◆「小さい人」という呼び方について - 2020.07.07 Tue
そうした意図もわかりますし、その呼び方が悪いとも思わないのですが、踏まえるべき視点を外してしまうと、この呼び方には大きな問題が発生してしまうので、その指摘をここでしておこうと思います。
「コドモ」概念の発見は、非常にエポックメイキングなことでした。
近代を形作るひとつの重要な発見と言えるでしょう。
近代以前の状況では、コドモという概念がそもそもなく、まさに「小さな人」でした。大人とコドモの境目がないので、現代では当然とされているコドモとして守られているものが保障されていませんでした。
いまでいう児童労働は当然のこと。コドモという概念がないので、教育をうけることや、生命や生活を守られる、遊びを許される、そうしたことも認識されていません。
子供→子ども→小さな人
という変遷もコドモ尊重の意図の上にわかるのですが、コドモ概念という近代の昇華のひとつを埋もれさせるのは、僕は場合によっては危険ではないかという心配もします。
「小さな人」という言葉が流通されうるのは、コドモとして保障される権利が全うされた状況だけでのことです。
今現在でも世界の国々では、児童労働が一般的に行われています。児童の兵士すらあります。まだ、「コドモ」概念の敷衍が終わっていない状況です。
日本で一般的に暮らしている分には、「コドモ」概念は十分に全うされていると感じるかも知れません。
しかし、現在の日本ですらまだ児童(コドモ)として権利を守られる状況は、少しも十分とは言えないのが実際の所です。
児童労働、児童ポルノ。
教育を受ける権利もまったく不十分です(不登校の子ども達が十分な教育支援を受けていないことひとつみてもわかりますね)。
児童虐待、ネグレクト。
「コドモを甘やかすな」といった一般的な観念も、コドモの概念が十分にまだ認識されていないことを表しています。
性被害にあった子が、逆に大人から責められるような事態すら起こっています。
妊娠した生徒が教育の場から排除されるようなことも、公におこなわれています。
また、今後の世界的な経済低迷は日本においても深刻な影響をもたらすでしょう。それは前近代の「コドモが守られない状況」を再度コドモにもたらす可能性すらあります。
そうなったとき、いまよりさらにコドモ概念を維持することが重要になってきます。
コドモを「小さな人」と呼ぶことに僕は反対しません。しかし、単に「大人と対等の存在と認識しましょう」という視点だけで、人類が多くの犠牲を払って獲得した「コドモ」概念・呼称をそこから外してしまうことには、十分な注意を払わなければならないと指摘します。
そこを踏まえて、今後のコドモに関わる文化を発展させていただきたいと思います。
子供の人権についてのオンライン保育講座開催します。
7月25日(土) 保育士おとーちゃんオンライン保育研修#3 子供の人権と保育
| 2020-07-07 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
「人権、人権」言っている僕がなぜ「子供」表記を使うのか? - 2020.06.05 Fri
つまり、人の頭の中にしかないことです。人の頭の中にしかないことなので、人権は常に考え続け、現実や時代の変化と照らし合わせ続けていかなければなりません。
思考停止してしまうと、それだけで人権はなくなっていってしまうのです。
「子ども」という表記を使うが、子どもの人権など少しも考えていない現実を僕は目にしてきました。
表記を「子ども」としても子どもの人権問題は終わりではないのです。
子供の人権を切り下げようとする人たちがいるのも知っています。その人達の一部が好んで「子供」を使うのも。
しかし、その人達の別の一部はすでに「子ども」という表記を使って、子育てする親や子供に媚びる形での介入も行っています。
そうした中で、子供の人権について多くの人に考え続けて欲しいと思い、「子供」の表記を使っています。
表記を変えただけで、問題を見ない逃げ道として欲しくないのです。
(自身のTwitterより転載)
| 2020-06-05 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
保育を疑え - 2019.08.07 Wed
保護者の立場から施設側に研修をして欲しいというのは、なかなかに伝えにくいことでしょう。また、そうした施設であればそうしたことを疎ましく感じるということもあるでしょう。
そういう場合、もし父母会などで保護者向けの講演などの企画があればそこに呼んでいただいて、それを間接的に保育者の人達に聴いてもらうという方法もあります。
信頼関係の形成や、受容の大切さ、支配やコントロールの無意味さの話を聴く中で、もし響く人が施設側に多少なりともいたら、それが子供への対応の変わるきっかけとなるかもしれません。
さて、では以下からが今日の主題。(保育者向けの内容になっています)
保育の仕事をラクにしていく方法。
それは、自分の保育を疑っていくこと。
少なからず、自分の保育(子育ても)を否定されることは、自分の人格を否定されてしまうような気持ちになってしまう。
だから、人は自分の保育を問題視するよりも、それ以外の所に「犯人捜し」をしたくなってしまう。
その結果、「あの子は○○だ」「あの家庭はしつけがなっていない」「あの親は愛情がない」などの、子供や保護者への悪口へと発展する心理になりかねない。
しかし、そのような気持ちになってしまえば、仕事に徒労感ばかりが増える。
だから、自己肯定(自己防衛)のための犯人捜しは、結局のところ、子供、親、保育士誰のためにもならない。
実は、保育者である人は、自身の保育を疑っていくことが、こうした負のスパイラルになることを防ぎ、なんらかの解決に近づけてくれることになるので大きなプラスを生む。
例えばよくあるところでは噛みつきを例に考えてみよう。
噛みつきが発生することは、保育者としてもたいへんしんどい状況を生む。
もっとも表面的な理解でそれを見れば、「噛みつく子が悪い」となる。
保育者が、自己防衛の心理を強くすれば、「噛みつくその子が悪いのであり、その子は注意するべき存在や罰するべき存在」と見えてしまう。その次に、保護者を責める心理となりかねない。
こういった心理に流されてしまうことは、結局のところ誰のためにもならない。
こうした問題が起こったとき、実は一番いいのは保育を疑ってみることなのだ。
仮に、保育に落ち度はないと思っていても、明らかにその子が持つ問題や、保護者になんらかの問題があるにしたとしても、保育を疑ってみる。
なぜなら、よしんば子供や保護者に問題があったとしても、それらは容易に、または短時間で解決ができるわけではない。しかし、自分たちの保育の問題点であれば、たやすく改善点を見つけ実行することができるからだ。
そして仮に子供や保護者にどれほど問題があったとしても、噛みつきの多発は保育にも何らかの問題や課題があるものだ。むしろその多くが保育上の問題に起因しているとすらいえるかもしれない。
・噛みつきが多発しているという事実
↓
・保育に問題点はないかの視点に立つ
↓
・遊具が少ないのではないか?
↓
・遊具がその子の好みや発達にあっていないのではないか?
↓
・子供たちが安心して過ごせる環境作りは万全なのか?
↓
・子供たち一人当たりのテリトリーは確保されているか?
↓
・デイリースケジュールにムリはないか?
↓
・保育者との信頼関係は適切に構築されているか?
↓
・噛みつきの多い子の情緒を安定させるための配慮は十分か?
↓
・子供たちを待たせたり、我慢させたりするシーンが日課の中に多くはないか?
↓
・子供たちの安心、安全を脅かす要素はないか?(物的環境、人的環境)
ごく一部を挙げただけでも、こうしたものが考察の対象となる。
この他に、噛みつきが慢性化している特定の子がいるのであれば、その子への個別の配慮が別にいくつも立てられることだろう。
仮に、保護者に問題があろうとも、子供に問題があるにしても、保育上の配慮によっていくらでもそれをカバーすることができる。
そして、忘れてはならないのは、保育は福祉であること。
子供に問題があってはいけないのか?保護者に問題があってはいけないのか?
否。
問題がある人への援助ができて初めて児童福祉としての保育が全うされる。
保育士は犯人捜しの心理を形成するべきではない。それではせっかく選んだ素晴らしい仕事を一生の徒労にしてしまうだろう。
家庭に問題があるのならば、保育者がそれを補えばいい。
人手が足りない、忙しい。そうしたことを言い訳にしたくなってしまうのだったら、実際上のスキルを上げればいい。
適切な対応方法のスキルさえ持っていれば、保育における問題解決のいとぐちはたくさん見つかるだろう。
それができるようになれば、保育はこの上なくおもしろい仕事だし、また子供たちのそうした諸問題も恐れる必要はなくなる。
そもそも、こうした視点を持って施設全体が保育を行うことができるようになれば、子供の問題行動の発生自体を減らすことができるだろう。
| 2019-08-07 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 10 | トラックバック : 0 |
不適切保育について -保育上のスキル不足という問題- - 2019.08.03 Sat
例えばこのケース。
複数の保育士が園児に暴力か 園長「グーで殴ってない」
「複数の保育士が」という点。また、園長の弁護「何度注意しても危険な行為を続ける子どもの手をはたくことはあったが、グーで殴ったり蹴ったりはしていない」
こうした見解を聞けば、ここが組織ぐるみでこうした子供に暴力を振るうことを許容していることがわかる。
こうしたケースの施設側の弁明を聞くにつけ感じることがある。
それは、あまりにおそまつな見識に立っているということ。
自己弁護のつもりなのかもしれないが、「グーで殴っていない」は少しも弁護になっていない。
しかし、その園長からすると「握り拳でなければ暴力ではない」という認識なのだろう。正直なところ、あきれて言葉も出ない。
平手だろうがデコピンであろうが、保育施設としての認可を受けて国家資格をもった保育士が職員として働いていて、人様から預かった子供に暴力を振るうことは毛ほども許されることではない。
「グーで殴っていないから悪いことなどしていない」という弁解は、世の人をして「保育士とはこの程度のものなのか」と思わせることだろう。
自己弁護にすらなっておらず、暴力を子供に振るっていましたという自白のようなものになっている。
また、職員個人の問題にして幕引きを図ろうとするケースが多く見られる。
施設長や理事者の管理・監督責任は?
なぜ、日本の社会では「責任者」と呼ばれる人が、しばしば不始末があっても責任を逃れてしまうことがあるのだろう。
施設長が、その不適切な状態を知っていて看過していたのならばそれは問題だ。しかし、知らずに起こっていたというのであれば、やはりそこには監督不行届という責任問題が発生する。
そして、保育施設という小さな施設内で起こっていることは、そこにいる職員、施設長がまったく知らない気づいていないということは、そう簡単には起こらない。
不適切保育が、職員個人の問題から発生することもある。しかし、組織や経営者、施設長の姿勢が下地となって引き起こされることも少なくない。
例えば、保育の質などお構いなしに、職員への不当な待遇や、サービス残業の強制など過剰な労働の要求、ハラスメントなどが常態化していれば、そこで働く職員は、そうした負荷を弱いところ、つまりは子供へぶつけるようになっていく。
ゆえに、不適切保育の不祥事が明るみになったところは、たとえその職員が解雇されたとしても、必ずしも安心して預けられるとは限らない。
さて、では視点を変えてみてみよう。
なぜ、こうした不適切保育が現状山のように起きているか?
僕の立場から言えることのひとつは、明らかなスキル不足である。
言うことを聴かない子に対して「しつけ」と称して暴力を振るうといったことが起こるのは、そういう状況にある子に対してどう関わればいいかわからないがゆえにひき起こされる。
保育の専門性が欠けているのだ。
「言うことを聴かない」「他児に乱暴をする」
こうした子がいた場合、適切な保育としてのスキルを獲得していれば、信頼関係の構築から初めて、肯定不足の解消、自己肯定感、自尊感情の形成、適切な他者との関わり方の構築、ものごとに取り組む意欲の形成、こうしたことを通して安定的な姿を導いていくことができる。
しかし、それらのスキルを持っていなければ、威圧、管理、支配、疎外等をさまざまな形でもちいて、大人の望む姿に力技で持っていこうとする関わりにならざるをえない。
また、同時にそのときにそこに関わる大人のメンタルは、自己防衛へと傾く。
「その子が悪い」「あの子は甘やかされている」「あの子は家庭でしつけがされていない」
「その親が悪い」「あの親はモンスターペアレンツだ」
こうした犯人捜しの心理におちいってしまい、援助が必要な子、家庭に対してほど、その逆のことをしてしまう。
このような意識では、自分たちの職業上のスキルを上げることなく、保育上の不適切さが守られ維持されていってしまう。
保育施設の不適切な行為の背景には幾重もの問題があるが、そのひとつにはこの保育上のスキル不足の問題がある。
上の記事内でもその園長が述べているように、資格を持った保育士が「しつけ」のレベルでしか保育を考えていない。「しつけ」のスタンスから保育をすると簡単にモラルハラスメントの状況におちいり、不適切保育は起こるべくして起こる。
こうした事件やニュースにならずとも、疎外や言葉による暴力などの精神的な虐待が容易に引き起こされる。
保育士が保育を「しつけ」で考えているレベルというのは、素人さんのレベルということであり、それは保育士養成校の敗北であり、児童福祉法や保育所保育指針の敗北であると言える。
しつけの観点から保育をしたら、不適切な行動をする子は「罰するべき存在」に見えるようになってしまう。
この状態は、保育士として専門性、そしてそれに基づいた実際上のスキルの欠如にある。
しかし悲しいかな、そのレベルに多くの保育施設があるのが現実。
適切な対応法がわからないがゆえに、スマートな威圧、スマートな管理、スマートな支配を保育士の技術なのだと勘違いしてここまで来てしまっている施設、保育士は多い。
そうしたスキルしかなければ、その状態の自分たちの仕事を正当化せざるを得なくなる。場合によっては事件性のあるケースのように、暴力までも正当化しようとしてしまう。
せっかく、子供に携わる仕事を選んだのに、保育をそういうものとしてしまうのは大変もったいないこと。
本当にお願いだから子供に不適切な関わりをしてしまう前に、僕を研修に呼んで欲しい。
理念だけでなく、実際に生かせるスキルとして保育を伝える。それだけでなく、保育者のケアやモチベーションアップにも協力して、子供にとっても保護者にとっても職員にとってもよりより保育にするために力を貸すので。
| 2019-08-03 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
【保育】コメント「2歳児の食事」への返信 - 2019.06.04 Tue
ココカラ↓
>子ども主体の保育を…ということで保育をしていますが、子ども主体といえどもどこまで尊重してよいのか。そのあたりの線引きが難しいとかんじることも場面によってありました。
食事は園庭遊びが終わり入室して着替えた子からおしぼりを取り好きな場所を選び、ちょうだい〜と子どもからの声があがったら保育士が配るような流れです。
テーブルに一人ずつ担任が着くようには配慮しますが、この頃食事が落ち着かないので、クラスで話し合ってみたところです。
子どもの成長や特徴によってグループを決めて、そこに大人が最初から一緒に着いて、食べるようにしようとなったのですが、今までは食べたい子どもから自由な席で食べるという保育だったのが急に決まったテーブルで食べるようになると、子どもたちは混乱しまいか? あの子と食べたい!という気持ちも出ているのでグループ分けはどうか?
など心配もあります。
やってみて状況に応じてまた変えてみてもいいのでは。と思ってますが、あまり流れを変えるのも。
とも思ってます。
ココマデ↑
>子ども主体の保育を…ということで保育をしていますが、子ども主体といえどもどこまで尊重してよいのか。そのあたりの線引きが難しいとかんじることも場面によってありました。
すでにお気づきのことと思いますが、これまで理解されていた「子供主体」というところが、該当記事で述べた「子供の自由意思の尊重」としての主体性で考えられていたのではないでしょうか。
「線引きが難しいと感じる」
とは、つまり子供の自由意思を聞き入れ続けると大人が我慢、辛抱を重ねなければならない点にたびたび直面するということだと思います。
すでに記事中で述べましたが、ここが子供の自由意思の尊重を「主体性」と理解してしまうことの落とし穴です。この理解は、一般の子育てする人がおちいるところと同じです。
僕としても、子供の自由意思を尊重することは必要だと考えています。
しかし、当然ながらそれがなんでも聞き入れなければならないというわけではありませんね。
そのことは、危険な行為をさせる大人はいないという話ですでに述べました。
それと同様のことが生活にはさまざまあります。
そこには「必要なこと」という大人側のスタンスによる、ここは大人が裁量するラインという揺るぎない筋の通ったところがあります。
例えば
・薬を飲む(健康のために必要)
・歯磨きをする(健康のために必要)
・お風呂に入る(清潔のために必要)
子供が嫌がったとしても、必要なのだからやりますというスタンスを大人がぶれずに持っていれば、子供はそれを必要と理解していきます。このとき、その大人との信頼関係がなければ、子供はそれを受け入れていきません。ですので、主体性を実践しようとするとき、何よりも大事なのはその前段階において受容と信頼関係の保育ができていることです。
それ以前の段階で子供に対する抑圧が多い環境であった場合も、子供はそれを受け入れることが難しくなります。
・家事をしているときに子供が遊びの相手をすることを求めてきた(生活のために必要)
子育てに一生懸命すぎてしまうお父さんお母さんなどは、このときあとで自分がムリをすればいいやと子供の要求を優先してしまうことがあります。
これは、子供の依存を助長し、子供が必要なことの理解をかえって混乱させてしまうのであとあと年齢が上がるにつれて大変さが増すことになってしまいます。
こういうときは、あっけらかんと「いまご飯作ってるからあそべませ~ん」とNOを伝え、子供がそこでごねたとしても葛藤させる必要があります。
さて、話を今回のケースに戻しましょう。
>そのあたりの線引きが難しい
ということですから、この「必要なこと」という理解を保育者の皆さんで考え理解していくといいでしょう。
また、そのぶれないラインのためには、もうひとつあります。
それが「私」です。
保育者が子供との間に信頼関係を適切に築いてきたのであれば、「それは私が困る」といったことをもちいても、子供にはそれが伝わります。
「自己犠牲をすることがよいことだ」という日本にありがちな子育て感覚でいると、なかなかこの「私」という嘘のないスタンスを出すことが難しくなってしまいます。
もちろん、それにより理不尽な要求をしては不適切ですが、例えば「いま食事に来てくれないと私が困ります」「そうされるのは私は嫌です」といった必要性を背後に置いた「私」であれば恐れる必要はありません。
このあたりを理解せずに、子供の自由意思の尊重が主体性なのだと短絡的に思ってしまうと、それは子供の依存の助長。いわゆる「わがままな子」を作り出すだけで終わってしまいかねません。そのため、こうしたぶれない大人のスタンスの理解は必須のことです。
◆食事への配慮
>食事は園庭遊びが終わり入室して着替えた子からおしぼりを取り好きな場所を選び、ちょうだい〜と子どもからの声があがったら保育士が配るような流れです。
テーブルに一人ずつ担任が着くようには配慮しますが、この頃食事が落ち着かないので、クラスで話し合ってみたところです。
「食事の席を子供に自由に選ばせること」の合理的理由というのを考えてみます。
・自由意思の尊重という意味での主体性の発現を経験させたい
・楽しく食事をしてもらいたい
というのが、こうしたケースにおける多くあるところです。
ただ、この食事という場面では、保育上の配慮として保育者が子供に施したいさまざまな要素があり、それとその理由を天秤にかける必要があります。
2歳という発達年齢における食事の配慮は大変多く、正直なところ一部だけ見てもこの自由意思という観点がそれらよりも重んじられる必要が見いだせなくなります。
例えばごく一部あげても、「食事への集中」があります。
2歳児の食事への集中時間は大変短いです。
これを保育者は無駄にせず、極力その集中時間のなかで食への経験をムリなく培わせたいと考えます。
このとき保育者の配慮の上での、決まった場所で、決まった人間関係であれば、容易にそれが担保できますが、毎日どのように変わるかもわからないところでは、それが果たせません。
2歳という発達年齢では、注意の散漫さは当たり前のことです。場合によってはADDといった個性やそうした傾向がその年齢ゆえに出ているということも普通にあります。
こうした子にとっては、安定した環境でないことは大きな不利益となってしまいます。
このようにごく一部あげても、自由に席を選ぶ合理性が勝る理由は見当たらないのです。
さらに言えば、
>・自由意思の尊重という意味での主体性の発現を経験させたい
これは、食事以外の場でも発現させることができます、(例えば遊びの場面など)
食事の場面でも、苦手な食べ物を許容してもらうことなども、主体性の尊重となります。
>・楽しく食事をしてもらいたい
これに関しても、決まった席でもそれは可能です。
また、食事の配膳は子供が座る前になされておくことが基本です。
座ってから配膳という流れだと、子供は待つ時間が増えてしまいます。
このことは、集中時間の浪費と、待つことによる抑圧の発生により、食事の生活習慣の獲得から考えて不利益しか与えません。
もし、ここで集中時間の浪費をしないように生活を切り替えると、それは食事のみならず、その後の午睡時の安定につながります。
食への配慮が不十分だと、食での負荷が午睡にでてしまうケースは多いです。ですので、この食の配慮を改善することで、午睡時の保育者の負担が減り、保育士もラクになり生活の安定につながります。
ですので、食への配慮とともに、午睡も主体的に子供が「寝る」(「寝かせる」ではなく)ことも一緒に意識していくといいでしょう。
◆信頼関係により必要性を伝える
>子どもの成長や特徴によってグループを決めて、そこに大人が最初から一緒に着いて、食べるようにしようとなったのですが、今までは食べたい子どもから自由な席で食べるという保育だったのが急に決まったテーブルで食べるようになると、子どもたちは混乱しまいか? あの子と食べたい!という気持ちも出ているのでグループ分けはどうか?
など心配もあります。
子供と保育者の適切な信頼関係、人間関係が築けているのであれば、子供が混乱することはないと言えます。もしあったとしてもほんの短い間のことだけでしょう。
上の「必要なこと」を伝えた中で、保育者のぶれないスタンスについて触れましたが、もし、そうしたあたりのあり方がこれまであいまいだったとしたらそれは難しくなってしまうかもしれません。
>子どもたちは混乱しまいか?
これが、子供にごねられたとき私たち保育士が対処する自信がないという意味であれば、それは子供の問題ではなく、保育者の姿勢や経験、研鑽の問題と言えます。
>あの子と食べたい!という気持ちも出ているのでグループ分けはどうか?
「あの子と食べたい」という気持ちがありそれが問題ないのであれば、同じグループにしてあげればすむ話です。
もし、同じグループにすることで、食事に滞りがでてしまうことが考えられる状況ならば、それはこれまで自由に選ばせてきたことで生まれてしまった弊害の可能性がありますね。
であれば、それに向き合うことがしんどくても、いまからでもそれを是正していくことは保育士の責任でしょう。
その子たちの食事における発達が十分になされているのであれば、そうした希望を優先させてもいいかもしれません。
ですが、その子の友達はその子の食への配慮をしてくれるわけではありません。当然ながら、それは保育士の役目な訳です。
でしたら、それが天秤として釣り合うかどうかは、自明のことです。
◆家庭の延長としての保育施設
自由に選ぶ席 vs 決まった食事の席
この二項対立を、
主体性 vs 管理
の概念であると考えているのであれば、それは早計というものです。
食事の席を決めることは子供の管理ではありません。
まず文化としての側面があります。家庭でのあり方に思いをはせてみましょう。
おそらくほとんどの家庭で、個々の食事をとる場所は決まっていると思います。
保育施設は家庭の代替としてあるのですから、家庭に準じた形をとるのは少しもおかしなことはありません。
僕は、保育施設は楽しく刺激的なレジャーランドではなく、あたたかく安心できる家庭の延長としてあるべきだと考えます。(まあ個人的見解などださずとも保育指針もそう書いていますが)
◆パーソナルスペース、所有の観念
家庭の延長でありたいとは考えつつも、どうしても集団で生活するために残念ながら家庭と同じようにはなかなかできません。
特に、くつろげる場所、自分の場所が家庭に比べて少なくなってしまいます。
自分の場所というのは大切なモノです。それがあることによって、そこに安心感を見いだすことができます。
それがパーソナルスペースです。
集団で過ごすことを要求される(もっといえば強制される)保育施設において、子供が心に感じる安心というのはなによりも重要なことです。
保育園で、それを最低限確保してあげることができるのは、自分の食卓、午睡の場所です。
それを担保維持してあげることも、保育の配慮として大切だと考えられます。
また、2歳というのは所有の観念が発達してくるときです。「わたしのっ!」という感覚ですね。
この年齢の子にとって、そうした自分の所有を肯定されることは心地よいものとなることでしょう。
ゆえに、自分の場所を持てることに大きな混乱はないといえるのです。
もし、個々のマークなどがあれば、それをその子の席に着けてあげるなどして「自分の場所」ができれば、それまでとの変化は一時的にあるにしても、それはさして問題とならないでしょう。
◆その他の部分も同時に見直す
前記事では、主体性を伝えるのに食事を主な例に挙げていますが、そればかりに限りません。他の多くのことも子供の主体性を尊重して配慮すべきものです。
自由意思の尊重=主体性と考えてきたケースで、しばしばおちいっていることがあります。
それは、他に抑圧が多いために、意思の主張がむやみやたらと多くなり、かえって安定した生活がしにくくなっているものです。
主体性には、自由意思の尊重の他に、主体的行動と主体的成長が考えられることは前記事で伝えました。
自由意思は聞き入れているのに、主体的な行動を尊重されていないケースがそれです。
具体的には、たとえばこうです。
物理的管理を多用していたり、保育士がなにげなく子供の手首を引っ張って誘導するようなことが無自覚に多用されている。待つ場面が多いなど。
こうした保育が展開されていると、保育士は気づいておらずとも子供からすると抑圧が多くなっています。
すると、その抑圧を意思の主張として大きく出すことになります。
こうした部分に無自覚なまま、食事の対応だけを変えてもなかなか安定しないことがあります。
「主体的行動」についての理解を職員で深めていくといいでしょう。
◆保育の連続性
同様に、他年齢の時の対応もいまいちど見直す必要があります。
0歳クラスや、1歳クラスの時に、保育士からの管理的な保育を展開されていたら、2歳クラスになって自主性(自由意思の尊重)と考えているものは、単なるそこからの反動でしかないかもしれません。
子供の育ちは連続しているわけですから、保育も連続して考える必要があります。
そうした視点をもって、ちょっと他クラスをのぞいてみるとなにか気づきが得られるかもしれません。
| 2019-06-04 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
【保育】主体的成長について - 2019.05.31 Fri
大変重要なところなので、保育者の方はぜひどうぞ。
本来、ここがわからなければ子供に携わるプロとは言えないというものなのだが、この理解と習得は難しく、実践ともなるとさらなる研鑽が必要になる。
現実には、さまざまなネックになっていることがあり、適切な理解の段階でつまづいてしまうことも多い。
◆主体性の誤解
「保育における子供の主体性」
この字面通りの言葉ならば、すでに多くの保育者が知識として持っており、この重要性を否定する人などほぼいないことだろう。
・皆大事だと思っている。だが、理解していることやっていることは誤解の産物。
にもかかわらず、少なくない保育がこの状態にあるだろう。
では、どういう誤解があるのか。
・ケース1
2歳児クラス。子供の主体性を尊重するため、毎日の食事の席は子供たちの自由に選ばせている。
例えば、こういった保育実践がある。
一面的に見ると、この保育上のアプローチは子供の主体性を重んじているように見える。
しかし、これは専門性を欠く対応である。
・子供がしたいことを聞き入れること、つまり「自由意思」が主体性であると理解している(主体性の誤解)
・保育上の配慮は子供の自由意思よりも優先される
もし、子供がなんらかの大きな危険が予測されることをやりたいといった場合、大人はそれを許可しないだろう。例えば歩道橋の欄干の上に登ってそこを歩きたいと子供が言ったからといって、「子供がやりたがっているのだから尊重してあげなければ」などと考えることはないだろう。
危険こそないが、保育上の配慮すべき箇所においては、それと同様のことが言える。
食事というのは、生活上の重要なものであり、食事の習慣、食の文化、またそこでの他者との関わり、大人との信頼関係の構築など、保育の中でももっとも大きな柱のひとつといっても過言ではない。健康状態とも大きく関わっているものでもある。
カリキュラムの中でも、食事に関しては大きなスペースを割いて配慮を考えていることだろう。
2歳という年齢では、個別に大きな配慮が必要とされる。
特に見守りが必要な子、介助が必要な子、安定した環境に配慮しなければならない子、アレルギーの対応が必要な子。さまざまな保育上の配慮が必要な段階で、それを年齢が大きくなる前のできるだけ早い段階だからこそ、細やかに対応してあげなければならない。
「好きな席に座っていいですよ」
というのは、子供の自由意思を尊重しており、現代的な保育をしているように一見見える。しかし、こうした成長発達に関わり、保育上の配慮が必要なところでわざわざそれを後退させるようなことを子供に提供していくのは、保育における大切なことを見誤っていると言える。
このケースで見られる誤解が、主体性について多く見られる誤解である。
子供が望んだことをさせる = 子供の主体性
このように理解している保育者が多く、これが主体的保育の理解の妨げとなってしまっている。
◆主体性の二面性
ここまで読んで、おそらく多くの保育者が「あれ、そうだったっけ」となにかもやもやすることだろう。
そう、確かにそうした子供の自由意思を許容することが主体性であるといった表現は、保育所保育指針の中にもある。特に前回の改訂で大きく変わった現行の保育所保育指針は、よりそうしたニュアンスが強くなっている。
だから、現場の人間としても大きく混乱することだろう。
そこで、もう少し主体性という概念について深く見ていく。
・ケース2
幼児年長クラス。夏祭りの行事で行いたいものを子供たちに出させ、その中から話し合って決める。それをした結果、縁日ごっこ、おばけ屋敷に決まった。
この対応もケース1と同様、子供の自由意思の尊重というレベルでの主体性の理解である。
これらはつまり「子供の活動における主体性」として、この主体性という言葉が理解されている。
「活動における主体性」も、確かに「主体性」ではある。
おそらく多くの人が学校教育の中などで自身がなされた主体性の尊重というのも、こうした「自分で行動を決める」といった、意思決定の意味でだろう。だから、主体性というのをこうしたものと理解してしまうのはよくわかる。
しかし、保育者が理解しなければならないのは、保育における主体性は、ここで終わるものではないということ。
実はこの奥にもうひとつ子供の主体性が隠れており、そちらの方が保育にとってはるかに重要である。
子供の自由意思の尊重=子供の主体性の尊重 という理解は、これは子育てや保育の専門家でなくとも誰しもができる。
そしてまた、ケース1で見られたように、このレベルでの理解は誤解を生む。
ケース1では、意思の尊重ということにとらわれるあまり、保育でより必要である保育上の配慮が全うされえない状況を保育者が進んで作り出してしまっていた。
一般の人の子育てにおいても、子供の意思を尊重しなければという思いからのアプローチが、しばしば子供の依存を助長したり、適切な生活習慣の獲得を混乱させてしまったりすることが多く見られる。
では、もうひとつ奥に隠れている主体性とはなんであろうか。
それは、子供の主体的行動と主体的成長である。
1,子供の自由意思の尊重としての主体性(上ですでに述べた部分)
2,子供の主体的行動および主体的成長
1,のレベルであれば、これは一般の人でも理解している。しかし、ここまでの理解で終わってしまうとそれはしばしば誤解を生み、保育の方向を見誤ることも起こってしまう。
保育者は2,までの理解を深め、それの実践を普段の何気ないところからできるようになることで、より専門性の高い保育とする必要がある。
もっと言えば、日本の保育においてはこの理解、実践が進まないために保育の進歩が遅れた状態となっていると言ってもよい。
◆実際の保育現場で起こっていること
2,を詳しく見ていく前に、現状の保育現場で起こっていることを伝えたい。
子供の自主性・主体性を重んじていると明確に打ち出し、それを特色として保育をしているところが近年多くなっている。最近の保育の潮流としても、個々の自己表現を重んじる保育アプローチなどに注目も集まっているために、よりこれらは顕著である。
もちろん、それらはいいことだ。
だが、これらはその多くが1,のレベルの自主性・主体性の理解に終始しており、活動面での自主性・主体性の尊重でしかない。
2,のレベルの理解もあり、そこにも配慮がなされているのであればそれは申し分ない。
しかし、そこまで到達しているところはまれだ。
その同じ施設の、乳児クラス(0~2歳クラス)を見てみるとそれが顕著にわかる。
例えば、少し前に書いた『乳児保育の不備と物理的管理の悪循環 』
であったように物理的に子供を管理するような保育が行われていたりする。
こうしたことが行われるのは、子供の主体的成長が理解されていないため。
その子その子に必要なものを配慮、獲得させていくことで必要な成長をうながしていけばいい。しかし、そうした方向性またその方法がわからないために、物理的に管理してしまうということが起こっている。
0歳児クラスなどを見ると、やたらとおんぶや抱っこを多用しているところもある。
個々の状況によりそれが必要な場面もあるかもしれないが、多用しているところはやはりこの主体的成長の理解がなされていない。
本来のここにおける主体的成長とは、
0歳児が安心で安定した環境におり、泣いたりぐずらないで過ごせるところに持っていくことである。そのためにさまざまな環境上、対応上の配慮を保育者は考える必要がある。
◆子供の主体的成長の理解
しかし、主体的成長の理解がないと、「泣いているのだから抱っこしてあげる」「ごねてばかりだからおんぶひもでずっと背中にくっつけておく」と、こうした保育が導き出されてしまう。また、その当事者たちは、そうした手厚い(一見そう見える)関わりが「よい保育」に感じられてしまう。
これは、子供の根っこにアプローチするのではなく、対症療法的に今出ている問題を後手後手に対応しているだけであり、専門性が高いとは言えない。
・この子はどうして泣くのか?
・どうすれば泣かずに過ごせるか?
・ではそれに対する配慮として。担当保育者との信頼関係、安心関係の構築。その子が遊び込める遊具の設定などを試行錯誤してみる
このように、「泣き止ませる」のではなく、「その子自身が泣かなくても過ごせるところに持っていく」、これが主体的成長である。
×泣き止ませる(子供の姿を作る)
○その子自身が泣かないで過ごせるようにしていく(主体的成長)
これを文章として言い換えると、次のようになる。
「保育者は子供の姿(結果)を作り出すのではなく、子供自身を伸ばし子供が自分でそこに到達できるように配慮していく」(作るではなく伸ばす)
ここでもう一度、0歳クラスにおけるおんぶの多用を考えてみよう。
子供が泣き、ぐずる、それが激しいのでおんぶや抱っこで過ごすことで泣かないようにする。(子供の姿を作り出す対応)
個々の子供により、どうしてもそれが必要なケースもあるだろう。ならば、先々には自分で主体的に泣かずに過ごすという方向性を見失わない状態で、意図的に配慮としてそうした対応をすることは否定しない。これを僕は「過渡的配慮」と呼ぶ。
しかし、そこでの配慮のあるものと、ただ「泣いているからおんぶしなければ」という意味でするそれは、保育の専門性から見ると大変大きなへだたりがある。
日本の子育て、保育はこれまで精神論や情緒論で整備されてきているきらいがあるので、子供のネガティブに見える状態を「解決してあげる」ことがよい関わりだという感覚でいる人は多い。
この「解決してあげる」という言葉をよく見て欲しい。
「○○してあげる」
・(大人が)泣き止ませてあげる
・(大人が)食べさせてあげる
・(大人が)寝かせてあげる
こうしたスタンスが保育になりやすい傾向を、もともと日本の子育ての感覚は持っているのだ。この要素があることで、保育者は余計に子供の主体性の理解が混乱させられてしまう。
保育者が本当に子供に配慮すべきなのは、
・(自分で)泣かずに過ごせる
・(自分で)食べる
・(自分で)寝る
括弧内に主語を補った。
ここを見れば、主体性ということがより明確に見えてくるだろう。
前者は、一見親切なように見える。しかし、それは主体性の理解を欠いた素人的な対応になってしまう。(過渡的配慮としてであれば別)
後者を見ると、なんだかぶっきらぼうな子供への関わりのように一見見える。
しかし、これらは緻密な配慮の上に、子供自身の主体的な成長として達成させるべきものと認識すれば、少しもおかしなことはない。(もちろん、これら子供が主語になっている行動を大人が疎外や放置を使って作り出すという意味ではない)
抱っこやおんぶをし続けて、泣かないようにしてあげることは、一見手厚い保育のように見える。しかし、本当に子供にプラスになるのは、その子自身が安心して泣かずに自分の活動をして過ごすこと。抱っこやおんぶの多用という親切に見える保育は、そうした専門的な配慮を欠いたところにある。
食べさせてあげることが必要な場面も、保育の中ではたくさんある。それが悪いといっているのではない。しかし、いつでも忘れてならないのは子供自身が、自分でそれをムリなくするところへと配慮していくこと。(この箇所を、子供に叱咤激励することで自分で食べられるようにすることだと理解してしまう人は誤解している。念のため)
子供が寝ないからと、トントンして寝かしつけてしまうことでそのクラスの1年間を終わってしまうようであれば、保育上の配慮が不足している。
それが必要なケース、個々はあるかもしれないが、目指すべき所は子供自身が自分からムリなく主体的に休息をするというところ。そのための配慮はなにかと保育者は考える必要がある。
このように、保育における主体性とは、子供の主体的成長を本来のものとする。
子供の姿を大人が作り出すのではなく、さまざまな配慮により子供自身がその行動、その成長を遂げるところを目的とする。だから、子供の姿を作るのではなく、伸ばすと理解する必要がある。
◆主体的行動の理解とそれへの配慮
前項で見た、子供の主体的成長を達成するためには、子供の行動をいかに主体的にしていくかの理解と配慮が欠かせない。
例えば、0歳や1歳児の保育中、食事への導入をよく観察して欲しい。
このとき、子供が主体的に食卓に来たり、食事への意欲を持つようになっているだろうか。
食事までの流れが主体的に理解されており、子供がそれにのっとって安心してその過程を行っているか。または、そうした意識が形成されておらず保育者の指示待ちになっていないか。
子供を食事に呼ぶために、後ろから抱きかかえて食卓に連れてくるといった保育を目にすることがある。
こうした保育上のアプローチが生まれてしまうのは、子供の主体的行動という理解がなされていないために起こる。
子供を食事につかせようと思うあまり、無自覚に干渉することでそれを達成させようとしてしまっている。
専門的な保育として必要なのは、そのときの結果だけを作り出す(子供の行動を作る)ことではなく、成長としてそこで主体的な活動として行えることを日々配慮し積み重ねていくことである。
だから、この場面では大人が子供を追いかけ回して、抱き上げてイスに座らせるという方向の関わりをまずやめる必要がある。
大切なのは、子供が主体的に食事に興味を持ったり、生活の流れを把握してそれをだんだんと獲得、実践していくことである。
よって、まずは保育者はこの食事に入る段階から極力余裕を持って臨む必要がある。
時間が押していたり、保育者が気持ち的に余裕のない状況では、そうした導入部分での配慮が後手後手になってしまう。
タイムテーブルの整備や、保育者同士の連携等を合理化して、余裕を持って食事の準備をできるようにし、その上で保育者がおおらかに「○○さん、食事の準備ができましたよ」とおいかけまわすのではなく正面から顔を見て伝えたり、自身が食卓のそばにいる状態で呼びかける。
その上で、子供が主体的に食卓に着くのを待つ。
保育者はそれを許容的な姿勢で見守る。(例えば、自分から食事に意欲を見せたらそこに微笑むといった保育者の姿)
これを日々繰り返すことで、子供は主体的に食事に臨むことが習得され、ムリなく自分から出せるようになる。
食事は小さい子であっても、もっとも意欲を持って取り組みやすい生活の一過程である。
ここで主体性を尊重され、そうした行動の基礎が構築されることで、他の生活の行動にも自主的・主体的に取り組みやすくなる。
子供の主体的な行動をこれまで意識して保育したことがなかったという人は、まずこの食事の導入部分から子供が主体的に動くことを目指して欲しい。
保育者側の意識と配慮次第で、子供の姿は驚くほどに変わることだろう。
◆子供の尊重の理解と子供の主体性
0歳児クラスのように、食事に順番がある際。後半の子が待てずに困っているといったことがしばしばある。
待てないので人手を増やすことで、なんとかそうした子供の大変さを押さえる方向になってしまったり。(人手クレ保育)
待てないので、食べている子が視界に入らないように隠したり、食事スペースのしきりを厳重にすることで来られないようにしたり。(物理的管理)
こうした保育が導き出されてしまう背景にも、子供の主体的活動ということが理解されていない影響がある。
ここにあるアプローチの根っこは、「子供を待たせなければ」「待てるようにしてあげなければ」である。
子供自身の能力を信じて、「この子は適切に伝えて習慣化していけば待つことができる。だからその配慮をしていこう」という子供を信じる専門性に到達しておらず、「どうせこの子はまだ小さいから待てないよね。だから人手を増やすことで子供の行動に対処しなければ(物理的にコントロールしなければ)」という、子供に対する低い決めつけ(子供の尊重の未達成)がある。
子供自身を主体的な行動に取り組ませ、子供自身に主体的な成長を遂げさせるという視点がないと、こうした保育が必然的に起こってしまう。
そして、現状の保育施設の大半は、いまだにこれらの理解がなされていないところにある。
こうしたケースも、実は子供に主体的に食事に来る配慮をすることで、子供はその流れを把握し待つことがしやすくなる。
それまでのように、しきりがなければ本来順番でない子が入ってきて他児の食事をとって食べてしまったりということもなくなる。
子供の主体的行動が理解されていない人から子供のこの姿を見ると、「待てない」ということがクローズアップされて見えてしまう。
しかし、問題の根っこは待てないことではなく、主体的に食事に来るプロセスが確立していないために、いつどういう状況で食事ができるのかわからなくなっており、それゆえにその姿がでているのである。
子供の行動が思うようにならないと保育者が感じることのいくつかが、実は保育者側の配慮不足であることは少なくない。
◆まとめ
a,子供の自由意思を聞き入れることは、子供の活動における主体性。保育の中ではもっとも表面にある主体性にすぎない。
b,保育における主体性というとき、その本来の指し示すところは子供の主体的成長を育んでいくこと。
c,その主体的成長を育むためには、子供の主体的行動の理解とそれへの配慮をする必要がある。
このbとcを保育の中で達成することが、保育士のもっとも重要な専門性である。
今回、字数の関係で述べていないが、この本来の意味での主体的保育を実践するためには、子供の尊重概念の理解、保育者自身の持つ規範意識の理解と、子供が主体的に規範を獲得するメカニズムなど、その他さまざまな学びが必要になる。また、こうした子供の主体性を本当の意味で理解した保育を実践するためには、保育における受容と信頼関係の理解は欠かせない。それなしに、自主性・主体性の保育を理解しようと思ってもそれは徒労に終わってしまう。
保育者の意識的な配慮によって、子供がムリのない主体的な成長を見せてくれることは、保育の仕事としてもとてもやりがいがあり、また楽しいものとなる。
せっかく保育士になった方には、ぜひここまで習得して本当の保育のおもしろさを味わって欲しい。
こうした保育の専門性が学べる僕の研修が今年もあります。
保育の見えない部分を可視化することで、より実践的な保育につながることを目指します。
よろしければどうぞご参加下さい。
保育士おとーちゃんの事例研究会 2019
| 2019-05-31 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
慣らし保育と母性神話 - 2019.05.06 Mon
しかし、母性神話の断片は、すでにほとんどの人が持ってしまっているし、子育てにまつわるところでは、この影響はいまだに大きく存在している。
(母性神話とは、母親の愛情や献身によって子供が健全に育つのだといった精神主義的な考え方。現実的には、子育てを母親に自己犠牲をしいるものとしてしまう。三歳児神話や母乳神話といったものもここから派生している)
保育施設では新入園当初、慣らし保育を行っているところが多い。
そのやり方も、個々の施設によりさまざまだが、あまりに保護者に負担をかけすぎではと思われる内容になっているところも少なくない。
保育施設とは、子供をあずける必要があってあずけるところのなのだから、保護者も園で一緒に過ごしたり、短時間のみの保育にして早めの迎えを要求するといった状態を過度に続けることは、理屈に合わないことだ。
しかし、そうした過剰とも言える、保護者に負担の大きい形での慣らし保育はいまだに多くのところでなされている。
一説にはSIDSの発生率は入園当初に高まるというデータもあり、そうした観点から慣らしの期間に余裕を持つことは、ある面では望ましいのかもしれない。
しかし、現状過剰な慣らし保育になっているところの背景には、そうした論理的なものよりも、母性神話から派生した感覚が強いようだ。
・親(特に母親)が、子供に手厚く関わるべき
・なによりも子供のことを優先すべき
・子供のために自分が犠牲になるのは当然のこと
・子供のことを「かわいい」と思うべき。「大切に」思うべき。といった内面への要求
母性神話は、かつて近代社会を迎える中で、当初は女性の地位向上のために高まったものらしい。しかし、現在では女性を差別するものになっている。
例えば、こんなケースがある。
その施設は、0歳児の新入園に1ヶ月もの慣らし保育を求める。
あるとき、父子家庭の子供が入園してきた。しかし、その父親には慣らし保育を最初から要求しなかった。母子家庭の母親には要求しているのにも関わらず。
その保育施設としては、女性差別をしているつもりはないだろう。しかし、現実にしているのはそういうことだ。
少なくない保育施設が、こうしたすでに古くなっている精神論を保育のバックボーンにしてしまっていることに気づいていない。
◆
さて、前記事『乳児保育の不備と物理的管理の悪循環』では、保育の配慮不足が子供の不適応な姿を引き起こし、それに物理的な管理をすることが保育の非専門性であることを挙げた。
この問題と、無自覚に母性神話に寄った保育観、過剰な慣らし保育は相関してくる。
・保育の配慮不足、不備による子供が安心安全を得られず、安定しない状態
↓
・その子の問題ととらえる園側の認識
↓
・母親が対応すべきという母性神話をバックボーンにした責任の押しつけ
↓
・過剰な慣らし保育
このように、保育の不備が見えていないところに加えて、母親に子供のあり方を求めるという安易な母性神話的感覚から、親への負担を当然のものとしてしまう構造。
すでに女性であっても男性と同じ社会的責任を持って働く時代になっている。
保育園の感覚が古いままでいては、保育の専門性が社会的に認められることもないし、保育士の地位向上もない。
その保護者から要望のあるケースは別だが、保護者に大きな負担をかける慣らし保育をいまだにやっているところは、早急に話し合って見直した方がいいだろう。
保育園側が、安心安全に最大限の配慮をすれば、慣らし保育の長さは確実に減らすことができる。
だらだらと親に責任を押しつける慣らし保育を長きにわたって要求しているところは、自身の保育への配慮、認識が不足しているのだ。
現在、保護者をとりまく就労の状況は、大変厳しいものとなっている。
保護者と、その人が働く職場に大きな負担となる長期の慣らし保育を改善することは、保育施設として重要なことだ。
| 2019-05-06 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
乳児保育の不備と物理的管理の悪循環 - 2019.04.26 Fri
基礎の不十分な地盤に大きな建物は作れないからだ。
しかし、実際の保育施設で見てみると、これが逆転しているところが少なくない。
幼児の保育は華々しいものになっているのに、乳児の保育をみると少しも専門的でなく、配慮のない素人感覚の保育を当然のこととしていたり。
もし、乳児の保育がそうしたものであれば、幼児の保育における華々しさもそれはとってつけただけのものだろう。
対外的な立派さは、作り出せてしまうものだから。
乳児保育に配慮不足や不備があるところが、おちいりやすいことがある。
それが物理的な管理におちいってしまうこと。
a,子供たちが部屋や空間からでていこうとばかりする
↓
厳重な柵、しきり
b,子供たちが遊具の取り合いばかりする
↓
遊具を出さない。手の届くところにおかない
c,子供たちが寝ない
↓
おんぶ紐でおんぶ
例えばこういうことがある。
a,であれば、「なぜ子供がそのいるべき空間から出ていこうとするのか?」と考える必要がある。
すぐに物理的な管理におちいってしまうところは、ほとんどがあまり深く考えることなく、「子供とはそういうものだ」という認識でいることが多い。
ここには「子供観」の不備という、専門性の低さが垣間見える。
最初から、子供を低いもの、できないもの、能力の劣るものと見ているからだ。
子供たちがその空間から出ていこうとする姿が強いのであれば、保育において真っ先に考えなければならないのは、
・その空間に安心感が持てていない
・そこの保育者に信頼感が持てていない
・環境配慮が不足している(落ち着かない、遊具が不適など)
子供たちがその保育空間に安心感を持てず、泣き続けたり、出ようとしたり、不安から大人の後追いばかりになってしまったり、こうした姿があるとき、これらを考えそこに対応していくことで、そうした姿は軽減していく。
しかし、この、自分たちの保育上の配慮に不備があるのではないかという視点がないまま、そうした表面的な行動だけを見て、「子供とはそういうものだ」もしくは「この子達は落ち着きがない」などと子供に責任を押しつける見方をしてしまえば、物理的管理という判断が導き出されてしまう。
子供を低く見ている保育者に子供が信頼を寄せないのは当然のこと。
そこの大人に信頼がもてないのだから、その空間が安心できないのも当然のこと。
にもかかわらず、それを物理的に管理、支配していくようになれば、それに対して様々な反発を見せたり、出やすいところにその負荷が向けられるのも当然のこと。
負荷が向けられるとは、例えば噛みつきが多くなったり、子供同士のトラブルが多くなったり、親に対して依存や振り回す行動が多くなったり。
配慮のない保育をしていると、こうした目の前のことがあっても、それを正確に見て取ることができなくなる。
本当は保育施設がかけるべきではない負荷を子供にかけた結果であるのに、それを親に甘えとして出しているさまを見て、保育者が「あの親は子供を甘やかしている」などという見解を持つのは専門性の不足もはなはだしいことだ。
保育の基礎中の基礎。
それは子供に、安心と安全を提供すること。
安心と安全があれば、子供はそこでムリのない姿を出すようになっていく。
極端な話。この「安心と安全」さえ、子供に提供できればそれでいい。
そこで、子供は主体的に伸びていくことができるから。
この重要性がわかっていないと、「大人が子供に与える(”できる”を作る)」という子供の主体性の理解されていない保育がずっと展開されることになる。
そういう意味では、幼児の保育に見た目の華々しい立派さを作り出している施設に、乳児保育への理解や配慮、専門性が欠如していることがあるのは、必然的なことなのかもしれない。
そして、安心安全は物理的なもの以前に、大人とのつながりが大切。
子供からすると、「この大人がいるから安心」という感覚が圧倒的に大きい。
保育者は当然ながら、子供にとってそうあるべきなのは言うまでもないだろう。
しかし、「正しい行動」「できること」に意識が行ってしまって、子供に少しも安心感を持たせられない保育者も少なくない。
子供が安心、安全を持てていないところで、いくら見た目の「できる」を達成させたとしても、それは本当に獲得された力ではないので、成長としてはさしたる意味はない。
安心、安全を子供が実感できることこそが、保育のもっとも大切なこと。
ここへの配慮を十分にすれば、結果的に物理的に管理しなければならない箇所は大きく減ることになる。
| 2019-04-26 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
保育園、学校における承認欲求のあやうさ - 2019.04.11 Thu
これと似た問題に自身の承認欲求のために子供を利用するもの。
そして、自身の不安、心配の解決を子供に負わせてしまうものがある。
今回はその前者、承認欲求のために子供を利用してしまうものについて見てみる。
今回は家庭での子育てから離れて、保育園や学校などにおける承認欲求のあやうさについて。
(自身の不安、心配の解決を子供に負わせてしまうものについては、家庭での子育てに戻る。最近多忙なのでもし書けたら・・・・・・)
自己承認という面もあるし、他者の視点から自分がどう見られるかというファクターも関わってくる。
この点において、子供を自己実現のために利用するものと違いがある。
ただ、自己実現のために子供利用する人が、同時にこの傾向を持っていることもある。
他者からどう見られるかという視点で見れば、消極的なものと、積極的なものでやや傾向が分かれる。
・消極的 他者からどう見られるのか不安になり子供を自分の望む姿にしようとする
・積極的 他者から自身がよく見られたいので子供を自分の望む姿にしようとする
「承認欲求」として考えると、欲求という積極的なものであるので主に後者になる。
このことは、特に保育施設や学校といった子供に対する仕事において顕著な問題となる。
例えば、運動会や発表会といった外部に見せる行事はそれにおちいりやすい。
他者から見たときに、立派に見えるものにしなければならない要素がどうしても大きくなるため、その内実である保育・教育要素よりも、「見た目」「出来」に寄りやすい。
現在学校における組み体操が、安全面の指摘などさんざんなされているのにやめられない理由もここにある。
また、「親を感動させる行事」を作為的に作り出してしまうあやうさもここにある。
加熱しすぎてしまう部活動の問題も、背景をたどっていくとこの子供に関わる大人の側の承認欲求の問題に行き着く。
そういった対外的な行事などでなくとも、子供を自身の承認欲求に利用してしまうことは普段から多々ある。
並ばせたり待たせたり、「ちゃんと」「きちんと」しなければならない場面を大人が無自覚に増やしてしまい、その型にはめることで自身の気持ちを無自覚に満たしていこうとする。
無自覚であるだけに、こういったことにはなかなか歯止めがかけづらい。
これらが、表面上は「子供のため」「保育のため」「教育のため」という理屈をつけてなされてしまうので、それもまたこの負の影響を押さえられないことにつながる。
特に大きな問題なのは、学校における部活動。
これまで過熱化した部活動により、子供が事故死したり、またはそこでの負荷からいじめが起こったり、自死したりといったケースが山のようにあるが、それでもこれがなかなか是正されていかない。
部活動で自身の承認欲求を満たしたい教員にとっては、それを手放したくない心理が強く働くことだろう。
しかし、それにより子供を事故や死亡に至らしめてしまえば、その教員にとっても不幸な事態となる。だからこそ、「承認欲求をないもの」とするのではなく、「誰しもがそこにおちいりやすい」という前提に立って、職業的に子供に関わる大人の側に研修をしていく必要がある。
しかし、残念なことにあまりこの問題自体があまり認識されていないようだ。
保育においても、この承認欲求の問題は大きい。
例えば、○○式などをうたう、子供にできる姿を持たせるメソッドの保育では園ぐるみでここにおちいる。
・立派な保育として外部から見られたい組織の思惑
・子供を自身の思い通りにすることで自分を満たそうとする保育者
・子供に到達点を持たせたい保護者の思い
結果的にこれらがタッグを組んで、子供を大人の望む姿にすることで、大人を満たすための保育が組織的に出来上がってしまう。
保育の原点が意識されていれば、本来はこのような事態にはならないのだが、残念なことに日本ではいまだに保育が確立していないためにしばしばこのようになってしまう。
まずは、承認欲求が誰しもにあることに気づくことからが大事だと思う。
| 2019-04-11 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
保育の基礎 ~安心安全~ - 2019.04.05 Fri
新年度当初なので初心に戻って当たり前のことを書こうと思う。
そしてたぶん「当たり前」と世間で思うことほど勘違いされていたり、見落としていたりするもの。
保育の基礎とはなんだろう。
それは、子供に安心安全を提供していくこと。
多くの人は、そこを見落としたり、軽く見たりして、次のことに視点がいってしまう。
次のこととは、「できる」こと。成長や行動の到達点。
・泣かないで過ごせる
・ご飯が食べられる
・午睡ができる
・遊べる
・友達と関われる etc.
これらはすべて「できる」に分類されること。
このような目に見える「できる」は、本当は副産物でしかない。
保育者が、子供に安心安全を提供していくことを徹底していけば、子供はそこで屈託なく過ごすことによりさまざまな経験を自ら得、それによりだんだんと獲得していく。その結果「できる」は目に見えてくる。
安心安全をすっ飛ばして、「できる」を子供に持たせようとする人は少なくない。
しかし、安心安全が不十分なところで獲得された「できる」は、多くの場合大人により与えられたり、作り出されたものでしかない。
場合によっては、大人側の錯覚であることも多い。
例えば、威圧の保育によって「いい子」になっている状態などは、それ。
安心安全を子供に提供し続けていけば、そこには自然と子供からの本当の意味での信頼関係ができあがる。
「なになにをしてあげた」
「おもしろいことをして子供の歓心を買った」
こういったことでも、ある種の子供との関係性はできあがるが、安心安全を提供することによる信頼関係には及ばない。
それが悪いことではないが、安心安全の提供の上でそれをすれば、さらにそれは意味あるものとなるだろう。
0~3歳児といった、精神的な自立が未発達な状態の子供たちにおいては、さらにこの安心安全を担保していくという保育上の配慮はより大きな意味を持つ。
「安心安全?そんなのわざわざ配慮に入れるまでもなく当たり前のことだ」と考えてしまう人は、いまいちど見直した方がいいだろう。
なぜなら、安心安全を提供していくためには不断の配慮が必要だから。
「大丈夫。できている」と思ってしまえば、そこからほころびは始まってしまう。
また、子供の姿は日々変わる。
だから、昨日の配慮と今日の配慮は同じではないこともあるだろう。
安心安全を当たり前のことゆえに、軽視しないで欲しい。
ここに注力すると、子供との関係性がこれまでにないほどの姿として現れてくるだろう。
それを実感できることは、保育士という仕事の本当に素晴らしいところだと思う。
保育士である自分に信頼を寄せ、屈託のない姿を出す。
文字ではうまく伝えられないのだが、それは子供に「できる」を作りだしそれにより自己承認を得る保育の何倍も素晴らしいものだ。
では、安心を子供に提供していくためにはなにがあるのだろう?どうすればいいのだろう?
これについて思うところを書いてみたいが、必ずしも正解のあるものではないので、まずは保育者のみなさんひとりひとりが自身のスタンスから考えてみて欲しい。
| 2019-04-05 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
保護者支援における保育者の意識改革の必要性 - 2019.03.05 Tue
社会の変化に保育士の意識の方がついて来られておらず、この意識のままでは保育士、保育業界全体の社会的評価が低下していってしまう。
自分たちの持ってきた考え方にそのまま固執するのではなく、現代の社会のあり方や、現実の保護者の状況を踏まえて保育士の意識もアップデートしなければならないだろう。
◆「子供がかわいそう」という視点
以下のことは僕自身の自戒、反省も込めて述べる。
保育者は子供を第一に考える。
そのこと自体は必ずしもまちがっているわけではない。
しかし、これまでその見方が、親に対する否定的スタンスとして結実してしまっていた。
例えば、長時間保育の必要な家庭に対して「長く預けることは子供がかわいそう」といったスタンスでその保護者や子を見ていたり、実際にその趣旨のことを保護者に伝えたり。
このスタンスの元をたどれば、大正時代以降外国から流入しその後日本の中で発展していった母性論的子育て観にある。
それは、「母親の献身的な子供への愛」を主柱にした子育て観であり、母親の自己犠牲を暗に求めていく。
現代では、ことさら「母親の」と限らずに男親も含めてその考えが主張されているかも知れないが、結局のところそれも母性論的子育て観の拡大版と言えるだろう。
それは母親限定から、「両親の自己犠牲による子育て」になっているに過ぎない。
ただ、現実を見ればいまでも「母親の自己犠牲」の文脈の上で、保育士が母親に対して子供への注力を要求する関わりは多い。
それの象徴的なフレーズが、「子供がかわいそう」というものである。
保育士が、保護者に対してこのフレーズを出すとき、それはその保育者に親を責める意識がなくとも結局のところ親を責めたり、批判するメッセージとなって親に届けられるものになる。
これからの時代の保護者支援として、「子供がかわいそう」という見方は間違っている。
今後もこのスタンスでいたら、保育士が社会的に専門職として尊重されることにはならないだろう。
◆子供&保護者への一体化した援助
この「子供がかわいそう」という視点は、子供と保護者を分離されたものと見ているところから始まっている。
また、それは「子供の姿を親の責任」とする、「しつけ」の子育て観の影響もあるだろう。
「子育ての支援」を考えるとき、子供と保護者は分離不可能な一体化した存在と見るべきである。
そのスタンスから支援をスタートしなければ、保護者を責めるスタンスから保育者は抜けられない。
そのことは、保護者のためにも子供のためにもならないし、保育士のためにもならない。
「親が悪い」というスタンスを持ちながら、日々家庭に関わることは、保育者の精神的な疲弊につながる。
(職場の劣悪な労働状況により、すでに精神的に疲弊しており保育者がストレス解放のために「悪者」を探す心理になった結果、親への風当たりが生まれるケースは、子育て支援以前の問題)
本当に子供のことを考えるのであれば、保護者と子供は不可分な存在であり、両者ともを良い状態にしていくことが欠かせないのは、「母性論的子育て(母性神話)」というバイアスから自由になったところから見れば自明のこと。
保護者を責めるだけで、子供の問題が解決するのであれば保育者が専門職である必要などない。(このことは学校教員にも言える)
「子育て支援の上では、子供と保護者は一体化した不可分な存在」
これをスタート地点としたところから、今後の子育て支援は考えられるべきである。
これは新しくなった保育所保育指針にも書かれていないので、これを読んだ保育関係者の方はぜひこのスタンスを今後持っていってもらいたい。
◆情緒論ではなく、専門家の知見によるアプローチを
「長時間保育で子供がかわいそう」
この意見は、情緒論でしかない。
専門職の人間による客観的な意見やアドバイスにはなり得ない。
「子育てには親の自己犠牲が欠かせない」という、これまでの「母性論的子育て観」が言わせているものだ。
(繰り返すがその人がその対象を母親に限定しておらずとも、この考え方の源流は母性神話にある)
だから、こういった考え方は年配の人ほど強い傾向がある。
優れた保育実践者であっても、このスタンスの人は少なくない。
もし、その子供に長時間保育によるなんらかのネガティブな影響がでており、それがその子の生育に問題があると考えられるならば、それはあくまで専門家としてのスタンスで考え、保護者にもアプローチすべきである。
・現状の子供の姿(客観的事実)
・私たちがそれをどのように考えているか(考察)
・保護者の現状の共有
・子供へのフォロー、安定化のためのアプローチの共有
すごくざっくりとだが例示すると、
・お子さんは現状こういった姿があります。
・私たちは経験や知識から、その原因はこういったところにあり、それはこういった成長への影響があるのではないかと考えています。
・保護者の家庭や仕事での状況はどうですか?家庭で困っていることはありますか?お子さんの成長に関して気にしていること、心配していることはありますか?
・そういうわけなんですね。そういった子供の難しい姿に対しては、こういったアプローチが安定化に役立ちますよ。(具体的アプローチの提案)
私たちも、ご家庭の状況を踏まえて園で最大限こういったフォローをして、お子さんの姿の安定化に配慮していきます。(子供の姿の責任を保護者に押しつけるのではなく、ともにその責任を分かち合っていくスタンス)
◆サービス業的保育のあり方に情緒論で対抗しない
「子供がかわいそう」といったスタンスを持つ人が、むしろ誠実な保育者に多いことは僕自身も理解している。
特に、昨今のサービス業化する保育施設のあり方に危機感を持っている人ほど、このスタンスが強まってしまうこともわかる。
そうした保護者に対するサービス業化した保育施設は、子供の情緒や成長がどうなろうとも構わずに、保護者のニーズを満たすことばかりに視点が行ってしまっている。
これは大きな問題だ。
しかし、昔の子育て観を強調することでそれに対抗しようと思っても、それが社会的に大きく容認されていくことはない。また、それを理解して一生懸命協力してくれる保護者に対しても、苦しめることにつながりかねない。
ただでさえ、「私がいたらないから我が子にかわいそうな思いをさせている」と自分を責めるスタンスの保護者は多い。
本当に子供のことを考えるのであれば、その子と保護者は不可分な存在というところに気づきを持ち、子供と保護者の一体化した支援を考えるようにしてもらいたい。
文中で触れた「母性神話」についてはこちらに詳しい↓
| 2019-03-05 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
支配と保育 vol.2 - 2019.03.03 Sun
タイトルにもあるように、これは保育向けの内容になっています。
保育における子供の支配は、それをする人の持つ承認欲求の問題と関連がある場合があります。
その人自身が過去に支配を受け、その中で自己肯定ができにくい気持ちを形成されていると、自己の承認への強い欲求が生まれます。
もし、その人が働いた保育の現場で支配の保育が行われていると、その人のそういった性向と一致し、より支配的関わりが強まってしまいかねません。
(そうでなくとも、自身の生真面目な性格、園や上司の意向、同僚からの評価的する視線、そういったものから自身が他者からどう見られるかが気になり、それが強迫的に働いていつのまにか子供への支配的な関わりが多くなってしまうこともあります)
子供に対してのみならず、周囲の大人にもモラハラをするような強い支配的な傾向をもっているのでなければ、この承認欲求の問題をムリのない形で保育の中で自己実現できる手段を持たせていけば、これを改善していける場合もあります。
vol.1のところで、「承認欲求の付け替え」と僕が呼んだことです。
◆支配と承認欲求の落とし穴
まずこれまでの保育界で、承認欲求の対象となりやすかったところを挙げておきます。
・立派な行事
・子供の集団行動
・大人の設定する活動に従わせること
・きまり、ルール、マナー
・子供の作る作品
・壁面装飾など保育者が作る作品
こういったところは、保育者が保育の中で無意識に承認欲求を求めやすいところです。
例えば、子供の姿の大変さについて悩んでいる保育をしているところには、しばしば意味のないルールや形骸化した行動をやたらと子供に要求している場合があります。
戸外に行くために、片付けさせ、全員でトイレに行かせ、トイレの前で座って待つ場所が決められておりそこに並ばされ、靴下をはくために所定の位置に座らせ全員がはけるまで待たせ、玄関に行き靴をはくのに並ばせ、はいた子は玄関の外の所定の場所で待たせ・・・・・・。
なかには意味のあるものもあるかもしれませんが、配慮が無自覚であるといつの間にか形骸化した無意味な行動を子供に求め、子供はその管理されるストレスからより逸脱した行動が増えという悪循環ともなりかねません。
ここには保育者のマッチポンプがあります。
子供を自分の思った通りに動かしたいという欲求に無自覚なために、それを正当な保育であるという立場で子供に課し、その負荷を自分たちがかけていることに気づかないまま、子供が落ち着きがない、言うことを聞かないという見解になり、それゆえにルールや管理の関わりをより強めていくというものです。
支配の関わりには、そういったマッチポンプを生む側面があります。
例えば、子供を怒鳴って大きな声で指示することが当たり前になっていると、そこの子供たちは「怒鳴られなければ動かない子」になってしまいます。
その保育をしている人たちからすれば、怒鳴ることが「正当なことである」と認識を持ってしまいますが、実のところその支配の関わりが支配を強めなければならない子供を作り出しています。
このことは、威圧的な関わりや体罰擁護の意見でしばしば見られる、「そうしなければ子供が言うことを聞かない」という見方の構造と同様のものです。
もし、最初からその施設の全職員で支配の関わりをしなければ、そもそも支配の関わりが必要ないのです。
保育の方向を示す厚労省が出している『保育所保育指針』には、子供を上手に支配することを意味する箇所はひとつもありません。
その代わりに、繰り返し述べているのが、「信頼関係」です。
信頼関係の構築により子供が大人の要求や望む姿の方へと自発的に成長していけるという、保育の基礎中の基礎を理解する必要があります。
◆支配することによる承認欲求をどこに付け替える?
さて、ではここからが今日の本題です。
子供を思い通りに動かすことや、様々なきまりを課してそれを守らせるなどの支配的な関わりにより承認欲求を得ていたところから、別のところで承認欲求が得られるようになれば、そういった支配におちいることを避けやすくなります。
従来の保育界では、それを精神性や感情論で担保してこようとしていました。
「子供に愛情を持って」
「子供を大切に」
こういった感情論で担保できるレベルならばそれでいいのかもしれませんが、いまだにたくさんの支配の保育が当たり前にある現状を考えれば、こういった感情論が何ほどの役にも立っていないことは明らかな事実です。
むしろ、こういった感情論が職員へのモラハラに使われる現実まであることを考えれば、専門性のある仕事に感情論を持ち込むことの弊害がわかろうというものです。
僕が提案したいのは、この承認欲求の問題を明確な保育スキルによって満たすことです。
支配の保育の構造を見てみますと、
1,規範または要求の設定
2,子供にそれを求める
3,それに当てはまらない子への、注意などの否定的対応
4,さらなる適合を求める支配的アプローチ
5,子供から保育者への信頼関係の低下
1,の子供に求める内容が過剰であることも多いです。その場合はそれ自体の見直しが必要です。(例:3歳児にお箸を要求する)
とりあえずここではそれは適正なものであることを前提として話を進めます。
この構造だと、3,のところで否定的アプローチ(注意、叱る、怒る、不機嫌さを醸し出す、小言、繰り返しの干渉)が行われるわけですが、こうなってしまうのは「しつけ」で考える子育ての問題点を保育者が無自覚に踏襲してしまっている行動です。
ここに、保育の専門家としての役割を今一度思い出してもらいたいと思います。
保育者は子供の健全な成長の援助者としてあります。
援助者として保育者の取りうる態度は、ここで安易な否定の関わりをすることではありません。
「援助の視点」でその子を見ます。
保育者には、その客観的な視点と姿勢が必要です。
「援助の視点」とは、その子供の行動を「どうしてかな?」と見ることです。
例えば、他児に乱暴な子がいた場合、その子のその行動を「直そう」とか「注意しなければ」と真っ先に考えてしまうのではなく、どうしてその子はそういった行動がでるのだろう?と原因を探る視点に立ちます。
そこからなんらかの原因とおぼしきものが見えてきたら、それを解決する方向でアプローチします。
そのアプローチは子供の発達の順序を理解していくと、なにが必要かが見えてきます。
ここではその具体的な関わりの詳細は省きますが、基本的なところでは子供の心の発達のメカニズムを追うといいでしょう。
愛着形成、受容の関わり、信頼関係の形成、依存と自立、自己肯定、意欲、自尊感情、社会性の発達など。
そういった視点に立って、保育者がその子に不足しているものを保育の中で配慮を持って意図的に施していきます。
ここには専門家として、因果関係を踏まえたアプローチがあるわけです。
このアプローチにより、改善していくこともあればそうでないこともあるでしょう。
そうでないときがあってもいいのです。
それを保育日誌やその他のドキュメントに記録として蓄積していきます。
こうした、成功や失敗の蓄積により、保育のスキルが向上していきます。
保育者が失敗をおそれると(責めたり否定していると)向上もなくなってしまうので、うまくいかない結果を恐れる必要はありません。
こういったスキルが向上するにつれて、意図的な配慮で子供の姿を安定させていけるということが実感的に身についていきます。
それまで支配の保育をしていた場合、そういった保育における自己実現が、「子供を思い通りに動かすこと」や「立派な行動(行事、集団行動、作品)を子供にさせること」に集約されていました。
それを、自分たち保育者の配慮とアプローチにより子供の本質的な成長を援助し、もたらせることへと付け替えを行います。
ここをその施設の保育者の多数が実践の上で理解できることで、園全体の保育が安定化します。(自分たちの仕事の可視化)
これを僕は「保育のチカラ」と呼んでいます。
| 2019-03-03 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
支配と保育 vol.1 - 2019.02.20 Wed
また、保育士のコミュニティでも、単に行事として以上に子供を脅しそれを面白がったり、保育として正当化する保育士の存在に対して多数の疑問や違和感の声があがっていました。
さらに、いまニュースになっている福岡市の「あかつき保育園」でも、「仕切り部屋」と称するところに言うことを聞かない子に怖がらせるお面をかぶせて閉じ込めるということを、保育の中でしていたことが明らかになっています。
(報道では一部保育士がしたというように言われていますが、このような部屋が園内にある時点で園長・施設運営者の関与がないということはありえません。その保育者達は間違っていますが、同時に適切な保育を身につけさせてもらえなかったかわいそうな人たちであるとも言えます)
同様の脅すためや閉じ込めるための部屋については、コメントでもあったように多数耳にします。
これらははっきりと保育と言えるものではないと断言できます。
どんな理由があれそれは正当化できるものではありません。そうしないと保育ができないという言い訳をするのであれば、ならば「保育などやめてしまえ」と言い返します。
こんなことを保育と言っていたら、保育士の専門性を社会に認めてもらうことなど到底できないし、従って保育士の給与も上がらないのも当然です。
実は、保育をする上で大切なことは、「子供を支配しないこと」なのです。
しかしながら、それを実行するためのメソッドがないために、一般に流布する「支配の子育て」がそのまま「支配の保育」となっているところが少なくないのが現実です。
立派な保育について語るものは山ほどあります。
しかし、「支配しないこと」というテーマで論じているものはほとんどありません。
どんなに、立派な保育を身につけようとも、その人のメンタルが他者を支配することを求めていたら、その身につけたものは本当の意味で活かされることはありません。
実は、支配におちいらない視点の確保が保育をする上では必要なのです。
そこで、ここではそういった保育する側の心理について考えていきます。。
◆僕と牛乳パック 認知のゆがみの話
ひとつ具体的な話をして、人間の心のメカニズムについて知っておいてもらいたいと思います。
うちでは主に食器等の洗い物の分担が妻なので、空いた牛乳パックをゆすいで水を切るために、シンクの蛇口の隣に逆さにして立てておくことがあります。
逆さにした牛乳パックは不安定なので、しばしば僕が水道を使うときちょっと触れただけで倒れて落ちてしまいます。
そのとき、僕の心は瞬間的に妻に対して「もう、こんなところに置いて!」という責める気持ちがわき上がってきます。
ここに人間の心のクセがあります。
人の心は、無意識に自分を守ろうとする機能があります。
それが、ここでは「自己正当化」として出てきます。
客観的に考えてみれば、ここで妻は少しも悪くありません。牛乳パックを立てておいていたことが問題なのではなく、それにぶつけて落としたのは僕です。
100%自分の問題としてあるのに、心はそのようにとらえず「自分以外の誰かが悪い」と解釈しようとしています。
僕はそのようにしませんが、もしこの心の動きのまま、妻を悪者だと意識的にも断じてしまったとしたら・・・・・・。
そこには、「認知のゆがみ」があると言えます。
自分の行動の問題なのに、無意識に他者に責任を転嫁しています。
これを理由に妻を攻撃したりすれば、それはモラハラになります。
自分中心のルールを作り、他者にそれを守るように強要していきます。
そのモラハラの中では、他者支配が正当化されてしまいます。
「おい、なんでここに置きっ放しにするんだ。いつもここにおくな、きちんとしろと言っているだろ。何度言わせればいいんだ。これくらいのこともできないからお前はだめなんだ。そんなお前にこういう言いたくもないことをいってやるのは自分くらいなものだ。感謝しろよ」
こういったことが、モラハラの典型的な関わり方です。
◆他者支配の連鎖
さて、なぜこのことをわざわざ保育の話題で出したかというと、保育の中でもこれと同じことが起きるからです。
保育では、「自分が悪くない、他者が悪い」という認知のゆがみをもち仕事をし続けられてしまいます。
この他者のところは、たいていの場合「子供」「親」が入ります。
保育の仕方や、園のあり方、方針に問題があったとしても、それを自分たちの問題と認識することなく子供が悪い、親が悪いという認知のゆがみで自己正当化し続けてしまいます。
この心理状態にある人間は、その問題行動の指摘があってもそれを真摯に受け止めることは困難を極めます。
それを認めてしまうと、「自分が悪い」という認識を許すことになってしまうからです。
ですので、そういった不適切保育は「施設の体質」となり、改善の困難さを持ちます。
ここの自分の問題を直視できない背景にあるものはなにか?
いろいろ考えられますが「自己肯定や自己承認の渇望」が挙げられます。
自己肯定や自己承認を手っ取り早く満たすには、他者を支配するのが近道なのです。
だから、支配者になりたい人は、強さを持っていると言うよりも、逆に弱さを抱えているのが真実です。
ここに見えてくるのは、支配的関わりを好む人ほど自己肯定や自己承認が弱いというものです。
なぜ、そうなっているか?
その理由も広く考えられますが、大きなところではその人自身も、こうでありなさいと身近な信頼する人から求められてきたことです。つまり、その人自身も支配の関わりを積み重ねられたことが、無意識、無自覚に支配の関わりを子供にしてしまう連鎖を生んでいます。
つまり、「子供である自分を尊重されなかった大人」の問題が隠れています。
「子供である自分」とはなにか?
・できない存在
・失敗する存在
・未熟な存在
・不安定な存在
これが子供の本質です。
ですが、日本の子育ての既存の概念ではこれらの子供の本質の状態を受け入れることができず、「できない状態の否定」が必然的に起こります。
「ちゃんと、きちんと、しっかり」の子育てです。
◆支配と自己肯定、承認欲求
子供を自分の望む、「ちゃんと、きちんと、しっかり」の枠に当てはめることで、大人は満足を得られます。
「ちゃんと、きちんと、しっかり」を求める施設、保育者は、そこから逸脱する子をなかなか許容できません。
はなっから否定する人もいるし、うわべは尊重しているように見せてその実、心理的には許容できないということもあります。
どんなに他者に優しい人であってすら、「ちゃんと、きちんと、しっかりの型」という心のバイアスを持ってしまうと、そこに適合しない子を心理的に許容できない気持ちを持つことを避けられません。
このことは、全ての子に対してそうなのですが、特に発達上の個性や障がいを持つ子に対して顕著に表れます。
◆保育における自己承認
保育として仕事で子供に関わる立場の人は、子供を「ちゃんと、きちんと、しっかり」させることにより、自己肯定、自己承認がしやすくなります。
しかし、「いい子、できる子」だけを見ればいい立場ならまだしも、現実にはそうはなりません。すると、保育士の自我の暴走が始まってしまいます。
それが、自己肯定、自己承認のために子供を支配する保育です。
さきほど、こういった保育は容易に変わらないと述べました。
その人達に、そういった保育や自分に対する客観的な視点があれば、変えることは不可能ではありません。
適切なところに自己肯定、自己承認できる仕事の方法、つまり専門性を身につけることで、この支配から、適切な専門的関わりへと「自己承認の付け替え」が可能です。
これまでの日本の保育界は、保育士の自己承認の問題を軽視していました。
軽視していたというよりも否定していたというのが現実でしょう。
それが以前の記事でも書いたように、「福祉の精神」「奉仕の精神」「愛情を持って」などの精神論を主柱にしてきた、自己犠牲的保育のあり方です
自己承認がいけないのではないのです。僕は保育士が、その仕事において承認欲求を満たしたいという気持ちを否定しません。
これまでの保育界が、保育士が自己承認したい気持ちをないことにしてきたがゆえに、かえってゆがんだ自己承認を大きくしてしまいました。
問題なのは、「自己承認のために子供を搾取(子供に負担をかける)する状態」になってしまうことです。
だから、僕は「保育の力」を理解し身につけ、それの実践を適切にアピールすることが必要だと考えています。
◆逆の全能感
自分の担当する責任のある子達が、自分の思い通りになっている状態。
ここには、それをする人の満足感があります。
子供を思い通りにできているという「全能感」です。
この全能感は大変心地よいものです。
支配者の快感と言い換えてもいいでしょう。
しかし、この心を自ままにしてしまうと、逆のことが起こります。
それは、思い通りにならない子に対する、強い否定の感覚です。
子供を支配し、君臨してそこに満足や自己承認を得るようになると、そこから逸脱する子を、自分の感情ゆえに否定することになります。
保育の中で、オニの部屋などを作りそこで言うことを聞かない子を閉じ込めるような行動をしてしまっている人は、そういった人の心理の落とし穴に落ちてしまっていると言えます。
体罰を肯定する大人も、この心理を持っていると言っていいでしょう。
続く。
| 2019-02-20 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
体罰は続くよどこまでも - 2019.01.10 Thu
体罰と自尊心には密接な関係があります。
体罰はされればされるほど、体罰を肯定するようになる心理が生まれることにも、この自尊心が関わっています。
自身が体罰を過去に受けたことによって、体罰を否定的に感じるようになる人もいます。
しかし、一方で自身が体罰を受けたにも関わらず、体罰を肯定する、もしくは自身もそれをするようになる人もいます。
ここには、人間の心の不思議なメカニズムがあります。
通常、体罰をされるとされた人は自尊心が傷つきます。
人間の心は、傷つくとそこを修復しようとしたり、その傷が広がらないようにしようとします。
体罰を受けた際に、それをした人を否定できれば、比較的この傷をカバーする心は満たされやすいです。
この場合「あの人は間違っている、体罰はよくない」という理解に整合性が持てます。
しかし、その相手に対して強い信頼を持っており、その行為や存在を否定しにくい場合もあります。親や信頼する大人から体罰を振るわれるとき、子供はこの状態になります。
・親(教員や指導者など信頼する大人)は否定できない
・でも、体罰をされたことによる自尊心の痛みはいかんともしがたい
このジレンマの状態になったとき、心は事実を改変して思い込むことを選びます。
それにより、自尊心のダメージを最小限に抑えようとするのです。
それはこういうものになります。
・親(信頼する大人)は否定できない
・でも、体罰をされたことによる自尊心の痛みはいかんともしがたい
↓
・自分が叩かれたのは、自分に悪いところがあったからなのだ。親は自分のことを思ってやってくれている。体罰はいいこと(必要なこと)なのだ。
このように、自分の心に都合のいいように正常化する無意識の働きです。
体罰による自尊心の傷を、「体罰が必要だった」と自分に言い聞かせることで解消しようとします。
こうして、体罰を受けた人の一部は体罰肯定論者となっていきます。
これがホモソーシャル(男性的社会)の持つ文化と相まって、今日でも続いています。
ここで形成されるものは、体罰を肯定する思考の他に次のものももたらす場合があります。
・悪い自己イメージとしての自己認識の固定化
・自罰感情
不良ものの物語などでしばしば出てくる、「どうせ俺なんか」というセリフはこのふたつが端的に表れたものといえるでしょう。
「自分は悪い存在である。だから自分は不遇な状態で(罰せられて)当然だ」
こういったメンタルの獲得とそれによるこの人格形成は、反社会的行動(犯罪やモラルに反すること)へと駆り立てる傾向を強くします。
これらが子供の人格形成にプラスかそうでないかは、言うまでもないことでしょう。
いい歳をした大人でも、いまだに体罰は必要悪だなどと言う人がいます。
教員や学童の指導員などにもおります。
そういった人たちは、このような心の傷を適切に修復できず、正常化バイアスを使うことでなんとかしのいでいる内に大人になってしまった人です。カウンセリングや認知行動療法などを経て、心の傷を癒やしてもらいたいものです。責任を持って預かる子供を虐げることで自分の心を満たそうとする前に。
このような傷を持った人は、体罰肯定の同調者を増やそうとします。
同調してもらうことで、「自分がされた体罰は間違っていなかった」と自分を納得させたいからです。
そうすれば、自分が自尊心を深く傷つけられたことを直視しないで済みます。でもいくら覆い隠してもその傷はうずきます。それほどに体罰が子供に与える自尊心の傷は大きいです。
だから同調者を増やすことで、または自分が体罰をすることで自分に正しいと思い込ませ、やり過ごし、その傷に向き合って解決することを回避します。
解決しようとするのではなく回避してしまうここには、心の弱さがあります。しかし、その人が心が弱くなってしまうのは仕方がありません。なぜなら、体罰という深く自尊心を傷つけられること、深く自己を否定されることを積み重ねられたために、本質的な自己肯定ができないからです。
内面的に自己肯定ができないからこそ、外部に自己肯定できるものをくっつけずにはいられません。ここもホモソーシャルと相性がぴったりです。
腕っ節の強さや、上下の支配関係、他者へのマウンティング、お金、地位、勝負事における勝ち負け。
だから、かつての運動部の指導者など体罰論者が多かったわけです。残念なことにいまだになくなったとは言えませんが・・・。
一見、強がったり、見栄っ張りだったり、いきがったりしている男性が、しばしば本質的な心の弱さを持っていることと、こういった幼少期からの体験が無関係ではないのはそういうことなのです。
そうして、体罰はマッチポンプになります。
体罰はすればするほど、体罰を肯定する人が増えてしまうのです。
だから、「いい体罰と悪い体罰がある」といった部分肯定論を垂れ流すことは害悪になります。それを言う人たちも、自分の自尊心を守るためにそういった思考になってしまっているわけです。
これからの時代は、体罰にはきっぱりとNOと言う必要があります。
さて、一旦記事はここまでなのだけど、このままで終わると我が子をやむにやまれず叩いてしまった人が読んだ場合、自分が責められたと感じてしまう方もいるかもしれないので、別記事で補足を入れます。
| 2019-01-10 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
保育者の姿勢 vol.5 支配の連鎖を断ち切る役目 - 2018.11.22 Thu
その代わりもう少し本質的な部分について述べてしまいます。自分としては、こういうのは伝えるのが難しいことだけに書けるときに書かないと、勢いを失ってまとめきれなくなってしまうので。
さて、僕が毎週水曜日、Twitterで欠かさずチェックしているものがあります。
今週はこちら↓
モラ夫バスター⑰=「お前が悪い!」 pic.twitter.com/oaGQEoAKUB
— 大貫憲介 (@SatsukiLaw) 2018年11月20日
それがこちら。弁護士の大貫憲介さんが挙げている、モラハラ夫についての4コママンガです。
大貫弁護士によるモラハラ解説をまとめて下さっている方のモーメントはこちら。
◆
僕は保育・子育ての問題だけでなく、こういったモラハラ(モラルハラスメント)やその他のハラスメントについても強く興味を持っています。
なぜならば、それらは密接につながっているからです。
子育てにより、ハラスメントをせざるを得ない体質が作られることがあります。そうならなくても、さまざまな生きづらさ(自己肯定、自尊感情、他者との関係、心の病、社会への不適応などの問題)となることもあります。
どちらにも共通しているのは「支配」です。
ハラスメントをする人の心の核にはなにがあるでしょうか。
もちろんさまざまな側面はあるにしても、それをする人に共通してあると言えるものが、「他者支配による自己承認」です。
他者を屈服させたり、言うがままにしたり、自分の要求を守らせたり、それらをすることにより自己承認を得ようとする人がいます。(最近話題の自動車運転における危険な幅寄せや車間詰めなどもそういう側面があるでしょう)
こういった対人関係におけるある種の快感は、人間の多くが持つものでありそういった傾向がごく一部あるというくらいであればさほどの問題ではないかもしれません。
しかし、それが他者との関係の大部分に渡るようであれば、その人の人格上の障がいともなりかねません。
この状態を逆から考えれば、「他者を支配しなければ安定できない人格を持っている」ということです。
これは円満な人格形成とは言えませんね。
この人格上の傾向は、連鎖する特徴を持っています。
他者による支配を強く(程度・期間)受けた人は、他者を支配したくなる人格上の傾向を持たされることです。
学校や、部活動における体罰問題などは、この傾向を顕著に表しています。
◆
子育てにおいても、これが起こります。
自身が支配されてきた経験があると、保育や子育てで向き合う子供に対して、無意識に支配の関わりが導き出されやすくなります。
そしてこの支配には、受けた側にも自覚できてている場合もあれば、自覚できていない場合もあります。
支配とは、必ずしも攻撃的な支配ばかりとも限りません。
それには、例えば「愛情」を使った束縛などがあります。
具体的なところでは、例えばこんなケース。
・大学生の娘に父親が厳しい門限を課す。父親は娘の身が心配という気持ちや思考を持っており、それ自体は嘘ではない。嘘でないがゆえに、娘からすると「自分を思ってそのように言ってくれているのだ」という好意的な解釈をせねばならなくなり、その支配を従順に受け入れざるを得ない。
大学生なのに門限が17時とかも実際に聞いたことがあります。
支配には、このような見えにくい支配があります。
よく言われることなのでご存じの方も多いかと思いますが(テレビのCMなどでも使われていました)、「あなたのためだから」といった言葉も支配する際に便利な言葉です。
今回の大貫さんが挙げた4コママンガは、まさにその辺りがテーマになっています。
こういったことを言われたら、反発すればいいじゃないかと感じる人もいるかもしれません。
しかし、人間は不思議なもので、このようなことを言われ続けると反発できない精神状態を形成させられてしまったり、それ以上に自分自身でそのように「自分が悪い」「自分が間違っている」「自分ができないからこの人が言ってくれているのだ」「この人にダメ出しされないとなんだか落ち着かない」といった心理状態すら形成されてしまうことがあります。
こういった精神状態の形成には、その人の心が強いとか弱いといったことはあまり関係なく、どういった人であれ繰り返されることでこの精神状態になりえます。
これが幼少期で、しかも信頼している人からされるとなると、この影響はさらに強いものとなります。
子供の場合は、怒られたり注意されたりする状態の固定化があります。
怒られたり、注意されないとなんだか安心できないというような、心のあり方が形成されるケースです。
この状態にある子は、可愛がられたり、褒められたりすることで安心感や、自己肯定ができなくなり、注意や怒られることを無意識にすることで、自己の確認、また他者とのつながりの確認をするようになります。
この4コママンガで描かれる女性は、このモラハラをする人を否定・反発するどころか、辛く感じつつも依存していく状態におちいっている可能性があります。
ですから、このマンガでは被モラハラ状態にある人が、自身での気づきを得られるように構成されています。
(このマンガではモラハラする側が男性、される側が女性として描かれています。これは夫婦間のモラハラが、現実問題として圧倒的にこの図式となっているためです。なかにはモラハラをする側が女性というケースがあることも、描いている方も認識していることと思われます。また、この背景に夫婦間のモラハラに隣接する問題として、ミソジニーの問題があるためでもあります)
◆
こういった自身の支配された経験や、自身の持つ性格的な傾向は、子育てや保育に密接な影響をもたらします。
もし、保育士自身にこの傾向がある場合、もしくは全くなかったとしても、自身が働いた施設でこういった支配的な関わりを習得してしまった場合、子供を「支配すること=保育」という状態に簡単になり得ます。
これをしている人たちも、多くの人が自身のその状態に気づいてはいません。
「私は正しいことをしている」という文脈、自身への理解の上でこれを行っていくことになります。
しかし、本当のところは、他者(この場合は子供)を利用して自己承認を得ることが目的となってしまいます。
ほぼ無自覚にこれを自身に対して行っているのですが、どうにも不思議なところがあります。
無自覚であるのに、この行動からはその人自身が実はそれを自覚している側面が表れることがあります。
無自覚なのに一部分だけ自覚しているという変な状態です。
その行動とは、なにか自身の要求を他者(子供)にさせるとき、自身をその要求主体とすることを隠蔽し、第三者を引き合いにだすという傾向です。
他者を支配しようとする人は、これを無自覚にやる場合があります。
具体的には例えば、こんなケースです。
これは親子でのケースですが、何かの習い事を子供の過剰負担になるまでやらせているケース。
過剰負担になるまでさせるケースは、親の不安が強くその解消のために目に見える成果が必要になるタイプのものがひとつありますが、このケースは、親の承認欲求を満たすために子供に過剰負担をさせるケースで顕著な事例です。
この「親の承認欲求を満たすために子供に過剰負担をさせるケース」でしばしば、共通して親の言葉としてこういったものが聞かれます。
「私が望んでいるわけではないんです。子供がやりたいというのでやらせています」
この言葉は、自分が子供を使って自己の満足を求めていることを隠そうとする心理が表れています。
なぜ、こういった心理が引き起こされるか?
その人のエゴが強いといったことよりも、むしろ、その人が自己承認・自己肯定を難しいメンタルを持ちながらも、他者からの評価を強く意識しているメンタルも同時に持っているということを感じます。
この他者からの評価を意識せざるを得ないメンタルは、内発的な自己肯定が難しいということを表すので、さらに自己承認・自己肯定が難しいことの補強となり、相互につながります。
この、第三者を悪者にすることで、自身を悪者にしないという心理は、そこまでいかずとも子育てではひんぱんにでてくることではあります。
「静かにしていないとお店の人に怒られるよ」
「言うことを聞かないとオバケが来るよ」
この「~~させるために、○○を出す」の、この○○部分は、オニなり、あそこのおじさん、お父さん、お巡りさんなどさまざまなバリエーションがありますが、どれも「私」自身の心情を隠して子供に要求しています。
この子育て上の関わりは、あまりいいものではありません。なぜなら大人と子供間の信頼関係を低下させていくからです。(詳細は割愛)
この要求が強いものは、簡単に支配となります。
なので前回のところで挙げた、「食べないと調理さんが悲しむ」「お野菜が悲しむ」という保育者の関わり方にも、第三者を持ち出し自身の意図を隠そうと子供にも自己にもしていることで、それを言う当人が「私は子供を支配していない」「子供を自己承認に利用していない」という気持ちとは裏腹に、むしろ端的に自身の心がそれを望んでいることを吐露してしまっています。
◆
こういった保育者のネガティブなあり方について述べても、正直なところ多くの人に嫌われるばかりで、僕自身にあまりメリットはありません。
でも、僕が保育についてこのように言いにくいことも述べていくのは、せっかく保育の仕事を目指してくれた人たちに、保育の仕事を通して無理のない自己実現をしてもらいたいと考えているからです。
支配の保育を強めていくことで、自己承認・自己肯定を続けていく人も大勢います。
それで一見、満足した人生を歩んでいるように見える人もいます。
しかし、その人がなにか欠乏感から逃れられない思いを感じていることは、その人自身が一番よくわかっていることでしょう。
子供へ支配の保育を続けてきた人が、園長・主任となって今度は職員にモラハラをして支配していくなどというケースが保育界ではゴロゴロ見られます。
これは、その人自身にも、周囲の人にも、保育で預かる子供にも、その人自身の家族関係においてもだれも得をしません。
職場でモラハラをする人の多くが、家庭での家族関係が安定的なものになっていません。
他者支配によって自身の心を維持するメンタリティの形成は、誰のためにもならないのです。
だからこそ、保育における自身の姿勢を研鑽していく上で、自身の人生の幸せにつなげて欲しいと僕は心から思っています。
そして同時に、この世間に蔓延している負の連鎖を断ち切る役目を担っているのは、保育士こそであると考えています。
| 2018-11-22 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
保育者の姿勢 vol.4 なにが支配なのか? - 2018.11.20 Tue
姿勢の問題を浮かび上がらせるために、方法論や具体的なアプローチに触れています。
しかし、読む人によってはまったく別の問題に直面してしまう人がいます。
それは、保育における自己承認・承認欲求・自己同一化のテーマです。
保育の問題であまりこれについて取り上げる人は多くないですが、僕は現場の保育を考える上で、これらは避けて通れないことだと感じています。(すでに過去記事でも取り上げています)
自己承認すること、自己の承認欲求を満たすことは少しも悪いことではありません。
職業上の自己同一化も、仕事をしていく上で欠かせないことです。
これが例えば、なにか製品を作って販売する仕事だとしたら、良いものを企画してそれがユーザーから良い評価をされ、たくさん売れたといったとき、それらが満たされることでしょう。
保育ではどうでしょうか?
保育の場合は、
○クライアント(子供、保護者)の利益 : 保育者の自己承認、自己同一化
×クライアントの不利益 : 保育者の自己承認、自己同一化
当然ながら前者でなければなりません。
しかし、保育の現場では後者のことが起こり、しかもしている当事者はそれに気づかないまま常態化するといったことが起こりえます。
簡単に自己承認できるのは、子供を自分の思い通りにしたときです。つまり支配。
・座りなさい
・静かに待ちなさい
・話を聴きなさい
・残さず食べなさい
・挨拶しなさい
・謝りなさい
(命令形で書いてあるが、優しい言い回しでも同様)
※他には、行事の立派さや制作物の立派さも自己承認のより所となり得る
こういったことをさせることが正しいと考えて、それを子供にさせれば、簡単に自己承認を得ることができます。周囲の保育士も同様のスタンスであれば、自己承認のみならず周囲からの賞賛、尊敬すら得られるでしょう。
しかし、それが子供の本質的な成長や心の形成に寄与していなければ、専門的な仕事とは言えません。
子供を威圧して大人の要求に従順にすることが上手な保育士、しかし一方で子供はその負荷からのゴネやダダを保護者が迎えに来たときや家庭に帰って出させるようなケース。これは本来、子育ての専門性を用いて子供や保護者の利益としなければならない立場である保育士がその逆をしています。
こういったものは、強い支配なのである程度客観的に見る視点を持てればまだわかりますが、優しい支配は見えにくいです。
このようなことは保育指針では書かれていませんし、保育士養成学校でも教えるところはまずないでしょう。
気がつかないままそれを使い、それが当たり前の保育なのだと思っていたり、長年それを保育現場でしてきている人も大変多いです。
それに自信を持ってきており、そこで自己承認、保育の仕事の自己同一化をその上に成り立たせている人がこの指摘を受けると、
「自分の仕事を否定された」 → 「自分の存在を否定された」
と感情的に取ってしまう人もいるでしょう。
(これを僕は「保育スキルの属人化の問題」として考えています。これについてもまたいつか)
この一連の記事は、方々で紹介してくれている人もいるので、この記事だけ読んだ人でそういう取り方になってしまう人が増えるのもなおさらかもしれません。
以前の記事から読んでいる人はご存じかと思いますが、僕は保育士個人を責めようとはしていませんし、だからこそどういった対応を取ればいいのかを理念的にも具体的にも複数の記事で書いてきています。(それらを体系立ててブロマガなどで有料化してもいいかもしれませんが、これまで全て無料で公開しています。なので具体策や周辺の理念を知りたい方は、過去記事を調べてみて下さい)
人は、自身のより所となるものを否定されたと思うと怒りや感情的な反発がわくものです。
そこまでいかずとも、自己防衛に感情が動きます。
僕は別に責めているわけではありませんが、不特定多数の人が読める媒体である以上、そう取る人がいたところでそれは仕方のないことでしょう。
僕自身もかつて、子供を自分の望む姿・正しい姿に近づけることや「しつけ」をすることが保育だと考えていました。
それが正しいことと先入観で思っているがゆえに、それが支配であるかどうかなど気づく視点すら持てません。
おそらく少なからぬ保育士が、そこを通ってくるでしょう。
では、みながそこを乗り越えられるかと言えば、そうではありません。
むしろ、そのまま定年退職に達するまでも続ける人も多いです。
・周囲の同僚の保育から自然と支配でない保育を身につけられた
・その人の元々のパーソナリティやセンスから自然と支配の保育を脱することができた
・先輩などの明確な指導により、支配でない保育を身につけられた
・自身の学習や研鑽から身につけられた
逆もあります
・子供の支配こそ適切な保育であると考え、自信を深めていく
・属する施設が支配の保育を推し進めており、そのままその保育をしていく
・そもそも子供の支配をしたくて保育士になっている(自身のパーソナリティが支配を志向している)
◆保育と自己承認
保育の仕事をする上で、どこに自己承認を得ればいいのかというのは実はとても大きな問題です。
実際には、保育の理念や理論や方針、方法論などよりも、保育の質にダイレクトに影響するのは、保育士たちのこの問題です。
だから、僕は不適切な場所(クライアントの不利益)から、適切な場所(クライアントの利益)へと保育士の自己承認を付け替える、もしくは意図的に認識することが必要であると思っています。
(これを主要なテーマとしたものは、また別の機会にまとめられれば)
これを克服するのに重要なポイントは、まず自身のそれに気づけるか気づけないかです。
その状態を自己防衛して「私は支配なんかしていない」「私は子供を自身の満足のために利用していない」と思いたければ思い続けることができます。
だれもそれを強制することなどできません。
なにも感情論や情緒論に持ち込んで僕の口を塞ごうという面倒なことをする必要もありません。
「保育は人対人」というのであれば、だからこそ保育の専門家として保育者自身の姿勢、心情も自己検証していく客観性を持たなければならないのです。
◆言葉と姿勢
・「残しちゃうと給食の先生が悲しむかも」
・「食べてくれなきゃお野菜きっと泣いちゃうよ」
これらの言葉の構造を見ると「否定」の論法になっています。
しかも、感情とモラル(正しさ)から反論や例外の余地を持たせない構造になっているので、結構強い否定とすら言えます。
・残したら他者を悲しませること
・残すことはお野菜が泣くこと(子供が感じている本音はそんなファンタジックな理解ではなく、この人がそれを望んでいないということを敏感に察知している)
そういわれて食べることができ、なおかつそこに達成感を感じられた子にとっては最終的にその保育者から向けられた否定のニュアンスはプラマイゼロになるかもしれませんが、それができない子、またはできたとしても達成感を感じられなかった子(大人がいうからしぶしぶ食べた。否定されるのが辛いので頑張った、など)には、否定のニュアンスで関わられた事実が残ります。
こういった方法を多くの保育士が悪意なく使うのは知っています。だから個々の保育者を責めているわけではありません。
そういう方法は、日本のスタンダードな子育て法である「しつけ」が導きだし、一般にも多用され、おそらく保育者自身もそれをされて育っているからです。
なぜ、否定の論法が多用されるか?
そこには「正しい姿にしなければならない」「正しい姿にすることが子育て」といった先入観が根強くあるからです。
また、そこにプレッシャーがともなうので、強い関わり方である「否定」の方向のアプローチが自然と導き出されます。
保育者は、ここを客観視する視点を持てなければ、「無自覚さ」におちいります。
「優しい支配」は、この無自覚さのひとつです。
◆問題は言葉そのものではない
さて、では言葉を考えたとき、否定の逆のニュアンスを使うこともできます。
・「今日のご飯おいしかったって伝えたら調理の○○さん喜んでくれるかな」
・「あなたに食べてもらえたらお野菜喜ぶね」
こちらの方が、先に述べた否定の構造の言葉よりは支配の関わりは弱まっています。
しかし、言葉にその構造は見えずとも、保育者の姿勢、ニュアンスに「子供の(ネガティブと見える)現状に対する否定」「こうあるべしという保育者の願望の投影」がまったくないかと言えば、どうでしょう?
ここからわかることは、「こう言えばOK」という言い方の問題ではないということです。
「え~、そんなに残したら私嫌よ~」
と直接的な否定の言い方をしたとしてすら、その保育者の姿勢、心情のあり方しだいでは、少しもその子への否定・支配にならない関係を維持することも可能です。
キーは、姿勢・心情、信頼関係、自主性・主体性です。
その一方で、肯定の文法を使って明るく優しく「わ~、○○ちゃんが食べてくれたからほうれん草さん喜んでいるね~。○○ちゃんすごいね~」と言ったとしても、保育者の姿勢、心情によっては子供は敏感に支配やコントロールされていることに気がつきます。
だから、僕はこの一連の記事でタイトル通り、「保育者の姿勢」を訴えています。
「待つ」専門性はとても難しい、それを理解できるためには「信じる」専門性が獲得できている必要があるとも本文中に書いていますね。
「信じる」とはa,発達の理解 b,成長への理解 c,経験からの考察 から成り立つとさらに細かく説明もしています。
子供への関わりのなにが支配で、なにがそうではないかというところで悩む方は、言葉の問題と思う前に、このa,発達の理解 b,成長への理解 c,経験からの考察について知識を吸収し、それを実際の子供の姿や、自身のこれまでの経験と照らし合わせて考えるといいでしょう。
知識の吸収の方法は、手近なところでは保育所保育指針の各年齢ごとの発達段階を読み、それと実際の子供の姿と照らし合わせることで基礎的な視点が養えていくでしょう。
指針には繰り返し書かれていますが念のため言うと、それら発達の姿は「できなければならない姿」ではなく、あくまで「発達の目安」ですので、これらができるように保育者が求められていると理解する必要はありません。そう考えてしまうと、保育士、施設はどうしても支配的な保育になってしまいます。
指針には「○○できなければならない」というところは原則としてひとつもないはずです。
だから、保育者は子供を支配してまでそれを達成させる必要はないのです。
「○○できることは正しいこと」といった規範意識の強さは、自身に対して抑制的である方が保育者としては望ましいです。これはその保育者のパーソナリティや生育歴などに影響されますが、自身のそれを否定しなさいということではなく自覚的になっておくことで対応します。
これをすることで、ネガティブな姿が多発している子を許容的、肯定的に見る余地を大きくとることができます。
そうでないと保育が適切不適切以前に、自身の仕事におけるストレスが非常に高まり、保育の仕事における充実感を得ることが困難になってしまいます。結果的にそれゆえに、さらに子供への無意識の支配へと駆り立てられてしまいます。
この「保育者の姿勢と子供の成長発達の因果関係」を文章で伝えるのは難しいです。
ましてやそれまで子供への干渉を重ねて正しい姿を作ることを保育としてやってきた人であればあるほど、それを理解してもらうことは難しくなるかもしれません。
一番いいのは、一緒に保育をして支配や干渉を少しもしていないのに子供が成長していく姿を目の当たりにしてもらうことです。
しかし、これを目の前でやったとしても、保育の仕事における自己同一化の問題をネックとしてその人の内に抱えている人は、「それはたまたま」とか「あの保育者は特別」といった正常化バイアスによって、自ら認識を拒否する人がいることも知っています。そういった人たちもたくさん見てきました。
結局のところ、僕の立場からそれを強制することはできません。それを変えるも続けるも自分次第です。
もし、自身のその問題と向き合いたいという明確な意図があるのであれば、僕のホームページから保育士カウンセリングも設けていますので、申し込んでいただければなんらかのサポートをすることはできます。(内容は子育て相談に準じますので、メール、対面、電話などで可能です。ただ内容が込み入ったことになるのでメールよりも対面や電話を強く推奨します)
また、対面の保育士カウンセリングは、特別に保育についての小さな学習会として使うこともできるように設定しています。これは3名まで同一料金で承っています。興味のある方はお問い合わせ下さい。
保育士おとーちゃんホームページ
| 2018-11-20 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
保育者の姿勢 vol.3 「待つ」 - 2018.11.16 Fri
『1歳児が離乳食を詰まらせ意識不明に 広島の市立保育所』(朝日新聞)
このケースなどは、保育士が「食べさせなければならない」という思いから、眠くなっている子供に食べさせようとしたために起こった事故です。
「○○できる」子供の姿を保育者の過干渉で作っても、それは保育ではなく単なる保育者の自己満足にすぎないこと。
「子供の発達・成長を理解しそれを信じる」専門性を獲得していたら、無理矢理食べさせることも、無理矢理挨拶させることも、無理矢理ごめんなさいを言わせることも必要のないのだとわかります。
小学校などでは、給食の完食運動などをしているところもあるようです。
僕はそういうのを聞くと、職場の空気として学校の先生はなにか目に見える成果を上げることを要求されていはしないか、自己の承認欲求を満たすことと子供への教育の境目に気がつけているのかどうか、子供の個性や多様性を理解しているのかなど心配になります。
こういった画一的なものごとを多様な子供たちに求めるというあり方自体が、明らかに時代遅れになっているといえるでしょう。
そこに気がついてくれればいいのだけど、どうも学校の様子を見ているとそれに逆行しているようにすら見えます。
さて、前回を踏まえて3つめの「待つ」を見ていきましょう。
3,待つ
「待つ」は、「信じる」が獲得されていないと適切には行えません。
子供の発達、成長への理解がありそれらを踏まえていない人が頑張って待ったとしても、「イライラしながら待つ」「やきもきしながら待つ」「不満げに待つ」「我慢して待つ」になってしまいます。
「本当は○○させたい、でも待つことが大事らしいから待たなければ」といったスタンスでは、大人からかもし出される許容的でない態度、否定的な態度を子供は感じます。(これを防ぐためには、「私はそれは嫌よ」「困る」といった正直な感情を吐露する「自己開示」が有効。気になる方は過去記事を検索して下さい)
・この子はこれこれの発達段階を経てその後にその行為ができるようになる(発達の理解)
・この子の成長の姿からは、この行為ができることを強く求めなくてもいい(成長への理解)
こういった点を踏まえていれば、目の前の行為ができなかったとしても、保育者はそれに振り回されることなく待つことができます。
だから、「待つ」が専門性たり得るには、これらの理解とそこからの子供の成長を信じられることが必要です。
◆優しく言っても過干渉
待てなければ過干渉になります。
「ああしなさい、こうしなさい」と言いたくなります。
現状の保育施設で多く見かけるのが、「優しい過干渉」です。
「子供のためを思って」「子供の成長を考えて」「子供の安全のために」などなど、保育者自身としては職業的な意識から善意で過干渉になります。叱ったり怒ったりの言い方はよろしくないことは理解しているので、優しい言い方、婉曲な言い方をする人も多いです。
しかし、優しく言っても過干渉は過干渉です。
「Aちゃんは痛がっているな~。ごめんなさいしてほしそうだな~」とBちゃんに優しく謝ることをうながしたとしても、過干渉であること、子供の自発的な行動を待てていないことに少しの違いもありません。
こういった婉曲表現を使えば、優しい保育なのだと勘違いしている保育者も多いので気をつけてほしいところです。
◆過干渉は支配の関わり
過干渉は、「子供を私の思う通りの行動を取らせたい」という支配に他ならないのです。
体罰を使うのも、くどくど言うのも、強く厳しく言おうと、優しく言おうと遠回しに言おうと、他者と比べる言い方で言おうと、子供に対しての支配になっています。
そして子供は、どんな言い方であろうともそれが大人から自分への支配であることを感じ取ります。
これがたくさんになると、支配の負荷が蓄積して子供のネガティブな姿が出ます。
また、保育者への信頼感の低下から保育者の意に染まない行動も増えます。
子供を支配してしまう保育者は、もし子供にそういった姿がでても、それを自分が引き起こしていることには気づけません。
「子供とはそういうものだから」「この子はそういう子だから」「どうせこの子はできないのだから」「この子は幼いから」「この子は家で甘やかされているから」といった理由付けで子供を低く決めつけていきかねません。
待つというのは、保育の専門性の中でももっとも難しいことだと言えます。
待つのは、結果を求めないことであり、従ってそこにおける保育者の自己承認も簡単ではなくなります。
子供の本質的な成長よりも、自己の承認欲求を満たす行為を優先させる人は多いです。それは無理からぬことです。
子供の成長は、周りの大人だけでどうにもならない部分があります。
時間的成長はそれの最たるものです。
環境による成長もそうです。
これらの力を十分に理解した上で、待つことはまさに専門性のもっとも奥深くにあると言っても過言ではないでしょう。
◆支配しない関わり
待つのは、同時に「支配しないこと」でもあります。
子供を支配するのは簡単です。
・「野菜も食べないとデザートないよ」
こう言えば、子供に野菜を食べさせることはできるかもしれません。
・「野菜食べなければ、赤ちゃん組にいきなさい」
・「ほら、隣のAちゃんはお野菜たべているよ、えらいね~あなたはどうかな?」
・「お野菜食べたらお外で遊べるよ」
・「野菜食べないとオバケが来るよ」
・「野菜食べないとお父さんに叱られるよ」
・「残したら給食作ってくれた人、悲しむだろうな~」
・食べない子を叩く
・食べない子を部屋から出す
・そんなんだからあなたは大きくなれないのだとけなす
これらのどれを使っても子供に苦手なものを食べさせることができるでしょう。
しかし、どれも結局子供を大人の思い通りにしようという支配の関わりです。
叩いたり自尊心を傷つける行為はすべきでないですが、こういった関わりが一般の家庭の子育てで出る分には、ある面では仕方のないことです。子供への関わりの経験や、子供への関わり方の知識が十分ではない場合が普通にあるからです。
しかし、保育者は違います。専門的な対応がとれず、一般の人がするやむを得ない手段を保育として使うのであれば有資格者である意味がありません。
◆最大限の配慮をして待つ
では、どういった対応を保育者はとればいいのでしょう?
食事の例で考えれば、
「いつか食べられるようになるのだから、ただやみくもに信じて待つ」
と取ってしまえば、極端なところでは単なる無関心、放置になってしまうでしょう。
それもやはり専門的な対応とは言えません。
では、そこで保育者が取るべきは、
「子供への支配的な関わりではなく、自主的・主体的な成長が得られるよう必要な配慮をした上で待つ」
ことになります。
●なぜこの子は食事が食べられないのだろう?(配慮の視点)
(以下、考察例各種)
・個性ゆえに食が細い
・個性ゆえの偏食がある
・集中力が続かない
・食への経験不足から、苦手なものが多い
・ミルクへの依存が強く離乳食への関心が低い
・保育環境に不安を感じている
・職員との間に信頼関係が築けていない
●この子の発達状況や個性からして、どのくらいの食事量が適正だろう?
・食事量よりも本児の意欲を重視して食べきれる量で盛りつけるようにした
●食事の環境は安定的に整っているか?
・本児が安心して食事に向き合えるよう、食事の席を変えてみた
・意欲を重視して、スプーンで食べることを求めず自由に手づかみ食べを許容した
(↑これらはごくごく一部。配慮は子供の数だけある)
このような配慮をします。その上で保育者との信頼関係を維持し待つことで、子供の自主的な成長を目にすることができます。
子供は、自主的な成長を遂げたとき最大の達成感を得ることでしょう。
そのとき、保育者も単なる自己満足ではない、子供の成長への喜び・共感を感じられます。
◆否定でも肯定でもない態度で待つ
この配慮から待つ過程の保育者の姿勢・心情は「否定でも肯定でもない態度」だと僕は考えています。
・否定の態度 「食べて欲しいのに、どうしてこの子は食べないのか」
・肯定の態度 「この子はこういう子だから食べないものなのだ」
保育者が否定の態度を持っていれば、それをどんなに「子供への愛情」といった情緒論やスローガンでくるもうとも、否定的な態度がかもし出され子供は敏感に感じます。
かといって、「この子はそういう子なのよね」とか「食べなられない子で可哀想」といった子供への低い決めつけや心の過保護をして、保育者が積極的にその状態を肯定してしまえば、子供は成長への意欲を足踏みさせてしまいます。
だから保育者は、そのどちらでもないニュートラルな態度を持って子供に関わっていくといいでしょう。
別の角度から言うと、
・「ああ、(この子の成長の形は)そうなんだな」と受け止め
・「この子のいまの成長の姿はこれこれこういう姿だ」と過渡期としての姿を認め
・「いずれこういう姿を経て食べられるようになっていくだろう」と成長の目標を見すえます
僕はこれを「過渡期としてみる態度」と呼んでいます。
この態度を習得することで、成長がポジティブな状態になっていない子であっても否定的な心情で接することを防げるようになります。
「○○できる姿にしなければならない」
と、こういう心情を持っている人は、これが防げません。
なので、保育者が子供を見るとき、「この子は○○ができていない」と子供をある種の欠如体ととらえるのではなく、過渡期としての存在とみる訓練をしておくといいでしょう。
こういったことがあって、「待つ」専門性が形成されます。
またの機会に、これら待つが必要なさまざまな場面を見てみたいと思います。
| 2018-11-16 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
保育者の姿勢 vol.2 「信じる」 - 2018.11.14 Wed
vol.1からの続きです。
2,信じる
「信じる」とはなんでしょう?
子育ては、しばしば感情論・情緒論に引き込まれます。
一般の人が自分でそう思う分や、一般の人向けのエンパワーメントの言葉としてならば、感情論・情緒論でもいいかもしれません。
しかし、専門性あるプロの仕事の信条にそれを持ってきてしまうのは、専門性の放棄に等しいことだと僕は考えます。
「子供を信じる」ということで関して言えば、例えば「子供は天才」「子供は可能性のかたまり」といった情緒的な言葉があります。
一般の人がこういうフレーズを使って、子供や子育てが素晴らしいものだと思うのは少しも構わないことです。
しかし、プロがそういったことを仕事のバックボーンに置くのはあやういことです。
プロがプロに対して使うとき、これらの言葉は、
「子供は天才(だと信じなさい)」
「子供は可能性のかたまり(だと信じなさい)」
になっています。
言いたいことはわかります。
保育の仕事をする人の中にも、子供の能力を低く決めつける人がいます。
そういった人たちに対しての対概念として、こういったスローガンでそのような低い決めつけを防ごうというのでしょう。
そのような意図はわかるのだけど保育の専門性の観点から見たら、そういった不適切な子供への見方に対して感情論・情緒論で対抗しても専門性は深まらないのです。
しかし、現場レベルでの保育界がこの何十年とやってきたのはそれです。
論理性よりも感情論を重んじてきています。
この観点を持って保育士のフォーラムなどを見れば、そういった人がとても多いのがわかると思います。
もし、この子供への低い決めつけに対しようとするならば、感情論に持ち込むのではなく、「子供の尊重」や「子供観」の概念の理解や、子供の発達についての学びで補完していくべきことだと僕は考えています。
さて、前置きが長くなってしまったのは、ここでの僕が述べる「信じる」がそういった感情論としての「子供を信じなさい」というスローガンではないことを理解して欲しかったからです。
では、保育者の姿勢としての「子供を信じる」ということはどういうことなのでしょう。以下に述べていきます。
a,発達の理解
b,成長への理解
c,経験からの考察
これらの専門的な知見の上に、「信じる」は成り立ちます。
a,発達の理解
少し具体的に見てみましょう。
例えば、「もう2歳なんだからオムツは外して下さい」と保育士が言ったとしたら、それは専門的な言葉でしょうか?
この保育士は、オムツを外す理由を「2歳だから」を根拠としています。
しかも「もう」という主観が入っています。つまり、その人は「2歳なのにオムツをしていることが気に入らない」という心情を持っています。
子供は2歳になったら誰でも排泄が自立するわけではありません。
これは個々の発達への理解を持っていれば簡単にわかることです。
この保育士は、子供の発達についての専門的な理解ではなく、世間一般に流布する「オムツは2歳までに外すべき」といった価値観からの主観を重視して述べているというわけです。
ここからわかるのは、保育者はまず子供の心身の発達についての知識を持っていることが前提で、それを個々の子供に当てはめて考えられる専門性が必要ということです。
これがa,発達の理解です。
b,成長への理解
僕は成長についての理解をうながすとき、冗談半分に次のように言うことがあります。
「こんなことを言うと笑うかもしれないけど、すごく極端に言えばこの子が20歳になったときにオムツはいていると思う?」
これまで、これで「20歳でもオムツしていると思う」と言った人は一人もいません。
実は、これが成長に関するもっともピュアな理解です。
時間的なものだけで子供が成長することを、誰しもが頭では理解しています。
しかし、個々の子供に向き合う段になると、その理解がどこかへ行ってしまいます。
そうなると、結果的に過保護・過干渉に大人はなってしまいます。
また、同時に子供の姿に焦ったり、不安になったりして、子供からすると肯定的・許容的でない態度・姿勢が大人からかもし出されているのを感じることになります。
その態度から、かえって子供は成長を足踏みさせられてしまうこともあります。
上の例で出した保育士には、a,の発達の理解だけでなく、この「子供が時間的な変化でどうなっていくか」という成長への理解も欠けていたことがわかります。
ゆえに、子供の成長についての適切な理解が保育者には必要です。
c,経験からの考察
しばしば、子育てをしている人が「一人目の子供の時はとても気を遣ってほ乳瓶消毒したりしてたけど、二人目からはそんな神経質にしなくなった」といった話を聴きます。
これはつまり、経験からどこまでが必要でどこからが必要ではないという理解を得たということでしょう。
これは当然のことですね。
保育士は、このような理解を子供のさまざまな年齢、場面にわたって広汎な経験から得ていきます。
直接の経験だけでなく、事例研究や、情報収集、研修などから子供に関する知識を得ることで、それは一般の人に倍する知見となっていくでしょう。
しごく順調に成長していたと思っていた子の成長が、あるときから後戻りしたり。
あまりに成長がゆっくりだと思っていた子が、あるときからいちじるしく伸びて他の子の成長に追いついたり。などなど。
このように積み重ねられた経験と照らし合わせて、いま直面している子供の成長を客観的に見る視点を養うことができます。
これらの知見を積み重ねることで、a,発達の理解、b,成長への理解もより深まっていきます。
「もう2歳なんだからオムツは外して下さい」と言った保育士だって、1歳になったばかりでオムツが取れてしまった子も、3歳までオムツをしていた子も見ていたはずです。
この経験からの考察を適切に蓄積させることができていたら、「もう2歳なんだから」という見解からは卒業できていたことでしょう。
◆子供の発達・成長を理解しそれを信じられる保育者
さて、今回のテーマは「信じる」という保育者の姿勢についてでした。
この「信じる」姿勢は、これら
a,発達の理解
b,成長への理解
c,経験からの考察
の上に、個々の子供の成長や力を「理解し信じている」ということです。
この「信じる」姿勢を獲得している保育者は、「私はこの子の成長を信じています!」と熱く感情的に前のめりになった姿ではなく、おそらくどこか望洋としておおらかであっけらかんとした姿になっていることでしょう。
保育者の話ではなく学校の先生の話ですが、だいぶ古い本ですがベストセラーとなったので名前くらいご存じの方も多いかと思います、黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』という本があります。この中で描かれるトモエ学園の小林先生の姿が、まさにこの信じるという姿勢が結実している姿です。
子供の短期的な姿を作り出すことは、実は比較的簡単です。
しかし、子供を伸ばすことは難しいです。子供を伸ばすためには、この「信じる」ことがその人に具現化していなければできないからです。
この本が出た当時は、発達障がいといった言葉はなかった頃です。むしろ、今あらためて読むとあらためていろいろとわかることがあるようです。
| 2018-11-14 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
保育者の姿勢 vol.1 - 2018.11.02 Fri
1,見守る
2,信じる
3,待つ
これら相互につながり合い重なり合っています。
◆見守る
保育において見守るという言葉はありきたりだけれども、それにもいろいろな「見守る」があります。
・子供に危険がないように見ている
・子供がいけないこと、あぶないことをしないように監視している
・トラブルが起こったときにすかさず介入しようと思ってみている
・子供がかわいいと思って見ている
・楽しそうにニコニコ見ている
・子供の行動を観察している
・日誌や、連絡帳に書くネタを探して見ている
・子供の発達段階を踏まえて活動を見ている
・個々の子を見ている
・集団全体を見ている
・視界に入れているだけで見ていない
ざっと挙げただけでもこういった見守る、もしくは見るがあります。
なかには明らかに不適切なものもありますが、僕はこのどれでも、またそれが複数でも保育の専門性の上では足りないと考えています。
こちら↓の記事でも触れていますが、
事例で見る難しい子の対応 vol.1 「肯定不足」
信頼する保育者の見守りによって、子供に安心感、肯定感をもたらします。
「私がいるからここは安全だよ。あなたは安心して過ごしていいよ。ここはあなたの居場所だよ。どんなあなたであっても私は受け止めるよ」
保育で子供に関わるとき、それは見守りの連続です。
そうした日々の絶えざる見守りを通して、常にこのメッセージを子供たちに送り(贈り)ます。
だから、僕は「見守りはプレゼント」、もしくは「プレゼントとしての見守り」と保育をする人に伝えています。
だから、見守ることが「活動」や「仕事」とは別の意味で、保育者の「姿勢」と言えるのです。
つづく。
明日はまざるテラスでのシンポジウムです。
僕は、これからの子育て支援について語ろうと思っています。
| 2018-11-02 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
なぜ自己責任と言わないか? - 2018.10.28 Sun
その話題を叩き台として、そこから導かれる別のなにかを主題としています。
最近起こった無認可園での死亡事故でも、目黒の5歳児虐待死事件についてでも語ったのは無認可園のあり方や研修制度、行政の責任、虐待をなくすための視点の部分でした。
今回、「それでもやはり危険地帯に行くべきではなかったのではないか?自己責任なのではないか?」という事件そのものについての質問のコメントがありました。
僕もわかりにくいものの書き方をしているので、そういった反応も当然のものだなと思います。
思えば、以前あった大津のいじめ事件について書いたときも同様の流れになりました。
そのときはいじめ事件を叩き台として、その背景やそれらを取り巻く学校のあり方といったものへの問題提起の部分を主題にしたのだけど、「やはり許せない」という感情的にいじめ事件そのものについてのコメントがたくさん寄せられました。
今回僕が主題にしたものは、まさにそういった突き動かされてしまう感情のあり方そのものが、自身の生育歴を背景として「作られたもの」かもしれないという示唆でした。
せっかくコメントをいただいたので、もう少し掘り下げてみましょう。
1,ジャーナリズムのあり方として
安田さん救出そのものについて少しだけ述べるとすればこの部分です。
この部分は、僕よりもはるかに知見を持った方がおりますし、すでに多くの人がさまざまに述べていますので、僕があまり語るまでもないかなと思います。
このお二人のツイートがそのあたりを端的に表しているかと。
僕も色んな国に好きで行くので、しかも政治やビジネスに関して好きな事言うので、このまま拘束されたりしたら、ホンマにヤバいかもっていつも思ってます。ダルビッシュさん夫婦がいればもっとガツガツいけそうです。 https://t.co/kjwt7XbSM8
— KeisukeHonda(本田圭佑) (@kskgroup2017) 2018年10月26日
ダルビッシュさんは、ジャーナリズムのあり方の本質につながる部分を述べていて、本田さんは他者の状況を自己に置き換える想像力を働かせた客観的に考える視点でこの問題をとらえています。
ジャーナリズムのあり方として、ジャーナリストが危険を冒してものを報じなくなったら、さまざまな問題はそのまま放置されるということです。
ヴェトナム戦争しかり、セルビア戦争しかり、たくさんの報道がなされたから世界的な世論が動いて、停戦や休戦、物資援助や支援が行われてきたのを現代社会ではリアルタイムで見てきました。(逆に考えると、報道されないがゆえに命の危険があってすら助けられていない人たちも多くいる)
戦争以外でも、暴力団の潜入ルポを書いた人などがいたことを背景として、暴力団規制法などが整備されたりといったことがあります。
なので、そもそも一般の人が物見遊山で行くのと今回の問題は同列に考えられない点があります。
この問題そのものについてはこれくらいでいいでしょう。
僕が主題としたいのは、そういった問題に怒りや感情の動きを感じてしまう人間そのもののあり方です。それらを以下に述べていきます。
2,成熟した態度
医師や救急隊、救助隊といった人たちは、たとえどんなにとんでもないほど馬鹿げたことでその原因を作った人に対してすら、「それは自己責任だから勝手に苦しみなさい」とはいいません。
助けたあとで、再びそのようなことをしないよう諭すことはあったとしても、「助けてもらったのだから感謝しろ」とか、「助けてもらった分際で大きな態度をするな」といったことはしません。
なぜならその人達(もしくは業界全体)は、そういった感情的な対応をしないだけの成熟した大人としての態度を訓練しているからです。
ここからわかるのは、命のかかった問題に関しては、たとえどんなに馬鹿げている原因だと思ってすら、最善を尽くしてまずは救う、救った後それを感情的に非難しないという社会が持つべき大人の態度です。
3,「被害者非難」論法の危険性
上の2で述べたことは、全ての人が生きやすい社会を作るために必要なことでもあります。
個人の失敗に際して、それがその人のミステイクだからと責めたり、もっとあからさまに攻撃することがなんのてらいも無く行われる社会になってしまうと大変生きにくい社会が出来上がります。
モラハラ、パワハラ、セクハラなどのハラスメント行為が平然と行われることになるでしょう。
「モラハラ、パワハラはわかるけれどなんでセクハラまで?」と思う人がいるかもしれません。
セクハラをする人の理屈として、「される方に原因がある」という被害に遭う側の個人に責任を負わせる論理が一般的となっていて、実際にこれを支持する人が現に多数いるからです。
警察官の中にすらそれをする人がいるので、被害にあっても泣き寝入りさせられてしまう人が数多くいます。
例えば、痴漢の加害に対して「そんな肌を露出している方が悪い」という主張や周囲の弁護が普通になされています。
レイプなどにも、加害男性が「男性と1対1で酒席に来たのだからその気があると思った。自分のしたことは同意のものとだ」といった主張が平然となされています。
いじめの問題もそうです。
いじめの問題が出ると、「いじめられる側にも原因がある」というのが、日本では大変人気のあるもっともらしい主張としてまかり通ります。これではいじめが無くなるわけがありません。
今回の事件に対する「自己責任論」は「被害に遭う方が悪い」という理屈です。
それは、こういったハラスメントをする側の理屈とぴったり一致するのです。
ゆえに、いまの世の人が揺り動かされているような「自己責任論」を広めてしまうことはまわりまわって、自分や我が子、孫までもが生きにくい社会にすることにつながってしまいます。
4,社会の冗長性
フィンランドには「失敗の日」というものがあります。
【失敗の日】失敗を自慢しよう!フィンランド発祥の記念日(KettiNotes)
https://kettinotes.com/day-for-failure/
そういった文化を背景として、こういった社会が実現しています。
世界の起業家がフィンランドに向かうべき理由(addlight journal)
https://journal.addlight.co.jp/archives/trendnotecamp16/
お隣スウェーデンには『失敗博物館』があります。
スウェーデン発「失敗博物館」館長が語る、失敗の重要性(INNOVATION HUB)
https://innovation.mufg.jp/detail/id=184
この記事の末尾にはこうあります。
「日本を含め世界総じて成功崇拝の呪縛にあり、失敗からの学びが足りないということ。人工知能、ブロックチェーン、スーパーコンピュータなど技術的インフラが整いつつあるいま、そこからさらなるイノベーションを起こし飛躍するには、いま一度「失敗」を見つめなおすことが必要なのだろう。」
特に読んでいただきたい記事はこちら。↓
フィンランドの小学校の性教育の授業で出た「宿題」がナナメ上過ぎた。(ハフポスト)
https://www.huffingtonpost.jp/2018/10/09/finland-school-education_a_23555043/
■高い起業率「10回失敗した。11回目でうまくいきそう」
社会が失敗を許容できなくなると、その進歩は急速に停滞していきます。
この記事では、フィンランドが失敗を大きく許容できる文化があり、そこで人々が安心して社会活動ができることが描かれています。
昨今かまびすしい日本における「自己責任論」の強まりは、ある意味で日本の社会の停滞を象徴していると言えるかもしれません。
部下のマネージメントや組織のあり方を書いた本は多いですが、その中でしばしば描かれるのが「責任は自分が取るからあなたの思う通りにやってみろ」という上司のあり方です。
これはまさに失敗を許容できる態度で、相手の行動に冗長性を与えるアプローチになっています。
それと同じで、社会が健全に進歩していくためには、失敗を許容できる冗長性が必要です。
だから、安易な「自己責任論」を広めることには不安があります。
5,自己責任論の反対側を冷静になって考えれば・・・・・・
安田さんを「自己責任だ」と非難することはたやすいです。
周りにもそれに同意してくれる人はたくさんいるでしょう。
「行くべきではないといわれたのになぜいった。自業自得じゃないか」と感情の欲するがままに意見することも容易です。
でも、冷静になって考えてみると。
安田さんが救出されなかったときの可能性として、後藤さんや湯川さんのように処刑されてしまうことだってありえたわけです。
「自己責任だ」と言う人にしても、もちろんそうなればいいとまでは思っていないことでしょう。しかし、そのことを想像力の外にしてしまうのは、大人のものの考えとして安易のそしりを免れません。
また、「助けてもらったのだからへりくだれ」という感情的な意見にしても、こういった心理のあり方を野放しにするのは怖いことです。少し前に猛威を振るった、店員などに「土下座を強要する」ケースとも相通ずるところがありはしないでしょうか。
6,子育てと怒り
生育歴上のさまざまな問題や不適切さは、最終的に「怒り」へと集約されてしまいます。
そして、生育歴だけでなく人生におけるさまざまな問題、不満、不遇さといったものもまた「怒り」として溜め込まれます。
怒りは大変強いエネルギーで、まるで沸騰するマグマのように出す場所を求めます。
これを出しやすいところに出すことを自分に許していると、それは心地いいことでもあるので、無意識に習慣化していきます。
怒りをコントロールしつつ解消していくのは大事なことではあるのだけど、むやみやたらな解放の仕方ではかえって自分を快適さや幸せに導いてくれない、むしろ遠のかせてしまうことすらあります。
僕のこの前の記事の中でも「僕も差別したい気持ちに負けないようにしているんだよ」と息子に話したことを書きました。
多くの人は様々な形で不満や怒りを抱えていて、それを出しやすいところに出してしまうのが人の心の自然なあり方です。
だからこそ、自身や周囲の人の幸せのためにも安易にそれに流されないことは大切だと思います。
7,自己責任論は誰も幸せにしない
多くの方から、保育士や周囲の人に「お子さん愛情不足になっています」「甘やかしすぎです」といった心ない言葉を言われて傷ついたり苦しい思いをした話を聴きます。
この背景にあるのは自己責任論です。
「子供の姿は親の責任。子供がちゃんとしていないのはあなたのせい。だからあなたがしっかりときちんと子育てして下さい」
という、日本における一般的な子育ての考え方があります。
「しつけ」と呼ばれているものの本質にあるのがこれです。
しつけは、子育ての自己責任論になっています。
「ベビーカーに子供を乗せて電車やバスに乗るのは迷惑だ」といった主張も根っこをたどればここに行き着きます。
そして、子育てのみならず、大人自身もこの「しつけ」という文化の中で自身もそれを持って生きています。
人に迷惑をかけるな、ルールを守れ、失敗するな、ちゃんと、きちんと、しっかり。
ちゃんと、きちんと、しっかり。
ちゃんと、きちんと、しっかり。
人により、状況によりこの重圧はとても大きなものになります。
それをひたすら我慢し溜め込み、ときに出しやすいところに出すことになります。
先の保育園の心ない一言。
これがなにをもたらすか見てみましょう。
・言われた側の人がひたすら自己否定する
・言われた負荷を、子供に厳しくすることで子供に向ける
・その不満を溜め込んでおき、保育園の落ち度を見つけたときにクレームとしてぶつける
・育児に協力しない家族への不満としてつのる
こんなことが簡単に起こりえます。
保育士をしていて、子供を虐待する人が表れたとき、その人を「愛情がない」「親としてなっていない」と断罪するのは簡単で心理的にもラクなことです。
自己責任論やしつけ論の立場に立てば、簡単にそうなります。
しかし、それではなにも前向きに解決しないので、意識的な努力をしてその人に援助の視点で関わっていくことが社会福祉として必要な時代になっています。
かつてよりもさらにいまの方がこういった他者理解の姿勢が必要な社会になっています。
にもかかわらず、自己責任論が蔓延してしまうと、単に溜飲を下げるだけで済んでいるのも最初だけで、後になればなるほど犯罪や貧困の増加など大きな社会リスクとして招きかねないのです。
8,アジテーションされる体質を培ってしまう
安田さん救出の数日前(10月23日)、麻生財務大臣が「飲み倒して運動も全然しない(で病気になった)人の医療費を、健康に努力している俺が払うのはあほらしくてやってられんと言っていた先輩がいた。良いことを言うなと思った」と発言しました。
この意見は伝聞という形をとっていますが、2008年に本人が同様のことを発言しのちに謝罪したケースがあります。
麻生氏、不摂生患者へ支出疑問視 「あほらしい」(共同通信)
https://this.kiji.is/427316654491599969
このような自己責任論を強調するような論が、近年、社会で権力や発言力を持った人たちからひんぱんになされています。
こういった他者の感情を揺さぶることで、別の誰かを攻撃する心理を作り出されてしまう話法をアジテーション(扇動)と言います。
攻撃される当事者でない人からすれば、こういった論は一見もっともらしく聞こえます。
自分は正しい他者が悪いといった感情を刺激されるので、人の心理としてそれに同意しやすくなります。
しかし、世の中というのは一面から見える事象だけで成り立っているわけではありません。
表面的なモラリティに反していたとしても、そこにはやむを得ない理由や、社会的な不備が背景にあるのかもしれません。
アジテーションされてしまうと、そういった他者への共感や大人として持つべき想像力を奪われ、むしろ逆の方へとかきたてられてしまいます。
これは社会の分断です。
人によっては、社会を分断させることで自己が利益を得る人もいます。
例えば、子供の病気や、日々の保育園のお迎え、親の介護など職場から定時で帰ろうとする人に対して「あなたはやる気がないのですね」といった、その人の自尊心を傷つける言い方をすることで、いたたまれなくさせたり、残業を強要するなど。(これは帰る必要がある人と残業していく人の間での分断を煽っている話法)
成熟した社会人としては、軽々しくそういった人に操られない、また自身もそういった他者への関わりをしない姿勢を養う必要があるでしょう。
以上です。まだ述べようと思えばいろいろな視点があるけれども、とりあえずコメントへの回答としてはこんなところでしょうか。
次の土曜日は、東京中野「まざるテラス」にて
オール大人で向き合おう「今、日本の保育で何が課題なの?」
が開かれます。こちらのイベントはおかげをもちまして定員いっぱいとなりました。
みなさんでいろいろな意見を出し合う会です。いまから楽しみにしています。
| 2018-10-28 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 10 | トラックバック : 0 |
連帯責任は最低の指導法 - 2018.10.24 Wed
正直言ってあまりにお粗末です。
教員は大学に行って、中には教育学部で学んで資格を取り難関試験を通って採用されている訳でしょう。
その人達が「連帯責任」などを振りかざして子供を指導、教育する。この21世紀に。
あり得ないほどお粗末です。
連帯責任というやり方は、人を伸ばす、もしくは教育するメソッドではなく、支配をするためのメソッドでしかありません。
これを教育と錯覚してしまっている人たちは、ただちに適切な研修なりが必要でしょう。
教育基本法の前文にはこうあります。
我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。
さらに続く第一章 教育の目的はこうなっています。
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
さらに第二条 教育の目標の 二 には
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと
このように書かれています。
太字にした部分を見て下さい。これら教育基本法のさらに基本のところに重複して、民主的、個人の尊厳、自主、自律が述べられています。
民主的とは、どんな小さな個人であれ尊重する態度のことです。
昨今では、しばしば多数決のことを民主主義であると短絡的な理解をする人が増えているようですが、それは誤りです。民主ということの基本理念は個人の尊重にあります。
多数派による決定というのは決定のプロセスとしてそれを用いるだけであり、個人に立脚する本来の民主主義は、多数決でものごとの決定をしたとしても多数派以外の意見の尊重を重視するという理念が大きく含まれています。
もし我が国が北朝鮮のような全体主義国家であれば、連帯責任を指導法として用いることに問題はないでしょう。しかし、まったくそうではないはずです。
さて、このように教育において、個人が尊重されるというのが現代の日本の教育の基本姿勢です。
なにも教育基本法を見なくても、近代社会の発展を基礎的な教養として当然持っているであろう教員という仕事に就く人間であれば、「自立した個人を育てること」が教育であるということを理解していなければおかしいほどのことです。
「連帯責任」とは、それらの真逆の行為です。
個人を集団の下位にいる存在と規定し、しかも、生徒のグループを相互扶助の目的でもちいるならばまだしも、集団に対して自分が劣っていないか、他者が集団から逸脱していないかという分断の方向で利用しています。
分断を利用して人を支配することは、近代社会おいてもっともしてはならないことです。
連帯、共生、ソリダリティ、ダイバーシティ、多様性。
これらの語を今日的なテーマとして目にしている人も多いことでしょう。
ソリダリティ【solidarity】が、ときに「連帯責任」の意味で使われることがないわけではありませんが、今日的なテーマとして使われるときのそれは、団結、結束の意味です。
つまり、分断とは正反対の意味で用いられています。
世界中の人々が、社会的な進歩を模索していかに結束した社会を作ろうとしているときに、学校で子供を導くべき立場の人間が安易に連帯責任を使い分断を支配の道具として用いる。
許しがたいほどの暗愚さであり、恥を知るべきです。
連帯責任を言う教員は、いじめの風土を醸成しているとも言えます。
それははみ出した人間を否定して良いという分断の理屈になっているからです。
| 2018-10-24 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
支配者の心理 ー強さと自己ー - 2018.10.23 Tue
この種の人は「強さ」を信奉している人が多いです。
居丈高に振る舞ったり、他者を威圧したり。ことあるごとに「強さ」を用います。
(強さを使って他者支配をしようとする人=パワハラ派。
モラル、マナー、迷惑かけるな愛情が大事といった感情論を用いて他者を支配しようとする人=モラハラ派)
「子供に対して大人は強くなければならない」
こういう考えを持っている人である場合も多いです。
よく言われる「大人の威厳」とか「親の威厳」といったこともそうですね。
この人って本当に「強い人」でしょうか?
強さを振りかざしたり、強さアピールをせずにはいられない人。
この人の本質、この人の自我にあるものの実態は、むしろ「弱さ」です。
その人は、他者にマウンティングしたり、他者に自分を恐れさせたり、他者に対して支配者として君臨している実感を持てていないと不安でたまらない自我を持っています。
「自我の不全さ」がそこにはあります。
その人がそういった心理、自我を獲得する課程は、その人自身他者に支配されたり、強い否定を重ねられたり、他者から自尊心を傷つけられたりそれらを慢性的に受けていくことにより、その欠乏感を心に持ってしまいます。
その欠乏感を、今度は自分よりも下に見える存在を支配することで満たそうとします。
我が子や配偶者に、「誰のおかげでメシが食えていると思っているのだ」とすごまなければならない人間は、それをしなければ自分が維持できない、か細い自我を持っています。
生徒が、自分の思い通りにならないことにかんしゃくを起こす教員は、自分の思い通りに生徒を動いていることを見なければ、自分を満足させられないメンタルにいます。
この前の卓球部で賞状を破いた教員はまさにそこです。
その人達は、自分の自我を自分の内部で完結できないから、他者を支配することで自我を満たさざるを得ません。
一緒に生活をしている親子が、なにも子供をつかまえて凄まなくたって、子供は親のことを常に信頼し肯定しようとしています。それを理解し、感じることができていればわざわざ居丈高になる必要など少しもありはしません。
そんなことをすれば、むしろ子供や配偶者の心は離れるばかりです。
でも、自分に自信が無いので「強さ」に依存し、そこへ逃げます。
そしてさらに離れようとする相手を支配によって自分に引き戻そうと必死になります。(いうことを聞かなければ食事抜きだといった経済支配などにも発展)
子供や配偶者との断絶はさらに大きくなります。
生徒を自分の思い通りにしなくとも、その生徒達が成長しさまざまなことを将来的に獲得していくことを知っていれば、なにも目の前で「成果」にするようなことを作り出さずとも、焦る必要はありません。
しかし、目の前の生徒を自分の思い通りにすることで自分のか細い自我を満たす欲求を抑えられない人がいます。
その人が見ているのは、生徒ではなく自分です。自分のために生徒を利用してしまっています。
もし、その人が自分の自我から目をそむけずに、その自身の問題を自身の問題として解決する勇気、「本当の強さ」を持っていれば、生徒を「支配する」という「生徒への甘え」をしなくて済みます。
しかし、「強さ」を信奉している人は、自分に「弱さ」があることからひたすら目をそむけずにはいられません。
悲しいジレンマです。
特に男性は「強くあれ」という価値観で育てられ、その価値観で社会を生きてきている人も多く、この傾向が強くなりがちです。
「強くあれ」という文化が、実は裏腹に自己完結できないか細い自我を生み出してしまうのはなんとも皮肉なものです。
| 2018-10-23 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
『教育の目的』のコメントを受けて - 2018.10.22 Mon
僕としてもこれで大丈夫といったなんらかの対応策をもっているわけではありませんが、それらを受けて思うままを書いてみます。
>ただ、やはり世の中の教育現場では、支配が横行している気がします。
子ども家庭とのギャップに戸惑ったり、恐怖を感じる時もあるように感じます。
これが現実だ、と割り切りある種のあきらめを持つこと慣れることが親にも子にも必要なのか。。。
家庭さえしっかりしていれば大丈夫なのか。
これが保育園・幼稚園の子供であれば、家庭で受容や肯定、他者への信頼感の形成などをしていれば大丈夫というのは、ある程度の確度でいえると僕は感じています。
しかし、小学校の高学年や、中学生、高校生くらいになってくると、少し事情は変わってくることでしょう。
子供もそれなりに自立が進み、親の考え・姿勢が全てではなく自分自身の価値観・考えを持つようになってきます。
子供なりに自分の世界があり、それにある種のアイデンティティを持って属しています。
友達の言うことや、先生の言うことも受け止めそれらにいろいろな影響を受けるようになるでしょう。
それに反感を感じることもあるでしょうし、その考えに染まることもあるでしょう。
歴史を振り返ると、そういった事実はいくつもあります。
ナチスドイツ時代、「ユダヤ人の差別を煽るナチスのやり方はおかしい」と家庭で話していた両親のことを、その子供が密告した事例。
中国の文化大革命時代、「党のしていることはおかしい」と家庭内で話していた親を密告したケースなど。
思春期といった多感で純真な頃に、ある種のイデオロギーを意図的に植え付けて洗脳するのは実に簡単です。
でも、子供の考えを親だと言っても簡単にねじ曲げることはできません。それが正しかろうと正しくなかろうと。
しかし、子供もバカではない。
それがおかしいと理解したり、明確になにかを思わなくてもなんとなく違和感を感じたり。
僕はそれを信じます。また、それができるだけの心を育ててきたことも信じています。
だからこそ、自分自身が感じることを子供にもごまかさず伝えています。
それを材料に、子供も自分の頭で考えることができるでしょう。
「小学校や中学校で、人に迷惑をかけてはいけないって学校で教わった?
僕はね、それ違うと思っているの。それって一見もっともらしい言葉に聞こえるのだけど、それをたくさん言っていくとね、いじめをする人間を作ることもできるんだよ。
例えばなにか発達に個性があってみんなと同じ行動を上手にとれない子がいたとき、迷惑をかけるなってたくさん教わった子はその子のことを否定的に見るように育っていくことがあるんだよ。人って生きていると迷惑をかけることなんてたくさんあるの、病気してお休みすることだってあるでしょ。それが当たり前だよね。大事なのは、迷惑になるようなことがあってもそこを話し合ったり、助け合ったりして乗り越えていくことなんだよね。
世界の国ではそこを子供たちに学校で教えているんだよ。でも、日本の学校ではいまだに迷惑をかけるなっていうことを教えていて、ずいぶん時代からおくれていると思っているよ。
実際にいま日本では生活保護をもらっている人を攻撃するような大人がたくさんいるの。悲しいことなんだけど。人に迷惑をかけるなって教えていると、そういう心を持つ人も作れてしまうんだよ」
「僕は保育士をしているけど、大学で哲学っていうのを勉強してたんだよ。哲学って、考えることを考える学問なの。変だよね。
じゃあどんなことをするかっていうと、なんでも疑ってみるの、人が当たり前って思っていることもとりあえず”本当にそうなのかな?”って考えてみて、それがそうだと思えばそれでいいし、違うと思うときは、それってこうだから違うよねって言うんだ。
自分の頭で考えることが大事なんだよね。
だから、あなたにも自分で考える力のある人間になって欲しいと思っているよ」
(中学生になりスマホを持つようになったので)
「なにか好きな曲見つかった?
いいね。いろんな音楽を好きになるといいよね。好きな音楽があるとあなたの人生でいいときも悪いことに当たったときもきっと助けになってくれるよ」
「僕もおかあもあなたのことを支配したり束縛したいと思っていないんだよ。だから、あなたがどんな髪型をしても、どんな服装をしても全然気にしないよ」
「僕は人を差別するのは良くないと思っているんだ。それでも、人間には差別してしまう心があるのを知っている。自分にもそれがあるのも知ってる。だからそれに負けないようにしているんだ。きっとこれからあなたの周りにも人を差別するような意見を言ってくる大人や、もしかすると友達にも出てくるかもしれない。でも、それに流されないような人間になって欲しいと思っているよ。どうかそのことだけは忘れないで」
「僕ね、保育士してたからいろんな子供を見てきたんだよ。お金持ちの子も、貧乏な子も。
ランドセルってすごく高いじゃない。人によってはそのお金を出すのがなんでもない人もいるよね。でも、それを子供に買うためにすごい大変な思いをしている人も見てきたんだよ。だから、貧乏だからといってその人を下に見る人を許せないんだ。ついでにランドセルなんてやめればいいのにっていつも思うよ。それを使いたい人は使えばいいけど、リュックサックでもよくすればいいのにね」
このまえ、食卓での会話の話の時に書いたけど、うちでは家族での会話が多いので、こんなようなことをわりと自然に普段から話したりしています。
ただ、学校の姿勢や、学校でのアプローチについてはできるだけ普段から関心を寄せるようにしてもいます。
どうしても子供では乗り越えられないケースもあるので。
そういうことについては、面談の時や、話ができる先生に折にふれて伝えたり、疑問として提示したりしています。
それをしたからといっても、学校は簡単にそれを変えません。
でも、いわなければそのまま突き進んでしまうところに、セーブが働くことはあります。
これがあるとないとでは大違いだろうことは実感しています。
| 2018-10-22 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
支配で人は育たない - 2018.10.21 Sun
僕もしばしばこれに関するお話をうかがいます。
◆支援学級のあり方
支援学級というと、障がいや発達になんらかのものを抱えた子を専門的に援助していくところだろうという印象を持っていました。
しかし、必ずしもそのように適切で専門的なアプローチをしているところばかりではないようです。
僕の研修に、支援学級で働いている教員の方やその補助職員、支援施設の職員なども学びに来てくれます。
話を聴くと、その人達が必ずと言っていいほど問題に感じているのは、子供に対して支配しようとしてしまう職員の存在です。
「正しい」とされる行動を生徒に取らせるために、「正しくないことの否定」を積み重ねたり、そこからさらには「恥をかかせる」といった自尊心の否定という教育者がやってはならない手法を用いてしまったりしています。
少し前にも、支援学級の教員がおならをした生徒に反省文を書かせるといった不祥事がありました。そのような新聞沙汰は氷山の一角で、それに準じるような不適切指導は他にも多数行われていることが考えられます。
こういったことが行われることの背景には、その教員・指導員の人格的な問題もあるでしょう。
しかし、もう一方ではスキルや適切な知識不足の問題があると言えます。
・子供の成長とはどういうものか?
・子供のどこを見るべきか?
・個々の子供の問題に対してどういった対応が必要か?
・具体的なアプローチとしてどう関わることで、子供の成長が得られるのか?
こういったことは、スキルとして明示し持つことができます。
しかし、支配におちいってしまう人は、こういったスキルが不足しています。
人格的な問題を除けば、支配してしまう人ももしかすると適切なスキルさえ獲得できれば、そういった不適切指導におちいらずに済む可能性があります。
◆保育でも
保育界でも問題の構造は同じです。
保育上、最大の問題といえるのは、支配の保育が行われているところです。
支配が強い保育でなければ、差はあってもそれなりの保育にはなります。
しかし、「子供の上手な支配」=「良い保育」と考えている(もしくはそれが当たり前になっており考えもしない)ところは、保育の名に値しないレベルのことをしているところも多数あります。
「事故を防ぐために支配せざるを得ない」という言葉を聞くことがあります。
これは詭弁です。
それを言う人達は、支配の保育しか知らないので、支配を強めることでしか子供の安全を保てなくなっています。
しかし、そもそもの問題。
「子供を支配するから、大人の思いから逸脱する子を作り出していること」に気がつけません。
最初から支配をやめれば、支配的・管理的・威圧的な保育をする必要などないのです。
このことに気づかない人があまりに多いです。
教員にもこのスタンスの人が大勢います。
◆自主性・主体性
学校教員のこんな研修がありました。
講師は、僕ではなく著名な大学教授です。
その教授は、自主性と主体性を用いて子供にアプローチすること。
また、それを最初の段階からすることで、そもそも支配的・管理的な関わりが必要ないことを丁寧に伝えていきました。
そのときは、その教員達もウンウンと聞いています。
その研修が終わり、参加した教員達がなんとなく雑談になったとき、「そうは言っても子供たちを管理しなければクラス運営なんかできないよ」「大学教授は現場を知らないんだ」といった話になり、それにそこにいた教員達のほとんどが賛同して終わったということがありました。
ここにあるのは、教育理念や教育原理を建前としかとらえず、自己流のやり方に軍配を上げてしまう考え方です。専門職としてはあまりに非理性的、非客観的です。
もっと下世話に言えば、自分のやり方に省みる視点を持てず、お互いに傷をなめ合ってしまう態度です。
支配的な関わりが単にメソッドだけでなく、自身の内部、人格の中に取り込まれてしまうがゆえにこのようなことが起こると言えます。
学校や保育施設は閉じた環境になりやすく、外部の風が入らないことには容易に是正や変革が起こらないという弊害がここにはあります。
だから、不適切が慢性化すればいずれ新聞沙汰の不祥事も起こるべくして起こってしまいます。
◆支配で人は育たない
これは簡単な理屈です。建前としては多くの人がそれに賛同します。
しかし、無自覚に「支配」を実践の中でしている現実があり、そこに一石を投じることが保育や教育の安定化に向けて必要なことだと僕は感じます。
| 2018-10-21 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
教育の目的 - 2018.10.20 Sat
正直、この中学校の雰囲気は、管理的、権威主義的な 雰囲気をそこここに感じます。
体育館で合唱の発表を見て、その横にあるトイレに入ったときのこと。
鏡に「お願い、おむつは持ち帰って下さい。」と張り紙がしてあるのです。
鏡の↑ではなく、鏡の表面にです。
なにも鏡に貼らずとも、スペースは他にもあるのに。
ちょっと一般の常識とはずれていると感じます。
しかし、この学校の教員のメンタリティからすると、これは疑問を覚えないことなのかもしれません。
ここにある心理は、「支配」のメンタリティだと思います。
まず、 ルールやマナーといったモラルが思考に真っ先にあり、それ要求することは正しいという自身の思考への正義があり、ルールを守らない人は悪いという思考が生まれ、そのルールを敷衍する行動が正当であるという思考にいたり、その結果人の目につくところに掲示するという考えが派生し、洗面所を使う人の便宜といった社会常識レベルのことが除外されてしまっている。
「支配」というメンタリティのゆがみが、そこにはあるような気がするのです。
◆支配という快感
支配には強烈な快感がともないます。
モラハラやパワハラをする人、子供を支配するために暴言や暴力を使う人。
その人達を突き動かすのは、他者支配における快感です。
この快感は、一度味をしめてしまうと抵抗することが難しいほどの強烈な快感です。
しかし、「支配が快感だからやる」と自ら言う人はそうそういません。
たいていは、もっともらしい理由をつけて、それを正当化しようとします。
僕は職業上、子供に対する管理や支配ということにとても敏感です。
だから、一般的な人の感覚からすると僕の受け取る印象というのは過剰になっているのかもしれません。
多少のこと管理的、支配的な傾向があったとしても、実際は問題の無いレベルで教育が行われていくかもしれません。
しかし、日本の学校、特に中学校、一部の高校における管理的な姿勢は、やはりそこで働く教員達自身がもっと自覚的でなければならないと考えます。
◆教育の目的
なぜなら、教育の広義の目的のひとつは、「自立した人間を育てること」にあるからです。
これは近代社会においては、議論を俟たないほどの確立した教育原理と言えるでしょう。
「誰々に支配されて一人前」でも、「誰々に命令されて一人前」でも、「誰々に管理されて一人前」でもありません。
支配というメソッドでは、自立した人間を育てることはできません。
息子と話をしていたら、生徒会選挙があったとのこと。
対立候補のいない信任投票だったのでしょう。
学校の先生にこう言われたそうです。
「全員に○つけて出して下さい」
この中学校、民主主義を子供に教える気がないのかもしれない。
もしかすると、学校の先生自身が民主主義を理解できていないのかもしれない。
公立の中学校に入れたけれども、いろいろ心配です。
| 2018-10-20 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
人権の無理解が不適切指導を生む - 2018.10.19 Fri
昨日の記事を書いてからこの報道を知ったのだけど、このケースはまさに昨日書いた
>その相手の発憤をうながそうとして否定的なことを言う
に該当します。
大会の結果が3位であったからと、生徒の目の前で賞状を破く。
これが指導だと思っているのだから、なんともお粗末です。
しかし、こういった感情にまかせた行為を「熱血指導」などと、世間も教育界ももてはやしてきた、もしくはそこまではいかずとも許容してきた現実があります。
建前は、「生徒にそういった否定的パフォーマンスをして発憤をうながすという指導」であったことになるでしょう。
しかし、本来プロがしているのですから、そんないいわけは通用しないのです。
これは、単なるかんしゃくです。
その結果が気に入らないからと感情を爆発させてかんしゃくを起こしています。
子供が欲しいおもちゃを買ってもらえなかったからとかんしゃくを起こすのと大差ありません。
それを、教員という生徒に対して権力を持った人間がしているのです。
それは威圧であり、自尊心を傷つける否定となります。
もちろん、そこに教育的な効果はありません。
「俺が望む結果を出さなければ、いやがらせをするぞ」というハラスメントです。
それを受けて生徒は、どういった精神的な成長をするでしょうか?
もちろん、それは個々によります。
・自信や自己表現を萎縮していく
・自尊心の否定をされないために結果を出す
・自尊心を傷つけられた腹いせを、後輩などの他者に意地悪な行為として出す
・目的のためには他者の自尊心を傷つけてよいと経験的に学ぶ
最悪なのは、ハラスメント体質を連鎖させることです。
その生徒が、社会に出たときや人の上に立つ立場になったとき、自分の意に染まない結果に対して感情のままに他者の自尊心を傷つける行為をするメンタリティを形成してしまう。
こんなのは教育でも指導でもなく、人権侵害であり教育破壊です。
教員が正しく人権を理解していれば、起こりようもないこと。
しかし、似たようなケースは枚挙に暇がありません。
本当に恥ずべきことです。
子供相手だけでなく介護や看護など、人に接する仕事をしている人は、人権を理解することも職務上の義務と言えるでしょう。
| 2018-10-19 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
「子供の人権」って?ざっくり教えて。 - 2018.10.18 Thu
僕も「子供の人権」についてはしばしば書いていますが、人権というとどうにも理念的なものに感じられていまいち理解がしにくいです。
「なんとなくはわかる」でも「よくわからない」という人も多いのではないかと思います。
僕自身もそうでした。
理念だけわかっていても、実践にはまるで反映されないということも多いです。(圧倒的に多い)
そこで、具体例の方からざっくり理解していく方向でここでは書いて見たいと思います。
1,モノ扱いしない
小さい子といえどもひとりの人間。
その身体が小さいからといって、モノを扱うように後ろから有無を言わさず抱え上げたり、柵や棚の上を通して受け渡したりしない。
2,子供扱いしない
子供だからと、公衆の面前で裸にしたり、全裸の写真をとったりすべきではない。
また衆目の前で排泄の始末をしない。それがやむを得ない状況でも、その意図を持ってできるだけの配慮をする。
必要があってでも子供のプライバシーに踏み込むときは、それなりの配慮をする。
例えば、おむつ交換の際、無言でおしりを触ったりせず、「おしっこでましたか?」「おむつどうですか?」などたずねたり、「ちょっと失礼しますよ」などことわりをいれる。
3,好意であっても身体的特徴を冗談にしたりしない。
4,わからないもの扱いしない
「子供だからどうせわからないよね」といった考えに基づく行為をしない。
どんなに小さい子であれその子の前で、親の悪口や批判をしたり、その子自身の悪口を言ったりしない。悪口は言うまでもないのだが、その子プライバシーに関わる話自体その本人や他の子供の前でするべきでない。
子供であっても、むしろ子供であるからこそ、自身に関わる話がポジティブなものであるかネガティブなものであるかを鋭敏に察知する。他児に関することでも、大人がどう考えているかを子供は察する。
5,「子供だまし」をしない。
子供だましとは、例えばごまかし、脅し、モノで釣る。
6,子供に望む行為に反する行為を大人もしない。
保育施設でとても多く見かけるのが、ベビーサークルや、チャイルドゲートを大人がまたいで歩く行為です。
まったく無自覚にしているところが多いです。
子供がそこを登ったり、足をかけたりする姿を見ると保育者は注意しているのに・・・・・・。
その子供の行動は大人の行動を真似ているから、それが導き出されている可能性があります。
「無自覚」は怖いです。
7,大人に対してしないないことをしない
あなたが他の大人に対してしない行為であれば、子供に対してであれすべきでない。
すべきでないというよりも、子供という存在を適切に理解しかつ尊重していれば、そもそもそのような行為をする必要がない。大人には使わない行為を子供相手に使うという人は、子供に対して、関わりのスキルあげることをまず考えよう。
例えば、怒鳴る、疎外する、無視する、バカにする、さげすむ。見下す。大声で威圧する。暴力を使う。暴言を吐く。他者と比較して否定する。
その相手の発憤をうながそうとして否定的なことを言う。(「そんなんだから○○もできないのだ」など。これは大人に対してする人もおりますが・・・・・・)
◆良くも悪くも下に見てしまう
子供を相手にすると、良くも悪くも無意識に「大人より低いもの」と見なしてしまいがちです。
「良くも」というのは、「手助けすべき存在」「保護すべき存在」という見方です。
それ自体は間違っているわけではないのだけど、その意識が簡単に子供の人としての尊重を奪うことがあります。
上で出てきた、「ごまかし」などがそれに当たります。
過保護、過干渉なども場合によってはそれにあたります。
だから、良かれと思って子供に対する意識の中にも、子供の人権を損なう行為が潜んでいることを知っておく必要があるでしょう。
子供への関わりのひとつひとつを自覚的にする。配慮を振り返って考えるなどのアプローチにより、それが達成されていきます。
| 2018-10-18 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
「ごめんね」が言えないケースについての対応 - 2018.05.31 Thu
これについて見ていきたいと思います。
↓ココカラ
> こんにちは。私はパートで保育士をしています。保育士おとーちゃんのブログを見て、参考にさせて頂く事が多く、とてもありがたいですm(_ _)m
> 以前、謝れない子についての記事がありましたよね。無理に言わせる事は私も良くないと思っているのですが、トラブルを起こした子がなかなか謝れない時に、嫌な目にあった側の子が「謝ってほしい」と意志表示をしている場合は、その子にどのように寄り添えるのが良いのでしょうか?
> 一方的にオモチャをとられたとか、突然叩かれたなど、謝ってほしいという気持ちになるのは理解できます。でも相手の子はまだ謝れるところまでの成長段階にきていない、信頼関係もまだ進んでいない場合は、どのようにしたら良いのか教えて頂きたいです。
> よろしくお願いしますm(_ _)m
↑ココマデ
子供への対応では、「その前を見る」スタンスを持っておくといいです。
うさぽんさんの質問では、「相手の子が謝って欲しいというときどういう対応を?」というものですが、実はここだけ見てしまうと問題の本質から外れ、大人の方が振り回されてしまうことがあります。
では、「その前を見る」具体的な対応とは、その謝ることを要求する子が、それ以前の園や家庭での関わりにおいて、その子自身「謝りなさい」「謝りましょう」といった関わりをされていたり、トラブルなどに際して過干渉や過保護、つまりその子の自主性を尊重されない関わりをされていたことが、その遠因にあるということが可能性としてあります。
もし、これに該当するのであれば、その子が「謝って欲しい」という関わりをまわりまわって持たせているのは大人のその関わりゆえと言えます。
ご質問の場面での対応ではないですが、それ以前の場でその子にも自主性・主体性を尊重して関わっていけば、その子がトラブルのいちいちに対して謝りを要求することがなくなったり、減ったりすることが考えられます。
いまのが観点のひとつです。
もうひとつは、「当事者同士である子供の一方が謝ることを要求する」ことは、子供の自主性の表れとも考えられます。
これが当事者同士でやり合う分には子供たちの経験であり、なんの問題もありません。
うさぽんさんのケースでは子供の年齢が書かれていないので、これが乳児か幼児かでも多少変わりますが、幼児である場合として考えていきます。
問題なのは、「相手に謝らせて」と保育者に対して要求する行動になっている場合です。
これは上で述べたような、過保護・過干渉を当たり前にされてきてしまった子が、「自分で解決せず大人に解決してもらう」という姿勢をクセとして持たされてしまったケースが考えられます。
そして現代の子育てでは、良かれと思って関わった結果、多くの人が子供にこのクセをつけてしまいます。ですので、この行動原理からそのように保育者に求めてくる子は大変多いことでしょう。
また、保育者も「子供の問題を解決してあげることがいいことなのだ」といったスタンスでいる場合、子供がネガティブに突き当たっているからなんとかしてあげないとという気持ちから、「心の過保護」を無意識にしてしまいます。
「解決してあげる」
というのは、一見親切なようでいて、子供の経験を大人が奪ってしまうことです。
もちろん、子供の発達段階や、問題の程度に比して、「解決してあげる」ことが必要な事象もたくさんあります。
しかし、個別的に考えて、「(この子には)どこまで助けが必要で、どこからは自分で取り組ませてみる」という判断を保育者はつける必要があります。これは実践における専門性のひとつです。
その「取り組ませる」というのは、必ずしも「成功できるから取り組ませる」である必要はありません。失敗もまた経験として重要だからです。
では、場面を想定して、これらのことを踏まえた対応を試みに示してみます。
対象は幼児(自立の進んだ3歳児~年長児)とします。
Aちゃん(幼い部分や情緒の安定しないところがあり、他児のものをとったり遊びを邪魔する行動が慢性的に出ている)
Bちゃん(精神的にもしっかりしていて、遊びも言葉も上手)
【場面】
Bら数人がままごとをしてあそんでいる。
Aがそこに入ってくるが、イメージを持って遊んでいるBらと同じ遊びのレベルではないので、結果的にBらが使っているものを取り、それをBにたしなめられたところ、Aがその腹いせに机の上にならべてあったおままごとをわざと床に落としてしまった。
同様のケースは今回が初めてではなく以前から繰り返されていることから、Bも腹を立ててしまった。
【想定1】A、B同士での言い合いとなった場合
危険がない範囲で見守り、大人が介入しなければならないと判断されることが起こらない限り、見守るだけにする。
子供が目でなにかを訴えてくることがあるが、見守りの目線で「うん、私がみててあげるから大丈夫だよ~。ふたりでそのままやってごらん~」というニュアンスを込めてあたたかく見ていく。
【ポイント】
このとき保育者は円満解決を目指す必要はない。
「しつけ」や道徳的な価値判断でこの事象を見てしまえば、「Aが悪い」という揺るぎない結論が出てしまう。しかし、そこから導き出される保育者の対応は、子供たちの自主的主体的な成長のなにものも担保しない。
だから保育者は「ジャッジしない」「お奉行さまにならない」でいい。
お互いに言い合いになって、どちらも譲らず物別れになったとしてもそれが経験であり、そこに両者とも葛藤が生まれる。
その葛藤がバネとなり、両者とも次の機会に前進するための材料となる。
「正解の姿」を「今日」出すことをせず。保育者は長いスパンでその成長を見守る。
【想定2】Bが保育者に解決を求めてきたとき
B「せんせー、Aちゃんがみんなでつくったごはんおとしたー。なのに、あやまってくれないー」
保「あ~そうなんだ~。あなたはどういう風におもったの?」
B「イヤだったー。ちゃんとあやまってほしい」
保「そうなんだ~。じゃあ、そういってみたら~」
【ポイント】
このとき保育者の姿勢は、おおらかに、そしてどこか他人事のように。
なぜ他人事のように振る舞うかというと、
「はい、あなたの言い分はもっともですね。ではここからは私が引き継いで万事解決してみせます!」という態度に保育者がなってしまったら、Bは今後他の多くのことに対しても、「なにか問題が起こったら大人が解決するものだ」という経験を獲得させてしまうことになるから。
そして、これが当たり前となったまま年齢を重ねていく子が大変多いのが、現在の子供・子育ての実際です。
「あなたの気持ちは受け止めますよ~。でも、この問題の当事者はあなたなので、いろいろやってみてね~。うまくいこうともいかなくても、私が見守っているから大丈夫だよ~」
とこういったスタンスで保育者がいてあげることが、子供たちの本当の力を伸ばしてあげることにつながります。
いまはわかりやすくするために、保育者の直接的なアプローチとして保育者の言葉を書きましたが、実のところ、これはこれで正解という姿ではなくて過渡期としての対応です。
本当に目指すのは、保育者に解決を求めずに見守られていることで自分たちで解決にトライする姿や、
想定2での保育者の役割のようなことを、他の子供たちが自主的に行うようなところです。驚くかもしれませんが、このような自主性・主体性を尊重した関わりを職員全体ですることができたら、たとえ1歳児であってもこの行動が出てきます。
これを目の当たりにすると、いかに大人が無意識に子供の能力を低く見積もっているかに気づかされます。
◆
さて、いまは基礎的な部分からこの問題を述べましたが、うさぽんさんのケースは個別的な部分がありますね。
>でも相手の子はまだ謝れるところまでの成長段階にきていない、信頼関係もまだ進んでいない場合は、どのようにしたら良いのか
ここです。
相手の子が「謝れない状況を持っている」と保育者が判断しているわけですから、そもそもその子に謝らせることは適切ではないですよね。
ですから、謝らせる必要も、その行為を非難する必要もありません。
謝ることを要求する側の子の気持ちを受け止めてあげます。
「どうしたの?ああ、そうだったんだ~、それは困っちゃったね(イヤだったね など)」
要求してきた子は、保育者を信頼しているからそれを保育者に持ってきたわけですから、その信頼関係を使って保育者が受け止めることで、その子の気持ちのモヤモヤをある程度解消してあげることができるでしょう。
それをすることで、相手の子をそれ以上責めさせないようにします。
こっち側の子への対応は、一旦こんなところでいいでしょう。
さて、では問題のやってしまった側の子への対応です。
・成長の段階がまだ謝れるところに来ていない
・信頼関係の構築がまだ十分ではない
これらのことがあるわけです。
単に幼いだけなのか、情緒的なものや、心の成長が年齢に比して足りていないということもあるでしょう。全般的な大人に対する信頼感もあまり厚くないことを勘案したら、単に幼いだけ以外の理由の方が大きいことが多いですね。
こういった子に、「謝りなさい」と保育者が突きつけることは、ただでさえ理由のあるネガティブなものをさらにネガティブにしてしまいます。
この子が、自分の行動をかえりみて謝ることが本当の意味でできるためには、その心を安定させ満たしてあげる必要があります。
そのためにすべきことは、「受容と肯定」です。
例えばこんな風にしてみます。
まず保育者はその子に対して否定的でない気持ちを持って、おおらかに「どうしたの~?」と声をかける。
もし、可能ならば抱き寄せて膝に乗せたりして聴いてもいいでしょう。
それがたとえいいわけだったとしても、子供には子供の言い分があります。
それを、「うんうん、そうだったんだね~。ああ、そうか~」と受け止めていきます。
その内容がたとえ間違っていることと判断したとしても、それを正論で正す必要はありません。
そのようなことをせずとも、その子はそれが間違っていることは認識しています。しかし、心の成長のネックがあってそれをまだ受け入れられない段階です。
ですから、ただうなずいて受け止めていくだけでいいのです。
「うんうん、そうか~。わかったよ~。うん、そうだったんだね~。じゃあ落ち着いたらまたあそんでおいで~」と。
もし、そのままくっついていたり、甘えていたりするのであれば、しばらくそれもしてあげていいでしょう。
もしくは、「じゃあ、あそんでおいで~」の言葉とともに、ぎゅっと抱きしめてから、遊びに戻してあげてもいいです。
あとはあたたかく見守ってあげます。
その日は結果がでないかもしれませんが、これをこういったことのあるたびに繰り返していると、その子の他者への信頼や心の安定が追いついてきて、なんらかのプラスの変化がでてくるときがきます。
それを見逃さないようにして見守っていくと、その子に必要なだけの時間はかかりますが、いずれ他者と関わりながらムリなく過ごせる日が来ます。
それでも謝るのはまだ下手かもしれません。
でも、謝るという行為は心の余裕やエネルギーのいることなので、ネックを抱えている子には大変難しい行為です。
ですから、あまり「謝れる」という実際の行動面にこだわらない方がいいでしょう。
実際には謝れずとも、葛藤や反省の気持ちを持っていることを汲み取ってあげることが、理解者としての保育士の姿でしょう。
こういったものが、その子の本当の自主的・主体的な成長ですね。
これを明確に自身の配慮として意識的にできるようになっていくと、保育の力と子供の姿の因果関係が見えるようになってきて、保育がやりがいのある楽しいものとなってきます。
| 2018-05-31 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
子供の不適切な行動にどう対処する? ー本当の保育の力を目指してー - 2018.05.30 Wed
そして、いまだに保育を「しつけ」の延長線上で考えている保育者の多さに頭がくらくらする思いを感じます。
「しつけ」という子育てメソッドでは、もはや保育が成り立たない時代になっていることを保育者の方には理解してもらいたいです。
子供がなんらかの不適切行動を慢性化させているとき。
例えば、噛みつきだったり、他児とのトラブルだったり、集団の行動にそえない、などなど。
これらに対して、しつけのメソッドしか知らない保育士では、その保育士が正しいと思う姿に子供を当てはめようとする対応しかとれません。
ある人は、子供をなだめすかして、そのように仕向けようとします。
またある人は、子供を叱ったり、怒ったり、疎外してその正しい行動をとらせようとします。
「あいさつしましょう」「ごめんなさいは?」「人のモノをとらないってお約束したでしょ」
こういったことのどれもが、その保育士が正しいと思う姿に子供を当てはめる行為です。
その人は悪意もないでしょうし、気づいていないかもしれませんが、このときその保育者はある状態におちいっています。
それは、「あなたのあるがままを私は許容しない」という態度です。
つまり、子供は、「自分は保育者から否定されている」という感覚を与えられます。
これは、どんなに優しく言おうと、善意で言おうとかわりません。
冷たく疎外をしたり、感情的に怒っていたりすれば、その関わりが不適切かもしれないことはなんとなく気づけることもありますが、優しい関わりであっても子供がもらうこのニュアンスは変わらないことを忘れてはいけません。
ニュアンスだけでも否定ですが、注意やダメ出し、叱る、怒る、といった対応ともなれば、実際のアプローチも否定となっています。
僕はこれまでにも何度も述べていますが、しつけの実際面の本質は「否定」なのです。
「しつけ」という行為が、あまりに一般的に流布しているので、それに疑問を覚える人もすくなく、そのことに気づいている人は多くありません。
しかし、しつけの実際面の本質は「否定」です。
これでは、現代の子供に多い不適応と見える行動の多くを解決してあげることはできないのです。
否定の関わりは、一時的にその行動を押さえ込むことには効果があるでしょう。
しかし、それによって根本的に解決するのは、問題の根が浅いライトケースのみです。
なぜなら、保育園で見られる子供のネガティブな姿の遠因には「否定の多さ」「肯定の欠乏」が、多くのものにあるからです。
ですから、それらの子供の問題を根っこから解決してあげるためには、そこを踏まえたアプローチをしなければなりません。
つまり、問題と見える行動をする子に対して、意図的に「肯定」をしなければならないわけです。
問題と見える行動を起こす子に対して、否定ばかりをしていくのであれば、そこにはなんの専門性も必要ありません。
その辺のおじさん、おばさんを連れてきて保育をさせたとしても同じことができます。
国家資格を持ったプロとして子供に関わるのですから、普通の人だったら否定をしてしまう子供の姿に対して、あえて肯定を贈れることが保育士の専門性というものなのです。
これには、適切な理念と知識と、経験が必要です。
難しく感じるかもしれません、でもそれが本来、保育士に課せられた仕事なのです。
この大切なことを心がけている保育施設がどれほどあるでしょう。
それを学生に教えることのできる保育学校がどれだけあるでしょう。
これを理解せずに子供に関わる仕事をしても、なかなかその職務の上で自己実現をしていくことは難しくなってしまいます。
保育施設でも幼稚園でも、保育学校でも構いません、一回でもいいのでぜひ僕を講師に呼んで下さい。
| 2018-05-30 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
保護者の信頼と安心 - 2018.04.02 Mon
昨年度は少々変則的な配置で、育休代替の要員として約半年しかその園には在籍しておりませんでした。
「泣き崩れる」という言葉がありますが、異動の発表があった日と最終日には文字通り何人かの保護者の方が泣き崩れました。涙するだけでなく、へたり込んでしまうという姿です。
単に悲しいとかそういうことでなく、子育てをしていく上での支え、安心感になっていたのでしょう。実は同様のことは、上半期にいた別の園でも異動に際してありました。
妻はそれだけの仕事をしたと思います。
クレームとして意見を伝えてきた保護者に対しても、そのクレームを受け、しかしそのクレームの収束に終始してしまうのではなく、その背景にある子育てに対する親の不安やもろもろに寄り添い、その上で具体的な子育ての方向を示し、さらには子育てだけでなく仕事や家庭の大変さを理解、共感するなど。
しかし、そういった踏み込んだ対応をした人だけでなく、多くの保護者が妻がそのクラスに入ってから子供の姿が明らかに変わったことを認識していました。
それまで、保育の中で「言うことを聞かされること」を多く求められ、その負荷を家庭で大変な姿として出したり、保育園に行きたがらないという様子に日々接していた保護者が、あるときから帰宅後も機嫌良く過ごしていたり、朝も楽しみにしながら通う様子を見て、それが妻の保育ゆえにもたらされていることを理解してくれていました。
こういった保育の専門性は、端からはわかりにくいこともありますが、中途からクラス担任に入ったことから、より際だって見えたのでしょう。
また、保護者会や日々の送り迎え、ケガやトラブルなど保育の中で何かあったときに際して、普段から保育・子育てのあり方をわかりやすく伝えてきていました。
こういった積み重ねが、安心と信頼となって保護者の心の支えとなっていたのでしょう。
本来はこれはどの保育士もしなければならないことです。
少なくとも、その保育に関する部分だけは最低限できなければならないことです。
しかし、それすらもできていないのがこれまでの保育の現状です。
これまでになく保育の専門性と、家庭への支援が必要な現代において、ここを向上させるのは喫緊の課題です。
関連:「いい保育」と「上手い保育」 1~8
http://hoikushipapa.blog112.fc2.com/blog-entry-960.html
| 2018-04-02 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
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