健全な保育施設運営のために vol.2 - 2018.12.29 Sat
このような園の問題の発起点となっているのは、仕事量の多さだ。
仕事量が多いゆえに、長時間の残業や休憩時間もろくに取れない状態が常のことになってしまう。
そのためこういった状態は、配置基準に満たない無認可施設などで往々にして起こりやすくなる。
だが、配置基準以上の人員がいて、必ずしも人手不足ではない施設でも起こっている。
たしかに、保育士が子供の保育以外でする仕事量は少なくない。それどころか年々煩瑣な書類や監査、第三者評価などで事務的な仕事も増えている。
これらだけでも残業が必要な状態になっているが、前記事で書いたような状況はそういった必要最低限の仕事だけでない部分が大半である。
つまり、問題は人手の有無ではない。
圧倒的に多いのが、行事の準備である。
複数の保育士からこれが言われる。
次に、保育準備。適正な範囲から過剰なものまで。
昨今は見直されて以前ほど重要視されなくなってきてはいるが、壁面装飾などもこれに含まれる。
過剰というのは、労力のコストとそれによる保育上の効果が見合わないもの。
「自己犠牲による頑張り」といったものをその組織が暗黙の内に職員の評価基準にしている場合、これは多くなる。
上に上げた壁面装飾などは、それの最たるもののひとつと言えるだろう。
発達上のことや、心の安定の面で問題を抱えている子が多い状況などで、この壁面装飾を立派にするといった仕事が課せられる場合。
それはその子たちのためにはどれほどの役に立っているだろうか。
しかし、保育士はそれに疑問を感じていてすら、黙々とその園の方針に従うことを強制される。
ここにあるのが、前回出てきたような精神主義を保育のバックボーンにする姿勢である。
「身を粉にするほど子供に尽くす保育士が良い保育士」といった価値観。
これが現代にはすでにそぐわなくなっている。
「自己犠牲をして子供に尽くす」
この価値観、考え方、感覚。
これは保育以前に、日本の子育てのあり方として一般的なものと言える。
これが特に母親に対して向けられている。
同様のものが、保育施設では保育士に向けられる。
旧態依然とした感覚を持っている保育施設では、無自覚にこういったスタンスから保育を組み立ててしまっている。
ゆえに、保育内容そのものよりも、「どれだけ保育者が身を粉にして頑張ったか」といった精神的なものが重要視されてしまう。
それゆえに、先輩職員から後輩職員への「しごき」のようなものが、常態化、さらには連鎖してしまう。
まずは、こういった価値観に気づく必要があるだろう。
<保育士の専門性の理解と自己実現の理解>
さらに、こういった組織体質から脱却するために深めていくべきなのが、保育士の専門性の理解と自己実現の理解である。
すでに、異常な労務管理を生むものが、過剰な仕事量にあること。その過剰な仕事量が「自己犠牲することがよい保育士」といった価値観に根があることを述べた。
◆専門性の深化
これを改善していくためには、なにが保育者の仕事として重要であるかという理解をすること。
そして、保育者が仕事の中でどこに達成感を感じたり、自己実現をするところなのかという視点をもっと先鋭化していく必要がある。
なぜなら、これまでの保育界は「行事の作りの立派さ」「そこでの子供たちの出来の立派さ」「室内装飾の立派さ」といったところで、「私たちはこんなにいい仕事をしていますよ」というアピールをし、専門性を主張してきたきらいがある。
これがだんだん形骸化、無自覚化していくと、最初は個々の子供たちのための保育上の適切なねらいがあったとしても、いつのまにか行事を他者評価の面で立派に完遂すること自体が目的となってしまう。
例えば行事の練習風景などをめぐって、こんな声が同僚保育者や園長などから担任に向けられることがある。
「去年の年長さんはもっと立派にできていましたよ」
このような他者と引き比べる言葉は、保育者が専門性を見失っているから出る言葉である。
まず、この言葉には「個の理解」という視点が欠けている。
去年のクラスの子供と、今年のクラスの子供はそもそもまったく違う子であり、まったく違う状況を持っている。
その視点を忘れ、画一的に子供を見ている。
そして、それを保育者の側が想定する行事という枠の中に押し込めようとしている。
これは、「子供たちのための行事」ではなく、「行事のための子供たち」にしてしまっていることに他ならない。
同時にその担任を責め、モチベーションを奪っている。
この状態は客観的にみれば、保育の専門性が破綻している状態であるが、そういった組織の中にどっぷりと浸かった状態ではそれに気づくことは容易ではないだろう。
保育の本質について、考え深めていく機会があればその人達もそれに気づけるようになる。
ここから積み重ねていけば、「その行事必要ですか?」「それは子供のなんのプラスになっていますか?」といった視点が持てるようになり、それまでどれも重要と考えていた常時も、必要なものと不必要なものを仕分けられるようになるだろう。
a,施設のために必要な行事
b,保育士たちのために必要な行事
c,子供のために必要な行事
d,保護者のために必要な行事
e,地域のために必要な行事
必要なのはc,d,e,である
なかんずく大切なのはc,であり、c,を犠牲にしてまでd,e,をする必要はないし、ましてc,を犠牲にしてa,b,をしてはならない。
だが、これを保育施設に理屈として押しつけても、この問題は前進しないことだろう。
なぜなら、保育士が人間である以上、「達成感」「自己実現」は仕事の上で欠かせないものだからである。
◆自己実現
「自己満足」というと、聞こえが悪い印象を持つ人が多いだろう。
それは通常、「他者を無視して自分だけの満足を追求すること」を意味して使われることが多いから。
しかし、実は人にとって自己満足できることは大変重要なことである。これが、他者の利益の無視した状態とならず成立すればいいのだ。
だが、精神主義をバックボーンとした保育施設では、これが忌避される。
なにしろ、もともと「自己犠牲することがよい保育」といった理解になりやすい傾向をもっているので、保育者が満足するというファクターは後ろに隠されてしまう。
しかし、そうしたところで人が自己満足を求めないという状態になることはない。すると、それはねじれたものとなる。
そのねじれが、「自己犠牲する私アピール」と「他者へのそれの強要」として表れる。
例えば、園長は誰よりも残業し長時間労働する自分をアピールし、それを部下の職員にも暗黙の内に求める心理に知らず知らずなっていくといったところに現出する。
こういったスタンスの慢性化により、保育職場は働きにくい職場となってしまう。
これを防いで適正化するために必要なのが、ムリのない自己満足つまり「自己実現」をどこでするかという、保育者の心理上の問題解決である。
ここで、もう一度上に述べた保育の専門性の理解を深めることに戻る。
保育者が、その職務で自分たちの仕事を評価し、そこに達成感や満足感を感じられる場所、それは保育上の専門性に他ならない。
ここで、自己評価、職員同士の互いの評価をしあえる状態にすれば、あまり意味の無い行事や保育準備にたくさんの時間をつぎ込む必要がなくなる。
同時に、保育の向上にもなる。
しかし、現状の保育施設が、必ずしも保育の本質や保育の専門性といったことに関して、理解を深める機会やそのための知識が十分ではない。
多くのところでは、「時間がない」とそれを後回しにしてしまっている。
その間にも、保育士の疲弊や離職は進んでいく。
ここに力を入れることで、それらを防ぎ、むしろ有意味な時間が増えることにつながるだろう。
仕事量が多いゆえに、長時間の残業や休憩時間もろくに取れない状態が常のことになってしまう。
そのためこういった状態は、配置基準に満たない無認可施設などで往々にして起こりやすくなる。
だが、配置基準以上の人員がいて、必ずしも人手不足ではない施設でも起こっている。
たしかに、保育士が子供の保育以外でする仕事量は少なくない。それどころか年々煩瑣な書類や監査、第三者評価などで事務的な仕事も増えている。
これらだけでも残業が必要な状態になっているが、前記事で書いたような状況はそういった必要最低限の仕事だけでない部分が大半である。
つまり、問題は人手の有無ではない。
圧倒的に多いのが、行事の準備である。
複数の保育士からこれが言われる。
次に、保育準備。適正な範囲から過剰なものまで。
昨今は見直されて以前ほど重要視されなくなってきてはいるが、壁面装飾などもこれに含まれる。
過剰というのは、労力のコストとそれによる保育上の効果が見合わないもの。
「自己犠牲による頑張り」といったものをその組織が暗黙の内に職員の評価基準にしている場合、これは多くなる。
上に上げた壁面装飾などは、それの最たるもののひとつと言えるだろう。
発達上のことや、心の安定の面で問題を抱えている子が多い状況などで、この壁面装飾を立派にするといった仕事が課せられる場合。
それはその子たちのためにはどれほどの役に立っているだろうか。
しかし、保育士はそれに疑問を感じていてすら、黙々とその園の方針に従うことを強制される。
ここにあるのが、前回出てきたような精神主義を保育のバックボーンにする姿勢である。
「身を粉にするほど子供に尽くす保育士が良い保育士」といった価値観。
これが現代にはすでにそぐわなくなっている。
「自己犠牲をして子供に尽くす」
この価値観、考え方、感覚。
これは保育以前に、日本の子育てのあり方として一般的なものと言える。
これが特に母親に対して向けられている。
同様のものが、保育施設では保育士に向けられる。
旧態依然とした感覚を持っている保育施設では、無自覚にこういったスタンスから保育を組み立ててしまっている。
ゆえに、保育内容そのものよりも、「どれだけ保育者が身を粉にして頑張ったか」といった精神的なものが重要視されてしまう。
それゆえに、先輩職員から後輩職員への「しごき」のようなものが、常態化、さらには連鎖してしまう。
まずは、こういった価値観に気づく必要があるだろう。
<保育士の専門性の理解と自己実現の理解>
さらに、こういった組織体質から脱却するために深めていくべきなのが、保育士の専門性の理解と自己実現の理解である。
すでに、異常な労務管理を生むものが、過剰な仕事量にあること。その過剰な仕事量が「自己犠牲することがよい保育士」といった価値観に根があることを述べた。
◆専門性の深化
これを改善していくためには、なにが保育者の仕事として重要であるかという理解をすること。
そして、保育者が仕事の中でどこに達成感を感じたり、自己実現をするところなのかという視点をもっと先鋭化していく必要がある。
なぜなら、これまでの保育界は「行事の作りの立派さ」「そこでの子供たちの出来の立派さ」「室内装飾の立派さ」といったところで、「私たちはこんなにいい仕事をしていますよ」というアピールをし、専門性を主張してきたきらいがある。
これがだんだん形骸化、無自覚化していくと、最初は個々の子供たちのための保育上の適切なねらいがあったとしても、いつのまにか行事を他者評価の面で立派に完遂すること自体が目的となってしまう。
例えば行事の練習風景などをめぐって、こんな声が同僚保育者や園長などから担任に向けられることがある。
「去年の年長さんはもっと立派にできていましたよ」
このような他者と引き比べる言葉は、保育者が専門性を見失っているから出る言葉である。
まず、この言葉には「個の理解」という視点が欠けている。
去年のクラスの子供と、今年のクラスの子供はそもそもまったく違う子であり、まったく違う状況を持っている。
その視点を忘れ、画一的に子供を見ている。
そして、それを保育者の側が想定する行事という枠の中に押し込めようとしている。
これは、「子供たちのための行事」ではなく、「行事のための子供たち」にしてしまっていることに他ならない。
同時にその担任を責め、モチベーションを奪っている。
この状態は客観的にみれば、保育の専門性が破綻している状態であるが、そういった組織の中にどっぷりと浸かった状態ではそれに気づくことは容易ではないだろう。
保育の本質について、考え深めていく機会があればその人達もそれに気づけるようになる。
ここから積み重ねていけば、「その行事必要ですか?」「それは子供のなんのプラスになっていますか?」といった視点が持てるようになり、それまでどれも重要と考えていた常時も、必要なものと不必要なものを仕分けられるようになるだろう。
a,施設のために必要な行事
b,保育士たちのために必要な行事
c,子供のために必要な行事
d,保護者のために必要な行事
e,地域のために必要な行事
必要なのはc,d,e,である
なかんずく大切なのはc,であり、c,を犠牲にしてまでd,e,をする必要はないし、ましてc,を犠牲にしてa,b,をしてはならない。
だが、これを保育施設に理屈として押しつけても、この問題は前進しないことだろう。
なぜなら、保育士が人間である以上、「達成感」「自己実現」は仕事の上で欠かせないものだからである。
◆自己実現
「自己満足」というと、聞こえが悪い印象を持つ人が多いだろう。
それは通常、「他者を無視して自分だけの満足を追求すること」を意味して使われることが多いから。
しかし、実は人にとって自己満足できることは大変重要なことである。これが、他者の利益の無視した状態とならず成立すればいいのだ。
だが、精神主義をバックボーンとした保育施設では、これが忌避される。
なにしろ、もともと「自己犠牲することがよい保育」といった理解になりやすい傾向をもっているので、保育者が満足するというファクターは後ろに隠されてしまう。
しかし、そうしたところで人が自己満足を求めないという状態になることはない。すると、それはねじれたものとなる。
そのねじれが、「自己犠牲する私アピール」と「他者へのそれの強要」として表れる。
例えば、園長は誰よりも残業し長時間労働する自分をアピールし、それを部下の職員にも暗黙の内に求める心理に知らず知らずなっていくといったところに現出する。
こういったスタンスの慢性化により、保育職場は働きにくい職場となってしまう。
これを防いで適正化するために必要なのが、ムリのない自己満足つまり「自己実現」をどこでするかという、保育者の心理上の問題解決である。
ここで、もう一度上に述べた保育の専門性の理解を深めることに戻る。
保育者が、その職務で自分たちの仕事を評価し、そこに達成感や満足感を感じられる場所、それは保育上の専門性に他ならない。
ここで、自己評価、職員同士の互いの評価をしあえる状態にすれば、あまり意味の無い行事や保育準備にたくさんの時間をつぎ込む必要がなくなる。
同時に、保育の向上にもなる。
しかし、現状の保育施設が、必ずしも保育の本質や保育の専門性といったことに関して、理解を深める機会やそのための知識が十分ではない。
多くのところでは、「時間がない」とそれを後回しにしてしまっている。
その間にも、保育士の疲弊や離職は進んでいく。
ここに力を入れることで、それらを防ぎ、むしろ有意味な時間が増えることにつながるだろう。
| 2018-12-29 | 保育研修 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
健全な保育施設運営のために - 2018.12.27 Thu
先日、備忘録としてTwitterに連投していたものを加筆修正して転載。
いまでもしばしば保育士から寄せられる話に、異常な労務管理をしている園のことがある。これらの園は、職員に精神主義を強いていることが多い。
こういった保育施設の問題点について書いたもの。
「奉仕の精神」「福祉の精神」「愛情を持って」などの精神主義を保育のバックボーンにする不健全さ について。
これらの言葉または理念は、一見すると保育を向上させるために役立つように感じられる。
しかし、これは必ずしも健全に使われるとは限らない。
むしろ実態は逆だろう。
有給はあるのに取れない雰囲気。取らせない園長、理事者の対応。
休憩時間を取らせない。
サービス残業を強要される。もしくは、強要されているわけではないが、暗黙の了解でそれをしなければならない雰囲気が組織に形成されている。
持ち帰り残業の多さ。
始業時間以前の出勤が常時求められる。などなど。
こういった保育士達に課せられる様々な過負荷があるとき、これらの精神主義的な言葉が過負荷に耐えるための自己暗示として自分に向けられる。
これはちょうど夫からモラハラを受ける妻が、必死に、「あの人にもいいところはある」と自分に言い聞かせたり、「みんな同じような状況にあるのだから、私だけがわがままを言ってはいけない」などと自分を騙そうとするメンタリティと同じである。
かくして保育職場は不健全な病みを抱える。病んだ組織は誰かをいじめることで上辺の健全さを保つ。
ゆえにモラハラや他者へのパッシングが起こる。
だから、有休を取る同僚にイヤミを言ったり、残業しないで帰ろうとする職員の悪口陰口を言ったりせずにはいられない心理を持たされてしまう。
そんなことをしても自分の首を締めることになってしまうのだが、精神主義的な言葉や体質でその枠組みを変えられない状況に置かれているので、そのような不適切なはけ口を作り出さずにはいられなくなる。
場合によっては、園児や保護者への悪口などへ向かうこともある。
こういったことをそこの職員達もこころよく思っているわけではない。でも、なぜか保育職場はこの負の構造を断ち切れない。
これには二つの理由がある。
一つは、その構造は使用者側に圧倒的に有利だから。
職員は有休も取らず、タダ残業にも不平も言わず黙々と従う。この状況を、使用者側はなかなか進んで無くそうとは思わない。
もう一つは、福祉の精神、奉仕の精神、愛情といった精神論は、それらがモラリスティックであるだけに反論しがたい概念であるから。
もともとが、誰かを責めることであやういバランスを取っている職場であれば、それへの指摘をする人間は、簡単にいじめの対象となってしまう。
そうでなくとも、一般的にモラルとされることに異見を言える人はそう多くない。
さてでは、この状況で保育が行われるとどのようになるだろうか。
保育士は心身ともに疲労した状況におかれる。この負荷は、出しやすいところに向けられる。
保育園でもっとも出しやすいところとは子供に他ならない。
保育の中で目にする規範から逸脱する子などに対するとき、過負荷を受けている保育士は、その子が間違ったことをしていることを理由に叱ったり怒ったり、無視したり疎外したり、罰を与えたりを正当化していく。
先ほどの同僚へのいじめが起きるのと同じく、ここにも理由をつけて他者を攻撃するというモラハラがある。
使用者が職員をモラルで縛り
↓
職員が同僚をモラルで責め
↓
職員がモラルを用いて子供を否定し
↓
子供の不適切な姿で、使用者が職員を責め
このように精神論で保育をスタートしていくと、何重にもモラハラの入れ子構造が作られる。
保育職場は、熱意や善意や子供への好意を持った人が入ってくるが、組織の体質によってその保育者がモラハラ体質に作り変えられてしまう因子を持っている。
だから、保育の職場は一歩間違えるとモラハラが大変多い職場となる。
また、そういった保育施設の体質から、子供への関わりをモラハラを使った支配を保育として身につけさせられてしまった保育士が、もしそれと同様のことを自分の子供に対してしてしまうと、その子育ては大変問題の多いものとなる。
保育士ゆえに、自身の子育てが大変順調なものとなっている人もいるが、その逆もまた多い。
本来なら子育てに有利な経験を持っているはずの保育士が、自身の子育てで自己実現できないというのは本当にやるせない。
保育施設が精神主義をバックボーンとして職員に負荷を強いていくこういった悪弊は早々にあらためる必要がある。さもないと、仕事内容以前のところで離職していく人が後を絶たない。
これは保育業界全体の衰退を招く。
次回、この状況を変えるための考察を述べていく。
いまでもしばしば保育士から寄せられる話に、異常な労務管理をしている園のことがある。これらの園は、職員に精神主義を強いていることが多い。
こういった保育施設の問題点について書いたもの。
「奉仕の精神」「福祉の精神」「愛情を持って」などの精神主義を保育のバックボーンにする不健全さ について。
これらの言葉または理念は、一見すると保育を向上させるために役立つように感じられる。
しかし、これは必ずしも健全に使われるとは限らない。
むしろ実態は逆だろう。
有給はあるのに取れない雰囲気。取らせない園長、理事者の対応。
休憩時間を取らせない。
サービス残業を強要される。もしくは、強要されているわけではないが、暗黙の了解でそれをしなければならない雰囲気が組織に形成されている。
持ち帰り残業の多さ。
始業時間以前の出勤が常時求められる。などなど。
こういった保育士達に課せられる様々な過負荷があるとき、これらの精神主義的な言葉が過負荷に耐えるための自己暗示として自分に向けられる。
これはちょうど夫からモラハラを受ける妻が、必死に、「あの人にもいいところはある」と自分に言い聞かせたり、「みんな同じような状況にあるのだから、私だけがわがままを言ってはいけない」などと自分を騙そうとするメンタリティと同じである。
かくして保育職場は不健全な病みを抱える。病んだ組織は誰かをいじめることで上辺の健全さを保つ。
ゆえにモラハラや他者へのパッシングが起こる。
だから、有休を取る同僚にイヤミを言ったり、残業しないで帰ろうとする職員の悪口陰口を言ったりせずにはいられない心理を持たされてしまう。
そんなことをしても自分の首を締めることになってしまうのだが、精神主義的な言葉や体質でその枠組みを変えられない状況に置かれているので、そのような不適切なはけ口を作り出さずにはいられなくなる。
場合によっては、園児や保護者への悪口などへ向かうこともある。
こういったことをそこの職員達もこころよく思っているわけではない。でも、なぜか保育職場はこの負の構造を断ち切れない。
これには二つの理由がある。
一つは、その構造は使用者側に圧倒的に有利だから。
職員は有休も取らず、タダ残業にも不平も言わず黙々と従う。この状況を、使用者側はなかなか進んで無くそうとは思わない。
もう一つは、福祉の精神、奉仕の精神、愛情といった精神論は、それらがモラリスティックであるだけに反論しがたい概念であるから。
もともとが、誰かを責めることであやういバランスを取っている職場であれば、それへの指摘をする人間は、簡単にいじめの対象となってしまう。
そうでなくとも、一般的にモラルとされることに異見を言える人はそう多くない。
さてでは、この状況で保育が行われるとどのようになるだろうか。
保育士は心身ともに疲労した状況におかれる。この負荷は、出しやすいところに向けられる。
保育園でもっとも出しやすいところとは子供に他ならない。
保育の中で目にする規範から逸脱する子などに対するとき、過負荷を受けている保育士は、その子が間違ったことをしていることを理由に叱ったり怒ったり、無視したり疎外したり、罰を与えたりを正当化していく。
先ほどの同僚へのいじめが起きるのと同じく、ここにも理由をつけて他者を攻撃するというモラハラがある。
使用者が職員をモラルで縛り
↓
職員が同僚をモラルで責め
↓
職員がモラルを用いて子供を否定し
↓
子供の不適切な姿で、使用者が職員を責め
このように精神論で保育をスタートしていくと、何重にもモラハラの入れ子構造が作られる。
保育職場は、熱意や善意や子供への好意を持った人が入ってくるが、組織の体質によってその保育者がモラハラ体質に作り変えられてしまう因子を持っている。
だから、保育の職場は一歩間違えるとモラハラが大変多い職場となる。
また、そういった保育施設の体質から、子供への関わりをモラハラを使った支配を保育として身につけさせられてしまった保育士が、もしそれと同様のことを自分の子供に対してしてしまうと、その子育ては大変問題の多いものとなる。
保育士ゆえに、自身の子育てが大変順調なものとなっている人もいるが、その逆もまた多い。
本来なら子育てに有利な経験を持っているはずの保育士が、自身の子育てで自己実現できないというのは本当にやるせない。
保育施設が精神主義をバックボーンとして職員に負荷を強いていくこういった悪弊は早々にあらためる必要がある。さもないと、仕事内容以前のところで離職していく人が後を絶たない。
これは保育業界全体の衰退を招く。
次回、この状況を変えるための考察を述べていく。
| 2018-12-27 | 保育研修 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
職員研修 社会福祉法人労道社 姫井保育園 - 2018.12.13 Thu
早いものでもう12月です。
今年は、保育研修に力を入れたので多くの園にお邪魔して研修をしてきました。
いくつか紹介しようと思います。
山口県は山陽小野田市にあります姫井保育園。
リンク:姫井保育園ホームページ
これまで下関市に行くことはしばしばあり、宇部空港から下関への途中で見かける小野田市という地名は知っておりました。
園は少し国道から入ったところにあり、川あり畑の点在するのどかなところです。
スケジュールの関係で、ゆっくり園庭や保育室を見る時間はなかったのですが、その環境設定から一目見て配慮のある保育が普段からなされていることがわかります。
よくお寿司屋さんなどに、「細部まで手の入ったいい仕事」といった表現をすることがありますでしょう。まさにあれの保育版です。
園庭の木やベンチ、保育室のコーナーや人形の置き方まで全てに意味があって考えられています。本当に、時間があれば写真を撮ってきたかったところです。
理念をおろそかにせず向き合い形骸化させることなく、実践と結びつけていく。
保育は日々のことだけに、余計にこのことが難しいです。しかも、気負ってそれをやるのではなく地道に続けてきたなかでしっかりと作り上げられてきたもの。
姫井保育園には、明らかにそれがありました。
なんと設立は、大正11年だそうです。
昔からあるから良い、新しいから悪いということはありません。むしろ、昔からあるのに堕すことなく続いてきたことにすごさを感じます。
創設者 姫井伊介氏(1881~1963)は労働運動、人権運動から出発しその経緯で保育施設を開設しているとのこと。
姫井伊介 (シリーズ福祉に生きる)
大空社
そういった源流を持つ確固とした理念が、保育の細部にまで反映しているのでしょう。
(姫井保育園HP内のコラムにはそういった理念や思いの一端が表れています)
いま都市部では、園庭もない、床面積に余裕もない、単なるスペースという意味だけではなく子供が安心して過ごせる環境を用意したくてもできないといったさまざまな問題に直面しています。そこにもいろんな事情があり、やむを得ない面もあるのですが、現にこれだけの保育環境を用意できるところがあるという事実に直面すると、なぜ、現代の保育行政はこちらの方向に発展できなかったのだろうと、いろんな思いがよぎります。
こちらの姫井保育園は、「保育施設とはかくありたい」とまさにそういった保育園でした。
◆「受容と信頼関係の保育」
研修内容は、「受容と信頼関係の保育」をテーマとしてグループワークなどを取り入れながらお伝えしました。
実はこちらは一昨年にお話をいただきまして、二年がかりで呼んで下さいました。
保育の研修をする人は、必ずしも少なくありません。大学教授なり著名な人なり大勢おります。それでもわざわざ、僕をお名指しで依頼していただけるというのはありがたいことです。
それもあって、大変力を込めて組み立てた内容で臨みました。
おそらく、あの保育設定を見ればすでに高いレベルでの保育実践がなされていたことでしょう。それでも、その実践の意味の再確認や、子供に関わる際の保育者のスタンス、現代の家庭・子供のあり方の変化などお伝えできるものがあったと思います。
後に職員の方から感想をいただいたところ、「これまでのどの研修よりも楽しく学ぶところのあるものでした」とおっしゃっていただけました。大変ありがたいです。
末尾に、研修のレジュメから項目だけ抜粋して記載しておきます。
「受容と信頼関係の保育」は、保育の全ての基礎となるものです。
ここを理解することで、保育そのものが変わります。
またそれだけでなく、保育者の意欲の向上にもつながります。保育の仕事の意味を保育者が認識・再確認することにより、保育者の疲弊を防ぎ、エンパワーメントすることにも寄与します。
僕が特に保育研修の柱としているものが三つあります。
1,受容と信頼関係の保育
2,自主性・主体性の保育
3,子育て支援
そのもっとも最初に来る部分がこの「受容と信頼関係の保育」です。
もし、施設での研修や、自主勉強会などお考えでしたら、僕のホームページの方からどうぞお問い合わせ下さい。
「受容と信頼関係の保育」レジュメ
1,はじめに
2,グループワーク その1
3,子供の育つメカニズム
a,子供の姿を作る2つのルート
b,子供が育つために必要なもの
4,成長のメカニズムを踏まえた実践のために
◆成長のメカニズムとは?
◆「しつけ・指導」のスタンスから、「援助」のスタンスへ
◆「しつけ」とはなにか?
a,「しつけ」の実際
b, 子供への影響
c,「しつけ」がもたらす保育者の心理への影響
◆援助のスタンス
5,グループワーク その2
6,受容と信頼関係の保育
a,信頼関係
b,肯定の積み重ねで子供を伸ばす関わり方(以下のケース1参照)
c,関わり以前にある肯定
d,子供の姿を構成するもの
e,生活の力
f,「させる」から「する」へ
◆ケースに見る実践
ケース1 ものの取り合い
ケース2 午睡
ケース3 泣いている子への対応
7,おわりに
◆ 保育における「個性の尊重」とは
◆保育者が「全面肯定ができる最後の砦」になっている現代
今年は、保育研修に力を入れたので多くの園にお邪魔して研修をしてきました。
いくつか紹介しようと思います。
山口県は山陽小野田市にあります姫井保育園。
リンク:姫井保育園ホームページ
これまで下関市に行くことはしばしばあり、宇部空港から下関への途中で見かける小野田市という地名は知っておりました。
園は少し国道から入ったところにあり、川あり畑の点在するのどかなところです。
スケジュールの関係で、ゆっくり園庭や保育室を見る時間はなかったのですが、その環境設定から一目見て配慮のある保育が普段からなされていることがわかります。
よくお寿司屋さんなどに、「細部まで手の入ったいい仕事」といった表現をすることがありますでしょう。まさにあれの保育版です。
園庭の木やベンチ、保育室のコーナーや人形の置き方まで全てに意味があって考えられています。本当に、時間があれば写真を撮ってきたかったところです。
理念をおろそかにせず向き合い形骸化させることなく、実践と結びつけていく。
保育は日々のことだけに、余計にこのことが難しいです。しかも、気負ってそれをやるのではなく地道に続けてきたなかでしっかりと作り上げられてきたもの。
姫井保育園には、明らかにそれがありました。
なんと設立は、大正11年だそうです。
昔からあるから良い、新しいから悪いということはありません。むしろ、昔からあるのに堕すことなく続いてきたことにすごさを感じます。
創設者 姫井伊介氏(1881~1963)は労働運動、人権運動から出発しその経緯で保育施設を開設しているとのこと。
姫井伊介 (シリーズ福祉に生きる)
そういった源流を持つ確固とした理念が、保育の細部にまで反映しているのでしょう。
(姫井保育園HP内のコラムにはそういった理念や思いの一端が表れています)
いま都市部では、園庭もない、床面積に余裕もない、単なるスペースという意味だけではなく子供が安心して過ごせる環境を用意したくてもできないといったさまざまな問題に直面しています。そこにもいろんな事情があり、やむを得ない面もあるのですが、現にこれだけの保育環境を用意できるところがあるという事実に直面すると、なぜ、現代の保育行政はこちらの方向に発展できなかったのだろうと、いろんな思いがよぎります。
こちらの姫井保育園は、「保育施設とはかくありたい」とまさにそういった保育園でした。
◆「受容と信頼関係の保育」
研修内容は、「受容と信頼関係の保育」をテーマとしてグループワークなどを取り入れながらお伝えしました。
実はこちらは一昨年にお話をいただきまして、二年がかりで呼んで下さいました。
保育の研修をする人は、必ずしも少なくありません。大学教授なり著名な人なり大勢おります。それでもわざわざ、僕をお名指しで依頼していただけるというのはありがたいことです。
それもあって、大変力を込めて組み立てた内容で臨みました。
おそらく、あの保育設定を見ればすでに高いレベルでの保育実践がなされていたことでしょう。それでも、その実践の意味の再確認や、子供に関わる際の保育者のスタンス、現代の家庭・子供のあり方の変化などお伝えできるものがあったと思います。
後に職員の方から感想をいただいたところ、「これまでのどの研修よりも楽しく学ぶところのあるものでした」とおっしゃっていただけました。大変ありがたいです。
末尾に、研修のレジュメから項目だけ抜粋して記載しておきます。
「受容と信頼関係の保育」は、保育の全ての基礎となるものです。
ここを理解することで、保育そのものが変わります。
またそれだけでなく、保育者の意欲の向上にもつながります。保育の仕事の意味を保育者が認識・再確認することにより、保育者の疲弊を防ぎ、エンパワーメントすることにも寄与します。
僕が特に保育研修の柱としているものが三つあります。
1,受容と信頼関係の保育
2,自主性・主体性の保育
3,子育て支援
そのもっとも最初に来る部分がこの「受容と信頼関係の保育」です。
もし、施設での研修や、自主勉強会などお考えでしたら、僕のホームページの方からどうぞお問い合わせ下さい。
「受容と信頼関係の保育」レジュメ
1,はじめに
2,グループワーク その1
3,子供の育つメカニズム
a,子供の姿を作る2つのルート
b,子供が育つために必要なもの
4,成長のメカニズムを踏まえた実践のために
◆成長のメカニズムとは?
◆「しつけ・指導」のスタンスから、「援助」のスタンスへ
◆「しつけ」とはなにか?
a,「しつけ」の実際
b, 子供への影響
c,「しつけ」がもたらす保育者の心理への影響
◆援助のスタンス
5,グループワーク その2
6,受容と信頼関係の保育
a,信頼関係
b,肯定の積み重ねで子供を伸ばす関わり方(以下のケース1参照)
c,関わり以前にある肯定
d,子供の姿を構成するもの
e,生活の力
f,「させる」から「する」へ
◆ケースに見る実践
ケース1 ものの取り合い
ケース2 午睡
ケース3 泣いている子への対応
7,おわりに
◆ 保育における「個性の尊重」とは
◆保育者が「全面肯定ができる最後の砦」になっている現代
| 2018-12-13 | 保育研修 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
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