【子育て・保育】ムリのない関わりへ vol.2 - 2021.01.21 Thu
スーパーのレジに並んでいる親子がいました。
3歳くらいの子とお母さんらしき大人。
子供が、レジ付近に陳列してある商品を触ろうとします。
「ダメ」
「やめて」
「いい加減にしなさい」
言葉と口調がだんだん強くなっていきます。
こうした関わりが一般的でしょう
子育ての基本が、否定を積み重ねることで、子供がそれで思い通りにならなければ、その否定の度合いを強めていくしかなくなってしまいます。
結果、子育ては怒る、叱るになります。
しばしば一般に、「怒るではなく叱りなさい」と言いますが、感情的に否定するか、やや理性的に否定するかの違いで、結局それはどちらも否定ですので、根本的にはさして変わらないことです。
この部分を、前に書いた事実を提示する方法に置き換えてみましょう。
例えば、
「それはお店のものです、触らないで下さい」
「買わないものを触るのは私が困ります」
「私は疲れているので、そうされるとイライラしてしまいます」
このときのニュアンスにおけるポイントなのですが、子供に思い通りの行動を取らせるために、「説得」しているわけではありません。
子供がすぐその通りにうごかなくてもいいのです。
事実をそのまま伝え、子供に考え、行動する余地を作っています。
それはあたかも、カードに描かれているものを提示しているようなニュアンスです。
さて、そうした対応をしてもすぐに子供がその通りの行動をするとは限らないかも知れません。もし、「やめて」等否定に類することをいうのであってもそれからでも遅くはないでしょう。
そうしたアプローチをしていると、毎回ではないかも知れませんが、ときどきそうした親の提示した事実を踏まえて子供がなんとなくでも、それに寄り添った行動を示すときがあったら、そこに肯定を送っていきます。
例えば、
・子供がそれを触ってみたけど手を引っ込めた
・商品ではなく自分のカバンのキーホルダーに気持ちを切り替えた
など。
こういうとき、「ああ、わかってくれたのね」「伝わってよかった」といった言葉をかけてもいいですし、そうしたニュアンスを込めてうなずいたり、微笑んだりすることでもいいかもしれません。
特に大仰にほめる必要はないでしょう。ほめは多用すると大人からの関わりのあちこちが作為的になってしまいますし、大人も気を張っていなければならないので疲れてしまいます。
小さな肯定を、必要だけだしていく感じで、「うん、そうだね」と目線で伝えながらうなずいていくくらいの関わりを試していくといいかもしれません。
さて、こうした積み重ねをしていくと、子供の姿を否定ではなく肯定で伸ばしていくことができます。
また、そこに過干渉、支配、コントロールの負荷が少なく済みますので、子供もそうした関わりからのゴネや反発を出す必要も少なくて済みます。
さまざまな個性や場面があると思いますので、一概にそのとおりに行くわけではないと思いますが、ムリせずにできる範囲でいいのでこうしたエッセンスをいれることで子育ての安定化がはかりやすいかと思います。
この関わりのポイントは、子供を「~~させる対象」ととらえていないことです。
「私がそうさせなければ」というスタンス(しつけや過干渉のスタンス)ではなく、「あなたは私のことを理解して必要なことをしてくれるでしょう」という大人から子供への信頼の上に自主性を尊重している点です。(この背景には前に書いた受容・肯定・信頼関係があります)
また、「あなたはすぐにできなくてもいずれそれを理解してくれるでしょう」という成長への信頼、逆に言えば今すぐ結果を出さずともよい「おおらかさ」を持っています。
このあたりの、大人の姿勢や気持ちのあり方が、子供の姿の安定にもつながっています。
書こうと思えば、まだまだいろいろあるのですが、とりあえずこんなところにしておきましょう。
ながながとおつき合い下さいましてありがとうございました。
| 2021-01-21 | 日本の子育て文化 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
【子育て・保育】ムリのない関わりへ - 2021.01.20 Wed
【子育て・保育】ムリのない関わりへ
だいぶ長くなります。
本来ならnoteなどの記事化する方がいいのでしょうけれども、行きがかり上このままTwitterで書いていきます。将来的には加筆して記事化するかもしれません。そのときは有料化する可能性があります。そのため以下のツイートの転載は禁じます。
まずはじめにいくつかお断りを。
僕が伝えようとすることは、「こうすれば子供がこうなります」という、子供のコントロールのテクニックではありません。むしろ僕はそうしたものを使わないで済むようにしたいと考えています。(必要に応じてそれらを使うこと自体は否定しません)
お伝えしたいことは、子育ての構造、組み立て自体をムリのないものに組み替えていくことです。
先立つツイートで述べたように、一般的に子育てとしてとらえられているものは、問題を解決しようとする行為自体が他の問題を生むものになっているので、小手先のテクニックだけではなかなか変わりません。その構造自体になんらかのアプローチが必要です。
また、ここで述べられるのはあくまで一般論です。子供も子育てする大人も多様ですので、個々の人にピタリと当てはまる形で伝えることはできません。
なのでここで書くことは幅を持ってとらえて下さい。これをしなければ子供がとうにかなってしまうというものではありません。できないことがあっても構いません。「この部分を半分くらいならできそうかな」そんな風にとらえるくらいでいいかと思います。
文章では上手く伝えられないかとは思いますが、僕は大人がそれをできない状況を責めていません。また、そもそも子供の「できる」がいいこととも、「できない」姿が悪いとも思っていません。
大人のあり方も、子供のあり方も、常に「あるがまま」がスタートラインだと思っています。その「今ここ」の状態から、その人その人の子育てをどう組み立てて行くかが大切だと考えています。
◆「あるがまま」がスタートライン
おそらく僕の子育ての話にたどり着いた人の中には、「私の子育てはうまくできていないのではないか」「毎日怒ってばかりでよくない」といった気持ちを持っている方が少なくないのではと思います。
それは親としてある意味では当然もってしまう気持ちでしょう。そう思うこと自体少しも悪いことではありません。
しかし、この形で自身の子育てをとらえていると、子育てのしんどさはずっとつきまとってしまいます。
なぜなら、それらは自己否定に行き着かせるからです。
そう思う気持ちは否定しなくていいので、その上で「ああ、私のいまはこうなんだな」と現状を淡々ととらえる方向にちょっと視点を持っていってみましょう。
おそらくこれまでは、「こうあるべき」と「自分の現状」を比べて自身の子育てを見ていたと思います。この見方をすると、ほとんどの人が自己否定から出発することになってしまいます。
比べる必要はありません。「ああ、私はここがスタートラインなんだ」とちょっとだけでも思ってみましょう。
これは子供の姿に対しても同様です。
「こうあるべき」と「我が子の現状」を比べてみると、たいていの子育てがマイナス点からの出発になってしまいます。それだと、子供が多少成長したとしても大人から子供はまだマイナス点に見えます。これでは子供も伸び悩んでしまいますし、子育てする大人も疲弊してしまいます。
現状否定から始めなくて大丈夫です。
大人も子供も、今、あるがままがスタートラインなのです。
子育てするとき、「ああ、そうなんだな~」というフレーズを覚えて置いて下さい。このフレーズは、いろんなところで子育てをムリのないものにしてくれます。
・「ああ、そうなんだな~私はいま子育てしんどいと思っているんだな~」
・「ああ、そうなんだな~私は毎日怒っちゃうんだな~」
・「ああ、そうなんだな~この子はいまこういう成長の姿をだしているんだな~」
◆ハードルを下げる
ハードルが高いと子育ては大変になります。
・前倒しの子育てと距離を置く
1歳の子に3歳で必要なことを求めれば、その子はうまくできませんよね。
このように言葉としてみれば当たり前のことが、子供を目の前にするとできなくなってしまうのが、実際の子育てです。
一般的な子育て観であるところの「しつけ」は、我が子に到達点を持たせることを大人に強迫的に要求する形になっているので、子育てのたくさんの部分がこうしたさして意味のない子育ての前倒しに陥りやすいです。
心身の発達段階がまだ明らかにそこに至っていない子に、いくら大人が過干渉をしてもオムツが取れるわけはありません。
その段階で「オムツ外し」を頑張ってしまうと、「大人から見たときオムツが外れたように錯覚できるところ」に子供を持っていくことが目的になってしまいます。
これでは意味がありませんよね。
手指の機能がまだ未発達な段階で早期にお箸を持たせたからといって、それができるようになるわけではありません。
場合によっては、子供に頑張りという負担をかけて、「できる」を作り出すことは可能ですが、子育てそのものとしてみたとき、そこにほとんど意味はありません。
人見知りをする段階の子供に、人見知りをしなくなるアプローチをする必要はほとんどありません。そういう発達段階にいるのですから、人見知りをするならすればいいのです。
このように子育てを前倒しで考えなくていいので、子育てのハードルは下げておきましょう。
・心配の先取りと距離を置く
「来年幼稚園に入るのに、友達と上手に遊べなかったらどうしよう。今のうちから友達と関わらせて練習させておいた方がいいかしら」
こうした、先を見て、できない状況を想定し、子供に早い段階で訓練を課そうとする子育ては、あまりに一般的です。
少なくない人がこうしたスタンスから一生懸命子育てをしてきているでしょう。
その方達に水を差すわけではありませんが、こうしたスタンスからの子育ては、過干渉や依存、子供自身の経験の低下、その過程で起こる大人への信頼感の低下など、あまりプラスにならないことが増えてしまう一方で、上で述べたように発達段階を先取りすることでもあり、子供の育ちという観点からみた場合あまり意味のないことです。
「そのときになってできないことなら、そのときその子自身が失敗しつつ身につけていけばいい」
これが、本当は子育ての本質です。
(繰り返しになりますが、あくまで一般論です。中には安全上の問題など、失敗しながらでは学べないことや、個々の個性により事前にある程度のガイドラインを引いておくことが必要な子もおります。このあたりは幅を持って捉えておいて下さい)
・不安は出していい
ただ、自身の子育てに対する不安が強いと、こうした前倒しの子育て、ハードルを高めていく子育てになってしまいやすいです。
子供に「できる」を達成させると、自身の不安が解消されるからです。
現代の子育ては、この形になりやすいです。
これを防ぐために、不安は子供に負わせてしまう前に、大人のレベルで多少なりとも解決するようにしておくといいです。なので、不安や心配を話すことはとても重要です。
子育てするパートナー間で、矮小化せず不安を出す、また相手はそれを矮小化せず聴く。これをポイントとして持っておくといいでしょう。
矮小化せず出すというのは、「こんな些細なことを話したらおかしいかな」と自分を抑圧しないことです。
子育ての不安は、その問題の大きさではありません。どんな些細なことと思っても心に引っかかることは出していいのです。
聴く側のときは、「それくらいたいしたことないよ」などと矮小化しないで受けていくことが大切です。
「ああ、そう感じているんだね~。なるほど、そうだよね~」と、不安心配を矮小化しないでそのまま受けていきます。
ここでも、「ああ、そうなんだ~」のエッセンスがでてきましたね。
ただ、そうした相手すらいないんだという問題があることもわかっています。
孤立した弧育て=「弧育て」というのも、現代の子育てにおけるとても大きな問題です。これも重要なテーマなのですが、ここではそれてしまうので他の機会に譲ります。
・自分を振り返ってみる
自身の子育てのハードルを下げるために、もしかすると自分のされたことを振り返っておくことが必要かもしれません。
自身が、過干渉や強い支配を受けてきた場合、我が子に求めるハードルが上がってしまう傾向があるからです。
例えば、
「ああ、そうだよな~私って食事のことですごく厳しく言われてて、子供時代それがつらかったよな~」
などと、「ああ、そうなんだ~」を使って、否定でも肯定でもないところに落とし込んでおくともしかするとハードルを下げやすくなるかも知れません。
このあたりにネックを感じる方には、有料記事になりますが過去に書いたものがあります。
ちょっと待った!「ちゃんと、きちんと、しっかり」子育て
https://note.com/hoikushioto/n/n40e769010157
ただ、そうした自分のあり方を振り返ることが精神的負担になる方は、それをやる必要はありません。自分を守るのは大切なことです。
◆子供の育ちのメカニズム
ここで少し、そもそも子供はどうやって育っていくのかという部分を見てみましょう。
このツイートの発端が、「なめられるな」「甘やかすな」という保育、子育てのあり方に対しての意見から始まったのですが、そこにあるものは、一般的に考えられているところの子供の育ちのメカニズムの一つといえるでしょう。
その中にあるのが、
・子供の間違った行為に否定のアプローチをすることで、子供の正しい姿を大人が作っていく
・子供を普段から大人に服従する状態にすることで、子育ての安定の維持や正しさを習得させていく
こうした子育てに対する考え方です。
現代では、こうしたこれまでの子育ての考え方を、なんかおかしいのではと感じている人が増えているでしょう。
僕はこうした子育てのメカニズムとのとらえ方を、はっきり間違っていると考えています。
子供の育ちのメカニズムの本当のところは、「信頼する大人に寄り添った成長を示す」が原点です。
僕は子供の頃野球の巨人ファンだと思っていました。しかし、よくよく考えると別に巨人が好きだったわけではありません。父親が巨人ファンだったのです。
同様に僕は「緑色が好き」と言っていました。しかし、実際はそういうわけではありません。母親が「緑が好き」と言っているのを聴いたことがあったからです。
こうしたことは、皆さんにもあるのではないでしょうか。
別に親でなくとも、尊敬する人が好んでいるものを、いつの間にか自分も好んでいるといったような。
こうしたことが、子育てのメカニズムの原点です。
それが、「信頼する人に寄り添うように成長していく」です。
もし、大人である自分が、「食事は残さず食べることが大事」という価値観を持っているのならば、子供の幼少期から「食べ物を残す子は許しません」と強い否定を重ねていく必要も、「食べきるまで座っていなさい」と凄む必要も、「全部食べられたらデザートあげるね」と釣りでコントロールする必要もありません。
子供との間に信頼関係の形成を重ね続け、その過程で自分自身が食事を残さず食べていればそれで、子供はその信頼する人に寄り添うように、そうした価値観を共有していきます。
基本的には、これが子育てのメカニズムなのです。
「しつけ」の考え方で子育てをすると、この過程は希薄になりがちです。
なぜなら、「しつけ」は「今すぐ」に子供に正解の姿を出させようとするからです。
今すぐできる結果を出さないとなれば、支配やコントロールの方法を使わざるを得なくなってしまいます。
子供の人生のゴールはいまではありませんね。
言葉で言えば、だれもがそりゃそうだと思うことにすぎないかもしれませんが、この視点はちょっと頭の片隅に置いておきたいと思います。
「いまがゴールじゃない」「子供にはつねに未来がある」
◆信頼関係はどうやってできるの?
それは受容と肯定です。
それに加えて、安心・安全の確保です。
子供は大人の保護がなければ生きられません。
安心感の欠如と不安の中で生きています。
子供が安心して過ごすために、大人がそれを積極的に与えてくれる存在であることを求めています。
大人だってそうですが、自分の安心・安全を守ってくれる人を信頼しますね。
子供はなおさらです。
これが基礎としてあり、さらに受容と肯定を大人の側からその姿勢を持って接することで、子供はその大人への信頼を高めていきます。
受容と肯定とはなんでしょう。
例えば、赤ちゃんが目覚めてギャーと泣きますね。大人がそれを「どうしたの~?大丈夫だよ~ここにいるからね」とあやすことで安心します。
ここにあるのが、自分を受け止めてもらえた経験つまり受容です。
・「お腹減った~」「はいよ~今ごはん作るからまっててね~」
・「絵本読んで~」「うん、いいよ~じゃあ昨日の続きを読もうか」
ここにも、自分を受け止めてもらえた経験が隠れていますね。
ただし、この受容は自己犠牲をして、大人が身を粉にしてやりなさいということではありません。これについては後述します。
◆肯定は?
肯定は、さまざまなことで伝えることができます。
a,スキンシップ
よく言われるところですね。
スキンシップにはウソがありません。皮膚感覚として子供に伝わります。
スキンシップを通して子供には肯定が伝わります。
b,共感
・「これおいしいね~」「おいしいね~」
・「きれいだね~」「きれいだね~」
・「そうか~転んで痛かったんだね~」「うん、いたかったの」
人は不思議なもので、共感してもらうことで自分が肯定されたと感じることができます。
これは、大人も同じですよ。(というか全部大人も同じだね)
c,生活を共にすること
ご飯を作ったり、食べたり、一緒に寝たり、お風呂に入ったり、清潔にしてあげたりetc.
生活を共にすることで、そこには肯定が蓄積されていきます。
ただ、普通にするだけでも肯定になっていますが、その過程を肯定としてちょっと意識するだけでもそれはさらに大きくなることでしょう。
食事を「しつけ」の場にしてしまい、毎日怒られながらするよりも、「おいしいね~」と共感し合いながらするのでは、そこに違いが生まれますね。
生活は日々積み重なることなのでなおさらです。
d,肯定的雰囲気
人は不思議なもので、その人のまとう雰囲気として否定や肯定をかもしだすことができます。
例えば、自分の職場の上司が、いつもムスッとしてイライラを出しているような人だと、そこの部下でいる人はなにかいたたまれない気持ちになったり、過剰な緊張を強いられたりしますよね。
子供は、基本的に大人の保護を求めている存在ですので、そうした大人の様子に敏感な子もいます。
子育てする人は頑張って機嫌良くしていなさいという意味ではありませんが、もし、可能であるならばムリのない範囲で、肯定的な雰囲気を意識するといいかもしれません。
簡単にやりやすいところでは、大人が歌を歌うことです。子供に聴かせるためという意味ではありません。歌を歌っている人は、周りからその人はくつろいでおり、心が開示された状態(自分を受容してくれる状態)と見えるからです。
このことが、子供には肯定として伝わり、子供の姿の安定にプラスに働きます。
◆子育てにウソはいらない
大人であるあなたは、自分にたくさんウソをついてくる人を信頼できるでしょうか?
まず、それは難しいですよね。
子供も当然ながら同じです。
本当は子育ての中でウソは使うべきでないのです。
しかし、日本の一般的な子育てでは、ウソが多用されています。
「帰らないなら置いていきますよ」
公園などで遊んでいれば、それこそしょっちゅうこうした関わりを目にすることができます。
これ、それを言う保護者の方は、実際に子供を放置してかえるつもりがあるわけではありませんよね。
つまりウソです。
しかし、子供をコントロールする手段として、ウソの自覚もない中でこのウソを言っているわけです。
「オニが来るよ」
「お巡りさんに怒られるよ」
なども同様ですね。
これが、一般的な子育てとして認知されており、ひんぱんに使われている現実があります。
ウソは信頼関係を低下させるので、そのときはカンフル剤的に効果を発揮するけれども、使えば使うほど子育てを難しくしていく可能性があります。
しかし、こうした脅しとしてのウソを使わないと子供が動かない状況になってしまっている人からは、じゃあどうすればいいんだと怒ってしまうかも知れません。
その代わりの方法は実は指して難しくないのです。
ウソを使わないためには、本当のことを使えばいいのですね。
では、本当のこととはなんでしょう?
それには2種類あります。
1,周囲の事実
先ほどの公園から帰るケースでみれば、例えば。
・「もう帰る時間です」
・「寒くなってきたので帰ります」
これらは現実の事実ですね。
2,私の感情の事実
次に、子育てする大人である私の感情という事実を正直に使うことです。
・「私が疲れたので帰りたいです」
・「もういま買い物に行かないと困る時間なので、帰ります」
これらは大人である私の内面の事実なのです。
こうした部分、世間一般に流布する、「子供に尽くすことがよい子育てなのだ」とか「子供に自己犠牲的に関わることが愛情なのだ」といった価値観のままでいると、こうした事実は覆い隠すことがいいことなのだと(ほとんど無意識にでしょうけれども)考えがちになってしまいます。
しかし、こうした大人が気持ちを正直に出すことは、実は子供の幼少期からとても大切なことです。なぜなら、こうした正直さが、子供に葛藤の経験の余地を持たせ、それが依存を防ぎ、自立を援助していくからです。
(こうした方法が「“私”を主語にする」とか「Iメッセージ」などと呼ばれることもありますね)
この自己犠牲的、自己抑圧的な子育てする大人の価値観が、現代の子育てを難しくすることの大きな原因の一つとなっています。
子供にウソをつかないだけでなく、自分にもウソをつかないようにしていくといいです。
そして、この事実は、私の負の感情であってすらいいのです。
・「あなたにそこでごねられてしまうと、私はイライラしてしまいます」
これもまったく嘘偽りのない自分の気持ちですよね。
ただし、受容や信頼関係の構築にネックを抱えている場合、強い肯定不足の段階にある場合は、この負の感情の表出というアプローチが子供に大きな否定として感じられてしまう場合があります。そうした状態のときは、避けておくほうがいいかもしれません。そうしたケースの場合は今回のテーマと外れるので、ここでは割愛しておきます。
こちらは、有料記事になりますが、このウソにまつわる点をより詳しく掘り下げている記事です。
子育てで避けるべき2つのウソhttps://note.com/hoikushioto/n/n37cc4eb214e6
こちらは余談になりますが、子育てにおけるウソについての考察です。
http://hoikushipapa.jp/blog-entry-791.html
(これは私のブログになりますので有料記事ではありません)
◆肯定で積み重ねる子育て
さて、いま嘘ではなく事実を使って子供にアプローチしていく方法をお伝えしました。
さて、事実を伝えれば子供がたちどころに大人の要求どおりに従うでしょうか?
冒頭に、僕はテクニックを伝えるわけではありませんと述べたように、これは子供を思い通りに動かすテクニックではありません。
ここにあるのは、子供の主体的な行動の余地を残すことであり、その上で主体的な成長を育むための前提条件を整えたのです。
例を使って言うとこういうことです。
次回に続く。
| 2021-01-20 | 日本の子育て文化 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
「しつけ」がいじめを生む - 2019.09.09 Mon
前回までの記事とも呼応するが、「しつけ」こそ「こうであれ」を社会的に蔓延させる大元の概念になってしまっている。これは子供だけでなく大人も無関係でない。
「しつけ」は、本質的に「正しいもの」「規範」をあらかじめ設定して、子供をそこに当てはめていく子育て方法。そこで実際に行われるのが、数々の「否定」のアプローチ。
細かくは過去記事をご覧いただくとして、いわゆるところのしつけ行為は、結局のところ規範から逸脱することに対してNOを送ることの積み重ねになっている。
程度の問題で、こうした子育てをしたとしても大きな問題にならないケースもある。
しかし、その程度のバランスが崩れてしまえば、子供の自尊心や自己肯定感を適切に成長させることができなくなったり、子供の意欲や自己表現を萎縮させる方にも行ってしまう。
果ては、虐待や虐待死にすらつながっている。
また、発達に個性、ばらつきのある子供の子育ての場合、「しつけ」の子育ては簡単に破綻する。
本質的にしつけは、優しくないのだ。(「しつけ」自体が不寛容さを内包している)
世間に流布する多くの子育て論は、この「しつけ」の中でのバランスの取り方を伝えることに終始している。
しかし、バランスの問題ゆえに決定打になることはない。だから最後は情緒論、感情論でまとめることになる。例えば「子育ては結局愛情が大事」のように。
僕は、そうではなく子育てにおける「しつけ」しかアプローチ方法のない現状に対して、その枠組みごと取り替えてしまう子育てのパラダイム転換を提唱してきている。
それが受容と信頼関係を使った子育てアプローチ。拙著『保育士おとーちゃんの「叱らなくていい子育て」』で述べているところ。
それは「叱らないようにすること」を目指しているのではなく、子育ての形を丸ごと入れ替えてしまうことで、そもそも子供本来の叱らなくていい状態での子育てを送ることを企図したもの。
さて、ここまでが前書き。
本日のテーマは、「しつけ」こそが「いじめ」のもっとも大きな原因になっていることの指摘。
子供たちは、「しつけ」のメソッドによって、たくさんの「こうであれ」を求められ、そこに合わせるべく頑張り、それでも少なからず否定が蓄積されある種の心の負荷を溜め込んでいる。
ここで子供たちはある種の心のクセを獲得させられてしまう。
それは、規範意識から逸脱することに対する不寛容さ。
自分が普段から頑張りを発揮し、大人からの支配的要求に応えている子ほど、自分ではコントロールできない他者への不寛容さを心に持ってしまう。
否定の蓄積と、他者からの行動の強要(支配)は、多くの場合心の奥に「怒り」として沈殿していく。
他者への不寛容さと抑圧された怒りのエネルギーは、規範に適応的でない他者を見たときその人への攻撃的な感情として出てきてしまう。
「規範からはずれていることへの指摘としての攻撃」
ここには一見の正義があるように見える。しかし、それこそがモラルハラスメントだ。
しつけのメソッドで子供に、否定と支配(優しい支配であるところの管理も)を積み重ねていくことは、こうした他者にいじめをせざるを得ない心理を子供に持たせてしまう。
この心のクセは、善意とかそうしたものでもカバーしきれるものでないことも特徴。
優しい人、善意の人であれ、この「不寛容さ」を持たされてしまう。
子供時代は他の子供へのいじめとして、大人になれば、他者へのモラルハラスメントとして現れてくる。
その人が本来優しい人であれ持たされる。このことは大変悲しいこと。
そして、しばしばしつけの子育ての中での優等生だった保育士や教員になる人ほど、こうした傾向を持っている場合がある。
仕事で子供に関わる人が、その価値観のまま何年も継続してしまうと、周りからも本当の意味での信頼関係が築けなくなってしまう。なかんずく、子供からは特に。
すると今度は自己肯定のために、さらに子供の支配へと傾倒しかねない。
このことは誰にとっても不幸なこと。
最近、僕は保育士向けの研修で「あなたたちこそ、子供たちをいじめに向かわせないカギを持っています」と伝えている。
それは、保育士が普段から培っている信頼関係を通して、他者への寛容さを伝えること。
具体的には、問題児を問題児として排除するスタンスに立ってしまうのではなく、「○○さんは、いろいろ気になるところもあるけど、私は○○さんのことスキなんだよ」と普段から周囲の子供に堂々と言葉にして伝えること。
こうすることによって、保育士への信頼感ゆえに、問題のあるその子ですら受け止める寛容さを子供は持つことができる。
一生懸命子育てするあまり、支配や管理、否定のアプローチが過剰になってしまう家庭もある。だからこそ、保育士がそこのバランスを取ることで、いじめというする方もされる方にとっても辛い状況に子供がはまってしまうことを防いで欲しいと保育研修を通して広めている。
さらには、問題行動を起こす子供に対しても否定でないアプローチを理解しておく必要もあるだろう。
ここでは書ききれないので、過去記事等にそれは譲るが、例えば「どうしたの?」と入り、子供自身に考えさせる主体的な成長へと持っていくことがその方法のひとつ。
「悪いんだからやるな」「正しいんだからやりなさい」の押しつけはそれがどんなに正論であろうとも、一種の支配に他ならない。
子供の成長とは、自分自身で理解し獲得することにある。
このあたりを子育ての中で実感できる人が増えれば、もっと他者に寛容な社会になるのではと願ってやまない。
| 2019-09-09 | 日本の子育て文化 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
「こうであれ」に疲弊する子供たち Vol.2 - 2019.09.03 Tue
それは、親自身がすでにたくさんの「こうであれ」を望まれてきており、そうした形で自身の内面を形成されてきてしまっているということ。
自分自身が「こうであれ」をたくさん要求され、それに頑張ったり、我慢したり、努力して応えてきているがゆえに、他者がそこから逸脱している姿を許容することが心理的に困難になってしまう。
このことは、他者に対してはモラル論から否定や攻撃をする心理を生む。または他者に対して「ずるい」という心理を生み出す。
(例えば、「私は二回もPTA役員をやったのに、一回しかしていないあの人はずるい」こういった心理。この問題、本当はイヤイヤやらされているPTAという構造そのものに向けられれば健全なのだが、努力や我慢や自己犠牲を美徳とする文化的なものがそれをはばみ、本来対立する必要のない自分と同じ立場の人に矛先が向いてしまっている)
他者であればその程度で済むが、これが「我が子」となるとそうした感情にどうにも歯止めがかからなくなることがある。
これがいまの子育て世代をして子育てを困難にしているとても大きなもの。
これにより子供の人格形成に大きな影響を与えてしまったり、不登校などの原因に発展してしまうこともある。
◆大人の問題としてとらえる
自分でも感情に歯止めがかからないほどに、子供に対しての「こうであれ」を止められないといった状態になっている場合。
それはもはや、子供の問題ととらえない方が良いと言える。
その大人からすれば、子供が自分の要求を達成してくれさえすれば自分はイライラしたりしないと思える。
しかし、それまでの過程でたくさんのその大人からの否定、不寛容にさらされてきてしまった子供は、それが達成したくてもどうにもできない状況に置かれている。
人が誰かの要求に応えるためには、ある種のエネルギーが必要。
子供にとっては、それはその大人からの「肯定」というもの、僕が子育ての基礎を「受容」と言ってきているのは、幼少期にその肯定を蓄積する必要があるから。
こうした状況にはまっている場合、子供はそれまでの親の要求に応えるためにすでに自身の中に蓄積してきた肯定は使い切ってしまったり、すり減らしてしまっている。
だから、応えたくても応えられなくなっている。
ゆえに、大人の方が「自分の望むこの簡単な要求に応えて欲しい」という視点で子育てを考えている限り、この問題は解決しようがなくなってしまう。
その場合大人が取り得るのは、子供の管理・支配しかなくなる。
これでは、子供に負の影響を長きにわたって蓄積していくことになる。
解決のカギは、大人自身の問題として考えることなのだ。
大人自身の問題とは、自己肯定感、子育て以外の何かに我慢し日々自己犠牲をして生活している問題。過去における対人関係のわだかまり。自己有能感、自尊感情の問題など。
子供が大人の要求に応えるためには、肯定という心のエネルギーが必要と述べた。
このことが大人自身にも言える。
子供に「こうであれ」をたくさん望むことで子育てが難しくなってしまっている人は、まず、自分自身を肯定するところに視点を変えてみるといい。
だが、大人になってしまうとなかなか他者が明確に積極的な肯定をしてくれることは多くないだろう。
そもそもそれがふんだんにあったのならば、そうした状況にはそうそうおちいっていない。
だからできることは、自分自身を自己肯定すること。
そうはいっても、あからさまな自己肯定は簡単ではない。
そこで、「自分を甘やかすこと」からスタートしてみる。
できる範囲のことからでいいので、我慢や努力や頑張りとちょっと距離を置いてみる。
自分に課している「こうであれ」をちょっとずつやめてみる。
例えば、「毎日手作りのご飯を用意しなければならない」と自分に課してしまっている人であれば、それをできる範囲でゆるめていく。
今日は外食してしまおう
今日のおかずはお総菜を買ってきてしまおう
もう今日はレトルトのカレーでいいや
毎日掃除をしなければならないと自分に課してしまっている人であれば、そこを手を抜いてみる。
こうして多少なりとも、自分で自分にかけている負荷を減らしていくと、子供のできない姿、やらない姿を許容しやすくなることもでてくるだろう。
そうなると子供の心にも余裕が生まれる。
結果的に、そのように自分の心をゆるめることにより、子供もそれが達成しやすくなっていく。
こうしたケースの多くのものは、実は子供の問題としてではなく大人の問題としてあることが多い。
| 2019-09-03 | 日本の子育て文化 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
「こうであれ」に疲弊する子供たち - 2019.09.02 Mon
いま、子供たちは「○○でありなさい」という大人からの要求に大変疲弊している。
幼少期から家庭でたくさんのそれを求められ、子供たちのもうひとつの場である学校では、さらにそれをあからさまに求められそこに同調圧力までがかかってくる。
すでに負荷がかかっているところに、さらに新たな負荷が加われば、それが過負荷となり何らかの齟齬がでるのはあとは程度や時間の問題になってしまう。
不登校、いじめ加害、いじめ被害、学級崩壊
日本では子育てそのものを、子供をさまざまな「こうであれ」の型にはめ込むことだと考えられている傾向が強い。また、社会のあり方も多様性を許容しないストライクゾーンの狭い形に作られているので、必然的にそうならざるを得ないところもある。
だからと言って、それが子供たちを病ませてしまうほどに過負荷をかけてしまっていいことにはならない。
自分から「こうありたい」と思うことと、他者から「こうであれ」と要求されることは、質的にまったく違うこと。
しかし、子供たちは他者との関係性の上に生きるというその性質上、他者からの要求であるところの「こうであれ」を自分自身の「こうありたい」と同化させてしまう問題が起きる。
言葉にすると難しいが、それはつまりこういうことだ。
子供は、親に強い信頼感を抱いている。
その上で、親が子供に「○○になって欲しい」という願望をかけられると、子供は自身の望みがそれになってしまう。
自分の「こうありたい」 = 親の「こうなってほしい」
になる。
しかし、この図式の本当のところは
自分の「こうありたい」 = 親に許容される自分でありたい(親に肯定されたい)
であり、直接的な親の望みを達成することではない。だが、当の本人にしてもそこに自覚的になれるわけではない。だからこそ、知らず知らずのうちに疲弊していくことになる。
学校でも、子供たちは「先生」という存在への信頼感ゆえに、教員の望むさまざまな「こうであれ」に頑張って応えようとする。
それが過負荷にならない内であれば問題ないこともあるだろうが、他の要素によってすでに負荷が溜まっている子や、個性ゆえに学校からのそうした要求を敏感に感じやすい子供は過負荷となってしまいやすい。
こうした過負荷の蓄積による疲弊はなにも子供だけではない。
過労うつや過労自死といった問題も同様。
会社や上司から「こうであれ」を望まれる。
周囲から同調圧力で「こうであれ」を望まれる。
そこにさらに責任感が強かったり、まじめな性格だったりすると、
自分で自分に「こうであれ」を課していく。
自分で自分に「こうであれ」を課す度合いが強まるほど疲弊は大きくなる。(このことは子育てする親自身にも言える)
居場所を変えて活躍できる選択肢がふんだんにあれば、こうした負荷からは逃れることができる。しかし、日本の社会では就労に当たって転職時の条件が厳しかったり、新卒が優遇される実態などがあり、このような過負荷に甘んじなければならない状況が起こり疲弊が大きな問題に発展してしまう。
子供にとっても同様で、転校や個別にクラスを変えるといった選択肢の提供がふんだんにあれば、いじめや不登校といった問題ももっと軽減されることだろう。
しかし、多様性を許容できない学校体質はそうした選択肢を子供に提示することを避けてしまう。
学校側が、「こうであれ」を少しでも減らす努力をしたら、不登校やいじめの問題は減少することだろう。(例えば、「起立、礼」とかこれをやめるだけでも違いが出るはず)
さて、では「こうであれ」の逆はなんだろうか?
それは、
「どんなあなたでもいい」
学校体質は一朝一夕には変わらないことだろう。
だが、子の親としてであれば、「子供にこれは絶対に必要だ。習得させなければならない」といったところから少し立ち止まってみたら、いろんな子育てのことがかえってラクになるかもしれない。
| 2019-09-02 | 日本の子育て文化 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
女性が産休育休でキャリアを失わないたったひとつの冴えたやり方 - 2019.08.12 Mon
この問題を簡単に解決する方法がある。
それは、男性も同じように産休育休を取得すること。
男女においての非対称性をこれにより相殺してしまう。
さすれば、女性だけが一方的にキャリアを損なうことがなくなり、そこによる男女格差を是正することができる。
「そんなの簡単にできないよ」と思う人もいるだろう。
そもそもそうした思考にこの問題の原点は隠れている。
それは、「女性が子育てするもの」という文化的習慣。家庭の中で男性が労働や収入の柱になるべきといった文化的習慣
労働は男性がするものといった社会的習慣。管理職には男性がふさわしいといった社会的習慣。
こうしたものが強固な先入観となり、この男女格差の問題は少しも前進しようとしない。
いっそのことドイツのように、法律で男女関係無く産休育休を取得するのを義務化してしまってもいいかもしれない。(加えて言えば女性管理職の割合なども)
でなければこうした社会的文化的習慣というのは容易に変わらないだろう。
しかし、それをしさえすればこの問題は大きく前進するはずだ。
また、それだけでなく社会デザインが変わることだろう。
社会人になるまでの教育の中で、男性も家事や育児をこなすだけの知識や経験を積むことが必要とされるようになるだろうし、家庭内での夫婦のあり方などもかわってくるだろう。
出産育児を機に、夫婦間の価値観の齟齬が大きくなっていくケースは少なくない。
これまで女性が育休を2年とってたとしたら、これからの社会は女性が1年、男性が1年ずつとればいい。3年取るのなら、1年半ずつ。もしくは同時に取る。
「男性だから○○できない」ということはない。
家事にしても子育てにしても、それは女性も条件はまったく同じ。
これまで女性は、「やるかやらないか」の二択をつきつけられる中で、それが避けられないからやってきたというだけのこと。女性だから、もしくは子供を産んだから子育てができるようになるわけではない。
だから、男性も0からやればいい。
そのための社会的なサポートは行政が用意すればいい。
男女格差がない社会は男性にとっても生きやすい社会になるはずだ。
男性だから母乳がでない?
冷凍母乳など活用するという手もありますよ。
ちなみに、タイトルはなんとなく夏なので思いついただけ。もちろんこれ以外のやり方だってあることだろう。
| 2019-08-12 | 日本の子育て文化 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
しつけと子育て vol.3 - 2019.07.03 Wed
vol.2からの続きです。
規範を子供に持たせることで子育てを組み立ててしまうと、場合によってそれが行き過ぎた状態になってしまうことがあります。
端的なのは、なにかをさせるために叩く、正しい行動を教え込むために叩くといった体罰の関わり。
また、それは体罰に限りません。
しばしば耳にすることに、子供が言うことを聴かないからベランダや玄関の外など、外に出すことで子供に言い聞かせようとする行為。
他にも、
~~をあげない
~~をさせない
~~に連れて行かない
などの罰を与える関わり。
こうしたことが、子供に規範を持たせようとすることが子育ての目的になることで、その問題点に無自覚なままに行われることがあります。
また、それは罰を与えることにも限りません。
他者と比べて子供をこきおろしたり、「どうせお前にはできっこない」など我が子を卑下するような関わり。
こうしたものもそれに類するものとなります。
なぜならそれは子供の自尊心を否定する行為だからです。
正しい(とされる)目的のために、その相手に否定の行為をすること。
これはつまり、モラルハラスメントなのです。
だから、こうした子供への関わりが慢性化してしまえば、それはモラハラ子育てと言えます。
親自身も周囲から「子供に正しい行為をさせること」を強いプレッシャーとして常に受け続けているので、日本の子育てではこの状態にとてもはまりやすいです。
先日、飲食店でこんなことがありました。
そのお店に来たばかりの姉妹が、席に座るなり座る場所を巡って「そこがいい」といったケンカまではいかないけれど、ちょっとして言い合いになりました。
それを見たその父親が、いきなり「あ、じゃあもう帰ろう」と言うのです。
実際にそれで帰ったわけではないですが、そういう子供が嫌がるであろうことを、子供を思い通りにする手段としてもちいています。
「お店でケンカしたら困ります」
「そんなことで言い争いをしていたら、私は嫌な気分になります」
などの事実を伝えて子供に考えさせるか、放っておいて子供たちがどうするかを干渉せずに見守っておければいいのですが、子供の一挙手一投足に干渉したくなってしまうのが日本の子育ての特徴です。
子供は、こうした子育ての中で受けるモラルハラスメントゆえに、別の問題を大きくしていってしまいます。
その端的なものが、他者に「いじめ」をしたくなる心理が形成されてしまうことです。
モラルハラスメントを受けると、別の誰かにモラルハラスメントをせずにはいられなくなってしまったり、他者との関わりが怖くなったり、対人関係のなかで不適切な関わりを覚えてしまうことがあります。
子育てする大人が、規範に過剰に流されてしまうとかえって子育ての問題が大きくなってしまいます。だからそれを避けるようにしておいたほうがいいでしょう。
規範というのは、大人が子供に刷り込むように教え込まずとも、子供は周囲の大人の行動を見て自然自然と身につけていくものです。
しかし、それこそ否定をたくさん積み重ねられたり、自尊心を傷つけられたり、過剰な支配を受けて育ってくると、かえって規範は理解していたとしてもそれを出すだけの心の余裕がなくなってしまい、よけいにネガティブな行動の多い子供となりかねません。
子育てするのに、子供へのモラルハラスメントをする必要はないのです。
まじめだったり、きっちりしていたり、自身が規範を守ることを厳しく要求されて育ったなどの人は、すこしいろんな子供への要求のハードルを下げておくといいでしょう。
g,支配の子育て
これは子育てそのものが、子供を支配することが目的になってしまっているものです。
上記のモラハラ子育てともかぶります。
ケースにもよりますが、あまりその境目は明確ではありません。
特にその当事者自身にとっては、「これは子供のために正しいことなのだ」と自己正当化が常になされますので、当事者本人が自覚することはまれです。
モラハラ子育てが、まだ一応は正しい(とされる)目的のために行われるのに対して、こちらはいつのまにか支配自体が目的化してしまっているので、理不尽であったり、矛盾する要求が多くなったりします。
こうした状況におかれると、子供は大きな精神的ストレスを日々溜め込むことになり、明らかな問題行動などを引き起こしやすくなります。
ただし、その支配の子育てをしている当事者から見ると、「この子は問題行動を起こすのだから、自分がより強く支配をしなければ」という理屈が成り立つので、そこを自覚し安定化に進むことが難しくなりがちです。
しつけの子育て ⇔ モラハラ子育て ⇔ 支配の子育て
これらは、なにかはっきりした境目があるわけでなく、まじめに一生懸命子育てに取り組んでいただけなのに、いつのまにか子供にモラハラをすることが日常化してしまったり、いつの間にか子供が自分の重い通りに動かないことに対して大変強い怒りを覚え支配の子育てになってしまったりということが起こり得ます。
子育て = しつけ(規範)
ではないのです。
では、子育ての基礎はなんなのか?というのは、すでにこのブログや拙著のなかで述べているように受容と肯定です。
しかし、この受容と肯定の子育てというものを、実際に見ていたり、経験として知っている人が必ずしも多くないために、単なるいいなりになってしまったり、過剰な依存状態を引き起こしてしまうという現実面の問題もあります。
そうしたところについても、すでにこのブログの中では繰り返し述べられています。
| 2019-07-03 | 日本の子育て文化 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
しつけと子育て vol.2 - 2019.06.18 Tue
しばしば、一生懸命過ぎる子育てがこの状況に行き着かせてしまいます。
講演の中では、箸の持ち方の習得のエピソードで少し触れたのですが、こうした子育ての先入観はなかなか気づけないところがありますので、ここでさらに掘り下げていきます。
規範のすり込みになる子育てとは、いわゆる一般に言われる「しつけ」がまさにそれです。
「しつけ」=規範
これらは、「正しいこと」として人々に理解されていますので、人によっては歯止めのきかない過剰さともなります。
そして、この過剰さは一旦生み出されると、悪循環によりどんどんエスカレートしていってしまいます。
正直なところ、僕はそれによる子育ての問題をたくさん見てきました。
あとからでも修正が効かないわけではありませんが、子育てメッセにくるような小さいお子さんをお持ちの家庭の方には、できれば今の段階でその方向にはまらないようにして欲しいという願いがあります。
<規範のすり込み子育ての弊害>
a,注意、ダメ出し、怒る、叱るの増加
さらにこれらが引き起こす、自己肯定の低下、自尊感情の低下、意欲の低下、自信の低下。
b,大人の持つ負の感情のかもしだす否定の雰囲気
「できる姿」を子育てする大人が目指してしまうことで、結果的に子供のできない部分ばかりが大人の目につくように。すると、それを受けて大人の気持ちがイライラしたものや、落胆したものに。
これは、側にいる子供からすると、自分のことが肯定されていない雰囲気としてことあるごとに感じるようになり、それが子供の情緒の安定を低下させ、ネガティブな行動の増加の引き金となることがある。
c,過保護
大人が「できる」に注目しすぎるために、過保護になり手を貸しすぎたり、「失敗させられない」心理から経験を奪ってしまう。それにより子供自身の「できなさ」が進行するが、その大人のメンタルからすると「できないのだから私が手を貸さなければ」が加速され、悪循環になる。
d,過干渉
「正しい行動」「できること」が目的になってしまうので、子供自身の自発的な行動がでるのを待てなくなり、過干渉が起こる。
過干渉を重ねていけば、その一見大人の目からはそつなく行動しているようにも見えるが、逆に言えば大人に干渉してもらわないと行動できない子に育ってしまう。
また、子供は過干渉されることのストレスからネガティブな行動が増える場合も。
例:「あいさつしなさい」「貸してっていいなさい」「貸してあげなさい」「こういうときはこうしなさい」といった関わりなど。
↑ここまでは起こったとしても、程度の問題で多少のことであればさほどでもないもの。(過剰であれば大きな問題となることも)
大きな問題へと直結するのが、以下のもの。
子育てに一生懸命なあまり、子供に規範を刷り込むことが大切なのだと強くとらえ子育てがこうした傾向をもってしまうと、子供にとっても親にとっても子育てがいいものでなくなってしまいかねません。
ここにだけはおちいらないようにして欲しいと思います。
f,モラハラ子育て
g,支配の子育て
つづく。
| 2019-06-18 | 日本の子育て文化 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
しつけと子育て vol.1 - 2019.06.17 Mon
子育てをシンプルにするために、「できる子やちゃんときちんとした子ではなく、かわいい子を目指しましょう」というお話をしました。
メッセの講演ということで当日来られる方もいるので、あまりネガティブなことに触れないようにお伝えしました。
講演の後、ホールの入り口で1時間くらい、いろんな方の相談を受ける形で皆さんにお伝えする講演の第二部みたいな形になったのです。
その悩みを受けていて、もう少し突っ込んだ話をしてもよかったかなと感じましたので、少しここで掘り下げておこうかと思います。
子育ての悩みは、個々に違うので一概には言えません。
しかし、子育てメッセに来てさらには講演まで聴こうという人は、そのほとんどの方が子育てに一生懸命な方であることでしょう。
すると、子育てに一生懸命さゆえの問題に直面しやすい傾向があります。
<子育て上の傾向>
・過干渉
・過保護
・依存
・過剰なしつけ行為
<子育てする大人の持つ傾向>
・不安、心配の大きさ
・まじめさ
・自己否定
・自己犠牲
たとえば、こういったものが強くなります。
相談の中でいくつかでていたのが、過剰なしつけ行為による子育ての諸処の問題です。
大人の持つ規範意識 → しつけによる子供への否定・干渉 → 子供の反発やそこからの反動 → その姿に対する大人からの直接的否定。同時に大人のイライラなどのネガティブな心境が子供に与える目に見えない否定 → 肯定不足から来るネガティブな子供の姿 → (以下ループ)
子育ては常にバランスなので、こうした関わりをしたからといってそれが即、子育ての破綻ということになるわけではありません。
それの程度次第で、一生続くほどの問題になることもあれば、一時的なもので終わること、バランスがとれて結果オーライになるものなど、それぞれです。
ただ、この子育ての枠組みの中でいると、そうした難しさとは常に隣り合わせとなりかねません。(さらには、大人の側の問題が過剰に投影される可能性がある)
そこで、この枠組みから少しでも距離が置けるようにというのが、この講演のテーマであった「子育ての方向はかわいい子を目指すこと」ということです。
「できる子」「ちゃんと、きちんと、しっかり」「よい子」「正しい子」を目指すのではなく、ただかわいがったり肯定の関わりをすることで、人を信頼できる子供にしていけばいい。人を信頼できるようになれば、規範意識は子供が自然と信頼関係を通じて習得する。
「かわいい子を目指す」というのは、「親であるあなたが頑張って努力してかわいがりなさい」という意味ではない。親自身もムリをしたり、我慢を重ねる方向で子育てを考えるのではなく、むしろ素の自分を出したり、ポジティブな感情もネガティブな感情も出すことでムリのないところを模索していく。というのがこの講演の骨子でした。
◆
しかし、この規範をゆるめるのが難しいことでしょう。
・社会的なプレッシャー(いわゆる周囲の目線)
・自身が要求されてきた既得の価値観になってしまっていること
・価値観のみならず、強く感情に入り込んでいるので、子供が規範に沿った姿を出さないことにより、コントロールしきれない怒りやイライラなどの感情のうねりがあること
・不安、心配から「いま持たせなければならないのでは」といった強迫的な気持ちが強くなること
日本の子育て観では、こうした「規範の習得」に大変重きを置く形になっているので、ここからくる弊害にブレーキをかける機能がないとそのまま難しい状況が悪循環を生み、それがさらにさまざまな難しさを呼び込んでしまいます。
程度の問題だから、「そういうときはこう関わっていくといいんだよ」といった、否定でないアプローチを知ることでブレーキになりバランスが取れる人もいることでしょう。
会場では、肯定で積み重ねていくアプローチをいろんな例を取ってお伝えしました。
それで済む人はいいのですが、その程度が重い人はおそらくそれでは解決しないことでしょう。
今回の講演は、会の性質上そこまで踏み込みませんでした。
ここでは、いま少し深くみていきましょう。
つづく。
| 2019-06-17 | 日本の子育て文化 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
自己犠牲より自己実現 - 2019.04.08 Mon
「いつもすまねえな、オレのせいでお前には苦労かけっぱなしで」
「なにいっているのおとっつぁん。それは言わない約束でしょ」
というまさにステレオタイプのやつ。
ここにあるのは、自己犠牲をして誰かに献身することを美徳とする感覚。
ドラマや小説で描かれる分には、美談で済むのだが現実はそう簡単にいかない。
一方、現代で高福祉国と呼ばれる国の高齢者介護などを見ると、実にカラッとしている。それは自己犠牲を解決策としていないから。
特定の個人で行わざるを得なければ自己犠牲になるしかないところ。それを美徳として誰かを精神的にそこに縛りつけることを答えとせずに、負担になることがわかりきっているのだから、社会で分担していこうという方向に思考を切り替えてきたから。
この自己犠牲による介護の問題は現代の日本でもあって、例えばそのひとつが老人ホームに入所させることを子供の方が申し訳なく負い目に感じてしまうもの。
その人にはその人の生活があり、そこに預けるのもやむを得ないことであるのだが、こういった感覚が預けた後もずっとその人を苦しめてしまう。
「あなたも自己実現。私も自己実現」でいいはずなのだが、日本ではいまだに、
「あなたの自己実現のために、私が自己犠牲」
となりがち。
子育てでもこの「あなたの自己実現のために、私が自己犠牲」が起こるのだが、必ずしもこれがうまくいくものばかりではなく、思わしくない状況を生むこともある。
なぜなら、この「あなたの自己実現のために、私が自己犠牲」にはある種の不健全さがある。
というのも、人間は自己犠牲一辺倒で生きていけるわけではないから。
特に、相手が我が子ともなるとさらに難しくなる。
まず、我が子を相手に自己犠牲のみということはありえないだろう。
それは自然自然と見返りを求めたくなるから。
例えば、子供の大学受験に入れ込む親で考えてみよう。
その親にして見れば、第一には子供の将来のためといった理由がつくだろう。
それに向けて自己犠牲を重ねていくと、その見返りは「子供が私の納得いく学校に受かること」となる。
これが即その親子をなにか難しい状況にしてしまうとは限らないけれども、そこにはある種の不健全さが見て取れる。
それは、その親が「子供を使って自分自身の自己実現をしている」こと。
その結果が子供も万事ハッピーであるならば、結果オーライ。
しかし、本当は他にやりたいことや行きたい学校があったのに、それを親の期待を壊さないために言い出せなかったといったことがあれば、これは不健全。場合によっては病みを生む。
ここにはこういう構造がある。
「自己犠牲は美徳」といった感覚が、いつのまにか「子供を搾取して満足を得るねじれた自己実現」を作り出す構造。
しかもこれは連鎖を生む。
自分自身がそう育てられた人が、我が子にも同じことをしてしまうケースは多い。
時代の変化もあり、それはそう簡単に思い通りにはいかない。
すると、子供は親のそのねじれゆえに苦しむ。
子供は、「親であるあなたの問題と、これまでの関わりゆえに私は病んでいます」とは言わない。
別の形で表現することになる。
そういった子が、不登校になったり、いじめの加害者、被害者になることもある。
そういった状況に当たってその親も苦しんでも、なかなかそこに自分の問題があることは見えない。
「子供の問題」と見えてしまう。
すると、子供は「こんなに苦しみながらあなたのためのSOSを出しているのに、気づいてもらえない」という落胆が重なる。
僕がここで伝えたいのは、「親も自分の人生をまずは生きよう」ということ。
自己実現を目指している親の姿を見て、子供は自分の人生を切り開いていく力をつける。
子供に必要なのは、親にお手伝いをしてもらって立派な人生に近づくことではない。
まずは親自身も自己実現するものを持つ。
これは現代の子育てで、あまり目には見えないのだけどとても重要なことだと思う。
ここでいう自己実現とは、なにも立派なものである必要はない。
仕事などでもいいけれど、もっと些細な趣味とかスタイルとか、余暇の過ごし方とかなんでもいい。自分の好きなものごと、または自己表現など。
子供は親が自己実現をしていると、そこに安心を感じる。
「ああ、私の親は自分の人生を歩んでいるんだな」と。
しかし、実はこの問題は今に始まったものではない。
すでに子の親になっている人の中に、この親に搾取される立場で育ってきてこれまでの人生を積み重ねてきている人も少なくない。
そういった人の中には、「え、自己実現ってなんだろう。この歳まで親の期待に応えることしかしてこなかったので、そんなこと考えたこともなかった」という人もいる。
それらは個々の問題になるのでここでは書き切れないが、少なくとも「子供を使って自己実現をするのはなんだかうまいこといかないらしいな」というのだけでも覚えておいて欲しい。
「あなたも自己実現。私も自己実現」
これがこれからの時代の人のあり方なのだと思う。
| 2019-04-08 | 日本の子育て文化 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
子育ての前にあるもの vol.2 ~自分の人生を生きること~ - 2019.03.21 Thu
3月14日に上げたこちらの記事をタイトルを変えてvol.1としました。(元のタイトルは『自己受容と自己肯定 ~子育ての前にあるもの~』)
子育て以前にあり、それが子育てに大きな影響を与えていることがあります。
しかし、場合によってはその当事者にそれは見えません。
すると、「子供の問題」としてその人には見えます。
もし、それが子供の問題ではなく、自分自身の問題だとしたら・・・・・・。
そういった気づきになるよう、それに関連することを『子育ての前にあるもの』としてまとめていこうと思い、このタイトルでシリーズ化します。
今回のテーマは「自分の人生を生きること」です。
子育てをしている親の世代がすでに持っている問題が、
・過保護、過干渉に育てられていること
・過度の期待を受けて育てられていること
・進路に対する親の干渉を受けていること
・周囲からの評価で自己を規定する自己認識を持っていること(他者の顔色が気になる)
などがあります。
これらの傾向が強い人が、いざ我が子の子育てという段階になると子育ては大変難しいものとなることがあります。
・我が子が思い通りにならないこと。子育てが思う通りにならないこと
→ 不安や自己否定、怒りに直結する
・子育てや子供の成長に不安、心配が強くなる
・子供の自立が不安要素になってしまう
→ 無意識に過保護になり自立を束縛してしまう
・短期的な結果を子供に持たせたくなる気持ちの強さ
例:勉強の成績や習い事の成果など、おむつやお箸を使わせることなどの目に見える到達点。子供の行事における出来不出来など。
・漠然とした不安や焦燥感から、些細なことが大きく気になる
→表面的な悩みとしては些細なことなので、周囲の人に理解してもらえない。
→本当はその背景に原因があるのだが、終始些細なことが気になるという出し方になっているので問題解決につながらない
こういったあり方。
自分の人生を生きていないこと。逆に言うと、これまで親のためのに自分の人生を費やしてきてしまったがゆえの問題と言えます。
この問題は大変根深いです。
その年月はほぼ自分の年齢分積み重ねられているからです。
(ある時点で親の束縛から逃れ、いろんな意味で自立した人はそれまでの年月分)
自身の親が自身のためにしてきたことを素直に受け取り、さまざまな干渉も自分のために親がしてくれているのだと認識し、それを許容して来た人。
特にそうした子供への干渉があっけらかんとしたものではなく、その親自身がエゴで出していた傾向の強い場合、その影響はさらに大きくなります。
(例:子供をブランド品のようにする親からの束縛)
そういった親からの期待や干渉が強い人生であっても、社会生活まではそれなりに無難にいきます。(人によってはその時点で難しいこともある)
しかし、子育てはなかなか難しいです。
実際の出方は人の数だけありますが、傾向としてはふたつに分かれます。
・自身がされたように束縛の多い子育てをして難しさに直面するもの
・自身がされた関わりをしないようにと思うが、どうすればよいかがわからず不安、自己否定が強まってしまうもの
こういった状況になると当事者は視野が狭まってしまいます。
・子供が思い通りにならない
・子育てが思い通りにならない
と見えてしまいます。
そこで大いに悩んで、自己否定をしたり、子供の否定になったりしてしまうのですが、実はこの子供の問題は原因の大元ではないかもしれません。
・直接関わっていないように見えて、それまでの自分の生育歴、思春期、青年期と人生を送ってきた中で自分の人生を自分で決定してやりたいことをして生きてきたのか?
・意識、無意識に親の望む自分を想定してそれに合わせるように生きてきていないのか?
・親が他者からの評価を気にする人で、自身もそれを負わされて、他者からの評価ばかりを気にして生きてきてはいないか?
こういったネックを抱えていると、子育ては何倍も大変になってしまいます。
完全に解決しなくとも、その問題に振り回されないようになるだけでも子育ての安定に近づけます。
子育ての前にあるもの vol.1 ~自己受容と自己肯定~
こちらの記事で、「自分を甘やかしましょう」と書きましたね。
これは、小さなできることからでいいので、自分の人生を歩んでみる練習のことです。
「おいしそうと思ったものを買って、それを罪悪感なしにむしろ楽しみながら食べる」
こんな些細なこと。
他者がどう思うかとか、健康のためなどの規範意識抜きに、自分のしたいなと感覚的に思うことをそのままする。
自分のできる範囲のことから、自己決定をして自分の人生を歩むようにしていきます。
そういう積み重ねが、子育てを、そして子供の心をラクにし安定させてくれることにつながります。
このことは、お子さんが小さくても大きくても同様です。
中学生であっても、高校生であっても、成人していても、自身の親が自分の人生を歩んでいない状態にあると、子供はそれゆえに苦しんだり、悩んだり(表面的には違う理由がつくが)します。
子育ての前にあるもののひとつ、それは自分の人生を生きることなのです。
| 2019-03-21 | 日本の子育て文化 | Comment : 16 | トラックバック : 0 |
子育ての前にあるもの vol.1 ~自己受容と自己肯定~ - 2019.03.14 Thu
座談会なのでいろいろなお話になるのだけど、親自身の自己受容と自己肯定にからむお話を多くしたように思います。
実は、子育て以前のところで子育ての難しくなる原因を抱えている人が多くいます。
それが、自己受容と自己肯定の難しさの問題です。
なぜそれが難しいかというと、自身の生育歴の中で肯定されることが少なく否定されることが多い経験を送ったことや、あからさまな否定はされなくとも過保護や過干渉の結果、自己決定や自己表現を奪われてきた人でもこの状況になる場合もあります。
(例えば、「あなたはこれが似合うからこういう服を着なさい」と親の嗜好を押しつけられて自己決定、自己表現が奪われるなど。そのときは押しつけられている自覚がないことも)
◆「○○しましょう」はライトケースの解決法
こういったことは子育てに直接具体的な問題として見えているわけではありませんが、じわじわと子育てを大変なものにすることがあります。
例えば、子供の自信のなさや、素直な気持ちの出せなさ、依存やゴネの多さなどの間接的な要因となります。
そういうケースでは、「子供に○○しましょう」という親へのアプローチは必ずしも功を奏しません。
○○してうまくいく場合はいいのですが、そうでない場合、そのうまくいかないという結果により「自分が悪い」「自分がダメだ」という自己否定として返ってきてしまい、よりその大人自身の自己受容と自己肯定を下げてしまうことになるからです。
すると悪循環になってしまいます。
◆自分を甘やかす
子育てに影響を与えるほど自己受容や自己肯定にネックを抱えている人は、ある種の呪縛がかかっていることが多いです。
・正しい自分でいなければならない
・強い自分でいなければならない
・自分はできない人間である
・「○○はよくないこと」「○○すべき」などの規範意識の強さ
など。
こういった自身の内面的なものが強いと、「子育てそのもの」をいくら頑張ってもなかなか思わしい状態になりません。
なぜなら、その頑張りの大元にあるのは、自己否定だからです。
「私はダメだからもっと頑張らなければ」
「私はできないからもっと頑張らなければ」
「私は弱いからもっと頑張らなければ」
この頑張りは、前向きな頑張るではなく、自己否定からスタートしている後ろ向きの頑張るなので、自分自身も消耗させ、周囲の人間、子育てされている子供にも不安な気持ちを感じてしまいます。
こういったスタンスから頑張ってしまっている人は、子供に対して「かわいそう」「申し訳ない」といった負い目の心理で子育てしがちです。
これは、子供の心に依存を大きくし自立をはばんでしまうことにもつながるので、その面からも子育ての大変さが増してしまいます。
ですので、こういった状況にある人がまず取り組むことは、自分を甘やかすこと、自分を許容すること、ラクをすること、くつろぐこと、頑張らないことなどになります。
座談会で話したのは、なにか「食べたいなおいしそうだな~」というものがお店で売られていたら、そこで自分を抑制しないで、思い切って買って食べてしまおうということでした。
そんなお話をしたら、「私はチロルチョコも買えないです」という声がありました。
自分にムリをさせてあとで自責の念が強くなってもいけませんので、まずはちょっとずつできるところから自分を甘やかすことを始めるといいでしょう。(チロルチョコより低いハードルを探すのはなかなか大変かもしれませんが)
この自分を甘やかすことが自己受容につながり、この自己受容が少しずつ増えていくことで、子供の情緒の安定や、子供のささいなネガティブな所すら気にかけずにはいられないというところが緩和されていくことにつながります。
いますでに、自分を十分に甘やかしている、たくさんラクをしていると言う人もいるかもしれません。
それを自責の念や罪悪感なしにできているのであればいいです。
でも、ラクをしつつも
「こんな私ではよくないのではないか」
「これは子供を大事にしていない行為なのではないか」
「私は誰々と比べてダメなのではないか」
そういった気持ちを持ちながらでしたら、それは、
甘やかす=自己肯定につながる自己受容
ではなくなっていますので、ムリのないところからあっけらかんとできることを見つけてみましょう。
こういった傾向に該当する、特に女性の方は「良い母親像」的な呪縛からは距離をとるようにした方がいいです。
これは非常に大きな呪縛になっています。
それゆえに世代間ギャップがある自身の母親と自分を比べて、「自分の母親はあんな風にできていたのに自分はできない」という思考も避けることを意識しておきましょう。
親の世代と今の世代では、ほんの一世代の差なのに置かれている状況がとても大きく変わっています。親ができたことができなかったとしてもそれは当然なのです。そして、もっと言えば親の世代がしていたことが必ずしも正しかったわけでも、良い子育てだったわけでもありません。
「あるべき正しい子育て」よりも、「ムリのない子育て」をまずは目指していきましょう。
| 2019-03-14 | 日本の子育て文化 | Comment : 14 | トラックバック : 0 |
モラハラ子育ての逃避から依存へ - 2019.03.12 Tue
男性にも同様のケースはあるのですが、女性に多く顕著に現れるのでここでは女性の例をモデルケースとして見ていきます。
◆幼少期
・モラハラ傾向を持った父親からの支配と束縛。
・父親の言動、態度におびえる子供時代。
・母親も父親からのモラハラ被害にあっているが、父の問題の現状維持に加担したり、母親が受ける父からの抑圧のはけ口を子供に向けるなどで、母子が信頼し合える共同体になりきれない。
例:「あなたがお父さんを怒らせるからでしょ」
:母が父にモラハラされると、その次に母は自分をしつけや勉強にかこつけて責めてくる
・このとき母親が父親に対抗し、子供の側に立てる人の場合子供の受けるネガティブな影響は軽減する。しかし、それであってすら父親のモラハラの影響は大きい
・モラハラ体質は、子供を自分の思う通りにしようという気持ちが強いので、教育熱心になることがしばしばある。勉強を理由とした抑圧に発展する
◆思春期
・自己表現、自己決定を親に普段から奪われる
・価値観を押しつけられるので、自分の得た趣味や嗜好に否定をされる
例:音楽、ファッション、食べ物
・親の期待に応えるために熱心に勉強に取り組み、親の肯定をもらうべく努力する
・親からの支配の抑圧を、何かへの逃避をして現状の維持を図る
例:ゲーム、読書、趣味、オタク化
◆学生時代、社会人
・親の束縛から逃れるため、留学や、その地域から離れることを考え実行する
・実家から離れられないケースでは、門限や交友関係等での束縛。また服装や髪型などへの束縛もめずらしくない
・親による支配の結果、学力は向上しているので大学、就職などは安定することもある。その結果、人生の中で比較的平穏な時期になる場合も
・自己肯定や自尊感情の問題から、対人関係に悩む場合もある
・支配の反動による、承認欲求、肯定への飢えを、周囲の人間関係や恋人関係にだし、そこでの難しさに直面する場合も
◆結婚、子育て
・その前段階が比較的安定してる人も多いが、自身の子育てが発生することにより、幼少期の自身の問題に直面せざるを得なくなる
・子供との関わりのわからなさ、子供との距離感の難しさ
・自身の望む行動に子供が従わないときの強い感情の動き
・子供のいる生活における、自身の感情の抑制のきかなさ
・子供に向き合うことのしんどさと、それに対する自責の念
・「子供がかわいそう」という表向きの理由でなされる自己憐憫から抜けられない辛さ
◆パートナーにより大きく様相が変わる
a,父親と同様のモラハラ傾向
b,親からもらえなかった基礎的な肯定をも自分に対してしてくれる包容力のある人である場合
c,その両者の間、もしくはどちらでもない
・a,であれば結婚生活だけでも困難な状態となりかねない
・b,パートナーに受け止めてもらえることで、人生を立て直す契機となる可能性。だが、必ずしもそれだけで問題解決というわけではない
・c,結婚生活だけであれば現状維持が可能でも、子供が生まれた後に困難が大きくなる場合がある
当たり前ですが、必ずこうなるという話ではありませんよ。
あくまで、こういったケースがあるというお話です。
さて、この記事のテーマを『モラハラ子育ての逃避から依存へ』としたのは次の部分からです。
仕事をし、子育てをする中でもムリが少なく自己実現できれば、その人は安定しやすくなります。
また、夫婦関係の中でも互いに必要とし合い尊重し合う中で関係を継続できることも自身の安定に寄与します。
しかし、幼少期からのモラハラをされた経験があると、子育てはハードモードになり易くなります。
その中で、子供に関わることを避け仕事へと逃避する人もいるでしょう。自分の親がしたように、我が子への厳しい関わりや、教育への熱心さを踏襲することもあるでしょう。それが円満にうまくいけば問題ないかも知れませんが、思い通りにいかない場合それはその人のアイデンティティの危機となってしまいます。
実際には、子供も一人の人格なので親の思い通りにしようとする関わりは、それが強ければ強いほど齟齬の出るものです。
幼少期からモラハラをされることで被モラハラ体質とともに、自尊感情の低下や自己肯定感の低さ、またはそこから派生した結果の対人関係の苦手さ、こういったものが生きづらさとして大きくなった場合、その人は大きな自己承認を必要とするようになります。
それ自体が悪いわけではありません。
しかし、この状態にあって自己承認をするのはなかなか簡単ではありません。
◆依存でバランスをとる現代の親の現実
僕が今のような子育てする人の相談を受けるようになる前の、ただの保育士だったときから、何かへの依存に走る保護者をたくさん見てきました。
・週末になると子供を置いてアイドルの追っかけに行ってしまう人。
・実際は子供は喜んでおらず負担になっているのに、「子供が行きたがるんです」といいつつ、某遊園地に毎週のように通わずにはいられない人。
・たびたび、自分の趣味に子供を付き合わせ子供を放置してしまう人。
僕はこれを「今時の親はけしからん」という意味で言っているのではありません。
ここにあるのは、何かに依存しなければ自分自身を維持できない状況を持たされている人がたくさんいるという現実です。
この人達は、自分の趣味や好むものへの依存をすることでなんとか日々の自分を保って生きています。
この状態を、「親として愛情が足りない」とか「親として未熟だ」「ちゃんとした家庭でない」と否定する人は多いですが、それはなんの解決にもなりません。
こうした状況は、いわゆるアダルトチルドレンといわれる問題のひとつと考えられます。
素の自分の状態では自己承認、自己肯定をすることにネックを抱えており、なにかへの依存があって始めてそのバランスがとれています。
これをひもとくと、その人の幼少期のあり方に根っこがあることが少なくありません。
(今回の記事では、それの強いケースとして特にモラハラ支配の子育てをあげていますが、モラハラまでいかずとも強い過干渉の子育てによる自己表現、自己決定を奪われ続けることでもこうした問題を持たせることができます。ですので、今の子育てをしている親の世代の多くにこうした傾向があってもおかしくありません)
このような何かへの依存で自身のバランスを保たなければならない状況が、特に小さな子の子育てに向き合う段階で強く出てくる傾向があります。
この問題は、「親なのに○○しているのがけしからん」ではなく、その親自身も自己肯定や自己承認にネックを抱えており、子育てというしんどい仕事を任される中でそれがより大変になる状況に直面しているということです。
ですので、そこをサポートする存在が必要になります。
孤立や不安の大きい状況は、それに拍車をかけてしまうので、孤立を防ぐというのも重要なことです。
もし、ムリのない人間関係の中で、その人自身自己肯定や自己承認ができていれば、そういった依存の問題は小さくすることができるでしょう。生活や子育てに影響のある耽溺(たんでき)といったレベルから、普通の趣味といったレベルまで。
しかし、現状では子供の姿を親の責任をととらえる傾向が社会全体に強く、このような子育てする人の当事者性に立った援助がなかなかなされていないのが現実です。
さて、それこそ自身がモラハラ支配による子育てを受け続けてきたというレベルの人の場合、こうした自己承認、自己肯定の問題は子育てを機に大変強いものとして直面することになります。
そういった状況に、子育てを取り巻くカルト問題の指摘であげたような
「私たちが正しい。周りが間違っている」
「他の人が知らない真実を教えます」
「○○のためには絶対に△△が必要だ」
こうした、依存を呼び込む強い言葉で自己の承認欲求を満たすものが提示されると、その理屈のおかしな点などがあっても、自己承認への強力な肯定の魅力により流されやすくなります。
ある意味では、子育てを契機に自身の人生の蓄積された生きづらさがでてくる人は、他者を支配したい人にとって「ちょろい」位置にいるのです。
しかし、僕のような立場にいる人間にとっては、そういったものに依存をせずにはいられない人から、それを奪うということもあまり好んでできることでもありません。
その人にとっては、それが依存であることをうすうすは感じ取っていたとしてすら、そうしなければ生きづらさに飲み込まれてしまうのかもしれないからです。
ただ、そうした依存が自身の問題だけで完結すればいいのだけど、子供の大きな不利益や、経済的な搾取として現実に影響を及ぼすこともあるので、あまり看過もできないというジレンマがあります。
本当は、他者の援助により子育てにおける孤立を防ぎ、もし家庭内、夫婦間のモラハラの問題などがあるのであればそれを解決し、自身の生育歴上の問題を少しづつでも乗り越えつつ、子育てと自身の人生での自己実現ができるところへと向けていくことのできる社会を準備することが必要なのだと思います。
子育てにおいて自己実現できる状態。
もし、これに向かって少しでも歩んでいけるようになれば、それはその人にとっての大きな自己肯定となる可能性を秘めていると僕は考えています。
なぜなら、子供は常に親を肯定しようとしている存在だからです。
子育てにムリがなくなると、子供と自身の関係の中で互いの肯定が行えるようになります。
この状況は、自身の子育てにネックのある人にとって、ひとつの新たなる道筋となるのではないでしょうか。
その意味では、自身の親との関係性で悩んだ人ほど、我が子との関係性の安定化がそれの解決の鍵となるのかもしれません。
そんなこんながあって、僕は保育士の研修の中でも今後は「子育て支援」「親の支援」に力を入れたいと思っています。
保育の仕事は、単なる子育てのお手伝いだけでなく、今を生きる人の人生の助けになる可能性を秘めた仕事だと思います。
| 2019-03-12 | 日本の子育て文化 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
【リンク】モラハラ夫が、日本の夫婦を破綻させる <モラ夫バスターな日々(1)> - 2019.03.06 Wed
モラハラ夫が、日本の夫婦を破綻させる <モラ夫バスターな日々(1)>
人生とはつくづく不思議なものだなと思います。
僕は、子育てや保育を深めようと尽くしてきて、いま向き合っているのは女性の格差の問題やモラハラ男性の問題です。
この大貫弁護士は、法律の世界を歩んできていま向き合っているのは女性の格差の問題であり、モラハラ男性の問題です。
歩んできた道は違うはずなのに、それがたまたま交差したところで出会っています。そして、そこで多くの人が歩きづらくて困っている瓦礫(がれき)を一緒にどかしています。互いに一面識もありませんが。
法の世界のシンボルであるひまわりや天秤が指し示すものは「公正さ」です。
そこに公正さがないとき、法の世界に生きる人は、法を使って公正さを取り戻そうと尽力してくれます。
弁護士というと高給取りといった華々しいイメージを持つ人もいるかもしれませんが、社会的弱者の力になるべく本当に草の根から尽力して下さっている方が大勢います。
もちろん、それは弁護士に限りません。
医師や教員、福祉関係者、ソーシャルワーカーなどなど、そういった人たちも社会的公正さを取り戻すべくその職業上の領域で活動しています。そういった職の人でなくとも、公正さを取り戻すべく個人として社会のために尽力している人も多数います。
◆
さて、話を戻しましょう。
僕は、子育てと保育に関わって生きてきました。
なのに、いま向き合って憂慮しているのは女性の格差問題や地位の問題、モラハラ男性の問題です。カルトの問題もこれらと無関係ではありません。
なぜ、そうなったかと言えばそれはある種の必然で、子育てや保育の問題を突きつめていくと、それらが根っこに大きく横たわっているからです。
これらの問題を放置して、子育てや保育だけが良くなるということはありえないことに気づいています。
この大貫弁護士の述べるように、日本にモラハラ男性はとても多いです。
結果的に離婚する家庭も増えるでしょう。
しかし、社会には離婚家庭、一人親家庭、特に母子家庭を差別する人や文化があります。
男性のモラハラが多くて離婚せざるを得ない女性がたくさんいるのに、なぜ責められるのが女性なのか?
ここには不公正さがありますね。
こういった現状に発展的批判を加える時期を経て、より公正なあり方を模索する時代を迎えなければならないでしょう。
しかし、そういったものは既存の文化的な体系とあいまって構成されているので、これを変えていくのは容易ではありません。
いろんなところ、それこそ企業体質や学校の体質、地域社会の体質などと絡み合い強固に守られています。
◆
僕は仕事柄多くの子育ての悩みに触れます。
全てがではありませんが、その少なからずにモラハラ男性の問題が隠れています。
直接に子供の父親がモラハラ男性でなくとも、その父親の父親や祖父、母親の父親や祖父というところで、モラハラ男性の問題が存在します。
子供時代にモラハラ男性が身近にいると、男の子はモラハラ体質を引き継いだり、人格形成に影響を与えられやすくなります。
女の子は、自己肯定感の低さ、自尊感情の低さが強められてしまい、生きづらさの問題を持たされやすくなります。
「従順な女」という文化的型にはめ込まれていくためです。その過程で自己主張や自己決定を奪われやすく、意識的にも「自分が悪い」「自分の我慢が足りない」といった気持ちが形成され易くなります。これが強まると、被モラハラ体質に発展し、自立してからもモラハラされやすい状況におちいります。男の子であっても、モラハラをされ続けることでこちらの傾向になっていく子もいます。
こういった幼少期の問題は、人格形成に練り込まれてしまうので、簡単に理屈だけで解決しないことが多いです。
また、その解決には時間もかかるし、他者の理解やサポートも必要です。
ですから、個人の問題レベルで解決に尽くすことに加え、男性の文化的モラハラ体質の問題を是正していくことの両方が欠かせません。
◆
昨年、僕の身近な親族の年配男性が自死しました。
長年に渡るその妻と子への暴力とモラハラ。それに対する自責の念と、そういった自分への周囲からの理解のされなさに苦しんだ結果の自死です。
その人は、むしろとても優しい人でした。
しかし、その人の育った時代や、地域、家族のあり方によって、メンタルのあり方がモラハラ男性へと育て上げられてしまいました。
男性が、男性だからと言う理由で誰か他者の上に支配者として君臨できる状態というのは、実のところその男性にとっても不幸なことでしかありません。
誰かの支配者になっていなければ、自我が確立、維持できない状態だからです。
場合によっては、直接の子供だけでなく孫やその子にまで、負の影響を及ぼします。職場などでの対人関係にも問題をきたすでしょう。しかし、文化的に男性によるハラスメントが許容されている社会では、そういったメンタルの人であってもそのままに生きていけてしまえます。これは誰の幸福のためにもなりません。
モラハラ体質、モラハラ文化、これらを少しでもなくして次の世代にバトンタッチしたいというのが僕の願いです。
| 2019-03-06 | 日本の子育て文化 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
子育てのカルト化について vol.3 もっとも身近なカルト化 - 2019.03.01 Fri
子供たちの未来のためにもう少し書くべきことを書いてしまいましょう。
いろいろいただいたコメントの中で、「さん付けしないで名前を呼んでいることに違和感を感じた」というものがありました。
これをコメントしてくれた人が悪意なく言っているのはわかるのだけど、この意見、実は社会の中にカルトがすでに浸透してしまっていることの証明の最たるものと言えます。
◆エセマナーというカルト
社会のカルト化を取り巻くもののひとつに、エセマナーがあります。
「お辞儀ハンコ」
「ノック2回はトイレノック」
どれも、社会的、文化的な知識や経験を持っていれば、「バカバカしい」と気にも留めずに済むようなものです。
しかし、これらは「○○するのは良くないこと」という文脈となっており、真面目な人や気にしてしまう人にとっては、ある種の不安を覚えさせます。
(名前の画数が何画なのは縁起が悪いと誰かに言われるあの感覚と構造的に似ている)
そして日本人はこの手の同調圧力にとても弱く、真面目さも相まっておかしいと思いつつもそれに従ってしまったりもします。
もし、周りにそういったことを真に受けている人がいた場合、その人から非難されることもあり、そのようになるとそれは「ウソも突き通せば本当」という事態になっていきます。
このようなエセマナーは、なぜはびこるのでしょう。
ひとつには、マナー教室などの商売のためです。
禁忌を作り出すことで人を不安にし、そこに「私たちが真実を知っているので従いなさい」とばかりに現れてきます。
これは、まんまカルトの手法ですが、一見さほど害がないので社会的に通用してしまっています。
(大手マナー教室の中には、経営者が関連団体の役員になっていたり実際に日本会議とつながっているところもあります)
もうひとつは、支配に都合がいいからです。
「それはするな。こうしろ」というものを個人的な横暴さで出せば、その人は良く思われませんが、「マナーだから」という文脈で他者に求めていくことにより、自分は悪者にならず、他者を従順に支配していくことができます。
これにより、その組織や社会の中で支配構造が強化されていきます。
「お辞儀ハンコ」が当然のものとされている会社に所属しているとしたらさぞ窮屈だろうなと僕は思います。
「へりくだれ、へりくだれ」と無言の内に求められているわけです。
それはまるで、合法的な土下座の強要みたいなものです。
もしくは身分制度があるかのようです。
人権についての適切な認識を持っている人ならば、会社の役職といったものはあくまでその組織内のものであり、職務外や、直接職務命令の範囲内でなければ、人としての存在に上下はないという理解ができます。
しかし、誰かを自分の支配下に置きたい者にとっては、そのような理解は気に入らないことでしょう。
ハラスメントが横行する会社や、社員を不当に労働させるような会社においては、暗黙の内にへりくだりを要求するそういったエセマナーは支配のためにとても有用になっていきます。
◆マナー、モラルによる支配
「目上の者には従え、尊敬しろ、感謝しろ」
こういったマナーや道徳的なものも、支配には好都合です。
子供たちの学校において、二分の一成人式や親守詩(おやもりうた)などが親に感謝を強要することは、ここにつながっています。
いまもあるのかな。以前新宿に始業時に社員を店の外に並ばせて、大声で客への感謝を叫ばせる大手メガネ屋があったのだけど、これも誰かへの感謝というのを名目に支配に従順な人間を作るマインドコントロールの手法です。
◆「○○させていただいております」の異様さ
先日、僕はある説明会に説明を受ける側として参加しました。
その説明をする会社の人たちは、40代50代のおじさん達なのですが、敬語が崩壊しているのです。若い人が適切な敬語が使えず、一生懸命敬語を使おうとして変な日本語になっているのであればわからなくもありません。
そのおじさん達の敬語が崩壊しているというのは、敬語が使えないと言う意味ではなくて、へりくだり(謙譲)ばかりが多い異様な敬語(っぽいもの)だからです。
自分たちが作成して持ってきた資料なのに「23ページに書かせて頂いております○○をご覧になって頂いてもよろしいでしょうか」
なんなんだろうこの蛇にハムスターがプレゼンしているような日本語は。
「23ページに記載がございます○○の箇所をご覧下さい」丁寧に言うとしてもこの程度で十分なはずなのに。
「23ページを見て下さい」でも丁寧な表現としてなんら問題ありません。
昨今耳にすることの多くなった「○○させていただいております」、この表現もへりくだりを強要する言葉の使い方です。
このようないい方を暗黙の内に求めていくことで、上下の支配構造が強い人間関係が強化されていきます。
ちなみに、元々はやくざや暴走族などの社会で多用されていました。
近年これが広まったのは芸能界からかもしれません。
◆さんをつけろの構造
3.11の東日本大震災のときのことを覚えていますか。
あのときあまりの災害の大きさに動揺したり、不安や心配があったりしました。
しかし、なんだかそれ以外の部分でも異様な雰囲気がありました。
デマがたくさん流布したり、「○○は不謹慎だ」このような主張で、他者を責める人が非常に多く出てきました。
「不謹慎」を盾にとってそんなことにまでというものも多数ありました。
僕はこのときに、日本人はパンドラの箱を開けてしまったんだと感じます。
他者をモラハラで叩いたり、他者の頭を押さえつけることの快感を、多くの人が継続的に味わってしまいました。
モラルやマナーを用いて他者を攻撃する。攻撃するまでいかずとも、それを指摘することで、他者に対しての優越感や自己顕示欲を満たす感情を解放する。
これらは結果として、マナー論により人々の頭を押さえつけておくことを可能にしていきます。
上記のエセマナーや、へりくだりの強要と同じような他者の頭を押さえておくことにつながり、カルティックな支配構造を社会にもたらしていきます。
◆感覚の問題を、社会的問題のように錯覚させる危険性
コメント機能のあるサイトの記事などで、例えば「安倍が」などと安倍首相のことを標記したりすると、コメントには「一国の首相を呼び捨てにするなどけしからん」のような、コメントが山のようについているのを見ることがあります。
一方で、外国の俳優などの記事や、日本人でも野球選手の記事などでは、呼び捨てで書いていても、ただの一件も「さんをつけないのは不謹慎だ」などというコメントがつくことはありません。
このこと、以前道徳についての思考実験として提示した、マグロの解体ショーの構造と同じものがあります。
つまり、その人の感覚次第で恣意的に論理を融通しているという構造です。
(ちなみに、政治家を呼び捨てにしていい理由はかつての公民の授業を受けた人はわかるはずです)
この、論理性や合理性、科学的根拠に依拠するのではなく、根拠のないことや感覚によりものごとを判断していくのは、エセ科学やスピリチュアルなどでアプローチをするカルトと底流するものです。
感覚で恣意的に判断することを社会がたくさんもてあそんでいくと、一部の人の感覚で大きなものごとを判断することが社会的に容認されるようになってしまいます。
「障がいを持つ人は社会に有用でない、だから去勢が必要だ」
「生活保護には不正受給がある。だから生活保護はなくしてしまえ」
このようなことが。
モラルやマナー論がそんなものにまでなるわけないと思う人もいるかもしれません。
しかし、日本は第二次世界大戦に至るなかでそれを散々してきているのです。
例えば、「外来語は敵性語だから使うべきでない」
そう言われて多くのものが、英語などから急造された和製語に変わっていきました。有名なことなので多くの方がご存じでしょう。最初はなんの罰則があったわけでもありません。でも、人々が口々につぶし合い、あっという間に外来語はなくなりました。
これを言い出したのは軍隊や政府ではなく、なんと新聞社です。
障がいを持つ人へ強制不妊手術は、なんと戦時中どころか戦後に実際に行われた日本の施策です。
こういったマナー論によって人の頭を押さえつけることが、こんにち現実に起こっている最前線は、なんといっても辺野古でしょう。
そこに本当の正当性があれば、その必要性を論理的合理的に主張したり、対話で融和点を探るといったまっとうなアプローチをすればいいだけです。しかし、それができず無理筋の要求であることがわかっているものだから、反対する人たちを「交通の妨害をしている」などのマナー論を持って主張を押さえ込もうとしています。
(不当な身上調査や恫喝などそれ以外のもっと不適切なこともしていますが)
◆
個人の感覚によって誰かの頭を押さえつけていく行為は社会のカルト化を招く大変危険なものです。
たくさんの人が今からそれをしていくようになれば、私たちの子供が大人になる頃には立派な全体主義国家が出来上がっていることでしょう。
人々が批判的意見を口にできない世の中になれば、カルトも世に広められるし、民主主義も終わりにできます。
批判的意見を潰すのはそれに論理的に対抗するよりも、マナー論モラル論で頭を押さえつけ、それの同調者を呼んできてずっと繰り返すのがもっとも効率的です。
ネット上では、カルトを擁護する人たちがすでにそれをしているのをいくらでも見ることができますね。
ましてやカルトの擁護者でもない人が、「それはマナーとしていかがなものか」と言い出すようになれば、他者を押さえつけ支配したい人達は高笑いしながらほくそ笑むことでしょう。
すでに、カルト化の効果が社会に浸透していることの証だからです。
ベビーカーと電車に乗ることをマナー論で攻撃してくる人を思い出せば簡単にわかるかと思いますが、マナー論、モラル論は、マウンティングや他者支配をする際のもっとも手軽な方法です。
そしてそれは、カルト化のもっとも基礎的な手法です。
大人だけでなく、すでにいま道徳の教科化によって子供たちが小中学校でそういうメンタルに育てられています。
| 2019-03-01 | 日本の子育て文化 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
子育てのカルト化について vol.2 - 2019.02.28 Thu
『山本太郎氏、日本母親連盟を支持者の面前でぶった斬り!』(HBO)
この手の話は書いていても消耗するので、あんまり書くつもりもなかったのだけど、あまりにこのことがすごかったので勢いで書いてしまいます。
デマを適切にファクトで打ち消すのが大変な労力を必要とするのと同様、エセ科学やカルトに対抗していくのは、その検証や周知に大きな労力がかかります。
また、エセ科学がそれらを流布することで利益を上げられるのに対して、ファクトでカウンターする側はそれによって利益を上げているわけではありません。
端から分が悪い戦いです。
山本太郎議員は、それにまっこうから対抗しその矛盾、誤謬を臆することなく提示しました。これは相当の快挙だと言えるでしょう。
上の記事を読んでもらえばとてもわかりやすいですが、日本母親連盟はスピリチュアル・エセ科学・日本会議がタッグを組んだような子育てを取り巻くカルトです。
カルトについて調べていれば、エセ科学あるところに日本会議ありと思えるくらい、この歴史修正主義の極右思想を持っている団体が絡んできます。
なぜいま極右思想がカルトにつながるのか?
それは結局のところ、支配が目的だからです。
戦前戦中のような、権力や権威が大きな顔をして人々の上に君臨しようとする人たちが、現代でそれを復活させようとするとき、相当に無理筋のことを通さなければそれは実現できません。
無理筋のことを通すのにカルトは大変便利です。
水からの伝言、江戸しぐさ、ホメオパシーなどなど。
でっちあげた理屈を使い、人々をコントロールしようとします。
もちろん、教育の中でも子供をそういった思想にしむけていきます。それらはすでに小中学校の教育の中にも入り込んでいます。
二分の一成人式ですらいろいろ問題があるのに、「立志式」「志教育」などとなるとこちらには本物のカルト宗教が絡んできます。
学校行事の裏にカルト宗教がいるなどというのは、信じたくないほどに恐ろしいですが、もうすでに現実です。
教科書検定も、もはやボロボロの制度になりはて、カルトが教科書にまで入りこんでいるのをわかっていながら看過している状態です。
◆なぜ母親か?
極右思想を持つ人たちは、基本的にミソジニー(女性嫌悪)に染まっています。
しかし、フロントでは女性を持ち上げる動きを出します。
今に始まったことではありませんが、右翼的な政治団体など昔から各地に「母子像」などもたくさん建ててきています。
これは、なぜかというと、女性の地位の(低い位置での)固定化が目論見だからです。
「愛情たっぷりで子供を慈しみ育てる母親は素晴らしい」
きれいな側面ではこういった、一見女性を持ち上げるかに見える動きをとります。
しかし、皆さんもご存じのように、「産む機械」「最低二人産め」「少子化は、女性が子供を産まないのが悪い」といったあからさまなミソジニーが本音です。
例えば、「愛情」という言葉を使って女性を縛ります。
中学校で給食を実施せず、「愛情弁当」を持たせろといった行政のあり方としてそれは現実化しています。
横浜市、町田市などたびたびニュースにもなっています。
これは、完全にモラハラなのです。
多様な人々のあり方を許容せず、「○○はこうあるべきだ」という一方的な価値観の押しつけをしています。
「○○はこうあるべきだ」はカルトと親和性が高い姿勢です。
スピリチュアルでも自然志向でも、健康志向でも、エセ科学でも、エセ歴史でも、エセ医療でも、食育でもなんでもいいので、「○○はこうあるべきだ」に同調をさせれば、それをいとぐちに虚栄心や承認欲求や、自己顕示欲や、金銭欲、安心を求めたい気持ち、そういったものをうまく手玉にとって、さまざまなことへの同調をさせることができます。つまりマインドコントロールです。
日本母親連盟が、山本太郎が指摘したように憲法9条だけなぜか保留という形で触れている不自然さは、のちのちそういったところにつなげる意図があるからでしょう。
彼が上記の講演の中でも繰り返し述べているように、人がどんな思想や政治的信条をとろうとも自由です。
でも、僕が思うのは、それを選択するのは誰かにマインドコントロールや洗脳されてではなく、自分の頭で考えて行うべきことです。
それが現代に生きる成熟した大人というもので、子供たちの未来に責任ある態度だと思います。
| 2019-02-28 | 日本の子育て文化 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
子育てのカルト化について - 2019.02.24 Sun
先々週、急に気圧が低くなってしばらく曇りと雨を繰り返していたとき明確にその自覚があったので、書くのをためらうネックになる部分を保留して荒削りだけど書いてしまおうと思います。
書くのをためらっていた理由のひとつは、それ(子育てのカルト化)をやむにやまれず必要としてしまう人がいて、その人達の立場や気持ちも理解できないではないからです。
では、子育てのカルト化とは、そもそもなにを指しているのでしょう?
まず、「カルト」とは、カルトに詳しい『やや日刊カルト新聞』総裁の藤倉善郎さんによれば以下の定義。
「カルト」の基本的な定義は、「違法行為や人権侵害を行う団体」である。現実問題として、これらのうち特に宗教的なものや精神性の強い集団・人物の問題が、「カルト問題」として扱われている
(三重県の麻疹感染拡大の背後にある、「反ワクチン」「反医療」信仰の危うさ HBOより)
いま子育てを取り巻く周辺には、エセ科学、エセ医療、エセ歴史、子育ての不安を煽ってなされるマインドコントロール、子育ての悩みを抱えた人を狙った不誠実なビジネスなどが大変強い勢いで勢力を伸ばしてきています。
そのあり方はいろいろなので、必ずしも一般に考えられるような「カルト宗教」的なものだけを指しているのではありません。
デマや不安を煽るような言説、または他者をマインドコントロールして自分に依存するようにしむけること。こういったこともその一部です。
例えば、いま人々には原発事故から放射線に対する不安、心配があります。だから線量を気にしたり、その食品への影響を考えるのはおかしなことではありません。
しかし、それを手玉にとって、「この○○から作った薬を飲みなさい、それをしなければお子さんは病気になってしまいます」などというのは、不誠実なことです。
こういったこと、一見多くの人が「そんなものには騙されない」と思うことでしょう。
しかし、不安や心配の多い子育てという状況では、いまそのように思える人ですら引き込まれてしまうことがあります。
◆カウンセリングにおけるカルト化
カウンセラーですらカルト化することができます。
僕は「あごの下くすぐり理論」と名付けていますが、その人の承認欲求を満たしてあげることを言えば、カウンセリングに来た人は満足し、依存し、絶大な信頼を寄せてくれます。
ましてやそれが他の人が言ってくれないことであればなおさらです。
それをすると、カウンセリングのクライアントは「信者化」して、その人を支持しお金もたくさん払ってくれ、さらには大変好意的な意見で宣伝すらしてくれます。
つまりこれ、マインドコントロールなのです。
先月だったかな、記事の中で自分が我が子へ手をあげてしまう悩みを言ってきた人に対して「子供は叩かれるために生まれてきた」と答えてしまうカウンセラーがいたこと、その人はカウンセラーとして道を踏み外していると書きました。
そのときは名前を挙げなかったけれども、心屋仁之助という人です。
リンクは貼りませんが、本人のオフィシャルブログ(2018年08月31日)でそう述べています。
「(子供を)傷つけて、いーよ」(※かっこ部は筆者補足、それ以外は原文ママ)
とまで言っています。
本来、カウンセラーであれば、決してそのようには言いません。話を聞き、その人を責めないとしても、不適切な行為を勧めることはありえないのです。それでは子供の人権侵害が起こってしまいます。
しかし、それをすればその人が安心することはわかっています。でも、長期的に見たときそれはクライアントのためになりません。
だから、これはカウンセリングの禁じ手です。
その相談者は、強い自己否定の中にいます。我が子を叩きたくないのに自身が叩かれてきた生育歴ゆえにそれを繰り返してしまい、そこに強い自責の念があります。
もし、誰かがそれを「やっていいよ」と言えば、自身の承認してもらいたいところが承認されてインスタントに満たされます。
「くすぐって欲しいあごの下をくすぐってあげること」
これをしてしまっています。
本来、その人が我が子を叩いてしまう問題は、実のところ副次的な問題です。
その人は、子育て以前の自分個人の問題でネックを抱えており、その状況のまま子育てに向き合わなければならないことから現実的な齟齬が生まれています。
カウンセリングであれば、その子育て以前のその人個人の問題を軽減してあげることで、間接的に子供を叩かないでいられる状況をもたらしていくべきです。
この心屋という人は、それをせずに相談者の承認欲求をくすぐることで、偽りの自己肯定を生みだし、それは同時に「満たされがたい自分の承認欲求を満たしてくれる人」というカウンセラーへの依存、賞賛を作り出しています。
これは意図的な信者化です。
先日「心屋さんや僕のような人にタッグを組んで欲しい」というコメントをいただきました。僕はそのコメントがあったときもどう返答すればいいか大変悩みました。そのあと別の読者の方で、心屋のリスキーなことを指摘する方がコメントして下さったので、とりあえず返信を保留することができました。
(おそらく心屋とタッグを組む人がいるとしたら絵本作家ののぶみでしょう。彼のしていること、母親の承認欲求をくすぐり自分への依存を作り出す、としていることの構造は同じ)
僕の子育て相談のクライアントの中にも、心屋式の心理カウンセリングに通ってそれが心の安定につながっているという方が複数います。
その人達にとって、それが支えとなっているのも事実なわけです。それの全部が全部悪いというわけではないのも事実でしょう。
それゆえに、この問題は僕の心に重くのしかかっています。
僕自身もかつて心屋関連のものを読んで、なかなか良いのではないかと思ったこともあります。
カルトというのは、部分的には良いもの(よく見えるもの)があるものです。これはカルトの特徴です。
しかし、部分が良いからといって、総体としてダメなものが良くなるわけではありません。
承認欲求を満たし依存させ信者化を図るのは、カルトの特徴です。
いま、「支配と子育て」のテーマで他の記事を書いていますが、このカルト化にも支配があるのがわかりますでしょうか。
その人を自分に強く依存させることで、ある種の精神的な支配ができるわけです。これと対になっているのは、それをさせる人の自己愛です。
この心屋なる人は、自身の講演などで自分が歌を歌うのだそうです。
新興宗教の教祖にも、しばしば同様のケースがあります。
自己愛の強い人は、場合によっては自覚なき悪意なき他者支配をナチュラルにできてしまいます。
この傾向はモラハラ夫などにも多く見られるものです。
そこには自己愛と他者支配の関係性があります。
この心屋氏がそうかどうか僕はわかりませんが、もしそうだとしたらカウンセリングに来た人が逆に精神的に搾取されている状態と言えます。
この種の承認欲求をくすぐり依存をさせる手法は、これに限るものではありません。
カウンセリング、スピリチュアル、占い、民間療法などのなかにも大変たくさんあります。
◆医療、健康関連のカルト化
最近、ものすごい勢いで伸びているのが、反科学、反医療。そこまでいかずとも「自然なものこそ身体にいい」といった自然礼賛の文脈で言われるもの。
ワクチン否定などもそのひとつとしてあると言えるでしょう。
ワクチンにも確かに重篤な副反応が出る場合はあります。
僕も実際にそういったケースを知っているので、ワクチンに対する不安があるのも理解できます。
ですが、ワクチンが防ぐ病気と、ワクチンによってなってしまう問題とを確率的にみた場合、比べものにならないほどワクチンの有用性はあります。(ここでは有用性が検証中のものは除く)
しかし、不安というのは煽れば簡単に大きくなるので、そういった客観的判断を鈍らせてしまいます。
そしてまた、こういったことを広める側は、そういった人の不安に向けてなされるので人の心に響きやすいのです。
いわゆる、デマの方が真実よりも人に訴えかける力が強いという状態です。
誠実なもののいい方をしようとすれば、断定を避け「~~かもしれない」「~~の可能性がある」といったいい方になってしまうのに対して、人を煽ろうとする人は遠慮なしに「○○すれば~~になる」といった断定的ないい方をすることができてしまいます。
子育て界隈には、そういった科学的な判断よりも、キャッチーなデマの方が入りやすい土壌が普段から醸成されています。それゆえに、不誠実なものが入り込むのもたやすいです。
例えば、
「最近の子は、普段から清潔にしすぎるから病気になりやすくなっているのだ」
「最近の子は、普段から清潔にしすぎるからアレルギーになるのだ」
といった物言いを聞いたことがありませんか?
この言説はけっこう一般に広まっているようです。保育士の口からもこの種の話が出てくるのを耳にしたことが複数あります。
この言葉、一見もっともらしいのです。
もっともらしいだけでなく、もしかするとある種の一面の事実すら含まれているかも知れません。
しかし、これは聞く人、読む人の視野を狭め、ある種の誘導を作り出しています。
それは、「清潔にすることによって多くの病気を未然に防いでいる恩恵のあること」です。
公衆衛生の概念の発達によって、人類はどれほどの健康上の恩恵を得たことか。それを言う人ももちろんその恩恵の上に生活しているわけですが、そのことに気づかない視野狭窄をもたらしています。
その言葉はそれを言う人も悪意があるわけでもないでしょう。
しかし、このようなキャッチーな話の流布は、デマの入り込みやすい土壌を作ることに一役買ってしまっています。
(血液型性格判断の話のような無根拠の決めつけの流布が、間接的に「○○脳」といったカルトの土壌になっているのも同じ構造)
先日、このブログの自身のお子さんの発達障がいについてのコメントに対して、別の方からのある医師とある特定の出版社の本を薦めるコメントがありました。
申し訳ないのだけど、そのコメントは削除しました。
それも子育てを取り巻くカルトのひとつだからです。
そのコメントをつけてくれた人が悪意のないこともわかります。
その人がそういったものに依存したくなる気持ちも理解できます。
しかし、それでも僕はカルトを広めるのを看過できないと判断しました。
その出版社は、発達障がい関連の本を多数出しており、その出版社社長もそこから本を出しています。
主に、「発達障がいは治る」という趣旨のものです。
ここにも、悩みを抱える人の承認欲求を満たす構造が含まれています。
発達上の個性が強い子供を育てるのは、ケースによっては本当に大変です。精神的にも身体的にも、また自己肯定の上でもある種の危機が生じます。
他者から責められたり否定されたり、実際に直接されなくてもそういった雰囲気や視線を醸し出されたり。それらが全くなくてすら、自責の念で自己否定におちいりやすいです。
こういった状況にある人にとって、「発達障がいは治る」という断言の言説は、自己承認を救ってくれる言葉になることがあります。
しかし、多様な個性や症状がある「発達障がい」というものに対して、断定的に「治る」ということは、ある種の無責任さがなければ言えないことです。
そもそも、なんらかの療法による治療の因果関係が明確なものだったら、発達障がいには分類されず病名や症例名がつけられるわけです。
基本的に発達障がいは、発達上のばらつきによる環境への適応の難しさのあるものを指してそのように呼んでいるのですから、断定的に言うのはむしろ不自然ですらあるのです。(また、社会における発達障がいの理解を後退させるものともなりえる)
しかし、そのような「治る」という断定は、人によっては「あごの下をくすぐってもらえる」ことになり、それが真実かどうかよりも自分の思うところを肯定してもらえたということから、依存、信者化へと発展してしまいます。
この種のことを、医師なり専門家が言っている触れ込みの本は多数あります。
これらの本のレビュー欄をみると、ある特徴があります。
この視点を持っていないと気づかないのだけど、意図して見えると明らかに見えてきます。
それが、その著者に対して「尊敬している」といった言葉が複数の人から多数寄せられていることです。
普通、本の中でもどれほど良いことを述べても、よほど体系的ななにかを表しているとかでもなければ、本を読んだというそれだけではなかなか「尊敬される」というところまではそうそうならないものです。
直接の関わりがあってそこで大変自己犠牲的な献身をされたとか、継続的に付き合う中でその人の誠実さを理解するに至ったという結果であればわからなくもありません。
しかし、この種の本には「尊敬」という表現が多数寄せられます。
これはなにを表しているか?
「自分のなかなか認めがたい承認欲求を満たしてもらえた」
からなのです。
これをすれば、他者からの賞賛、尊敬を簡単に作り出すことができます。
上記の、承認欲求を満たすことで依存し信者化させるものと同じ構造があるのです。
これをお金を稼ぐために意図的にする人もいます。
一方で、少しもお金儲けにはしていない人もいます。
お金儲けが露骨だと比較的それに問題があることがわかりやすいです。(実際には、依存の中でマインドコントロールが可能なので、ここもわかりにくく目くらましできる手法がある)
お金儲けにしてはいないのだけど、カルト化して他者の支配、搾取を行うものもあります。
では、それはなんのためなのか?
実は、そこにあるのはそれを広める人自身の、自己承認のためです。
自己承認にネックを抱える人が、無意識に他者を依存させコントロールし、その人達に自分を必要とさせることで、自身の自己承認を満たすという構造です。
これを意識してやっている人もいれば、無意識にやっている純粋な善人ということもあります。
しかし、いくらその人に悪意がなくともそれは(害があるかないかは別として)ある種のカルトであることは違いがありません。
そして、トンデモな言説ほど、こういった信者の純化が強くなります。
だから、言う人が最初はさほどトンデモでもなかったのに、どんどんエスカレートしてトンデモ化していくことも起こります。
信者化した人は、他者にもそれを広めたいという心理が生まれます。
他者もそれを承認してくれることで、間接的に自己承認に利するからです。
ですので、カルティックなものには、賛同のレビューと批判のレビューの両極端が並びます。
ただし、Amazonなどでは不適切通報をたくさんすることで批判レビューは消えていきます。
批判する方は他者を攻撃する必要がないのに対して、信者化している人にとっては自己承認の阻害要因になるので、それへの批判は自分への攻撃として感じ取られ、逆に批判者を攻撃することになりえます。
そのくだんの出版社社長のTwitterを見ると、他者に対して大変攻撃的なものが多数みられます。
ここに見られるのも、自己愛と自身の自己承認に対するネック、それゆえに自己が否定されたときの自己防衛からの他者攻撃の強さです。
これも自己愛と他者支配の関連性です。
さて、このような子育てや子供をとりまくカルト性が近年すさまじく、僕は本当に日々憂慮しています。
ここに述べたものは本当に氷山の一角で、こういったものが教育や政治に入り込んでいるもの、医療の現場にまで入り込んでしまっているもの、すでに多くの現実の問題となっています。
また、うまく伝えられませんが、この問題は単体のものとしてあるだけではなく、モラハラの問題や毒親の問題、虐待、アダルトチルドレンの問題などと、どこか底の方でつながっているところがあります。
僕はこれを貫いているものが、「支配」というものだと強く感じています。
僕の専門であるところの子育てが、実はこの支配の起点となっている節があります。僕はこれらのカルト化する問題には間接的に関わってはいますが、直接的には子育てや保育から支配を無くすことで、これらの問題の解に導けるよう尽力したいと思っています。
この種の問題に関しては、Wezzyで『スピリチュアル百鬼夜行』という連載を書いている山田ノジルさんのお話は、子育てを取り巻くカルトに取り込まれない免疫をつけておくために一読をお勧めします。
「私はそういうのにはまらない」と思っている人も、他人事ではないと認識しておく方がいいと思います。
少し前にキャベツ湿布騒動などあったように、医者などの専門家や、公的なメディアまでが浸食されています。(この騒動のときは保健師や助産師が発端)
例えば、いまホットなところではグリコの『Co育てPROJECT 』通称「こぺ」が、「男女脳の違い」というエセ科学に取り込まれてしまっています。
また、エセ科学、エセ歴史批判については原田実さんの研究が学校での蔓延を防ぐのに大きな力を発揮しました。
この著書の中で「親学」に触れられています(第二章)。いま問題となっている福岡県の「あかつき保育園」は、この親学と関連があります。
あの問題は、単なる保育士の不適切保育ではとどまらないものを秘めています。
ちなみに、現に日本中の小学校で行われている「二分の一成人式」も「親学」が元になっており、親への感謝から子供を支配しようという意図が露骨にあります。
学校教員も、この支配のメンタルにとらわれておりそれにシンパシーがあるようで、批判があっても「二分の一成人式」がなかなかやめられません。
さて、エネルギー切れで今回書き切れなかったのですが、これだけは補足しなければということがあるので、それについては後日書きます。(ちょっとメンタル的にいつ書けるかは未定)
カルトに引き込まれてしまう大人の背景にある問題。「孤立」についてです。
| 2019-02-24 | 日本の子育て文化 | Comment : 28 | トラックバック : 0 |
支配と大人の満足 - 2019.02.19 Tue
人は、自分の心にあるバイアスや先入観、こだわりに気づいてしまうことを好まないし、それを客観視すること、もしくはそれを乗り越えようとすることにはさらに大きなエネルギーが必要になります。
ですので、誰もがそれを避けたくなってしまうのは仕方ありません。
まあ、そういうものがあったとしても、それが即子育てを難しくしたり行き詰まらせてしまうわけでもないので、人によっては些細なことである場合もあります。
しかし、それゆえに苦しんでしまう子供や、長期にわたっての生きにくさに発展してしまうケース、親としては子育てにおいて自己実現できなくなってしまうケースなどをたくさん知っている自分としては、できるものならばそこに冷静になれることでよりムリのない子育てを送っていただきたいと思うのです。
◆
いまコメントで、お仕置き部屋などがあって保育施設の保育が不適切なことについてのお話をいただいています。これについては、少し時間のあるときに記事を書こうと思っています。
僕が「子育てはモラハラそのものになる」とあえて強い言葉で警句を発しているのは、現状の日本の子育てに「支配」の側面が濃厚にあり、これによる弊害があまりに大きいからです。上のケースはまさに保育の中で「支配」を野放しにしているそのものの弊害です。
そしてこの支配が、表向きは「子供のため」という理屈でされながら、実際は大人の
・不安解消
・自己満足
・自己肯定
・自己承認
・自我の自立の問題
このような大人側の心の問題を背景として無自覚に行われてしまっている実情があるからです。
それでも結果オーライになるケースであればいいのですが、負の連鎖となって、子育てする人、子育てされる人を苦しめています。
今の親の世代は、自分たちがそれをする立場になっていますが、根っこには自分たちがすでにそれをされてきたことが大きな問題として横たわっています。
コメントで寄せられている、保育園に「オニの部屋」があって言うことを聞かない子がそこに閉じ込められるというもの。
ここにあるのが、「支配」の構造です。
その支配をもたらす原因は、「○○させなければならない」というバイアスから導き出されたモラハラです。
これをしても誰も幸せにはならないのです。
保育上も子育て上も教育上も、なんの意味もありません。弊害ばかりがあります。
◆
この支配の問題は、実は社会のいたるところの根本的な原因となっています。
ブラック企業、モラハラ、パワハラ、セクハラ、女性蔑視、ミソジニー(女性嫌悪)、差別、DVや夫婦間におけるモラハラ、いじめ、痴漢、PTA問題、部活問題、校則問題、体罰、虐待、教員や保育士の不適切行為、新たに創造される伝統的マナー、不登校、ニート、引きこもり、対人関係の難しさ、自己肯定感の問題、自殺問題、暴走老人問題、通り魔事件、霊感商法、エセ科学、エセ歴史学、道徳教育
こういったことの多くが、「支配」の問題と不可分です。
支配の問題が根深いのは、連鎖を生むからです。
また、支配をする側になったとしても決して満たされるということがありません。
◆子育てでみれば
・自分の受けた強い支配で生きづらさ、子育ての難しさに直面する人
・自分の受けた強い支配の連鎖に苦しむ人
・自分の受けた強い支配から、自己肯定、自尊感情の欠如に悩む人。そこから派生する、対人関係のしんどさ、子供との関わりのしんどさ、無気力、無力感
・自分の受けた強い支配から、思い通りにならな時のイライラが大きい性格を持つこと
・強い支配を避けようとした結果、優しい支配におちいり子育てが難しくなる人
・過保護、過干渉という優しい支配
・過保護、過干渉の積み重ねによる、自信のなさ、意欲の発揮できなさ
・自己表現、自己決断のできない性格
など、このようなさまざまな問題をすでに子育てする大人が抱えています。
これらは短期的には、子供を思い通りにすることで解決するかのように見えます。しかし、それらは本質的な解決ではないので、その欲求は満たされることがありません。
自分の問題を、子供の問題にしてしまう前に、解決までいたらなくともせめて気づきにしておけると、親も子も救われやすくなります。
だから、自分のもつバイアスからできれば自由になっておいた方が、自分を苦しめないし、そこまで行かずともせめてそういったバイアスを持っていることに気づけているだけでも救いになります。
子供の食の問題でイライラの大きい人は、必ずしもそれが原因というわけでもありませんが、自分の自己肯定や承認欲求の問題を持ってはいないか一度点検してみるといいかもしれないです。
それがあることが悪いわけでないけれど、それに飲まれて子供への支配に駆り立てられてしまうと、その問題が解決するどころか逆にいってしまうからです。
| 2019-02-19 | 日本の子育て文化 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
「命をいただく」という一般に流布する言葉 vol.2 - 2019.02.16 Sat
◆モラルを押しつけによって内在化させることはできない
では、「食べ物を残さない」とか「お箸を正しく持つ」といった規範をどうしたら子供に持たせられるのかについて考えてみましょう。
その前に少し想像してもらいたいのですが、あなたがどこかに監禁されて怖い顔をした人から脅されて、なにかの承諾書や借用証書などにサインさせられたとしたら、それは自発的にしたものと言えるでしょうか?
まあ、当然ながらそうはならないですよね。
少しオーバーな例えではありますが、大人に小言を言われながら苦手なものを食べたり、「食べないと○○してあげないよ」と脅されて食べることも、上の例と大同小異です。このとき注意点は、「食べられたらデザートあげるわよ」などと優しく言ったとしてもそれは本質的に変わらないということです。
子供の本当の成長というのは、主体的、自発的成長であることを意味します。
大人にさせられることがなんでも即悪いというわけでもありませんが、必ずしもその子の身になっているとは限りません。
前回の記事で挙げた自身も偏食なのに厳しい保育士が、まさにそのケースだといえるでしょう。
モラルを外在化してはいるけど、自分の身に(内在化)はなっていない。
そして、その自身に対するたくさんの否定の中で作られた外在化しているモラルに自分自身が振り回されている。
これは生きにくい状態と言えます。
◆過干渉や支配にならずに規範を持たせるには
ちなみに、うちの子には「残してはならない」といったことを求めたことはありませんが、特別な理由のない限り残さない子になっています。
・親自身の行動
・信頼関係による規範の自然な伝達
そうなっていることの背景にはおそらくこのふたつがあるでしょう。
ひとつは、親自身がその子供に望むことを実践していること。
「食べ物を大事にしなさい」という人自身が、食べ物を粗末にする行動をとり、それを子供が見ていたとしたら、その大人が要求する規範は空白化しますし、なによりそのような大人に対する信頼感を子供は厚くできません。
もうひとつは、子供は信頼する大人を肯定し、寄り添うように成長していく子供の育ちのメカニズムがあります。
「食べさせようとする」「残させまいとする」といった、大人望む行動を子供に作り出そうとする過干渉な行為をしなくとも、普通の生活の中で
・子供がこぼしたときに「気をつけて下さいね」と言う
・ご飯粒や食べ物のかけらが残っているまま、食事を終わりにしようとしているときなどに、「まだそこにくっついていますよ」と気づかせる
こういった、日常の関わりの中からだけでも、子供は食べ物を大切にすることや、食事のマナーに気をつけることなどを自然と理解していきます。
もし、大人が心に思うことがあって「私は食べ物を大事にすることが大切だと思っているんだよ」と口にすることがあってもいいでしょう。
でも、それと残さず食べることを強要するのとは別の問題です。
この違いわかりますか。
大人が大事に思うことを、表明したり伝えることは自体は過干渉ではありません。(ひんぱんに言うのであれば過干渉だが)
でも、それを子供にムリに要求していくのは、過干渉~支配へとグラデーションで移り変わっていきます。
また、他のところで支配や過干渉の関わりをたくさん積み重ねている場合、この大人の持っている規範が自然と伝わることは減ってしまいます。
できれば子育ての早い段階から、過干渉や支配の関わりにならないクセを大人がつけていた方がムリのない子育てになりやすいです。
このことはたまたまうちの子だからできているというわけではなく、保育園で保育している子でも、そのように信頼関係で関わっていくことで自然と規範を備えていくことを確認しています。
◆イライラポイントとしての食事
そうはいっても、そのようにあっけらかんと子供が規範に不適合な姿を許容していくことができないという人もいることでしょう。
僕自身も過去にそうでした。
子供が食事をこぼしたり、食器を倒したり、そういった姿に接すると自分でも制御できないような怒りや感情の動きがありました。
ただ、僕は保育という仕事の中でそれを繰り返し経験したので、そのときの自分をコントロールするすべを身につけることができました。
実際に家庭で子育てしている人にとって、そのような経験値を積むことはできないでしょうから、以下の方法を試してみることを提案します。
a,食事以前のところで過干渉のクセを軽減しておく(広く意識を持つ)
b,心の焦点をあえてずらしておく
c,それが本当に困ることなのか考えてみる
d,6秒待つ
a,食事以前のところで過干渉のクセを軽減しておく
普段から子供に過干渉が常態となっていると、子供の一挙手一投足により自分の感情が左右されやすくなってしまいます。
だから、食事の時とてもイライラしてしまう人は、それ以前、それ以外の場所でも過干渉、子供から過剰に目が離せない状態になっている人が多いです。
食事は、どうしても子供へより注目がいってしまうときなので、食事面で過干渉を避けようと思っても難しいです。だから、それ以外のところから過干渉になりすぎない意識を持つといいでしょう。
そのためには例えばこんな方法があります。
子供以外のところにも意識を向けてみます。
子供が遊んでいるとき、窓の外を眺めて、「ああ、空がきれいだなぁ」と思ってみるなど。
僕がおすすめなのは、子供と過ごすときはゆっくりしゃべるのを意識しておくことです。
注意したりするときにではなく、過ごすとき普段からゆっくりしゃべるようにします。
過干渉が強い人は、大人を相手にするよりも子供に話すときの方が早口なんていう人もいます。普段がこうだと、子供は過干渉の負荷から逃れるために、大人をスルーするクセがつくのでいろいろ難しくなってしまいます。
子供といるときは、まずは演技でもいいからゆっくりの自分を演出してみる。慣れてくるとあまり意識せずともできるようになる場合もあります。
大人の個性よってはムリなこともあるので、そういうときは↓
b,心の焦点をあえてずらしておく
上の「空がきれいだなぁ」のミニマム版です。
例えば、それが食事の時ならば、子供の一挙手一投足を見続けるのではなく、少し気持ちの焦点をずらしたところに意識をおいておくのです。
「そういえば、この前のドラマはおもしろかったな~」
「あ~、どら焼き食べたいな~」
など。
こうしておくと、例えば子供がお茶をこぼしてしまったときなど、「あ~どら焼き食べたいな~」のリズムで、「あ~こぼしちゃったのね~」と流しやすくなります。
本当に子育てがしんどくなってしまう人の中には、「私がこの子をしっかりと責任持って育てなければならない」といった自分へのプレッシャーが強すぎて、過干渉になりガミガミ怒ったり、手をあげてしまったりになり、自己嫌悪から子供に向き合うこと、関わることが辛くなってしまう人もいます。
心の焦点から子供を外しておくことが、子供にとっても大人にとってもいい場合があります。
c,それが本当に困ることなのか考えてみる
「も~~、あなたはいつもお茶をこぼしてっ!私いつも気をつけなさいっていっているでしょ!」
といった感情の高ぶりに直面してしまうとき、20歳になってもこの子がそれと同じことをしているかどうかを少し想像してみて下さい。
ほとんどのケースにおいて、それが想像できないはずです。
・あなたははたちになってもまだおむつしているの!
・あなたははたちになってもまだお箸つかえないの!
・あなたははたちになってもまだお味噌汁こぼしているの!
といった状況は想像できないでしょ。
目の前の子供のできないことや、ミステイクは長い人生の中では誤差にすらならないほどの小さなことでしかありません。
今日、今、というスパンで考えた場合は大事になるのですが、目先のできるできない、ミス、といったことは実は子供の長い成長からはそんなに問題ではないのです。
d,6秒待つ
怒りのコントロールでいわれることです。
手をグーにして、深呼吸しながら6秒待つ、すると一時の怒りの多くがしずまると言われています。
| 2019-02-16 | 日本の子育て文化 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
「命をいただく」という一般に流布する言葉 - 2019.02.15 Fri
この言葉はバイアス中のバイアスと言っても良いでしょう。
「食べ物を大切にする」というのは、道徳的に正しいことです。つまりモラルです。
モラルであるがゆえに「正義」になりえます。
しかし、それだからこそ子育ての大きな落とし穴になります。
子育ては一歩間違えるとモラハラになります。
モラハラっぽくなるのではなく、モラハラそのものになります。
特に、日本では、個性、個人の尊重の文化的背景が希薄なので、ものごとの画一的な押しつけに歯止めをきかせることが難しく、それが顕著になります。
例えば、保育園、幼稚園、学校などで行われる不適切行為の多くが、このモラルを振りかざして行われています。
ある幼稚園では、子供に給食を残させない方針から子供に無理矢理食べさせ、それで嘔吐した子に対して、その吐瀉物を食べさせるという行為が行われました。
これは、自尊心を傷つける行為であり、精神的虐待そのものです。
(本日ニュースになっている、このケースで吐いたものを食べさせています↓
園児に「バカ」「ブタ」、押し入れに閉じ込め…保育園で暴言・体罰13件 福岡市が改善勧告)
その幼稚園教諭からすれば、子供に食べ物を残させないというモラル=正義があります。
ゆえに、悪意なくそのような不適切行為が起こっています。
これは異常なことです。
ゆえに、もっともらしいモラル=正義こそ、鵜呑みにするのではなく適切な運用を心がける必要があることがわかります。
しかし、多くの人にとってこういったモラルは、足を止めて考えることなく、「当然のこと」というところから始まってしまうので、バイアスとなってしまいます。
◆
モラルというのは、一見客観的な正しいことのように感じられますが、実は非常に主観的にしか運用され得ません。
ここで、バイアスを解くために、ひとつの考え方のロールモデルを示してみます。
「命を頂くのだからいただきますという言葉を言うのだ」という風に一般では言われ、多くの人がそれを認識していることでしょう。
さて、「マグロの解体ショー」なるものが、最近ではもてはやされています。
「マグロの解体ショー」は、「命を大切に感謝していただく」「食べ物を大切に」というモラルと矛盾してはいないでしょうか?
「命を頂くのだから食べ物を残してはいけない」というモラリスティックな言葉はたくさん耳にしますが、「命を頂いているのにそれを面白がってショーにするのは不道徳だ」という批判や、疑問の声が上がっているのを僕は聞いたことがありません。
これは考え方のロールモデルを理解する思考実験なので、マグロの解体ショーが道徳的に適切かどうかというのは、ここでは問題ではありません。
ここで気づいて欲しいのは、モラルというものは存外、主観的にしか運用されていないということです。
つまり、モラルは自分の都合の良いときだけ出すことでき、しかもその程度の解釈も勝手にできてしまうものであるわけです。
だから、保育や教育の現場でモラルをもてはやすと、そこの権力者である大人によって不適切運用も簡単になされてしまうわけです。
不適切運用の実態は、「支配の関わり」です。
「モラル」が他者に対する支配の道具になるわけです。
家庭の子育てで考えてみれば、そのバイアスに流されてしまえば子育てがいつのまにか単なるモラルハラスメントになる可能性を常に持っていると言えます。
◆モラハラはモラハラ体質を生む
ある保育士のケースです。
その保育士は、園児に対して食事指導が非常に厳しかったです。
冷たく嫌みな言い方をしたり、ヒステリックに怒ったり、食べないと戸外遊びをさせないと脅したり疎外したり。
あまりに感情的になっておりその本人も苦しそうなので、同僚が見かねて「そういうあなたは好き嫌いないの?」と聞くと、実はいろいろ苦手な食べ物があるとのこと。
厳しい食事指導は、自分自身が過去に家庭や幼稚園、学校でされたものであったことなどが本人の口から話されました。
つまり、その人は自分がされたことを今度は立場を変えて自分が子供たちにしているということです。
しかし、それも変な話なのです。
というのも、その人はそういった厳しい関わり方をされても、その人の偏食という問題は解決しなかったわけですが、その解決しない方法を繰り返していることがです。
しかし、当人はそのようにそういった手法で関わられても効果がなかったのだという客観的な見方はできません。
なぜなら、そのように考えるのではなく「できない自分がダメなのだ」という自己否定のメンタルとして理解、吸収されているからです。
つまり、単に一時の食の個性という子供時代の問題が、周囲の大人によって人格上の問題として副次的にもたらされてしまっています。
その人が、自分のされた嫌だった行為を繰り返してしまう理由は、そうしたモラハラ行為により自分自身の自尊心が傷を負っていることとも関係があります。
人は、心に傷を負うとなんらかの方法でそれを修復します。
良い形で修復される場合もありますが、おちいりやすいのは自分のされた行為を他者にすることです。
それにより自分の心の傷は一瞬なだめられます。しかし、本質的には解決されません。
それをしたところで自身の持つ自己肯定の低さや自尊感情の問題は改善されないからです。
これを長年続けてしまうと、それが体質化してモラハラ体質の人格へと派生してしまうことがあります。
子供に対する職場は、これが引き起こされやすいところでもあります。
◆家庭の子育てでは
子育てはモラハラそのものになると最初に述べました。
親としては一生懸命子育てしているつもりでも、そのやっていることの中身がモラハラの蓄積だとしたら、子供はどのようになるでしょうか。(ただしこれには程度やバランスの要素があり、必ずしもそれが直ちに問題化するわけではありません)
ひとつの方向としては萎縮が挙げられます。
自尊感情や、自己肯定、自己表現、自己決定が減少したり、できなくなったり。
もうひとつのは、他者にされたことを繰り返す方向です。
意地悪な行為や、いわゆる「いじめ」へとつながります。
「いじめ」はなんらかの理由をつけて、特定の子の自尊心を傷つけたり、疎外したり、攻撃する行為です。
このなんらかの理由は、しばしばモラルなのです。
「○○のせいで、自分の班は先生に怒られた」
「○○は不潔だ」
「○○はいつも物忘れをして迷惑をかける」
などなど。
モラルは主観による運用が可能なので、理由はどこにでもつけられます。
大人でも、例えば議論の旗色が悪くなると、「そのいい方は失礼だ」などとモラルの話にすり替えてマウントを取ろうとする人もいますね。
子供たちは、自分がされたモラハラから、心のバランスを取るためにいじめへと向かわされてしまいます。
いじめが問題となることの背景には、日本の子育てにモラハラが多いという事実のあることを僕は指摘します。
「当たり前」「正しいこと」「モラル」「道徳」
こういったことを根拠に子供への関わりをするとき、大人はよくよく気をつけないとそれらはそのままバイアスとなり、子供にも大人にとっても子育てを辛いものにしてしまいかねません。
特に「ネガティブとみえる個性を持っている子」(例:少食、偏食、人見知り、引っ込み思案、話すこと、対人関係が苦手など)の場合、それはさらに顕著になります。
づづく。
| 2019-02-15 | 日本の子育て文化 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
善意の差別 - 2019.01.30 Wed
最近、近代ということを軸にいろいろ書いていおりますが、これもまた日本は近代化していないと強く感じさせるものでした。
この人達は、むちゃくちゃな差別をしているのだけど、当人達にはその認識がなくてむしろ良いことを言っていると思っているのでしょう。
悪意から起こる差別も、もちろんあってはならないことですが、善意からくる差別にはまた別の恐ろしさがあります。
なぜこれが差別かというと、「社会福祉を受ける存在は一般よりも劣った待遇に甘んじるべき」という、福祉の対象を低く見るスタンスに立っているからです。
このケースで言えば、「児童養護施設の子供たちは廃棄物を食べさせても良い」とナチュラルに思っているわけです。
その人達に差別の意図はなくとも、これは大変な差別です。
これは、食品ロスのテーマとはまったく別のお話です。
社会福祉をどうとらえるかという考え方のテーマです。
日本では「劣等処遇」という考えが根強くあります。
「福祉を受ける存在は、劣った待遇に甘んじるべきだ」という考え方です。
社会的にこれが通念と化しています。
これは言ってみれば、施しを受ける人間は投げ銭で十分という、近代以前の考え方に近いものです。
「慈善」で福祉を考えてしまうと、この理解をなかなか超えられません。
福祉と慈善はまったく違うものなのです。
近代以降は、基本的人権というものがまずあることが大前提なので、「劣った待遇に甘んじろ」という考え方は否定されねばならないものです。
同じである必要があります。
だから、たとえ児童養護施設で生活する子であっても、家庭で育つ子と遜色のないような十分な待遇を社会が考える必要があります。
「健康で文化的な生活」という言葉を聞いたことがあるでしょう。「廃棄されるものを食べなさい」と言われることは、文化的とは言えないですよね。
こういった、社会福祉を受けるものを下にいるものと見なし、それに慈善を施すというのは近代以前のあり方です。
これでは現代の社会福祉たりえません。
常に差別が付随してしまうからです。
しかし、いまだ日本にはこういったスタンスの人が多いのも事実で、それゆえに社会的な弱者に対して「感謝しろ」と感謝の強要をしてくる可哀想な人もおります。
その人は自身の差別心ゆえに、他者にマウンティングせざるを得ないメンタルを獲得させられてしまっています。
社会福祉を受けるのは、権利として堂々とする必要があるし、それを社会も当然のこととしていく必要があります。
少しの想像力があれば、それは難しくないのです。
だって、いつ何時、自分や自分の孫や子がそういった社会福祉を必要とする立場にならないとも限らないのだから。
というよりも、現代の人は全て、すでになんらかの福祉の恩恵をこうむって生活しています。
そうした想像力の欠如や、人権に関する適切な教育のなさが日本の社会をギスギスとしたものにしていると感じます。
| 2019-01-30 | 日本の子育て文化 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
職場に子供を連れて行けと言った政治家の発言から考える - 2019.01.29 Tue
地域により呼び名は複数あるようですが、主には農作業の間田んぼや畑の畦などにおいて、子供を入れておく籠や桶のようなものです。
新生児に使うものもあれば、もう少し大きな子に使うものもあります。
いまはもう使われていることはないでしょう。まるで時代劇の中のもののようですが、実はわりと近年でも使われていました。
僕の知り合いの50代の人は、幼少期それに入れられてたこと、弟妹に使っていたことを覚えているそうです。
さて、僕はあのニュースを聞いて、真っ先にそのイジコを思い出しました。
まだ、企業内保育所を充実しましょう、推進しますという話ならば、政治の一施策としてなにもおかしくはないと思うのです。(それの是非はともかくとして)
しかし、単に職場に連れて行って子供を見ろという話であれば、それは政治のそして行政の責任放棄でしかありません。
そのイジコの時代に逆戻りしているだけです。
子供には適切な養育が必要。だからそれを行政が担保しようというのが、保育所を設置の法律であるところの児童福祉法の理念です。
単に子供を職場に連れて行って親が見ろという話は、社会のあり方を何十年も巻き戻そうという考えでしかありません。それはせっかく築いてきた社会の進歩を壊そうと言うことであり、とても政治家の考えることとは言えません。
そして、そういった安易なことを軽々しく口に出せる背景には、子育てを馬鹿にする不見識が隠れています。
子供はただ寝ているだけですら、命の危険がありえます。
ソファに寝かせていたら、クッションで窒息死してしまった悲しい事故などもあります。
何かに集中していたり、子供がいることに意識がいっていない大人が、万一小さな子を踏んでしまったら、重大なケガやずっとつづく障がいを負う可能性などもあります。
そもそも、子供をみられる職場もあれば、それが不可能な職場だってあることでしょう。むしろ不可能な場所の方が多いはずです。
このことは、子連れで不自由のない場所を増やそうという議論とはまた別個の問題です。
どうにも、最近は実際の市民生活を無視して、政治家個人の「昔はよかった」とか「やっぱり子供は母親の側が一番」のような精神論・感情論が実際の生活をむしばんでいることが増えているように感じます。
特に最近、強く感じるところでは、横浜市や大阪市、町田市などの学校給食の問題、「愛情弁当」の問題と言えばいいでしょうか。
これがすごく気になります。これについても今度思うところを書いてみようと思います。
| 2019-01-29 | 日本の子育て文化 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
町田市の都立高校での暴行事件について思うこと - 2019.01.23 Wed
この冒頭のところで、子供時代のアベル(のちのロスノフスキ男爵)がオスマン帝国時代のトルコにおいて、飢えからパンを盗み当時の法律により手首を切り落とされそうになり、すんでのところで救われる逸話がある。
この状況は前近代のあり方で、人の基本的人権や生存権がまだ希薄だった時代。
この時代では、「子供は守られる」という概念がなく、大人と同じように法で断罪されてしまう。
先日、『近代化していない日本と近代化していない教育』
で書いたが、日本ではこの「子供の人権」「子供は守られるものという社会通念」の理解が異様なほどに遅れている。
先般の町田市都立高校の暴行・動画の事件で、メディアは軒並み、それを仕掛けた生徒を弾劾する論調であふれている。
子供がいかに不適切なことをしようとも、不道徳なことをしようとも、近代的な子供観を獲得した社会では、このような見方にはならないものだ。
・なぜその子はそのような行動に及んでしまったのだろうか?
・この子の家庭における問題点はないのだろうか?
・これ以前の学校のあり方や周囲の状況に問題はなかったのだろうか?
・この子がこれから社会に適応していくためにはどのような対策が必要なのだろうか?
・こういった子供を再び生まないためにはなにが必要か?
このような思考が浮かんでくるだろう。
しかし、悲しいかな日本では、大人がモラル・体制の側に立って、逸脱するものを断罪しようとするメンタル・思考になってしまう。
それで、そのときその人達の溜飲は下がるだろう。
しかし、それでは子供たちはケアされないまま放置される。
手をさしのべる必要のある子ほど、放置されることになる。
すると、そういった子供・大人は社会の表側からは排除され、表面的にきれいな側と、多くの人が目をそむけるダークな側が出来上がっていく。
これを続けるとゆくゆくは社会全体が劣化する。
すると、ダークなところをさらに排除するという、より分断を大きくすることが起きる。
私たち大人が生きている間でも、そこからくる問題は山ほど直面することになるだろう。しかし、それをもたらしたのが、他者を断罪し続けてきた自分たちであることに気づくことはない。
そして、もっと大きな負の状況を背負い込まされるのは私たちの子供や孫の世代だ。
そのようにしないために、僕はこの問題で生徒を断罪する姿勢は間違っていることを指摘する。
子供は、どこまでも守られ、救う必要があるのだ。
成人し大人になれば、責任能力を問われることになる。
それは否定できない。
しかし、子供時代に守られず、救われないまま大人になった人が、より大きな問題を起こすのは、ある種の必然だ。
大人になったときその責任を問うのは当然だ。
だが、それを当然と言い切っていいのは、子供であるときに守られ、救われる手がさしのべられる社会を前提としているのだ。
オスマン帝国のような封建的社会において大衆の前で処刑をするのは、そうやって処刑を庶民に娯楽として提供し溜飲を下げさせることで、さまざまな不満のガス抜きをさせる意味があった。
いま日本のメディアがしているのは、ほぼそれと変わらない。
平成も終わりになろうと言うときに、いまだに前近代のメンタルを日本の社会が持っておりそれをもてあそんでいることに、いい知れない不安と怒りを感じる。
↓子供を救う必要がある理由が見える本
| 2019-01-23 | 日本の子育て文化 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
認可外保育施設、6カ月男児死亡事故を受けて - 2018.10.07 Sun
報道によると、授乳後30分一人で放置し寝かせていた。心肺停止状態にも関わらず救急車を呼ばず、かかりつけ医に受診。その医師によれば、窒息の症状だったとのこと。
これは事故ではなく、人為的ミスと言える。
0歳児はSIDS予防のため、5分ごとの呼気チェックが求められている。
「普段は15分ごとに見ているが、客対応などで30分になってしまった」(園長コメント)
もう、この認識の時点でリスクが時間の問題となっている。
保育施設における死亡事故は、半数以上およそ7割ほどが無認可施設で起こっている。
無認可だからどこも悪いというという訳ではないが、比較すれば保育の質の低さや保育環境の悪さが相対的に出てくるのは事実。
僕が問題と思うのは、行政指導の不備だ。
例えば、飲食店であれば、必ず年1回の衛生講習が課せられている。その他に防火責任者への消防署の指導などもある。
無認可施設に対しても、監査や指導がないわけではないが、重大事故や死亡事故の多い現実がそれらが十分でないことを示している。
この施設の近隣住民への取材の中では、「うるさい、座りなさいなどの怒鳴り声がよく聞かれていた」とのこと。
これが示しているのは、「保育がわかっていない」ということ。
保育がわかっていない人が保育をしているのだから、事故が起きるのも時間の問題でしかない。
こういった事件があると、「人手が足りなかったのだろう」と擁護気味の意見があがる。
しかし、実際は人手の問題ではないのだ。
人手が足りないことがあっても、保育の質が担保されていれば、「ここは手を抜いてはいけないところ」という認識が持てる。
保育の質が悪いと、保育職員が長続きしない。ゆえに人手不足になり、より保育が劣化し、さらに人が辞めていくという悪循環が起こる。
そうなっている施設は山のようにある。
そういった現実にあたってすら、「保育の質」ということを当の保育者や施設が理解していないので、その悪循環は解決しない。
保育の質(適切なスキル)が担保されていれば、子供を怒鳴りつけるようなことが常態とはならない。仕事に充実感もあり、人材の維持、確保は比較的容易になる。
かようなわけで、この問題を「人手不足だから」で落着させるべきではない。
◆
「ハインリッヒの法則」というものがある。
「1:29:300の法則」とも言う。
1つの重大事故の背後には、29の軽微な事故があり、さらにその背後には300の事故までいかないトラブルがあるというもの。
ちまたで言われる「ヒヤリ、ハットの法則」もこれを基にしたもの。
無認可施設に対しても、監査のような締め付け的な行政指導ではなく、その費用を負担し研修の場を積極的に設けるなどの実質的な対策をすべきだ。
今回の事件は、たしかに一施設の問題ではある。
しかし、背後にあるのは、公的保育を不備の常態においたまま保育行政をしている、区や都、ひいては国にある。
突きつめて言えば、保育に金をかけろということに尽きる。
人口密集地では、保育施設の定数が十分ではなく、現状、無認可施設も社会的に必要となっている。
それは行政が保育にそれだけの予算を使わないからだ。
そしてそのしわ寄せは、子供を預ける家庭とその子供にダイレクトに来ている。
子供を育てるには金がかかる。
きれい事を抜きにいえば、それは紛う方なき事実。
しかし、それをこれまでの社会は、コストをかけないレベルでしか考えてこなかった。
たしかに、最近保育関連の予算は増えてはいる。
しかし、それは人材確保と施設を増やすことのみに消えており、質を高める方に十分に回っているとは言いがたい。
このように死亡事故が起こっている事実が、それを如実に示している。
保育の質を高めるために予算を使わなければならないのだ。
だが、いまだに多くの人、特に年配の人の意識には、「子供は母親が家庭で見るもの」という感覚が強く、そこに社会コストをかけるべきということが理解されない。
さらにその背後にあるのは、女性蔑視(ミソジニー)の意識だ。
昨年11月熊本市議会で緒方夕佳市議が子連れで議場に入り、譴責されたというケースがあった。
赤ちゃん連れの熊本市議に真意を聞いた 「子育て世代の悲痛な声、見える形にしたかった」(ハフポスト)
ここにあるのも、子供を含む女性に対するミソジニーだ。
「子供や女性は家庭に入っていろ。出てくるならば仕方なく補助してやるが、それは本来望ましいことではないのだから最低限の補助しか出さない」
日本に根強い、「劣等処遇の原則」(社会的扶助を受けるものは低い処遇でなければならない)という感覚と相まって、保育に対する社会的なコストは低いままとなっている。
そもそも子育ては母親だけのものではない、父親もいて、社会も関わっている。
「子育て=母親のもの」という考え方自体が、古いというだけでなく、社会的にさまざまなものを損ねることにつながっている。
今回の事故はあってはならないことだ。
同じ保育士として慚愧に堪えない。
この事故は、人為ミスだと思うし、保育の質もおそまつなものだ。
しかし、そこを責めるだけでは永遠に解決しない。
その根っこにあるのは、保育行政であり、さらに背後にあるのは、子育てや女性に対する社会の見方。そしてそれは今次事件の当事者だけの問題ではなく、社会に生きるひとりひとりが関わっている問題であることを提示したい。
| 2018-10-07 | 日本の子育て文化 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
「断乳」について考える - 2018.09.01 Sat
いまだに保護者に「断乳」を要求する園があるというのを聴くと、「時代遅れだなあ」という感覚を覚えます。
なぜなら、今度の新しい指針にも大きく盛り込まれた「子育ての支援」についての理解が欠けているからです。保護者と園との関係が、上下でとらえる感覚を無意識にしろ持っているのだろうことがわかります。
「これが正しい。だからあなたは従いなさい」と、こういうスタンスを保育士が持ってしまっています。
保育園が上で、保護者が下と無自覚に見なしているのです。
(話がそれるのでここでは多くを書きませんが、この意識の反動が現在の企業立の園に多く見られるようなサービス業化を招いた一因になっています。
「園が上、保護者が下」この感覚を持っている保育施設のあり方が時代にそぐわないために、「保護者が上、園が下」というあり方を生んだのです。
既存の保育施設がそこに自覚的にならないと、公的保育はこれからも死に続けます)
現代的に目指すべきなのは、保護者、子供、園を対等の存在と位置づけていくことです。
そこでのスタンスは、「援助」というものになるべきです。
子供に対しても援助であるし、親に対しても援助です。
そうでなければ、福祉としての保育は成り立ちません。
この、保護者と園は対等であり、保育士はプロフェッショナルとして援助をしていくというスタンスを持てていれば、「これが正しい、従いなさい」という関わりにはなりません。
ではどうなるかといえば、自己決定を尊重する姿勢が生まれます。
◆教条主義におちいらない
「これが正しいのだから、あなたもそうすべき」
こういった考え方、ものの見方のことを「教条主義」といいます。いわゆるイデオロギーというものです。
保育士は、というよりも、子育ての世界はしばしばこれにおちいります。
保育士のみならず、医師や看護師、保健師といった、本来合理的、論理的、科学的な目を要求されている専門家にすら、こういった教条的な考えにとらわれそれを押しつけてくる人がいます。一般の人は言うまでもなく。
・母乳でなければならない
・紙おむつはだめ、布おむつでなければならない
・○歳までに○○できなければならない
・○○はダメ
・○○しなければならない
教条的になってしまうと、とたんに合理性や論理性、科学性が失われます。
そのいわんとすることに、それなりの理があったとしても、「これは絶対正しいのだから、あなたもそうしなさい」というスタンスを持ってしまったとき、それは人々から信頼に値するものではなくなります。
それは「カルト」です。
例えばですが、僕自身、幼少期の子供に暴力的表現を無自覚に与える日本の子育て文化は間違っていると考えています。
しかし、だからといって「ヒーローものは良くない。見るな」と大人にも子供にも押しつけたりはしません。
押しつけをすれば、それはもはや人に理解を促せるものではなくなります。
あくまで、それを聴いた人が自分なりに受け止めその上で判断し、自己決定するべきことです。
それがプロフェッショナルとしての姿勢というものでしょう。これは保育に限らずどのプロの世界でも同様のことと思います。
◆「断乳」に根拠などない
さて、前置きが長くなってしまいましたが、コメントに寄せられたのは1歳7ヶ月の子に対して保育園が断乳を勧めてきたとのこと。
栄養価うんぬんは気にしなくていいと思いますよ。
あろうがなかろうが、母子間のコミュニケーションとしての大きな役割があるのですから、互いに無理がなく、お母さんもそれを望んでいるのならばやればいいのです。
「断乳」を言う人にもレベルがあります。
1,教条的に「○歳になった?ダメ絶対」という人
2,「弱さ」につながることへの忌避感、嫌悪感を持っている人が、「甘やかし」「甘え」に類するさまざまなものを否定する
3,依存が強まることの懸念から断乳を口にする人
4,無自覚な思い込み
1,中には、「断乳しなければ子供が将来性犯罪者になる」などと主張するおかしな人までいます。しかし、ある種の専門家がそのような言葉を口にすると、それは親を不安にし呪縛することになります。
2、例えば、母乳を求めること、泣くこと、幼さ、おむつ、(箸に対しての)スプーン、いいわけすること などなど。
これらは合理性のないただのその人の主観による感情論にすぎません。しかし、この空気は日本の子供と子育てを取り巻く状況の中に濃厚にあります。
「強さの称揚」「弱さの否定」の文化です。これは一歩間違うと、ハラスメントの土壌を簡単を生みます。いま、社会をハラスメントの話題が賑わせていますが、この土壌の強いところという共通項があります。
3,依存については後述
4,「周りの人が○歳なら断乳すべきと、日頃言っていたからそれが当然と思っていた」
子育ての世界には、これは往々にしてあります。保育士も同様で、そのため特に新人の時の周りの保育のレベルが、その人の一生の技量そのものとなってしまうことがしばしばあります。
◆授乳と依存の関係
もし、保育園が「断乳」やそれに類することを言ってきた場合、かろうじて合理的、良心的なものが上にあげた3,のケースです。
・授乳をすることにより、依存が「過剰に」高まってしまっている。その現状が、子供にも親にも不利益を生んでいる。それゆえに、プロフェッショナルの見地として授乳しなくても安定を得られるように考えていく
このスタンスであるならば、それなりの合理性はあると言えます。
しかし、もしこのスタンスを持っている人であれば、「授乳をやめろ」といういい方はまずしません。
依存が子供に与えている影響、親自身がそれに気づかないまましんどい自分で状況を作っていること、また、授乳以外で子供との関係性をどのように作ればいいかその方向性と具体策。
これらを伝えるはずです。
なので上記のスタンスを専門的に持てている人は、まず「断乳」を要求することはなく、「卒乳への援助」となることでしょう。
しかし、ここまでの専門性なく、「この子幼いし、すぐ泣くし、集団行動できないし、甘えてばかりで遊べない。親が甘やかしているからだ。ちゃんと断乳できているのかしら。やっぱり授乳させているわ。断乳させなければ」
と、この程度の認識で(もちろんその中にも温度差はありますが)、「断乳」というマジックワードに飛びついてしまう保育士は多かったです。
過去形で書いてあるのは、いまの時代にこの認識ではあまりに勉強不足だからです。
本当に保育の質の低い施設では、保育士たちの保育の不手際による子供の不適応な姿を見て「親が○○だから、こどもがちゃんとしていない」という考えにおちいるところがあります。
感情論で「断乳」を口にする園は、この傾向がある場合もあります。
◆「依存」は「依存の問題」として解決を目指す
依存の問題と授乳の問題は別個に考えるべきなのに、先入観や教条主義が邪魔したり、専門的に思考する訓練を受けていないために、ごっちゃにして短絡的な結論に飛びつく保育士は多いです。
依存はたしかに、子供の育ちのさまざまな問題の元になります。
しかし、依存それ自体は悪いものではなく、誰もが当然に持っているものです。大人ですら持っています。ましてや、保育施設というなんだかわけのわからないところに放り込まれた不安な心理を持っている子供にとっては、軽々しく奪っていいものではありません。
「断乳」という結果だけだしたところで、その子供の心のケアや成長を考えていなければ、子供にも親にもなんのプラスもありません。ただ、「こうすべき」という自身の主観を満たしたことの自己満足がそこにはあるだけです。
◆すべての保育を目指す人に伝えたいこと
保育士の人に伝えたいのは、教条主義にとらわれて自己満足の保育をしてしまうことは、本当は自分のためにならないということです。
保護者たちは、保育士の(または幼稚園教諭の、学校教諭の)この自己満足のための要求に、意識、無意識に気づいています。
だから、そういった人、そういった施設は信頼されません。
いくら自己満足だけを積み重ねても、クライアントに信頼されない仕事に本当の達成感、やりがいは生まれないはずです。
少しだけ口幅ったいことを言わせてもらえば、「プライドは自分に持つのではなく、仕事に持つ」のです。
若いうちから、自分の思い通りにすることでの達成感を求めていけば、人は本当の信頼も尊敬も寄せてはくれません。
それはせっかく保育士を目指したのに、大変もったいないことです。
しかし、そういう人をたくさんみてきました。
これからの時代は、本当の保育の専門性を高めプロフェッショナルとして信頼してもらえるところを目指すことが必要になっています。
補足
なぜ、園を上保護者を下と見てしまう心理が生まれるか?
実はこれには理由があります。
たった一点にだけ気がつくだけで、これを克服できるポイントがあります。
知りたい方はどうぞ僕の研修に来て下さい。
9月15日(土) HOIKU BATAKE公開セミナー&交流会 保育士おとーちゃんに学ぼう「保育のチカラ」
あわせてこちらもどうぞ↓
絵本、遊びについての実践的な講習です。
9月8日(土) HOIKU BATAKE 公開研修会 @飯田橋
① にへい先生の絵本講座
② チッタおもちゃ講座
| 2018-09-01 | 日本の子育て文化 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
「がんばれ」に代わるもの - 2018.08.22 Wed
これは、その人の状況や文脈もあるから、「これ!」というものがあるわけではないけれど、少し考えてみる。
その前にまず二点を念頭に置いておく。
ひとつは、
現代の日本では「がんばること」が重要であると非常に強く思い込まされている人が、とても多いという前提のあること。
(こちらの過去記事http://hoikushipapa.jp/blog-entry-1189.htmlでは、「がんばること」という自分への強い思い込みが、自己犠牲的、またさらには承認欲求への飢えを生むことを書いた)
ふたつめは、そもそも「がんばっていない人っているの?」という命題。
「がんばっている」というのが、実のところ相対的な価値観でしかないこと。(常に自分基準での他者の推し量りになること)
例えば、商売をばりばりやってものすごくお金を稼ぐのが上手な人と、アルコール依存症で無職の人を比べた場合、一見、ばりばり稼ぐ人は「がんばっている」、アルコール依存症の人は「がんばっていない」と世間では見なされがち。
しかし、そのアルコール依存症の人も、例えば子供時代にされた親からの虐待のトラウマから逃避するために飲酒が常態となってしまい、結果アルコール依存症やアルコール中毒になってしまったといった理由があったとする。
その人は内心の葛藤としてはとても「がんばって」いる。目に見える社会的な結果としての他者の評価「がんばっている」は得られないかもしれないが、その人が「がんばっている」のは事実。
なんでも自分のすることがうまく行く人から見ると、やる気や誠意のないように見える人もいる。
これは、うまくできる人が自己の価値観を無意識に他者に押しつけて、そこからその人を否定している。
しかし、実際のところ、やる気や誠意のないように見える人も、その人なりにがんばっている。
そこを斟酌せずに、あたまから否定をしてしまえば、その人はさらにやる気や誠意を出せないところに追い込まれていく。すると、その人への「がんばっていない」というレッテル貼りは、より強化されていってしまう。
ネット上で「まじめ系クズ」などという言葉が見られる。
主に、他者とのコミュニケーションが得意でない人たちが、自虐的に自分を卑下するときに使われている。
思考がまじめすぎるがゆえにいろいろ考えてしまい、そこに他者への自己表現の苦手さ下手さがあいまって、実際の行動がうまくいかなかったり、そうなってしまった理由を説明することができないことから、「ダメな人間」というレッテル貼りをされ、さらにはそれを甘んじて受け入れてしまったり、そういった現実の場面での対処の難しさゆえに、他者と関わらないことを選ぶようになったり、をさしているようだ。
ある種の発達障がいの人もこの状況になってしまうことがある。
このように成果やがんばっている過程を如実に表せる人・見える人は「がんばっている」とされ易いが、それらができない人は「がんばっている」とされにくい状況がある。
これらを踏まえると、「そもそもがんばっていない人などいない」と考えることができる。
さて、前提が長くなってしまったけれども、これを念頭に置けばいくつかのことが見えてくる。
◆そもそも「がんばらせる」必要そのものがないこと
問題は、その人が「もっとがんばるか」「がんばらないか」ではない。
人は基本的に、みな「がんばって」生きている。
ただ、他者に見える結果につながるがんばりが出せるかどうかの違いがあって、そこには以下の理由がある。
a,結果を出すための行動の方向性がわからない
b,がんばれない状況を持たされている
c,その人の適正、能力と要求されていることが釣り合っていない
a,は前回の松岡修造のレッスンを考えるとわかりやすい。
「この方法ではうまくいかない?じゃあ、この方法もあるよ。一緒にやってみよう。うん、この方法もあなたには合わないようだ。じゃあ、この方法はどうだろう。あきらめないで試してみようじゃないか。おっ、これはなかなかいいようだ、すごいじゃないかあなたはこんなにできるじゃないか。あなたには、この方法が必要だったんだね。あなたの能力が低いわけでも、努力が足りなかったわけでもなかったね。いやーよかったよかった。本当に素晴らしいよ、私もうれしい」
最近の言葉で言うところの「チューター」の役割を持てる人がいれば、その人の「がんばっていないと見える」状況は解消される。
しかし、「がんばれ」を精神論にして他者否定になってしまうことの多い現状では、こういったチューターができるスタンスを持った人がとても少ない。
b,がんばれない状況は、簡単に周囲から持たされてしまう。そしてそれは、その人の努力が足りないわけでも、怠けているわけでもない。しかし、しばしばその本人自身も、周囲もそのように思い込んだり、決めつけたりしてしまう。そのことは、その元の問題以上にその人に生きづらさを与える。
例えば、親が食事や食べるものをほとんど用意していない子供がいたとする。しょっちゅうお腹を空かせてイライラした状況を持っている。この子が周りの子に暴力的だったとして、それは全部その子の責任か?その子がわがままで聞き分けのない性格なのか?
その子の問題は、その子の努力や責任とは別のところに原因がある。
これは子供に限らない。
こういった状況をうわべだけ見て、否定し、「がんばっていない」とするのは簡単。
しかし、事実を見る目を持っていれば、その相手を否定しないで問題解決を一緒に考えることができる。
その元の問題が完全に解決しなかったとしても、誰かが一緒に考えたことでその人の持つ状況は前進する。
c,もしその人が仮に両腕がなかったとしたら、その人にビールケースを運べと要求してくる人はまずいない。しかし、人の持つ能力は可視化できるものばかりではないので、往々にしてこれが起こる。
子育てや保育の中でも、このことは非常に多い。
発達段階が至っていなかったり、その子には能力的に無理なことを押しつけていたり。
それだけならまだしも、その結果の「できないこと」に対して、非難をしたりなじったり、感情的な不快を示したり。
これでは、育つものも育たない。
これは、職場の後輩指導などでも同様。
ここには、その課題、要求を出す側の責任がまず第一に発生している。
しかし、そこに無自覚だと、その相手を責めることにおちいってしまう。
「がんばれ、がんばれ」
善意で言おうと、悪意で言おうと、要求を出す自身への視点を持っていないと、自分の非を他者に押しつけるという結果になる。
◆「がんばれ」という言葉に代わるもの
↑これらを、自身のスタンスとしながら、以下の言葉が考えられる。
解説しても心の機微までは表現できないので、言葉だけ書く。
・「あなたは十分にがんばっていますよ」
・「あなたはどう思うの?」
・「うんうん、ああ、そうなんだね~」
・「それでいいじゃない」
・「そうか~そう思っていたんだね~」
・「ええんやで~」
・「そこがスタートラインでいいんじゃないかな」
・ただ寄り添う
ブログのトップに載せているのだけど、気づいていない人も多いとのことなので僕のHPの「子育てカウンセリング申込みページ」ときどき貼り付けておきます。対面相談、メール相談、電話(LINE、スカイプ)相談があります。
保育士向けの保育相談、仕事の悩み相談も同様にやっています。
保育士おとーちゃんホームページ 「子育てカウンセリング」
| 2018-08-22 | 日本の子育て文化 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
「がんばれ、がんばれ」の秘密 - 2018.08.21 Tue
◆
以前、子育てが自己犠牲に知らず知らずおちいってしまう、またそのように仕向ける雰囲気があることをいくつか記事にも書いたけれども、「がんばれ」には、言われた人を自己犠牲的にすることによって、かえってその人を追い込む場合があること。これがひとつ。
◆
もうひとつは、善意であれ、悪意であれ、その人の「現状の否定」を前提として「がんばれ」と言ってくる人がいること。
例えば、「もっと算数の勉強をがんばりましょう」という良く通知表に書いてありそうな言葉。
これは、「(現状あなたのその算数の理解ではダメなので)」という前提があって、「がんばれ」と言っている。
これは、「応援の言葉」はおまけに過ぎなくて、メインになっているのは「相手の否定」。
善意で言おうと、悪意で言おうと、「わたしはあなたの現状を否定します」というスタンスに変わりはない。程度の差だけ。
場合によっては、善意で言われることの方が相手を追い詰めることがある。
悪意で言われるのは、「なんだそんなのむかつく!」などと突っぱねることもできるが、なまじ善意でいわれてしまうと、それもできないのでより強く追い詰められる。
例では算数を引き合いに出したけれども、大人に対してもこの論法の「がんばれ」はたくさん使われている。
そして、「がんばれ」が使われる文脈で一番多いのも実はこれ。
◆松岡修造の「がんばれ、がんばれ」の秘密
「がんばれ、がんばれ」で有名なのはなんといっても松岡修造だけれども、彼の「がんばれ」はある意味で一般に使われる↑の「がんばれ」とは別の用法になっている。
彼は、「現状の否定」からの「がんばれ」ではなく、「あなたならできると私は信じている」という前提からの「がんばれ」になっていること。
また、そのスタンスが単なるポーズではなく、本心から本気でそのようにとらえている。
さらには、それを相手の責任にして言いっ放しなのではなく、自身の責任として「その人ががんばれる状況」を次々に提示できるスキルも持っていること。
どういうことかというと、
その人が、ある練習方法では(その人自身)満足・納得いく結果が出せない場合、次々とその人に適した練習方法を提示し、その人が頑張れる状況を自身の責任として相手に用意するところまで含めた上で、その人に「がんばれ、がんばれ」と言っている。
これはなかなかできることではなく、相手に厳しいのではなく自分への厳しさを前提に持っている。
だから、彼の「がんばれ」にはイヤミがない。
| 2018-08-21 | 日本の子育て文化 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
「道徳」の落とし穴 vol.2 自己犠牲について - 2018.07.10 Tue
ここには、ある種の誤解、もしくは思い込み(というより”思い込まされている”)があるのかなと思います。
まず、
「人のために行動する ≠ 自己犠牲」
を理解しておきましょう。
おそらく多くの人が、「人のために行動することは大切」と考えているのでしょう。
別の言葉で言えば、「思いやり」「優しさ」ということでしょうね。
これは、「利他的」ということです。
「利己的」というのは、自分のために行動することで、「利他的」というのは他者のために行動することですね。
「人のために行動する = 利他的 ≠ 自己犠牲的」
人のために行動すること、必ずしも自己犠牲する必要はないのです。
(ちなみに、自己犠牲を称揚していくと「利己的=悪いもの」と考えがちですが、「利己」が必ずしも悪いわけではありません)
ひとつたとえ話をしましょう。
バス停で並んでいたとします。自分の後ろにも何人か並んでいます。
そこへ目の悪い人が来ましたが、どこに並べばいいのかわからずに困っているようです。
その人を手伝いたいと思いました。
さて、どうすればいいでしょうか?
1,その人に「ここですよ」と教え、自分も一緒に列の最後尾にならんだ
2,「ここにどうぞ」と伝えて、自分がならんでいた位置にその人を並ばせて自分は最後尾に並んだ
3,「ここにどうぞ」と自分のならんでいた位置に誘い、そこに一緒に並んだ
さて、実はこのどれもが必ずしも最適解とも言えないのです。(事情や状況によりかわることはありますが)
1,2,は、手伝おうとした人が自己犠牲をしています。
自己犠牲を美徳だと思っている人は、自分が自己犠牲をしたことにより気分がよくなりますが、当の手伝ってもらった目の悪い人は、自分のせいで他者に不利益をこうむらせてしまったことでいたたまれない気持ちを持ちます。
3,は後ろに並んでいた人からすると、割り込まれたようで気分がよろしくないですし、手伝ってもらった人も結果的に割り込みをしたことによりいたたまれません。
これが絶対の正解というわけでもありませんが、誰にも負担をかけない援助は次のケースになります。
4,「ちょっとお手伝いしてきますね」と自分の並んでいる前後の人にことわって、場所をとっておいてもらって、目の悪い人を列の最後尾を教えて並ばせたら自分がそこに戻ってくる
このケースだと、誰も負担をこうむりません。
自己犠牲はしばしば美談として描かれますが、1,2,のようなもので深刻なケースが、災害時など自分が救助されたのに、救助に来てくれた人が亡くなってしまったケースです。
一見美談ですが、場合によってはこの救助された人は一生良心の呵責に悩み続けなければならないといったことが起こりえます。
だから、消防やレスキューの人など、自己犠牲ではなく最大限の安全確保の上で救助することを第一に考えています。
福祉の仕事も、利他的な行為です。
しかし、利他的と自己犠牲的を混同している人が世の中に多いために、報われない仕事となっています。
「お金ではなく心意気で」と、仕事なのにまるでボランティアかのように思われていたり、
「福祉といっているくせに高い給料をもらってけしからん」そんなモラハラまであります。
福祉職の給料が上がらない背景には、そんな自己犠牲と利他の混同が理由のひとつあるのだという気がします。
補足しておくと、ボランティアだって自己犠牲ですべきものではないですよ。
しかし、ボランティアを自己犠牲だと考えている人がいて、しかもそれをする側ではなく、してもらう側にいたりすると、これはもうひどいものになります。
すでに、東京オリンピックのボランティアなどひどいものになっていますね。
◆
さて、人間の心というのは、必ずバランスを取るようにできています。
自己犠牲をなんの問題もなくずっとし続けられるということは、まずありえないのです。
なかにはそれが可能になっているように見える人もおりますが、その人はどこかで精神的なバランスを取ることができているのでしょう。
自己犠牲をしつづけていくと人はどうなるかといえば、意欲が低下し燃え尽きるか、他者に対して攻撃的だったり意地悪になってしまうことが起こりえます。
コメントにあった助産師さんのケースがまさにそれですね。
これと同じことが、子育てでも起こります。
親が自己犠牲的に家事や子育てをしていくと、知らず知らず誰かに当たりたい心理を形成してしまいます。
それによって夫婦喧嘩が増えたり、子供にイライラがを激しく感じたり、過剰に感情的になって怒ってしまったり。
僕は保育士への研修でも、自己犠牲で保育をしないこと、園全体の空気を自己犠牲を強要するようにならないことを、あの手この手で伝えています。
そこを意識的にやっていかないと、園全体が意地悪になってしまったり、保育の大変さを「子供のせい」「親のせい」と言い続けることになりかねないからです。
それらを続けていくと、保育の中で疎外や感情的な否定の関わり、自尊心を傷つけるような関わりが慢性化した「意地悪保育」になってしまいます。
また、良心的な人は不適切な保育にならないまでも、自身がイライラしていたり、意地悪な気持ちがでてしまうことに自己嫌悪をもって苦しみます。
◆親から子への自己犠牲
現代の子育てで多く見られるのが、「親が自己犠牲をして子に尽くす」タイプのものです。
これを頑張る人が多いのだけど、これはかえって子供のためになりません。
子供はこう考えるからです。
お父さんお母さんは自分のためにいろいろしてくれる
↓
でもちっとも楽しそうでない。それどころかなんだか不機嫌だったり怒っているみたい
↓
満たされないな~
↓
もっと満たして欲しい、だからいろいろ要求しよう
↓
親は自己犠牲をして子供に尽くす
(上記がループ、これらが蓄積された結果↓)
↓
人と関わるときどう関わればお互いが気持ちよく過ごせるのか、実際の経験で学べなかった
↓
要求や困らせること、嫌がることをすることを「対人関係のモデル」として獲得
↓
年齢があがりそれがその子の性格的なものの一部となってしまう
子育てが親の自己犠牲でなんとかなるのは、子供がごく小さい内だけです。
2歳くらいからそれがしんどくなる人も入れば、もっと大きくなり5~6歳またはそれ以上の年齢になっても子供に対する自己犠牲をし続ける人もいます。
しかし、それで子育ての大変さが解決することはありません。それどころかさらに大変になっていきます。
結果、子供と離れていたい、子供はゲームでもやって静かにしてくれているのがいい、そういった気持ちになってしまう人がとても多くなっています。
「子供の尊重」って、自分が自己犠牲して子供をヨイショすることではないのですね。
子供も一人の人間として考えて、自分がイヤなことはイヤと堂々ということも、むしろ子供の尊重です。
| 2018-07-10 | 日本の子育て文化 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
「道徳」の落とし穴 vol.1 - 2018.07.03 Tue
グレーなものから、それこそブラックなものまで。
「道徳って正しいこと」という認識だけでは、これからの時代、子供たちの幸せにはつながらないかもしれません。
僕の感じるところを不定期で何回かにわけて書いていこうと思います。
さて、ではなにから話しましょうか。
切り口がたくさんありすぎて、迷ってしまいます。
◆「道徳」と「道徳観」は違う
コメントの中で「あいさつ」に言及しているものがありました。
僕は「道徳」を肯定しませんが、「あいさつをすることは大事なことだなぁ」とは思います。
ただ、「あいさつすること」を「道徳」として教えることは必ずしもその必要はないと考えます。
むしろ「あいさつ」を「道徳」で考えることは、危険ですらあります。
少し説明しましょう。
まず、「道徳」としてあいさつを考えているその仕組みを見てみましょう。
・「あいさつをするのは正しいこと」 という「道徳」が前提にその人の念頭にある
↓
・正しいことだから、子供に「あいさつしなさい」と教え込んでいく
↓
・子供があいさつできる子になる(満足) or 子供があいさつしない(不満足)
・不満足の場合、それをなぜしないのだと否定的な感情を覚える
↓
・あいさつするように、繰り返しアプローチしていく
別にこれ以外の感じ方や、アプローチをすることもあるでしょうけれども、とりあえず模式的に書いてみました。
さて、子供って本当にこの方向でものを身につけているのでしょうか?
ここに多くの人が、先入観として持っているひとつの誤解があります。
あるとき、妻にこう言われました。
子供たちのお箸の取り方が僕と同じだねと。
何のことをいわれているのか最初わからなかったのですが、自分で言うのもなんですが食に関しては僕は育ちがいいのです。実家がそれなりの料理屋だったもので。
で、僕は、お箸を取るとき置くとき、無意識に左手をそえて持ち替えているのですね。うまく説明できないけど、日本舞踊なんかでも扇子を取るとき置くとき左手で一度受けておいたりしますよね。あんなかんじ。
もともと無意識でしていたので、当然ながら子供に直接教えたということはありませんが、いつの間にか、子供たちにはそれがうつっているわけですね。
本当にいわゆるところの「箸の上げ下ろし」というやつです。
子供の成長の一義的なものは、実はこちらなのですね。
教えてやらせるというのは、子供の成長のメカニズムから言えば、二義的なものです。
多くの人が、子供のそういった「身仕舞い」を「教え込むもの」といった無意識の理解を持っていますが、それが子供へのアプローチの全てと考えては、子供の成長のメカニズムを見誤ることになります。
一義的なそれなしに、二義的なそれだけを頑張ったところで、そうそう身につくわけではありません。
逆に一義的な部分さえ押さえておけば、二義的なそれなしでも、子供に身についていきます。
(ピエール・ブルデューの「ハビトゥス」の概念の基礎部分ですね)
あいさつに戻って考えてみましょう。
「道徳」としてあいさつを教え込まなくても、身近な人、子供が信頼している人が、それをしているのを環境的になじんでいれば、子供は教え込まれずともそれを身につけていきます。
ただし、「やりなさい」と強制するよりも、目に見える結果がでるのには時間がかかるでしょう。
しかし、子供は必要なときに、必要な場面でそれを自分でするようになります。これが本当の意味での子供の成長というものです。
大人に言わされたからする、言わせる人がいないと、怒る人がいないとしない、という状態になってしまっては、それは成長ではありませんね。それは動物の「調教」のようなものに近いでしょう。
こう見てくるとわかるかと思います。
「これが正しい」と教え込むことが、「道徳」=「道徳観」とはなり得ないわけです。
「道徳」として教え込まずとも、その子が適切に他者への信頼感などの心の成長を得ていれば、それをその人たちから引き継いで「道徳観」は形成されます。
まあ、僕はそれをわざわざ「道徳観」と呼ぶ必要性を感じませんが。まあ、身につくものは身につきます。
実際面として、「これが正しい」を前提としておくと、それができない状態に対して大人は、肯定的・許容的な見方が難しくなります。それどころか、否定的な心理になることを留められないこともあります。
結果、子供のできない状態に対して、注意する、怒る、叱る、こういったマイナス方向の関わりが増えていきます。
それゆえに、かえってそのものごとを気持ちよく身につけられないということが往々にして起こります。
この背景には、「正しいことを上下関係の中で押しつける」という「道徳」のもつ負の側面が隠れています。
◆「道徳」は「排除」を生む
「道徳」って実のところ、そんな素敵なことではありません。
「道徳」が燦然と輝く善なるものであれば、モラル(道徳)ハラスメントなんて起こりませんよね。
「道徳」を強調すればするほど、場合によって、人によって攻撃やいじめが起こりえます。
ある人が、思春期に「髪を伸ばしてはならない」「長髪は子供らしくない」「坊主頭にすべきだ」と大人から教え込まれたとします。
それに反発を覚える人もいるでしょう。
それをそのまま自身の価値観として取り込む人もいるでしょう。
反発を感じながらも、その価値観に同化していく人もいます。
これが、例えばどんな人格形成をもたらすか?
必ずみながそうなるわけではありませんが、中にはこのように感じたり、考えたりするようになる人もでてきます。
「髪を伸ばしているやつは、チャラチャラしていてダメなやつだ」
さて、甲子園の高校野球では、一時自由な髪型が増えたそうですが、近年はまた坊主頭が増えているのだそうです。
そういった指導者の中に、この価値観を持っている人がいたとしても僕は驚きません。
坊主頭でないからと言って、別になにか悪いことをしているわけでもありませんね。しかし、その人は過去に形成された価値観ゆえに、その価値観に適合していない人をこころよく思えないという人格を持ってしまっています。
価値観の統一化や、その強要というのは、実は些細なことであれ安易に用いるべきことではないのです。
もし、社会が均一で、その価値観にはみ出る人がいないような状況。例えば封建時代などであれば、そういったことでも社会は問題なく運ぶのかもしれません。
しかし、現実には、さらには現代では多様な人がいるのが当然です。
多様性への理解、多様性の尊重を踏まえておらずに、「道徳」を語ることは大変に危険な行為です。
今一度、あいさつの話に戻ってみましょう。
僕は保育士の研修の中で、もし「あいさつって重要ですよね?」と聞かれたら、「そうだね。重要じゃないってことが重要だね」と答えます。
なぜなら、例えばある種の発達上の個性を持っている子のなかには、あいさつがしたくてもできない子がいます。その子は心の中では、あいさつをしたい、しなければならないということを重々理解しているのだけど、対人関係に緊張があったり、「しなさい」と怒られた経験などから、かえってそれができなくなってしまっています。
「あいさつできることは正しいこと」という価値観を強く持った人が、その子に関わると、その子はひたすらに否定され続けることになります。
怒ったり叱ったり、否定的な関わりをしない人であってすら、「この子をあいさつできるようにしなければ」と思っていれば、「ああ、この人は僕のことだめだとおもっているんだな」という否定のニュアンスを子供にもたらしてしまうことを留められません。
すると、目先のあいさつができるできない以上に重要な自己肯定感や自尊感情、ものごとへの意欲、他者への信頼感などを損ないかねません。
あいさつは、放って置いてすら時期が来れば、また環境がそれを必要とすれば、子供はするようになります。するようにならなかったとしても、そこでできないという結果から失敗をすることで、その子なりに考え乗り越えていきます。
本当に大事なものを損なってまで、大人の満足感のために目先の「できる」をつくりあげるのは、子供の人格形成をする上で避けるべきところでしょう。
◆
「それは社会生活上、必要な習慣」と考えるべきことは多数あることでしょう。
しかし、それを「道徳」として、必ずしも「できなければ許されないこと」のようにしてしまう必要はありません。
しかし、大人の方がすでにそういった価値観をすり込まれている場合、なかなかそういった気持ちから抜け出すのが難しいのも事実です。
僕はこのあたりの問題を、「統一的価値観」と「規範意識」の問題として、研修などのなかでもテーマにしています。ここに多少なりとも、客観的な視点を持てないと子供に適切なアプローチができなくなりかねないからです。
僕の子供時代、生徒をえこひいきする教員がたくさんいたのを覚えています。
「こうすべき」という価値観を強く持っている人は、それに当てはまらない状況(子供)を許容することが難しくなってしまうのです。
ちなみに、これは保育士になってからも少なからず同様のものを見てきました。
「人の性」というもので、勉強や知識だけでは簡単に乗り越えられない類いのものなのでしょう。
だから、身につけるべきことを、「道徳」のように「絶対正しいこと」といった色づけをして持たせることはリスキーなのです。
今月末に出版のようですが、こちらの本がちょうど最近書いていた「自己犠牲」などの内容とドンピシャリのようです。
ご興味ある方はどうぞ。
『不道徳お母さん講座: 私たちはなぜ母性と自己犠牲に感動するのか』 単行本 – 2018/7/27 堀越 英美 (著)
| 2018-07-03 | 日本の子育て文化 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
努力・自己犠牲・感謝という道徳観について vol.2 - 2018.06.30 Sat
それはあの方向では、これからの社会その人が生きやすくならないからです。
これは世界の教育の潮流からも言うことができます。
いま世界の教育で、子供たちに持たせるべきと考えられているふたつの大切なことがあります。
1,意見表明
2,環境(社会)を変える力
このふたつです。
1,自分自身の感じていることを表明し人に伝えることができるスキル
そして、
2,もし、その状態、環境がそこで生きる上で不適切なものになっているのならば、それを改善することができるスキル
このふたつが重視されています。
これをもたせるために、それこそ小学生の内からこういったスキルを身につけさせ伸ばしていっています。
少し前に、アメリカで銃乱射による無差別殺人から、銃規制を求める数百万人単位のデモが起こったのを覚えている方もいるかと思います。
これは、最初に高校生がはじめたことでした。
ヨーロッパで難民問題が過熱化していたとき、ドイツの空港で、パイロットが難民の送還を拒否して(送り返されると処刑される恐れがあったため)何機もの飛行機が飛ばなくなったケースを報道で目にした方もいることでしょう。これはその後、あまり大きなニュースになりませんでしたが、トルコでも同じことが起こっています。
このニュースが日本で報道されたとき、ヤフーニュースなどのコメント欄の意見には、「他の乗客の迷惑も考えないで」といった、そのパイロットを責める言葉や攻撃的な意見が多く見られました。ネット上のコメントは過激なものが多くなるとは言え、これはいかにも日本的な考え方だと感じさせられました。
諸外国では、自身の意見を表明することと、ネガティブなもののあり方を改善しようとする、このふたつのことが重視されています。
日本では逆のことが重視されています。
子供が学校など外の世界で不遇な状況におかれていたとき、こういった考え方で子供を諭す人が多くいます。
「社会に出たらもっと理不尽なことがあるのだから、いまそこから逃げたらずっと逃げ続けなければならなくなってしまう。頑張って辛抱しなさい」
こんな言葉に類することです。
特にこの考え方をするのは男性(父親)に多いようですが、女性にももちろんおります。
これが例えば、我が子が
「実は自分のクラスで、いじめられている子がいる。自分はそれに加担しているわけでもないけれど、それを助けることもできない。そんな中で過ごしていることがとてもつらい。自分はどうしたらいいだろう?」
そのようなことを告白されたら、親としてどのようなアプローチができるでしょうか?
そのいじめという問題への対応が難しいだけでなく、これはとても難しいです。
なぜなら、私たち大人自身が、不適切な状況におかれたときにそこを改善するためのスキルというのを教育、その他の中で身につけさせられていないから。
耐えなさい、辛抱しなさい、努力しなさい、弱音を吐くな
こういった、自分を押さえ込んだり、自分に負荷をかけていく方向のものばかりを、いまの日本で生きる大人も持たされてきてしまっています。
自身の意見を表明するにも、実は気持ちのあり方だけでなく「スキル」が要ります。
不適切な状況を改善するのにも、そのための「スキル」が要ります。
先の4コママンガのその作者をそこに至らしめてしまったもの。
「頑張りなさい」「我慢しなさい」「文句を言うな」「わがままを言うな」「他者を責めるな」「弱音を吐くな」、こういった漠然とした道徳観や雰囲気の中で、子供たちは育ち、大人もそこで生きています。
では、試みに「意見表明」「環境を変える力」を踏まえた上で、あのシーンを考えてみましょう。
もし、周りの人が気づかずに、自分だけが大変な仕事をしていたとしたら。
「ねえ、知ってる?○○の仕事、ずっと私がやっているんだよ。
これまでなんとなく気がついた人がやるような感じになっていたから、私が気づくたびにやっていたのだけど、さすがに最近では私も他の仕事もいっぱいになってしまってかなりしんどいので、今度から順番でみんながやるようなシステムを作ってみない?」
このように、自分の意見(感想でも)を表明して、現状を変える手段をその人が持っていたら、「私だけが頑張っているのに・・・・・・」そういう思いから解放されることになります。もしかすると、その他の人も、私が気づかないなにか別の仕事を一人で頑張っているのかもしれません。そういったことも意見を表明し、話し合う場を作ったりすることで可視化することもできます。
ただ、黙って辛抱して努力することがいいことではないのです。
むしろ、大変なことは大変、できないことはできない、そういった個々の人のあり方を出し合うことでよりよい社会、生きやすい状況を作り上げていくことが現代の人にとって大切なことになってきています。
「美徳」や「徳目」「道徳」。こういったことは、画一的な社会であれば機能します。
そこでは価値観がひとつなので、「これが正しい」「こうしなさい」ということがあって、それを学び、守っていれば人々はそこで気持ちよく過ごすことができます。
しかし、そういった時代はとっくの昔に終わりました。
これは良い悪いではなく、自然な時代・社会の変化というものです。
自分にとってはとても簡単なことが、他の人にとってはとても難しいものであることもあります。
こういったことは、その人その人が表明しなければわからないことです。
上のように、自分の意見を言うことを「それを許容していると、人はわがままになる。だから、そうするべきではない」と考える人もいます。
それは必ずしもそうではありません。
よしんば、それが単にその人のわがまま、自分勝手なことだったとしたら、それもみなで意見を出し合った上で、それが必要な意見なのか、単なる自分勝手な意見なのかということに、気づいていけばいいことです。
なので、個々が意見を言うようになると人はわがままになるというのは、思い込みに過ぎません。
◆
いま学校の教員の自主研修の中で、「トイレを素手で洗う」というものが、一部に人気を博しています。
僕はこれを大変恐ろしく感じています。
これがその人にもたらすものは、
「献身、自己犠牲、奉仕の心、人知れず努力すること、人に率先して人が好まないことを為すこと」
こういった、美談的道徳観です。
もし、こういったことが大切だと子供の頃から教え込まれていくと、人は上司からのハラスメントを我慢して受け続けたり、ブラック企業に勤めてしまっても、そこで自分の身体や心を壊すまで働き続けるような人間が作られないとも限りません。それこそ徴兵制だってこの理屈で通すことができてしまいます。
すでに、こういった方向の教育を受けて、そういった大人が大量に作られているにも関わらずです。
本当は、
「これっておかしいと思わない?」「こういう風にしたら、いまの状況をみんながいい方に改善できるのではない?」
こういうスキルこそが必要なのです。
美談的道徳観を大きく持っていくと、これは逆に人を攻撃する人間すら作り出します。
例えば、このブログの読者の方でしたら、産休や育休を取得するときどうでしたか?
こころよく送り出してくれた職場もあることでしょう。
しかし、そうではない人もいたことと思います。
自己犠牲を強いるようなスタンスでは、その負荷を受けるときにそこに大きな不満を持つようになってしまいます。
「あの人だけずるい」「独身者は損ばかりする」
こういうときこそ、状況をいい方にかえる力が必要なのです。
「課長、育休者が2名重なって、いま事務職員に負担が大きくなっています。こことここの書類はひとつでも問題ないので、一本化して負担を軽くできるように許可して下さいませんか」
例えば、こんな風に。
こういった方向で考えることができれば、その人を責める心理を持つこともなく、育休者が帰ってきた後も、むしろ仕事の負担は軽くなりますよね。
諸外国で、育休などが男性であっても当たり前にとれる状況が生まれているのは、このようなものごとを合理的に考え改善するスキルを社会の多くの人がもっているからこそなのです。
自己犠牲を美徳とする社会はもうやめませんか。
参考:
・米国 4分間は沈黙 共感広がる女子生徒の演説 銃規制
https://mainichi.jp/articles/20180327/k00/00m/030/114000c
・今回は違う! 銃社会アメリカを拒絶する賢い高校生たち
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/03/post-9743.php
・侮辱された銃規制運動の高校生、TV司会者に反撃 スポンサー続々撤退
http://news.livedoor.com/article/detail/14556556/
・イエローハット創業者が実践、熊谷の中学校でトイレ掃除 生徒や保護者ら109人、心とトイレ磨く
http://www.saitama-np.co.jp/news/2017/12/18/09_.html
・「素手で集団トイレ掃除運動」の政治性について
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20081109/p1
・「素手でトイレ掃除」は洗脳以外の何者でもありません
https://note.mu/matsuhiro/n/n7c9605cf68ad
・素手でトイレ掃除させる会社は完全にブラックと言い切れる理由
https://roudoutrouble.net/toiket_barehand/
・ホッピー採用ページの「素手でトイレ掃除」が話題に 「不衛生」「さすがに食品企業がこれだと気分は良くない」
http://news.nicovideo.jp/watch/nw3319551
↓トイレを素手で洗うを推進しているケース 子供への洗脳の過程としてみると興味深い
・【2006年の記事 イエローハット鍵山さんの講演会感想】
https://blog.goo.ne.jp/hime1961/e/08ef005cc4416f9455e7c7269fd55954
https://blog.goo.ne.jp/hime1961/e/23221b5ca84082dc97d1ba6902ac613d
・新入社員研修におけるトイレ掃除の意味と意義についての研究
http://www.eco.nihon-u.ac.jp/center/industry/publication/research/pdf/31/31ohmori.pdf
| 2018-06-30 | 日本の子育て文化 | Comment : 18 | トラックバック : 0 |
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