【保育】保育者の個 - 2020.07.26 Sun
叩いたり、怒鳴ったりすることは子供の尊重になっていないというところまでは多くの人がムリなく理解できます。
問題はその後です。
大人が子供に対して下手に出ること、子供の許容しがたい姿を我慢して許容すること、子供をヨイショすること、子供のご機嫌を取ること、子供にごまかしで理解させようとすること、その子を特別扱いすること。
こうしたことが「子供の尊重」なのだと理解する人が少なからずいます。
こうした状態は子供と大人の位置が非対称的になっており、かえって過保護・過干渉、依存の助長などの弊害を生み出します。
しかし、この理解におちいってしまう保育者はあまりに多く、僕の長年の課題となっていました。
このほど少し気づいた所があります。
この解釈や実践になってしまう保育者の傾向として、自己主張が苦手だったり、自己抑圧的にものごとをとらえやすかったり、ものごとをネガティブにとらえる人が多いことです。
対して、この子供の尊重概念を適切に実践している人は、自分の考えを明確に持っていたり、自己表現や自己主張がそれなりに屈託なくできたりする人が多い傾向があります。
(「我が強い人」という意味ではありません。我が強いだけの人は子供と信頼関係を築くことは難しくなる傾向を感じます)
また、この傾向は子供との間に信頼関係を的確に築ける人の特徴ともかぶります。信頼関係が築くのが上手い人という意味ではなく、より正確には、「子供が安心して信頼できる人」の特徴です。
一口にざっくりといってしまいますと、保育者自身の「個」を持っている人ほど、無理のない関係性で子供の尊重が実践しやすい、理解しやすいです。
さらに子供の方も、その関係性にムリなく適応しているようです。
ですが、現実には自己抑圧的な人が多く、自己表現や適切な自己主張ができる人は少ないのが、保育者に限らず日本で教育を受けた人の特徴と言えるかも知れません。
(「自己抑圧的であるがゆえに我が強くならざるを得ない」という人はいます)
現実に保育施設の会議では、ほとんどの人が議題の時は黙っていて、一部の我の強い人だけがしゃべりものごとが決まっていくといったことが多く聴かれます。黙っていた人はあとでグチとして不満をもらすなどということもあります。
もし、こうした状況が常態化していたら、針の両極端に触れているだけで適切なところにたどり着きにくいですね。
さて、こうして見えてくると、子供との適切な関係性を作るために保育者育成として取り組まなければならないことがわかってきます。
保育者自身の個の尊重です。
尊重というとまたここで解釈のブレがでてくるので、個を引き出すこと、自己主張をできる人材を育てることと言い換えます。
しばしば研修などの導入として、ゲームやレクリエーションを取り入れているものもありますね。
この点においてそうした取り組みは、大きな意味があるのだろうと思います。
また、年齢や経験年数にこだわらず自由に会話ができる職場の雰囲気(最近では「同僚性」といった言葉もありますね)などを作ることが、実は保育の安定に直結している可能性があります。
僕はさまざまな保育現場を見る上で、保育者それぞれが屈託なく過ごしている施設が安定した保育をできているのを感じています。
これはたまたまのこの資質というだけでなく、取り組み次第で構築していけるものだと思います。
| 2020-07-26 | 保育について | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
【保育】保育研修での質問 - 2020.07.01 Wed
以下質問↓
4月入所の1歳児が午睡時に試し行動なのか、別の子を寝かしつけていると私の目をニヤニヤ見ながら布団から出ていきます。その子は寝るのを嫌がるので1番最後に寝かせています。布団から出て他の寝ている子のところに行くと踏んでしまったりするので困ります。 どう対応したら良いですか? また、寝かせても、嫌だ寝ない、と何度も起き上がり抱っこも嫌がり私だと寝かしつけが出来ません。結局いつも他の先生に代わっていただき寝かせていますが私が寝かす為にはどうしたら良いでしょうか。
もう1つ 1.2歳児どちらもなのですがほとんどの子が散歩から帰った時、夕方のお迎え前にトイレに行く声かけをすると嫌だと言って行ってくれません。時間や他児の関係でずっと待っていることは難しいです。結局抱っこや条件で連れて行くことが多いです。どうしたら良いでしょうか。
↑ココマデ
この質問、前半の質問と後半の質問に別れていますね。
前半の質問は個別の子のケースですが、とりたてて個別の個性等については書かれていないので、ここではそうしたケースではないという前提で考えていきます。
信頼関係の観点から見ると、前半の質問と後半の質問は地続きであると考えられます。
まず、後半の問題から見てみます。
>ほとんどの子が散歩から帰った時、夕方のお迎え前にトイレに行く声かけをすると嫌だと言って行ってくれません
こうした姿はひとつには、一日の疲れや、遅番になってしまうことの不安などからくるゴネという側面もあるかもしれません。これだけであれば、それは自然なものでもあり、日課が過剰になっているといった問題がない限りは、子供の成長や慣れによって軽減していくと考えていいでしょう。もし、遅番時の不安感や合同保育になるゆえの落ち着きのなさなどがあるのならば、それへの配慮を考える必要はあるかもしれません。
もう少し大きな視点で考えると、信頼関係の問題である可能性があります。
実は、こうした子供の姿は信頼関係や子供への関わりの理解、配慮が不十分なことによって典型的に出てくる姿でもあります。
チェックして欲しいのは、このときだけでなく保育全体が、過干渉になっていないかどうか?です。
干渉の多い保育、つまり指示や行動のコントロールが保育の中で慢性的に多くなっていると、このような従うことを拒否する姿がでやすくなります。
特に保育者に余裕のない時間帯ほどでます。
また、過干渉な保育者にではなく、自分を受け止めてくれそうな保育者に出す傾向もあります。
・声がけが過剰(声がけそのものが多い)
・言葉が過剰(繰り返し言葉での注意喚起など言葉が多い、声が大きい)
・指示が過剰
・介入が過剰(遊び時の注意など)
・過保護な関わりの多さ
もし、こうしたことがあれば、そうした反動からそのゴネのようなことは出るべくしてでます。子供が問題なのではなく、保育の問題点を解決する視点で取り組むことで適正化が図れます。
「従わせよう」という保育をすればするほど、現実は「従わない子」を作り出してしまうのです。
こうした過剰さそのものが「子供が従わないから」を理由として、さらに過剰になる悪循環になることもあります。
そもそもの「過干渉」を保育者は問題意識を持って捉えなければならないわけです。自分たちのしている「過干渉」が見えず、「子供が従わない」だけが見える保育者はこの悪循環から抜けられません。現実の保育で、こうした傾向はすくなくないようです。
過干渉を減らすことを職員間で共通認識し取り組みます。
このあたりの実践方法の細かい点は、当日の研修でお伝えした通りです。
この質問がでるまえに研修でお話ししていたのが、支配と信頼関係の問題です。
もし、これが単に過干渉だけが原因ではなく、子供への支配の関わりが保育の中で強くあった場合問題はさらに深刻になってしまいます。
もちろん、過干渉も一種の支配です。
「ああしなさい、こうしなさい、それはするな」こうしたことをもし四六時中言われていたら、大人でも不満のひとつやふたつ出てきますよね。
それに加えて、従わないことに対して冷たくされたり、疎外やイヤミを返されているような状況だと、その負荷はより大きくなります。また、保育者との間の信頼関係も厚くならないので、より従わない姿、試す姿、受け止めてくれそうな保育者に依存する姿が大きくなります。
しばしば保育現場の声で耳にするのが、「子供になめられている」「もっと毅然と対応しなさい」と先輩に指導されるといったケースです。
これらあまりに多く聞くケースなのですが、これはそもそも保育のスタートラインにすら立っていません。
常にピリピリして毅然としていないと子供が従わないという状況があるのだったら、それ自体がおかしいわけです。子供は大人を信頼せずにはいられない存在なのですから、特に配慮が必要なケースでなければ、信頼する保育者がのんびりしていても子供はその行動に従います。
そうした支配の保育がこれまであった場合は、それを切り替えて基礎的な安心感を子供に伝える所から保育を組み立て直すといいでしょう。
施設や職員の多くが、支配の関わりこそが保育なのだと考えているのだったら、施設全体で「信頼関係とはなにか」から保育を学び直す必要があるでしょう。
さて、そこから前半のケースを見てみましょう。
過干渉にしても支配にしても、また安心感が持てない保育環境にしても、そうした傾向のある保育の中では、子供が午睡につかず、保育者との関わりを求めてくるのは必然の結果です。
いち保育者の関わり方が良くないと言った問題ではありません。
こうした状況で、他の保育者だと寝るのは、往々にしてその子がその人との信頼関係の構築を「あきらめている」だけの場合もあります。
特段、過保護過干渉、支配の保育がない場合でしたら、肯定と安心の積み重ねからアプローチするといいでしょう。
保育の場面で出る問題は、その多くがその場面での対応で解決しません。
それを頑張っても対症療法的にしかなりません。
午睡以外の段階からの取り組みを意識します。
具体的には、研修時にお伝えしたように肯定の関わりの積み重ねを個別の配慮としてやってみましょう。
力を入れるのはここです。
「午睡時になんとか寝かせるために対応を頑張る」だとかえって子供は気持ちよく午睡につけません。
「寝かせよう、寝かせよう」という気持ちは、一旦鍵をかけてしまっておきましょう。
安心、安全、そして肯定をたくさんプレゼントしてもらった子が安心して身体を休めることができます。(午睡についてより細かく書いたものがこのブログの過去記事にいくつかあります)
もし、その保育施設の体質そのものが「子供になめられるな」「あなたが甘いから」というところでしたら、そこで本来の保育を身につけるのは難しいかと思います。
| 2020-07-01 | 保育について | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
【保育】7月のオンライン研修テーマ「子供の人権と保育」 - 2020.06.29 Mon
その保育をする人が、どれほど一生懸命でも、どれほど丁寧でも、人権として明らかにあるものの理解せずに保育をすると、保育の迷走を生みます。
人権の理解は保育の最も基礎にあることなのに、ここに取り組んでいる保育施設は必ずしも多くないようです。
これはその施設毎の姿勢に任されているのが実情で、人権を学ぼうとするところは取り組んでいるけれども、その方向性を持てていない施設では人権の学びは皆無です。こうした状況にあるのがこれまでの保育界の現実です。
学ぼうと取り組んでいる所であっても、その学びや理解は簡単にはいきません。
人権を理念などの抽象的なものとして学んだだけでは、なかなか日々の保育にそのまま生かせないことも少なくありません。
人権の理念を研修で学び、わかったつもりになっても、日々していることの中に人権を損なう関わりがあることに気づけないといったことが起こります。
人権を尊重した保育とは、単に子供に丁寧な関わりをすることではありません。
丁寧な関わりをしても人権を損なうことはあり得ます。
最近では子供のことを、対外的(保護者向け)に「お子様」と呼び習わす施設が増えています。
「私たちは子供のことを尊重しています」という姿勢をそれによって表現したいのでしょうけれども、実際の保育ではどうなっているかはまったく別個です。
外見じゃなくて中身で勝負しなければプロじゃないですよね。
◆「人権は大事だ! でも人権がなんなのかよくしらない」
このスタンスの保育者は少なくないのではと思います。
悪意はないのだけど、学ぶ機会やそもそもの適切な学びがないことに原因があるでしょう。
こうした状態だと、一生懸命保育しているつもりでも、日々当たり前にやっていることが、人権を損なう関わりであることに指摘されるまで気づけないことになります。
相手が小さい子だからといって、むやみやたらと抱えたり、腕を引っ張ったり、過干渉に指示をしたり、嫌がっていることを無理やりさせたり、過剰な過保護になったり・・・・・・。
人権への理解が足りないままだと、本来すべきでないことまで、その保育士からは「正しい」と認識されたまま、日々繰り返されてしまいます。
子供の人権を損なうような関わりをすれば、子供からの信頼関係は低下し続け、その結果逆にその保育者からは支配の関わりや子供の人権を損なう関わりがより正当化されてしまいます。
ここに保育の悪循環、保育の迷走が起こります。
例えば、過保護、過干渉になってしまう関わりにも、根っこには人権の無理解があります。
子供にはそれがたとえどんなに小さい子、0歳であったとしても、意見を表明する権利、自己決定する権利があります。
ここを保育者が実践的に踏まえていれば、過剰な子供の内面や行動への介入はおのずとセーブされます。
しかし、ここを人権として理解しておらず、「手をかけることがよい保育」といったレベルの保育理解であれば、過保護・過干渉が正当化されていってしまいます。
◆7月のオンライン研修テーマ「子供の人権と保育」
人権は全てにつながっています。食事の介助、おむつがえ、着脱といった日々の生活面。行事や集団への参加といった社会面、遊び面。
保育において、人権の理解抜きにできることなどひとつとしてないといっても過言ではないでしょう。
僕は理屈っぽい人間なので、理念の話は大好きです。しかし、研修ではあえて実践に重きを置いてこれをお伝えしていきます。
(言葉のかけ方や呼びかけ方、生活面への導入の段階でどうすればいいか。またそうした人権を理解尊重した関わりがなにを生みだし、子供達はどういった姿を見せていくのか、などなど)
というわけで、まだ詳細は未定ですが7月のオンライン保育講座は子供の人権に関するものを予定しています。
| 2020-06-29 | 保育について | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
【保育】信頼関係の裏側 - 2020.06.24 Wed
今度はその反対側から見てみましょう。
反対側というのは、信頼関係ができないことにより起こっている保育の現実面です。
このところ、不適切保育のニュースが後を絶ちません。
ニュースになるようなものは氷山の一角で、実際にはそうした事件までならずとも不適切さを内包した保育は現実に少なくないことでしょう。
そうした不適切さの発端にあるのが、この信頼関係の問題です。
もっと正確に言うと、保育者が信頼関係を適切に理解しておらず、またその構築の仕方がわからない点です。
例えば、不適切保育の端的なものは、従おうとしない子供への暴言や暴力です。(暴力や暴言は目に見えやすいので不適切と理解されますが、疎外を使った不適切さの場合は問題視されないことも少なくありません)
・従おうとしない子供
・それを悪いことと認識し、それゆえの暴言や暴力といった不適切な関わりの正当化
というふたつが表面上の問題になりますが、そもそもの発端である「従おうとしない子供」の存在は本当のところどうなのでしょうか。
ここに信頼関係の問題が隠れています。
そもそも、「自分に従わない子には、暴言や暴力を振るってよい」と思っている保育士を子供は信頼できるでしょうか。
大人である自分に置き換えても簡単にそれはわかることでしょう。自分がその相手の思い通りにならなかったとき(仕事や成績がその相手の要求どおりにならないなど)、そうしたときに暴力を振るったり、暴言を吐く人を人は信頼できるでしょうか。そうした攻撃されることイヤさにしぶしぶ従うことはあるかもしれませんが、そうした人に心からの信頼を寄せることはないでしょう。
保育におけるこのケースも同様です。
保育者の側が、そもそも子供との間に信頼関係を構築する気などないのです。
「私を信頼して私の要求に従いなさい」
保育者がこうしたスタンスで子供に対しています。
その保育者からすれば、そうしたスタンスで保育をしてきて従う子がいるので、自分は信頼されるに値すると考えてしまいますが、それは支配に服しているのであって信頼を寄せられているわけではありません。
保育者がこうしたスタンスで保育を続けてきていると、自分に従わない子の存在を、攻撃してよい相手と認知しかねません。
これは、保育上も問題なのは間違いありませんが、その保育者自身にとっても大変不幸な状況です。というのも、その人のそのスタンスではどれだけ経験を積んだとしても仕事において自己実現を実感することはできなくなってしまうからです。
その保育者は、保育のもっとも基礎部分を習得できないまま、経験年数だけ重ねてしまったのでしょう。
保育における信頼関係構築の方法を、実際上のスキルとして身につけていればこうした事態はさけられるのです。
しかし、いまたくさんの不適切保育がある現状は、日本の保育界がそうした基礎部分の理解をおろそかにしてきた結果と言えます。
その理由は前回述べたように、信頼関係の理解を「愛情が大事」「子供を大事に」といった「お気持ちの問題」にしてきたことが大変大きいと思います。
専門性ある保育はこの信頼関係というを、手に取れるかたち、言語化できるかたちで認識できる必要があるでしょう。
そもそもそれができなければ、保育はスタートラインにすらのらないのです。
◆子供と信頼関係を作れない人がおちいりやすい保育の現実
a,強いタイプ
・支配型保育
・子供の否定(障がいの決めつけなども)
・家庭の否定
b,優しいタイプ
・人クレ保育
子供の言うことのきかなさ(実体は信頼関係の不備)を「この子達は手がかかる」と人手を増やすことで抑えようとする。「人手を増やす=手厚い保育」と解釈できるので、その保育の問題点を見過ごしやすい
・過保護・過干渉保育
言うことのきかなさや、子供達が主体的に安全を確保できないことにより、干渉が過剰になっていく。また、その根っこには、保育者が子供を信頼していないがゆえに、過保護な関わりが多くなり子供の依存が強まるマッチポンプの構造がある。
・特別扱い保育(疎外としての特別扱い)
保育者を信頼できないがゆえに不安がつのりトラブルを起こす子に「この子は手がかかる」とレッテルを貼り、ひとりだけサークルに閉じ込めたりする保育。
またこうした保育には疎外として集団に入れない罰の側面がある。意図を持って特定の児童に大きな配慮をするのは悪くない。だが、それを建前に疎外にならないよう十分注意する必要がある。「配慮としての保育」が施設で認識されていれば、そうした不適切な行為は起こらない。
・連れ回し保育(かわいい子だけかわいがる。手のかかる子は特別扱いとしての連れ回し)
信頼関係を築けない保育士が、かわいい子だけかわいがる(かわいくない子は見たくない)ために、特定の子を理由をつけて連れ回す。
| 2020-06-24 | 保育について | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
【保育】スキルのない保育士ほど「愛情不足」のせいにする - 2020.06.16 Tue
その子に必要なこと積み重ね、適切に安定させることができれば、なんでもない。
しかし、プロとしてそうしたスキルを持っている人は必ずしも多くない。
多いのは「なめられている」などの価値観からその子に厳しくする方向の関わり。ごまかしや脅しを使ってとりあえず静かにさせる関わり。
こうした関わりで本当に子供が落ち着くわけはなく、その一時抑えるだけになる。しだいに子供は慣れてくるので次の時はより強く抑える必要がでる。
やがては、抑えが効かなくなる。
こうなったとき、保育者の心理は責任転嫁をしたくなる。そこで「家庭の愛情不足」とくに「母親の愛情不足」がターゲットになる。
これらは、保育士が適切なスキルを獲得していないために起こること。
じゃあどうした関わりが適切なスキルなのかを次に書く。
◆子供の姿を安定させる保育スキル
まず、この午睡時に騒いだり保育者を困らせるケース。
a,受容、肯定を求めての行動
b,保育者が適切な信頼関係を築けていないゆえの行動
一般論として大きなところではこの2つが考えられる。他にも個性ゆえの行動も考えられるが、ここでの文脈とは違う対応なので割愛。
●対応
多くの人が午睡時に問題を感じると、午睡のこととして対応しようとする。
つまり、視野の中に午睡しかおけなくなる。これだと対症療法的になり、根っこからの解決につながらない。また、「その子が悪い」もしくは「その子の行動をなんとかしなければ」の見解が導き出される。これは悪手。
視野を広く取る。午睡以前も見てみる。
保育中の様子は?そこでの安定感は?対人関係は?などなど。
ライトケースでなければ午睡以外にもなんらかの気になる点があることだろう。
さまざまな個別対応のケースは割愛するが、さまざま問題の集約点になりやすいのが肯定不足の状態。
これは「愛情不足」とはまったく関係無い。注意や過干渉の多さ。叱る怒るのアプローチの多さ。過保護すらも肯定不足の一因となる場合もある。教育熱心さが肯定不足の原因となることもある。
慢性的な肯定不足になっている子供は、他者への信頼関係が低下した状態になりやすい。
肯定不足、信頼関係の不備。このふたつのがあれば子供にはさまざまな気になる様子がでてくる。
家庭がそれをできているか否かは、ここでは問題ではない。家庭でできないのならば、園で補えばいい。それができるのが国家資格としての保育士資格を持ったプロ。
もし、その園の保育が、注意や小言の多さ、過保護過干渉な関わりで子供をコントロールすることに終始しているのであれば、それは子供の足りてないものをさらに不足させるだけなので、子供の姿が安定することはない。
足りないものを補うのが保育の役目。
様々な形でその子を受容、肯定していく。
肯定の具体的アプローチは以下。個別の説明は省く
・肯定的雰囲気
・「あなたかわいいね」など直接の言葉
・スキンシップ
・共感
・話を聴く
・やりとりのある遊び(キャッチボール、あやとりなど)
・役割から有能感を獲得させる
これら肯定のアプローチの積み重ねをすることにより、必然的にまずその特定の保育者への信頼感が厚くなっていく。まず目指すのは大人全般でなく、特定の保育者へのそれでよい。
ここを目指せば、結果的に午睡時のその子の姿には変化がでる。
それが一見良い変化ばかりではないこともある。信頼関係が形成されたことにより、もっと受け止めて欲しいという気持ちが行動としてでてくることもある。つまり、一時的には大人からすると困って見える姿が増えることがある。それは通過点なので、恐れることはない。
こうした積み重ねによって、意図的に、つまり配慮を持って子供の姿を安定させることができる。保育者がこうした関わりを専門性として獲得していれば、子供の思い通りにならない姿に接して、保護者に責任を押しつける「お子さん愛情不足になっている」などの言葉をそもそも言う必要はなくなる。
◆「愛情」について
愛情って、決して他者が推し量れないことなのね。
感情の問題だから。
子供を叩いているからといって、必ずしもその人の愛情が不足しているとは言えない。
だから、そもそも他人がその人の愛情をどうこう言うことはできないのよ。
なので、愛情を問題にすること自体がナンセンス。
援助者は感情の問題の指摘ではなく、定量的なものごとつまり具体的に何ができるかを伝えなければならない。
もし自身が親の立場で「愛情が~」と言われたら、「じゃあそのためにはどうすればいいのですか?」と質問してみよう。それですらすらと可能な具体策を出せる人だけがプロ、相談に値する人。
抽象論に終始したり、自分にできない具体策しか出せない人ならば、今後期待しなくていい。
どんなに肩書きの立派な人でも、ベテランそうでも。40年子供に関わっているのに、まったく素人レベルの理解という人はゴロゴロいるので。
| 2020-06-16 | 保育について | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
【保育】「個性を伸ばす」と「個性の尊重」の間にある落とし穴 - 2020.06.12 Fri
「個性を伸ばす」。この言葉よく聴きますね。この文脈で使われると個性=美点と解釈されます。
一方「個性の尊重」という言葉もよく聴きます。
この文脈だと、個々に備わっている性質、他者との差異、多様性といった意味合いであり「美点」ではありません。
さて、子供に関わる仕事をする上でも頻繁に「個性」と耳にするのですが、その割には個性への理解が適切に踏まえられているのとは反対のケースを多く目にします。
つまり、口では個性といいつつも、実際には画一性を子供に求める現実です。
これはおかしなことですよね。
こうした事態の一因は「個性」のミスリードにあります。
そこで僕は子供に関わる仕事の人には、極端ですが「個性とはその子の欠点のことと考えましょう」と伝えています。この上に立てば「個性の尊重」とは「その子の欠点の尊重」です。
日本の子育て観は「できないものを大人の干渉によってできるようにする」という見方が非常に強く、その子のネガティブな個性を目にすると大人はついつい良かれと思ってそれを直そうとアプローチします。これはその過程で、その子自身のあり方への否定が必然的に発生します。
短期的には「できない」が「できる」になるかもしれませんが、長期的には意欲や他者への信頼感の低下、自信の低下などを招きもっと大きな力を損なってしまうこともありえます。
「個性の尊重」とは、とりもなおさず「欠点の尊重」であり「できないの尊重」です。ここを理解して子供と関わるとき、本当の信頼関係が見えてきます。
| 2020-06-12 | 保育について | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
【保育】保育日誌についてあれこれ - 2020.05.30 Sat
まず、最近では事実の羅列はあまり重視されなくなっています。
体調や食事量などの健康に直結するものは事実の蓄積としての記録は大事ですが、「○○(児童の名前)が~~をして遊んだ」といった事実の羅列を人数分やっていくようなことは最近では重視されていません。
ただ、保育を学んでいる学生さんの実習記録は、いまだにこの傾向があるようです。
客観的事実 → それに対する考察、反省
これはある意味しかたがないかなとも思うのです。
というのも、保育に限らずそれが学問のあり方だからです。
事実と自分の見解や感想をごっちゃにせず、明確にわけるのが学問上のお作法です。
ですので、保育の学校では実習記録をこの体裁でかかせるのも致し方ないでしょう。
ですが、これで習ってきているといざ現場に来ると、ただ事実の羅列しかかけなくなります。
考察や反省を書くにしても、そもそも保育の視点をまだ十分に獲得できていない新人さんに、ポイントを踏まえた考察を要求するのは無理があるのです。
結果、良くても「事実の羅列+考察っぽいもの」という日誌になります。多くは、「事実の羅列のみ」になりがちです。
日誌や記録の取り方を明確にその施設として位置づけ、どこにポイントを置いてこのように書くと定めている園はそう多くはないようです。
ある程度の方向性(たいていは書式を定めた段階でその追求は終わっている)だけ決めたら、あとの書き方は個々人に任せている。
園長によっては日誌の書き方を指導する人もいるといったグラデーションの違いがある場合もある。このような状況がどうも多いようです。
明確に、ここの園はこう書いていますといった指導が新人さんになされなければ、新人さんはそれまでにならってきた事実の羅列を中心とした記録になりがちです。
結果的に、書いている方も、読んでいる方もつまらない日誌になってしまいます。書いていてつまらないと、だんだんと日誌はさらに意味のないものになっていきます。
この時大事なのは、実は「ねらい」です。
その保育における「ねらい」が明確に自分にもてていないと、見るべきポイントがつかめません。
だから結果的に、平板なつまらない事実の羅列になってしまいます。
なんでもいいので、ねらいを意識して立ててみましょう。
簡単なねらいほどいいです。高尚なねらいをかかげてしまえば、それの達成は簡単ではありません。その1日の中で無理なく完結するような簡単なねらいを作ることが大事です。
「散歩を楽しむ」
最初はこんなシンプルなことでいいでしょう。
「春の草花にふれて散歩する」
このように、少しこったねらいにすることも可能ですが、このねらいを立てるとそこには大人の作為が大きく入りやすく(つまり「やらせなきゃ」が大きくなる)、かえって保育が迷走してしまいかねません。
なので、ベテランはともかく新人さんはシンプルなねらいで十分です。
こうやってねらいを明確にしておくと、記録すべきポイントが見えてきます。
それだけでも事実の羅列は減って、「散歩がどうだったか」に視点がしぼれますね。
また、ねらいは「達成しなければならないもの」ではないこともポイントです。
ねらいどおりに動かない子がいるのは当たり前のことです。
それが悪いわけではありません。
ああ、そうなんだなと受け止めて、「○○は散歩にでると不安を感じるようだ。こういう姿があった」が記録になります。
子供には成長発達がありますので、できない姿があってできる姿があるわけです。
ここでできない姿を記録しておくことで、成長した後に「散歩を楽しんでいる姿がでてきた」という記録との対比に意味が出てきます。
ねらいを明確にもつと、記録すべきポイントが見いだしやすくなり、生き生きとした読んでいても書いていても楽しい意味のある日誌になっていきます。
最近では事実の羅列から離れて、そうしたエピソード記録を重視する動きがあります。
僕個人の感慨としては、エピソード記録はよいのだけど、中には主観ましましの日記のようになってしまって、考察やそこからの配慮の設定、そうした蓄積による保育観の構築につながっていない現実もあるように感じます。このあたりも記録の難しいところですね。
◆意味のある記録に
・死んだ記録と生きた記録
記録を書くこと自体が自己目的化してしまうと、記録は本当にただの負担でしかありません。例えば「監査を通過するだけに書かされている」といった記録。
そうした意味のないものになると記録をつける時間は丸々負担になります。
保育にはさまざまなやらなければならないことがあり、事務時間は少ない方がいいです。ですので、負担を大きくせず、なおかつ意味のあるものにするためにはという問いがでてきます。
記録はできるだけムダのないものがいいでしょう。
本当に必要なことを厳選します。
健康にまつわるものは必須でしょう。でも例えば、視診票にも書き、日誌にも書き、個人欄にも書きというような状況はムダですね。
だったら、ここはムダのないようにどこかに一本化すべきです。
書く内容にしても、特記することもないのにわざわざ毎日全員分書くのもムダです。
特記すべきことがあるときだけ、記載する書式でいいのではないでしょうか。
個人欄でもこのムダが指摘できます。
0~2歳クラスでは日誌に個人欄がついている形式をとっているところもあります。
ここに細かく分けた個人欄は、事実の羅列の日誌になりやすいです。
児童全員に目を配るようにするため、個々に個人欄を設けるといった趣旨もあるようです。
でも、記録をつけるために、その子が何をしていたかチェックするというのは、保育の方向としてずれているのではないかとも思います。
たしかに、ひとりひとりを見落とさないというその趣旨も分かるのです。でも、それは記録の書式として書き手を拘束するデメリットを作らなくても他の配慮でカバーできることです。
細かい個人欄を設けるメリットもありますが、僕としては0~2歳クラスの個人欄は大枠の自由記述式にして、ここにその日のピックアップしたい事象を書く形式が良いのではと感じます。
個々に狭い枠だと事実の羅列になりがちで、これだと保育を配慮をもって見る視点が養えません。
「それじゃあ個人欄じゃないじゃない」という指摘も成り立つので、エピソード欄としてもいいかもしれません。
◆振り返り
また最近では「振り返り」というのが言われています。
最初に聞いたとき「考察・反省」とどう違うの?と思ったのですが、どうも解釈はいろいろあるようで、単にそれの言い換えとして「振り返り」を使っていることもあれば、「考察・反省を話し合いによって見いだすこと」を指して「振り返り」と読んでいることもあるようです。
たしかに、考察・反省はひとりでしていても、視野が固定化されてしまい深まらないことがあるのも事実です。
「ああでもない、こうでもない」と保育者同士の対話の中で深め合っていくのは大切なことでしょう。
ただ、現実にしばしば聞こえてくるのが、「振り返り」という名前のつるし上げ大会が就業時間後にサービス残業で行われてそれが苦痛で仕方がないといった声もあります。
これは振り返りを勘違いしてしまっているので、「振り返り」がわるいわけではないのだけど、ちょっと注意しなければならない点ですね。
振り返りを実際に保育に取り入れていくためには、適切な保育観を持てている人がいること、そのための時間が確保されていることが必須です。
保育観が定まっていない、もしくは適切な保育観を持っている人が裁量できない中で振り返りをすれば、かえって働きにくい職場、やりにくい保育になってしまいかねません。少なくとも、全園的に適切な保育観を学ぶことと並行していく必要があるでしょう。
◆むしろ、主観大事じゃない?
上では、エピソード記録が主観ましましの日記になってしまうのを問題としてあげていますが、でも一方でむしろここにこそ保育記録を生かすエッセンスが隠れている可能性も感じています。
長くなってしまったので、それについてはまたそのうち。
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【保育】「お気持ち」は保育の低下をまねく - 2020.04.07 Tue
ここにおける「可哀想」というのが「お気持ち」のひとつ。
僕自身も保育者として「子供が可哀想」という気持ちは理解できる。
かつて僕自身もそうした思考にとらわれてもいた。
しかし、こうした「お気持ち」を軸に保育や子育てを考えることは、保護者に対してだけでなく、保育者にとってもプラスにならない。
一旦「お気持ちの問題」を軸にして保育を考えるようになると、それは一時にとどまらず施設全体の体質に育っていく。
そのお気持ちが純粋に「いいもの」であってすら、長期的に見れば保育の劣化は免れない。
現実には、お気持ちの問題を軸にしていくと、やがてはそこに「よくないもの」が混じり出す。
しかし、その段階ではすでに「いいもの」と「よくないもの」を区別することはできなくなる。
こうして、保育施設は施設全体の体質、職員の保護者への姿勢、子供への姿勢が劣悪なものに染まってしまう。
だから、最初は善意だったとしても「お気持ち」で専門性ある仕事を考えるのは危険なことだと言える。
『新版 医療倫理Q&A』 関東医学哲学・倫理学会[編] (太陽出版)
この本はタイトル通り医療倫理についての本だが、対人ケアを考える点では保育にも共通するところが多分にある。
そのなかにこうある。
p.20
Q 1-8 良心の声に従っていれば良いか
A 必ずしもそうとはいえない
[良心とはなにか]
倫理学的には、善悪判断の普遍的な根拠に基づく主体的判断とされるが、実際には、個々人の倫理観に基づく主観的な判断と区別することが難しい。
[良心が正しい判断を下しているかどうかは、どこで分かるか]
人権を尊重した判断になっているか否かによって分かる
(後略)
はっきり言えば、「良心」つまり「お気持ちの問題」は、その人の主観とまざってしまうので暴走しかねないと述べられている。
保育施設が「お気持ち」体質になっていくと大きいところでは以下の3つの問題が起きる。
1,モラハラ体質
2,保育の劣化
3,保護者(一般社会)からの専門性の低さの認識
1,モラハラ体質
前回挙げたケース。
新入園時期において、子供が泣いていたり、慣れずに不安に過ごしている状態を指して「子供が可哀想」という理由で保育への同席や時短、お迎えの強要をすることは、それがどんなに善意からであろうとも保護者を不安にしたり、場合によっては保護者への攻撃と感じられたりすることになる。
保護者はもちろん子供のことを大事に思っている。我が子を預けるに際して保護者自身も不安になっている。それ以前に子育てを始めたことによる不安もあることだろう。
そういった状況の人に対して、「あなたの子が可哀想な状況におかれている」というのは、より不安にさせることに他ならない。さらには、それが上からのニュアンスであれば保護者は攻撃されているような気持ちにさえなる。
事実、そうしたポジションをとって保護者にマウンティングする保育者を僕は少なからず見てきた。
これは、子供を人質にとって保護者を攻撃することであり、本来専門職がとるべき態度ではない。
これで保護者間の信頼関係が厚くなるはずもないが、善良で従順な保護者に対してであればこうした上からの態度が継続できてしまう。また、子供を預けざるを得ない人にとっては不快に思っても従わなければならない。
また、この背後にはミソジニーを背景とした母親へのマウンティングの問題が隠れている。
一人親家庭のなかでも父子家庭の父親に対して、「子供が可哀想だから、もっと早くにお迎えに来るように」といった声が保育者から投げかけられることが少ないのに対して、母親であるとこうした要求が強く向けられる。
悪意なく無意識にだが、母親に対して自己犠牲をもとめようとすることは多い。
悪意がないから悪くないのではない、悪意がないからこそより始末に負えないこともある。
保育者は、日本の文化に母親に対するマウンティングが厳然としてあることに留意しなければならない。
さらには、このような「お気持ち」を盾に取ったモラハラは保護者に対してだけでなく、施設内で職員に対しても行われる。
保育園におけるモラハラの典型事例が、「子供が可哀想」「あなたはやる気がない」などのセリフで、施設長や先輩職員が他の職員を攻撃したり、支配したりする行為。
例えば、「朝の会に0歳児を参加させることに発達段階上意味がないのではありませんか?」と施設長の意向に相容れない意見を挙げたときに、「子供たちを参加させてあげないなんて可哀想。あなたがやる気がないのならそれでいいです」といったモラハラがなされる。
「子供が可哀想+やる気がない」
このセットはびっくりするほど、複数の施設でモラハラとして行われてきた。
どこかでモラハラの講習会でもあるのかと思うくらい典型例になっている。
もちろん、そんな講習会があるわけではない。ここで共通しているのが、「お気持ちの問題」体質だ。
お気持ちの問題体質を大きくしていくと、そうした悪意のモラハラも生まれるが、善意のモラハラが生まれることもある。
それは同調圧力として結実し、結果的にそこで働く人たちを息苦しくしていく。
よくあるケースでは、安定していないクラスの担任を、職員皆が冷ややかに見たり、批判したりするケース。前年度担任し、そのクラスの不安定さを生み出した職員が持ち上がりを拒否し、代わりに新担任となった人を批判するようなケースも驚くことによくある話。
このようなことが慢性的になった職場では、誠実な人ほど疲弊していくことになりかねない。
実際には、モラハラ体質の施設では、善意のモラハラの上に悪意のモラハラが君臨するというハイブリッド構造になっていることが多い。保育施設は往々にして小さな職場でしかも外からの風通しが少ない施設なので、上に立つ人、主だった人が支配的だと簡単にこうした状況となる。また、働く人の中には優しい人、対立を好まない人、善意で固められている人も少なくないので、お気持ち体質の蔓延が起きやすくもある。
2,保育の劣化
「お気持ちの問題」で保育を考えるようになると、たとえそれが最初は善意のものであっても、やがて保育は向上しなくなる。
一番の問題点は、保育=お気持ち になってしまうことで、誰もが自己防衛の保育をせざるを得なくなっていくこと。結果的に、同僚の中で保育を語れなくなる。
その体質では、保育がまずいことは、「私の気持ち」に問題があることになるので、そもそもの保育の問題点を自分も同僚も直視することを避けるようになる。
保育の問題点への指摘は、「個人のお気持ちへの批判」ととらえられてしまうので、みなそれができなくなる。
あえてそれをしたところで、それがたとえ冷静で客観的なものであっても、それを受け取る側が「自分のお気持ち」への批判ととらえられると、そこからの反発による攻撃や人間関係の悪化をもたらすので、保育が改善するどころかかえって悪化しかねない。
これが暗黙の内に体質化していく。
当然ながらこれでは保育が継続して向上していくことができない。
善意の人たちばかりであれば、なあなあの現状維持の保育はできるが、それは専門的な向上とは違う種類のものだ。
もし、そこに悪意の人や悪意まではいかないが不適切な保育を習得してしまっている人が入れば、そこの保育は簡単に劣化する。
こうした状況から、施設長や主任が保育の向上を意識していても、ほとんど実効的な向上ができないというケースも少なくない。
これは不思議なことなのだが、一般の社会では、こうした「お気持ちの問題」と「職務上の問題」は切り離して考えましょうねというのが暗黙のルールになっている。もちろん、それができていないところもあるが、そうしたスタンスが大人の態度であるというくらいの認識はあるだろう。
しかし、対人援助の世界では、そうした職務に対するプロフェッショナリズムよりも、いまだに「お気持ちの問題」が大きく幅をきかせている。
保育界はこの状況を意識的に脱する必要があるだろう。
保育のためにも、働く人のためにも。
3,保護者(一般社会)からの専門性の低さの認識
こんなケースがあった。
ある園でのこと、その子は排尿の自立の確立がゆっくりだった。
しかし、園の方針はオムツはできるだけ早期に取るべきというスタンス。
それゆえその子にもオムツをしないことを要求する。しかし、しばしば漏らしてしまうことがあり、その失敗からの気持ちのダメージなどがあり少々不安定になる。失敗の時の大人の対応も快いものではなかった。
保護者は、園にオムツで過ごすことを提案するが、園側はそれを拒否する。
その子は登園拒否を引き起こす。
保護者は、排泄の自立にはばらつきのあることを認めている医療的な資料などをそろえて園に訴える。子供が園にいきたがらないことや、排泄の失敗に否定的な担任のことを嫌だと言っているなどを園に伝え改善を求めると、園長の対応は「先生たちも頑張っているのだからそんなこといわせないでください」の一点張り。
これにより、保護者は園への不信を確定的なものとする。
ここに見られるのも、園側が「先生たち頑張っている」という「お気持ちの問題」を持ち出していること。
保護者は相手を信頼すべき大人として、合理的、論理的に話をしようとしている。
しかし、かえってきたのが「お気持ち」を根拠とした反論。
これでは、話にならないと思われるのも仕方がない。
ちなみに、この保護者対応は二点において間違っている。
ひとつはいま述べた、根拠を揃えて伝えている意見に対してお気持ちの意見で返していること。
ふたつは、先生たちが頑張っていないなど一言も言っていないのに対して、あえて誤解し論点をずらし自分たちが責められているという被害者を装うことで相手の口をふさごうとしていること。
これはストローマン論法(わら人形論法)と言い、議論の中ですれば卑劣と見なされる行為。
本来、専門職であるのにしばしば「お気持ち」で自分たちの専門分野のことを語る人たちを、一般社会は本当の専門職とはみなさない。
これでは、保育士の社会的地位や賃金も上がらないのもある意味では必然だ。
こうした問題点から、「お気持ち体質」から脱していく必要があると僕は考えている。
どういう方向でかというと、一言で言えば「スキル化」(マニュアル化ではない)である。
お気持ちではなく、スキルとしてとらえることで、保育を語り合える土壌を作り向上させていく方向性。
頑張っている感を出したり、自己犠牲をせずとも、専門職としてやるべきことをやればいい仕事。
そこを目指したい。
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| 2020-04-07 | 保育について | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
いい慣らし保育と悪い慣らし保育 - 2020.04.01 Wed
保育施設ではもしかすると慣らし保育の真っ最中かもしれません。
そこで少し慣らし保育について書いておこうと思います。
慣らし保育なるものがありますが、実のところ僕はこれをあまり必要性が高いとは思っていません。
昔は、親子で保育室で過ごし場所に慣れるということをしているところが多かったようです。いまでも多いことでしょう。
最近は少し控えめにして、子供だけで過ごして早めにお迎えに来るものや、もしご飯を食べられなかったり、ずっと泣き通しだったりしたら迎えにきてもらうもの。
もしくは、まったく慣らしなどないというところもあることでしょう。
保護者の就労も厳しくなっている現状では、慣らし保育など行きようもない人もいることでしょう。
さて、今回このテーマにしたのは、慣らし保育の考え方として良くないもの「悪い慣らし保育」を明らかにすることで、そこにおちいらないようにしてほしいとの重いからです。
では悪い慣らし保育とはなんでしょうか?
それは、子供が保育環境に慣れないことを、子供のせい、保護者のせいというスタンスで考えてしまうものです。
保育が不適切なところは、簡単にこうした思考回路にはまってしまいます。
保育の成り立ちから考えて、まずもって子供が「慣れる」つまり「安心して過ごせる」責任を負っているのは、保育施設とそこで働く保育者に他なりません。
これが保育の大前提。
それがたとえ新入園児の保育1日目だとしても、基本的には保育者がそれを担保すべきものです。
子供がその環境に慣れないのであれば、保育者が保育を客観視してさらに安心して過ごせるように努力すべきものです。
しかし、慣らし保育という習慣は、簡単にその責任を子供と保護者に転嫁させてしまいかねません。
子供に十分に安心を与えるだけの保育の前提が整っているだろうか?そこを考えるようになると保育の質はより高まっていきます。しかし、子供のせい、保護者のせいというスタンスを当たり前のものとしてしまうと、保育の質はどんどん下がって行ってしまうことでしょう。
もしあなたが保育のプロフェッショナルならば、「子供が可哀想」という言葉だけはつかってはいけません。
これは、保護者を心理的に責めると同時に、自分たちには保育の専門性はないと断言する言葉に他なりません。
慣らし保育はじめ子供を預けることに対して保育者が不用意に、この「子供が可哀想」という言葉を保護者に対して言うのを何度も耳にしてきました。
もうそれは保育者の感覚として非常に古いといわざるをえないでしょう。
保育の整備と、保育者のスキルアップを適切にしていけば、慣らし保育はなくても問題ないか、必要最小限になります。
安心・安全と信頼関係。ここを十分につきつめればそのことがわかるはずです。
ある園では、新入園児に対して一生懸命音の出るおもちゃで釣って泣き止ませようとしていました。
もし、この保育を当たり前にしていれば慣らし保育にこだわって、早くお迎えにきてもらう期間を設けないことには成り立たないことでしょう。
この状態はそもそも保育として始まっていないのですから、もっと学びが必要ですね。
| 2020-04-01 | 保育について | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
【保育】信頼関係は大人がスタート地点 - 2020.03.04 Wed
それは、「信頼関係は子供が大人に対して持つもの」といった漠然とした理解をしていること。
この理解では信頼関係を構築することは難しい。
ではどういうことかというと→
関係であるがゆえにそれは相互でなければならない。
そして起点になるのは、大人から子供への信頼が先ということ。
つまり、まず大人が子供を信頼しなければ、最低限の信頼関係(生活等を共にするから自然と生まれるレベル)以上のものにはならない。
具体的に見ると例えば過干渉がある。
子供に対して過剰な干渉が起きる背景には、大人がその子の能力を信頼できていないときor大人自身の不安や心配が強く手を出さずにはいられないときに起こる。
どちらも子供からすると、「自分の力を信じてもらえない」という大人の気持ちを受けることになる
自分を信じてくれない人に、厚い信頼を返すことは子供でなくとも難しい。
「どうせあなたできないよね。だから私がやるわ」
その大人は無意識に親切心でやっているとしても、過干渉は子供にとってこうした関わりとなってしまう。→
だから、ここで子供を信頼するというのは、「失敗してもいいから、子供が自分で試行錯誤するのを手は出さないけれどもあたたかく見守ろう」という態度になる。
もし、その試行錯誤を繰り返す中で子供が自発的な達成感を感じられたときに大人が微笑んでそこを認めることで、→
「(この大人は)自分のことを信じてくれていたのだ」と子供は実感的に理解し、そこに本当の意味での信頼関係が構築される。
このように信頼関係とは、大人の適切なアプローチによって形成されるものなのだ。決して、子供が勝手に大人に抱いてくれるものではない。
特にこの信頼関係と過干渉という視点では、「失敗させられる」という大人側のスタンスが重要になる。
「子供に手をかけることがいい保育」といった表面的な理解だけだと、ここが簡単におろそかになってしまう。
物理的、精神的な「手をかける」では、単なる過干渉、精神的過保護を生みかねない。
保育で言うところの「子供に手をかける」とは、子供を伸ばすための「配慮」をきめ細かにすることであり、なんでも「やってあげること」が良いのではない。
これを具体的に見てみると、たとえば午睡時の「寝かしつけ」がある。
保育者がそれを無自覚にやっていると、「私は子供に親切で寝かしつけをしてあげている」といったスタンスで日常的に行われてしまう。
もし、その子が自分で入眠できないなんらかのネックを持っていて、なおかつ睡眠が必要であるのならば配慮として寝かしつけをすればいい。
しかし、そうした配慮なしになんとなく日々のあたりまえの感覚で寝かしつけをしているのであれば、それは実のところこういうことだ。
「どうせあなた自分では入眠できないよね。だから私がねかしつけてあげるわ」
このスタンス、これは子供からすると自分は信じてもらえていないということを、日々メッセージとして受け取ると言うことだ。
これで、その大人への信頼感が厚く形成されていくだろうか?
実際に、あなたの身の回りにいる大人でも子供でもいい、「保育園のお昼寝好きだった?」と聴けば多くの人が「嫌だった」「トントンされるのが苦手だった」という人はたくさんいることだろう。
こうした子供を無自覚に「信じない」というスタンスが、日本の保育観、子育て観、子供観の根っこには慢性的にある。
まずは、ここに気づかなければプロの仕事としての保育はそもそも始まりもしない。
「信頼関係」という言葉、山ほど使われているが、実践の中でそれが明確になっている保育は、それに比べてあまりに少ないのが現実だ。
| 2020-03-04 | 保育について | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
【保育】支配しない保育 - 2019.12.23 Mon
1,受容と信頼関係の保育 ~子供を支配しない保育~
2,自主性・主体性の保育 ~「つくる」から「伸ばす」へ~
保育をする上でもっとも大事なのが、そして難しいのが「支配しないこと」。
どちらの研修のテーマも、支配でない保育の形を浮き彫りにしようとするもの。
支配には、わかりやすい威圧的な強い支配もあれば、強く出ているわけではないので一見わかりにくい優しい支配。そして、保育者が自分の価値観に子供を合わせようと型にはめるタイプの支配もある(承認欲求の保育や子供の搾取になる保育)。
そもそも日本のかつてからの一般的な子育ての形が、子供への支配を旨とするものでそれが保育の中でも無自覚に行われ、「支配をしなければ保育など成り立つわけがない」といった考え方をしている保育者もめずらしくない。
僕の講座には、現に勤めている施設のやり方が支配的でそれに対して「なにかおかしい」と感じる方が来ることも少なくない。
僕の講座には、現に勤めている施設のやり方が支配的でそれに対して「なにかおかしい」と感じる方が来ることも少なくない。
元々支配型の保育をしている施設が多いことに加え、近年の保育施設の急増にともない安易な支配の保育になっているところはさらに増えていると言える。
別にその人たちに「子供を支配してやろう」というつもりはなくとも、専門的な理解なしに保育をすると結局のところ支配の保育になるのが現実だ。
支配の保育は保育をする側にとっても負担。しかし、それ以外の方法を知らなければ、それを繰り返すしかなくなってしまう。
僕はこうした支配にならない保育の理念と実践を、保育士経験が浅い人と経験のある人両方に受けて欲しいと考えている。
実務経験が浅い内に支配の保育を身につけさせられてしまうと、それは容易にぬぐい去れなくなる。
そのまま年数を重ねて、それが自身の職務スキルになってしまうとそれを是正することはとても難しくなる。
経験ある人、それこそ支配でない保育ができる人には、周囲の人に伝えることができるようになってもらうために、保育スキルの言語化のプロセスとしてこの研修を受けてもらいたいと思う。
保育界は、仕事を伝えること、後進を育てることが下手だとはっきりと言える。
そのため本来専門性に裏打ちされていなければならない職務が、個人の人格や、個人のスキルに任せきりになってしまっている。これだと保育の質は下がりこそするが上がっていくことがない。
預けている保護者の側からすると、たまたまいい人に当たるかそうでないかになってしまう。それではとても保育士の専門性を社会的に認めてもらえることはないだろう。
さて、僕が支配でない保育を重視するのには、もう少し別の視点からの見方もある。
それは、現に大人になっている人で生きづらさを感じている人の背景には、この「支配」が大きく関わっているからだ。
幼少期から、過度な支配や自尊心を傷つける支配を受け続けていくと、その人も支配をせずにはいられないメンタルを持たされたり、自己肯定感の低下や自尊感情の低下、意欲の低下、人やものごとへの大きな怒りなどを持たされ、生きづらさに直面することが多くなってしまう。
僕は保育とは福祉のひとつだと考えているので、単に目の前の子供というだけでなく、その子そして家族の幸福という視点が大事だと思っている。
だからこそ、保育者自身がまず、支配を使わなくても子供と関われ、子供を育てられるということを理解、実践し、そうした支配による難しさ生きづらさを抱えてしまっている人も援助していくことが必要だと感じる。
子供を支配しない保育を実践できるようになると、保育は本当に楽しい仕事。また、その施設がそうしたスタンスを持てていると、そこの保育士たちは他者と適切に関われるスタンスを持てるようになるので職場環境も著しく良くなる。
保育施設における人間関係の難しさの話は山ほど聴く。そこには「支配」に無自覚な日本の保育のあり方が関わっているのではないかと思う。
今回のふたつの講座は早々に満員になってしまったために、参加できなかったという声をたくさんいただいた。
日程調整と会場の設定をして来年春に再度行う予定。
おそらく、またPeatixを使って募集をする予定なので、
https://peatix.com/user/5063934/view
こちらをフォローしていただけると新規講座をUPしたときにお知らせがいち早く届くと思われる。
| 2019-12-23 | 保育について | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
【保育】信頼関係とはスキルである - 2019.12.04 Wed
先日、「受容と信頼関係の保育」の講義を行った。
その中で参加した約20名の保育士の方に、「これまで先輩や上司から、これこれこうすると信頼関係ができて、いま子供の姿に出ているこれが信頼関係の現れたものだよ」と説明してもらったり、教えてもらったことのある人いますか?」という質問をしたところ、ハイと答えた人は0人だった。
実を言うと、僕自身にも新人時代にそのように具体的に伝えてくれた人は一人もいなかった。
これが保育界の現実なのだ。
信頼関係とは、保育の基礎にあってもっとも重要な概念なのに、それを説明したり指導できるレベルで具体的に理解している人、明確に意図を持って実践の中に位置づけることができている人がほとんどいないまま保育が続いてきてしまっている。
これは大問題だと思う。
ある保育学の権威が、保育士向けに信頼関係を説明する中で「まず愛情を持って子供に接することが大切」と述べていた。
僕はこれを真っ向から否定したい。
信頼関係をそのような「心の問題」にしてしまうことが、現状の信頼関係とはなにかわからず、それを適切に用いることなくただ漫然と子供に接するだけの専門性の低い保育を生み出してしまっている。
信頼関係は、感情論、精神論など気持ちや心の問題ではなく、明確にスキルとして確立することができる。そしてそれをしなければ現場の保育者は不適切な子供への関わりにおちいることを避けられない。
そこで、ここでは
1,気持ちのあり方にすることの問題点
2,保育における本当の信頼関係とはなにか
について述べたい。
1,気持ちのあり方にすることの問題点
まず専門職が気持ちの問題で職務をすべきでないことの例として、医療についてのケースで考えてみよう。
もし仮に、医師の過失による重大な医療ミスがあったとき、その医師がいくら口で「私は患者のことを大切に考えている」「私は自分のことを犠牲にしてまで最大限努力している」と言い、また実際にそうであったとしても、その医療ミスは免責されるだろうか?
情状酌量はあったとしても、免責されることは決してないだろう。それが職務にともなう責任というものなので、それは当然のことである。
つまり、職務における現実は「お気持ち」によってその責任を免れられるわけではないということである。
では、保育において考えてみる。
僕はこれまでにも子供の手首を引っ張って誘導することを、(安全確保の場面以外では)保育として不適切なことだと指摘してきた。
なぜそれが不適切なのかというと、その行為は子供を信頼していない関わりだからである。
まずそれを保育としてする場合、子供の能力への低い決めつけがそこにはある。
「あなたはどうせ口で言ってもわからないよね。引っ張らないと来ないよね」
これは保育者が子供を信じていないということである。(大人から子供への信頼の欠如)
無意識にではあろうがそういうスタンスに保育者がおり、そこから無自覚に手首を引っ張って子供を動かすという実践が生まれている。
ゆえに、この行為は「信頼関係」でない関わりと言える。
さて、もしそれを行っている保育者に「あなたは子供と信頼関係に基づいて関われていません」と指摘したとして、その人が感情論で保育を考えてきた人であれば「そんなことはありません。私は子供を信頼しています。頑張って仕事をしています」という気持ちになることだろう。
ここに見られるように、信頼関係という保育のもっとも基礎の所を感情論、精神論で理解していては、かえって信頼関係の理解、実践は遠のいてしまう。
信頼関係とは「お気持ちの問題」ではないのだ。
・子供観の理解
・子供の人権の理解
・子供の尊重の理解
これらの理念的理解を前提として、
・子供への実践上の関わりにおける適切な行為
・子供への実践上の関わりにおける不適切な行為
を知識、経験として身につけ
・信頼関係の関わりがもたらす子供の本当の姿
を実地に見て理解する。
このように徹頭徹尾スキルとしてある。
「愛情」とか、「子供を大事に思う気持ち」などの感情論、精神論とはまったく別個のファクターに存在している。
むしろ、スキルが先にあってこそ、これら「職務に必要とされる保育者の内面のあり方の整備」が可能になる。
というのも、多くの不適切保育が実際の問題として、スキルの欠如がもたらしていることを見ればそれがわかる。
例えば、大人に信頼感を持たずネガティブな行動ばかりをする子がいたとする。
この子供に、何が問題であり、どのように関わればその子を安定化させられるかを実践としてわかっていれば、暴言や体罰や閉じ込め、疎外などの不適切な関わりをする必要はなくなる。
しかし、それが持てていない保育者はそれらの実践上のスキルがないばかりに、不適切保育へとおちいる。
不適切保育にまでいかずとも、保育者が我慢したり怒りをこらえることで、その子に対応するしかなければ、子供も安定することはないし、保育者は日々疲弊していってしまう。
「子供を大切に思う気持ち」などは、スキルがあって初めて心に余裕が生まれそこで大きくすることが可能になる。
先にスキルとして身につけなければ、専門性のある保育として成立しないのだ。
だから、「信頼関係は愛情から」といった言葉は大きなあやまりであると指摘したい。
2,保育における本当の信頼関係とはなにか
信頼関係について保育の教科書や解説書を読めば、「ああそうだよね」ともっともらしく思うようなことが書かれている。しかし、それだけでは少しも実践における適切な子供との信頼関係の構築を担保できない。
僕はもっとはっきりと言ってしまいたいと思う。
それは、
「信頼関係とは支配関係でないこと」
この定義と、そこから日々生まれる問いを保育者は自分に向けて日々の保育を送ってもらいたいと思う。
・信頼関係は支配関係を排他する
逆も言える。
・支配関係は信頼関係を排他する
信頼関係による子供と保育者の関わりのあり方と、支配関係による子供と保育者の関わりのあり方はまったく違うものとなる。
「子供に支配の関わりをしているが、子供と保育者に信頼関係が構築されている」ということはありえないのだ。
それは
・保育者 →(支配)→ 子供
・保育者 ←(依存)← 子供
の関係でしかない。これを「信頼関係」と錯覚することが、いまの保育界では簡単にできてしまう。
本来、信頼関係とは
・保育者 ⇆(信頼)⇆ 子供
である。
ただし、ここに「お気持ち」のファクターを入れてしまうと、
「私は子供を信頼しています」というお気持ちのもと、子供への支配が成立し。
また、
「私は子供に信頼されています」という一方的な希望的観測のお気持ちのもと、支配の関わりが正当化されてしまう。
また、この「お気持ち」を専門性として錯覚してしまうことで、保育上のスキルについての話が自分の持っているお気持ちへの批判、つまり人間性への攻撃と感じられてしまうので、その保育者は自己防衛的になってしまい、実際上の保育の適正化を受け付けられなくなってしまう。
だから、信頼関係に限らず、専門職としての保育の職務は「お気持ちの問題」ではなく、スキルの積み重ねとして考えていく必要がある。
◆信頼は1日にしてならず
子供に関わるとき、支配の関わりはたった1日で成立させることができる。
支配をするのは簡単だ。
子供を押し、引っぱり、抱え上げて動かし、柵やカギで囲って管理し。(物理的な支配)
おだて、作為的な褒め、おどし、ごまかし、釣り、疎外。怒る、叱る、威圧する。(精神的な支配)
これは、その子と関わったその日から達成できてしまえる。
一方で、信頼関係を子供との間に構築し、その上で支配でない保育を成立させることは大きな配慮と時間が必要になる。
まず、一人ではできない。
保育は通常、大勢の保育者で行われる。
その中で支配の関わりをする人が、一部なりともいれば子供はそこからの支配、抑圧により大きな負荷がかかり、保育者への信頼感を構築することが著しく困難になる。
その子供に関わる複数の大人が、子供への関わりにおける信頼関係というものを理解し、それを長期にわたって続けていくことが欠かせない。
こうしてようやく人を信じるという土台を子供が内面に形成し、その上でさらにそれを傷つけずに実際の関わりを継続していくことで、ようやく信頼関係の保育がスタートする。
◆信頼関係を阻害する要素
上記のことが理解されたとしても次のことを理解しそれを乗り越えていくスタンスを持てなければ、信頼関係の保育はたちまちに崩れ、支配の保育へと必然的に変化する。
a,発達段階への理解
子供への関わりを行う中で、発達段階を適切に理解し、さらに個々の個性や状況を理解していない場合、どれほど子供を思う「お気持ち」があろうとも、実際は支配の保育になってしまう。
例えばよくあるケースでは、全体での朝の会を好む園がある。
0歳から5歳までも集めて集会を開く。
ここで行われることが全年齢で楽しめるものであればいいが、発達段階の差からそれは容易なことではない。現実にはほぼないと言い切れるだろう。
必然的に発達段階に合わない子は、そこでの保育に取り組めない。
それでも、「どうぞご自由に」というスタンスを保育者が持てているのであればまだよいが、そもそもそんなスタンスが持てているのであれば全体集会でなどやっていないだろう。
結果的に、「座りなさい」「聴きなさい」「参加しなさい」といったアプローチが展開されることになる。
このアプローチが、一般的に支配と考えるような強いものではない場合もある。
例えば、飽きてしまった低月齢時を膝の上に抱えて座らせるといった行為。
これは、怒鳴って威圧したり、注意を繰り返したりしているわけではないので一見わかりにくいが、結局は優しく囲い込んでいるだけなので、支配であることは変わりない。
このように、保育者が適切な発達段階への理解を持っていて、それを現実の個々の子供に照らし合わせて考えられるスタンスがない場合、信頼関係の保育ではなく支配の保育へと陥ってしまう。
この点、日本の既成の子育て概念は、「早くにできること」「早くに取り組むこと」を良いものと一般に考える傾向があるので、この点に流されてしまうわないように特に注意が必要になる。
b,規範意識への理解
規範意識に基づいての保育も、簡単に支配の保育へと導いてしまう。
例えば、「ご飯を残してはならない」、こうした規範意識を重んじてしまうと、その規範に沿わせるべく子供を動かさずにはいられなくなる。
結果として
・(強い支配) 過干渉に注意する、ダメ出し、怒る叱る、脅す、冷たい疎外
・(優しい支配) おだてる、作為的にほめる、釣る、優しい疎外
※疎外のケース
・冷たい疎外 「残したら果物あげません」 「残す子はお外に遊びに行けません」
・優しい疎外 「食べたら果物あげるね」「食べてもらえなかったらお野菜かわいそうだなぁ」「残したら作ってくれたお給食さん悲しいだろうなぁ」「Aちゃん食べられてえらいな。Bちゃんも頑張ろうね」
これは食事に限らず、全てのことに言える。
片付け、オムツ外し、友達との関わり、話を聴くといった習慣・・・・・・。行動面、生活面、情緒面。
ゆえに、保育者は規範意識を持っていることが悪いわけではないが、それを直接にだしてしまうのではなく、できない状態の子供への理解を持つ必要がある。
そのためには、成長への理解、多様性の理解がいる。(字数の関係でそこの解説は省く)
とりあえず、自身の持つ規範意識から目前の子供をジャッジするスタンスは、子供のためだけでなく保育者自身のためにも意識的に避けることをお勧めする。
以上、保育者が本当の意味で信頼関係の保育をおくるために必要なことを述べた。
少しでも参考にして、日々の保育に反映していただければ幸いである。
次回は12月21日(土)に、受容と信頼関係の保育に続く、「自主性・主体性の保育」の講座がある。1名の方がご都合によりキャンセルされたので1枠だけ空きがあります。よろしければどうぞ。
https://peatix.com/event/1337079/view
| 2019-12-04 | 保育について | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
承認欲求の保育と自己実現の保育 - 2019.11.20 Wed
これは、治したくても病の元がどうにも治療が届かないところにはいってしまっている状態の意味。
実は保育にもこの状況が起こることがある。むしろ頻発している。個人でそうなることもあれば、それがこうじて施設全体の体質になることもある。
それは自身の承認欲求を子供への関わりで満たしていくこと。承認欲求を持つことは少しも悪いことではないが、それが自分のために子供を搾取していく状態になってしまうと簡単に保育を不適切なものへと導いてしまいかねない。
このことはこのブログでも繰り返し書いているので、「承認欲求」で検索すれば該当の記事が複数みつかるだろう。
保育を続けていく上で、そこにおちいらない視点というのは大切だと思うのだが、個人の内面のものであるのでなかなか容易ではない。
少し、ここについての考えを書いておきたい。
◆モラルの押しつけではなくスキルとしての保育
「正しいこと」を子供に習得させること守らせること=保育
になってしまうと子供対保育者という対立の図式が簡単にできあがってしまう。
全ての子供が思うようになる子ばかりならば、その保育でも破綻しないかもしれないが現実にそんなことはありえない。
現在ニュースになっているような不適切保育も、こうしたモラル、規範意識によって保育を続けてきた結果導き出されている。
専門性をもって仕事に取り組むべき保育者が、モラル、規範によってしか子供に関われないのであれば、そこには専門性はない。
単なる規範の押しつけは、「一生懸命やっている」状態にはなるが、必ずしも「専門性のある保育」とはなり得ない。しかし、一生懸命やっているがゆえにその保育者はその状態を自身で客観的に見て乗り越えていくことが難しくなってしまう。
一生懸命やっているのに不十分であるという指摘は、自己承認に反することになってしまうので、なかなか専門性を高める方に受け取ることができなくなってしまう。
自己承認に飢えていない安定した自己を持てている人であれば、それが職務上の指摘なのだと理解し対応することができるが、それが難しい人にとっては、「自分が否定されている」と取れてしまうので、自己防衛から反発、攻撃的な心理を生みかねない。
実は、この背後に隠れていることがある。
それは、適切なスキルの欠如。
別の視点から見ると、子供への関わり方の問題を指摘されてそれが受け入れられない人は、自身のスキルで現状がいっぱいいっぱいであることを意味している。
他に取りうる手段をその人が持っていないからこそ、現実問題の解決ではなく自己防衛へとおちいり現実認識の回避へとつながる。
そのため、こうした問題は経験年数が長い保育者ほど解決が困難になってしまう。
スキルが低いのであれば、そこを認めてスキルの向上を心がければいいだけなのだが、それが自身へのプライドゆえだったり、自身の人格上の問題などから解決に取り組めないネックを抱えている人は、自分の外側に問題を置こうとする心理が強く働いてしまう。
例えば、「今年の子供たちはまとまりがない」「このクラスの親は子供にきちんと向き合っていない」など、子供のせい、親のせいという心理は顕著に見られるもの。
その他にも、他のクラスばかりが楽に見えたりやっかんだりという心理が生まれたり、子供と適切な信頼関係を結べる保育士に対して、「あの人はたまたま子供に好かれているのだ」というように、その状態を自身の問題ではなく、外に置こうとする気持ちになるので、努力や向上の方にいけなくなってしまう。
正直、この状態にすっかりはまってしまった人に適切な保育の手段を獲得させてくことはとても難しい。
これを防ぐ手立ては、保育士の初任者の頃から適切な保育を、保育スキルとして積み重ねていくことが必要。
子供への対応には、ある種の因果関係がある。
この因果関係を理解して、そこでの実践方法を具体的に身につけることができればよい。
しかし、それを知らないままだと、自分の持っているものからいっぱいいっぱいに関わることになるので、それがうまくいかないとき簡単に上記の状態にはまってしまう。
保育における因果関係の最たるものは、信頼関係を構築することで子供が保育者に寄り添うような姿を示してくれること。ここを実践上で理解できていない施設はあまりに多い。
◆人格と保育スキルを切り離すこと
保育のスキルを人格論をより所にしてしまうと、自身の保育への指摘は、自分の人格に対する攻撃ととらえるようになってしまう。
だから、保育の専門性を担保するのに、精神論や感情論、人格論を用いるべきではない。
また、同時にこれらを保育の専門性の担保にしていると、その施設はモラルハラスメントが起きやすくなる。
そこまでは行かずとも、働きにくい職場になる。例えば、有給がとりづらい、慣習的なタダ残業があるなど。
保育を人格論にする必要はない。
各大学で保育が学べるように、保育とは学問のひとつになっており、人格論精神論などにせずともそれの向上をしていく方法はいくらでも確保されている。
◆支配者である自己効力感
保育において承認欲求を満たす行為の端的なものは、子供を支配すること。
保育施設は、単に子供の支配になっていないかを普段からよくよく気をつけていく必要がある。
子供を支配することは、直接に自分の思い通りになっているという自己効力感を簡単に与えてくれる。
しかし、自身の承認欲求を満たすために子供の支配をする人が、自分からその問題に気づくことは容易ではない。
それは、「子供のため」「必要なのだから」という理屈でいつでも正当化されてしまうから。
◆するにもしないにも全てに配慮が必要
ねらいや配慮が考えられていない状況だと、そこには簡単に支配が入り込む。
・時間を決めて全員をトイレに行かせる
・トイレの前で並んで待ち、終わった後でもまた並んで待たせる
・乳児や0歳児まで幼児の行事に参加
例えば、こういった保育が行われていた場合。
その行為には、なんのねらいがあるのか、どんな配慮があるのかを保育者は説明できる必要がある。
また、それがその個々の子供たちの発達段階に合っているのか問われた場合、それにも答えられる必要がある。
しかし、往々にしてねらいや配慮の前に「子供を思い通りにすること」が先に立ってしまいかねない。
これは、「無自覚な保育」と言える。
保育が専門職たり得るには、こうした自身の承認欲求を満たすだけのものになっては社会的に認められる日は来ないだろう。
僕は、保育を適切なスキルとして身につけて、自己承認ではなく、専門性の上に自己実現できるところを目指す必要があると考える。
それはその気になれば何ら難しいことはないし、むしろ保育がラクになっていく。
なぜなら、それが優しいものであろうと厳しいものであろうと、支配的な関わりは子供たちに確実に負荷をためさせていく。それゆえに一度支配をし出すと、よりその度合いを強めて行かなければなくなる。
結果として、「大変な子供たち」ができあがる。しかし、無自覚な保育をしてそれを生み出した保育者たちからは、その姿を自分たちの保育が作り出したとは見えない。
ゆえに、「子供たちがいうことを聴かないので仕方がない」という理屈がなりたち、より支配を強めたり、人手を多くすることで対処しようとするようになる。
はっきり言ってしまうと、これは保育の破綻した状態と言える。
例えば端的なところでは、支配が蔓延している保育施設では子供たちは午睡につこうとはしなくなる。
それは、安心感と大人への信頼感が欠如しているために、寝たくても寝られない心理状態を持たされているから。
子供に対して支配的な傾向を持つ保育者は、子供たちが寝ようとしないという現象面を見て、より強い支配を正当化してしまう。結果、にらんだり怒ったりして寝かしつけることになる。
これが日々のことともなれば、保育者は疲弊する。
支配的なスタンスを持たない保育士や、新人や実習生などでは子供たちは野放図な姿を繰り出し、まったく寝ようとしなくなってしまう。
すると、それを支配的傾向の保育士からは、「あなたが甘いからだ」というように見えてしまう。
これでは保育はちっとも楽しいものではなくなる。
支配することを保育にしてしまえば、保育者になった意味がなくなってしまう。
保育は子供の成長のメカニズムや対人関係スキルの因果関係の積み重ねの上に成立させていけば少しもムリのないものとなる。
それを獲得した上で、自己実現できる保育を目指したい。
| 2019-11-20 | 保育について | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
保育者の心のあり方という専門的視点について - 2019.11.01 Fri
それは保育が人間を相手にする仕事だから。
正確に言うと、「人間(大人)が人間(子供)を相手にする仕事」だから。
そして本当に難しいのは、「人間(子供)」の方ではなく、「人間(大人)」の側の問題が大きいこと。
僕はもともと方法論のところだけでなく、それをする大人の心のあり方にも重要な点があると考えてきた。
これは、子育てにおいても、保育においても。
だから、僕の二冊目の著書保育士おとーちゃんの「心がラクになる子育て」 (PHP文庫)
既成の子育ての考え方でも大人の心のあり方を重視しているが、それは大人に対して自己犠牲や努力、我慢、正しさをしいるものであり、僕が前記事で指摘したところの「人間性」として保育を担保しようとするのと同様のもの。これは結果的に子育てと子育てを取り巻く空気をモラルハラスメントにしてしまい、かえって子育てを難しくしてしまうものになっているのが現実。
僕が心を重視するという言葉で指しているのは、それとは真逆のこと。
子育てする側がムリのない心の状態になることで、結果として子育ての安定化を求めるというスタンス。
ここで保育に話を戻すと、保育者が子供に接するときの心のあり方に対しても専門的な視野を注がなければ、適切な保育が担保しきれないのではないかという視点を僕はこの頃特に強めている。
この視点を明確に示しているものは、これまでの保育の研究の中でもあまりなかったのだと思う。
むしろ、「保育者の主観性を排除して客観的であれ」ということに重きを置いていたのが実際のところなのではないだろうか。
客観的であることは保育に限らず専門職として重視されるべきなのは、当然のことではある。
しかし、このスタンスがむしろ保育の劣化を招いてるところが明らかにある。
なぜなら、主観性を表明することを禁じられてしまうと、人はそれを抑圧し、我慢して、自己犠牲をしてことに当たらなければならなくなってしまう。
例えばこういうことが起こる。
その保育者が、特定の子供の対処に困っており、その対応におけるストレス、それを周りがどう見ているかというストレス、その子に対応するときの具体的な方法がわからない。こういった状態にあるとき、そこでの主観性の表明が禁じられており、なおかつ人間性(モラル論)によって職務への邁進をもとめられるとき、その人は弱音も吐けず、方法論のアドバイスを周囲に求めることもできなくなってしまう。
すると、そうした閉塞感、過剰なストレスの中でその子に「頑張って」対応することになるので、簡単に余裕はなくなりイライラが募る。そうした対応をいくらしても信頼関係が厚くなることはそうそうない。
結果的に、その状況は好転しないばかりか悪い方へと行きかねない。
周囲の同僚もそうした職務経験を積んできた人であれば、自分がした苦労を他者もするのが当然と考えるようになるので、具体的で明確なアドバイスなどよりも、「あなたが頑張らなければ」といったモラル論、精神論を突きつけてくる。もっと言えば、ダメ出しばかりをしてくる。それが同僚であったり上司であったり・・・・・・。
これが少なからぬ保育界の実態なのではないだろうか。
保育が簡単にモラル論からモラハラにおちいってしまうのは、これはそもそも日本の子育て観がそうなっているから。
「お母さんなんだから頑張って当然」
オブラートに包んで優しく言う人もいれば、冷たく言う人もいるが、どちらにしろこの子育て観からさして遠くないところで子育てを語る人がいまでも大変多い。
保育者もそうだし、学校の教員などもこの視点からものを言っていることが少なくない。
保育者の保護者への不適切対応の多くも、この視点に依拠した言葉だ。
実を言えば保育士自身も同様のものに縛られている。
もし仮に、どうしても心理的にこころよく受け止められない子供が自分のクラスにいたとしても、「私あの子の対応は、どうしてもイライラが募って過剰に強く当たってしまいそうになります」ということを正直に表明しようものならば、人間性で保育を担保しようとしていた従来の保育施設であれば、「そんなことをいうあなたは子供を大切に思っていない」とか「あなたはやる気がない」といった精神論で押さえつけられてしまって、とてものことそこに客観的な対応などできなくされてしまう。
「担任(保育士)なのだから頑張って当然」
という精神論、モラル論になっており、これが日本の子育てのあり方と構造的に同じものになっている。
これでは、専門的、客観的な対応を積み上げスキルアップしていく余地などなくなってしまう。
ただひたすら頑張りを重ねてしのいでいくしかなくなる。
これは場合によっては、将来的に不適切保育へと続く道になってしまう。
こうしたモラハラ子育ての枠組みから脱するためには、保育者の主観性を肯定的に取り出す作業というのが必要になっていると言える。
そしてそれを客観的に考察することが、むしろ専門性を高めることにつながる。
「保育者の主観をないことにする」
これまでの保育界はそういう方向性で進んできた。
これからは、「保育者の主観をも客観的にとらえ、それに専門的な対処をしていく」。
こういう方向を目指す必要があるのだと思う。
僕は常々この概念を持っていたのだが、なかなか明確化しきれていなかった。
しかし、このたび発達心理学者の京都大学名誉教授 鯨岡 峻先生の著書を読んで、この視点は間違っていなかったのだと理解できた。
鯨岡先生は、保育者と子供の心理面の接点を「接面」という言葉で概念化して、保育に新たな視点を持ち込んだと言えるだろう。
鯨岡先生は、そこを積み重ねていくためにエピソード記録の方法論を提示している。
僕はそれとは違う視点、自主性主体性の実践的対応で積み上げていきたいと考えている。
| 2019-11-01 | 保育について | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
保育は人間性か? - 2019.10.27 Sun
人間対人間の仕事なので保育には人間性が出やすい。
もっと言ってしまえば、確かに人間性の良い人だけで仕事ができればいろいろ手っ取り早い。
しかし、一方で人間性というのは移ろいやすいものでもある。
例えば、家族の問題を抱えていたり、親の介護があって疲れていたり、なにか心配事を抱えていたりすれば人は簡単に心の安定を欠いて、それまで発揮されていたその人の人間性が十全に出せなくなるといったことは誰しもに起こりうる。
また、平保育士時代とてもいい保育をしていた人が、役職に就いたとたんにパワハラをし出すなどということもある。ここにも人間の心理上のクセといったものがあり、こうしたことは周囲からも予測不可能でありやはり少なからぬ人に起こりうる。つまり、単に人間性というだけでは担保できないところがある。
そして極端な話、人間性に帰着してしまうのであれば、そもそも国家資格など、つまり専門職である必要などなくなってしまう。
昨今、不適切保育のニュースが続いている。
増えたのではなくて、もともとあったものが保護者や保育士の意識の変化にともなって発覚するようになったというのが本当のところだろう。
こうしたニュースに触れても、多くの人が保育士の人間性ということを考えてしまうのではないかと思う。
だが、僕はそこに別のものを見る。
それは保育のスキルのなさが、人間性を悪くしてきたのではないかということ。
適切な保育上のスキルがない人が保育をすると、必然的に子供の支配になる。
これは優しい人であるか厳しい人であるか関係無い。
優しい人は優しい支配を、厳しい人は厳しい支配をするようになるので、結局どちらも支配であることは変わらない。
例えば、乱暴で大人のいうことを聴かない5歳児がいたとする。
ここにスキルのない保育士が対応すると、注意や制止、怒る叱る、行動の制限、ルールを課すといった対応になる。それらよりも感情レベルでの対応は、イライラを向ける、不快・否定の感情を向ける、疎外するといった対応が無意識・無自覚に発生することになる。(またこのとき保育者のストレス耐性の問題として「子供が悪い」「親が悪い」といった感情の発生という問題も付随してくる)
これらは、最大限うまくいっても、その子の行動を抑えることにしかならず、その子がなぜそのような行動を取ってしまうのかという根っこの問題を解決することはない。
もし、ここに適切な保育のスキルがあれば、その子のそうした姿を生育歴をさかのぼって考察し、足りないものを補う視点が持てる。
そして、なによりも信頼関係の構築に力を注ぐ。
信頼関係を厚くした上で、その信頼関係を使って行動の安定化、良い行動へのモチベーションづけをする。
上では「信頼関係の構築に力を注ぐ」と一行で書いたが、これを達成するためにはそもそも信頼関係とはなにかということを理解しており、またそれを難しい子との間にも構築する方法を知識として持っており、さらにはそれを実践の中で行えるだけのスキル(実地対応、自身の感情のコントロール、子供を見る専門的な視点の確保等)が必要。これの獲得には大きな専門性がいる。
これらがあれば、そうした対応の難しい子であったとしても、排除否定支配することなく保育が行える。
叱ったり注意したりならば、専門性を持たない一般人でもできる。
そうではないスキルを持っていて初めて専門職といえる。
例が長くなってしまったが、保育のスキルのなさが人間性を悪くしてきたのではというところに話を戻す。
保育の専門的なスキルがないままに保育の仕事を長年続けてしまうと、保育者はモラルハラスメント体質になり得るということ。僕はここを指摘したい。
どんなに子供が好きで心優しい人が保育士になったとしても、その職歴の最初の段階で適切なスキルが得られないままだと、単に保育が下手というだけではなく、その人の人格にまで影響しかねない。
不適切保育のニュースをこの視点で見てみれば、ほぼその全てがモラハラになっている。
保育者は子供に正しい行動(もしくはその人の考える誤った正しい行動の場合もある)を要求し、それに従わない子供が罰される形で不適切保育が起こっている。
つまりスキルのない保育を続けることが、人間性の悪化をもたらしてきたということが言えるのではと僕は考える。
これまでの保育界は保育の基礎部分を、スキルではなく人間性に求めてきた傾向がとても強いと思う。
それが逆に保育者の人間性を損ない、保育の劣化を招いている。
僕はそれこそ人間性に問題があってすら、適切な保育をスキルとして身につけることで保育が成り立つことが重要ではないかと思う。
なぜなら、人間性は上で指摘したようにうつろいやすいものであるし、人間的に優れた人だけしか保育をしてはいけないということは、ひいては優れた人しか親になれないという話にも相通じてしまいかねない。
この世には、お酒の飲めないバーテンダーやソムリエもいる。つまり、この人達はその専門性ゆえにその仕事ができている。
保育者も同様に専門性によって、つまりスキルによって仕事ができなければならないと言える。
逆に言うと、適切な保育スキルを伝えることで、その人が保育の仕事の中で自己実現できるように持っていき、その結果として人間性が向上できる道筋を施設側がつけてあげる必要があるのではとすら思う。
現状日本の大半の保育は、子供の管理、支配になっている。支配には優しいものもあるので、やっている当人はおろか周囲の人もそれが支配や管理であることに気づけないものもある。
養成校で習うものや保育指針が示すものはそうではないにも関わらず、そうなってしまっているところは多い。
こうした子供の管理や支配の枠組みを、本来の保育が目指す枠組みの中に置き換える気づきや学びが必要だろう。
それをすることで一番得をするのは保育者自身なのだと思う。
僕が自分の仕事の中でめざしているのは、そうした保育のパラダイム転換。
当たり前と思っていたものを、視野を広げたり、視点を確保することで当たり前ではなくし、枠組み自体を入れ替えてしまうこと。研修でもそれをお伝えしたい。
◆今後の研修予定
●11月9日(土) これからの子育て支援 ~保護者対応の苦手をやりがいに変える
詳細: HOIKUBATAKE告知ページ 空きあり
●12月1日(日) 受容と信頼関係の保育 ~子供を支配しない保育~
申込み 詳細:https://peatix.com/event/1336332/view
●12月21日(土) 自主性・主体性の保育 ~「つくる」から「伸ばす」へ~
申込み 詳細:https://peatix.com/event/1337079/view 空きあり
| 2019-10-27 | 保育について | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
【保育】疎外感を利用した関わり - 2019.09.13 Fri
2歳児がこれから散歩に行くために並んでいるところだった。
手をつなぐのを渋る子がいた。(仮にAちゃんとする)
おそらく、散歩の際にその子と手をつなぐのが決まっているのだろうBちゃん。
(Aちゃんは月齢が低そうであり、BちゃんはAちゃんに比して身体も大きく月齢も高そうな印象)
どちらも女児。
保育士 「Aちゃん、イヤイヤしているね」
「あっ、Bちゃん自分からつなごうとしているね。えらいなー」
(そう言いながら両手でBちゃんの頬をつつんでなでる)
この関わり、子供に手をつながせようとするあまり、子供の疎外感を刺激してのコントロールになってしまっている。
これは、一見スマートな関わりに見える。しかし、実際行われているのは以下のようなこと。
Aちゃんのできなさを、今現在できているところのBちゃんをほめることによって際立たせ、直接Aちゃんを叱ったり注意したりこそしていないが、意図的に疎外感を持たせることで否定している。そして否定することによって、Aちゃんに保育者の望む行動を取らせようとしている。
例えば、「手をつながないのならば置いていきますよ」とAちゃんに声をかけたとしたら、これは周りから見ても冷たさが明らかに感じられる。これが直接的な疎外による子供の支配。
これに比べると、この事例としてあげたケースはそこまで冷たくは見えない。
しかし、それと変わらないだけの問題点をはらんでいる。むしろもっと多いかもしれない。
◆Aちゃんがこうむる不利益
まず、疎外され支配されるAちゃんがこの保育士に対して信頼感を低下させていくと言う問題。また、それが大人全般への信頼感の低下につながる可能性。
疎外という大きな負荷をかけられることで、より意地を張らなければならないなどのネガティブ行動の増加の可能性。
負荷を出しやすいところ、多くの場合保護者に向けられることで、子育て当事者の子育ての負担を大きくしてしまう可能性。
そして不利益をこうむるのはAちゃんだけではない。こうした対応法はBちゃんにも問題を持たせかねない。
◆Bちゃんのこうむる不利益
大人の顔色をうかがう人格形成がなされてしまうこと。Bちゃんは、大人への信頼感を持っている。それと保育者の気持ちを汲み取りそこに従おうとする発達が進んでいる。
これ自体は成長として健全なことだが、保育者がそこを自身の意図のために利用することが積み重なっていくと、Bちゃんはそれゆえに疲弊していく。
場合によっては、その疲弊ゆえに家庭に帰ってから保護者に施設での頑張りの反動を向けるといったことを生みかねない。
◆安心安全空間の剥奪
子供にその場の大人の顔色をうかがわねばならない気持ちを獲得させてしまうと、それはその空間で心地よく過ごすことを奪ってしまう。
それは情緒の安定や愛着形成にマイナスになるだろう。
このことはこのケースで直接関わりを向けられたAちゃん、Bちゃんに限らず、その周りにいた子にも波及している。
◆これを乗り越えるには?
・その場での対応
・長期的、大きな視野での対応
これについてはまたの機会にまとめたい。
| 2019-09-13 | 保育について | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
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