人類の歴史をみるとそれは戦争の連続です。
現代日本のように数十年も戦いのない時代というほうが、むしろ珍しいことといえます。
かつて戦争の時代において重要になっていたのは、自分の命をかえりみないような勇敢さだったり、人のそれも尊重しないような冷酷さだったりしました。
愛されないこども、虐待されて育ったこどもには、自分を肯定する、大切にするという感覚が乏しくなることがあります。
そういう風に形成された人格は、戦争が普通の状態であった時代には有用な才能となったのではないかと思い至ったのです。
そしてこのことは、歴史をなぞりかえせばたくさんの実例が見られます。
例えば、日本の歴史において知らない人のいない人物。
織田信長と伊達政宗はその生育歴上とても類似した部分があります。
両者ともに実母に愛されず、弟ばかり溺愛されあまつさえ実母から暗殺までされかかったのです。
織田信長は冷酷非常な人格はあまりに有名ですが、その結果彼は覇者となり戦国時代を終焉にむかわせるきっかけを作りました。
伊達政宗にしても、「あと数十年生まれるのが早ければ天下を統一した」といわれるほどの勇者、傑物であったのは有名な話ですね。
また、信長の後に続いた覇者たちも恵まれた幼少期を送ったとはいえません。豊臣秀吉は再婚した母・義父との関係がうまくいかず、いられなくなって家を飛び出して放浪の末に信長の家来となったひとです。
徳川家康にしても、幼少期から親元を離れずっと過酷な人質生活を送った人物です。
こういうものは日本の歴史にとどまりません。
マケドニアのアレクサンダー大王はインドに到達するほどの征服戦争を繰り広げた人物ですが、親から愛されず父に疎まれた王子としてあまりに有名です。
いまでも「スパルタ式教育」と名前の残るギリシアのスパルタという都市国家は幼児期に親元から完全に切り離されて、冷酷無比な戦士教育をする国でした。そのスパルタ兵300人を中心としたギリシア連合軍が全滅するまで戦い、数万のペルシア軍を撃退した「テルモピレーの戦い」はスパルタ兵の勇敢さを示す逸話として知られています。映画「300」の元となった話ですね。
戦争の英雄の愛されなかった生い立ちなど歴史を掘り返せばいくらでもでてきます。
このように愛情や保護からかけ離れた生い立ちが戦乱の時代では威力を発揮するのではないかと考えたのです。
これを僕に思いつかせたのは、小学校の同級生であったO君のことを大人になっても覚えていたからです。
彼のお父さんは暴力団関係の人でしたが、身体を壊し家にいることが多かったそうです。母親はいなく、普段から父親の暴力的な虐待を受けていました。
小学校2年か3年生のときだったと思います。
そんな彼になぜか僕は好かれていたようです、なんでかは今もってわかりませんが。
2人で1階にある給食室へ給食をとりにいくことになりました。
階段にさしかかると彼がいきなり肩を組んで「絶対止まるなよ」というなり全速力で駆け下りるのです。階段の段を踏んで走るのではなく、角だろうとどこだろうと足がかかったところを蹴っていくと、ものすごいスピードだけど転ばずに降りられるのです。僕はものすごく怖かったですが、彼は眉一つ動かしませんでした。
4年生のとき自転車で走っている彼を見ました。
路線バスが走る幹線道路の真ん中のライン上を走っているのです。
右車線と左車線をわけるラインです。
ものすごく交通量の激しい通りの車が対向で走ってくるところを全力で走っていました。
その光景をずっと忘れなかったのですが、こども関係の仕事に就くようになって、あるときふと思いついたのです。
「彼は自分の命とか存在ってもの自体をなんとも思っていなかったのだな」と。
そんな彼はいつのまにか小学校からいなくなっていました。ただ学校に来なくなっただけなのか、転校してしまったのか、誰からも彼の話を聞くことはありませんでした。
初めに「虐待が必要だから」と書きましたが、現代の日本でもそれが必要だとは思いません。
「かつての必要」だったからこそ、社会全体で取り組んで乗り越えなければならないのだと思います。
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