「弱い大人」と言ったとき思い浮かぶ大人の行動は「いいなり」やわがままに対する「甘やかし」ということがあげられるでしょう。
子供のいいなりになって、「好ましくない」とその大人本人が現に思っていることですら、やってしまうやらせてしまうというのは、まさに大人の弱さ以外のなにものでもない。
親自身好ましくないと思っているのならば、子供にそれをさせなければよい。
でも、子供の泣きやダダ、その他の行為に抗うよりはと、それに負けてしまい、結局その好ましくないことをさせたり、やらされてしまう。
小さいうちでもそうだが、多少大きくなってからでも、「周りはしているから」「ないと可愛そうだから」などとわざわざ理由をつけてあげてまで、「好ましくない」と思っていることを子供にさせたり与えてしまうことも、よく聞く話だ。
「私はそれがあなたのためになるとは思わないからしない(させないor与えない)」
で十分なはずなのだが、それを言えるだけの強さや自信をもっていない親も多い。
大人の強さから引き起こされる「過保護・過干渉」もあるが、「弱さ」ゆえに起こる過保護・過干渉も多い。
こんなエピソードがある。
登場人物は、祖母・母・3歳の娘。
母は普段からいいなり傾向で過保護・過干渉。
あるとき、その女の子が朝からずっとダダや不機嫌。
母は「このところ疲れていたし、ちょっと体調悪いのかしら」というような言葉をもらす。
(結果的には体調が悪いのではなく、先回りした気の回しすぎだったのだが)
祖母はそれは大変だと、昼食にはわざわざうどんを柔らかめに茹でて作ってくれる。
するとその子は、「うどんは嫌だおモチが食べたい」とごねる。
それを聞いてその母はわざわざそれからモチを買いに行った。
冷静に考えればわかると思いますが、本当に体調が悪いのならば咀嚼が大変なモチなど食べたがるはずもありません。
単なるわがままというか、大人を振り回すことが関わりとして定着してしまっているゆえにでている行動のひとつでした。
当然ながらこのような関わり方を子供にしていると、子育てはどんどん大変になっていきます。
子供もひねていくことが多くなります。
もし、この親が僕だったらおばあちゃんがせっかく作ってくれたものに対して、「うどんは嫌だモチが食べたい」などといったら、思いっきり怒ります。
あえて感情をあらわにして怒るでしょう。
そのわがままが許容されるということは、人の優しさや真心を突っぱねて良いということになってしまいます。
それはこの子のためにもなりません。
なぜなら、そうやって優しさをアダで返していたら、その子が満たされることはなくなってしまうからです。
人の優しさをそのまま受け取れないような子供になって、子供がまっすぐ育つわけもありません。
「いいなり」や「甘やかし」というのは必ずしも、「満たされた子供」にしてくれないのです。
ときどき、「子供を受容しなければ」と考えて、ただの「いいなり」やわがままに振り回されるだけになっている人がいます。
「いいなり」や「甘やかし」はその子供の要求を聞いているのだから、さぞかし満たされるのではないかとも思えてしまいますが、実際はそうではありません。
子供がそこで出している要求は、その子自身が本当に望んでいることではなくて、うわべの要求に過ぎないからなのです。
子供は、大人に暖かく関わって欲しいとか、優しい視線で見守って欲しい、自分を肯定的に認めて欲しいという欲求を満たすために、様々なアクションをとります。
しかし、それが大人も心地よく受け取れないような要求としてでてくることがあります。
大人はそのうわべの要求に振り回されて、そこだけオロオロしながら叶えたところで、子供が本当に望んでいるその裏に隠れた要求を満たしていなければ、子供の満たされた気持ちは作られません。
前回のところで述べたような、自己肯定感を持てないようなことにすらなってしまいます。
大人自身が「好ましくない」と思うのであれば、そこに自信を持ってそのような、理不尽わがままな要求など突っぱねればよいのです。
その上辺の要求をつっぱねたとしても、その大元のところさえ満たしてあげることができればそれでよいのです。
例えば、「○○がほしいー」とダダをこねる子供に対して、「それは買いません!」と断言して突っぱねたとしても、そのあとにくすぐり遊びをしたり、子供を向き合って楽しく共感したりする経験を持てばそれで子供は満たされるのである。
もっといえば、普段からそれが出来ていれば、そもそもそこでうわべの理由に過ぎない「ダダ」を起こす子供にはならないのである。
(そのあたりが「叱らなくて良い子育て」であり「先回りした関わり」である)
泣きやわがままやダダに負けてしまう「弱い大人」では、子供も結果的に満たされないのです。
長くなってしまったので、また次回に続く。