このことは、子供の立場からみるとわかりやすい。
例えば、親が「○○の習い事をやりたい?」と聞いたとしても、そこに親の強い期待が込められていれば、子供は本心はどうあれ「やりたい」ということがある。
これが、普段の関心や関わりが少なかったり、肯定が少なかったり、暖かみのある関わりが少ない親からだとなおさらになる。
なぜなら、そのように親が示した期待・要望に応えることで親からの関心や肯定を求めようとしてしまうからである。
このことを親の立場からみると、「子供のため」「子供が望んだのだから」という認識でいることもできる。
つまり、親自身が子供に対してそこでプレッシャーをかけていたという意識なしにいられてしまうのだ。
そのような状況でも無理なくできればよいだろうが、大人にもオーバーワークがあるように、子供にも頑張れるキャパシティというものはある。
子供が本心では望んでいないことであるならば、そのキャパシティが一杯になるのはさらに早いだろう。
こういった親の思いは、なにも習い事や勉強ばかりとは限らない。
親が子供に望む「あるべき子供像」だったり、「よい子」を求めることなどもときには、子供に見返りを求める親の思いともなることもある。
なぜこれらのことを指摘するかといえば、このような親の期待に応えようと努力することは、子供にとってとても心のエネルギーを使うことだからである。
それゆえに、心に余裕のない状態に置かれ続けていると、日々の子供の様子・育ちへと影響してくる。
多いところでは、無気力や幼さ、萎縮、意地悪などへとつながることも見られる。
こういった子供の姿が、年々保育園の子供にも増えているように感じる。
これらのケースの親に共通して覚えるのは、「子供」へ期待・要求の大きさに対して、「子供そのもの」への関心の薄さというギャップである。
子供への要求や期待は大いにする、そのために習い事や勉強などたくさんのお金もかけはする。
しかし、一方で子供そのものの世話をしたり、関心をもったり、直接関わったりということが、それらに比してあまりに少なく感じるケースが多いのだ。
このアンバランスさというのは、どこかで解消されればよいが、そのまま要求が増大し続けていけば、大きな破綻を迎えてしまわないかとても心配なことである。