには空きがありますので、もしそれを少しでも身につけたいという方はどうぞご参加ください。
第二回保育士向けセミナー
テーマ 「受容と信頼関係の保育 ~支配から信頼へ~」
日時:10月2日(日) 13時15分~16時15分
「今現在保育士ではないのだけど、保育に興味があるので学びたいと思っており参加してもいいですか?」というお問い合わせがありました。保護者向けの内容ではありませんが、そういう方でも結構です。どうぞご参加ください。
| 2016-09-17 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
「なめられるな」は保育ではない! vol.2 - 2016.07.09 Sat
まずはおしらせからです。
メール相談を若干名再開いたしました。
一件づつ丁寧にお答えしていきたいので、少数ずつお受けしております。
そのため、お待ちの方にはご迷惑をお掛けしてしまいますが、どうぞご理解ください。
来月8月は講演等が少ない時期ですので、これからはそれなりの件数をお受けできるかと思います。
(今月はめちゃくちゃ忙しかったのです~)
では今回は、保育において「信頼関係」を基にしたアプローチとはどういうことなのかについて見ていきます。
(ちなみに、保育セミナーの2期ではこのテーマをより深くお伝えしていく予定です)
前回あげた、「部屋から子供が出ていこうとすること」から見ていきますね。
・ドアを閉めなければならない、施錠しなければならない、柵を高くしなければならない
それらのことがでてきましたね。
それと、参加者の方から寄せられた園の状況で、柵に登る子に落とす(ふりをする)ことでそうしないよう教えこむといったこともありました。
子供のことを「支配のアプローチ」で考える人、「子供はできないものだ」といった先入観を持っている人などが、子供が部屋から出ていこうとする姿を見ると、それをさせまいとする「ダメ出し」の関わりやそれの強化をまずは考えます。
その過程で、その人の力量・対人コミュニケーションのあり方に応じた様々な手段ができます。
(注意の多発・叱る・怒る・脅す・疎外・他者と比べることでその姿をなくそうとする・ごまかす・子供だまし・釣るなど)
それらは、どんなに優しく言おうとも、ほとんどがその子への「否定」のアプローチになっています。
また、これらはそれでも子供の姿が大人の思い通りにならないと、「冷淡さ」に向かっていくリスクを秘めています。
それをしたところで、子供のその姿が止まないと、その大人は「あきらめ」や「その子への不信」という感情を心に持ってしまいます。
「この子は何度言ってもわからない。どうせできない子なのだ」
そのようになってしまうので、そこでの問題、
「保育室から勝手に出ていこうとする」
これを解決する手段は、物理的対応に行き着きます。
施錠や柵などの物的環境。他にも大人の人手を増やすこともそうです。
結局は子供の行動を抑えつける・制限するために、物的環境や大人の人数を使ってしまうのです。
そのような物理的な条件を整えなければならないといったことも、さまざまな状況・子供といったことがありますから、なかには必要なこともあるでしょう。
しかし、「それが当然」となってしまったら、その保育に発展はないでしょう。
なぜなら、その方向性の対応をしているうちは、いくらしたところで問題の解決をしてはいないからです。
それは子供を支配・管理しているだけです。
保育士は子供に点数をつける仕事ではありません。
現状の結果だけみて、「いいわね」「悪いわね」では済まないのです。
その子の問題点を汲み取る視点を持っている必要があります。
「その子はなんで”そういう姿”が(問題が)出ているのだろう?」
子供の問題にあたった時、大人が「こうすべき!」だけで見ていたら、子供の否定や力づくで抑えつける方向性の関わりしかでてきません。
「この子のために、いま何が必要か?」という見方をしていかなければならないのです。
これを僕は「援助の視点」と呼んでいます。
「しつけのメソッド」だけでは保育はできないのです。
「しつけのメソッド」で済むのは、「それが通用する子」に限られます。
”もともとできる子”や、注意や否定といった「しつけ」の関わりで”できるようになる子”しか対応できないのです。
だから、この「しつけのメソッド」だけしか持たない保育士は、それ以外の子に対して冷淡になっていったり、優しい人で冷淡にはならない人であっても、”お手上げ”や”無関心”になりかねません。
そしてその見方は、子供を「落ちこぼれ」にしてしまいます。
僕はそういう保育士もたくさん見てきました。
これでは保育の仕事は面白くはなりません。
「可愛い子」「できる子」ばかりを見ていればいいのであれば、まあ楽しいかもしれませんが。
子供が大人の意に反して保育室から出ていこうとする状態は、「不安」や「不信」の表れです。
その環境に不安があるケースもあるでしょう、障がいや発達上の特徴のある子にそういうことはしばしばありますし、新入園児などにもよくあることです。
しかし、その保育士に対して「不安・不信」を持っているがゆえに、その部屋が居心地がよく感じられず、その部屋から出ていこうとすることは、その保育士・保育に対するとても大きな問題です。
なぜなら、それは保育に必須なことが欠けているから。
それに気づかず、物理的に、または人手の多さで抑えつけることをしていけば、ずっとその子やそのクラスは安定しないままになっていきます。
「子供はわからないもの」「子供は言うことを聞かせるもの」「子供は大人に従うべきもの」
そのような見方でしか子供を捉えられないと、子供と大人の心はつながりません。
それでは、表面的な信頼関係以上のものは構築されないでしょう。
そのような保育士に対しても子供はある程度の信頼感は持ちます。
しかし、それは「そこで過ごすにはその大人に頼るしかないから……」というレベルでの信頼感にとどまります。
子供によっては、それはすぐに必要なだけの信頼感を下回ってしまいます。
下回った子は、その保育士のことには当然ながらあまり従いません。
「仕方がないから従う」程度のものです。
そういう子の中には、部屋から出ていこうとする子も出てきてしまいます。
それは「その部屋よりも室外に行ったほうが居心地がいい」と子供に感じさせているからです。
それを、物理で抑えることで対応していたら、その子もクラスも安定に向かうことはありません。
”物理的対応が必要なことはある、しかしそれは通過点として”
であるべきなのです。
保育士がその子と適切な信頼関係を築けていれば、そうそう子供はそこから出ていこうとはしません。
だって、その人がいる場所の方が安心だもの。
だから、前回述べたように
「”安全・安心”をプレゼントすること」
が保育の第一の目的なのです。
どの子も家庭が一番です。それでも保育園に来るからには、そこの大人がそれに変わる場としての安心感を示してあげなければなりませんね。
だから、保育士が第一に目指すべきなのは、「この室内にいなければならない。出ていこうとするのなら出て行かないようにしなければ」ではなく、「その子がこの環境になんらかの不安・不信を感じているのならば、そこをサポートしてあげなければ」という見方なのです。
しかし、これまでの日本の子育ての中には、意図的に信頼関係を構築するというプロセスがなかったように、やはり保育の中でも見過ごされがちになっています。
かつては、他者への信頼関係を持ったうえで家庭外に出てくる子の比率が多かったです。
いまは、さまざまな時代・環境の変化からそれが難しくなっています。
保育士が「しつけ」で保育を考えたら、そのメソッドに信頼関係を築くアプローチは含まれていないでしょう。
だから、「〇〇できること」を保育の最初においてはならないのです。
信頼関係を築くことが第一に必要です。
では、信頼関係を築くためには?
それは、「受容」であり「肯定」です。
この二つは、さまざまな方法で子供に伝えていくことができます。
しかし、それが難しいのは、大人の心持ちひとつでその性質が簡単に変わってしまうことです。
例えば、「子供を見守る」ということだって、
あたたかく微笑みながら見ているのならば「肯定」になるけれど、
「なにかしやしないか」「噛みつきがではしないか」、「言ってもどうせ聞かないわよね」、「うんざりだわ」そういった気持で見ていれば、子供の敏感な心はその目線を「否定」と感じます。
そのようなあからさまな否定的な見方でなくとも、「どうしたらいいのかしら……困ったわね……」といったおどおどした態度だったりしても、やはり子供からは「否定」に近いものとして感じられてしまいます。
『医は仁術』なんていう言葉があります。
「仁」というのは、”おもいやり”という意味でもあり、”人”という意味でもあり、”心”という意味でもありますね。
保育も、まったくそうだと思うのです。
そしてその部分は、形がないので見えません。
でも、大人には見えなくても、そこにいる子供はしっかりと感じています。
自分に対して「否定」の見方になっている人だったら、上辺はどう取り繕うとも子供は信頼感を厚くしません。
だから保育の一番最初に来るのは、「子供を〇〇できる子にすること」ではなく、
「”安全・安心”を”プレゼント”すること」なのです。
| 2016-07-09 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
「なめられるな」は保育ではない! - 2016.07.05 Tue
具体的にはこんな事例も寄せられました。
・遊具の取り合いで相手を叩いてしまった1,2歳児に「先生も○○ちゃんのこと叩いていい?」と脅す
・ドアの柵に上って部屋の外に出ようとする子に対して、わざとその上った柵から落とすことで恐怖感を味合わせ、それをさせないようにする
・食べこぼしのある1歳児に対して、冷たいニュアンスでダメ出しを繰り返していく
・「あなたが甘いから子供が言うことを聞かなくなるのだ」と、厳しさ冷淡さを出すことを先輩保育士から要求される
・言うことを聞かない子に対して、まるで罰を与えるように集団から隔離して疎外感を味合わせることで大人の指示を聞かせようとしむける
などなど。
こういった保育が、日本中でまだまだ行われていると思うと大変残念に感じます。
不当に扱われる子供の気持ちを考えるとはっきり言って怒りすら覚えますが、同時に「かわいそうだな」とも強く感じます。
「かわいそう」というのは、その保育士に対してです。
そのような形でしか保育を身につけさせてもらえなかったということが、嫌味ではなく本当にかわいそうだと思います。
たぶん、そのような保育をしていてもあんまり楽しくはないのではないでしょうか。
そのような支配型の保育をしている人にもいろいろいます。
なかにはもともとのその人の性格が他者に対して支配的だったり、高圧的な傾向を持っていて保育でもそれがでているケースもあれば、子供のことを大事に思えていて善意やあたたかみも持っていながらも、「そういうことが保育なのだ」と理解してしまっていて子供にそのような保育をしてしまっている人も少なくありません。
僕は思うのだけど、保育の専門性と保育の実践との間には大きな乖離(かいり)があります。
本来それは一致していなければならないのに、まるで別個のようになってしまっています。
「子供になめられるな」といった子供への見方や、それに類するようなことは、保育の大学や養成校で教えられたことなどまったくないはずです。
しかし、現実にはそのような保育が横行してしまっています。
本当はそこで習っていることは「子供になめられるな」といった考え方とはまったく逆の子供の見方・関わり方です。
これでは、学校で習ったこと、もしくは資格を取得するために学んだことまったく無駄になっているということです。
つまり保育士は、国家資格とは名ばかりでその専門性は認められない状態と言われても仕方ありません。
セミナーに参加された方の中には、学生の時に実習にいった先の保育園がしていることがあまりにおかしく感じたので、保育園に就職するのをやめてしまったという方もいらっしゃいました。
立派な保育をしているところももちろんあります。
しかし、とても専門性があるとは言えないレベルの施設も少なくないのが現実です。
これからの時代、保育のもつポテンシャルはさらに重要になっていきます。
保育は現代に適応する形で変わらなければなりません。
はっきり言ってしまうと、「子供になめられるな」と保育士が言っているようではあまりに勉強不足。それは40年前の保育です。
40年前ですらそれはいい保育ではないけれども、家庭の養育力などがあって園でそのように不当に扱われても何とか子供はバランスがとることが可能でした。
でも、現代ではそれは無理です。
保育をきちんとしようと思ったら、「なめられるな」という言葉はけっして出てこないのです。
「そんなわけはない、保育において子供になめられないことは何より重要だ」と思われる保育士の方がもしいましたら、学生の時につかった教科書を見返してみて下さい。
それが40年前のものであろうと、今のものであろうと、「なめられるな」に類するようなこと「保育者は威厳が大切」そういったことも含めて一切書いていないはずです。
「子供になめられるな」という保育は、「しつけのメソッド」を背景とした”支配型の関わり”が導き出してしまっている保育観です。
これで保育をしていくと、多くの場合行きつくのは”冷淡さ”です。
「子供を○○にしなければならない」
それを第一の目的としてしまえば、浮き上がって見えてくるのが「その子のできないところ」になるのは時間の問題です。
そこでは、あたたかみのある人でも「できないわね」「困ったわね」「どうすればいいのかしら…」という、子供からすると受け入れられていないと感じるものがかもしだされます。
あたたかみがない人がそれをしたら、「できない姿のこの子は受け入れるのには値しない」といった冷淡な見方に簡単になってしまいます。
そういう人は「できる子」しかかわいがれなくなります。「できない子」はおちこぼれにしてしまいます。
それでは専門職としてのプロではありません。
保育において、第一の目的は「○○できる子にすること」ではないのです。
このことがすでに保育者の大きな誤解となっています。
保育の第一の目的は、「”安全・安心”をプレゼントすること」なのです。
”安全・安心”というのは、物理的な安全確保のことではありません。(物理的な安全面への配慮はすでにして大前提ですので言うまでもないことです)
ここでいう”安全・安心”は、そこにいる大人つまり保育者が、「あなたはここにいていいんだよ。ここはあなたの居場所だよ。私がそれを支えるから、私を頼りにしていいんだよ」と態度・表情・言葉がけ・関わりの姿勢・心持ちなどで体現しそれを感情レベルでかもし出し伝えることです。
だから、保育者からの「プレゼント」なのです。
極端なことを言えば、これが保育のすべてと言っても過言ではありません。
ここさえきちんとできれば、「子供の○○を伸ばさなければ」といったことは大人が作り出す必要などそもそもないのです。
子供は、おのおのが必要なことを自分で身につけ実践し獲得していく力を持っているからです。
しかし、保育や子育てを”支配”で組み立てていくと、子供のその”自分で伸びるという力”は発現されなくなってしまいます。
大人がやらせたり、与えなければ「それができない」「やろうとしない」性質を持たせてしまうからです。
その結果「子供は自分ではどうせできないわよね」「子供はわからないもの」といった感覚を持っている保育士も少なくありません。
これは「子供の力を見くびった見方」です。
それは大変残念なことです。
でも、一般の人が子育てで考えている「しつけ」のレベルで保育をしていたら、その構造にとらわれてしまうのを避けるのは難しいです。
子供が遊具の取り合いをしていたとします。
「取り合いはよくないのだ。仲良く遊べることがよいことなのだ」といった「○○すべき」という見方で子供の姿をとらえていたら、
大人はそこに介入せずにはいられなくなります。
「人のものとっちゃダメでしょ」
「それは○○ちゃんが使っていた」
「あなたが悪いからあやまりなさい」
「人のものは取らないとお約束してね」
「約束したのになんで守らないの」
しかし、それをしていたら子供の本当の成長は得られません。
常に「大人が介入する」ことでようやく「正の状態」が作り出されるだけにしかならないのです。
0歳からそれをやっていけば、5歳の年長になってすらそれは変わらないのです。
しかし、「しつけのメソッド」で保育を考えていたら、大人はその介入することを要求されます。
でも、それをいくらやっても子供の姿は思い通りにならないので、保育士は子供を思い通りにするスキルを発明して、それを身につけていってしまいます。
疎外や脅し、ごまかし、子供だまし
はたまたこんな手段もあります。
「子供は遊具をたくさん出すと取り合いになってしまうから、遊具は一度に一種類しか出さない」
これは、物理的に問題がでない環境を作り出しているにすぎません。
そういった姿勢から遊びの時間になると、子供の手の届かない棚の上に置いてある遊具の入ったかごから床にどばっ~と一種類の遊具をぶちまけて遊ばせているような園もあります。
そういった園の子供は「せんせ~、○○してもいい?」と「してもいい?」ばかりを覚えて帰ってきます。
保育者が子供の管理者・支配者となって、子供はそこで常に管理された状態に置かれてしまっているわけです。
そんな園でも保育理念や目標・うたい文句に「子供の自主性を尊重します」「子供一人一人の個性を大事にします」「主体性を重んじた保育をしています」などと書いてあったりします。
これも、理念と実践の乖離(かいり)ですね。
しかし、そこの保育者は自分たちの保育がその理念と矛盾していることに気づいてすらいないといった現実があります。
そのように支配型の保育は物理的解決に行きつきます。
「子供がすぐ部屋から出ていってしまうので、保育室には毎回子供の手の届かないカギをかけなければならない」
「子供が柵を乗り越えようとするので、それまで腰高だった柵を天井までの柵に変えた」
そんな保育になっているところも少なくありません。
保育室や園の廊下に天井までの柵があると、すごい異様です。
まるで刑務所みたい。
でも、その保育士たちはそれを異様とは感じなくなってしまいます。
目的がそれ(物理的解決)を要求しているから。
背景には、子供を支配対象としてみて「大人の思い通りにすること」が保育になっているからです。
同様に、「この子達は大変だから人手が足りない」と言うようになります。
支配型の保育を旨とする人は、保育が不適切なために”子供を大変な状態”に追い込んでいることに気づけなくなってしまうのです。
さらには、子供の姿が「(その人の目から見て)正しくなくなっていること」を、その子供のせいや家庭・親のせいにしてしまいます。
「あの子はわからない子だ」
「あのうちは甘やかすから言うことを聞かないのだ」
「愛情が足りないからだ」
「しつけがなっていないから」
「ひとり親だから」
また、「発達障がいがあるのでは」とレッテルばりをしてしまったりも見受けられます。
「子供を大人の思い通りにすること」を目的としていけば、保育はどんどんあさっての方にむかって進んでいきます。
子供はそもそも「支配」する必要などないのです。
しかし、これは実践を目の当たりにさせないとなかなか理解できないことです。
それが実践できる保育者がいない施設では、「子供はどうせわからないものよね」といった見方から脱却することがなかなかできません。
保育を伝えることがとても難しく感じる点です。
では、「支配」でなければどうすればいいのだ?
その答えは「信頼関係」です。
次回は、今回の話に出たケースをモデルに「信頼関係」を基にしたアプローチを見ていきたいと思います。
| 2016-07-05 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 13 | トラックバック : 0 |
「保育士」という職について考える - 2016.03.24 Thu
『保育士給与のために、一人当たり月5万円増額してください!』
というキャンペーンがエントリーされています。
僕もこれに賛同しました。
でも、どうせならば平均給与にあわせて、「10万円の増額を」と言うべきではないかとも感じます。実際は、金額は個々の施設により差異があるので、「平均給与まで引き上げる」ということを明確にしてもよかったのではと思うのです。
(この発起人の方の経験から割り出した金額だとそれがおよそ5万円ということのようですね)
そもそも、なぜ保育士の給料が安いのでしょうか?
実はこれには「女性差別」が大きく関係しています。
伝統的に女性が主体であった職業は、待遇や給与が悪くなるという明らかな傾向があります。
かつて「腰掛け」という言葉がありました。
女性も男性と同じように働くようになった現代において、この言葉はもはや死語になっていますよね。
「腰掛け」とは、「結婚までの”つなぎ”につく仕事」といった意味合いです。
保育士(その時代では「保母」という名称)、は「腰掛け」の代表的な仕事でした。
僕の同世代の女性には、父親から「女が4年生大学なんかいくもんじゃない、どうしても進学したいならば保育短大か、家政短大にしなさい」そのように言われたという人が普通にいました。つまり、保育士や栄養士の資格を取るのは「花嫁修業」(これももはや死語ですね)感覚だったのですね。
「女性が4年制大学に行くと、結婚や就職でかえって不利になる」そんな社会的な通念もありました。
雇う側の保育施設にしても、資格をもった人間がどんどん卒業してきます、しかもその人たちは一生の仕事、家族を養うための仕事として考えてくるわけではないので、安い賃金で使っても問題がありません。なにしろ、そういった条件ですら向こうから来てくれるのです。
数年働けば(まだ結婚適齢期という概念のある時代でした)、結婚して寿退職してくれるので、昇給をあまり考える必要もありません。
同時に、どうせ数年で辞めてしまう職員に、時間と経費をかけて職務の研鑽・研修を積ませる必要もあまりありません。(また、その予算もありませんので、そういったことに力を入れている施設は一部でした)
「若くて、元気で、子供好きならばできてしまう仕事」という認識です。(←当時はそのように考えられる向きがあった。いまに比べれば、家庭状況の安定などの諸条件から、ある部分ではそれは事実でもあった)
「世間からも女性がそのように腰掛けでする仕事」のような認識があります。
また、あけすけに言えば、「主婦が家庭ですることに、毛の生えたような仕事」、「子供と遊んでいるだけの、さして責任の重くない半端な仕事」といった認識が厳然としてあったのです。
そのような傾向のある仕事の主なものが、
看護、介護、栄養士・給食調理、保育
といった分野に多くありました。(看護は”腰掛け”仕事ではありませんでしたが)
看護師も現在でこそ、一時期の有資格者に対してなり手が著しく少なかった時期を経て、給与面の向上がありましたが、女性差別の強かった職業です。
職務・責任に比して、労働条件が悪く、給与が安かったり、「お礼奉公」のように束縛される就労システムが公然と存在していました。
そういった状況がある中で、名称の改正の必要性が叫ばれました。
看護婦は看護師に、保母は保育士にすることで、そういった職業格差、男女格差を是正しようとしたのです。
しかし、日本人はどういうわけか建前を代えるだけで満足する癖があるようで、そういった機運は名称が変わったことでほぼ途絶えてしまい、給与や労働条件の改善まで続きませんでした。
男性がそれまでの女性の職場に入ることで、多少なりとも改善される方向へ向かうことも期待されましたが、現在のように男性保育士がもはや普通の状態になってすら給与面はさして向上していません。
やはりまだ世間的には、かつての「女性仕事」の考え方が残っているのでしょう。
えらい人が言うには、現在は「女性が輝く社会」なのだそうです。
しかし、そうはいいつつも一方では、いまだに女性差別の名残はあり、それを改善しようとすることには腰が重いままです。
近年、保育の営利化が進みましたが、それら企業化した保育施設が保育士の賃金を上げたかというと、そういったところはごくごく一部で、多くはそれまでの低賃金の伝統をそのままに、人をいいように使っています。”使い潰す”ような労働条件のところもあります。
現代は、保育に専門性が必要な時代になっています。
子供を取り巻く問題は多く、乳幼児期を大切にすることで、のちの社会問題までも軽減させるようないとぐちすら存在しています。
家庭支援、子育て支援の必要性も言われています。
それらは低賃金の重労働の中では達成することは不可能です。
しばしば、「福祉の精神で」「奉仕の精神で」「子供が好きならば、お金ではなく・・・・・・」といったことを口にしてこの問題を語る人がおりますが、それらははっきりいって現実を見ない”きれい事”です。
また、本人にその自覚はないかもしれませんが、それは結果として女性差別を助長することになっています。
子供が好きで保育士になったのに、結婚して家庭を営むにも厳しい給料しかもらえない、子供を産んでも十分な教育を受けさせられるだけの余裕がないということになれば、続けられないし、そもそも保育職に就かないのです。
「問題のある職員がいることはわかっている、しかし、他になり手がいないのでその人を雇い続けるしかない」といった施設も少なくありません。
給与が低いということは、そういう現実を生むということです。
保育園に子供を預けたけれど、「当たりの先生とはずれの先生がいる。来年度の担任が誰になるか心配」そのようなことを実感してきた人も少なからずいることでしょう。
本当はそれでは困りますよね。
そのためには、せめて人並みの給料がもらえるようにならなければ、安心して預けられる施設にすることは難しいのです。
保育という仕事は、いいものになれば社会の多くの人を笑顔に、幸せにすることができるポテンシャルを持った仕事だと思います。
それが実現するか否かは、もちろん保育施設、保育従事者の意識にもあるけれど、社会がどのように保育の仕事を位置づけるかというところにも存在していると感じられます。
| 2016-03-24 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 9 | トラックバック : 0 |
子供の尊重の実践 vol.5 「保育」の実際 - 2016.03.17 Thu
(このシリーズの記事を「子供の人権と保育の質」カテゴリーに変更しました)
この記事は自分が思っていた以上にたくさんの反響があり、ブログ以外のいろいろな方面からもリアクションがありましたが、やはり保育・教育関連からが多かったです。このテーマでの研修依頼のお問い合わせもあり、少しでもよりよい保育のために力になれたのならば幸いです。
保育は現実には、その多くが個々の保育者の”センス”によって行われてしまっています。
その人の持ち前の性格や個性で自然と子供に受容的に関わっていける人もいれば、几帳面にものごとを考えああだこうだと小言ばかり多くなってしまう人。ルールや他者との協調、どちらが正しいといった「正義」を重んじて、子供に厳しくなっていくといった類いの人もいます。
そのやり方が、個々の子供に合っていればいいですが、子供は”多様”ですから、そのような主観だけに基づいた関わり方では、必ず合わない子がでてきてしまいます。
また、保育をするのに向いた個性を持っていて、とても保育がうまいという人もたくさんいるのですが、それではその人限りの技量になってしまって、その人が担任からはずれればそれまでになってしまうといったことも少なくありません。
やはり、プロとして職務で行う以上は、それらを体系的なものとして確立して、後輩に伝え、人材を育てていくといったことが大切になるでしょう。
保育士は、これまでその点に本腰をいれてこなかったのではないかと僕は感じています。
保育士が資格を取って、職務経験を積みはじめる最初の段階はとても重要です。
就職した先の保育施設が、大きな声を出して子供を思い通りに動かそうとしている保育をしていれば、その人はそれが当たり前だと思って、やがてはそれを”保育”として身につけかねません。
「疎外」を使って冷たくあしらうことで、子供を思い通りにしようとする保育をしているところであれば、それをそのまま身につけてしまう人もいます。
本当は少しも子供のためになっていないのに、一般に「子育て」や「しつけ」として流布していることを、「徹底して」「効率よく」しているだけの、専門性の低い”頑張っている素人”的保育を自信たっぷりにしているところもあります。
こういった極端な保育方法を一度身につけてしまうと、そのやり方が「正しいもの」として染みついてしまうので、年数を重ねるほどに軌道修正が困難なものになりかねません。
ですから、保育士はベテランならば必ずしもいい保育ができるとはいいきれません。やはり有能な保育士はつねに学び続けています。
現代は子育てを取り巻く問題がとても多く、しかも複雑になってきています。
これまでの時代のようにその人のセンス任せの保育をしていたら、追いつかない時代に間違いなくなってきています。
(とはいえ、”資質”が非常に重要な仕事であることは変わらない事実ですが)
子供たちの現状を見据える「視点」があり、そこから目指すべき「理念」を設定し、それを達成するための「理論」を持ち、経験と学習に裏打ちされた「専門性」のもとに、それを行える「技量」を高めながら保育に臨む。
それが完璧にできなくとも、そういう方向を目指そうとしている園と、そうでないところではまったく違ってくることでしょう。
お子さんの入園に当たって、いくつもの保育園を見学なさった方の中にはそういった温度差を漠然とでも感じた方はいることと思います。
「子供の尊重」という概念は、それらの一番基礎になることです。
しかし、これを実践レベルで理解することはとても難しいので、その考え方と実際の関わりをつなげられるようにという思いで、今回の一連の記事を書いてみました。
まだまだ少しも書き尽くせませんが、文章がうまくないのでなかなかうまくお伝えすることができません。これからも折にふれて書いていきたいと思います。
↓とりあえず、ざっと頭に浮かんだ書きたいテーマ。
書けたらいいな・・・・・・。
◆よい保育ができる人は、それを「自分の”保育技量”によりできたのだ」と、誇ってほしい。それが保育全体を底上げする”きっかけ”になる
◆子供を尊重した関わりと、尊重になっていない関わりの具体例
◆行事に見られる「子供の尊重」
◆「尊重」によりこれだけ伸びる「要支援児」
◆本当は大人の本音を一番感じている”自閉的傾向のある子供”
◆「子供の尊重」の理解が、保育上の「安全」を高める
| 2016-03-17 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
子供の尊重の実践 vol.4 子供の姿を”過渡期”としてとらえる - 2016.03.11 Fri
「子供の尊重」を実践的に行うための大人の意識として、「子供を過渡期として見る」のお話をいたします。
子供の尊重を損なってしまう大人の関わりの根底に共通してあるのは、「子供を低く見る」大人の意識です。
「言ってもわからない」
「どうせやろうとしないだろう」
「叩かなければわからない」
石原慎太郎元都知事が現職時、「子供は中学生くらいまではどうせ言ってもわからないのだから、叩いてしつけるのも当然だ」といった発言をしました。
これはかつての時代に教育を受けた人の言葉ですから、現代の主流な考えではないと思うかもしれません、しかし、30代の子育てをしている人に聞き取りをしたある調査では現在でも「子供がわからないときは叩いてしつけをする必要がある」という質問にイエスと答えた人は50%を超えました。
その残りの人にも、「叩くことはしないが、子供はわからないものだよね」と考えている人はいることでしょうから、はっきり言って大多数の人の意識の中には「子供はわからないものだ」という見方があると言えるでしょう。
「子供はわからない」という見方が根っこにあると、大人の意識は「その子を信じない」「子供の力を信じない」ということになっていきます。
そのようであると、口ではいくら「個々の子供を尊重すべきだ」「ひとりひとりを大切に」「個性の尊重」などと言っていても、実際の子供への関わりは”やさしさ風味”をまとっただけのさして子供を尊重していない関わりになりかねません。
子供には、たしかにたくさんのできないことがあります。
なにかを要求したり、教えたとしてもすぐできるとは限りません。
あるときはできたことも、別のときにはできないこともあります。
ある人の前ではできることが、他の人の前ではできなくなってしまうことも。
子供にとって、できないことはたくさんあって当たり前なのです。
しかし、子供はつねに成長に向かっています。
「できない」ことはその子の確定した状態ではなくて、できるようになる”過渡期”にいる存在なのです。
「できないこと」は、いまできないだけで、いずれできることにすぎないのです。
「子供を過渡期として見る」というのは、そういうことです。
たったそれだけかもしれませんが、大人の意識をここに持ってくると、子供のありのまま(現在)の姿を肯定的に受け止められるようになります。
すると、「現状から出発する(現状を否定しない)」という対応ができます。
また、大多数の「できる子」たちが構成している集団を基準に、「発達の遅れている子」「発達に個性のある子」「幼い子」「生育環境が安定していない子」など子供を比べずともよくなります。
これは、子供の「個性を尊重する」「個人を尊重する」ということに派生していけるでしょう。
「この子はいまはこれができない、でもそれはこの子のペースでいずれできることにすぎないのだ」と見てあげられると、日々のひとつひとつの「できなければならないと大人が思い込んでいること」が、実はそんなに躍起になってさせなくてもいいことなのだと大人自身の意識の変化を持てるでしょう。
この姿勢を子供に関わる大人が持っていると、子供は日々をくつろいで過ごすことができるようになります。
すると、そこから生まれる心の余裕が、かえってその子の自発的な成長を自然に発現させてくれるようになります。
これを保育者・教育者が実感できると、より子供を「信じられる」「尊重できる」ようになります。
(前述のように、日本の子供の見方は「子供はどうせできない・わからない」というところから出発している傾向がありますので、職業として子供に関わる人であっても、なかなかこの「大人が”できるようにと”働きかけずとも、信頼感と安心感のある環境で過ごすことができれば、子供は自然と持っている力を発現する」という経験をすることが難しくなっています。
その経験をしないまま年月を重ねてしまうと、ベテランであっても子供を”思い通りにするためのテクニック”ばかりになりかねません。保育者には、経験年数の浅い内から適切な指導と経験・学習が欠かせないことだと僕は強く思います)
子供はバカではありません。
関わる大人が、
「この子はどうせできないわよね」
「できないのだから、○○できるようにしなければ」(背中に手を当てて誘導などはこれに該当する)
という意識を持っていると、それをその大人はあからさまにしていないと思っていても、もしくは無意識だったとしても、子供はそれを察知します。
大人であっても子供であっても、誰かに「自分のことを否定的に見られている」という気持ちは心地よいものではありません。いや、それどころか誰だって嫌なものでしょう。
「できないこの子をどうにかしなければ」と関わる大人が心の中だけでも(無意識でも)思っていたら、子供は強迫的に人に関わられる実感を持ちます。
これが日常の中で積み重なっていくと、子供はそれをとても負担に感じます。
その人からの関わりが嫌になってしまいます。ひいては大人からの関わり全般が嫌になります。
日常の中でもくつろいで落ち着くことができません。
すると、落ち着かなく多動的だったり、イライラしたり、反発する姿が多くなります。
幼い子、できないと目されている子はしばしば、こういった姿が見られますが、もしかするとそれは本来のその子の姿ではなく、大人の「その子を肯定的にとらえられない」大人側の意識が作り出したり、助長してしまった姿なのかもしれません。
| 2016-03-11 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
リンク ”参加”と”排除”について考える~公立学校の発達障害に関する意識調査から - 2016.03.09 Wed
(リンク先記事の元になるのは、東京都教育委員会が2015年に行った『都内公立学校における発達障がいに関する意識調査』)
発達に特徴があったり、障がいを持っていたりする要支援児への対応を考える際に、「量的平等と質的平等」がたびたび問題になったりする。
こういったことが適切に理解されていないために、現場の人間はしばしば大きく誤解をしたり混乱をきたしている。
例えば、ある行事に頑張らせて参加させることが、その子への尊重となるのか、それとも無理に参加させずとも、その子なりの時間を過ごした方がその子の尊重となるのか・・・・・・。
それを考える上でもっとも重要な『尊重』ということが適切に理解されていないので、しばしば各職員がバラバラの見解になってしまうのを見かける。
考慮すべきポイントはたくさんあるが、忘れてはならないのは、その子供本人の意思である。
しかし、「子供だから」「わからない子だから」「障がい児だから」、そのような先入観から大人はその子の意思を聞き取ることすら忘れ去ってしまうことがしばしばある。
子供本人の意思の確認もないところで、大人が一方的な決めつけで対応をしていけば、どちらにしてもそれは大人のエゴや自己満足にすぎなくなってしまいかねない。
ノーマリゼーションについても適切に理解されていない現状では、大人の考える「よかれ」は子供の本当の利益になっていないという場面も多々見られる。
”協調・画一”を重視してきたこれまでの日本の子供観からは、多様な子供への対応がまだまだ理解されていない。
このリンク先にある、「参加と排除の見取り図」は、子供への対応を考える際の参考になるカテゴリーがわかりやすく書かれている。
各保育園、幼稚園における要支援児への対応には、その保育者、もしくは施設の「子供の尊重」の理解の程度がはっきりと表れるところである。
要支援児に対して、「子供の尊重」「個人の尊重」を踏まえられた対応をしているのならば、定型発達の子供にたいしても適切な尊重をなされている割合がはるかに高くなる。
要支援児への対応には、「子供の尊重」「個人の尊重」の実践的な理解が色濃く表れるからである。
| 2016-03-09 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
子供の尊重の実践 vol.3 補足 - 2016.02.27 Sat
まず、今回テーマとしていることは、あくまで「保育における”子供の尊重”」についてです。
一般の方が、家庭での子育てで多く直面する”子供の尊重”にまつわる問題とはかなり違ってくることがあると思います。
家庭の子育ての”子供の尊重”にまつわる問題は、とかちさんのコメントにあったような「尊重」という言葉から、「過保護」「過干渉」「いいなり」「モノの与え方」などの適切なとらえ方がわからなくなってしまうことからくるケースが多いです。「子供の尊重」というテーマでも、保護者向けの講演ではそういった点を主にお伝えしています。
もちろん、いま述べていることが家庭の子育てではまったく関係ないというわけではありませんが、家庭ではそこまで事細かに概念的な理解をせずともさして影響はないかもしれません。
また、「背中に手を当てる」というのはあくまで”子供の尊重”という概念の理解のため例としてあげたものです。
問題は行動そのものなのではありません。
ですから、「背中に手を当てて誘導することがいけないのだ」とだけ理解してしまったら僕がお伝えしたいと思うことは伝わらないことでしょう。
例えば、「この子はどうせできないだろう」と決めつけをして、冷たい関わり方をするA保育士と、「この子は幼いなぁ」と思いつつ普段からもあたたかく関わってその子供との間に信頼関係が形成されているB保育士がいた場合。
この両者ともが、同じように背中に手を当てて誘導したとしても、その子供に与える影響は厳密には同じではありません。
つまり行動そのものに問題を見いだせるわけではないということです。
家庭の場合であれば、事細かに”子供の尊重”の理解がなされていなかったとしても、その多くはこのB保育士の関わりのようなかたちになることでしょう。ですので、一般的な家庭の子育ての範囲でいえば今回テーマとする「保育における”子供の尊重”」はスルーしてしまってもいいかもしれません。
(なかには、実の親子であっても”子供の尊重”が焦点となる「モラハラ」などケースはある。例えば、いま話題になっているゲーム機を親が破壊した事例のようなものでは)
さらに、行動面には例外もたくさんあるということ。
例えば、背中に手を当てての誘導だとしても、そこが交通事情などで安全性の問題があるとき、こういう場合は安全性が優先されます。そういうときならば、その対応も問題にはなりません。ただし、実はそういったときですら、”子供の尊重”を理解している人と理解していない人には、その対応に違いがでてきます。
また、その子が例えばその場に不安があったりするようなとき、その不安を解消して上げるために手を添えているといった「その子自身がそれを求めているor必要としている」ケースであれば、その対応は”子供の尊重”を損なうものではないでしょう。
このように、ひとつひとつの行動自体に是非があるわけではないのです。
つまり、「あれはしてはいい」「これはしてはいけない」という認識では、”子供の尊重”の理解にはなりません。
”子供の尊重”の概念と、具体的な関わり方をつないで認識できるようにすることがこの記事のねらいです。
そのあたり、一般の方にはややわかりづらいかもしれません。
保育などの実務経験を持っている方だと、「ああ、それはこういうことだよね」とご自身の経験・知識と照らし合わせて理解しやすいのではないでしょうか。
ですので、この一連の記事は基本的に保育士向けになっています。
また、ここで述べられているのは、あくまで”子供の尊重”の概念理解のための「一般論」としてのものです。個々の子供への対応法といった「個別論」ではありません。
ですので、その点からも「この関わりはいい」「この関わりがよくない」ということを述べているのではないことをご理解下さい。
個々の子供への対応については、今回テーマの「子供の尊重」と隣り合った概念である「個人の尊重」や「個性の尊重」という似てはいるけど、違う考え方の領域の問題になってきます。
(保育研修などではそれらもお伝えしますが、今回の記事ではとりあえずそこまで書く予定はありません。専門的になりすぎてしまって、多くの方にはつまらないかと思いますので)
ちなみに、これら”子供の尊重”と隣り合っていて関連する概念としては、いま挙げた「子供の尊重」「個人の尊重」「個性の尊重」の他に、「子供の人権の尊重」が考えられます。
これらは互いに重なり合う部分もあり、理解がむずかしくもありますが、これらが実践レベルでいかせるように理解されることは、大いに保育の助けになると思います。
以上、補足でした。
| 2016-02-27 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
子供の尊重の実践 vol.2 ”見えない”ことが最大の問題 - 2016.02.22 Mon
保育の中でそのように、子供の背中に手を当てて誘導するといった行動を普段から多用している人を観察しているといろいろなことが見えてきます。
まず、その保育士がそのようにする対象の子供は、”その保育士が指示された行動に従えないだろうと考えている子”に対してしていることです。
例えば、”集団行動ができないと目されている子”にしています。
「この子はその行動が自分ではできない(やらない)、だからそれができるようにサポートしているのだ」
というわけですね。
たしかにそれは一見道理のようです。
しかし、実はここに大きな問題が隠れています。
この考え方は、「どうせこの子はできないのだ」とその子の能力を軽視した立場から子供を見下ろしているのです。
そこにはある種の決めつけがあります。
別の言葉で言うと、その保育者は「その子が”その行動をとれる”と信じていない」わけです。
もしかすると、人によっては「別に悪いことをしているわけでなし、そんなことは取るに足りない問題なのでは?」と感じるかもしれません。
しかし、よりよい保育を目指そうとしたとき、これはとても大きな問題をはらんでいます。
子供はバカではありません。
幼い子供だとしても、自分を信じて関わってくれる人と、信じていない人の違いはしっかりとわかっています。
自分のことを信じてくれない人に、子供は本当の信頼関係を寄せることはありません。
(その大人を好きさせることも、依存させたり、甘えさせることはできる。
しかし、それらは信頼関係とは別。実の親子であっても信頼関係がなくなる例があることを考えると、それが別に機能していることがわかるでしょうか)
その人に本当の信頼関係を持つことはないということは、つまり、自主的に喜んでその人の指示に従ったり、話をきちんと聞こうとすることはなくなります。
さきほど、
”その保育士が指示された行動に従えないだろうと考えている子”
”集団行動ができないと目されている子”
と、やや持って回った表現をしているのは、
その子にその行動を取る能力が欠けているわけではなく、その保育者が適切な信頼関係を築いていないために、”その人の指示に従えない状態に追い込まれている”可能性があるからです。
(一見幼いその子だが、その子のことを注意してばかり、叱ってばかりのA保育士の言うことは聞かないが、その子をかわいがってくれるB保育士の場合は聞く、といったケースはそれに該当する)
最初に上げた例で言えば、
「この子はどうせこの行動を取れないだろう」と保育者が、ある種の決めつけをする。
↓
背中に手を当てて誘導、腕をひっぱる、リフトをして動かす などの対応
↓
その子はその保育者が自分を信じてくれていないことを、日々の生活の中で慢性的に感じる
↓
信頼関係の低下
↓
より指示に従わない
↓
保育者は「この子はやっぱり行動のできない子だ」とさらに決めつけを強める
このサイクルが悪循環となってしまいます。
場合により、その子が行動に従えないという問題の発端は保育者の側にあったのかもしれないのです。
「その大人が自分のことを信頼してくれないから、自分も信頼で返さない」と子供が無意識に行動している
もし、この状況に子供を追い込んでしまったのだとしたら、その責任は保育者の側にあるのです。
にもかかわらず、保育者の側からはその問題は見えません。
その保育士からすると、問題の原因は「行動に従えないその子」にあるように見えてしまうのです。
人によっては、それがこうじてその子に冷たく対応したり、「悪い子」認定をしたり、疎外を使ってあたたかみのない保育をしていってしまうケースもあります。(「親があまいからだ」、「家庭のしつけがなっていないからだ」などの責任転嫁の思考をとるケースも見られます)
「背中に手を当てて誘導する」といったことは一見些細な問題に見えます。
これが、言うことを聞かない子の腕を怖い顔で乱暴に引っ張って、心を傷つけるような暴言をその子についているというのであれば、その対応が子供への尊重を損なっているという問題は多くの人にはっきりと見て取れます。
それに比べると、手を当てるだけというのは少しも問題にはみえないことでしょう。しかも、やっている人にももちろん悪意などなく、「よかれ」と思ってやっています。
しかし、ここが「子供の尊重」のとても大きな問題なのです。
つまり、しっかりとした意識があって問題を認識する視点を持っていないと、”目に見えない”ことがです。
子供の尊重を損なう対応は、優しくやろうとも、問題が目に見える形で強くやろうとも、極端なことを言ってしまえば同じだけのウエイトを持っているのです。
しかし、現実には「”優しい”子供の尊重を損なう行為」が保育の中で少なくありません。
この問題は、保育士ひとりひとりが”子供の尊重”についての正しい理解を持ち、意識を持って保育に臨んでいかなければなくなっていくことはないでしょう。
どれほど具体的な関わり方の保育のマニュアルを作ったところで、子供を見る保育士の意識、心の持ちようにまで響かせることはできません。
僕は、子供の尊重を損なわないよう、子供の姿を見るとき「過渡期として考える」ということをお伝えしています。
それについては次回。
| 2016-02-22 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 9 | トラックバック : 0 |
子供の尊重の実践 vol.1「思考の演習」 - 2016.02.13 Sat
「子供の尊重」って理念はわかっても、それを実践レベルで理解することはなかなか難しいです。
なぜなら、それはなかなか目に見えないからです。
なんで目に見えないのでしょう?
それは、自分が持っている先入観と相容れないことがたくさんあるからです。
理念をきちんと理解した上で、問題意識を持って子供に関わっていなければ見えてきません。
例えば、例としてこんなことをあげてみましょう。
子供をどこかへ移動させる際、大人は子供の背中に手を当てて移動を促したりすることがあります。
そういったことを大人はほとんど無意識にしていることでしょう。
しかし、この行為も場合によっては、子供の尊重を損なう対応になっていることがあります。
多くの方は、「え、どうしてそれが?」とか「うーん、言われてみるとなんかそんな気もするかなぁ」といった感じで、明確に「ああ、そうだよね」とここにある問題が見える人はそんなにいないのではと思います。
ここがまさに、実践レベルで「子供の尊重」を理解することの難しさなのです。
理念と実践のテーマを学ぶとき、一番問題なのは「わかった気」になってしまうことです。
ここで、なぜそうなのかをすぐに読んでしまうとそうなってしまいかねいので、今日は書きません、興味のある方はしばらくこのことを考えてみて下さい。
別に僕の答えと一致しなくてもかまいません。子供を適切に援助するための思考の演習です。
この力を養うことで、これまで目に映らなかったたくさんのことが見えるようになってくるかもしれません。
そしてそれがさらなる「問題意識」を持つことにもつながっていきます。
このことは、これからプロとして子供に関わる人に必須の力になっていくことでしょう。
| 2016-02-13 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
子供の尊重の実践 vol.0 - 2016.02.10 Wed
「子供の尊重」。
このことをきちんと理解している人は、子供関係の仕事をしている人でも、必ずしもそう多くありません。
理念としては理解をしていても、実践には現われていない人も少なくありません。
おそらくそれは本当に「理解している」のではなく、「”子供を尊重する”ということは大事なんだ」と理解しているにすぎないのでしょう。
言葉ではすごく立派なことを言うのに、実際の子供への関わり方はとても尊重と呼べるものではないといった人を大勢見ています。
理念だけで実践がともなっていないのです。
そのように「子供の尊重」という言葉だけが独り歩きしていることはとても大きな問題です。
多くの人が「尊重」という言葉から実践の場で理解しているのは、子供に「優しく」「柔らかく」接するということです。
しかし、尊重していない関わり方は優しくやろうとも、柔らかく接しようともそれは尊重にはならないのです。
だけど、子供関係者でも多くの人がこういったレベルでの理解に留まっています。
これにはやむを得ない部分があって、日本人の思考の特徴で、ものの関係を「上下」でとらえがちなために、なかなか「尊重」という概念自体がつかみにくいのです。
それが子供相手のこととなるとなおさら「子供だから」という先入観が強くあって、「尊重」という概念が「優しく接すること」「子供の要求をきくこと」といったレベルでの理解になってしまいます。
ですから、理念と実践がなかなか一致しません。
実践どころか概念としてとらえるだけでも、そうとうしっかりした問題意識と学びが必要になってきます。
子供に関わる施設は山のようにありますが、これを組織として意識し、すべての職員が理解して子供に対するアプローチを考えているところは、そうでないところと比べてとても大きな質の差が生まれます。
僕がこの「子供の尊重」について概念でも実践レベルでもお話しすることもできますが、答えだけ知ったとしてもそこに問題意識がともなわなければやはり実践として継続していくことはできません。
まずは。「子供の尊重とはなんなのだろう?」と、子供に関わる人それぞれが普段から疑問を持ってもらいたいと思います。
| 2016-02-10 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |