たしかに、小さなこどもは記憶力が大人よりも優れている面があって、それを利用してひらがなの読み、漢字や英語など、覚えさせてしまうことは可能です。
また、それが前回のところで述べたように、早期教育の根拠となっていました。
例えば、2歳くらいの子に「山」というカードを見せてこれは「やま」と読むのだと繰り返し教えれば、それをみたときに「やま」と言うことはできます。
そして、そう言えるのを親や先生がほめ喜んであげることで、こどもはもっと覚えて喜んでもらおうと覚えるでしょう。
でも、その「山」という漢字を読めるようになった知識は、必ずしも有機的に機能するわけではないのです。実際の山と結びついてそれを思考しているわけではないからです。
1+2=3ということを定型的に覚えさせて、それを正解させることは可能ですが、実際のものの計算という抽象思考をしているわけではないのです。
物を模式的につかって、計算させることもできるようになるかもしれませんが、それもやはり定型的に覚えさせているだけで、必ずしも抽象的な思考の結果になっているわけではないのです。
だからオムツのときと同じように、親から見て出来るように感じるだけで、大人や学齢期のこどもが覚えるのと同じように理解し、認識しているのとはちがう状態なのです。
つまり、「親ができてると思える状況」になっているにすぎません。
それは、しょうがないことなのです。
低年齢のこどもの抽象概念の理解がそこまで到達していないからです。
定型的にくりかえし覚えて、そのことはわかるけど応用はできないのです。
だから、ほんとうに生きた知識ではないので、場合によっては消え去るのも早いです。
早期教育は、入れ物(大脳の大きさ)が出来ているのだから、何でもかんでも放り込んでしまおう、早くから入れたほうが入れ物は大きくなるはずだという理屈なのですが、ここがちょっと短絡的であるようです。
入れ物があるからといって、何でもたくさん放り込むことによって、処理しきれない物であふれ、より基礎的なものが小さいまま取り残されたり、傷つけられてしまうということが弊害としてでてきています。
フラッシュカード式の早期教育は0歳からあるそうですが、それを熱心にやった結果、情緒が不安定になったり、目が合わない子になったり人と関わることが苦手になる。落ち着かない。きれる。奇声をあげる。普段おとなしいのに突如として攻撃的になるといったこともあります。
ごく低年齢でも知識を記憶することは出来るけれども、それは本来その時期に身につけるもの、例えば人への愛着形成や信頼関係、甘え受け止めてもらうこと、感情を素直に表すことなどなどを脇に追いやって身につけているということがあるのです。
僕もこういう子に関わった経験があります。
たしかに、物事の認識などはその年齢にしては発達していると思える部分もあるのだけど、目があうとそらしてしまったり、普通なら大笑いするような人との楽しい関わり、くすぐったり、顔遊びをしたり、身体で遊んだりしても無反応だったりと、情緒の面ではその年齢で期待できる程度よりもずいぶん遅かったりしました。
昔から、幼児教育というものはあります。
幼児教育というと主なものが、フレーベル式、モンテッソーリ式、シュタイナー式などが有名です。
一般の方には早期教育と幼児教育の違いはわかりにくいと思いますが。
これらは明らかに早期教育とは違います。
なぜなら、「早期」であることを求めていないからです。
むしろ最も重要なこととして、「その子の発達段階に応じている」ということを大前提としています。
早ければ早いほどいいというのでなく、また年齢で区切って十把一絡げで教えるのでもありません。
発達段階とはこども一人一人が違うものであるので、その子の発達に応じたことを提供し、それによってこどもの成長をよりよいものにしようという考えです。
また、知識偏重になるのでなく、どれも広汎な「経験」を重視しています。というより、知識の詰め込みというのははっきりと避けています。
(ただし、そういう~~式の名前を掲げていても、人を呼び込むために変質してしまい、中には早期教育化してしまっているものもあるようです。また、それぞれに長所と短所もあります。)
僕も同様に、何事もその子の発達段階に応じてするべきだと思います。
ただ、僕はそれが必ずしも「教育的」な物である必要があるとは考えませんが。
極端な話、僕が小さいうちにどうしても身につけさせてあげたいと思うのは、「優しさ」と「創造性、感性」だけです。あとは健康でいてくれればいいです。
2~3歳でひらがなの絵本を読める子にするよりも、花を見たとき「きれいだね~」って感じられる子、アリが働いているのを10分も20分も眺めていられる子、昼間の月を見つけて「あ、おつきさまがある~」と喜べる子になって欲しいと思います。
2~3歳(たぶん4歳でも)自分ひとりで絵本を読めるようになったとしても、読むことでいっぱいで、絵本から伝わってくるものはとても少なくなってしまいます。
「読める」ということで大人が喜んでくれるので、さらに読むようになるかもしれないけど、読んだだけになってしまいます。そこで字が読めないで大人に読んでもらっていたら、感じられたであろうたくさんのことが、得られなくなってしまうのです。
読めた本の冊数を競わせ、それにモチベーションを持たせていく方針の保育園・幼稚園があるそうですが、なんと虚しいことにこどもの力を使わせているのでしょう。僕からすると大人の自己満足で、とても無意味なことにこどもを駆り立てているように感じられてなりません。
字を読むことなど学齢期になれば、たいした努力をしなくてもほとんどの子が覚えられます。
しかし、そのときになってからでは乳幼児特有の感性や創造性を育むことはできません。
先取りを求め多くの努力をしたのに、あとから振り返れば得たものは返って少ないのです。
でも親や大人が望むのでこどもは一生懸命努力しました。
得たものはすくないのに、さらに情緒が未発達だったり、人との関わりが持てなくなったり、チックなどの心身症がでたりしてしまえば、こどもが親のエゴの犠牲になったというようなものです。
長いので、ここで一度区切って次回へつづきます。
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