いじめについて考える Vol.2 - 2012.08.26 Sun
つらつらと思ったことを書きます。
いじめについての議論がなされているところで、しばしば「いじめにはいじめられる方にも問題があるのだ」という意見がでてきます。
この意見は昔から根強くあり、いまでも多く耳にします。その意見がでるとそれに賛同する人も多いようです。
しかし、本当にそうだろうか?と僕は思います。
確かに、いじめられる子に原因があることもあります。むしろなんらかの原因のあることが多いとすら言えるかもしれません。
例えば、足が悪くて他の子供と同じように歩いたり、走ったり出来ない子がそれを理由にからかいから、いじめに発展したりします。
他にも、単に「根が優しくて気が弱い」という性格上の特徴につけこまれていじめの対象になったりすることもありがちです。
吃音のきらいがあったり、ほかの子よりも幼いところがあったり、そういったその子の性質・特徴が原因となっていじめの対象になったりします。
「いじめにはいじめられる方にも問題があるのだ」
そしてこの意見は、「いじめられる方に原因があるのだから、いじめが起こることもやむをえない」「いじめる側・いじめられる側、両者に責任があるのだ」「いじめられる方の性格や育ち方、育て方にも責任がある」というようなさらなる意見やニュアンスをもって語られています。
その点が「本当にそうだろうか?」という気持ちを僕に想い起こさせます。
原因があるからいじめられてもやむを得ないのでしょうか?
性格や身体的特徴などをあげつらって、いじめというものをほんの少しであっても正当化していいのだろうか?
ときにはほかのいじめられている子をかばったからという理由で、その後その子がいじめの対象になってしまうということすらあります。
それを「その子にも悪い点があるのだ」と責められるでしょうか?
しかしながら非常にこの「いじめられる子にも問題がある」という考え方は、多くの日本人の中にどうもあるようです。
はっきり言って僕はその考え方には賛同できません。
いじめられる子にそのいじめの対象にされてしまうなんらかの原因があることもあるでしょう。
しかし、だからといっていじめていいということにならないのは明白なことです。
おそらくその意見を述べる人も「いじめていいなどとは言っていない」と言うでしょう。
でも、理性的に考えたら「いじめられる側にも問題がある」というのは、限りなくそれにちかいものです。
いじめていることに一分の理であっても正当性を与えているのだから。
「お前は女だからセクハラされるのもしょうがない」
そう言っているのと同じです。
いま、セクハラ・パワハラなどのハラスメントに対しては、する側の理由ではなくされる側の意見を完全に重視するようになっています。
「される方が悪いのだ」「される方にも原因があるのだ」という理論はそこでは通りません。
「いじめにはいじめられる方にも問題があるのだ」というのは全くのナンセンスです。
この考え方は非常に日本的です。
おそらく日本人以外の人がこの「いじめにはいじめられる方にも問題があるのだ」という意見を聞いたら、どうしてそういう理屈が成り立つのか理解に苦しむという反応を示すと思われます。
これは個と集団の優先順位の概念の違いがあるのではないでしょうか。
多くの国では「個があって集団がある」と考えるのに対して、日本ではいまだに「集団ありき」でそれに逸脱するものを受け入れない・否定するという感覚が根強くのこっています。
それゆえに、「いじめられる方にも原因・問題がある」という考え方に共鳴する人が多いのではないでしょうか。
そのいじめの現場にいる教師でも、この「いじめにはいじめられる方にも問題があるのだ」ということを言う人がいます。
そして、同様の見解をまた別の先生が示したとか、いじめについて相談しにいったらそのように言われてあまり取り合ってもらえなかったということも少なからず耳にしたり、体験談の中で語られています。
ここで僕は思うのです。
いまの学校教育がもっている一側面そのものが、そもそも「集団に個人が適応すること」を目的としており、そこでは「それに逸脱する行為・個人」というものを認めない・否定する構造をまぎれもなくもっているのだ、と。
つまり、学校の持っているその構造と、いじめの構造が同じ理論の上に立っているのであると考えられます。
学校は、集団に適応できない子を認めず、子供たちもそれと同様に子供たちの集団に染まっていないものを異物として排除する行為、すなわち「いじめ」を正当な理由のあるものとしている。
いじめがもっとも多くなる時期といわれる中学校が、偶然か必然かもっとも学校からの管理・しめつけの大きくなる時期でもあります。
僕にはこれは無関係ではないのではないかと思われます。
初めに出てきた「いじめにはいじめられる方にも問題があるのだ」という根強い考え方や、学校が集団への適応を最上とし多様な個性というものを軽視していたりする限り、このタイプのいじめはなくならないのではないかと感じられます。
ただ、現状の学校教育の目的そのものが、その人その人の人格を形成したり、個々の特質を伸ばすことよりも、集団ひいては社会に適応する人間をつくることを第一においているのだから、この問題はそもそもその目的自体に内包された根深い・解決困難なものであることも、同時に思わざるをえません。
全てのいじめがこの構造から成り立っているわけではないけれども、この考え方が多くの大人の中にすらすでにインプリンティングされてしまっていることは、「いじめにはいじめられる方にも問題があるのだ」という意見に同調する人が多いことからも明らかであろうと思われます。
こんなことを言うまでもなく、「村八分」というのは日本のお家芸でした。
そういう好ましくない伝統を変える源泉は、教育のなかにこそあるはずなのだけど、教育そのものがそれに染まってしまっているのではないかと感じられてなりません。
いじめをやめさせる側であるはずの学校が、ともすればいじめの構造を子供たちに作ってしまっているのではないかという僕の疑問でした。
今回論点がずれるので触れなかった「いじめにはいじめられる方にも問題があるのだ」の理屈のもう一方の方向性について次回書こうかと思います。
長くなってしまったので今日はここまで。
いじめについての議論がなされているところで、しばしば「いじめにはいじめられる方にも問題があるのだ」という意見がでてきます。
この意見は昔から根強くあり、いまでも多く耳にします。その意見がでるとそれに賛同する人も多いようです。
しかし、本当にそうだろうか?と僕は思います。
確かに、いじめられる子に原因があることもあります。むしろなんらかの原因のあることが多いとすら言えるかもしれません。
例えば、足が悪くて他の子供と同じように歩いたり、走ったり出来ない子がそれを理由にからかいから、いじめに発展したりします。
他にも、単に「根が優しくて気が弱い」という性格上の特徴につけこまれていじめの対象になったりすることもありがちです。
吃音のきらいがあったり、ほかの子よりも幼いところがあったり、そういったその子の性質・特徴が原因となっていじめの対象になったりします。
「いじめにはいじめられる方にも問題があるのだ」
そしてこの意見は、「いじめられる方に原因があるのだから、いじめが起こることもやむをえない」「いじめる側・いじめられる側、両者に責任があるのだ」「いじめられる方の性格や育ち方、育て方にも責任がある」というようなさらなる意見やニュアンスをもって語られています。
その点が「本当にそうだろうか?」という気持ちを僕に想い起こさせます。
原因があるからいじめられてもやむを得ないのでしょうか?
性格や身体的特徴などをあげつらって、いじめというものをほんの少しであっても正当化していいのだろうか?
ときにはほかのいじめられている子をかばったからという理由で、その後その子がいじめの対象になってしまうということすらあります。
それを「その子にも悪い点があるのだ」と責められるでしょうか?
しかしながら非常にこの「いじめられる子にも問題がある」という考え方は、多くの日本人の中にどうもあるようです。
はっきり言って僕はその考え方には賛同できません。
いじめられる子にそのいじめの対象にされてしまうなんらかの原因があることもあるでしょう。
しかし、だからといっていじめていいということにならないのは明白なことです。
おそらくその意見を述べる人も「いじめていいなどとは言っていない」と言うでしょう。
でも、理性的に考えたら「いじめられる側にも問題がある」というのは、限りなくそれにちかいものです。
いじめていることに一分の理であっても正当性を与えているのだから。
「お前は女だからセクハラされるのもしょうがない」
そう言っているのと同じです。
いま、セクハラ・パワハラなどのハラスメントに対しては、する側の理由ではなくされる側の意見を完全に重視するようになっています。
「される方が悪いのだ」「される方にも原因があるのだ」という理論はそこでは通りません。
「いじめにはいじめられる方にも問題があるのだ」というのは全くのナンセンスです。
この考え方は非常に日本的です。
おそらく日本人以外の人がこの「いじめにはいじめられる方にも問題があるのだ」という意見を聞いたら、どうしてそういう理屈が成り立つのか理解に苦しむという反応を示すと思われます。
これは個と集団の優先順位の概念の違いがあるのではないでしょうか。
多くの国では「個があって集団がある」と考えるのに対して、日本ではいまだに「集団ありき」でそれに逸脱するものを受け入れない・否定するという感覚が根強くのこっています。
それゆえに、「いじめられる方にも原因・問題がある」という考え方に共鳴する人が多いのではないでしょうか。
そのいじめの現場にいる教師でも、この「いじめにはいじめられる方にも問題があるのだ」ということを言う人がいます。
そして、同様の見解をまた別の先生が示したとか、いじめについて相談しにいったらそのように言われてあまり取り合ってもらえなかったということも少なからず耳にしたり、体験談の中で語られています。
ここで僕は思うのです。
いまの学校教育がもっている一側面そのものが、そもそも「集団に個人が適応すること」を目的としており、そこでは「それに逸脱する行為・個人」というものを認めない・否定する構造をまぎれもなくもっているのだ、と。
つまり、学校の持っているその構造と、いじめの構造が同じ理論の上に立っているのであると考えられます。
学校は、集団に適応できない子を認めず、子供たちもそれと同様に子供たちの集団に染まっていないものを異物として排除する行為、すなわち「いじめ」を正当な理由のあるものとしている。
いじめがもっとも多くなる時期といわれる中学校が、偶然か必然かもっとも学校からの管理・しめつけの大きくなる時期でもあります。
僕にはこれは無関係ではないのではないかと思われます。
初めに出てきた「いじめにはいじめられる方にも問題があるのだ」という根強い考え方や、学校が集団への適応を最上とし多様な個性というものを軽視していたりする限り、このタイプのいじめはなくならないのではないかと感じられます。
ただ、現状の学校教育の目的そのものが、その人その人の人格を形成したり、個々の特質を伸ばすことよりも、集団ひいては社会に適応する人間をつくることを第一においているのだから、この問題はそもそもその目的自体に内包された根深い・解決困難なものであることも、同時に思わざるをえません。
全てのいじめがこの構造から成り立っているわけではないけれども、この考え方が多くの大人の中にすらすでにインプリンティングされてしまっていることは、「いじめにはいじめられる方にも問題があるのだ」という意見に同調する人が多いことからも明らかであろうと思われます。
こんなことを言うまでもなく、「村八分」というのは日本のお家芸でした。
そういう好ましくない伝統を変える源泉は、教育のなかにこそあるはずなのだけど、教育そのものがそれに染まってしまっているのではないかと感じられてなりません。
いじめをやめさせる側であるはずの学校が、ともすればいじめの構造を子供たちに作ってしまっているのではないかという僕の疑問でした。
今回論点がずれるので触れなかった「いじめにはいじめられる方にも問題があるのだ」の理屈のもう一方の方向性について次回書こうかと思います。
長くなってしまったので今日はここまで。
| 2012-08-26 | 日本の子育て文化 | Comment : 9 | トラックバック : 0 |
NEW ENTRY « | BLOG TOP | » OLD ENTRY