Vol.1で「子供を子供扱いしない」ことと述べましたが、こちらは一義的な意味での「子供の人権」に較べると、高度で文明的、先進的な意味合いでの「人権」と言ってもいいかと思います。
一義的には子供は「子供扱い」されなければなりません。それは前々回みたとおりとても大切なことです。
しかし、一方で文化が成熟してきたりすると、逆に「子供扱いしすぎる」ことが子供の人権を損なうこととなってしまうこともあります。
たとえば、『子供の権利条約』のなかには『参加する権利』や『子供の意見表明権』というものがあります。
子供だからといって大人の言いなりになるべき存在であるか、というと必ずしもそうではなくて、子供一人一人にもきちんと自分の意志、思い、意見、主張を表す権利があります。
ずいぶん前になりますが日本でも、これを根拠法としてたしか中学生が学則(髪型の強制など)が不当だと裁判を起こした実例があります。
条約は批准されると国内でも法律に準じたものとなりますので、裁判での根拠ともなります。
子供扱いしすぎることなく、一個の人間・人格として扱い、大人だからといってやたらと子供の個人の尊厳を損なったり傷つけてはならないということです。
保育や子育ての中で考える『子供の人権』の必要性はまさにここにあります。
ともすると、もともとの日本の子育て文化では「大人の下位に子供が存在する」という位置づけが濃厚にありました。
子供に対してでなく大人に対してであっても、日本では個性を尊重するといった文化は希薄といえるでしょう。また個人よりも集団・協調を重んじるという風もあります。
そのような中では、ことさら子供を低く扱っているつもりはなくとも、「子供だから」「子供なので」と子供を無自覚的に尊重せずにすごしてしまうことが当然でてきてしまいます。
そこをきちんとした「子供の人権」の意識を持つことで是正していかなければなりません。
また、人権についての意識を変えることは、実際にものごとを変えることにつながっていくのだろうか?と疑問をもつかもしれません。
実はこのようなことは身近で数限りなく起こっているのです。
ほんの少しだけ例をあげましょう。
たとえば医療の現場で、かつて癌などの病気で余命宣告するばあい、本人に直接知らせずまず家族に知らせ、その上で家族が本人に知らせないと判断した場合、医者も本人に通知することをしませんでした。
今はどうでしょうか。
場合によってはそういうこともあるかもしれませんが、いまでは本人に通知することが基本となっています。
かつては、その本人=個人の権利よりも、家族=家の存在の方を重視していたということです。
それが個人の自己決定権を重んじるように人権意識が変わってきたために変化してきたといえます。
今度は子供の人権意識の変化をみてみましょう。
NHKの子供番組の中のいちコーナーでパジャマに着替えるものが昔からいままで続いています。
かつては男女ともパンツだけはいた状態から、パジャマを着ていました。
今は違います。
男女ともパンツだけでなく上のシャツも着た状態からパジャマを着始めます。
子供だからという理由で裸を人に見せるのはその個人の尊厳をそこなうことだからです。
小学校などでも、いまは子供を「さん」づけで呼ぶようになりましたね。
男女同権意識からもそうなのですが、個々人を尊重する意味でも名前を呼び捨てにしたりせずに敬称をつけるて呼ぶことをしているわけです。
だけど「さん」をつけて呼ぶべきといわれてただ「さん」をつけているだけでは、本当はなんにもならないのです。
きちんと子供であっても個人の人格を尊重する気持ちが必要なのですが、今だに形だけで中身がともなっていないのもたくさんあるのは残念なことです。
このように人権意識の変化から変わってきた物事はたくさんあります。
保育のなか、普段の子供との関わりのなかで変わってくることはさらに枚挙に暇がありません。
子供の人権に留意することは、それこそ言葉がけひとつひとつから変わってくることがたくさんあります。
以前紹介した「リフト」をして子供をモノ扱いしてしまうことなども実は保育の中でたくさん行われてきていました。
ある保育園では、乳児の水遊びをコの字型をしたスロープを下ったところでしていました。
しかし水遊びをするときに、近いからとスロープをくだらずに壁越しに子供を持ち上げて下にいる職員に子供を受け渡してしまいます。
子供はものを言いませんし、そうされてイヤと感じているわけではないかもしれません。
でもそれは、大人の都合で楽なやりかたをしてしまっているわけです。
別に虐待しているわけではありません。しかし、大人の都合で子供をいいように扱ってしまうことを一つ許してしまえば、ほかにもたくさんの子供を無視した大人の都合のいい保育をしていくことになります。
そのなかで本当に個々の子供をしっかり見据えた質の高い保育が展開できるわけはありません。
今の保育の現場ではこういったことが、あまりにも当たり前に行われてきているのでそれをおかしいと思う職員すらいないところがたくさんあることでしょう。
だからこそ、きちんとした『子供への視点』『子共観』が必要なのです。
別にあえて気にする必要もないことなのかもしれませんが、僕は「おいで」と子供に呼びかけないようにしています。
「おいで~」と言うのは、子供を呼びかけるのにあたりが柔らかくてあたたかみのある言い方なのですが、子供を従属的にあつかってしまっているようで僕は保育を仕事とするものの心構えとして使わないようにしています。
こどもを「おいで」と呼びかけていると、子供も大人に「おいで」と呼びかけるようになります。
しかし中には、子供が大人をそう呼ぶのはおかしいと言い直させる人がいます。
これも変な話です。
大人が呼ばれて困る言い方ならば、子供にも初めからしなければいいのです。
おそらく前提として大人が上で子供が下という構造があるからそうなるのだと思いますが、大人が上で子供が下という前提で保育をしていくと、どんどん大人中心の保育になっていってしまいます。
その保育を続けていると個々の子供をきちんとみず、ケアしきれない、援助しきれない子供をたくさんつくっていくことになるでしょう。
かつての保育はそれでも済みました。
いまほど養育上の問題は多くなかったですし、多くの場合問題も単純でしたので。
しかし、もうすでにそれでは済まない状況になってきています。
集団や協調を上位においたり、型にはめるような、大人の理屈を押し付けるような保育を展開していては、多くの子供に適切な援助をすることはできなくなっています。
本当はいまこそ保育の質の向上を図らねばならないのです。