しばしば、保育士や保育園の方針の中で、「うちの園はしつけを重視しています」とか「しつけとして必要だから」というようなことが言われている。
そこで言われている「しつけ」とはどういうことなのか、具体的にはなにをしているのかということを見ていくと・・・。
実際やっていることは僕の知る限り、前回の内容にあるような「外からできるようにすること」であることがほとんどだ。
前回にも述べられているように、だからといってそれがすべてよくないわけでも、うまくいかないわけでもない。
うまくいく分には、それは「子供の力を適切に引き出した」と言えるだろう。
しかし、実際にこういった保育を見ていると、どうにも気になるところがある。
ときにその子供を「出来るようにする行為」が、その子の現状ではとても出来ないことを要求していたり、精神的なストレスがかかるような状況でしていたり、
子供の力を伸ばすためというよりも、大人が手をかけずに済む状況を要求しているようにとれたり、少ない人員で保育するために子供に負担をかけてまで、その「できる」を要求しているのではないかと思えることすらしばしばある。
過去記事に寄せられている現役の保育士からの多くのコメントを見ても、このような保育をしているところが少なくないのがわかる。
このような状況があるのにはいくつかの理由があるだろう。
ひとつには上で出ているように、実際に少ない人員で保育をしなければならない施設が存在しているからだ。
例えば、営利目的でお金儲けとしてやっている施設では、利益を増やすために人件費を圧縮している。
設置基準を守らねばならない認可保育園では、どれだけ人件費をさげようとしても、その認可基準の人員だけは確保しなければならない。(それでも十分とは言えないのだが)
設置基準を守る必要のない施設では、可能な限り保育士を減らすということが当然のごとく行われている。
そのなかでは、保育のやり方もその状況に合わせたものとならざるをえない。
なので、子供に負担をかけたり、僕からしたら虐げているとすら感じるようなことすら平然と行われているところもある。
しかもその保育士たちは、人員が少ないためにやむをえず子供に負担をかけてしまっているのだ、という認識はほとんど持っていない。
その保育士自身そういう保育しか知らなかったり、先輩からそういう保育を仕込まれているので、保育とはそういうものだと思っているし、それができることにプライドすら持っている。
そのような保育に疑問を持つ人は、そういった施設では良心がとがめて長く働くことはない。
僕の知り合いにも、保育施設に正規やパートとして就職・再就職したが、あまりに強圧的に子供に関わったりする保育に嫌気がさしてやめたりした人が何人もいる。
追記しておくと、そういった施設では労働条件が劣悪なことも多いので、穏やかに子供と関わる余裕がすでに保育士に失われていることも指摘できるだろう。
では、認可園や人員の十分にいる施設ではこういうことはないか?というと、それがそうでもない。
なぜなら、現在の年配の人たちが持っているように、このような「できることを」子供に要求していくことが既製の子育ての価値観であるということが、そのまま保育の中にも存在しているし、
また、かつての保育のなかでは、そういったやりかたで十分に健全に機能していたからでもある。
子供・親・家庭の様子というのは地域差がずいぶんとあるものだから、いまでも地域によっては、それで十分に機能してしまうところもあるかもしれない。
保育園の設置目的というのは、「保育に欠ける乳幼児のための家庭の代替」(つまり、仕事などで子供をみれない人に変わって家庭的に育児する場ということ)なのだが、かつての保育園は家庭というよりも、むしろ学校に近い部分が多かったと言える。
例えば、保育園というと「お遊戯」というようなイメージをもっている年配の人は多い。
そのように、かつてはそういったことを子供に教えたり、生活の中で様々な「できる」をさせることが、そのなかには多くあった。そしてそれで済んでいた。
なぜなら、核家族でなく祖父母が日常的に養育に携わっていたり、地域のつながりが多かったり、親の養育力もつよかったりなど、子供の基礎的な部分は保育園でことさらケアせずとも、多くが家庭内でなされていたということが理由に挙げられるのではないかと僕は思う。
だから、かつての保育士の評価基準は、そういった「できる」をいかに子供にうまく浸透させられるか、家庭における「甘え」から脱却させて「自立」へと向かわせられるか、そういうところに焦点があてられていた。
なので、この価値観を持ち続けている、もしくは周囲の先輩保育士からそれを学んだ保育士は、子供個々人へのケアという視点よりも、いかに「できる子」にするか、大人の要求に従う子になるか、という考えを強く持っている。
なかには「いかに子供になめられないか」ということを平然という保育士もいた。
もはや、
そういった「できる子にする」という意図すら残っておらず、ただ強圧的に関わることを当たり前に無自覚的に行ってしまっているだけという保育士も少なくない。たいへん残念なことに・・・。
そして本当に問題なのは、まさにその部分だろう。
現在の子供の置かれている状況というのは、かつてとはずいぶん変わってきている。
ごく当たり前の甘えを受け止めるところからや、大人に対する基本的な信頼を築いたりするところからケアすることを、その子その子に合わせて行っていかなければならない。
そういった状況では、このような「外からできるようにすること」ばかりでは機能しないことも多い。
ここで僕は、そこでの「しつけ」という言葉が、そのように子供に負担をかけたり、子供を虐げること、大人中心に保育することに対する「免罪符」として使われてしまっていることを指摘したい。
子育て = しつけ = 大人の言う事を聞く子 という図式が頭の中にインプットされていて、それで子供に関わってしまうということも、一般の人ならばやむをえないかとも思う。
しかし、それを仕事にしている人が自分のしていることに無自覚でいるというのは、あって良いことではないだろう。
この保育における「無自覚さ」というのが日本の保育界のもつ大きな問題だと言える。
最後になってしまったが、おことわりを入れておく。
「しつけ」を謳っている保育施設が、すべてここで書かれたようなものであるということはないだろう。
しっかりとした理念を持ってそう言っているのかもしれないし、単に親に対する訴求力のある宣伝文句として使っているだけで、中身はふつうに子供を暖かく見守っている保育かもしれない。
また、たとえ個々の子供を大事にしない保育が主流になってしまっている施設でも、なかには一生懸命子供のことを考えている保育士もいるだろう。
逆に、きちんとした保育をしていると思われる保育園でも、なかには子供をないがしろにするような保育をする人間もいる。
このブログを読んでいる人の中には、保育施設に子供を預けている方もたくさんいるだろうから、いたずらにこのようなことを書いて不安にさせるつもりはない。
しかし、現実に横暴ともとれるような保育が横行している。
僕はできることならば、そのような保育が少なくなってくれればよいと思う。
そのためには誰かが指摘しなければならないだろう。
どうかそのあたりをご賢察下さい。