いじめについて考える Vol.7 - 2012.09.04 Tue
前回の続きです。
次の話を聞いたことのある人も多いのではないかと思います。
外国人が日本人に対して、「日本人は外国人のことを『外人』と呼ぶが、それは不快だからやめてもらいたい」
それに対して、日本人側は「外人と呼ぶのは伝統的なもので、なんの悪意もない。そのように人の国の言葉に難癖をつけてくることこそ納得できない」
言葉やニュアンスは違うかもしれませんが、このようなことを聞いたことがあるかと思います。
ここにはある種の対立があるのですが、それは個々の文化の違いによるものなので、お互いが自分の主張をしているだけでは平行線です。
ここにたった一言「どうして?」を入れるだけで、その平行線を多少なりとも解消できるかもしれません。
「どうして、日本人は外国人のことを外人と呼ぶの?」
「どうして、外人と呼ばれることが不快なの?」
日本人がなぜ外国人を『外人』と呼ぶかといえば、海に周囲を囲まれ歴史的・伝統的に日本人かそれ以外かで区別するくらいの必要しかなかったこと。「外人さん」と呼ぶことにはなんの悪意もなく、むしろ尊敬や親しみを込めてそう呼んでいた経緯があるなど、「どうして?」と問われれば答えることができたでしょう。
また、外国人になぜ嫌なのか聞けば、
foreignerにしてもoutsiderにしても、異邦人という意味のalien(エイリアンvsプレデターのあのエイリアンと同じね)にしても、彼らの文化の中では蔑視的、排他的な悪い響きを持っていること、外国人に対するそういった見方から差別や弾圧、紛争、敵対などが起こってきた歴史的経緯があること。それゆえ『外人』という呼ばれ方に強い不快感を感じてしまうのだ、という返答が聞かれるでしょう。
そこから両者の意を互いに了見して、「外人という言葉に悪意はないのだけれども、そのように感じてしまうのだったら、こちらもそう呼ばないように気をつけましょう」というような理解に到達することができるでしょう。
このように相手の立場を考慮したり、理解せずに自己の主張だけを通していたら、簡単に対立を生んでしまうのだけど、たった一言「どうして?」という問をもつ習慣さえあれば、それをすりあわせて上手くやっていくことは難しいことではありません。
ここでは外国人と日本人という別々の文化の行き違いなのだけど、文化の違い・考え方の違いなど同じ日本人同士でもたくさんあります。
それを自己の立場の主張だけをし続けていたら、いたるところ他人への怒りや憎しみばかりとなってしまいます。
そんなことは言うまでもないことなのですが、ある程度の教育と人間性や社会性というものが獲得されていれば、そういうことは回避していけるものです。
しかし、今の時代なぜか大人であってもそれができなく、できにくくなりつつあります。
ずいぶん前の過去記事で「うざい、むかつく」で価値判断をする人が、子供だけでなく大人にも多くなっているということを書いたことがありましたが、この問題は社会を殺伐なものとしていく深刻なものを孕んでいるような気がします。
いまの世の中は、社会道徳や規範などのひとつの統一的な価値観を強制していくこと、これまでの学校教育でしているような価値観への適応・刷り込みというようなことで健全に回っていくような段階ではなくなってしまっていると僕は思います。
異なる価値観、異なる人があって当然。
そこから、人々はどのように対処していくことでうまくやっていけるのか。
その力を獲得することが必要な段階にあると思う。
少なくともこれまでのような学校教育では、もう世の中に対応しきれないという兆候はたくさん現れていると言えます。
いま学校は、理不尽・自分勝手な要求を声高に押し付けてくる親、いわゆるモンスターペアレンツに大変悩まされているし、恐れてもいます。
僕もそういうケースをたくさん知っていますから、それはよくわかります。
でも、ここで誰も指摘していないこと、多くの人が気づいていないことがあります。
「教育が人を作る」 「教育が人を作ってきた」と言えるならば、そのモンスターペアレンツ達も日本の教育を受けてきた人達なのです。
もちろん全てではないにしても、これまでの教育がその人たちを作り出してしまった、もしくはそうなってしまうことを防げなかった一端の責任はあるはずです。
彼らがおかしいのだ、理不尽なのだ、非常識なのだと非難することはできます。
でも、今の教育の中から、どうして彼らのような人を作り出してしまったのか、どうしたら防げたのかそういった自省の言葉は聞こえてきません。
もう、いまの教育のやり方の中に、人間を形成するだけの力はさして残ってはいないのではないだろうか。
いいかげん方針転換しなければ、学校自身も自分たちのしてきたことのつけを払い続けていくことになるのではないでしょうか。
モンスターペアレンツというのが、いま目に見える形で直面しているその問題のひとつだと思います。
そしてこのモンスターペアレンツの問題は、人の意見を聞いたり、自分の意見を適切に主張し、他者との見解の合意を見出す能力をこれからの子供に身につけさせることが必要であるという、今回のこの記事の趣旨を端的に表しているとも思う。
なぜなら、そういった能力をまったく欠いているからこそ「モンスターペアレンツ」と呼ばれているわけです。
話が通じる人であるならば、強いクレームを持ってきたとしても、それなりに解決や合意点は見いだせます。
しかし、それが「モンスターペアレンツ」ではできません。
そしてしばしば、悪意のある「いじめ」をしている子供の親がモンスターペアレンツであることも、このことと無関係ではないと思う。
まずは感じる力をやしない、教え込まれた・押し付けられた価値観をなぞるのではなくものを自分で考え、そこから自分の意見を持ち、他者にそれを伝え、また他者の意見を聞き、他者と自己の意見を擦り合わせる力を持ち、そこから新しいものを作り出したり、問題解決をする力。
それを個々の子供たちが持つことによって、いじめそのものを子供たちの中でなくしていく、もしくは解決していくことができるのではないか。
また、徒党を組むような、集団の中に自己を帰属させて、居場所を見出さなければならないような、借り物のアイデンティティを求めなくてもすむような価値観を、子供たち自身に持たせることが可能になっていくのではないかと考えます。
いま世間で主に問題になっているのは、いじめに対して学校がどのように誠実な対応をするのか、適切に対処していくことができるのか、そもそも学校だけに望んでいいものなのか、そういうところにあるようです。
それはそれで大きな大事な問題ではあるけれども、ここで僕が言いたいのは、それ以前の「教育」そのものにいじめを起こさない、また子供達で解決するすべをきちんと持ってもらいたいというところにあります。
確かにいまの教育指導要領の中にも、考える力や話し合うことを重視していくというような部分は見いだせます。
しかし、これまでの学校のあり方を見直すことから始めなければ、それはうわべだけのものに過ぎないのではないかと思います。
模範的な価値観に子供を当てはめることを当然としているいまの学校の中でそれをしたところで、ある一定の模範解答を論述できる子供にするのが関の山でしょう。
一枚の絵をみて、日本と外国の子供に感想を聞くという実験がありました。
外国の子供がそこから感じたことをいろいろと10分以上にわたって話すことができたのに対して、日本の子供はそれについての知っている知識と当たり障りのない感想を1分も話すのがやっとでした。
なにが違うのでしょう。
当然ながら受けている教育が根本的に違うのです。
外国では小学生から自分のオリジナルな意見を発表するということを大変重視した教育をしています。
それに対して日本では「正解」を出すことを重視する教育がなされています。
学校の勉強が社会では役に立たない、と言われてしまう理由の一端もここにあるのではないでしょうか。
多くのものごとには明確な「正解」などはなかなかないのですから。
いじめをなくすためだけというわけではありませんが、そういうわけで考えたり意見を表明したりすること、同時に学校教育のあり方そのものを見直すことが必要だと思うのです。
そして、それができる絶好の機会が日本にも訪れたのですが、無残にも失敗に終わりました。
そう、「ゆとり教育」です。
僕はそういうこともあってゆとり教育は見るべき点も多々あると思うのですが、この前日本で行われたあれは本当にひどかった。
やる前からでも素人にも失敗することが目に見えていました。
そもそも「ゆとり」というならば、なぜひとクラスの学級定員を下げることからしなかったのか、数十年も前からそれはたくさん訴えられてきたのに、そう日本中の学校の先生たちは思ったことでしょう。
ゆとり教育についてもいろいろ書く事はありますが、それはまた別の機会に。
次の話を聞いたことのある人も多いのではないかと思います。
外国人が日本人に対して、「日本人は外国人のことを『外人』と呼ぶが、それは不快だからやめてもらいたい」
それに対して、日本人側は「外人と呼ぶのは伝統的なもので、なんの悪意もない。そのように人の国の言葉に難癖をつけてくることこそ納得できない」
言葉やニュアンスは違うかもしれませんが、このようなことを聞いたことがあるかと思います。
ここにはある種の対立があるのですが、それは個々の文化の違いによるものなので、お互いが自分の主張をしているだけでは平行線です。
ここにたった一言「どうして?」を入れるだけで、その平行線を多少なりとも解消できるかもしれません。
「どうして、日本人は外国人のことを外人と呼ぶの?」
「どうして、外人と呼ばれることが不快なの?」
日本人がなぜ外国人を『外人』と呼ぶかといえば、海に周囲を囲まれ歴史的・伝統的に日本人かそれ以外かで区別するくらいの必要しかなかったこと。「外人さん」と呼ぶことにはなんの悪意もなく、むしろ尊敬や親しみを込めてそう呼んでいた経緯があるなど、「どうして?」と問われれば答えることができたでしょう。
また、外国人になぜ嫌なのか聞けば、
foreignerにしてもoutsiderにしても、異邦人という意味のalien(エイリアンvsプレデターのあのエイリアンと同じね)にしても、彼らの文化の中では蔑視的、排他的な悪い響きを持っていること、外国人に対するそういった見方から差別や弾圧、紛争、敵対などが起こってきた歴史的経緯があること。それゆえ『外人』という呼ばれ方に強い不快感を感じてしまうのだ、という返答が聞かれるでしょう。
そこから両者の意を互いに了見して、「外人という言葉に悪意はないのだけれども、そのように感じてしまうのだったら、こちらもそう呼ばないように気をつけましょう」というような理解に到達することができるでしょう。
このように相手の立場を考慮したり、理解せずに自己の主張だけを通していたら、簡単に対立を生んでしまうのだけど、たった一言「どうして?」という問をもつ習慣さえあれば、それをすりあわせて上手くやっていくことは難しいことではありません。
ここでは外国人と日本人という別々の文化の行き違いなのだけど、文化の違い・考え方の違いなど同じ日本人同士でもたくさんあります。
それを自己の立場の主張だけをし続けていたら、いたるところ他人への怒りや憎しみばかりとなってしまいます。
そんなことは言うまでもないことなのですが、ある程度の教育と人間性や社会性というものが獲得されていれば、そういうことは回避していけるものです。
しかし、今の時代なぜか大人であってもそれができなく、できにくくなりつつあります。
ずいぶん前の過去記事で「うざい、むかつく」で価値判断をする人が、子供だけでなく大人にも多くなっているということを書いたことがありましたが、この問題は社会を殺伐なものとしていく深刻なものを孕んでいるような気がします。
いまの世の中は、社会道徳や規範などのひとつの統一的な価値観を強制していくこと、これまでの学校教育でしているような価値観への適応・刷り込みというようなことで健全に回っていくような段階ではなくなってしまっていると僕は思います。
異なる価値観、異なる人があって当然。
そこから、人々はどのように対処していくことでうまくやっていけるのか。
その力を獲得することが必要な段階にあると思う。
少なくともこれまでのような学校教育では、もう世の中に対応しきれないという兆候はたくさん現れていると言えます。
いま学校は、理不尽・自分勝手な要求を声高に押し付けてくる親、いわゆるモンスターペアレンツに大変悩まされているし、恐れてもいます。
僕もそういうケースをたくさん知っていますから、それはよくわかります。
でも、ここで誰も指摘していないこと、多くの人が気づいていないことがあります。
「教育が人を作る」 「教育が人を作ってきた」と言えるならば、そのモンスターペアレンツ達も日本の教育を受けてきた人達なのです。
もちろん全てではないにしても、これまでの教育がその人たちを作り出してしまった、もしくはそうなってしまうことを防げなかった一端の責任はあるはずです。
彼らがおかしいのだ、理不尽なのだ、非常識なのだと非難することはできます。
でも、今の教育の中から、どうして彼らのような人を作り出してしまったのか、どうしたら防げたのかそういった自省の言葉は聞こえてきません。
もう、いまの教育のやり方の中に、人間を形成するだけの力はさして残ってはいないのではないだろうか。
いいかげん方針転換しなければ、学校自身も自分たちのしてきたことのつけを払い続けていくことになるのではないでしょうか。
モンスターペアレンツというのが、いま目に見える形で直面しているその問題のひとつだと思います。
そしてこのモンスターペアレンツの問題は、人の意見を聞いたり、自分の意見を適切に主張し、他者との見解の合意を見出す能力をこれからの子供に身につけさせることが必要であるという、今回のこの記事の趣旨を端的に表しているとも思う。
なぜなら、そういった能力をまったく欠いているからこそ「モンスターペアレンツ」と呼ばれているわけです。
話が通じる人であるならば、強いクレームを持ってきたとしても、それなりに解決や合意点は見いだせます。
しかし、それが「モンスターペアレンツ」ではできません。
そしてしばしば、悪意のある「いじめ」をしている子供の親がモンスターペアレンツであることも、このことと無関係ではないと思う。
まずは感じる力をやしない、教え込まれた・押し付けられた価値観をなぞるのではなくものを自分で考え、そこから自分の意見を持ち、他者にそれを伝え、また他者の意見を聞き、他者と自己の意見を擦り合わせる力を持ち、そこから新しいものを作り出したり、問題解決をする力。
それを個々の子供たちが持つことによって、いじめそのものを子供たちの中でなくしていく、もしくは解決していくことができるのではないか。
また、徒党を組むような、集団の中に自己を帰属させて、居場所を見出さなければならないような、借り物のアイデンティティを求めなくてもすむような価値観を、子供たち自身に持たせることが可能になっていくのではないかと考えます。
いま世間で主に問題になっているのは、いじめに対して学校がどのように誠実な対応をするのか、適切に対処していくことができるのか、そもそも学校だけに望んでいいものなのか、そういうところにあるようです。
それはそれで大きな大事な問題ではあるけれども、ここで僕が言いたいのは、それ以前の「教育」そのものにいじめを起こさない、また子供達で解決するすべをきちんと持ってもらいたいというところにあります。
確かにいまの教育指導要領の中にも、考える力や話し合うことを重視していくというような部分は見いだせます。
しかし、これまでの学校のあり方を見直すことから始めなければ、それはうわべだけのものに過ぎないのではないかと思います。
模範的な価値観に子供を当てはめることを当然としているいまの学校の中でそれをしたところで、ある一定の模範解答を論述できる子供にするのが関の山でしょう。
一枚の絵をみて、日本と外国の子供に感想を聞くという実験がありました。
外国の子供がそこから感じたことをいろいろと10分以上にわたって話すことができたのに対して、日本の子供はそれについての知っている知識と当たり障りのない感想を1分も話すのがやっとでした。
なにが違うのでしょう。
当然ながら受けている教育が根本的に違うのです。
外国では小学生から自分のオリジナルな意見を発表するということを大変重視した教育をしています。
それに対して日本では「正解」を出すことを重視する教育がなされています。
学校の勉強が社会では役に立たない、と言われてしまう理由の一端もここにあるのではないでしょうか。
多くのものごとには明確な「正解」などはなかなかないのですから。
いじめをなくすためだけというわけではありませんが、そういうわけで考えたり意見を表明したりすること、同時に学校教育のあり方そのものを見直すことが必要だと思うのです。
そして、それができる絶好の機会が日本にも訪れたのですが、無残にも失敗に終わりました。
そう、「ゆとり教育」です。
僕はそういうこともあってゆとり教育は見るべき点も多々あると思うのですが、この前日本で行われたあれは本当にひどかった。
やる前からでも素人にも失敗することが目に見えていました。
そもそも「ゆとり」というならば、なぜひとクラスの学級定員を下げることからしなかったのか、数十年も前からそれはたくさん訴えられてきたのに、そう日本中の学校の先生たちは思ったことでしょう。
ゆとり教育についてもいろいろ書く事はありますが、それはまた別の機会に。
| 2012-09-04 | 日本の子育て文化 | Comment : 24 | トラックバック : 0 |
いじめについて考える Vol.6 - 2012.09.04 Tue
今回は以前に予告したように、教育の新たな方向性について書いていきます。
その前にまず、そもそもなぜ僕がいじめについて考えるのかそこのところを明らかにしていこうと思います。
僕がいじめについて考えるのは、大津のいじめ事件があったからではありません。
保育士をしていて直接・間接に関わってきた子供たちの中に、心に満たされないものを抱えたまま成長していく子供や、自分の中で処理できないほど大きな不満を抱えている子が年々増えてきているのを肌で感じてきたからです。
そういったものを抱えて育っている子の中には、どこかほかの部分で満たしてもらえたり、もともと持っている性格の良い部分がそういうものを吸収したり、コントロールできたりして健全に育っていける子もいることでしょう。
しかし、子供時代の不満は、まさに子供時代だからこそ容易には癒せない傷として、それを抱え続けて大きくなっていくしかないこともあります。
その子供たちは、その不満が自分だけでは処理しきれないものであるゆえに、ある子はその怒りをずっと溜め込んで大きくなってから親への強い反抗・反発という形で出すかもしれないし、ある子は不登校や「引きこもり」という形でそれを自分の中に深く圧殺していくしかないという子もいるでしょうし、またある子は他者へのいじめや暴力・犯罪などの社会的非行という形で出さずにはいられないという子もいるでしょう。
オーバーと思うかもしれませんが、そういう満たされないものを抱え続けている子供がとても多くなっています。
大きい子だけでなく、1、2歳のような乳児の中にも少なくありません。
そしてその不満を抱えたまま、問題行動をだしながらや、性格をよからぬ方向へねじ曲げながら大きくなっていく子をたくさん見ています。
さらには、そのまま小学校や思春期にもっと大きな問題として出さざるをえなくなってしまう子供も知っています。
そういった子供の満たされない気持ち、その多くは家庭のあり方や、親子・母子関係に起因します。
それは、いろんなものがありますから一口にはいえませんが、過去記事の中にも少しずつ書いていますし、これからも書いていくつもりです。
「いじめ」という観点で見れば、そもそもいじめがいいとか悪いとか以前に、人をいじめずにはいられない理由を持った子供が今たくさんいるということです。
だからこそ、今のまま行けば「いじめ」は増えるだろうしさらに深刻化もしていくと思われます。
僕がオーバーなのかもしれません。むしろ杞憂であってくれればいいとすら思います。
でも、子供に関わる仕事をしている人・保育・教育関係者のなかには、僕と同じような印象を持っている人は少なくないのではと思われます。
こういった問題の詳しい話・具体的な話は、また別の機会にしていきます。
では、ここから今日の本題になります。
いじめ問題のみならず、日本の教育のあり方はそろそろ大々的な見直しをしなければならない時期に来ていると思う。
なぜなら社会のあり方と、教育のあり方が、もはやそれが健全に機能していた時代とはどちらもが大きく変わってきてしまっているから。
頂いたコメントの中にもありましたが、僕らが中学生の頃は服装検査だ、頭髪検査だ、持ち物検査などさんざんされた記憶があります。
なんかの全校集会に集まりが遅かったからと、体育教師にお尻を全員がバットで叩かれたなんてことすらありました。
あの頃は、そういうものだと思っていたし、それがもちろん不満には感じたとしても、そういったこと自体が変とは特に考えていなかったように思う。そしてそれは大人たちもそうだったような印象がある。
しかし、よくよく考えれば、それらは一体何を目指していたのだろう?
中学校を卒業しだんだんと社会にでていく上で、社会的な身だしなみや社会規範を守ることや、時間を守ることを生徒に身につけさせたかった、そういう趣旨だったのだろうか?
もっともらしい理由を模索するとそういうことが浮かぶけれども、
本当にそうだったのだろうか?
もしそうだとしても、それは教育として取りうる最良(ベストと言わずベターでもいいけど)のやり方だったのだろうか?
日本の戦後教育は、それまでの軍国主義的な教育を否定するところから作られたというけれども、それにしてはずいぶん管理することや理不尽さに従えというようなことが随所にちりばめられていたと思う。
しかしまあ、その当時は世の大人たちもそういった教育のあり方を是認していたのだから、それなりに意義のあることだったのかもしれない。(好意的に解釈すればね・・)
だが、もはや自分の子供たちの世代にそれを教育として与えて欲しいとは僕は思わない。
また、そういった教育が現代の社会において実効性のある教育となるとも思えない。
もちろん、いまの学校では当時のような管理の押し付けや、理不尽な体罰など行ってはいないでしょう。
でも、方向性においてはそこから大きく変わったとも思えません。
自主性や自由な個性の発揮そしてそこから主体的に社会規範や人との関わりを学んだりするよりも、やはり管理し右へならえで従うことを子供に身につけさせるというところからは脱却できていないようにしか感じられません。
先日、防災の日の引取り訓練で息子の小学校に行ってきました。
その際、副校長がマイクで子供たちへの話をしたのだけど、そのマイクでの最初の言葉が「おしゃべりをやめてください」でした。
そしてしばらく「まだ聞こえます」「まだまだ・・」というのをしていました。
先生本人もそういった話し方に違和感を感じないのだろうし、そこにいた大勢の保護者も特におかしく感じないのかもしれないけれども、僕には「ああ、まだそういう子供を従わせるという方向で子供と関わっているのだな」と感じられてしかたがありませんでした。
学校の問題の根深いところは、教師も親の世代もそれを違和感を覚えずそのまま受け止めてしまうことにあると思う。
なぜなら、どちらもそのやり方で育ってきてしまっているから。
それゆえ、自己批判や反省、なにかに齟齬がでていても方針転換ができないというネックがあるのではないか。
いまのこの協調・適応ということを求める教育のあり方は、戦後日本が復興していくにあたって、働き手として工場や会社での生産的な人間を育てることを主眼において整備されてきたと言われています。
もはや、そういう方向性で教育の意義を定めていかなくてもいい時代になったのではないかと僕個人は感じます。
社会は多様化し、文化も変化し「集団ありき」の考え方は、その弊害の部分も大きくなってきているのではないか。
その一例はVol.2で見たような、他者への蔑視すら生んでいるのではないか。
この部分。
「集団・協調・適応・管理」というような、これまで重視してきた教育というものを方針転換すべきときが来ているのではないかと強く感じます。
そして新しい方向性は、「多様な個性の発現」だと思う。
具体的には、感じる力をやしない、ものを考え、自分の意見を持ち、他者にそれを伝え、また他者の意見を聞き、他者と自己の意見を擦り合わせる力を持ち、そこから新しいものを作り出したり、問題解決をする力を持てるようにする教育です。
これについてもう少し続くつもりですが、長くなったので今日はここまで。
その前にまず、そもそもなぜ僕がいじめについて考えるのかそこのところを明らかにしていこうと思います。
僕がいじめについて考えるのは、大津のいじめ事件があったからではありません。
保育士をしていて直接・間接に関わってきた子供たちの中に、心に満たされないものを抱えたまま成長していく子供や、自分の中で処理できないほど大きな不満を抱えている子が年々増えてきているのを肌で感じてきたからです。
そういったものを抱えて育っている子の中には、どこかほかの部分で満たしてもらえたり、もともと持っている性格の良い部分がそういうものを吸収したり、コントロールできたりして健全に育っていける子もいることでしょう。
しかし、子供時代の不満は、まさに子供時代だからこそ容易には癒せない傷として、それを抱え続けて大きくなっていくしかないこともあります。
その子供たちは、その不満が自分だけでは処理しきれないものであるゆえに、ある子はその怒りをずっと溜め込んで大きくなってから親への強い反抗・反発という形で出すかもしれないし、ある子は不登校や「引きこもり」という形でそれを自分の中に深く圧殺していくしかないという子もいるでしょうし、またある子は他者へのいじめや暴力・犯罪などの社会的非行という形で出さずにはいられないという子もいるでしょう。
オーバーと思うかもしれませんが、そういう満たされないものを抱え続けている子供がとても多くなっています。
大きい子だけでなく、1、2歳のような乳児の中にも少なくありません。
そしてその不満を抱えたまま、問題行動をだしながらや、性格をよからぬ方向へねじ曲げながら大きくなっていく子をたくさん見ています。
さらには、そのまま小学校や思春期にもっと大きな問題として出さざるをえなくなってしまう子供も知っています。
そういった子供の満たされない気持ち、その多くは家庭のあり方や、親子・母子関係に起因します。
それは、いろんなものがありますから一口にはいえませんが、過去記事の中にも少しずつ書いていますし、これからも書いていくつもりです。
「いじめ」という観点で見れば、そもそもいじめがいいとか悪いとか以前に、人をいじめずにはいられない理由を持った子供が今たくさんいるということです。
だからこそ、今のまま行けば「いじめ」は増えるだろうしさらに深刻化もしていくと思われます。
僕がオーバーなのかもしれません。むしろ杞憂であってくれればいいとすら思います。
でも、子供に関わる仕事をしている人・保育・教育関係者のなかには、僕と同じような印象を持っている人は少なくないのではと思われます。
こういった問題の詳しい話・具体的な話は、また別の機会にしていきます。
では、ここから今日の本題になります。
いじめ問題のみならず、日本の教育のあり方はそろそろ大々的な見直しをしなければならない時期に来ていると思う。
なぜなら社会のあり方と、教育のあり方が、もはやそれが健全に機能していた時代とはどちらもが大きく変わってきてしまっているから。
頂いたコメントの中にもありましたが、僕らが中学生の頃は服装検査だ、頭髪検査だ、持ち物検査などさんざんされた記憶があります。
なんかの全校集会に集まりが遅かったからと、体育教師にお尻を全員がバットで叩かれたなんてことすらありました。
あの頃は、そういうものだと思っていたし、それがもちろん不満には感じたとしても、そういったこと自体が変とは特に考えていなかったように思う。そしてそれは大人たちもそうだったような印象がある。
しかし、よくよく考えれば、それらは一体何を目指していたのだろう?
中学校を卒業しだんだんと社会にでていく上で、社会的な身だしなみや社会規範を守ることや、時間を守ることを生徒に身につけさせたかった、そういう趣旨だったのだろうか?
もっともらしい理由を模索するとそういうことが浮かぶけれども、
本当にそうだったのだろうか?
もしそうだとしても、それは教育として取りうる最良(ベストと言わずベターでもいいけど)のやり方だったのだろうか?
日本の戦後教育は、それまでの軍国主義的な教育を否定するところから作られたというけれども、それにしてはずいぶん管理することや理不尽さに従えというようなことが随所にちりばめられていたと思う。
しかしまあ、その当時は世の大人たちもそういった教育のあり方を是認していたのだから、それなりに意義のあることだったのかもしれない。(好意的に解釈すればね・・)
だが、もはや自分の子供たちの世代にそれを教育として与えて欲しいとは僕は思わない。
また、そういった教育が現代の社会において実効性のある教育となるとも思えない。
もちろん、いまの学校では当時のような管理の押し付けや、理不尽な体罰など行ってはいないでしょう。
でも、方向性においてはそこから大きく変わったとも思えません。
自主性や自由な個性の発揮そしてそこから主体的に社会規範や人との関わりを学んだりするよりも、やはり管理し右へならえで従うことを子供に身につけさせるというところからは脱却できていないようにしか感じられません。
先日、防災の日の引取り訓練で息子の小学校に行ってきました。
その際、副校長がマイクで子供たちへの話をしたのだけど、そのマイクでの最初の言葉が「おしゃべりをやめてください」でした。
そしてしばらく「まだ聞こえます」「まだまだ・・」というのをしていました。
先生本人もそういった話し方に違和感を感じないのだろうし、そこにいた大勢の保護者も特におかしく感じないのかもしれないけれども、僕には「ああ、まだそういう子供を従わせるという方向で子供と関わっているのだな」と感じられてしかたがありませんでした。
学校の問題の根深いところは、教師も親の世代もそれを違和感を覚えずそのまま受け止めてしまうことにあると思う。
なぜなら、どちらもそのやり方で育ってきてしまっているから。
それゆえ、自己批判や反省、なにかに齟齬がでていても方針転換ができないというネックがあるのではないか。
いまのこの協調・適応ということを求める教育のあり方は、戦後日本が復興していくにあたって、働き手として工場や会社での生産的な人間を育てることを主眼において整備されてきたと言われています。
もはや、そういう方向性で教育の意義を定めていかなくてもいい時代になったのではないかと僕個人は感じます。
社会は多様化し、文化も変化し「集団ありき」の考え方は、その弊害の部分も大きくなってきているのではないか。
その一例はVol.2で見たような、他者への蔑視すら生んでいるのではないか。
この部分。
「集団・協調・適応・管理」というような、これまで重視してきた教育というものを方針転換すべきときが来ているのではないかと強く感じます。
そして新しい方向性は、「多様な個性の発現」だと思う。
具体的には、感じる力をやしない、ものを考え、自分の意見を持ち、他者にそれを伝え、また他者の意見を聞き、他者と自己の意見を擦り合わせる力を持ち、そこから新しいものを作り出したり、問題解決をする力を持てるようにする教育です。
これについてもう少し続くつもりですが、長くなったので今日はここまで。
| 2012-09-04 | 日本の子育て文化 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
NEW ENTRY « | BLOG TOP | » OLD ENTRY