道徳に関して質問をもらったのでもう少し書いてみよう。 - 2020.03.21 Sat
この二つのツイートからの派生。
https://twitter.com/hoikushioto/status/1240519071310819329?s=20
https://twitter.com/hoikushioto/status/1240521964613038081?s=20
「いいこと」「悪いこと」を教えているのだから意味があるのでは?との質問。
これにはいくつかの側面から問題がある。
まず、ひとつめこれらは「お気持ち」の問題になっている。
勉強や学問を「お気持ち」にしてしまうことは、ある意味で反知性の行いとなる。
現実問題で見てみよう。
「いいこと」としてたくさんの無意味なこと、または害になることすら現実には起こりうる。例えば、EM菌団子を河川に投入するといったイベントが自治体や学校、子供を巻き込んで行われてきた。専門家によれば雑菌を投げ込んでいるに過ぎないといわれる。また、東日本大震災のとき学校が子供たちに千羽鶴を折らせそれを被災地に送り、必要な物資すら届かない中で被災地はそれの処分に困ったことがあった。ご記憶にある人もいることだろう。
またこんなことがある。町内会で率先してどぶさらいなどをしてくれる「いい人」である男性が、家庭内では配偶者にDVやモラハラをしているといったことがある。
これらがなにを意味するか。「いいこと」というのはあくまで主観であり、それが適切に機能するとは限らないということ。
次にこのことは内面への介入となっている点。
日本国憲法では思想信条の自由が保障されている。いわゆる内面の自由。
学校教育において「これがいいことなのだ」と子供に刷り込んでいくことはこの境界を越える行いといえる。しかし「いいことを教え込んでいるのだから、その境界を越える行いはゆるされる」と看過されがちになる。
「いいこと」を理由に人の自由を奪う行いは歴史を振り返るとさまざまに見ることができる。ナチスドイツの行ったT4作戦(障がい者の組織的抹殺)などはその代表的なケース。
いま香川で起こっている「ゲームは良くないから規制する」という趣旨の条例にしても、東京都で制定された「東京都子どもを受動喫煙から守る条例」などのように、「いいこと」を理由づけに市民生活の自由を制限する法が実際に生まれている。
エセ歴史である「江戸しぐさ」がいいことを言っているのだからと言う理由で道徳の教科書に採用されていたケースもある。これも反知性的な行いであり学問として看過できることではない。これらは結局「いいこと」を理由に人を支配しやすくすることへつながる。
もうひとつの観点は、「いいこと」を刷り込むことで人はいいことをするようになるのか?という点。かりにその子がそれまでの生育歴の中で、肯定されることが少なく、自尊心を傷つけられたり否定されることが多いといった場合、その子は簡単に「いいこと」ができるとは限らないだろう。もし、そうであると「いいこと」を要求する大人から、その子を肯定的にみることは難しくなる。
人は、「いいこと」を教え込まれただけでそれができるようになるわけではない。それ以外の様々な要素があって人格を形成する。そしてそうした基礎的な部分の方がはるかに大切である。
また別の観点は、「いいこと」は一種の麻薬となる点。
麻薬とはどういう意味かというと、「自己承認」のためのバイアスのかかった思考となること。
一面で「いいこと」をし、他の面で「悪いこと」をしている。こういう自己の状況があったとき。人は自分に都合良く自己認識ができる。
現実にはどういう問題があるかというと、こんなことが起こっている。
日本には中小の企業経営者を対象にした全国的に組織されている団体がいくつかある。そのうちのいくつかは「いいこと」を前面に出している。みなで集まって「いいこと」がたくさん書いてある会の理念を唱和したりといったことをやっている。
しかし、一方でその経営者たちが自社に帰ると、社員に「いいこと」を強要しそれが自己犠牲を強いるタダ残業だったり。ノルマを達成できないことに対する「努力が足りない」「誠意がたりない」というモラハラだったりする。
「いいこと」はお気持ちの問題であり、こうした主観的運用が可能になる。そしてそれは他者の支配の理由へと発展する。
ちなみにこうした企業経営者を対象とした全国組織の中には、前身がカルト宗教であったものもある。「いいこと」を使って人を支配する点において、道徳とカルト宗教の類似点があると言えるだろう。
また、この麻薬は「いいこと」を教えているという立場の人間に強力な自己承認(自己陶酔)を与える。学校で言えば教員がそれにとらわれかねない。
さらに、内面の支配者になる自己承認(自己陶酔)が加わると、よりそれをする人自身をスポイルしていくこととなる。これは体罰などの教員の暴走を生みかねない懸念をもたらす。
いじめやモラルハラスメントは、それをする人からは「正しいことをしている」との認識で行われる。ゆえに「いいこと」「悪いこと」というお気持ちのファクターでこれを防止することはできない。
多様性の視点からも指摘ができる。
なにを「いいこと」と考えるかは、人によって幅のあることだろう。しかし、道徳の授業で点数をつけるといった行いにより、この幅を否定することになる。それは個性や多様性の否定につながり、全体主義的な人格形成をすることにつながっていく。
最後に。
道徳を「お気持ち」にすることはさまざまに問題があることを上でいろいろ述べた。
では、現代でその道徳の代わりになりうるものはなんだろうか?
それはお気持ちではなくリアルな自身の生活・身体と直接に関わる視点の提示であろう。
それが「人権」の学びである。
日本の教育で行われる道徳が、「人権」を教えた後に「いいこと」とはなんだろう?といったテーマでの議論を生むのならばそれはおかしなことではないだろう。
しかし、現在のところ人権を教えることをあえて避けた上で、お気持ちのすり込みを行っている傾向がある。これはその行為自体がすでに人権の侵害ともいえる。
人権の学びが、社会におけるおかしなことをおかしいと言える状況をつくり、労働や生活においての向上をもたらす。
また身体的な面での人権の理解は、性教育、他者や異性との関わりの適切な学び、痴漢のやセクハラの撲滅や自殺の防止といった学びへとつながるだろう。
| 2020-03-21 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
「先生」という一人称の違和感 - 2019.03.18 Mon
自身のこと。それと職名として「先生」と、無頓着に言っている人が学校教員にとても多いこと。
別に揶揄していっているのでも、そこに悪意があると思っているわけではないのだけど、純粋に驚いた。
なんとなく慣習的に生徒に対して一人称を「先生」という人がいるのはわかる。
また、映画やドラマなどの影響、職場の慣習的なものとしてそのような言葉遣いがあるのもわからないではない。
でも、広く一般に向けて発言できる場で文字として書くときまでそのように無頓着に使う人がたくさんいることに驚かされた。
問題意識や現代的な感覚を持って、よいことを言っている教員の中にもそういう人が少なくなかった。ここにも驚き。
それがなに?と思う人がいるかもしれないけれど、悪意がないにしても、このことに自覚的にならないと学校を取り巻くさまざまな問題は解決しないと思う。
いま話題になっている、天然パーマや髪色に関して「地毛証明書」などを出させるようなケースもそのひとつ。
なぜかというと、これは人権を考える上でとても重要だから。
例えば、
自身の一人称を「先生」と言い、生徒を「お前」「お前ら」と呼ぶ教員がいたとする。
これは、自身を上にいるものとし、生徒を下にいるもの、低いものと見なしていることになる。
悪意がないとしても、そういった人権感覚の乏しさはさまざまな問題の温床となる。
現実の教員方にしても、生徒に対して「お前ら」などとは言っていないと主張するかもしれない。
でも、自分の一人称を「先生」と無頓着に言えている時点で、そこにはさして説得力はない。
学校で子供たちを男女関わらず、「○○さん」と呼ぶようになって久しい。
これは、子供の人権に配慮した結果、そういった呼び方をすることになった経緯がある。
この時点で、自身の一人称に関してももう少し考えをめぐらせる必要があっただろう。
また、職名としては、教諭、教員、教師などであり、いくら慣習として教員のことを「先生」と呼ぶにはしても、それは同時に敬称であり、自らの職名を「先生です」というのも、自分の名前に「私は○○様です」というのと同じ違和感を感じるはずだ。一般的に、自身に敬称をつけて呼ぶことは考えられない。
◆学校問題は人権問題
社会的に注目されている学校の問題の多くは、人権に関することである。
いじめ、いじめの隠蔽、体罰、部活強制入部、部活における不適切行為、教育を受ける権利、性差の問題、ジェンダーの問題、など
(例えば、上履きの色や、ランドセルの色を男子、女子で決めつけていたことの解消などがその動きの結果のひとつ)
もっと言えば、仕事としての教員の諸問題も、教員の人権問題である。
労働問題、部活顧問問題、職場におけるモラハラ、など
たかが慣習的な一人称や、職名としての呼び方と思う人がいるかもしれないが、教員が人権について問題意識が低いということは、これら学校における人権にまつわる諸問題が改善され得ないことを示唆している。
子供の問題然り、教員自身の労働環境の問題然り。
◆保育界における呼称の認識
保育士にも同様の問題があった。
いまでも、自身のことを「先生」という一人称で呼ぶ文化がないわけではない。そこに無頓着な人も少なくない。
それでも、すでに数十年前から保育の研鑽の中で「子供の人権」というテーマと真剣に向き合うムーブメントを持ったおかげで、少しずつだがそれが変わってきている。
保育の先人や、保育研究者らが、子供と保育者の人間関係・人権を考えたとき、自身のことを「私」と言うのがむしろ自然なことなのではないかという指摘をしてきた。
全員がその知見を持っているわけではないが、保育界には一部なりともそういった人権感覚が確固としてある。
学校にもそういった人がいないわけではないだろうが、全体に比して少数派なのを感じる。
もちろん、これは「私は自分のことを先生とは言っていません!」と主張して問題解決になることではない。そういった意見は、承認欲求の裏返しでしかないので、プロフェッショナルの教員方の口からそういう弁解めいたお話は聴きたくない。
私は間違っていないというレベルの論ではなくて、問題提起として業界の議論に発展させて欲しいと思う。
子供の人権に真正面から取り組むことが、ひいては将来において教員にとっても働きやすい職場となることに必ずやつながるだろう。
コメントを見て追記(3月21日)
ちなみに、「先生」と呼ばれる職業のひとつに弁護士がありますが、その方達は一人称を「小職」と呼称しています。
また、世間一般では、自分の勤める会社のことを「弊社」「小社」などと呼びます。また、自身の上司などを外向きには、「我が社の○○(名字)が」と敬称抜きに話します。
| 2019-03-18 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
保育無償化について vol.2 - 2019.03.16 Sat
保育ジャーナリスト猪熊さんの記事。
まずは、当たり前なのだけど、待機児問題解決してから無償化を考えろという話。
無償化により、質が悪くなるという本末転倒をするな。
国が決めたことで自治体に負担をかけるな。自治体の全てが裕福とは限らないため、負担増になれば質の低下や他の所への圧迫が起こる。
結局のところ、いまの政権ではまともな福祉政策は期待できない。
| 2019-03-16 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
保育無償化について - 2019.02.04 Mon
税金というのは、再分配が大切なわけです。どう使うかですね。
この話で多くの人が真っ先に感じるであろうことは、「え、そこにお金使うの?」ではないかと思います。
いまの時期ちょうど保育園の入所の決定がでている頃ですが、保育園に入れずこのままで仕事を続けられないという声がたくさん上がっています。
保育園に入れた人にとっては、無償化の恩恵はそれはないわけではありませんが、本当に困っているのは入れない人です。
保育無償化という話は、保護者の方をも向いていないのです。
そもそも、すでに保育施設は所得に応じての保育料のスライド制などもあり、法外な値段を取っているわけではありません。
保育無償化が悪いわけではありませんが、お金をかける順序が違うでしょという話になります。。
必要とする人が、一定以上の質の保育を受けることができて、そこで働く人が安定でき、その上で保育無償化の話がでてくるべきなのは明らかです。
まずは、保育施設を増やすこと。
なり手がいなくて施設を増やせない問題に対しては、保育従事者の賃金を上げること。
これに関しては社会問題として一般の人にも広く知られています。
保育士の給与を上げれば、保育施設も増やせるというのはわかりきった理屈です。
この保育無償化という税金の使い方は、子供、保護者、そこで働く人、この三者どの方向も向いていません。
では、どこを見ているのか?
実のところ、これがいまの保育行政の問題の本丸だと思うのです。
直接、保育無償化の話とつながっていませんが、可視化しやすいのでこちらの記事を見て下さい。
USJ年間パス、帰省費を補助…保育士不足に大阪市が奇策
これ。大阪市の施策です。
このテーマパークのチケットを保育者に配るという話。なんかいろいろ変でしょう?
つっこみどころはたくさんあるのだけど、ある一点に着目してこの問題を見て下さい。
それは、お金(税金)がどこに流れているかです。
お金の流れだけ見たとき、保育を充実させようという意味合いで支出されている税金ですが、そのテーマパークというある特定の私企業に流れているのがわかります。
この構造。
これが保育無償化のからくりにも同じようにあります。
かつて保育施設が規制緩和されて民間企業の参入ができなかった頃。
社会福祉法人などの団体が、設置運営をしていました。
地域に密着しており、多くが一箇所もしくは少数のいくつかの施設経営を行い、多数の施設を抱えているところは必ずしも多くありませんでした。
営利化以降、そういった業界のモデル自体が大きく変わります。
ひとつの会社がたくさんの施設を経営するようになりました。
社福が数園を経営する上では、保育無償化というのはさしたる影響はありませんが、これが複数園を経営する大企業ともなると、大きなお金の流れとなります。
厚労省の諮問委員会に加わっている事業当事者や、ロビー活動をしている人たちが、自分たちに都合の良い税金の流れの仕組みを作り、そこで利益を大きくする状態がすでに起こっています。中にはどこぞの私人の夫人と仲良しになっている企業もあります。
派遣法の改正においてパソナの竹中平蔵がしたことと、ほとんど同じようなことが今度は保育に舞台を変えて起こっているといえるでしょう。
いまの日本社会のようなモノの売れない時代において、税金から助成金や補助金が出る仕組みを持っている福祉の世界は企業にとってたいへんうまみのあるところです。
保育の質や、子供の育成という社会的な視点をもった企業では、一施設の受託人数をあまり大きくしないようにしたり、施設数の急速な増大も慎重に考えているところもあります。また、そういったところは研修などにも力を入れています。
保育施設を経営する民間企業の全部がよくないわけではありませんが、大手の中にはそのような補助金ビジネスになっているところがあります。
今回の保育無償化の施策は、こういった企業を潤すために存在していると言えます。
このような仕組みを国が進んで作っている以上、保育業界の質はむしろどんどん下がっていくことでしょう。
| 2019-02-04 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
近代化していない日本と近代化していない教育 - 2019.01.13 Sun
おそらくこういった標語が学校にあったとしても、多くの人は気にも留めずスルーしてしまうのではないでしょうか。また、もしそれを読んだとしても、「うん、まあそうだよな」くらいの感想になる人は多いのではないでしょうか。
僕は、これをスルーできませんでした。
それを見てからずっと悩み続けました。
これを見て感じるところ。端的に言ってしまえば、日本はまだ近代化していないのだということです。
なにをオーバーなと思われるかも知れませんが、僕はどうにもそうとしか思えない深刻な問題でした。
これは学校に掲げられているのですから、そこに教育的な要素があると考えられて税金から予算を出して設置していると言うことでしょう。おそらく数十万円の単位では収まらないお金がかかっているのではないでしょうか。
学校が、この言葉に教育的な要素を盛り込んでいるわけです。
この標語を考えると、「困難」ありきで考えていますね。
「困難というのはあるものなんだ、だから乗り越えろ」と。
これは近代というよりも、前近代の人たちのものの考え方です。
例えば、農業で考えてみましょう。
農業というのは、自然を相手にする営みで、そこには大きな困難をともなってきました。
いまでも自然災害など、人の力ではいかんともしがたい事象にあって被害をこうむることはまれではありません。
これが、かつて近代化する前の段階ではその困難さはより大きなものでした。
その中では手を尽くせる人知にも限りがあり、神頼みなどに頼らなければならなかったわけです。
社会の進歩が進み近代にはいってからは、完全にではないとは言え品種改良などさまざまな科学的な知見を積み上げたり、工業化による恩恵を利用しながら発展してきています。
つまり、困難はあるけど、その困難自体をなくしていこうという姿勢で対峙してきたのが近代以降の社会です。
これは農業に限らないわけですね。
また、人々の生きる政治的な状況でも同様です。
近代以前は、王様がいたり、日本では固定的な身分制度がありお殿様がいた時代です。
この中では、政治の有り様を庶民が変えることは基本的にできませんでした。
つまり、枠組みは決まっているわけです。
その枠組みが困難なものである場合、それに耐えるという選択肢がほぼ唯一の取り得る対応でした。
近代社会、近代国家になって、そこからの様々な進歩を経て、世界は枠組みを変えられるという知見を得てきました。それが近代というあり方です。
しかし、この学校の掲げている標語は、そのことを何ら示唆していません。
むしろ、前近代の考え方をいまでもなぞることが、教育要素だとしているかのようです。
「乗り越えて羽ばたく」というのは、その困難を解決しようという意味も含んでいるのではと言う指摘もあるかもしれません。
これが学校以外のところであれば、そう考えられなくもないかもしれません。それでも結構厳しい解釈かとは思いますが。
ですが、ここでのこの言葉が子供たちに向けられた教育的な要素であることを考えると、近代という文脈の上ではその解釈は成り立たないのです。
近代の得た知見のひとつに、「子供」という概念があります。
子供の権利条約などに集約されているものですね。
そのなかのとても大切なことのひとつが、「子供とは社会的に守られるもの」という考え方です。
先進国といわれる国々、もちろん先進国と呼ばれない国でも、この考え方を非常に重んじています。
「子供は守られるもの」
これを大切なものとしてとらえている社会では、「困難」と「子供」というふたつのファクターがあった場合、その間にあるものはそのふたつをできるだけ「遠ざけよう」とする視点、考え方です。
敢えて、そのふたつを「近づけるのだ」とする考え方は、すでにある「困難」がどうにも変えられない状況を持っている社会的に後れた、前近代的なあり方の国におけるものでしかありません。
近代的な社会では、こう考えます。
「確かに世の中には困難がある。だから私たち大人は自分たちの世代でできるだけ目の前にある困難を解決し、そして次代を担う子供たちにバトンタッチしよう。
きっとバトンタッチした後でも、それでもいろいろな困難があるだろう、それはその世代が解決に取り組みまた次代をより良いものにして引き継いでいってもらいたい。そのために、いま大人は子供たちに社会をより良くするスキル(教育)を最大限の努力を払って持たせていこう」
これが近代社会が持つ子供への基礎的なスタンスです。
日本では、「困難」に対してそれを解決することよりも、「耐えること」をひたすらに教えていきます。そのことは子供への教育にとどまらず、大人の社会にも反映されています。
・ブラック企業、過労死、過労自死、ウツ、
・痴漢や性犯罪の被害にあっても被害者を責める
・共働きでも子供に弁当を作って持たせるのが親の愛情だ
・子供をベビーカーに乗せて電車に乗るなど迷惑だ。私たちの若いときはもっと大変だった
・いじめられる方にも悪いところがある
・体罰をするのはお前のためを思っているからだ、している自分だって心が痛い
・夫が会社でされるパワハラの不満を、妻にモラハラでぶつけ、妻はそれを子供に八つ当たりし
これら、みな上から下へと「困難」を強要しています。
具体的なところでは全国で相次ぐ、過労によるバス運転士の事故などもそうです。
12月に挙げた『健全な保育施設運営のために』の記事で描いた構図も、これとまったく同じです。
・施設が職員に過重労働を強い。職員が子供にイライラをぶつけ
そもそも子育てそのものが、「母親に困難を押しつける」という構図から抜けきれていません。
もし、仮に誰でもできる努力の範囲で全ての困難が乗り越えられるのだとしたら、「困難を乗り越えて羽ばたこう」を教育要素としてもいいかもしれません。
しかし、現実はそうならないのです。
この教育方針で子供たちを育てると、子供は枠組みを変えることを知らないまま大人になります。
すると、どうなるか。
その困難が乗り越えられない場合、そこでの不満は向かいやすいところへ向かいます。
枠組み、つまり自分よりも上の状況が変えられないと思っているのですから、下に向かっていきます。つまり弱い方です。
例えば、いま話題のPTAの問題で考えてみます。
共働き家庭が増えてきた昨今、学校のPTA活動は以前のようにすんなり(以前もすんなりいっていなかったと思いますが)とはいかなくなっています。
多くの人が、しんどい思いをして我慢してやっているという状態になっています。
もし、
「PTAのあり方無理のないように変えていきましょうよ」
「そうですね。ではこの行事はなくしてみたらどうでしょう?」
といった枠組みを変える方向のアクションが取れればいいですが、それができず枠組みは変えられないという困難前提の中で我慢や頑張りを重ねていくと、「役員は大変。役員やってないあの人はいいな」から「役員していないあの人はずるい」とそういった心理が形成されることをなかなか止められません。
そのように、弱いところへ弱いところへと、人はネガティブな気持ちを向けていくのです。
しばしば起こる生活保護者や障がい者パッシング、公務員パッシングなども同じです。
「自分たちの生活はこういう状況で苦しい。だからこのように改善してほしい」
こういったアクションをとっていいというのが、近現代のあり方なのだけど、それをしない、できない、よくないとされてしまうと、弱いところへとその負荷が向けられます。
「生活保護などもらってずるい。あいつらは自分たち収めた税金をかすめ取っている」
悲しいかな、このように思ってしまう人もでてきます。
そして実際、こういったことが差別や蔑視へと派生し、それがそこいら中で起こっているのが現在の日本の社会です。
まさにこれを助長しているのが、日本の義務教育のあり方です。
「困難を乗り越えて羽ばたこう」
この標語は一見モラリスティックです。立派で、疑う余地のないようにすら聞こえてしまいます。
しかし、これは第二次世界大戦中のプロパガンダ「欲しがりません勝つまでは!」と本質的になにも変わっていません。
もっと言えば、多くの人を無為に餓死や病死に追い込んだインパール作戦の理屈とまったく同じです。
教育として子供たちにこれを課していくことは、あまりにも現代社会に生きる大人として恥ずかしいことだと僕は強く感じます。
これに疑問を持たない人が多いというのは、そもそもすでに大人達がこの価値観を自分のものとして刷り込まれてしまっているからでしょう。
いつの間にか、誰かから刷り込まれた考えを自分の考えと思ってしまう。
これが教育の怖さです。
| 2019-01-13 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 9 | トラックバック : 0 |
保育園選びで気をつけたいこと ー誇大広告ー - 2018.10.31 Wed
最近では、申込み間際になっていくつか見学して「はい、ここにきめた」というのはできなくなっているので、一年中保育園選びの季節になっているようです。
本当は、どこの保育施設にいっても、一定程度の安定した安心できる保育が受けられなければならないはずです。
なぜなら、保育士は国家資格で、保育施設は国や行政の監督を受けて設置されているものだから。
医者で考えれば簡単にわかります。
特殊な病でなければ、たとえば風邪などだったら、日本全国どこの医療機関にいっても一定程度の医療が受けられます。
私たちは、それを当然のこととして享受しています。
しかし、保育施設は本当に残念なことにそのようになっていません。
単に、施設ごとの特色の違いというレベルではなく、基本的な子供を安全、健康に預けるということだけで見ても吟味しなければならない状況にあります。
僕は、この意味で保育界が本当にまずは取り組まなければならないのは、なにかすごい特色のある立派な保育ができるところではなく、当たり前の保育が当たり前に行われるようにすることだと考えています。
言ってみれば、保育の質の高さ以前に質の低さをどうにかしようよということです。
◆
さて、今日のテーマは、保育園選びの際に気をつけたいことです。
保育園の宣伝文句を見ると「あれ、ここは・・・・・・」と思うようなところがあります。
そして、そういったところの内実を見ると、やはり保育の質がともなっていません。
どんなところかというと、誇大広告になっているところです。
「お子様が○○できるようになります」
たいていはこれのバリエーションです。
・オムツが外れます
・字が読めるようになります
・計算ができるようになります
・運動ができるようになります
・食べ物の好き嫌いがなくなります
・お箸が使えるようになります
・あいさつができるようになります
・モノの貸し借りができるようになります
こういったうたい文句で園児を募集していたり、自園のアピールをしているところはあまり質がともなっていない場合があります。全部がそうではないかもしれませんが、本当に質の高い園はこのような言い方をまずしません。
なぜなら、そんなのわからないことだからです。
だって、どんな子供が入ってくるかもわからないのに、軽々しく「○○ができるようになる」って責任もって言えるはずはないのです。
(健康器具や、美容品の宣伝と同じだね)
本当に保育の質を高めようと長年にわたって努力、研鑽を積んでいる施設は、そもそも「○○できる子が子供として立派」といった見方はとっくのとうに卒業しています。
「子供の姿を○○できるようにすることが私たちの仕事」と考えている園では、子供の支配・管理におちいり易くなります。
それゆえに不適切な保育になってしまうところもあります。
例えばオムツを早くに外すことがいい保育と考えている園では、オムツがなかなかとれない子は、肯定的な日々を過ごせません。
オムツがまだとれないAちゃんに、「ほら、見て見てBちゃんはもうパンツはいているんだってすごいねー」と、その保育士としては良かれと思って「他児と比べて子供の個性・あるがままの姿を否定する」という本来保育士がすべきでない行為が自然とでてくるといったことが起こります。
もっと程度がひどいと、「オムツはいている子は赤ちゃんね」といった、自尊心を傷つける行為が「子供を○○にするための当然の保育」としてなんの悪意もなくなされてしまいます。
さらにはもっと極端に、失敗をなじり廊下に出したり、ずっとトイレに放置しておくなど、精神的な虐待では思われることまでするところもあります。
◆
勉強的な「○○ができるようになる」といったことにしても、子供が素直で大人の意に沿って習得していく子ばかりならばいいですが、例えば発達上の個性がある子で他児と足並みをそろえた活動が不得意だったりする子は、その施設の中では手のかかる存在、迷惑な存在と見られかねません。
良心的な保育者であっても、そういった方針の施設の中では、「このカリキュラムをさせたいけど、そこから逸脱する子に対して努力して悪く思わないようにする」といったレベルの対応にならざるを得ません。
こういった保育者の姿勢は、たとえ逸脱しない子供たちにとっても不利益を与えます。
そのように子供の「できるできない」ではかられている保育空間は、そこで過ごすどの子にとっても快適で心安らぐところではありません。
(ノルマの厳しい営業部みたいなものですね。クリアしていない人にはもちろん、クリアしている人にとっても居心地がよくありません)
そして、ここが大切なところなのですが。
保育について適切に学びを積み重ねている園であれば、「個々の発達段階」という視点がなにより重要であることを知っています。
その子その子の発達に応じた活動をすることが、その子の能力をもっとも伸ばすという知見です。
例えば、最近ハイハイができるようになった子であれば、ハイハイをたくさん楽しみながらできるように環境を整えたりアプローチを配慮します。
なぜなら、その子はいまハイハイができるようになりそれが楽しめるという発達段階を得ているからです。
しかし、保育への理解が浅い人は、「○○できるようにする」にとらわれ、その発達段階の理解を無視して次の段階のことを習得させようとします。ここで言えば立って歩かせる努力をさせることが保育だと思ってしまいます。
発達段階に合った課題を十分にすること、これが子供を成長させるための基礎的な理解です。
知的・教育的な発達面に関してもこの原則はかわりません。
この点が、いわゆるお勉強的な到達点を売り文句にしているところには不備であると指摘できます。
適切な保育を学んできた保育施設はそのことを理解しているので、お勉強的な「○○ができるようになる」という保護者へのリップサービスを使ってアピールすることをしません。
なかには、きっぱりとそれは不誠実だと考えているところもあります。
総じてそういった誠実で堅実な保育施設は、一般にもてはやされているような園と比べると地味に見えることでしょう。
子供に適切な保育を展開しているところは、「○○ができるようになります」というサービス業的な宣伝文句をそもそもしないのです。
だって、できる子だろうとできない子だろうと、どんな子であれ同じように受け止め慈しみ育もうと思っているから。
「できる子は立派、できない子はまだまだ」といった考え方そのものがでてこないのです。
だから、「○○できるようになります」というところは、それが全部が全部不適切な保育をしているとはいいませんが、中には不適切な保育に陥っているところもありますし、保育への理解はそんなに高くない可能性があります。
これに関して、株式会社の企業立、昔からある社会福祉法人の認可園といった区別はあまりできません。
何十年もやっている社福の認可園でもそのようなレベルのところもあるし、最近できた企業立のところでも理念を深めて子供の本質的な成長を目指そうと努力をしているところもあります。
これはどんな業種でも言えることですが、「素人をだます」のは簡単です。
ただ、保育界の場合は不勉強、無自覚があって、施設自体や保育者が自分たちもそれがいいことだと思い、悪意なくそれが行われてしまっているという現実があるようです。
| 2018-10-31 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
子どもがすくすく育つ幼稚園・保育園 ~教育・環境・安全の見方、付き合い方まで(内外出版社) - 2018.10.11 Thu
といっても、最近は一年中そうかもしれません。
僕もしばしば保育園、幼稚園選びのポイントについて聞かれます。
これに答えることはいろんな意味で難しい。
純粋にいい保育所の条件を挙げるだけであればそう難しくもないのだけど、個々の人の状況で選択するという点において、それは不安を煽るだけにしかならないことがあるし。(というより、ほとんどそうなる)
この点、自動車の評論家かなんかだったら、もっとすっきり伝えることが可能でしょう。
「その予算で、その用途ならば、これとこれとこれの中から選べば間違いないですね。後はあなたの好みですよ」といったことが言えますからね。
しかし、保育施設は通える範囲から選ばなければならないし、そもそも選べるどころか入れるところがあるかどうかがスタート地点ですから。
本当は、「どこに行っても問題なく子供が育ちますよ」と言えなければならないと思うのです。
だって、保育士は仮にも国家資格を取ってする仕事なのだから。
しかし、現実はそれに沿ってはいません。
そのことに対して、保育士として忸怩たる思いがあります。
例えば風邪といったありきたりな病気であれば、全国どこの病院に行ってもそれなりにしっかりした治療を受けられますよね。例外はあるにしても、それが基本です。
しかし、ありきたりな普通の保育を求めているだけでも、なかなかそれが保障されないというジレンマがあります。質の高さにおいて個々の差はあったとしてもいいけれど、及第点がクリアされていないというのは本来あってはならないのだけど。
そんななかでこちらの本は、保育園、幼稚園、こども園を選ぶ際のポイントは、その後のつきあい方、保育を見ていく視点などを提示してくれています。
保育の諸問題に精通しているジャーナリストの猪熊弘子さんと弁護士の寺町東子さんによる共著です。お二方とも大変信頼できる著者です。
こちらには猪熊さんへのインタビュー記事があります。前後編。
かなり突っ込んだ鋭いことが書かれています。
選択肢が限られていても、幼稚園・保育園を見学して欲しい。子どものためになる「保育」とは?/猪熊弘子×治部れんげ(Wezzy)
保護者は「消費者」ではない。子どものためにも、保育園・幼稚園を一緒に育てていく視点を!/猪熊弘子×治部れんげ(Wezzy)
| 2018-10-11 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
なぜ保育のバックボーンを「愛情」にすべきでないのか - 2018.09.05 Wed
でもまあ、事実だから仕方がない。
「愛」を保育の屋台骨に据えている人は山ほどいるし、なかにはそのスタンスで本当にいい保育をしている人もたくさんいる。それは事実。
でも、それは今後の保育界のためには僕はプラスにならないと断言できる。
◆「愛」だけでは保育理念として不十分
「愛」を口にしながら、ひどい保育をしているひともいるし、ひどいまではいなかくともお粗末な保育をしている人もいる。
なぜか?
だって、「愛」は抽象論に過ぎないから。
体罰しながら「愛」っていう人だって山ほどいるでしょ。
抽象論はだれだって口にできるんです。
本当はプロの仕事なのだから、その抽象論を具体論に置き換えられなければなりません。
「じゃあ、あなたのいう愛って子供になにをどういう風にすることなの?」と聴かれたら、それはこれこれこういうことです。そして実際にこのようにやっています」と言えるのがプロの仕事。つまり専門性のある保育。
抽象論だけで、素晴らしい仕事ができてしまう人がいるのも事実です。
しかし、それは敷衍すること、具体論として他者に広めることが難しくなります。
保育は、ひとりの天才の仕事よりも、仕事のスキルを持った10人の凡人の方がはるかに子供や社会の利益になります。
その人のセンスが良くて、いい仕事がたまたまできてしまうというのは、一見するとスマートでかっこいいのだけど、現実はあまりいいものではありません。
例えば、職人仕事に置き換えて考えてみればそれはわかります。
家具職人がいたとします。その人がいいものを作れるのは、たまたまではなくそれを作れるだけの技術(保育でいえば保育スキル)、そしてこういうモノを作るという意図(保育でいえば配慮)があってこそです。よく経験や勘ということがもてはやされるけど、それはあくまでこれらがあってこそのものです。
このようにセンスや抽象論に、その仕事が担保されているのではなく、スキルと意図に寄っています。
保育も同様で、「愛」という抽象論だけを良い保育の後ろ支えにしては、それは長い目で見たときの保育の向上のためにはなりません。
◆センス、感情論は継続が保証できない
ひとりの人が漠然と持っている抽象論を専門性の担保にしていると、それは容易にくずれます。
こんなことがあります。
平保育士時代、子供たちにいい保育をしていたと思っていた人が、主任や園長になったとたん職員に対してもハラスメント上司になり、子供に対してもその子個人の利益よりも、クラスや園としての評価のために「○○できる」ことを求めはじめたり。
また、そのようでなくとも、自分の個人的問題や家族の問題が起こってしまうと、それまでのよかった保育はどこへやら、子供に厳しく八つ当たりするような保育になってしまったり。
こんなことを僕自身もたくさん見てきたし、いまでもひんぱんに現役の保育士さんから同様の話を聴きます。
このように、抽象論や感情論を、プロの仕事の担保にしてはならないのです
◆「愛」は口にするだけで気分が良くなってしまう言葉
しかし、この点に気づいている保育士や保育学者も少なくないのになぜここから進歩しないのでしょう?
ひとつは、「愛」というのが「よきもの」と一般に見なされているので、そこに否を唱えるのは勇気がいること。単純に、読み手が好まないもの書いても本売れないしね。
もういっこ、こっちが大きな理由。
愛という言葉と「承認欲求」が密接な関係を持っているからです。
このように見てみるとそれが見えてきます。
「保育には愛が大切だよね」などに類することを言っている人の心理を考えてみます。
それを口に乗せる人は、ほぼ100%の人が「自分はそれができているよ。もちろん」という心情を持っています。
このとき、実際にできているかどうかは関係ありません。
素晴らしいレベルでできている人もいれば、真逆の人もいることでしょう。
ただ、「愛」という「良きもの」を口にするとき、自分はその「よきものの実践者である」という自己承認をすることができます。
これは大変気分のいいものです。
保育士グループのようなところだと、そういった人たちが集って互いに素晴らしいと認め合うことができるので、なおのことそれは高まります。
別にそれをしている人たちを批判しているわけではありませんよ。全員が承認欲求に飢えていると言うわけでもありません、そういった心理が醸成されうるという話です。
◆「愛」が作り出す、精神的負担
ここに、もうひとつの「愛」のもたらす側面が見えてきます。
「愛」で保育を作っていくと、この承認欲求の肥大が避けられません。
なぜならば、「愛」という言葉は自己犠牲を求める心理をもたらすからです。
自己犠牲的に仕事をすることになるので、そのしんどさとバランスをとるための、なんらかのバランサーが天秤秤の反対がわに載せる必要がでてきます。それが承認欲求です。
「保育って愛だよね。子供ってかわいいよね。(それができている私って素敵、誰か認めて)」という心理や、子供の行動による成果「私が指導したから、○○ができるようになった」、「子供たちに運動会を立派にやらせて大勢の人に見てもらった」。立派な壁面装飾を作成した。
こういった目に見える承認欲求を欲せずにはいられなくなります。
これで子供も保護者も園もwin-winの状態であれば、まだいいのですが。(それとて本当はプロの仕事としたら無自覚のそしりは免れ得ないのだが)
子供や保護者の利益そっちのけで、自身の承認欲求のために保育を展開していくようになると、そこに保育の専門性はなくなります。
だから、「愛」という感情論抽象論を保育の専門性の担保に使うことはできないのです
◆補足1 「承認欲求」について
承認欲求自体は悪いわけではありません。
しかし、それのためにクライアントの不利益までも生み出してはいけないのです。
(例えば、「立派な朝の会をやりたい」という保育士の主観的な思いから、発達段階や状況がそれを可能にしていない子に対してまで、「座りなさい」「話を聴きなさい」「言うことを聴かない子はホールから出て行きなさい」というような不適切な保育など)
あくまでクライアントの十分な利益の上に、プロとしての承認欲求を満たしていくべきです。
ゆえに、「プライドは自分に持つのではなく、仕事に持つべき」と考えられます。
◆補足2 「愛」という言葉は束縛や支配、抑圧のために便利に使える
「愛」という言葉は、ハラスメントをする人も大変好んで使います。
例:
・自分の手柄にしたいために子供に○○させることを担任に要求する。それが子供の不利益になるからと拒否した担任に対して、「あなたは保育士として愛情がない」と非難する
・毒親が子供を支配するために「私はあなたにどれだけ愛情をかけたと思っているのだ、この親不孝者」とののしる
この言葉は「よいもの」であるがゆえに、人を束縛しコントロールすることにも使えると言う側面もあることも忘れないようにしておきたいものです。
※この文章はTwitterで投稿したものを加筆訂正して作成しました
https://twitter.com/hoikushioto
| 2018-09-05 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
事例で見る難しい子の対応 vol.7 質問への回答(6) - 2018.08.14 Tue
僕は保育カウンセリングという手法の研修をすることがあります。
単に講義をするのではなく、僕自身が保育環境の中に入って子供たちと接し、特に対応の難しい子への関わり方を実地を持って示すことで、より実践的な保育を伝えるものです。また、保育者の疑問や悩みを聴き取りながら、それに寄り添い、保育者個々が保育の手応えを感じられるサポートをします。
そういう中で、僕が受容的肯定的な雰囲気を持って子供たちの中に入っていくと、大人に肯定的に受け止めて欲しい欲求を抱えた子がやってきます。
可愛らしく関わってくる子。
遊びの中で関わってくる子。
単に甘えとして出す子。
大人がしんどくなるほど強い甘えで出す子。
要求をぶつけることで出す子。
もっと明確に、嫌がる行動で関わってくる子。
この内、最後の3つは対人関係モデルの問題となっている場合があります。
また、これらは年齢があがればあがるほど、その問題の根っこは根深くなります。
実際のケースですと、
園庭で僕がオニになって追いかけっこをしているとき、わざわざ蹴ったり、叩いたり、砂を掛けてきます。
その育ちの中で他者への信頼感が形成されていて、他者と無理なく関わることができるようになっている子は、「こっちだよ~」と呼びかけてきて、その追いかけっこの枠組みの中で僕と関わろうとします。
素直な子や幼い子だと、もっとストレートに「わたしのことマテマテ(おいかけて)してー」と言ってきます。
しかし、他者とどう関わればいいかわからないという対人関係のモデルに問題が発展している子は、そのあたりの区別がつかないので、ネガティブ行動になってしまいます。
それが、蹴ったり、叩いたり、砂を掛けるといった、される側としては嫌としか思えない行動です。
他のシーンでは、わざとつねってきたり、僕がかけているメガネを取ろうとするといった関わりがよくあります。
これらが、その子が持っている(持たされている)不適切な対人関係モデルから導き出されたネガティブ行動です。
この不適切な関わり方を、注意や叱責といった規範意識からの否定ではなく、その子への援助として寄り添った姿勢から、より適切なものへと変えていくことがこのとき保育士に与えられた課題です。
子供はひとりひとりが違うので、どのように対応したらそれが改善されるか絶対の正解があるわけではありません。
なかには、その子供の側の文脈に乗ってあげて、それにつきあう中で信頼関係をつちかい、そこからだんだんと適正化していけることもあるでしょう。
しかし、それでは深刻なケースほど解決しません。
なぜなら、それは保育士が子供に合わせて「頑張れる」人であるから、それが受けられるのです。通常の他の大人(もっとも身近なところでは親)は、そういったネガティブな出し方をこころよく受けられるわけではありません。そしてそれは当然です。もし、そこで親なり周囲の大人なりが、頑張ってその子の行動を受けていくようになれば、頑張って受けることが限界になったときに、その子育てはどうにもならないところにはまってしまいます。
例えば、1~2歳の子のネガティブな出し方は大人が頑張れば受けることができます。
しかし、その行動のモデルを持ったままその子が5歳になったとき、受けられる大人はいません。
これは保育士だってそうです。
ある程度年齢があがり、力や脅し、子供だましで動かせなくなったとき、その子育てはどうにもならなくなり、無視や疎外、怒り叱り続けるしかなくなってしまいます。
ですから、「子供のネガティブ行動に頑張って応えていくこと」は、長期的に見た場合その子のためにはなっていないのです。(こういった対応は特に家庭での子育てに多く見られる)
◆
そこで、その子の持っているネガティブな対人関係モデルを、互いにムリのないものに習得させ直すわけです。
具体的には、その子との信頼関係の上で、「私はその関わり方はイヤ!」と明示し、「こうならいいよ」というのを伝え、その「こうならいいよ」の関わりからその子が満足できる状況を繰り返し引き出していくことです。
僕のメガネを取っていこうとする子に対しては、「メガネ取られたらほんっとに困る!」と感情を込めて伝えます。
ここで、包括的受容の精神を思い出して下さい。
その気持ちを持って、「そんなことしなくても、僕はあなたのことちゃんとみているから大丈夫だよ」と伝え、ハグしたり、その子が遊びたいことを一緒に楽しむようにします。
何度も繰り返しますが、これはこういった行動だけなぞっても実効性はありません。
その子との間に信頼関係が築かれていなければ、その言葉も行動も子供の心に響きません。
なので、その場になってのアプローチではなく、普段から肯定、共感、見守りの関わりが大切なのです。
追いかけっこをしてくるときに、関わりが欲しくて叩いてくる子や、砂をかけてくる子に、その行動を我慢するだけ、受け入れるだけであれば、その子はずっと他者と関わるときに嫌がることをし続けてしまいます。
その行動では「お互いに気持ちよく関われないんだよ」というのを、保育士という対人関係の練習台が応えていき、適切な形に変えます。
(追いかけっこの中で)「砂投げるのはやめて!それは本当にイヤだから」
その素直で正直な大人の気持ちを込めて、明確に伝えます。
その上で、「こうすればいいんだよ」というのを示していきます。
例えばですが、「そういうときは、こっちだよ~っていってごらん」などと伝え、その関わりを出させて、その関わりを出したときは思いっきり楽しく、肯定的、受容的に笑顔で関わり返します。
◆
ここに発生するのがメリハリです。
ネガティブな関わり方を出したときは、大人はきっぱりNO。
しかし、お互いに心地よい関わりを出したときは、大人は気持ちよく自分に応えてくれる。
この実感、落差を子供自身で経験させます。
子供が良い関わり方をしても、さして大人のいい反応が得られないのであれば、子供のネガティブな関わり方は変わりません。
規範意識から子供に関わる人には、このメリハリが失われます。
ネガティブなときに強いNOがあるばかりで、ポジティブなときに良い反応が見えないので、子供には自律的にどうすればいいのかわかりにくいのです。
そして、前にも伝えていますが大切なことなので何度も言います。
大人からの良い関わりは、子供に要求されてから出したのでは遅いのです。
意識的に、普段から大人の方から良い関わりを出していく必要があります。
「大人の方から」つまり積極性です。
これに気がつかず、後手後手の対応しかできないと、子供の良い姿はでてきません。
大人から肯定的・受容的な・楽しい関わりをしていくのです。
だから、大人から子供をくすぐりに行き、大人から子供を追いかけっこし、大人から共感し、大人からあなたのことを大切に思っていますよと伝えていく必要があるのです。
とりあえず、このシリーズはここで一旦区切り。
ブログで書いて伝えるにはちょっと込み入ったものになってしまったからね。
こういった実践的な保育をもっと知りたいというかたはぜひ↓のセミナーにいらしてください。
来月開催。僕の保育講座↓
9月15日(土) HOIKU BATAKE公開セミナー&交流会 保育士おとーちゃんに学ぼう「保育のチカラ」
| 2018-08-14 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
事例で見る難しい子の対応 vol.6 質問への回答(5) - 2018.08.13 Mon
◆前回、後述するといった部分 「対人関係モデルの問題」
愛着形成、他者への信頼感などの、対人関係上の基礎部分が安定できていない子への対応の際、その子に意図的な信頼関係構築のアプローチや、受容、共感といった意図的な肯定のアプローチが始まっていない段階で、そのネガティブ行動が出てきた時点の対応にあまり注力しなくていい、どれほど頑張ってもあまり功を奏しないというのは、前回もそれ以前の回にも述べました。
これは、注意や叱るにといった関わりだけでなく、その場に際しての肯定や受容、それこそ包括的な受容の対応だったとしてもその可能性があります。
なぜか?
それはその子の持つ「ネガティブな人との関わり方」(ネガティブな対人関係モデル)の固定化、助長につながる場合があるからです。
注意して欲しいのは、「かまって欲しいから悪さをしている。だからそれには相手にしないのだ」といった一般に良くありがちな見解には落ちいらないことです。
これは背景に、子供を低くみる精神が隠れています。
その見方に踊らされてしまうのは、子供を大人よりも下の存在とみなし、管理、支配しようとする心の動きを助長することにつながります。
◆
専門的に保育を考える上では、その行動は「その子が獲得させられてしまった(獲得させられつつある)不適切な対人モデルゆえに、出さざるを得ない状況に置かれている」とみていくべきです。
子供がその生育歴の過程で、適切な愛着形成や他者への信頼感の獲得が十分に得られなかったり、行動面の過保護過干渉、さらには心の過保護、依存、大人からの否定の積み重ねや、疎外や無視、管理、支配、誘導されるような関わりを積み重ねられてしまうと、その子供は他者とどのように関わればお互いに心地よく過ごせるのかがわからないまま年齢を重ねていくことになります。
そうなると、(大人から見たとき)ネガティブな行動によって関わってくる子供が導き出されます。
これが「不適切な対人モデルを獲得させられた状況」です。
例えば、
・自分の失敗やうまくできないことを否定されたり、叱られてばかりきた子は、大人に対してそれらを隠そうとしたり、嘘をつく行動をとるようになる
・自分のよい姿に肯定的な共感をしてもらうことの少なかった子は、ネガティブな行動をとって大人に関心を持ってもらおうとする
・無視、無関心を重ねられてきた子は、大人が怒らずにはいられないことを行動としてせざるを得なくなる
・過保護、過干渉が常態となりそれで日常を送ることが当たり前となってきた子は、自分で解決したり乗り越えようとする行動をとらなくなり、最初から大人に頼るようになる。次第に、自分のうまくいかないことは大人のせいと考えるようになり、大人に当たったり、ごねたりする行動を出す
などなど。
このように、子供のネガティブ行動の根っこは周囲の大人が作り出していることがほとんどなのが実情です。
もっと具体的に言うと、
室内遊びの時間に「えほんよんで~」と持ってくる子は、大人も無理なく関われます。
これは、その子供が「こう関わればその大人と無理なく関われる」ということを、それまでの生育過程から理解しており、そこから無意識に互いに無理のない行動を選択して他者と関わっている姿です。
そうやって互いに気持ちよく絵本を読んで、その子も自分の要求を受け止めてもらったことに満足し納得して、その後自分の遊びに行ったり、保育者が昼食の準備があるからここまでだよと伝えたときにはすんなり理解することができる子(安定的な対人関係モデルを獲得している子)がいる一方で、そうはならない子もおります。
絵本を持ってくるだけ持ってきて、さして聴きもせず大人がそれにうんざりしていたり、イライラしてきていても、それに気がつく余裕もなく繰り返し要求し、つきあうだけつきあった後でも、食事の用意などどうしても必要な事情で終わりにすることを伝えても、それに納得できずごねたり暴れたりする子がいます。
こういった状況の子を、保育者が感情的にとらえてしまえば、「わがままな子」「しつこい子」などの否定的な見方におちいってしまいます。
しかし、実際はそのようにその子自身の性質に問題があるのではなく、どのように関わればお互いに心地よく過ごせるのか、またそれがわかっていたとしてもそれをするだけの心の余裕がない状況に置かれているといった、その子が他者と関わる際の対人関係の問題があります。
つまり、「ネガティブ行動は大人によって作り出されている」わけです。
もう少し正確に言うと「ネガティブ行動は、それまでの大人の関わりにより形成された対人関係モデルの結果出ている」のです。
それを叱ったり注意したりしたところで、その対人関係のモデルが変わらなければ、そのネガティブ行動がなくなることはそうそうありませんし、さらにその根っこになっているその対人関係のモデルを作り出した大人の関わりが変わらなければ根本的には解決しないものです。
保育者は、個々の子供の人格形成にたずさわっているのですから、それが適切なものになるようにサポートしていく必要があるでしょう。
そこで、この現状の「ネガティブな対人関係モデル」を「適切な対人関係のモデル」に変えていってあげることに配慮しなければなりません。
そこで、その不適切な対人モデルを持たされた子にどのようにアプローチすればいいのか?それを次回まとめます。
つづく。
来月開催。僕の保育講座↓
9月15日(土) HOIKU BATAKE公開セミナー&交流会 保育士おとーちゃんに学ぼう「保育のチカラ」
| 2018-08-13 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
事例で見る難しい子の対応 vol.5 質問への回答(4) - 2018.08.11 Sat
◆その他の対応例3 「包括的受容」
僕の保育研修を受けた人は包括的受容の話を聴いてると思います。
これは現代の保育士に必須のスキルと言ってもよろしいかと思います。
研修内では、この概念を印象づけるために半分冗談で「もし僕の名前が保育史に残るとしたらこの包括的受容の提唱者として残るはずです」と言っています。
包括的受容については、このブログでも過去記事に述べています。
「いい保育」と「上手い保育」 vol.8 『包括的受容』
http://hoikushipapa.jp/blog-entry-969.html
子供が衝動的に逸脱した行動や、肯定を求めるためのネガティブな行動をとったとき、この包括的受容の関わりをすることで安定が得られるかもしれません。
ただし、それはそのときの状況や、周りの子の状況も関わってきますので、それをすれば絶対といったようなものではなく適宜判断が必要なのは言うまでもありません。
また、その子と保育者の間に、そもそも信頼関係が築かれていなければ包括的受容の形だけなぞったとしてもそれが子供に響くことはありませんので、多少なりとも信頼関係の構築が先に必要です。
では、このB君のケースにおいて、包括的受容を具体的に見てみます。
保(B君の行動を見て)「あら~どうしたの~~」
(間)
「そうかそうか~~。うんうん、わかったよ~~」
「でも、そんなことしなくても私はあなたのこと見ているから大丈夫だよ~~」
(上のような肯定的な言葉を掛けながらギューッと抱きしめる)
「はい、じゃあ落ち着いたら絵本みようか~」
このように、保育者は子供のネガティブ行動と同じ地平の上で注意をしたり、叱ったり、我慢をしたり、なだめたりするのではなく、それよりももっと大きな見地から子供の存在そのものと、子供の行動を包み込んで受容してしまうことにより、子供の心のネックになっている部分そのものに手を当ててあげる関わり、これが包括的受容です。
注意するだけ、叱るだけ、怒るだけならば、誰だってできるのです。それは簡単で、しかも自分の感情のままに行動できるのでラクでもあります。でも、プロとして子供を保育するのですからこういった専門性が要求されています。
つづく。
来月開催。僕の保育講座↓
9月15日(土) HOIKU BATAKE公開セミナー&交流会 保育士おとーちゃんに学ぼう「保育のチカラ」
| 2018-08-11 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
事例で見る難しい子の対応 vol.4 質問への回答(3) - 2018.08.07 Tue
ネガティブな行動を起こす前に、、、というお話の中で、肯定を積み重ねる日々の細やかな対応が大切であるということは充分飲み込んでいるのですが、今回のようにズボンをみんなの前でおろしてしまったり、気持ちが高ぶってしまっているときは具体的にどのように対応してあげたら良いのでしょうか?
どんなに優しく言っても否定になる。ことと、こちらが嫌だと思ったらそれは我慢せずその子を対等な人として伝えていくことが大切。ということの自分のラインがみえてくると良いなと思っています。よろしくお願いします。
◆
前述のように、問題の姿が出てしまったその場面での対応は、この問題の根っこからの解決のためにはあまり功を奏しません。
特に受容と肯定の対応の初期段階ではそうです。
子供の側から考えると、「肯定が欲しいがためのネガティブ行動」が衝動的に出さずにはいられない状況です。
その場だけの対応で対処してしまおうとすると、どうしても止めたり、注意したりという対応にならざるを得ませんし、どれほど許容的な対応をできたとしても、そこにはある弊害が生まれます。これに関してはあとで述べることにします。
わたるさんが書いてくれた事例の場面では、
他の先生がB君に何かを手伝うようお願いすると、B君はそっちの方は行き、なんとか絵本を読み始めることができました。
とありました。
これはいい対応です。
こういった対応で、受け流していくのもひとつの手でしょう。
◆その他の対応例1
他には、「どうしたの?」という問いでB君に関わるという対応も考えられます。
保「どうしたの?」
B君「~~~~」(なにか述べる。その内容がなんであれ)
保「ああ、そうなんだ~~」(ゆっくりと返し、間を大きく取る)
B君「~~~~」(それでもなにか言ってくる)
保「ああ、そうなんだ~~」(必要なだけこれを繰り返す)
B君(言うだけいって満足して何も言わなくなる)
保「うん、わかったよ~~。じゃあ、絵本読みたいからそろそろ読むね~」
◆その他の対応例2
B君の興奮やふざけが激しく会話にならない、もしくは、他の子も影響されてしまって収拾がつかないようなとき。
その課題、ここでは絵本読みを取りやめてしまうというのも有効なひとつの手です。
ただし、それは疎外のためにつかうわけではありません。
日本の「しつけ」子育てでは、ひんぱんに子供を思い通りに動かすために、「言うことを聞かないともうつれてきてやらないぞ」「従わないなら帰るぞ」といった脅しをすることで子供を疎外し、大人の子供へのコントロールを円滑にしようとする関わりがあります。
これは、不誠実な対応であり本来子育ての中でも使うべきではありません。保育士が保育の中でとなればなおさらのことです。
ですので、この取りやめるというのは冷たい心持ちでするのではなく、あっけらかんとするのです。
それは実は専門性に根ざした対応です。
「現在のクラスの状況では、この課題は発達段階や子供たちのおかれた状況から適切でなかった」
という判断をしたのです。だから、なんのてらいもなく「ああ、今日のこの子たちの状況では無理だった」と柔軟に考えればいいわけですね。
これを「やらねばならない」と、柔軟さを欠いて保育者のメンツの張り合いのような形にしてしまうと、保育者の心理もそれをさせねばという規範意識が強まってしまい、子供たちに否定的な感情や関わりが導き出されかねません。
学習課題としてしなければならない学校と違い、保育士はこの柔軟さをもっと重視していいことだと思います。やらせることにこだわっていくよりも、こういった柔軟な対応をした方が、遠回りに見えて実は近道です。
例えばこんな風にして見ます。
保「そうだ、今日はハンカチ落としやろうかな~と思って用意していたんだった。絵本は今度にしてハンカチ落としやろうか~」
その他、時程を前倒しして戸外遊びにいくなど、その場その場で臨機応変な対応を。
そうすることで、B君を悪者にせずに対応をしていくことができるでしょう。
◆事例としての判断
そのときの事例から得られた考察は、「やらねばならない」という課題に縛られた小さな視点からだと、
「B君や、他の子が騒いでしまうことで課題として考えていた絵本の読み聞かせができなかった」
というものになってしまいます。
専門的に保育をするに当たっては、それよりも大きな視点で子供たちをみられるといいでしょう。
そのためには、現状の客観的判断からします。
保「B君を含め現状のクラスのあり方では、一斉保育での絵本の読み聞かせをすることは難しい場合がある」
「やらねばならない」というのは保育者の主観的な判断です。それを取り除いてありのままの事実は↑これなのです。
それを踏まえて、今後どうしていけばいいかを考えます。
保育者としては、「絵本の読み聞かせはしたい」という思いがあります。
でもそれを一斉でやろうとすると、どうしても邪魔をしたくなってしまう子がおり、困難な状況にあたってしまいます。
だから、その枠組み自体を変えるのです。
通常はその問題になっている子供を変えようと焦るので、その子たちへの否定の関わりが強化されてしまいます。
しかし、それではその子たちを落ちこぼれにしてしまうことにつながります。
そこで、柔軟に考え、一斉での読み聞かせをやめてしまえばいいのです。
例えば、自由遊びの間に保育士があまりアピールせずに保育室の一角で本読みをします。
興味がある子は聞きに来ますし、興味が持てない子はそのまま自分の遊びを続けることができます。
興味が持てない段階の子に、無理にさせたとしてもあまり意味はないのですから、これで十分保育のねらいは達成されていると考えていいのです。
また、その場面で同じようにB君や他の子が邪魔をするような関わりを出してきたとしても、「あ~別に絵本見たくない人は、そのまま自分の好きな遊びしてていいからね~~」と軽く受け流せるので、これは疎外にならずに済みます。
また、保育者の心理的にもラクになります。一斉保育としてやってしまうと、「全員に聞かせなければならない」「静かにさせねばならない」という気持ちから余裕が奪われてしまいますが、自由遊びの中ですることにより、そこから保育者自身も解放することができます。
つづく。
| 2018-08-07 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
事例で見る難しい子の対応 vol.3 質問への回答(2) - 2018.07.29 Sun
クラスの大半が、受容的な担任の先生に受け止めて欲しくて言いたい放題やりたい放題。中には毎日のように「死にたい」と訴えて来る子もいます。(本気で死にたいと思っているのではなく、大人の気を引くために口にしているように見受けられます。が、このまま年齢が上がっていけば、今は狂言で「死にたい」と言っているのであっても、いつか本気で「死にたい」と思うようになっていくのではないかと恐ろしい心地がします。)
◆
子供が「死にたい」と口にする。
そんなとき「子供がそんなことを言ってけしからん!」といった、感情的否定のニュアンスをその子に向けてしまう人がいます。
それは危険な行為です。
どんな子供であれ、「死にたい」と口に出すのは、それを言わせてしまう大人の社会に問題があるのです。子供を責めるのではなく、社会の一員としての大人、そして自分を省みる視点を持つ必要があります。
子供がそのように口に出さざるを得ない社会は、その社会にあり方にゆがみがあり、それは異常事態であり、非常事態です。日本はすでにそういった社会になっていることを、多くの人が認識すべきではないかと思います。
◆
子供が「死にたい」といったり「自傷行為」をしたり、実際は自殺未遂までいかなくともリストカットなどをすることに対して、一般には、それが自分への注目を求めるゆえと解釈する向きがあります。
人によっては、それをさらに否定的にとらえて、「甘えだ」などと断罪しようとします。
これは実際に、我が子がリストカットなどをしていたときに、その親がそういった心持ちや対応をしたりします。その大人の行為は大変危険なものです。
なぜか?
子供(大人もですが)のそういった、リストカットや自傷行為、死にたいという言葉は、自分への注目を求めての行為がメインなのではありません。そういった傾向がある場合もあるにしても、本質は違います。
その本質は、「自罰感情」です。
自分は悪い子であるという認識を強く持っており、その自分を否定するために、自分で罰する行為。それが「死にたい」という強い自己否定や、実際に罰を与える自傷、リストカットへと無意識に子供を導かせてしまいます。
これに先立つ記事で、現状多くの子が抱えている直近の問題が「肯定不足」=「否定の増加」ということを述べました。
たくさんの否定をそれまでの生育歴の中で積み重ねられ、さらに規範意識で押さえつけられ、否定に否定を重ねられて子供が育ってきたとき、その子は積極的な自己肯定感を持てず、自己否定感を形成してしまいます。
さらにはそこから、自分を大切にできないという「自尊感情の低下」を招きます。
ここに至った子に、さらに否定や、不寛容、その子居場所のなさなどが加わったとき、子供は自然と「自分が悪い」「自分はダメな人間だ」「他の人に比べてなぜ自分はこんなにおとっているのだ」そういった、とても強い否定の感情を自分自身に向けるようになります。
これは他者に肯定されることが少なく、否定されることが多かった生育歴がもたらしたメンタリティです。
それゆえに、意図的なわけでなく(だから狂言ではなく)「死にたい」という言葉がでます。
「死にたい」は、子供に肯定をおくることができなかった大人たちがその子に言わせている言葉なのです。
だからもし、その感情に対して「甘えている」「お前はずるい」「他の子はそんなこと言わないのに何でお前は」といった関わりを向けてしまうことは、二重三重にその子を否定することになります。
子供の自身に対する強いネガティブな感情。「死にたい」という言葉や、自傷、リストカットなどは「自罰感情」であることを大人は覚えておき、安易な感情的否定の見方におちいらないようにしましょう。
◆
日本では、不登校になっている子や、いじめの被害にあっている子に対して、「あなたの頑張りがたりないからだ」「甘えている」「ずるをしている」「他の子は頑張っているのに・・・」といった感情を大人が無自覚に持ってしまい、それを子供に出してしまうケースが大変多いです。
それは、大人自身が持つ規範意識の感情が強すぎて、目の前の本当のその子を見えなくしてしまっている状態です。
ただでさえ追い詰められている子に、もっとも信頼しているはずの親がさらに追い打ちを掛ける行為は子供を絶望に突き当たらせてしまいます。
例えば、上で出た「他の子は頑張っているのに・・・」という言葉。
これは、大人としてはなにもその子を責めるつもりで思っているわけでもなく出てくるかもしれません。
しかし、これは言われる当人にとっては、このように伝わります。
「他の子は頑張っているのに、お前はそれができないダメな人間だ!」
ただでさえ、その子は本来自分のあるべき姿になるべく頑張って頑張って、それでもそうなれないことに対して自分で自分を責めています。そこにさらに、「他者よりも頑張っていない」と信頼する人から言われます。これは自分の持っている自己否定を何倍にも増幅させる関わりです。
こういったことはなにも小学生や思春期の子だけにあるわけではありません。
1~2歳児といったごく低年齢の子であっても、積み重ねられる強い否定は、自傷行為や心身症、情緒の不安定、他児への攻撃、慢性的なダダといった姿として、同様に出ています。
年齢があがるにつれてそれは、数も増え顕著になってきます。
だからこそ、B君が出しているサイン「僕を肯定して、好意的に受容して!」の段階で保育者が適切に受け止めることで、そういった自罰的行為などのさらなる人生のネガティブな状況にはまってしまうのを防ぐ必要があるのです。
本来であれば、幼児期にそうなってしまうことを見越して、0~2歳児の間に対応していく必要があると僕は考えています。
その時期であれば、周囲の大人も親もその子への対応がしやすいですが、年齢があがるにつれてだんだん困難になってしまいます。
また、親子間の関係改善も、幼児期よりも乳児期の方が格段にアプローチしやすいです。
幼児期になったら手遅れということはないですが、こういった精神的な心の到達点を意識した保育を乳児期のうちからしていく必要が現代にはあると言えます。
保育士さんはぜひこの本をお読みになって下さい。現代保育における必読書です。
| 2018-07-29 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
事例で見る難しい子の対応 vol.2 質問への回答(1) - 2018.07.28 Sat
とても勉強になります。ありがとうございました。どれもこれまでのブログの中に書かれていたことですが、こうして事例の中でまとめられていると、実際の対応に生かしやすいです。
一つ質問です。わたるさんの立場の保育士が、他の子供たちから「Bくんはダメなことばかりするんだよ」と言われたら、その子達にはどのように返してあげたらよいでしょうか。また、一時的にネガティブ行動が増えた段階で、援助の関わりをしていることについて他児が「なんで怒らないの?」と言うような場合はどうでしょうか。
◆
子供たちの中には、「○○くんのこと怒って」と直接的に要求してくる子すらおりますね。
その子は、周囲の大人や保育者の関わりとして、「不適切な行動をしたとき怒る大人」を見てきたり、自身怒られる関わりを重ねてきたのかもしれません。
また、規範意識からの注意・過干渉をすることでの保育空間の安定のなかで過ごしてきたのでしょう。
これを強調していけば、他者の非をあげつらい断罪しようとするメンタリティを子供たちに獲得させてしまいかねません。
これは、いじめやモラルハラスメントの底に流れている暗い川でもあります。そこを保育者がさらに強調することはさけたいですね。
(しかし実際のところ、日本のしつけや規範意識からの子育てではここを強調していくので、いじめ、モラハラを防げない)
では、そういった周囲の子への対応について、方向性のひとつを書いておきます。
その子と保育者である自分の信頼関係を使い、B君を悪者にしないようにするのです。
対応例1
子「Bくんダメなことばかりするんだよ」
保「うん、そうだね。彼にもいろいろ理由があるんだよ。でも僕はB君のこと好きなんだよ」
対応例2
子「Bくんダメなことばかりするんだよ」
保「そうだね~。でも、それも受け止めてあげてほしいんだ。あなたはそれが受け止められると僕は思うよ」
対応例3
子「Bくんがたたいた~」
保「どうしたの~、ああそうか~。それは痛かったね~」
(被害をこうむった子の気持ちを受け止めることに着目し、B君を責めることでの解決にしない)
対応例4
子「B君がまた○○した~。B君のことおこって~」
保「あら~どうしたの~、ああそうだったんだ~。うんうん」
(この受け止める関わりだけで済むならここまででいい。さらに「怒って」を要求してくる場合↓)
保「僕はそれで怒ったりしないよ。あなたのことも怒ったりしたことないでしょ。きっとB君は自分でわかる力を持っているから、僕はそれを待っているんだよ」
◆
保育者である自分自身と、周囲の子供との信頼関係ができていれば、これらの対応でB君をつるし上げることを防げるはずです。
例えば対応例3などは、信頼関係があればこそ、その人に受け止めてもらえたということで、その子は納得できるわけです。ですので、その言ってきた子を丸め込んでいるわけではありません。(信頼関係のルートの関わりが使えない人は、同じ対応でもここが丸め込みやごまかしになってしまう)
子供との間に普段から厚く信頼関係を築くことにより、子供は保育者の気持ちを自分の気持ちのように共感してくれるようになっているはずです。もちろん、個人差はありますが、基本的にはそういえることでしょう。
これらにより、B君に対する周囲からの「悪い子」というレッテル貼りを防ぎます。
レッテル貼りがなされてしまうと、B君の立場にいる子は、肯定不足と自己否定がさらに募りやさぐれてしまい、余計に安定化が難しくなってしまいます。
◆
このような対応を示すと、保育者によっては「周囲の子が可哀想だ」という見解を持つ人もいます。
「ネガティブなことをするB君ばかりが優遇されて、ネガティブな行動を取らない周りの子が割を食っている」
という見方ですね。
これは専門性のある見解とは言えません。
なぜなら、福祉における「量的平等」と「質的平等」ということが、根本的に理解されていないからです。
B君は優遇されているわけではありません。
人が健全に生きていくための一定ラインへの到達点から遠い位置にいるB君をそのラインへより近づけさせるために、必要な援助をしているのです。
そのラインをすでにクリアしている子や、そのラインへの到達が近い子に対しては、そこまでの手をかける必要がないだけです。
量的平等でこういった問題を見てしまう人からすると、「不公平である」という見解がでてしまいます。しかし、それは福祉職として浅い見方と言わざるを得ません。
質的平等に照らし合わせてみれば、なにも周囲の子をわり食わせているわけではないのです。
もちろん、これを言うことができるのもその子たちとの信頼関係があればこその話です。
もともと、子供全体に管理、支配の関わりをしていたり、その子たちの健全育成を心がけていないような保育をしていた場合は、量的平等の働きかけしか存在しなくなりますので、それ以外の見方ができなくなることでしょう。
◆
はっきり言って、「量的平等」の概念で保育をしているところの質は大変低くなります。
保護者の方がこういったことを園に言われたといまでもしばしば耳にします。
・「あなたのうちのお子さんだけ特別扱いはできません」
・「ひとりの子だけ優遇するなんて不公平です」
育ちが安定的でなかったり、発達に個性があったり、障がいがあったりする子の保護者がしばしばこのような言葉を突きつけられ、大変苦しむことになります。
多くの場合、こういった言動をする保育者は、「ちゃんと、しっかり、きちんと」といった「規範意識」からの保育観を持っており、それに当てはまらない子を心情的に許容できないというスタンスから、それのもっともらしい理由として、上の「ひとりだけ特別扱いできない」というモラルで論陣をはっています。
でも、それって福祉の概念ではないのです。
それならばその人は、「いくらの対価をもらったらこれこれのことをする」「いくらもらわなければそれはできない」というサービス業をした方がよほどいいでしょう。
◆
もし、保育者が周囲の子の心情をそのまま受け入れて、「B君が悪い」というレッテル貼りをしてしまえば(意図していようとしていまいと)、B君に不利益になるばかりではなく、その他の子にも「他者への不寛容」という心の成長を得させてしまいます。
逆に考えれば、B君への保育者の寛容の姿勢を通して、周囲の子も「他者への寛容さ」を学べる機会なのです。
だから、対応例1や対応例2の関わり方が出てくるわけです。
◆
>援助の関わりをしていることについて他児が「なんで怒らないの?」と言うような場合はどうでしょうか。
に関しては、つまりその「怒る」は「規範意識」からの、「正しいか正しくないかに照らし合わせたときの正しくない行いに対しての怒る(叱るでも同様)」ということでしょう。
乳幼児に関して、というよりも人間の人格形成の基礎部分では、この規範意識からの正論はあまり意味を成さないからです。それどころか、そもそもB君のような肯定不足の状況を大きくしてしまう主な原因が、この「規範意識からの正論」です。
子育てに対してまじめで一生懸命で、特にこういったしつけや規範意識からの子育てになりやすい人が、現在子供の肯定不足、否定の蓄積、そこからのネガティブな姿の増加という子育ての問題に苦しんでいます。
◆
「怒る」というのとはちょっと違うのだけど、もし、感情を露わにしてB君にアプローチするときがあるとすれば、それは「私」の感情からの嘘のない関わりの場面です。
例えば、B君が保育者に対して、ネガティブな行動で攻撃するような関わりを取ってきたときや、他児に対して、またはB君自身が危険な行為をした場合。
「私は、それは本当にイヤです!」
「そんなことをしたら私は本当に困る!」
「それは私は悲しい」
規範意識からではなく、「私メッセージ」として感情を入れたアプローチをします。
なぜか?
「正しい行動だからしろ」
「正しくない行動だからするな」
これは規範意識からのアプローチです。
これは、子供との情緒的つながりとは別次元の関わりです。
それに対して、
「私が本当にイヤなのでやめて下さい!」
といった、私の感情に基づいたNOの関わりは、規範意識ではなく、子供と大人の信頼関係に基づいた情緒的関わりです。
年齢が小さい子ほど、この関わりが重要なのです。
B君は年長ですから、本来は規範意識の部分が多くなりつつある年齢ではあります。しかし、B君の問題は、心の発達で言えばもっと前の時点での課題なので、こういった情緒的な関わりを重視すべきなのです。
◆
これを踏まえて考えると、世間に流布する
「怒るんではない、叱りなさい」
という子育てのある種のメソッドが、絶対のものではないことがわかります。
情緒的安定や、他者への信頼感の大きな形成、社会性、自律心、自立心(依存の減少)こういった課題がクリアされた一定ラインを超えた子に対してであれば、規範意識からの叱るが機能します。その場合であれば、大人の自ままな感情からの否定的なアプローチよりも、理知的な叱るといったアプローチの方が良い場合もあります。
しかし、まだそういった心の成長の課題が一定程度確立されていない子に対しては、むしろ信頼関係に基づいた、情緒的なアプローチの方重要なのです。
※
B君を悪く思わないように周囲の子への働きかけの点は、
字面だけをみると、ハラスメントへの対応を書いた『ハラスメント対応のお作法 』の記事における、ハラッサーへの対応と矛盾して、ダブルスタンダードになっていると感じる人がいるかもしれません。
その理由を簡単に言ってしまえば、「大人と子供の違いだから」の一言ですむでしょう。
子供は、大人に守り慈しまれ、導かれなければならない存在です。
子供はその行動に責任能力をもっているわけではありません、その責任を負うのは周囲の大人です。保護者しかり、保育者しかり。
だから、大人に対するのと違って、B君に対しては「悪いものは悪い、被害をこうむっている人がいる以上、あなたを許しません」という対応は適切ではないのです。
もし、その対応が子供に対して許されてしまえば、その子たちは将来他者へ怒りを抱えた人間として、その子自身がハラッサーになったり、大きな生きづらさを抱えて生きていくことになりかねません。
だから、正義のものさしで子供を測るべきではないのです。
ここを踏まえると、「ネガティブな行動を出さざるを得ない状況を持たされた子」という考え方が理解できることでしょう。
※少々多忙なので、他の質問に関してはまた時間のあるときに答えていきますね。
| 2018-07-28 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
事例で見る難しい子の対応 vol.1 「肯定不足」 - 2018.07.24 Tue
それについて対応の方向と、具体的な対応の方法についてみていきます。
いただいたコメントは、わたるさんからのもので以下の通りです。
↓ここから
受容と信頼関係の保育について
こんにちは、今年一年目の新人保育士(男)です。
今回のブログとは関係のない話なのですが、「いい保育とうまい保育」など過去のブログを読ませていただき、自分の日々の保育と比べた時、分からない事があったのでのでコメントさせて頂きました。
いま、私は5歳児の担任をしています。2人体制で、もう一人の先生はベテランのA先生です。
わからないことというのは、B君という子の対応についてです。
ある日、A先生がいない状態で、私がリーダーで保育をすることになりました。午睡明けのおやつを食べた後の絵本を読み聞かせする時の事です。手遊びをした後、私が絵本を読もうとするとB君が前に出てきて、大声で話したり、自分のパンツを下げて見せびらかしたりし始めたのです。私はB君に何度もやめるよう伝えましたが、全くやめる様子もなくそれどころかもっとヒートアップしていきました。私は一度B君を抱きかかえ少し離れたところで、やめてほしいと伝えてましたが、B君は「離せ!離せ!」と言って聞く様子は見られず。見かねた、他の先生がB君に何かを手伝うようお願いすると、B君はそっちの方は行き、なんとか絵本を読み始めることができました。今回のようなことは過去にあり、どうすれば良かったのか考えた挙句、もっと感情的になって怒ればよかったのか、子どもになめられてるからこうなるのか、という考えに行きつきました。
しかし、その日の夜先生のブログに出会い、受容と信頼関係の保育について読み、とても感銘を受けました。ただ今回のようなケースで考えると、B君のこういった姿を肯定した後、大人の価値観の枠にはめない方法で導く(見守る?)にはどうすればいいのでしょうか?あの時はその場には他の子どもたちもいて、全体を動かさなければいけないという状況もあったのでそれも含めてどうしたら良かったのか、助言を頂けたら嬉しいです。
長文失礼しました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
↑ここまで
いま、日本中にこのB君とおなじ状況に置かれた子が山のようにたくさんいます。
それに適切な対処をし、安定させてあげることが保育士の欠かせない職務になっているといえるでしょう。
もちろん、それは「なめられてはならない」とばかりに、保育士が威圧で押さえ込んでいくことでも、「しつけ」のメソッドで繰り返し正論を持って正しい行動を刷り込もうとすることでもありません。
しかし、それへの適切な対応を多くの保育者が知らないばかりに、そのような威圧や過干渉の方向におちいってしまいます。つまり、スキルがないとそうならざるを得ないのです。
しかし、これに対する適切な理解や、その対処法を教えている保育の養成機関がどれだけあるでしょう、それを組織全体で理解し伝え合っている保育施設がどれほどあるでしょう、必要性に比べたらあまりに少ないのが現実ではないでしょうか。
今回それについてまとめますので、どうぞ少しでも多くの方に実践していただいたり、それを広めていただけたらと思います。
◆
まず、このB君がしているのは、保育士を馬鹿にしているわけでも「なめている」わけでもありません。
むしろ、わたるさんに対する信頼と期待の表れです。
なにを、期待しているか?
それは「肯定」です。
B君の問題点は、話を聴けないことでも、集団行動を乱すことでもありません。それはうわべに見えている症状のひとつに過ぎません。この子への援助をするためには、根っこを見る必要があります。
◆規範意識で子供を見ない
難しい子がいた場合。
「○○すべき」「△△してはならない」といった規範意識で子供を見ている人の場合、善意であれ、安易な感情に流れてであれ、否定的な見方にならざるを得ません。
「正しい行動がとれるように、この子に言い聞かせなければならない」
「なんでこの子って私の言うことを聞かないのかしら。イライラする」
これでは、対応が注意や、疎外などの「否定」のニュアンスを持ったものになります。
それを優しさでくるんで最大限努力したとしても、「怒りやイライラをなんとか我慢して怒らないようにする」といった感情的な自己犠牲の方への努力になってしまいます。
子供は大人の感情に敏感なので、どれほどその子を好意的にとらえようと努力しようも、こういったネガティブな感情のニュアンスはその子に伝わり、否定されている実感をその子は蓄積させていきます。
ですから、「正しいことを身につけさせる」といった規範意識から子供の保育をすることは適切ではありません。しかし、「しつけ」の観念が非常に強い日本の保育・子育てにおいてこの傾向は大変強くあります。
つけ加えれば、このイライラを感情的な自己犠牲によって押さえつけることを保育士の専門性のように考えてきたことにより、保育界は進歩が停滞しているとすら言えます。
「子供に愛情を持って」
「子供を尊重して」
これらの感情論を保育の柱にしてきたところが少なからずあります。
しかし、あえて苦言を呈すれば、本質的な改善のスキルを持たないから、感情論、精神論に流れざるを得なかったのでしょう。
これにより、保育士はしばしばスピリチュアルやエセ科学への傾倒に走ることがあります。これは大変気をつけたい点です。
◆どうしてかな?の視点 = 援助の視点
ではまず、対応の第一段階として、「規範意識の視点」から「援助の視点」へと転換させます。
実践に即して簡単に言ってしまうと、「どうしてそういった姿がでているのかな?」という問いを持って子供を見るのです。
その理由は個々によりいろいろでしょう。
【考察例】
・遊ぶ力が弱い(このケースでは「お話を聞く力が弱い」)
・疲れ(長時間保育、休息が不適切)
・不安感(場所や多数の人間など)
・情緒的不安定(習い事の過剰さ、保護者の多忙、弟妹の存在など)
・いらだち
・発達上の個性
・受容不足
・肯定不足(否定の関わりの過剰さ、「ちゃんとしなさい」といった関わりの蓄積)
・過保護、過干渉
・愛着形成の問題
・人間関係の不安定さ(親子関係、友達関係)
・幼さ
・依存の強さ
・体調不良
などなど。
もちろん、これら以外のものも考えられますし、これらが複合的に組み合わさっていることもあるでしょう。
保育者はその子の個性や家庭の状況、園での様子やこれまでの姿などから、この「どうしてなんだろう?」という視点で、援助の姿勢を持ってその根っこを探ってみます。
それは同時に、保育者に「どんなものであれあなたの姿を受け止めますよ」という姿勢になっていることを意味します。また、規範意識からの視点とちがって、「否定」になっていません。
子供には、「できない子」や「悪い子」がいるわけではありませんね。
自己犠牲的感情論から、「悪い子なんていません」という主張をする保育者もたくさんいますが、それは規範意識からくるその子の否定したくなる気持ちを抑え込もうというおためごかしになっていて、本質的な理念的理解とは似て非なるものです。
本質的な理念的理解理解から考えれば、
「できない子」 → 「発達段階がそこに至っていない子」
「悪い子」 → 「不適切な状況により、そういった姿を持たされてしまっている子」
となります。
子供をこの援助の視点から「どうしてなんだろう?」と見てみます。
しかし、やはりこの時点でも規範意識から子供を見ることがぬぐえない人は、「甘やかされているからだ」「親に愛情がないからだ」「わがままだから」といった否定的、感情的な見解におちいってしまいます。
そうはならないように気をつけましょう。
あくまで、「援助」の視点なのです。その子やその親の否定にいってしまうのは、保育者が自分の否定的な感情を制御できないときの反応です。
例えば、
「甘やかされている」という見解から、保育者の自ままな感情を取り除いて専門的に考えるとこうなります。
×「甘やかされている」
○「依存が助長されてしまっている」
×「親が甘やかしているからだ」
○「子育ての中で依存を助長する関わりが多くなっている」 もう一歩進めて「その保護者は依存を助長する関わり以外、どう関わっていいのかがわからないで困っている」
◆
さて、ではB君への考察に戻ります。
わたるさんは、今年から働き始めたとのことですから、3月以前の姿を直接見ていないかと思います。もしそれまでの様子を児童票や他の職員から聞いて多少なりとも把握していれば、それも勘案して、また保護者の様子や家庭での状況、送り迎え時の親子の姿など、いろいろな面から考えてみましょう。
なにか、思い当たるところが見えてくるのではないでしょうか。
そこがその子の姿の「根っこ」です。
ここに手を当てていくことで、その子を援助して安定させていくことができます。
よしんば、この考察が完全に100点満点でなくとも、この援助の視点には意味があります。
それは、その子を否定せずに私はあなたの味方ですよというメッセージがB君に伝わるからです。
このことは、B君の他者に対する信頼関係をつなぎ止める、維持向上させることに影響します。
現在B君のような子供がたくさんいると言いましたが、愛着形成の不全や、受容不足、他者への信頼感の不足を根っこにしてさまざまな難しい姿を出さざるを得なくなっている子が増えています。
それらの原因を根っことして、直近の問題としては「肯定不足」として集約されています。
従来の日本の子育て観では、「しつけの子育て」(規範意識からの子育て)をするので、必然的に否定がものすごく増大し、安定的な姿が出せなくなる状態を引き起こしやすいです。
さて、B君があえて大人が話をするのを邪魔したり、パンツを脱いでみせたりをするのは、もう純粋にたったひとつのメッセージから成り立っています。
それが、「ボクを肯定して。そして好意的に受容して」というものです。
これをその大人に出すのは、その人に受け入れて欲しいという期待をしているからです。
それは信頼の表れでもあります。
信頼していなければ、子供は怖くてそういった姿を出しません。
どれほど善意であれ、職業的意識であれ、そこを注意したり、叱責することはそのメッセージに対して、「拒否します」と突きつけることになりますね。
もし一緒に組んでいるA保育士がB君にとって信頼できる人であれば、出し方は違うかもしれませんが、なんらかの形でそのメッセージは出していることでしょう。
もし、規範意識から威圧して押さえ込むことを普段からしてしまう人であれば、その人には基本出さないで、どうしても押さえられないときだけネガティブ行動を出すということが常態化しているかもしれません。
その場合は、わたるさんに対して期待を込めてさまざまなネガティブな行動をぶつけてくることになります。
これを、規範意識から保育している施設では「あなたがなめられているからだ」と解釈しますが、それは間違っています。
◆肯定を求める子供の姿
・「みてみてーダンゴムシいたよ~」
・「ほら~ブロックで電車つくったんだよ~」
・「ボクにも折り紙おって~」
自分に注目し、共感してもらうことで肯定を得ようとする姿
こういったものは、可愛らしく大人の方も受けやすいですね。
この段階で、肯定してもらいたい気持ちや自分に関心が向いていることを確認して安心したい気持ちが十分に満たされた子は、安定した姿を出しやすいです。
・(他児とのトラブルや、自分の失敗などがあったとき)「えーん、だっこして~~;;」
感情の未整理を大人に依存することで解決してもらい、肯定を確認しようとする姿。
・「たべられない~たべさせて~」
着脱、食事などの生活の切れ目で、自分に向き合って手伝ってもらうことで肯定を確認しようとする姿。
これらは発達段階などに応じて当然出てくるものですが、昨今はネガティブな姿としてその自分への肯定を求める姿を出す子(出さざるを得ない状況を持っている子)が増えています。
おそらく必ずと言っていいほど目にしているだろうものが、お迎え時(特に遅番)。
・園内を親から逃げ回り、なかなか帰ろうとしない子
・親が迎えにくると(特に母親)、とたんにわざわざ他児とトラブルを起こす子
こういった姿が、ネガティブな行動を出すことで「わたしを肯定して」というメッセージを出している典型的な姿です。
しかし、これによってその子が必要とする「肯定」がもらえることはまずありません。
たいていの場合、叱られたり、注意されたりすることで、余計に肯定が不足し・・・・・・という悪循環が引き起こされてしまいます。
慢性化してくると、大人の方も疲弊してその後の対応が無視や疎外にすらなってしまいます。
これは親が悪いとかそういったものではなくて、ある意味では現代の子育てがおちいるべくしておちいってしまうところです。ですので、ここに保育者が援助者として入ることで、子供もそして親の子育ても安定化させていく必要があります。
◆怒られることですら心地いい子供
大人からの「肯定不足」、「関心不足」が大きく蓄積されてしまった子は、怒られることや叱られることすら欲するようになってしまいます。
その内だんだんとそういった行動が、その子の板についてしまい、周囲の子からもそういった子(意地悪ばかりする子、邪魔ばかりする子)としての認識が出来上がり、その子は自己否定感や意欲の欠如、自尊感情の欠如を心の深いところに形成していきます。
こうなってしまうと、客観的専門的に対処できる人間がいない限り、その子の問題の悪循環は増加の一途をたどってしまいます。
◆その前を見るアプローチ
では、B君への実際的なアプローチを見ていきます。
おそらくB君は、その読み聞かせの時だけでなく、子供同士の関わりの時や、生活の切れ目などでさまざまなネガティブな行動を出しているのではないかと思われます。
そのネガティブな行動時へのベストな対応というのを、とりあえずいまは考えなくていいでしょう。(後にはするのだけど、いまはあまり追求せず受け流しておく対応程度で)
その子の問題の根っこにあるのは「肯定不足」がキーになっています。
ネガティブな行動がでてしまった後では、どれほどいい対応をしたところで、その問題の解決はしてあげられないからです。
(また、ここを頑張りすぎても、その子に付随しているもうひとつの問題「ネガティブな関わりとして獲得された対人モデル」の問題がかえって助長される可能性があります。これについては長くなりすぎるのでここでは割愛)
つまり、ネガティブ行動がでてからの対応をいくら頑張っても、解決に近づきません。
言ってみれば、ネガティブな行動がでてからでは遅いのです。
子供の姿に問題があるときは、その前の段階を見るようにしましょう。
友達にちょっかいを出したり、大人に注意されるようなことを起こす前に、保育者の方から積極的に意図を持った関わりを展開させていきます。
B君にはなにか得意な遊びがありますか?
ネガティブな行動が慢性化している子には、遊び込めない姿がでていることも多いです。もし、B君に好きなものや、得意なものがあったら、そこを見落とさないようにそれを通してたくさんの肯定を普段から意識しておくっていきましょう。
その他、さまざまな関わりを通して「肯定」をおくっていきます。
●聴く
話を聴く、それに相づちを打つというのは、人間にとって大きな肯定となる行為です。
・「今日朝ご飯なにたべた~?おお~○○食べたんだ~それはいいね~」
・「それなにつくってるの~?へ~おもしろいね~」
・「あなたの今日の服かわいいね~」
・「その靴かっこいいね~」
・「今日はなにがおもしろかった~?」
・「今日の給食はなにがおいしかった?」
●共感する
自分の感じたことに共感してもらうことも、大きな肯定となります。
・「水遊びたのしいね~、それ~水掛けちゃうぞ~」
・「おいしいね~」
・「きれいだね~」
・「悲しいね~」
・「さみしいね~」
・「いやだったね~」
・「それは大変だったね~」
感情を信頼する大人とやりとりし、それに共感し合えることも、肯定であり、他者への信頼感を大きくすることにつながります。
●認める
・「あなたはいつもそのミニカー好きだね~」
・「あなたは白いご飯大好きなんだね~。いっぱいたべられていいね~」
・「あなたは外遊び好きでいいね~」
「褒める」のではありません。
褒めるは条件付きの肯定です。
多くの子が、「○○な子であったら、受け入れます」という大人からの要求に疲弊しています。
なので、立派なことが「できる」必要などないのです。
その子のあるがままの姿を見落とさず拾っていき、そこを「私はあなたのそういうところ知っているよ」と認めていくのです。
なので、なんでもいいのです。
ネガティブな行動が慢性化している子であればあるほど、褒めるところなどいちじるしく少なくなっていきますね。
しかし、認められるところならば多少なりともあるはずです。
なければ、お手伝いしてもらったり、役割を作ってあげたりして「ありがとう」の言葉を掛けられるようにしていくといった対応も考えられます。
●見守る
保育において「見守り」がもっとも基礎的な「肯定」です。
もちろん、ケガやいけないことをしないように監視するような見守りではありません。
「私はいつでもあなたたちを見守っているよ。安全だよ。ここはあなたの居場所だよ。安心して過ごしていいよ」
そういった肯定的で受容的な気持ちを視線に乗せてあたたかくおおらかに見守っていくことです。
日々のこの積み重ねが、人への信頼感を大きく育て、安心安全な雰囲気で過ごすことでものごとに取り組む意欲や、達成感を健全に得させていきます。だから、このことが子供の成長の全ての基礎になります。
●スキンシップ
くすぐったり、ハグしたり、手遊び顔遊びをしたり、お腹をつついたり、頭をなでたり、「わっ」と驚かせたり、スキンケアをしてあげたり、着脱や排泄の世話をしてあげたり・・・・・・
スキンシップは、物理的で確実にあるものです。そこに嘘の入る余地がありません。
だから、子供に響きます。
●直接的な言葉による肯定
・「あなたはかわいいね」
・「あなたたちのこと大好きだよ」
・「みんなといられて僕は楽しいよ」
●積極性
上記のもの全て、「大人の方からアプローチする」というのを忘れてはいけません。
子供からせがまれてやることに意味がないわけではありませんが、肯定不足となっている子に対する場合は特に、それではその子が必要とするところまではけっして到達しません。
配慮、意識して行うことで、必ず「大人の方から」という積極性を加えて下さい。
◆子供の姿はついてくる
B君がネガティブ行動を出してしまったときの対応は、適当に受け流しておいていいので、それ以外のところ、機嫌のいいとき(少なくともネガティブ行動がでる前に)これらのことを、少しでもいいので積み重ねていきます。
(「見守り」に関しては保育の基本なので、常にですが)
すると、それら肯定の関わりの積み重ねから築かれたわたるさんへの信頼感と、心の余裕から、なにかしら姿の変化がでてくるはずです。
短期的には、「ネガティブ行動の増大」を招く場合もあります。これはそれまで溜め込んでいたものを「この人ならば受け止めてくれる」という実感から噴出させるために起こる一時的な姿です。少ししんどいですが、その姿となったときは強い否定におちいらないようにしつつ受け流し乗り切ってしまいましょう。
その後か、それらと並行して、B君の好意的な姿が見られるようになってくるはずです。
それは、肯定の関わりを積み重ねたことによる保育の成果です。
ここを見落とさずに、「認めて」いきましょう。
それによりさらに肯定が積み重なっていきます。
◆
B君のネガティブな行動が、なんらかの事情(親がたまたま忙しいとか、下の子の妊娠出産など)により一時的なものである場合は、その程度や期間もそれほどではないかもしれません。
しかし、その根っこがそれこそ0歳児や1歳児の時から積み重なってきたような場合は、短期間で全て解決するものでもありません。
でも、限りある中でもその子に保育者の配慮からプレゼントされた肯定は、無駄ではありません。
年長と言うことですから、保育園での時間も残り少ないです。
しかし、そこでなされた肯定はとても大きな意味を持ちます。
家庭でも肯定が必要なだけなされずに、難しさを得てしまった子は、よほど許容的な人に出会わないかぎり、小学校にいっても否定されることが多くなってしまいます。
そうなれば、子供は短期的な「○○できる」以上に、生きていくための自己肯定感や自尊感情、ものごとへの意欲を低迷させたままとなってしまいます。
ですから、保育士の関わりは、オーバーではなくその子の人生をも左右するものとすらなり得ます。
わたるさんはせっかく保育の世界に入られたのですから、どうぞ子供を援助できる保育を得て保育士の仕事を続けてみて下さい。
◆補足
ただし、援助の保育をしようとしても、園自体や、周りの職員が支配の保育をしている場合、受容的、援助的な職員は、周囲から支配的な関わりをされ負荷をかけられた子供たちのネガティブさを受けるばかりの役回りとなってしまう場合もあります。
これは、深刻な疲弊を招きますので、そういったときはまた別の注意点や配慮が必要です。
B君への対応には、ここで述べたほかに
・対人関係モデルの再構築
・包括的受容
のアプローチが効果的です。
包括的受容に関しては、過去記事があったかと思います。
対人関係モデルについては、今度時間のあるときにでもまとめましょう。
| 2018-07-24 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
ハラスメント対応のお作法 - 2018.07.22 Sun
その中で、「差別する側に対しても優しくすることでそれを解決してあげることが必要ではないか」といったものがいくつかありました。
これは道徳論的にはたしかにある種の説得力があるので、世間にも一般的にこの種の意見が流通しています。
しかし、現実論としては、この対応が危険なものになったり、その問題の放置に使われることがあるので、職員差別やハラスメントをする人への対処の留意すべき点を少し書いておきます。
まず、「ハラスメントする側にも優しくしてあげて、その人の問題を解決することで是正するべき」という考え方ですが、これは優しくしてあげることで改善されたケースに関しであれば、結果論として言うことはできるでしょう。
その場合は、それでうまくいったから良かったのですが、現実にはそればかりではありません。
ハラスメントする側に、その人の苦衷を察してあげてなんとか安定してもらいたいと善意で接したとします。その人に優しくしたり、要求を聞き入れてあげたり、グチを聞いてあげたとします。
何度も言いますが、これでいい方にいくケースもないわけではありません。
しかし、その人の問題が根深いケースでは、これをするとその人の認知の中で「この人間は自分より下なので攻撃したり言うことを聞かせていいのだ」ということが強調されてしまう場合があります。
すると、結果的にその優しくしてあげた人がより攻撃の矢面に立つことになり、大きなダメージを負ってしまいます。
保育士には、善意の厚い心優しい人もたくさんいます。
その人たちは、ハラスメントをする人にとって格好の餌食となる場合があります。
相手の人のためを思って改善できるようにアプローチしてあげた結果、突発性難聴といった心身症や、ノイローゼ、ウツ、その人からのストレスを家庭で出さざるを得なくなって家庭崩壊につながってしまう人、病欠や休職、退職に追い込まれてしまうといったケースが少なからず実際に起こっています。
ちなみに、僕自身もこれにより退職に追い込まれてしまった人間の一人です。その後、ウツと希死念慮に数年苦しむことになります。僕がいま生きているのは、そのとき妻がその状態を否定せず支えてくれたからです。
なので、「その人も苦労しているのよ、だから優しくしてあげなくちゃ」といった世間に流布する一般的な感情論で対処してしまうことは、大変危険なものと言えます。特に、直接対処するわけでもない第三者が言う場合はなおさらです。
◆
他者にマウンティングする人は相手を見ます。自分よりも上であるか下であるか。
なので、同僚や後輩が優しくしたとしても、かえって仇になることが起こりやすいです。
だからそういった人への対処をする場合は、上司である人や先輩に当たる人(年齢が上の人)がした方がいいです。
無責任な上司だったりして、部下にその仕事を押しつけてしまう人の場合、その部下の人は危険にさらされます。
施設長などの上司が当のハラスメント体質を持っている場合、団結して対処するか、自分の身を一番に考えて一目散に逃げることが現実的な選択肢となります。
例えば、新卒間もない20代の人が、50代のハラスメントしてくる施設長の心のケアができると思いますか?
まず、そんなことは不可能です。その人が、善意で接しようとすればするほど格好のサンドバックにされかねません。
◆
職員が定着せず常に入れ替わっている施設では、上司や職場の姿勢にそういったハラスメント体質が染みついている場合があります。
こういったところでは、辞めようとする人間に対して「あなたは子供たちを放り出していくのね。無責任で保育者失格ね」「保育者として愛情がない」といったモラルハラスメントは常套句です。
それがまっとうできない職場状況にしている人間に非があるのであって、ハラスメントされている側がそれを斟酌してはいけません。なにかあったとき、まずは自分の身を守ることが第一なのです。
もし可能ならば、その次に子供への不適切な対応を役所なり、その職場の上部組織などに公益通報をするといったことで、子供や他の職員を守るアクションを考えましょう。
これを読んでくれている人に理解して欲しいのは、第三者がそういったモラルハラスメントの片棒を担がないように気をつけるということです。
年度の途中に辞職するようなことがあった場合、一見、その人の責任を追及したくなります。
しかし、それに乗ってしまうと、ハラスメントされる側が悪者になり、ハラスメントをする側が正義になってしまいます。
道徳論で考えてしまうと、ここにおちいり易くなります。
こういった、その第三者に悪意がなくとも被害にあった方を責めるあり方を「レイプカルチャー」と呼びます。
◆
「レイプカルチャー」のゆえんは、レイプといったハラスメントの被害にあった人に対して、「そんな格好をしているからだ」「あなたがお酒に酔いつぶれるからだ」といった、モラルの見地から被害にあった側を責めるというところから来ています。
これはものごとの本質を見誤らせるものです。どんな状況であれ、他者を侵害する行為は侵害する側に非があるのです。
しかしながら、一般にはこのような被害側を責める文化が存在しています。ゆえに「レイプカルチャー」と呼ばれます。
これはなにも性的なものだけでなく、例えばいじめ問題にも同様の構造があります。
いじめの被害を受ける子に対して、「彼にも悪いところがあった」といった意見がひんぱんに出てきます。これはその意見を言う第三者にそのつもりや悪意がなくとも、「彼に悪いところがあるからいじめられても仕方がない」という結論を言外に出しています。その人に悪意がないので、そのような指摘をすれば、補足をしたり言い訳をすることで、その人はそれを否定するでしょうけれども、そういった考え方、思考の文化が寄り集まってしまうことで、いじめは容認されることにつながります。
「彼女がたとえどんな格好をしていようと、それをレイプしていい理由にしていいわけがない」
(海水浴場で水着の人がいるからといってレイプが横行していないですよね)
「彼にたとえどんな問題があったとしても、それをいじめの理由としていいわけがない」
(理由があればいじめをしていいいのであれば、世の中はいじめばかりになります。それがいまの日本の現状なのですが・・・)
第三者は、そのように認識しなければなりません。
レイプカルチャーは悪意がない人によって形成されるからこそ、余計に始末に負えないものなのです。
ある中学校では髪型をポニーテールにすることが禁止されています。理由は、性的な被害を引き起こすからとのこと。これはつまり学校がレイプカルチャーを容認していると言うことです。
この一事だけでも、学校とはハラスメントに対して非常に鈍感であることがわかります。
これでは、学校でいじめが起こるのも当然です。
◆
さて、話をハラスメントする人への対処についてに戻します。
「ハラスメントする側もかわいそうな人」
この意見は一見、道徳的で、善意に満ちているように見えます。
しかし、上で述べたようにこれを第一に置いてしまえば、レイプカルチャーの肯定につながります。
ここにはものごとの順序の適切な理解が必要です。
ハラスメントや差別という問題があった場合、まず第一に考えなければならないのは、被害にあっている側の原状回復です。
被害を与えている側のことを考えてあげるのはその後のことになります。
まずは、被害にあっている側を救うことを考えなければなりません。
しかし現実には、この「加害側に情けをかける」という道徳的な論調によって、いろいろな問題が引き起こされます。
次のようなことがしばしば報告されます。
●子供が担任保育士により明らかに不適切な虐げられるような関わりをされている。そのことを保護者が園長に相談した。
●二人担任のクラスで、一方の担任保育士が先輩保育士の方からハラスメントを受けている。それを園長に相談した。
こういったものに対して、その園長はどちらにも同じくこんな対応をします。
「その担任の保育士も、彼女なりに辛いこともあったりしながらも頑張っているんです。どうか理解してあげて下さい」
これ、問題を感情論にすり替えることで、苦情の口をふさごうとするロジックなのです。
この対応をする保育園の施設長がとても多いのを感じます。論理的に考えてそうしているのではないのだろうけど、無自覚に問題を矮小化するためにそういう対応になっているのでしょう。
この対応は大失敗です。
たしかに、中にはその報告が誇張されていたり、考えすぎから誤解を招いてしまっている場合もあります。
侵害しているとされる担任の側に言い分があることもあるでしょう。
しかし、こういった「意見を言ってきた側の口をふさぐ対応」というのは、数ある対応の中でもっともまずいもののひとつです。
これをすると、解決するものも解決しなくなります。
このロジックは、道徳的な観点を持ち込んで感情論にすり替えるものです。
このロジックを使うと、それ以上事を荒立てるのは大人げなかったり、優しさに欠けているように感じられるので、相手はそれ以上口に出しづらくなります。
しかし、これは被害にあっている側を泣き寝入りさせる対応です。
これはレイプカルチャーのロジックでもあります。
被害を訴えられているのであれば、まずはなにを持ってもその被害を回復することが第一なのです。
被害を与えていると問われる側の肩を持ったり、その人の改善を考えるのはその後のことです。
◆
ハラスメント体質を持っている人の問題解決は、外部からの介入によって簡単にできるものではありません。
まず必須とも言える条件があります。
それは、「その人自身が自分の現状を変えたいと望むこと」です。
ある保育施設のことです。
その園では、人手不足もあって、またその保育士自身のことも考えて、責めない方向でなんとかそのハラスメント(職員にも子供にもしている)をする人の改善を考えていました。
そのために、月に一度、子供や他者にどういった関わりが大切なのか考えるための、人権について職員全体で学ぶという研修まで重ねています。
しかし、その問題ある職員は改善するよりもむしろさらに、他者への攻撃的な行動や、子供への不適切な関わりを増長させていき、子供への被害や周囲の保育士が病気になってしまうといった深刻な状況を引き起こし、退職勧告をしなければならなくなりました。
その状態になってすら、「自分は職場内で差別を受けている。ハラスメントを受けている」といった認識で、上部組織をも巻き込んでひと悶着を起こしています。
ハラスメント体質には、自身の問題を「他者のせい」とその人の認識の中ですり替えてしまう傾向が含まれています。これを「認知のゆがみ」といいます。
これが強い人に対しては、いくら善意で関わったとしても、その人に都合のいい解釈しか生まれません。その場合、改善ではなく増長が生まれてしまいます。
ですから、安易な道徳論、感情論で「ハラスメントする側も苦しんでいる」といった考え方を広めてしてしまうことは危険なのです。
◆ハラスメントへの対応の基本。
他者を攻撃、侵害している間はその行為に対して職員全員で結束して徹底的にNOを表明すること。
その人個人を責めずとも、その行為はNOであることを認識させ、それを理解し尊重するようになってからその人への援助が始まります。
「私はあなたを助ける用意がある。でも、他者を攻撃している間は私はその人を守ることを考えなければならないので、助けたくとも助けることができません」という態度が必要ではないかと思われます。
| 2018-07-22 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
「支配欲求」は集会がお好き - 2018.07.21 Sat
(自分よりも下にいると目される)人たちを集めて一定時間拘束し、そこで自身が話をしたり、指示したことをその人たちにやらせることには、支配の見えない快感があります。
(かつてナチスドイツの時代に、挙手の礼をさせて「ハイルヒトラー」と言わせたようなところまでいくと、もはや目に見える支配の快感がありますね。そこまでいくと、支配者だけでなく被支配者にまで一体感や高揚感といった快感を与えることができます)
もちろん、その集会に合理的な理由があり、なおかつ支配欲求を満たすためのものでないのならば、集会をしたとしても何ら問題がありませんが、しばしば習慣的になされる集会というのはそういった支配欲求を満たすのにうってつけのものになるということです。
子供たちに支配的で不適切な保育をしている保育施設でも、かなりの率でこの集会への強いこだわりがあります。
施設長が立派な朝の会を毎日することを職員に要求し、職員はそれを子供に要求し、そこに適合しない子がいると職員はその子を非難し、さらに施設長が「子供をちゃんとさせられない」職員を非難し・・・・・・。
と、このような集会とモラハラのマッチポンプができあがります。
そこで権勢的なその施設長は、集会がうまくいっても、うまくいかなくても、(その人にその自覚はないでしょうけれども)自身の支配欲求を満たすことができます。
朝の会に強いこだわりを持っていて、0歳~2歳といった発達段階的に意味のない年齢にまでそれを求める保育施設には、注意して見ていくことが必要だと僕は感じます。
◆
最近、保育の世界では「振り返り」というのがある種のムーブメントになっています。
(参考:https://berd.benesse.jp/up_images/magazine/en2015spring_1.pdf)
これ自体は適切に行えばもちろん意味のあることなのですが、支配欲求を満たしたい上司がいる園では、その一日の終了後に「振り返り」という名の「つるし上げタイム」に事実上なってしまっているところがあり、支配により自分を満たしたい人がいると集会は恐ろしいものとなります。
これによって、「自分はダメな保育士だ」と思わされてしまっている人や、「保育の仕事ってつらいな」、「この職場辞めたいな」「保育士辞めたいな」と思わされてしまっている人はが結構いるかもしれません。
それは保育がどうのではないのよ、モラハラがまかり通ってしまっているその職場に問題があるのですね。
◆
さて、学校の朝礼についてもこういったところを踏まえて見ると、合理的な必要がない時はやらなくていいという選択肢を学校は持つべきだと思えます。
見えない支配欲求があることに気がつかないと、毎週の朝礼という支配者にとっての既得権が手放されることはないままでしょう。
しかし、これからの道徳教育の方向性などをみていると、権威主義的な支配・被支配構造の強化に舵を切っているので、学校の向かう方向どうなるのか心配がつのります。
モラハラ、パワハラ、セクハラ、マタハラ、レイシズム、女性差別、LGBT差別などなど。
なんだか現代の日本には、肥大化した支配欲求をもてあます人がたくさんいて、それにより社会全体が停滞せざるを得なくなっているような感がひしひしとあります。
| 2018-07-21 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
「支配」という見えない快感 - 2018.07.20 Fri
そもそも朝礼にどんな教育的意図があるのかわからないけれど、どうしても必要なら校内放送とかでだってできるよね。
また、中学生の息子が学校に水筒を持って行っているので、なんとなくその話題になったときに言っていたのが、「授業中は飲んではいけない」とのこと。学校の先生が言うには、「大学や高校になったらいいけど、義務教育の間はダメ」なのだと。
その論理、子供だましでしかないよね・・・・・・。(ここの裏には、教師に対して失礼なので子供は我慢すべきという権威主義が垣間見えるような気がします)
最近は、図書館や講演会場ですら飲み物を飲むことを禁じるどころか、むしろ「適宜水分補給を心がけて下さい」とまで言っている時代なのだけどね。
「校舎80周走れ」生徒倒れ救急搬送 滋賀・中学部活顧問が指示(京都新聞)
http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20180713000222
先日こんな事件もあったけれど、学校の先生たちの頭の中のアップデートが昭和の頃から止まってしまっているのかと思わずにはいられません。
こういったことがあるたびに「指導が不適切だった」と学校側は総括するのだけど、本当に不適切なのは指導以前の段階にあります。
それは、学校が「権威と支配」によって子供を管理しようとしており、それゆえに個々の教職員が自ままな支配欲求をそこで満たすことが可能になるシステムが維持されていることです。
そこではひとえに不適切な行為が起こるかどうかは指導の如何ではなく、その個々の教職員の人間性に任されてしまいます。これではいつまで経っても同じようなことは起こり続けるでしょう。
そういったシステム自体をアップデートする必要があるわけです。
◆
他者を支配することには、見えない快感があります。見えないというのは、自覚的にそれが心地よいと認識されているわけでなく、無自覚になんとな心地よく感じる状態です。(心地よさと同時に、支配がまっとうされてないときに強い不快感が生じる性質も合わせ持っていることを忘れてはならない)
他者に対して支配的なのと支配的でない選択肢があった場合、なんとなく支配的な方を無自覚にいろんな理由付けをしてそちらの方を選択したくなってしまいます。
これは人間の心のクセです。
だからこそ、対人関係しかもそれが上下の対人関係になりやすい世界(子供対大人は年齢的・力関係的な上下が必ずできてしまう。老人ホームや障がい者施設では力関係の上下ができやすい。職場では労使関係の上下。サービス業では金銭授受の上下関係)では、意識的にここを是正する機能が必要です。
自覚的なもののコントロールはしやすいです。
例えば、ある人にとって暑い中冷たいビールを飲むことは大変心地いいかもしれませんが、職務中に飲むことは控えられます。それは自覚的にそれがすべきでないとわかるからです。
しかし、無自覚なものをその人がコントロールするのは簡単ではありません。
それを可能にするのは、対人関係における知識を蓄積していくことか、外圧によってになります。
外圧というのは、例えば「生徒に罰を与えるような指導をした場合は必ず処分があります」とか、「児童に性的な意図を持って接触した場合は、刑事告訴をためらいません」といった理事者側の姿勢です。
知識の蓄積とは、実際には「人権」についての学びになるでしょう。
学校における諸問題の源泉には、非常に多くの場合においてこの人権感覚の乏しさがあります。これは保育施設も同様です。
本来、学校は子供に人権についてを教える場でもあるのですから、その教職員に人権感覚の乏しさがあるというのはおかしな話です。
でも、現実はそれなのです。
◆
支配欲求というのは、無自覚なだけに長年やっているとその組織の体質化してしまいます。
「当たり前」にいつのまにかなってしまうのですね。
すると、現代的な人権感覚よりもそちらの方に合理化されるという認知プロセスができあがってしまいます。
ちょうど昨日Twitterで現役の教員の方のこんな声が出ていました。
https://twitter.com/Carupisu64/status/1019924733976969217
ここにおける教頭の言葉は、認知が無自覚に支配(生徒に飲み物を飲ませることを禁じるという支配)を肯定する方に寄ってしまっています。
これは、「生命・健康はなによりも優先される」という人権の基本の「き」が無視され、支配が優先されている実例です。
その組織全体が、人権について現代的な感覚を持っていれば、この教頭のような言葉はお粗末もいいところと鼻で笑われます。しかし、悲しいかな学校にはそれが欠けています。
先日の豊田市で小学校1年生が熱中症でなくなった事件も、「生命・健康はなによりも優先される」という人権感覚が当たり前にあったのならば防げたような気がしてなりません。
| 2018-07-20 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
パート職員差別 - 2018.07.13 Fri
なので、最新流行の見栄えのする保育成果のような部分ではありません。
現状の日本の保育の問題点は、「平均点以上の保育をさらに高めていくこと」よりも、圧倒的に「平均点以下(子供の育ちに必要なことができていない)の保育を平均点にすること」だと感じています。
そんな僕のところには、不適切な保育をしている園や職員の話がたくさん耳に入ります。
そういった人の多くに共通して出てくるのが、パート職員を見下したり、嫌がらせやイヤミを言う行為です。
子供に不適切な対応をしている職員の話が出たときに、「もしかしてその人、パートの人に風当たり強くない?」と聞くと、ほぼ確実に「ええ、そうです。なんで知っているんですか?」と返ってきます。
◆
保育の不適切さの主要な原因は、「支配」です。
1,たまたま習得した保育実践が支配的なものだった
2,もともと支配的な性格・人格を持った人が、子供に支配的な保育をしている
1,ならまだしも、この2,の人は「ただ支配的な保育をしている」というよりも、「他者を支配をせずにはいられない人が保育をしている。ゆえに必然的に支配的保育となる」というものです。
なので保育の方法論がどうこうというレベルの問題ではありません。
いくら研修をしようとも、注意をしようとも、その根っこにある人格上の問題が解決しなければ、保育が変わることはありえません。
こういった「他者を支配したい」、「他者よりも優位な立場に立つことで自己の存在を承認したい」(いわゆるマウンティング)といった人は、他者に対してなにか自分が「上である」ことを常に探しています。
この種の人が保育をすると、「子供を自分の思い通りに動かすこと」が無意識に第一の目的となります。どれほど口で立派なことを言っていようとも、子供の情緒の安定や、成長を見すえた保育などはこれぽっちもできません。
大人のいわれた通りにできる子供であればまだしも、そうでない子供がいた場合、その人はその子を許容できず、否定しつづけていきます。
その人にとって、「子供は大人に従うべきもの」なので、「従わない子は悪い子」といった認識が避けられません。
そのように、対人関係を上下で対象をとらえています。
その対人関係のとらえ方が大人にも適用されている場合、パート職員への差別や嫌がらせ、ハラスメントが起こるべくして起こります。
後輩や、経験年数が自分よりも低い人に対してもほぼ同じことが起こるのですが、この「正規職員である自分 と パート職員」には制度上の明確な違いというものがあるので、その行為はその人にとってより正当化され明確に表れます。
ここには人間の悲しい性(さが)があります。
それをする人自身も、上下の違いを強調された関わりをそれまでの人生でされそこで傷を負った結果、そういった人格を形成してしまったのでしょう。
それは気の毒なことです。
しかし、気の毒であるからと言って、他者を傷つけたり、攻撃したり、他者をおとしめて自分が優越感に浸るといった行為をすることが許されるわけではありません。
この種の人たちは、子供への支配がとても上手になるので(※)、一見「できる保育士」と見られている場合がありますが、実のところ保育士の適正としてもっともそれが欠ける人たちです。
※「支配」が上手なのであって、「よい保育」ができるという意味ではない。
このことは、なにも保育士の話に限ったことではありませんね。
・「君何才?」
・「どこの学校出身?」
・「どこに住んでいるの?」
・「お父さん(ご主人)の仕事なに?」
知り合い初めて間もない内に、このような質問をしてきて、自分と相手の立ち位置を上下で決めつけようという大人も世の中には少なくないのを感じます。
一般にも、派遣社員や契約社員には社員食堂やウォーターサーバー、果てはエレベーターまで使わせないなどという会社の話まで耳にします。
◆
人と人は常に対等なのです。
年齢が上であれ、下であれ、どこ出身であれ、なんの仕事をしていようとも、人としての価値は自分と同じだけのものが相手にもあり、役職が高かろうがそれはその組織の職務上のことであって、そこから一歩離れれば本来そこに上下などありはしません。
しかし、悲しいかな人は、そういった些細な優越感がなければ心細くなってしまうという場合があります。
そのような人。例えば「えばっている人」は、実は「何か肩書きなどにすがってえばらなければ自信を持って存在できない、か細い自我しか持てていない人」なのです。
しかし、そういった他者にマウンティングができる人ほど、世の中では大きな権力を持つようになったりするので、なんとも皮肉なことです。
しかし、この人たちはあとでツケを払うことになります。
そのツケとは「孤独」です。
その人たちも潜在的にそれを感じ恐れているので、金やモノ、恩義、道徳で他者を縛ろうとし、それにより自分から孤独を遠ざけようとします。しかし、それで本当の人間関係が構築できるわけがありません。
しかし、その人にはそれ以外の手段が見えません。人とはなんとも悲しいものです。
| 2018-07-13 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 9 | トラックバック : 0 |
『「話を聞きなさい」なんて指導は本当は間違っている』(千代田区立麹町中学校・工藤勇一校長) - 2018.04.18 Wed
『「話を聞きなさい」なんて指導は本当は間違っている』(第一回目)
連載記事一覧
この工藤校長は素晴らしい。素晴らしいのだけど、工藤校長の一代記ととらえてはいけないと思う。
工藤校長は大きな仕事を成し遂げている。
そこだけを見てしまうと、この人個人の能力の話になってしまします。
でも、その出発点となっている基礎的な部分。
そこにあるものは、少しもすごいことでも難しいものでもありません。
それは、「健全な人権意識」とでもいうものです。
これは、本来子供の育成に携わる人のみならず、社会人が当たり前にもっているはずのものです。
(それが日本では未だ、不備であったり、未熟だという問題はあるが)
この点に関しては、本来もっと多くの教員が当たり前に持っていなければならないものだとしか言えないと思います。
しかし、未だに天然パーマだったり、毛髪の色が薄かったりすると地毛証明書なるものを出させなければいけないといった学校があるように、学校という組織の持つ人権意識は、お粗末を通り越して倫理的に問題があるレベルのところがあります。
当たり前のことを当たり前と言えないようなゆがんだ組織の論理から卒業すれば、この工藤校長の立ち位置というのは、多くの人にとっても少しも難しいものではないと思います。
| 2018-04-18 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
権威体質な学校のあり方への疑問 - 2018.04.15 Sun
そのひとつが、端々から感じる権威体質です。
特にこの学校は、近年統廃合により生まれた新設校なので、より最近の教育施策の影響を強く受けてしまっているのかもしれません。
日本では、学校の運営は民主的になされることが決まっています。
人が集団を形作れば、多かれ少なかれある程度権威的な構造はおのずと生まれるものですが、民主的な運営を旨とする学校組織において、それに対して節度を持ち権威的になりすぎない姿勢は必要であると考えられます。
例えば、学校長は責任者でその職責は重いものですが、だからといって、校長が絶対権力者になって恣意的になんでもできてしまうということになったら、それは民主的とは言えませんね。
もし仮に、そのようになったらハラスメントもし放題といったことになってしまいます。これは学校だけに限らないことです。
職責上立場が上ということと、人として対等というのは両立し得ないことではありません。これは当たり前でしかないことですが、悲しいことに現実には往々にして立場の上下を利用した不適切な行為が数限りなく起こっています。
もし、学校の運営が、権威主義によりすぎて、上の人の意見が強くなり、そうでない人が自由に意見を言えない場になれば、学校という場は教員にとっても生徒にとっても、簡単に支配・服従がはびこることになります。
そもそも、大人対子供の施設において、これはよくよく注意しなければ常に起こりうる可能性を秘めています。
だからこそ、「子供」という概念の適切な理解や、その尊重がそこの大人には求められています。
(本論とそれるので括弧書きで述べますが、例えば、「子供は大人に従うもので、従わなければ体罰もやむを得ない」といった理解の大人がそこにいれば、体罰という行為は簡単に起こるといったことがその一例としてあげられます)
◆
学校の権威体質の問題で、特にこういった式典において出てくるのが「君が代・日の丸」の問題です。
これは近年この問題にはじめて触れた人など、この問題の本当の論点や経緯をご存じない人もいると思いますので、少し説明を試みましょう。
いま、「君が代・日の丸」はマナー論で理解している人が多くなっています。
国旗・国家であるものに礼をしないのはマナーに反するといった解釈ですね。
実は、こういった見方はごく最近のものでしかありません。
僕自身、国旗・国家になんのためらいもなく全ての人が敬意を示せるものになっていたらどんなに良いかと思います。
しかし、現状においてはそうではありませんし、それは納得できる合理的な理由がつくものです。
まず、日の丸・君が代の問題はマナー論では語れない性質のものです。
日の丸・君が代を敬愛したいという人がいることは全然問題のないことです。
しかし同様に、そう思えない人がいるというのも否定できるものではありません。
なぜかというと、それらが戦前において日本が軍国化や侵略戦争や、そこにおける多くの人の犠牲を生み出したものの象徴のひとつであることも、また紛れもない事実だからです。
第二次世界大戦において、諸外国の多くの人が犠牲になったのと同じく、日本の国民も大勢犠牲になっています。
その国民の犠牲も全てがやむを得なかったものだけではなく、中には政府や軍部の無謀な方針により、無為に餓死したり戦病死したり、また民間人でありながらも空襲などの戦火の犠牲や、沖縄のように地上戦の犠牲になった人たち、原爆により亡くなった人たち、国策による人権侵害的な不当な労働の犠牲になった人たち・・・・・・、そういった方々も多数おります。そういった人たちがみな誰かの親であったり、誰かの子であったわけです。
そのときの象徴のひとつであったものが、君が代・日の丸であったことは、これは明らかな歴史的事実です。
◆
人によっては自身の気持ちや、考え方ゆえに、君が代・日の丸を賛美することができない人がいるというのも、これは否定できるものではなかったわけですね。
それゆえ、日本が戦後になっても、引き続き日の丸・君が代を国旗・国家として使い続ける以上、全員にそれを同様に求めることができなくなったのは、ある種必然でした。
ですから、日の丸・君が代の問題は、マナーの問題ではなく、戦後この方長らく「個人の思想・信条」の問題であり、それは社会的にも認められていたのでした。
思想信条の問題は、これは憲法が定めるようにその自由が保障されています。
これと近似値にあるものとして、「信仰の自由」もありますね。
人が誰かに信仰を強要されないのと同じように、思想信条も誰かに強要してはならないことです。
これは、公務員であるとか民間人であるとかも関係ないことです。
どこどこの市役所に勤めたから、○○教に改宗させられたということを聴いたことがないのと同じように、思想信条を誰かに強要されることもないものです。
しかし、第二次世界大戦の終戦からかなりの月日が経ち、戦争の記憶が薄れる過程で、君が代・日の丸の問題を実感的にそういった背景のあるものとしてとらえられない若い人たちも増えてきています。
僕の同世代は、祖父母どころか、まだ親ですら戦中生まれという人がいた時代ですが、その僕の世代ですら戦争の記憶を間接的にでも持っている人は少なくなっています。ですから、もう若い人たちということも言えないですね。
そういった中で、だんだんと君が代・日の丸の問題を思想信条の問題と社会が理解できなくなってきて、とうとうマナーの問題というレベルで解釈されるようになってしまいました。
これには、単に記憶が薄れた、社会のコンセンサスが時代の経過とともに変わったというだけでなく、戦略的にそのように持っていった人たちがいたのかもしれません。
◆
また、学校においてはもうひとつ別の見地からの理由があります。
それは、戦前・戦中において、国が国策として学校教育を軍国主義化の手段として用い、学校や教員が積極的にそれに参加したり、参加させられたという歴史がある点です。
戦後のGHQによる民主化施策で、「財閥解体」や「農地解放」というのを習ったことを覚えている人もいるかと思います。このとき実はセットで「師範学校の解体」というのも教わっているのですが、これは忘れている人も多いようです。
この「師範学校の解体」というのが、子供たちを戦争利用したことへの批判であり、その反省から戦後日本の教育が整備されていきます。
子供たちを国策利用しない、ということが現代日本の教育の基となっています。
この観点から、かつての象徴であったものが避けられるというのは論理的整合性のあることです。
それら象徴のひとつが、日の丸・君が代であり、「教育勅語」であったり、「ご真影」(天皇の肖像)であったりしました。
この観点から、学校において日の丸・君が代を強要しないという主張があったわけです。
これに関しては、国旗国歌法が制定されたときの小渕恵三首相答弁でも、再三にわたって「強制しない」「不利益のこうむることがあってはならない」となされました。
しかし、現実にはその後、各自治体において数々の譴責や処分が起こり、現在のように実質強要されるようになっています。
◆
ずいぶん長かったですが、ここまでが経緯の概要です。
さて、この記事の主題は、日の丸・君が代についてではなく、学校の権威体質についてでした。
実のところ、日の丸・君が代の問題はそれ自体がどうという問題とは別に、現在では学校の権威的な運営のために使われているという現在直面する大きな問題がでています。
これを一種の踏み絵とすることで、学校にいる人たちが権威的なヒエラルキーに従う構造を作られています。
最近、政治の教育介入のニュースがいくつもありました。
これが可能になっているのも、学校が権威にひれ伏す体質を持たされていることが背景にはあるでしょう。
権威的な体質を持った学校では、自分の意見を持つ人間よりも権威に従順な人間が好まれ、さらにはそういった人間になるような教育すら起こります。
そこでは他者と違う子の排除や、能力の劣る子の排除・蔑視も起こりえます。
もちろん、これからの社会に必要な、自身の意見や、創造的な思考をもった人間の育成も難しくなります。
以前にも紹介したことがありますが、中学校の道徳の本に「権利の主張は義務を果たしてから」といったものが書かれたものがありました。
これはとんでもない誤りなのですが、権威的な体質を持った学校にとってはこのような誤りすら子供に教えていくのは都合のよいことでしょう。
ちなみに、この「権利の主張は義務を果たしてから」という言葉は、一見もっともらしく聞こえ、大人ですら口にする人がおります。しかし、現代社会においてこれが誤りであることは大人が適切に理解していなければならないことのひとつです。
| 2018-04-15 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
本当に「友達を作る」「他者と協調する」ためには - 2018.04.14 Sat
人は注意や、指示や干渉で伝えたことで子供が成長するという「錯覚」を持っていますが、実のところこういった言葉は、補助的に効果を発することはあるにしても、実は子供の姿が形成されるにおいて、主ではありません。
では、子供が成長を獲得するときの基本的なことを振り返ってみましょう。
それは、「人は、自分がされたことを他者にする」
ということです。
つまりは、言葉(=伝えられた概念)よりも、そのときの経験が優先されるということです。
それはプラスのことにもマイナスのことにも共通します。
例えば、
他者から、たくさん優しく関わってもらった経験のある子は、他者に優しくすることを覚えます。
他者に叩かれたことのある子は、他者を叩くことを学習します。
「親に口答えするんじゃない!」と親に叩かれたことのある子は、なにか理由をつければ他者を叩いていいということを、このとき身につけます。
さらには、そのとき「親に口答えしてはならない」ことを学ぶわけではなく、厳密には「親に口答えととらえられる行動をすると親を怒らせる」ことと、「親が怒ると叩かれること」を経験的に学んでいるわけです。
そのように子供が学ぶのは意図された概念よりもそのとき行われた行動なのです。
◆
それを踏まえると、本当の意味で他者と良好な交友関係を持つ(=友達を作る)、他者と協調するといったことを子供に身につけさせるために取るべき手段は明確です。
まず先に、個としての自己が尊重されることを経験する必要があります。
その結果、個である存在が、他者を尊重することができるようになり、そこから健全な交友関係や協調が生まれるのです。
それは当然ながら、「仲良くしなさい」という圧力を受けることではありません。
しかし、日本の子育て・教育の中では、無自覚にそれが行われます。
子供を均質化し、集団から逸脱しないことをもって「協調」とみなすのは、教育の理念の理解が非常に浅いと言わざるを得ません。
まあケガの功名のようなもので、理不尽な大人の関わりに連帯して耐えたことで、友達との関係が生まれるなんていうこともあるようですが、もちろん、それは教育の目指すところではありませんね。
◆
もし、学校が本質的な成長として、子供の協調性を重視したいのであれば、個の尊重の概念から出発しなければなりません。
いきなり、「友達を作るのはよいこと、正しいこと」「協調するのはよいこと、正しいこと」という頭ごなしのアプローチをしても、それはうわべの「できた」を一時的に作るに過ぎません。
しかし、それを山ほどしてしまうことにより、子供たちは支配・管理されることの抑圧・ストレスを過剰に受け、集団生活におけるさまざまな行き違いを持たされることになってしまいます。
・大人(学校)が思い描くようなステレオタイプの他者との交流関係が苦手な子が追いやられてしまう孤立、いわゆる「ぼっち」状態。
・他者と交流関係を持つプレッシャーから、過剰に「頑張って」他者と関わる、「うわべの友達」。
この「うわべの友達」は、孤立を恐れるあまりの反動から生まれた「意に染まない他者との関係」である場合もあります。
これは集団によるいじめの遠因になっています。
自分自身が、他者から孤立してしまうのが怖いので、影響力の強いいじめ側の子に同調して、自身はいじめをする理由を持っていないにもかかわらず、いじめに加担するケースです。
これとても多いです。
これゆえに、あるときまさか想像もしていなかった「我が子がいじめの加害側のグループにいる」という事態に直面することもあります。このときの保護者の驚きは相当なものです。
たしかに、驚くのももっともなのです。
その人の子育てはなにも問題があったわけでもないし、その子もいじめをするような問題を抱えているわけではない。しかし、他者との関係性の機微によっていつのまにかいじめに加担しているわけですから。
◆
大人が「友達を作ることの強要」「仲良しの強要」をすることなど意味がないのです。
その子が他者を信頼できるようになり、優しい関わりや、あたたかい関わりをそれなりに受けて、なおかつ自己表現を抑圧されることもなく、長所も短所もありのままに尊重されていれば、その子は必要な段階で必要なだけの交友関係をおのずと持つのです。
それを過干渉にならない程度で配慮し、あとは信じて待てることが、プロとして子供を導く人の役割です。
これができてはじめて、「私は子供の自主性・主体性を尊重しています」と言うことができます。
| 2018-04-14 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
「協調しましょう」がもたらす現実 - 2018.04.13 Fri
これをたくさんされていくと、もしくはこれが当たり前の空気になっている環境でたくさん過ごしていくと・・・・・・。
子供たちは、自分の気持ちや意見を言わない、言えない子になっていきます。
例えば、
「どっちがいい?」と聴けば、「どっちでもいい」
「なにがいい?」と聴けば、「なんでもいい」「みんなと同じでいい」「みんなに任せる」
このような行動をとっていきます。
ここのポイントは本当に「どっちでもいい」と思っているわけではないことです。
「どっちでもいい」と本人が言ったにも関わらず、ある一方を選ぶと機嫌が悪くなったりします。
ということはつまり、どっちでもよかったわけではありません。
しかし、どちらか自分のいい方を主張するという簡単なことすら、無意識に避けるようになっているのです。
これでは、「協調」が「自主性・主体性の喪失」と引き替えに作られていることになります。
本来子供たちに持たせるべきは、自主性・主体性を獲得させた上で、他者との協調をできるようにすることです。
この点が、まさに「集団→個」と見るか、「個→集団」と見るかの視点から別れる大きな違いです。
コメントでもいただきましたが、学校教員の中には、個を重視したら協調ができなくなるのではという考えを持っている人がいます。
これは大きな間違いです。
その人には、「子供を信じる」という、子供に職業的に関わる人間が必ず持たなければならないスキルが欠けています。
その「子供を信じる」ということを、その人自身の「人間性」で最初から獲得してしまっている人もおりますが、僕はあえて「スキル」とここでは言います。なぜならば、それは後天的に自身の意識と努力で獲得することも可能だからです。(「スキル」に対して、その人が元から持つ人間性によりできているものを「センス」と僕は呼んでいます)
子供を信じてみましょう、子供の自主性・主体性だけを重んじ協調に類することをまったく求めなかったとしても、大人が直接協調という結果をこねくり回して作り出すよりも、ほんの少しだけ時間はかかるかもしれませんが、子供たちは自分から協調をできるときが必ず来ます。
(ただし、ここには「協調はそんなに重要か?」という視点もありますが、いまはこれは置きます)
そして、それこそが本当の協調なのです。
| 2018-04-13 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
「友達を作りましょう」の落とし穴 - 2018.04.12 Thu
「友達を作りましょう」が、単にそれだけの意味であればいいですが、校長たちがこぞって言うのは「協調」を目指してのことです。
しかし、協調を押しつけることで人は他者と本当の意味で協調するようになるものではありません。
ここに気づけていないことが、学校にある種のゆがみをもたらしているのではないでしょうか。
乳幼児に対して、大人がよくやる関わり「お友達と仲良くしましょう」という呼びかけがありますね。
この子供に対して、「他者と仲良くしよう」という大人からのアプローチにどれほど意味があるかご存じですか。
このアプローチ自体が子供の内面的な成長に及ぼす影響というのは、実は0なのです。
元々他者と仲良くできる子に対してこれを呼びかけた場合、子供は大人の呼びかけの通りに行動するので、一見意味があるように見えてしまいます。
しかし、それは元々できる子だったからできているだけで、呼びかけが内面に及ぼしている結果ではありません。
その呼びかけをする当人には、「自分のアプローチの成果があった」と錯覚させる効果はあります。
なぜそう言えるかというと、元々仲良くできない子に対して、いくら「友達と仲良くしましょう」という呼びかけを山ほど繰り返しても、少しもそのようにはならないからです。
しかし、その呼びかけを頑張ってしている当人は、その呼びかけの効果がないことを理解できません。
その場合は、「その子がダメな子だから」という認識を自身に持たせます。
具体的な例としては、「ちゃんとしつけられていないから」「甘やかされているから」「親が悪いから」「親に愛情がないから」といったさまざまな理屈を持ってきて、自分のアプローチの効果がないことの自己正当化させます。
すると、その子を自分がケアする対象の埒外(らちがい)と無意識に見なすようになります。
これは「排除の論理」です。
大人が子供を「落ちこぼれ」にする瞬間です
子供同士仲良くさせる、つまり協調させるために、「協調しなさい」というアプローチは無意味なだけでなく、その子へのアプローチを放棄する結果を生みかねません。
学校長が、「友達をたくさん作りましょう」=「他者と協調しなさい」を上から子供に要求していくこの関わり。
これを引き起こしているのが、背後にある「集団→個」という大人の側の認識です。
ここには「個」を重視せず、「個」を集団に従属するものととらえている見方があります。
この認識が、子供へのアプローチのゆがみをもたらします。
不登校の子供たちを多く生み出し、いじめの状態を引き起こし、いじめの被害にあった子を救うことのできない遠因が、まさにこの大人の側の認識にあります。
◆
「個の尊重」これを適切に理解する必要があります。
理念レベルでの理解と、実践レベルでの理解がともに必要です。
理念レベルでは理解しているが、実践としては少しも理解できていない大人が大変多いです。
学校長や、幼稚園の園長、保育施設の施設長といった人でも、こういった人たちが多数います。
あまつさえ、講演会などで人にさも自分はできているかのように、それを語ったりしています。
しかし、現実にはその人たちは実践できていません。
つまり、これは実のところ理念的にすら本当は理解しておらず、ただ聞こえのいい言葉を受け売りで覚えているだけなのです。
コメントには、校長のあいさつで同様のことを言われたという人が複数おりました。
これのひとつにはある理由があって、校長向けのあいさつのネタ本のようなものがあって、それを元に話している人もいるからです。だから似通ってくることがあります。
何十年も教職者をしてきて、自分の言葉で語るなにものかを持っていないというのはどうかと思いますが、実際そういう人がいるのが現実です。
◆
さて、「個の尊重」の話にもどりましょう。
個を尊重するということは、つまり、他者と違うということを受け入れることです。
「先生」と呼ばれる人たちは、ここを受け入れることが大変難しいのです。
なぜか?
なぜならば、そのことが教育に対する浅い理解でいる場合、自分たちの目的に合致していないように見えるからです。
例えば、給食指導で考えてみるとわかりやすいです。
浅い理解で子供の教育を認識していると、「給食を残さず食べさせること」という目的を自分たちに課せられことと認識します。
そのように認識すると、「残さず食べること」が絶対の正義であるかのようにとらえてしまいます。
すると、「他者と違うことを受け入れる」ということが大変難しくなります。
大多数の子は残さず食べられたとしても、好き嫌いの多い子、少食の子などを心情的に許容できなくなります。
すると、「あなたたちは間違っている。残さず食べられることが正しいのだから、あなたたちは自分たちの現状を反省、自己批判して、正しい側に来る努力をしなさい」といった気持ちになります。
教育の目的を、正しいとされるいくつもの規範意識に子供をはめ込むことと認識してしまうと、個の尊重をするどころか、多数派や常識やモラル、マナーといった集団の論理を優先し、個の不尊重、さらには個の排除になり得ます。
◆
不適切な対応をする教師にかかると、ここでハラスメントが起こります。
少し前に、給食を無理矢理子供たちに食べさせ、5人が嘔吐する事態になり、そこからそれ以外の過去の不適切対応が明るみになり、処分を受けた教員のケースがありました。
これをしている教員には、その不適切行為の最中ですら、自分の行いが間違っているという認識はなかったことでしょう。
その人にとっては、「残さず食べさせること」は「正義」なのです。
これは、モラルを理由にしたハラスメントなので、モラハラ(モラルハラスメント)になります。
◆
このように、教師という職業の性質には、個の尊重することを難しくする傾向があるのです。
その心理状態からすると、個を尊重(=違いの許容)するよりも、そこの生徒に集団の理屈を正義と認識させるプロセスを強化し、その方向に半強制的に子供を進ませることが心理的にもっともすっきりします。
つまり、「協調」です。
この、「集団の理屈を正義と認識させるプロセス」は、ときに「私の言うことに逆らうな」と同質化することすらあります。
ここまでくると、「支配」です。
またそのような協調の強制や支配を要求する心理を持つと、「その方向に半強制的に子供を進ませること」、この状態を「自主的」「主体的」と認識することがあります。
それゆえに、少しも子供の自主性・主体性を理解も、実践もしていない人が、「私は子供の自主性・主体性を尊重しています」と堂々と言えるようになります。
実は半ば強制的であるにも関わらず、その人からは子供がまるで自分から進んでそれをしていると見えてしまうわけです。
ここには、ある種の「認知のゆがみ」があると言っても過言ではないでしょう。
羊の群れが、牧羊犬に追い立てられて柵の中に入っていく姿は、それが羊自身の足で歩んでいるといえども、それは自主性ではないのです。
◆
さて、ここまで見てきたことで、「友達をたくさん作りましょう」=「他者と協調しなさい」が、教員のあり方として問題のあることがわかってきたかと思います。
本当の意味で子供を「伸ばす」「教育する」のであれば、集団の論理からスタートしてはそこにたどり着かないのです。
「他者と違うこと」「できないこと」といった、一見、負のように見えることを受け入れる視点を獲得しなければなりません。
そのためには、自身の持つ「規範意識」「これが正しい」「正義」「普通」「常識」「モラル」「マナー」などに飲み込まれないスタンスを得る必要があります。
また、並行して教育の大目的(グランドデザイン)としての、「均質化した人間の育成」から卒業する必要があるでしょう。
| 2018-04-12 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
中学校入学式 - 2018.04.10 Tue
まず、はじめにお断りしておきます。
僕は、優れた教員や、生徒のことを強く考えている教員がいることも存じ上げています。
それは少しも否定しません。しかし、だからといってそれが批判をしてはいけないという根拠にはならないことはご理解いただけるでしょう。
これは昔から言われるところですが、学校という組織は外に対して閉じた体質があり、積極的にアンテナを高くしている人以外、自分たちの組織内の常識にいつのまにかからめとられてしまう傾向があります。これは、保育施設も同様です。
特に、組織の上部がそのような自分の周りの認識だけでいる場合はなおさらです。
しかし、往々にしてそのようになるものです。なぜなら、「自分は正しい」と思わずにはいられないのはこれは人の性(さが)として避けられないものだからです。
それに対して、客観的な検証や、内省、学術機関などの提言を受けて是正すべきものですが、それは全ての人ができるわけでもありません。
はっきり言ってしまえば、閉じた組織の自浄作用というのは往々にして低くなりがちです。
僕自身は、これを保育施設で嫌と言うほど実感しています。
組織に変わることを訴えるよりも、そのクライアント(この場合は保護者等)に理解をうながす方がはるかに、そういった組織を健全化させる近道かもしれません。
僕がこのブログで「保育の質」というカテゴリーを設けて、保育士に限らず多くの人に発信しているのはそれがためでもあります。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、僕が入学式でどんなことを感じてきたかを述べたいと思います。
少々モヤモヤした気持ちを持ったまま書いているので、あまり読んで気分のよくなるような話ではありません。ご不快になる方はお読みにならないことをおすすめします。
1,自主性・主体性の視点の欠如
式の開始前、在校生(2,3年生)が副校長の指示に従って、簡単な事前リハーサルのようなことをしていました。
号令をかけて、立ったり座ったり、お辞儀をさせたり、座ったときの音がうるさいとか静かだとか・・・・・・。これ自体も、それなりに問題があるのですが、ここではそれは置きます。
その副校長の在校生への指示の中で、このような一節がありました。
「今日は入学式というおめでたい日です。みなさんの気持ちはおめでたくなっていますか。意識してみて下さい。云々」
それを聴いて僕は「ハァー、めでたやなー」と中学生たちが一斉に三河万歳でも踊り出すのかと一瞬想像しましたが、まあそんなわけもなく粛々とその生徒たちは聴いているわけです。
その副校長は50歳代くらいの年齢の方でしょうか。
失礼ながら、何十年も教員をやってきてそのレベルなのかと僕は思います。
なぜ、それがおかしいか。
それは、生徒の内面に直接指示を出し、そこをその指示によって作り上げようとしている。また、それが可能なのだと思っているがゆえです。これは一般社会に生きる大人にとっては驚くほどありえないことです。
人の内面というのは、直接には他者がどう干渉しようともこねくり回すことはできません。
また決してしてはならないことです。その根拠は憲法に定められた「思想信条の自由」にあります。
例えば、「花がきれい」ということを、「この花はきれいに咲いていますね。だからあなたもこれをきれいだと思いなさい」ということは、不可能なことです。そこに教育要素はありません。
さまざまな活動を通して感受性を養うなどし、その上で人によってはそれを「きれい」と思う人もでてきます。(前提として、思わない人がでてくる許容も必要)
本当にその人を伸ばす教育というのは、常に間接的でしかありえないのです。
「はい、この花はきれいですね。ではみなさん私に続いて”お花がきれい”とご唱和ください」
とこのようなことをしても、それは少しも教育ではありません。
ただの押しつけであり、単に「きれい」という意図に子供をはめ込みたい人の自己満足でしかないのです。
「おめでたい気持ちになりましょう」という心に対する指示、直接干渉によって子供を伸ばせるという視点に立っている教員では、子供の心につながる部分の何ものも形成できないのです。
むしろ、そのようなスタンスに教員がいるのであれば、学校生活というのは、押しつけ、服従の連続にしかならないことでしょう。
学校のような小さな組織は、上に立つ人の方針がとても大きな影響を与えます。
副校長がそうであれば、それ以下の教員はそれにならう人もでてくることでしょう。
教員がそうであれば、子供たちの中にもそのように他者と接する子もでてくるでしょう。
これが例えば、いじめや不登校、学級崩壊の問題など、これらはどれも子供の内面と関わっていることです。
そういったスタンスにいる教員では、解決はおろか理解すら難しいのではないでしょうか。
特に道徳が教科化された今、この教員の姿勢は大変危険なことと言えます。
2,「友達をひとりでも多く作って下さい」
校長あいさつのなかで、上の一節がありました。
正直「うわぁああ」と思います。
これでは不登校の生徒もでてくるでしょう。
このレベルの視点は、少なくとも20年も前に理解し乗り越えていなければならないことです。
単に、「友達を作って学校生活を楽しんで下さい」という程度であればまだしも、「ひとりでも多く」とかぶせていることによって、この「中学生は友達を作るべきだ」というある種の思い込みになんの疑問も抱いていないことがわかります。
「友達を作りなさい」「他者と協調しなさい」というこの大人の主観が、学校という場に集う個々ひとりひとりの子供への無理解や、居心地の悪さを形成していることにまったく気がついていないことを露呈しています。
不登校の問題やいじめの問題は、大人からの子供同士の協調の強要が背景になっていることがあります。
この校長の言葉は、それらを少しも理解していないということです。
このスタンスにいる人は、不登校の当事者や、いじめの被害に遭う側の子に、うわべはともかく心理的な批判の気持ちをもちかねません。
これは問題解決につながらないばかりか、その犠牲となっている子をさらに大人が追い詰めることにつながります。
現代において、教員が必ず乗り越えなければならない視点です。
3,個の不尊重
また校長のあいさつの中には、集団としての協調・団結を求める内容がかなり強い調子であり、その次にとってつけたように軽く「ひとりひとりを大切に」という言葉がつながっていました。
実は、これに先立つ小学校の卒業式における、そこでの小学校長の卒業式あいさつでも、まったく同様の話があったのです。
それは、「学校としてのまとまり」を強調し、本当にあいさつ文の最後の最後に一言だけ「個々を大切に」とつけていました。
この両者に共通しているのは何か。
学校長の子供を見る視点には、「集団が先にあり個が後にある」というスタンスがあることを表しています。
それは可能性としては、単に公務員根性で、「問題を起こしてくれるなよ」という気持ちの表れかもしれません。それはそれで教育者としてあまりにおそまつなものですが。
だが、もし教育論としてそのようなスタンスでいるのでしたら、それはさらに問題です。
現代の先進的な民主主義国家において、全ての基礎に「個々人」があり、なにかに取り組む際はそこから出発するということに言を俟(ま)たないからです。
教育においても、当然そうであるのは明らかです。
むしろ、教育にこそその視点が明確になければ、現代に生きる上での知性・教養を養うことができません。
であるからして、教員のスタンスは「個がまずあり、そのある種の集合体としての集団がある」という点に立っているはずです。
このとき、その集団の価値を小さくとらえるか、大きくとらえるかの価値観の差はあるとしても、この順番としての「個→集団」ここは踏まえていなければならないところです。
これが理解できていなければ、「個の尊重」や「多様性の尊重」といったことを実践できるわけもないのです。
話はややそれますが、先般話題になった銀座の公立小学校におけるアルマーニ制服の問題も、「立派な制服を着ることにより生まれる一体感」といったものを、そこの校長は求めていました。
あのケースにも、これと同様の問題点があるのです。あのケースは公立学校における制服の値段がどうこうといったことではなく、教育のスタンスとしてのそちらの方がずっと大きな問題だったと言えます。
そのように、「個の尊重」や「多様性の尊重」が理解できない学校では、複雑化する現代の子供たちの問題に取り組めるべくもありません。
最終的に、マイノリティに対しての排除の論理がはたらくことになるでしょう。
事実、息子の小学校においては、個性の理由から友達と上手く関われない問題を抱えていた子を転校させたというケースに直面しました。
悲しいかな、教員の不勉強さが子供にツケを払わせる事態となったのです。
4,車いすの生徒への対応
新入生に車いすを利用している生徒がおりました。
他の生徒は、出席番号順で入場していましたが、その車いすの生徒は列の最後尾についてこさせられていました。
インクルーシブの観点から言えば、その生徒の出席番号順の通りに他の生徒と同様に並んで入場するはずです。
これは、座る席の物理的都合上そうする合理的理由があったのではという指摘があるかもしれません。しかし、それはあたらないのです。なぜなら退場時も最後尾にされていたからです。
教員・学校側にその子を差別したりする悪意はないでしょう。
しかし、だからといってそれがOKとはならないのです。
あえて強い言葉で言えば、プロフェッショナルの無知は罪だからです。
ここに見え隠れしているのも、個の尊重よりも集団を先に置いている視点です。
「ひとりだけ違う車いすなのだから、他者と違う扱いをされて当然。一番後ろにしておけ」というスタンスにいまだ学校・教員がいるということです。
◆さいごに
僕は学校・教員の姿勢に対して批判はしていますが、そこにいる個々の人たちを責めているわけではありません。
たくさんの方がそこで努力していることも知っています。
現に、僕の講演や研修にいらしゃる教員の方も少なからずおります。
僕がこのようなことを言うのは、子供にまつわる仕事をしているからだけではありません。
今に生きるひとりの人間として、現代的な感覚を持って子供たちの教育を考えることは当然の役目だと思うからです。
もし、これを読んでくれた方の中に学校関係者の方がいらっしゃいましたら、「批判だむかつく!」ととらえるのでなく、これからの学校のあり方を考える上での一助としていただけたらと思います。
| 2018-04-10 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 16 | トラックバック : 0 |
慣れてはいけない ー子供のいじめを考えるー - 2018.03.31 Sat
ここ数年、どれだけこういったニュースに接してきただろうか。
社会的にいじめ問題への関心が高まってきた結果、それゆえにニュースになる件数が増えたということはあるかもしれないが、しかしそもそもそのようないじめが引き起こす問題の数は確実に増えているだろう。
ゆとり教育は社会的な批判に遭って頓挫したが、その頃はいまほど学校関連の子供の自殺は多くなかった印象がある。
いまや毎月、下手をすると毎週のようにこういった事件のニュースに触れる。
もはや、このようなニュースが特別なものでなくなりつつあり、それに慣れっこになってしまってはいないだろうか。
しかし、これに慣れてはいけない。
子供がいまのように次々と自殺するという社会はおかしいのだ。
この社会はすでに病んでいる。
そしてそれに慣れ、おかしいと感じなくなっている人たちもまたその病に感染しつつあるのではなかろうか。
だが、社会自体が疲弊しており、回復のための体力が出せない状況があり、そして、この病の他にも複数の病がありそれががんじがらめになっているので、この病を治そうとしてもその病巣に手が届かなくなっている。
この問題の一端でしかないが、僕にはこの病を治す端緒がある。
いじめをする側の子供の多くは、その理由を持っている。
その理由は多くの場合、親に持たされている。
そして、親もまたそれをしてしまう理由を持っている。
親のそれもまた、多くの場合誰かに持たされている。
いじめ問題が表出化する学校において、この子供・親、ふたつの問題を解決することはまずもって不可能だ。
子供の問題だけですむのであれば、それも可能だろう。
しかし、深刻なものほど、子供の一過性の問題ではない。
蛇口を閉めなければ、いくらバケツの水をくみ出しても、その問題は解決しない道理だ。
蛇口のところからアプローチする視点、そしてそれをできる人の存在が必要なのだ。
つまりは、保護者へのアプローチである。
学校にはそれはできない。親へアプローチする機会も権限も、またそれに関する蓄積ももっていないか、いちじるしく少ないからだ。
それができるところがある。
それが保育施設である。
しかし、現状のままでは無理だ。
現状の保育施設で、そこまでの専門性を持っているところ、保育士は多くない。
そもそも、公的保育があやふやになった現状で、利益追求型になった保育施設ではそれをする意欲や、そもそもそういった問題意識すらが希薄になっている。
また、営利化以前の認可保育園主体の時代だとしても、そこまでできるところは多くなかったのは事実だ。
ではどうすればそれが達成されるか。
大きく考えてそのためには2点必要なことがある。とはいえ実質的にはほとんど次の1点だ。
それは、まずもって保育予算の増額である。(ここでは保育に話を絞っているが教育予算も同様)
注)公財源教育支出GDP比 OECD平均4.9% 日本3.3%
その予算を、人員増、給与増額、質の向上に投入する必要がある。
(保育施設で預かる子供の定員増のテーマもあるが、ここでは別の事柄なので触れない)
なかでも給与の増額、職員待遇は重要だ。
日本ではお金の話を忌避する傾向があるが、現実問題としてこれを抜きには語れない。
現状の保育施設の内実をどれほどの人が知っているだろうか?
いま、少なくない施設において人員不足であり、それは非常に大きな問題となっている。ここまでは多くの人がご存じだろう。
しかし、問題はそこで終わらない。
保育の現場からはこんな声が聞こえてくる。
「とてもではないがこの人は保育士としていちじるしく適正を欠いている」
「子供へ虐待ともとれる行為を日常から行っている」
「他の職員や、保護者にハラスメントをする保育士がいる」
そういったことを、職員や施設長が使用者に訴えたとしても、返ってくるのはこの一点張りだ。
「他に人がいないのだから、ダメでもなんでもその人を使って下さい」
保育の仕事は、その人の人間性のウエイトが非常に大きい仕事だ。
しかし、保育がブラックな職場で待遇も悪いため、よい人材が来てくれない。来てくれても長続きできない。能力の高い人には、はるかにもっと給料のよい仕事があるからだ。
(しばしば、この話題をすると「福祉の心を持ってお金でなく」といったことを投げかけてくる人がいるが、その人には「やりがい搾取」という言葉を調べるようにお伝えしたい)
子供が好きで保育者になったのに、経済的、時間的、身体的に余裕がなく自身の子供を持てないなどといった悲しいことまで起こりうる。
これで、保育士によい人材を集めることなど不可能なのだ。
いじめ問題から遠のくので、これについて語るべきことが多いがここまでにしておく。
先に、ほとんどこの1点だと述べたのは、この給与・職員待遇が先になければ次の問題は画餅に等しいからである。
そもそも適正のない保育士にいくら研修をしても、意味がないことを考えてみればそれが理解できるだろう。
つぎの2点目は、子供の心の成長を適切に達成させることのできる保育人材の育成が必須である。
いまでも、「子供になめられるな」といったとても専門家とは思えない、保育士の自己流保育論がまかり通っている。
保育がこのようなレベルでは、子供の心の成長や、心の問題を解決できるわけもなく、むしろいじめる側やいじめられる側になる理由をたくさん子供に持たせることになる。
保育士への適切な研修が絶対に必要だ。
また、保育士への研修は、保育だけに限らず保護者への支援についての具体的なスキルまで目指すこと。
新しい保育指針にさらに大きく盛り込まれたとは言え、指針に書かれただけで現実の保育施設のスキルが上がるわけではない。
通り一遍のきれい事をなぞる研修をしたとしても、やはり無意味だ。
保護者へ適切な子育てをサポートできる人材の育成までを明確に目指す必要がある。
僕は実際の保護者の声に、保育士でない立場として触れてきた。
そこでは、保育士・施設に直接言えない本音を耳にする。
保育士から、
「お子さん愛情不足になっています」
「子供がかわいそう」
「家でもちゃんと見てあげて下さい」
このように言われて苦しむ人が、いまだに後を絶たない。
このスタンスにいる現状の保育士たちに「親の支援は大切ですよ。さあ、みなさんも頑張って」といった表面をなぞるだけの、指針の文言や、研修をしたとしても進歩はないだろう。
これらの言葉に問題があることにすら気づいていないのだから。
抜本的な保育士への研修が必要なのだ。
これには、少なくない時間とお金がかかるだろう。
しかし、ここにそれだけのリソースをつぎ込み、子育ての最初の段階から、子供と子供を育てる親にアプローチできる手段を社会の中で確保できることにより、現状のいじめ問題の根っこの少なくない部分を緩和・解決することが射程に入る。
それにより、子供のいじめや、それを苦にした自殺が少しでも減らすことができるのならば、その価値は必ずあると僕は言いたい。
社会のリソースをもっと保育に下さい。
これからの保育士たちは、必ずやよい仕事をします。
もう、いじめやいじめによる子供の自殺のニュースを見ないですむ社会を目指しましょう。
(参考:OECD予算関連)
http://www.oecd.emb-japan.go.jp/pdf/educationataglance2016_Japanese.pdf
http://www8.cao.go.jp/shoushi/shinseido/meeting/kodomo_kosodate/b_19/pdf/s5.pdf
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-09-21/2017092101_05_1.html
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyoiku/81/4/81_460/_pdf
https://synodos.jp/education/1356
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpab200901/1295628_005.pdf
| 2018-03-31 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
おとーちゃんはメロン味 vol.2 - 2018.01.22 Mon
◆子供がなめてきた行為の裏にあるもの
おそらくこの子には、0~2歳の乳児期に、大人に甘えたり、受け止めたりしてもらった経験が完全に十分でなかった可能性があります。
それが情緒的な不安定さとなって、日常のさまざまな場面の行動に表れている姿が見て取れます。
(情緒のアップダウンの激しさ、精神的な幼さ、自己主張の強さとその対極的な自信のなさの混在、大人や子供への対人関係の姿、すねる、いじける、拒否・否定に敏感、スキンシップを強く求める姿など)
この子の心が根底で求めているのは、0~1歳頃に起こるような、母親と自分が不可分のような状態の経験です。
この時期は、些細なことであっても、嫌なこと、うれしいことのひとつひとつに共感してもらったり、守ってもらう、助けてもらう経験をしています。
(例えば、ガラガラを手から落としてしまっただけでも、泣いて助けを呼び、そこに大人があたたかな表情で「どうしたの~?あらあら落としちゃったのね、はい、とってあげますよ~」と笑顔で応えてくれるような経験)
この子は、なにかの事情があってそこがひっかかったまま、この年齢まで成長してきた可能性があります。
それゆえに、年少(3~4歳)になっても、そういった信頼する大人と一体になりたいと思うような赤ちゃん的願望を持っています。
その表れが、「なめる」という行為です。
(他の同様のケースではそれと同じ理由で、噛みついてくる子、非常に立ち入ったことを聞いてくる子、一見性的ともとれる行動を取る子などもいます)
子供がなめてきたとき、普通の大人はどういった対応をとるでしょうか?
まあ、もちろんその人によりますが、多くの人は拒否的な反応をします。
・不快感からの拒否
・衛生上の配慮からの拒否
・突飛な行動に驚いたゆえの拒否
不快感からの拒否は、とても冷たい反応になります。
子供の親にも、保育士にもそのような対応を取ってしまう人はおります。
これをされると、子供は自分の願望・欲求が受け止めてもらえなかったことだけでなく、強く否定・拒否されたことを感じ取ります。
その子の根っこにあった、信頼する大人と不可分の状態になりたいという強い欲求は満たされないどころか、より断絶を感じさせることになってしまいます。
それではこの子は、自己肯定感や自尊感情を上手く育めないまま年齢を重ねることになりかねません。
その子が僕をなめてきたのは、その願望の表れでもあり、同時に僕を試している行為でもあります。
「この人は自分のことを受け止めてくれそうだけど、それは本心からなのだろうか?どこまで受け止めてくれるのだろう?」
もし、ここで柔らかくであろうとも拒否的な対応を示してしまうと、この子に大人全般へのあきらめを覚えさせてしまいまう可能性があります。
逆に、それを受け止めてもらえれば、人間全般への信頼感を形成することにつながります。
だから、そのなめるという行為を、最大限こころよく受け止めてあげることが保育士として取り得る対応なのです。
お「あっははは。なめたの~?ねえ、なに味だった~?」
子「う~ん、メロン味~!」
お「うわ~そうなんだ~。それはおいしくっていいね~」
子「うんっ!」(大きな笑顔)
もし、この場面を誰かが見ていたとしても、
「大胆な対応をする人だな」
「男性保育士だからやっぱり豪快ね」
「ずいぶん明るい人だな」
「手は雑菌だらけなのによくあんなことさせるわね。無神経ね」
などと思うかもしれません。
一見、ここに保育上の配慮があることは見えないのです。
実際の僕は、大胆でも、豪快でも、明るくもありません。だいたいはその逆です。
衛生観念にいたっては、神経質といっていいくらいかもしれません。
しかし、その子が手をなめるのをおおらかに受け止めるのは、その子の成長にとって最大限必要なものがそこにあるからです。
これは専門的な配慮・意図のある保育です。
そのように、子供のあり方を踏まえて対応を模索して保育をしていくと、子供の主体的な成長を見ることができます。
それを見るとき、保育という仕事は本当に素晴らしいものだと感じます。
| 2018-01-22 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
おとーちゃんはメロン味 vol.1 - 2018.01.21 Sun
そのクラスには今年度継続的に何度も入っているので、子供たちは僕のことをいろいろ受け止めてくれる人だということを理解しています。
その日、僕にもっともべったりとくっついて来たのは、ある年少の女の子でした。
その子は、信頼できる大人との情緒的な関係を強く求めている様子がうかがわれます。
園庭遊び中、その子が「こっちにきてー」と僕に手をつないできたときのことです。
そのつないだ僕の手の甲をなめようとします。
実際に2回なめてきたので、それを大笑いして受けて「どんな味がした?」と聞いてみました。すると、その子はニッカニカの笑顔で楽しそうに「メロン味」と教えてくれます。
僕はメロン味がするらしいです。
さて、いったいここには保育上のどんな意味があるでしょうか?
つづく。
| 2018-01-21 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
なぜ自主性・主体性の保育が実現できないの? vol.2 - 2017.11.07 Tue
僕も本屋さんで購入してきました。
まさか僕がファッション誌に載ることになるなどとは思ってもみなかったので、人生とはおもしろいものだなあとつくづく感じます。
さて、この時期は講演等で忙しく、少し日が空いてしまいましたが前のつづきからです。
「自主性・主体性」を踏まえた保育がなかなか達成されない理由について。
「自主性・主体性」のアプローチと、「管理・支配」のアプローチのふたつが並行して子供に行われた場合。子供の姿に影響を(必ずしも良い影響に限らない)より多く与えるのはどちらでしょうか?
この答えは明確です。
短期的・表面的には、圧倒的に「管理・支配」のアプローチの方です。
「自主性・主体性」のアプローチはコツコツとしか積み上げられないのに対して、「管理・支配」のアプローチは子供に強い影響を与えてしまいます。
例えば、こんなケースが考えられます。
お父さんが管理・支配的な関わりをして、お母さんが自主性・主体性を重んじた関わりなり、受容・信頼関係に寄った関わりをした場合。(仮定の話なので、お父さんとお母さんが逆でもいいです)
子供は、表面的にはお父さんの前で「いい子」になります。
ですが、それは本当に子供に獲得された姿ではなく、管理・支配により無理矢理引き出された姿であったり、支配的なアプローチの結果、その父親の顔色をうかがって見た目だけ望む姿になっているだけなので、子供が成長してそのようになったわけではありません。
しかし、おそらく父親からすると自分が子供を思い通りにしようとしたアプローチの結果その通りになっているので、父親の満足度は高く、同時に「自分のしていることは正しい」という風に受け取れます。
一方で、子供がその父親からの管理的・支配的な関わりをされる心理的負荷は増大していきます。しかし、それをその子が父親に出すことはあまりありません。なぜならそれを出すとさらに自分が父親に否定されることを学習してしまっているからです。
そこで、必然的にそれを母親に出すことになります。
出し方はいろいろです。
甘えやわがまま、着替えたくないなどのぐずりとして出すこともあれば、ダダやモノを買ってという要求などで出すこともあります。
また、管理・支配されている気持ちの反動で、普段父親が「するな」と言っているようなことを出すようになります。
これは衝動としてでるので、完全に止められるものでもなく父親の前でもでてしまうでしょう。そうなると父親はさらに「管理・支配」のアプローチで止めにかかることになります。
それもだんだん強くしていかなければならなくなるのは確実です。
それは過干渉となり、結果的に否定の関わりの蓄積となってしまいます。
母親は注意などしたとしても、もともと「管理・支配」のアプローチで関わっていないことを子供も知っていますので、普段父親からの強い押さえつけやしつこい過干渉になれてしまっている子供は、母親の言うことを聞かないという状態になります。
その光景は、まずたいてい父親からすると「お母さんは甘いからだ」という風に見えることになります。
この問題の本質は、子供がそういった不適応な姿がたくさんでるようになった元々の根っこに父親が積み重ねて来た「管理・支配」のアプローチ、そしてそれの生み出した過干渉と否定の積み重ねがあるところにあります。
「管理・支配」のアプローチはこのような「マッチポンプ」の構造を持ってしまいます。
「子供がいうことを聞かないから管理・支配をする。それによりさらに聞かなくなるので、さらに強い管理・支配をする」
と、まるでアルコール中毒の人が、それによる頭痛や手の震えなどの症状を抑えるためにさらにアルコールを飲むというのにも似た悪循環になってしまいます。
いまは父・母と仮定して説明しましたが、これが保育園や幼稚園、学校などで行われています。そこでは「自主性・主体性」を中心にした子供への関わりが実を結べません。
もし、保育園のクラス担任がふたりいて、それがこの父・母と同じスタンスだとしたら「管理・支配」のアプローチの負の影響が強くて、なかなか「自主性・主体性」のアプローチが結果を出すことができません。
もし、1歳、2歳クラスなどで、4人の担任がいてその内の3人が「管理・支配」的、1人が「自主性・主体性」の保育をしたとしたら、そのひとりに子供たちが受けている負荷のしわ寄せが行くことになります。
その人は実際は他の担任の尻ぬぐいをしているのに、その当の人たちからは「あなたは甘いから子供がいうことを聞かないのだ」「そんなんだから子供になめられるのだ」と責められることになります。
もちろん、その負荷のしわよせは家庭で親にも向けられることになるでしょう。
その割合が2人対2人でもなかなか「自主性・主体性」の保育が効果を発揮しずらいです。
どうしても、「管理・支配」的な関わりの方が強く子供に大きな影響を与えてしまいます。
「管理・支配」的な人が1人で、「自主性・主体性」を理解し尊重できる人が3人ならばだいぶいいですが、それでも難しいケースが少なくないのが現実です。
現実的には「管理・支配」を好む人は、周囲の大人にも不寛容であったり攻撃的であったりすることもあり、「自主性・主体性」を理解している人が萎縮させられてしまうことも少なくありません。
こういったケースがまるで判で押したように、同じ構造でいろんな施設で散見されます。
「管理・支配」の保育を好む人というのは、その人が保育理念や保育理論として確立してそのようなことをするようになったわけではなく、おそらくはその人自身が「管理・支配」の関わりを受けて育ってきて、そこから受けた影響が他者へも同じことを求めるという心理的な構造があるように見えます。
ですので、この辺を掘り下げていくと、パターン化できるほど似通った特徴が見えてきます。ここでは話がそれるので戻します。
さて、そのように「自主性・主体性」の保育を展開しようと思ったら、そのクラス・施設全体でのコンセンサス・共通認識が必要になってきます。
全員で一斉に取り組むことで、「自主性・主体性」の保育が明確な結果を出してくるようになります。
なので、園内研修などを通して全員で一斉に学ぶと安定した保育を展開しやすいです。
全体で取り組むことで、多少「管理・支配」的な関わりをする人がいても、その負の影響を小さくすることもできます。
もし、0歳児クラスで「管理・支配」的な保育をしていたら、その子たちが新年度に1歳児クラスになってもその影響が強く残っていて、「自主性・主体性」の保育に切り替えることは容易ではありません。
もちろん、不可能なわけではないですが、大変な手間と保育者の力量が必要になってきます。
しかし、現実的にはそういった力量や保育がわかっている職員は多くなく、その大変さをとりあえず押さえていくことに保育が終始してしまい、問題は翌年へと持ち越されてしまいます。
その次の年にはさらに子供たちの、年齢の上昇、身体の成長や体力の上昇などの影響もあり、その「大変さ」はより高まっています。
それを管理的・支配的に押さえつけることになれば、さらにその次は・・・・・・。
という悪循環の構造になります。
いま、こういった状況にある保育施設が少なくないです。
そのように問題が後へ後へと先送りになるので、
「幼児クラスは大変」が口癖になっている園や、
口には出さないけど、「幼児クラス担任したくない」「年長は持ちたくない」などと思うようになってしまう保育士も多いです。
こうなってしまうと職員が、園全体が疲弊していきます。
若い職員も保育が楽しくなくなり学ぶ意欲がなくなったり、年配のベテランすらモチベーションが保てなくなって退職してしまうといったことが起きます。
このようにならないために、園全体で「自主性・主体性」の保育を学んで、子供も職員も保護者も無理のない安定した保育を展開していく必要があるわけです。
このあたりのことは、また少し別の視点で今後の『保育士バンク!』のコラムで書いていこうと思います。
| 2017-11-07 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
なぜ自主性・主体性の保育が実現できないの? - 2017.10.29 Sun
なぜ日本の保育施設で、「自主性・主体性」がなかなか理解、実践されないのか?ということについて。
その理由のもっとも大きな部分であるのは、そもそも保育以前に日本の子育て方法のなかに子供の「自主性・主体性」を踏まえた視点というものが存在していなかったことにあるといえるでしょう。
「自主性・主体性が少ない」のではなく、「自主性・主体性がほとんどない」と言えます。
「自主性・主体性」がない状態の子育てというのは、
例えばなにからなにまで子供を親の言う通りにするべく子供を常に威圧して、顔色をうかがわせたり、親の意に少しでもそむけば体罰を振るうといった状態ならば想像しやすいかもしれません。
しかし、そればかりが「自主性・主体性」を欠いた子育てというわけではないのです。
その中には、親が「よかれ」と思ってしているようなごく当たり前の子供への関わりすらあります。
実際のケースで考えてみましょう。
電車の中で3歳の子供を連れた親子がおりました。
子供が電車に備え付けの消火器をいじっています。
親はそれを止めようと
①「ダメ」
②「やめて」
③「やめなさい!」
④「お化けが出てきちゃうよ」
⑤「あ、そういえば○○がね~」と子供の気持ちをそらそうとする
⑥「お菓子あげる」
これらの関わりそれぞれを、親は優しい言い方、怖い言い方をとりまぜて何度も繰り返していました。
こういったことがごく一般的な日本の子育てとしてあります。
これをよく見ると、①②③は、子供を「上から支配」しようとする関わり方です。「ダメだし(制止の関わり)」、「怒る」を使っています。
それで通じないので、後半④⑤⑥は子供を「下からコントロール(管理)」しようとする関わりに代わりました。
これが一般的に子供への関わりとして行っていることを端的にあらわしています。「管理・支配の関わり」を強くやるか、優しくやるかのバリエーションしかありません。
子供の「自主性・主体性」を踏まえて、そこを伸ばすことで子供に行動を身につけさせていく視点が現実化されていないのです。
その一般的な子育てで行われていることが、本来専門家として保育所保育指針を踏まえて仕事をしなければならない保育士が、そのまま預かった子供にも行ってしまっています。むしろ、これらを徹底して、または、上手いテクニックを駆使して行うわけです。
そこでは、子供は「自主性・主体性」を育むことができません。単に年齢分だけ管理と支配に慣らされていくだけです。しかし、本来人間は管理や支配といったしめつけを嫌うものです。
その状況に順応できない子供が必ずでてきます。
すると、そこはさらなる押さえつけの力や疎外などを使うことで、子供にいうことを聞かせる繰り返しが「保育」になってしまうのです。
では、先ほどの例では、どういった対応が「自主性・主体性」を踏まえた関わりと言えるか考えてみます。
実はなにも難しいことではありません。
その伝えなければならない相手を、子供ではなく大人と仮定して考えてみて下さい。
どこか文化の違う外国の方で消化器を知らない人を案内している状況でも想定してみるといいでしょうか。
そのとき、いきなり頭ごなしに、「ダメ」や「やめろ!」など怒ったりしませんよね。また、「それをいじったらお化けがでるぞ」などとも言わないことでしょう。
「それは火事のときに使うもので、レバーを引くと消化液が大量に吹き出してそれで火を消すんですよ」
などと伝えるのではないでしょうか?
相手の反応や状況に応じてそこにさらにつけ加えるとしたら、
「もしあやまって液がでてしまったら止まらなくなって大変困ったことになるのでさわらないようにして下さい」とか
「緊急時以外触ってはならないことになっています」
といったことを話すことでしょう。
これらは、相手の「自主性・主体性」をその当の大人が踏まえているからこういった関わりが出てくるわけです。
日本の一般的にみられる子育てでは、この視点があまりに欠落しています。
初めから子供を「管理対象」「低いもの」と見なす子供観が強く、ごく当たり前の人対人の関わりができない病を抱えています。
先ほどのケースでも、子供に同じように伝えればよかったのです。
例えば、「それは火事のときに使うもので、消化液がでてしまったら大変困りますので触りません」のように。
子供は幼いとは言えど、なにが大事なことか、なにはしていいことかの判断ができます。(個性・発達によりその判断ができない子、判断できても行動に反映しにくい子といった例外はある。それは個別で考えるべきこと)
ただ、先ほどのケースでそれをそのまましたからといって、必ずしもその子にそれが伝わらない可能性もあります。
そこには理由があります。
この部分が理解されていないために、「自主性・主体性」がこれほど言われているにもかかわらず、多くの保育者が結局、管理・支配の保育に戻ってきてしまいます。
つづく。
| 2017-10-29 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
NEW ENTRY « | BLOG TOP | » OLD ENTRY