成長の瞬間 Vol.1 - 2013.05.13 Mon
先日、お弁当をもってアスレチックのある公園へ行ってきました。
そこへ行くのはむーちゃんは3回目。
1回目、2回目のときはそこにある吊り橋は怖くて渡れなかったのだけど、今回はお兄ちゃんについてなんとか渡ることができました。
一度渡ってしまうと急に自信がついたようで、なんども繰り返し渡って遊べるように。
おまけに、ターザンロープにもひとりで掴まって滑ることも楽しめるようになっていました。
その日以来、高いところや、登ったり下りたりする遊具が怖がらずに遊べるようになり、ジャングルジムやうんていなどいろいろ挑戦しては、誇らしげにその姿を見せてくれています。
まさに成長のなかにある大きなステップをひとつ登ったのを実感します。
子供の成長は日々のなかでたくさんの積み重ねがあるのだけど、それはなかなかそのまま目に見えてくるわけではないようです。
そうやって力を溜めておいて、あるとき階段をひとつ上がるように成長した姿を大人の目にも見えるように出してくれます。
僕は乳幼児と関わる上で、この目に見えない成長の部分において大人が焦らず子供を信じて見守ってあげられることが大切なことだと考えています。
例えば、その吊り橋のことにしても、大人が渡り方を見せたり教えたり、励ましたり、応援したりしてもっと早いうちに渡らせることもできるでしょう。
それはそれでひとつの方法だし、間違ってはいないと思います。
でも、なかにはこんな例もあります。
1~3歳児のクラスの子供が公園で遊んでいるとき、うんてい(雲梯)に途中まで登ったのはいいけど、そこで泣いていたり、大人を呼んでいる子がいます。
この泣いているのも、降りられなくなってしまったとか怖くなってしまったというのならば可愛いものですが、なかには「上に登らせろ」という大人の手伝いを当然のことと要求する意味で呼んだり泣いている子がいます。
こういう要求を出している子は、普段から自分の力でできないこと、しきれないことに対して常習的に大人に手を出してもらっている子が多いです。
なので、家庭で過保護・過干渉にされている子ほど多くなっています。
常習的にこういう関わりを当たり前のこととしていると、それは依存心を高めてしまいます。
このことだけで、ほかに影響していないならば大したことではないかもしれませんが、遊びにまで依存を持ち込んでいる子は、たいてい生活面ではもっと依存心が高くなっています。
もともと、子供は生活においてどうしたって大人に依存しているところは大きいのです。
ときには必要に応じてさまざまなことを大人に手伝ってもらっています。
それはどうしたって当然なことです。
でも、成長に応じてだんだんとその依存の度合いが少なくなって、自立へと向かっています。
その自立に向かわせるのは、さまざまな達成感からくる「自信」です。
生活のなかでももちろんそういった自信はつけていっているのですが、子供が本当に自発的に行動していることが多いのは、「遊び」においてです。
子供はおもに遊びのなかで、自分の成長を実感しているわけです。
それを遊びにおいても、大人に依存するように当の大人が仕向けていってしまったとしたらどうでしょう。
自立に向かう自信をつける場所は少なくなってしまいますね。
さらには大人に依存する場面を多くすることで、より依存心が高まってしまうので、それは生活面にまで大人への依存を多くすることともなりかねません。
結果的に、この子は成長のステップを上がるまで余計に時間がかかってしまいます。
なので、生活の中で大人に頼る部分があるのはある程度避けられないことなのですから、せめて遊びの中では自立的に行動できる余地をたくさん持たせてあげるのがよいのではないでしょうか。
また、大人が遊びの中で手を貸すことを常習的にすることで、子供の得られる経験や達成感というものを奪ってしまう・減じさせてしまうということもあるのではないかと感じます。
長くなってしまったので次回に続きます。
1回目、2回目のときはそこにある吊り橋は怖くて渡れなかったのだけど、今回はお兄ちゃんについてなんとか渡ることができました。
一度渡ってしまうと急に自信がついたようで、なんども繰り返し渡って遊べるように。
おまけに、ターザンロープにもひとりで掴まって滑ることも楽しめるようになっていました。
その日以来、高いところや、登ったり下りたりする遊具が怖がらずに遊べるようになり、ジャングルジムやうんていなどいろいろ挑戦しては、誇らしげにその姿を見せてくれています。
まさに成長のなかにある大きなステップをひとつ登ったのを実感します。
子供の成長は日々のなかでたくさんの積み重ねがあるのだけど、それはなかなかそのまま目に見えてくるわけではないようです。
そうやって力を溜めておいて、あるとき階段をひとつ上がるように成長した姿を大人の目にも見えるように出してくれます。
僕は乳幼児と関わる上で、この目に見えない成長の部分において大人が焦らず子供を信じて見守ってあげられることが大切なことだと考えています。
例えば、その吊り橋のことにしても、大人が渡り方を見せたり教えたり、励ましたり、応援したりしてもっと早いうちに渡らせることもできるでしょう。
それはそれでひとつの方法だし、間違ってはいないと思います。
でも、なかにはこんな例もあります。
1~3歳児のクラスの子供が公園で遊んでいるとき、うんてい(雲梯)に途中まで登ったのはいいけど、そこで泣いていたり、大人を呼んでいる子がいます。
この泣いているのも、降りられなくなってしまったとか怖くなってしまったというのならば可愛いものですが、なかには「上に登らせろ」という大人の手伝いを当然のことと要求する意味で呼んだり泣いている子がいます。
こういう要求を出している子は、普段から自分の力でできないこと、しきれないことに対して常習的に大人に手を出してもらっている子が多いです。
なので、家庭で過保護・過干渉にされている子ほど多くなっています。
常習的にこういう関わりを当たり前のこととしていると、それは依存心を高めてしまいます。
このことだけで、ほかに影響していないならば大したことではないかもしれませんが、遊びにまで依存を持ち込んでいる子は、たいてい生活面ではもっと依存心が高くなっています。
もともと、子供は生活においてどうしたって大人に依存しているところは大きいのです。
ときには必要に応じてさまざまなことを大人に手伝ってもらっています。
それはどうしたって当然なことです。
でも、成長に応じてだんだんとその依存の度合いが少なくなって、自立へと向かっています。
その自立に向かわせるのは、さまざまな達成感からくる「自信」です。
生活のなかでももちろんそういった自信はつけていっているのですが、子供が本当に自発的に行動していることが多いのは、「遊び」においてです。
子供はおもに遊びのなかで、自分の成長を実感しているわけです。
それを遊びにおいても、大人に依存するように当の大人が仕向けていってしまったとしたらどうでしょう。
自立に向かう自信をつける場所は少なくなってしまいますね。
さらには大人に依存する場面を多くすることで、より依存心が高まってしまうので、それは生活面にまで大人への依存を多くすることともなりかねません。
結果的に、この子は成長のステップを上がるまで余計に時間がかかってしまいます。
なので、生活の中で大人に頼る部分があるのはある程度避けられないことなのですから、せめて遊びの中では自立的に行動できる余地をたくさん持たせてあげるのがよいのではないでしょうか。
また、大人が遊びの中で手を貸すことを常習的にすることで、子供の得られる経験や達成感というものを奪ってしまう・減じさせてしまうということもあるのではないかと感じます。
長くなってしまったので次回に続きます。
| 2013-05-13 | 過保護と過干渉 | Comment : 9 | トラックバック : 0 |
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