僕自身も強い人間ではないし、人の個性というものは弱かろうと強かろうと尊重すべきものであると思うから、それはそれでいいと思う。
しかし、子育てをしているときには「自分は強く言ったり・叱ったりするのは苦手だから」では済まないこともある。
例えば、安全・危険に関わること。
子供が自分や他者に対して危ないことをしていたとき、優しく伝えて伝わるのならばそれはそれでもいいだろう。
しかし、それで伝わっていないならば、大人は毅然として伝える強さを持たなければならない。
それら危険・安全に関わることをしても、子供に伝わるように伝えていなければ、子供はそれを容認・追認されたととってしまうこともある。
そういったことが小さい頃から積み重なっていくと、年齢を重ねたあとには、それはたまたまでている行動ではなく、その子供の常習的な行動にへと発展してしまう。
そうなってからでは、対応していくのはとても大変だ。
安全・危険というのは小さい頃から当然ながらきちんと伝えていかなければならない一点である。
それには、自分の性格が向いていなから毅然と言えないというようなことが、いいわけにならないことは大人ならば理解できるだろう。
自分の性格が向いていなかったとしても、そういった親としてしなければならないことを通して、それをすることでその人も「親」として成長していけるのだ。
しかし、現実にはそれを回避してしまう人も少なくない。
回避してしまうこともそのときはできるのだが、あとあとになれば子供の行動も大きくなる。
その分対応も大変になるのに関わらず、逆に親としての力が身についていないということにもなり、より子供への関わりや、問題解決が困難になってしまう。
であるから、自分の性格が向いていないとしても、「親として」「人として」伝えなければならないことは伝えていくべきだろう。
別に「弱い」対応をしないということは、必ずしも「もっと叱りなさい・怒りなさい」とか、精神論的に「甘やかすな」ということではないけれども、時と場合によっては強い対応が必要になることもあるということである。
安全・危険についての他にそういったものはなにがあるだろう。
例えば、人に迷惑をかけないことや公共のマナーということもそのひとつであろうし。
モノや食べ物・お金などを大事にするという人として身につけるべきこと。
食事のマナーや食べ物を残さず食べるというような、文化的に大切なことなどもあげられるだろう。
その実際の関わり方というのは人それぞれだが、そういったところできちんと関わることは子供の全般的な成長にも大きく関わってくる。
よしんば、ほかの部分で放任気味だったとしても、そういったところでしっかりと関わっていれば、子供は親にきちんと見守られている、育てられているという実感がもてる。
逆にほかの部分では細々と関わられているけど、そういう部分でしっかり関わらないのでは、子供も親に目を向けられている実感にはつながりにくい。
なので、単に「しつけ・マナー」という意味でこのような毅然とした関わりをしなければならないのではなく、育ちの上で必要な大切なことなのだと僕は思う。
しかし、気をつけて欲しいのは、これらのことを気にするあまり単なる過干渉にならないようにすることである。
「弱い大人」は強く言えない・はっきりした態度をとれないこともあって、小言を重ねるだけの過干渉的な関わりにおちいりやすいからである。