例えば保育でいえば、100人の子供をすでに保育したことのある人はその100人分の経験や、学校で学んだこと、本で読んだこと、人から聞いたことなどから類型化された子供像を描くことができます。
しかし、そのような典型例のようにいかないこともたくさんあります。
個々のケースではその背景などの違いから、同じ様子が出ていても原因が全く違うかもしれません。
そこで今度は個別的な見方をしてさらにその対象を掘り下げていかなければなりません。
これが「個別化」です。
こういうことを誰しもが自然と行っています。
例えば八百屋さんがダイコンを仕入れるときだって同じはずです。
その人がイメージするダイコンの基準に合わせて、「こんな質のものはうちでは扱えない」、「この出来のものならいいだろう」「これはいいがうちの店で売るには仕入れ値が高すぎる」などなど一般化のなかで考え、さらに「いまは時期はずれだからこの品質でもやむをえない」「いまは旬なのだから、もっといいものがあるはずだ」と個別的なところからの見方も同時にもっています。
話を保育に戻しますと、保育は経験が大事とよく言われます。
たしかに長いことしていれば、一般化の蓄積は大きなものになります。
しかし、自分の持っている経験・知識が大きいあまり個別的な視点が希薄になってしまい、そのケースに対して一方的な対応になってしまうこともあるかもしれません。
それゆえどれだけ経験があっても個別的な配慮を欠いてはなりません。
ときどき経験も十分なベテランに、悩んでいることを本心から相談したのに紋切り型な対応をされて、不満を感じたという話を聞きます。
自分の知識・経験だけに頼ってしまっては本当の援助にはならないということです。
そしていまの人との対応では、一般化よりも個別化をさらに重視するようになっています。
一般化された答えを押し付けることだけでは解決につながらないことも多いからです。
そこで個別化を重視していくと、模範解答的な答えはあまり重要ではなくなります。
それよりも、援助する人とされる人が、一般化の枠の中ではなく全く新しいものとして一緒に考え、答えの方に向かっていく、もしくは答えを援助される人が自分で見つけ出せるように手伝うことが大切になります。
もちろん一般化された蓄積が無駄というわけではありません。
さまざまなケース、成功例、失敗例をたくさん知っていてこそ適切な援助は可能になるし、知識として提供するだけで解決する問題ももちろんあるからです。
このブログのコメントで相談を受けることもありますが、字だけのやりとりではなかなか個別的な対応まではいたりません。
どうしても一般化の範囲からのアドバイスになってしまいます、出来るだけのことはしたいと思っていますがどうしても十分とはいえないことも多いかと思います。