保育 第三の道 - 2013.06.23 Sun
「子育て支援」という言葉がずいぶん前からたくさん使われるようになってきました。
これはつまり、子供の人格形成に関しては、親が家庭ですべきものと世間では広く考えられているということのひとつの表れでしょう。
もちろん、子供の人格形成を人任せでいいわけでないことは言うまでもないことではありますが。
(僕は「しつけ」という言葉・考え方を子育ての柱にしてしまうことの弊害を感じていますから、ここでは「しつけを重視しなさい」という意味のことを言おうとしているのではありません)
子供が小さい時から関わる保育園でも、多分にそういうところがありました。
ですから、そういう考えでいる人や園では、不適応な行動の多い子供に対して、「親が悪い」というような態度を示すところも少なくありませんでした。
子供を叱ったり怒ったりすることで、適応的な姿にさせようという方針の人や園ほどそういう傾向があったと感じています。
確かに中には、育児を放棄してしまったり、子供に必要なすべきこともしないで遊んでしまう親などもいますから、そういう人にきちんと意見できる保育士はそれはそれで立派なことと思います。
しかし、「無関心をつくらない」で述べたように、子育てがわからずに、望まない方向へいってしまい、子供に無関心になってしまう人という現実も最近ではたくさんあるのです。
そういう人たちに対しても、「子供が言う事を聞かないのは親が悪い」で済ましていいでしょうか?
当然いいわけはありません。
「子育て支援」という言葉は、まだまだ、保育の受け皿の数だとか、親の便利に合わせた長時間保育や一時保育などのサービス面として使われているにすぎません。
本当の個々の親の立場に立った、「子育て」の「支援・援助」にはなっていないのです。
国や自治体などの行政は、「子育て支援」「保育サービス拡充」ということをやたらと言っています。
でも、そこで意図されているのは、保育の質的・内容的な意味での「支援」ではなくて、多くがハード面についてであり、しかも子供本位の支援・サービスではなく親受けを狙ったものであるというのが現実です。
大量の保育所の拡充を現政権は掲げています。
「とにかく受け皿を」ということであり、もちろんそれが必要なことも理解できますが、保育について少しでも詳しい人ならば、短期間で大量に作られたそれらは、「子供を受託された時間だけ預かるだけの機能」になりかねないリスクを孕んでいることも感じていることでしょう。
1 子供を安全に預かる
2 子供の健全な成長を援助する
3 子供の健全な成長をなしとげるために、親へも包括的な援助をしていく
これまでの保育園というのは、1、2止まりでした。
実際には1はできていても、2いまひとつというところも多かったです。
2がいまひとつでも、さして問題なく成り立っていたのは、園でその「健全な成長を援助する」が十分にできていなくとも、家庭でそれがそれなりに可能だったからです。
ですから言ってみれば、保育園は子供の人格形成やいわゆるところの「しつけ」について家庭に寄りかかっていた部分があったのです。
家庭で、きちんとできるという前提があって、保育が普通におくれる状態だったわけです。
ですので、それができない家庭に対しては、「親がわるい」「家庭でのしつけがわるい」で済ませたり、そういった感想・批判がでてきてしまうのです。
これまで(いまでも)子供を保育園に預けていて、「保育士の心無い言葉に傷ついた」という保護者の方がたくさんいると思います。
もちろん、先程も述べたように快く思われないことがわかっていても、子供の成長のために言わなければならないということも保育士にはあります。
しかし、適切な援助もせず「親がわるい」という考え方・言い分は、もはや過去のものなのです。
初めて子供を持った人は、だれしもが子育ての初心者です。かと言って子供が二人三人いたとしても、必ずしも上手にできるようになるというものでもありません。
かつての日本の下町や農村のように、弟妹や近所の子の子守をするのが大きい子の役割だったなどという人はいないのです。
これからの保育士・保育園は、保育・子育ての専門家として、親への文字通りの『子育て支援』を明確に視野に入れる必要があるでしょう。
これを僕は『保育の第三の道』と定義します。
子供を預かることが第一であり、これは当然の最低限。
子供の成長に寄与することが第二の道。これも専門家として真摯に努力すべきもの。
そして、「子育て」そのものを親へのアプローチも含めて包括的に援助していくこと。これが第三の道です。
しかし、こういった親への援助というのは、別に最近になって始まったものでもありません。
そういった意図や理念をもって臨んでいた施設や、保育士ははるかに以前からしていたことです。
そういう人は、「あの人はベテラン保育士だから安心」などというように、親からも大きな信頼を寄せられていたことでしょう。
しかし、もう「あの人は」というように個人の力量に任せて、それを期待してはならない時代になっています。
明確に、保育の一分野として親への子育てのスキルアップとでも言うような、援助を盛り込んで行く必要があるでしょう。
しかし、まだまだ第二の「子供への適切な援助」というものすら道半ばです。
いますぐ、このような親への子育ての包括的な支援が、完全にできるようになれとも思いませんが、それを視野に入れて目標として掲げていかなければ、「専門性のある保育」と主張することはできなくなるでしょう。
おそらく今後、行政の流れから、第一の子供を預かるだけの保育が大量に増えていきます。
だからこそ、保育はもっと研究し学び高めていかなければならないと考えます。
排泄に関しての記事が途中ですが、コメントへの返信を考えていたら以前から頭の中にあった、このテーマが形になってきましたので先にまとめてしまいました。
次回、排泄についての続きを更新したいと思います。
| 2013-06-23 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 27 | トラックバック : 0 |
排泄の自立に際しての関わり Vol.1 - 2013.06.21 Fri
ほとんどの内容が、排泄を自立させるときに、多くの人が知らないままはまってしまう落とし穴についての注意点を書いているといった具合でしょうか。
また、こういった排泄へのアプローチというものも、子供によりその大人により、差はさまざまです。
なので、具体的に書いたとしても、人それぞれでそのとおりにうまくいくというものでもありません。
それと「こうすれば取れるのだ」と勘違いされてしまうことで、より気にかけて欲しいところの先の注意点の方がおろそかになってしまうことも心配です。
基本的には誰しもがいずれは取れるものなのです。
なので、気をつけなければならない点にだけは知っておいてもらいたいと考えています。
ですが、具体的なアプローチにおいても注意するところというのはあるので、その点について今回書き加えようかと思います。
ただし、これは「こうすればとれる」というものでも、「具体的なトイレットトレーニングの仕方」というものでもありませんので、そこはご理解の上読んでください。
排泄の自立への過程で、しばしばこじらせてしまう原因の大きなものは「プレッシャー」です。
「おしっこが溜められる」というたったひとつの能力だけで、排泄が確立するわけではありません。
それを知覚する感覚だとか、人に伝えるためのコミュニケーションの力、言葉を選び、声にだして伝える力。
大人から見れば、「もうこの子はおしっこを教えることができるようになったわ」という認識も、実は夢中で遊んでいたら気づかない程度の発達具合ということもあります。
排泄が自立できるためには、様々な力・能力が伸びていなければなりません。
それもそこそこ高度なレベルまでの発達がいるものです。
それらの総合的な結果として、自立があるのですから、子供にとって簡単にうまくいかないことだって当然あります。
できるようになったと見えて、実はその時がたまたまだったのかもしれないし、できていたことができなくなることだって小さい子にはよくあることです。
そういうところに、許容範囲以上にプレッシャーをかけてしまうのはあまりいい結果をうみません。
過去記事にあるように、性格形成に響いたりすることもありますし、排泄の経験そのものが「嫌なもの」と感じるようになって、ずっとあとまで無関心や消極的になったりすることもあります。
ですので、親の「あせり」「プレッシャー」は排泄の自立において、あまりいいものではありません。
『子育ての時間制限』の過去記事にあるように、どうしても外さなければならない理由があるのでなければ、余裕を持ってできるだけプレッシャーにならない形で排泄の自立に向けていって欲しいと思います。
ちょうど前の記事において、1、2歳時期の子育てのふたつの大事なことについて書きました。
このふたつは子供の成長の基礎になるものですので、排泄にも無関係ではありません。
これらが足りていない子に、いくらトイレの仕方だけ仕込んだところで、なかなかプラスにはなりません。排泄を身につけさせようとするよりも、まずはそういった心の部分を作っていくことが大事でしょう。
排泄の自立がうまくいかない事の背景には、子供自身のことよりも、親のあり方が影響していることも多いです。
例えば、おむつを早く取らなければと考えている人は、早いうちからいわゆるトイレットトレーニングを子供にしようとします。
このとき、子供の身体的・精神的な成長が一定のところまで進んでいればいいですが、そうでない場合は、失敗をする期間というのが当然ながら長く続くことになります。
この間、排泄に直接関わる時だけでなく、遊んでいるときや、外出する時なども、なんだかんだと排泄に対してのプレッシャーをかけられることとなります。
また、失敗する期間が長ければ、大人の方も余裕が失われてくることもあります。
失敗されてイライラしてしまうこともでてくるでしょうし、言葉や顔に出さなくとも子供は、親の残念そうな様子、大変そうなイヤイヤそうな様子も感じます。
そういうものは出来るだけ少ないほうがいいと思うのです。
ですので、この移行期の失敗してもいい期間というのは、親がというか、その人が失敗されても余裕をもって対応できる時間内であるのが望ましいのです。
あせっておむつを外そうとする人ほど、あせっているので余裕がないにも関わらず、早めにそれを始めてしまうので、この期間が長いことになってしまっています。
力を十分貯めてから移行に臨むのがよいでしょう。
つまり、自立への移行は子供の発達の様子だけでなく「これだけしっかり育ってきた、今からなら排泄が自立するまで、余裕を持って自分が臨めるだろう」という、親自身の気持ちの見極めも大事かなと思います。
そう言う意味では、もし「自分はすぐイライラしてしまう」というタイプの人だったら、できそうでもすぐおむつをはずさず、もう少し余裕を見てからでもいいかもしれませんね。
大人も排泄の移行にあたってストレスが少なければ、子供もそれだけプレッシャーなどのマイナス面が少ないということですから。
子供の発達がゆっくりだったりして、結果的に時間がかかってしまったりすることはしょうがないことです。
それはいいのですが、せめて大人のあせりで無理な時点から始めて子供に負担を強いる期間を長くしてしまうのは、言ってみれば「避けられるリスク」です。こういうところも排泄の自立にまつわる難しい問題かなと思います。
「早くにトイレットトレーニングをすれば早くにおむつがはずれる」というものでは必ずしもないわけです。
場合によっては、むしろ長引かせてしまう場合ということすらあります。
「長引く」にもいろいろあります。
全体的に排泄の自立が遅れるというものもあれば、日中の意識的な時間はクリアできるけど、夜尿が続くという風になることもあるでしょう。
幼稚園に通わせるなどで、とにかく日中はおむつがはずれないと困るというようなこともあるでしょうから、必要に応じて排泄の自立を促すということはあるかもしれませんが、できるならばすんなりと自立できてしまう方がいいのは多くの人の望むところでしょう。
そのためにもやはりあせりは禁物と思います。
考えてみれば当然のことなのだけど、みなさん忘れてしまうことがあるので書いておきます。
それは、
・排泄の自立の仕方はみんな違う
・マニュアル通りにはいかない
ということです。
おしっこから自立する子もいれば、大便のほうが先にわかってトイレでできるようになる子もいます。
自立の年齢だってみんなちがうし、昼間はわかるようになったのが早かったけど、睡眠中はなかなかおむつが取れない子というのだってあります。
「おしっこができてから、うんちができて、それからおねしょがなおる」そんな風に漠然と考えていて、それと違うからといって慌てたり、焦ったりする必要もありません。
そういうものなのです。
長くなってしまったので、また次回に続きます。
| 2013-06-21 | 排泄の自立 | Comment : 13 | トラックバック : 0 |
無関心をつくらない Vol.2 - 2013.06.18 Tue
子供の行動に対して、無関心もしくは無関心を装わなければならなくなってしまうという人は、かなりその大変さが行くところまで行ってしまった場合でしょう。
僕は「子育てを大変」、「子供が大変」にしない方法を知っています。
そのためには1~2歳での関わりが重要です。
どれもこれまでに述べてきたことですが、まとめて書いておくと目当てになりやすいでしょうから、ここに挙げておきます。
○可愛い子供にする
・感情を出せる子供にする →肯定
・心がつながる子にする →共感
・安心してくつろげる家庭
○甘えをだせる・甘えられる子にする (ネガティブな甘えの出し方を覚えさせない)
・受容をしっかりとする
・親は常に「受容してくれる人なのだ」という信頼感を実感させる
細かく言うと返ってわかりにくいので、ズバリ二つに絞ってしまいましょう。
『可愛い子供にする』と『甘えられる子』です。
その下にあるのは、そのことの補助的なものと考えていいでしょう。
「親にとって子供は可愛いものに決まっているじゃないか」という人もいるかと思いますが、そういった子供をみる側の主観的な意味合いでの「可愛い」ではなくて、
「素直に子供らしく自分を出せる」とか「たくさん笑顔がでる」とか「子供らしい好奇心を表現できる」などの、子供自身がもつ「子供らしさ」「素直さ」といったものとでも言えばよいでしょうか。
それはけっして「人見知りをしないで、よその大人にも可愛らしく振る舞える」ということまで要求するのではありません。
慣れていて安心できる大人、この段階では親にだけだっていいのです。
いつも親が怒っている、無表情でなにを考えているかわからない、ピリピリしている、いつ叩かれるか怒鳴られるかとビクビクしている。
こういった状況では、子供は自分自身を素直に出して、子供らしく可愛い子ではいられません。
成長期に入ったり、大きくなればなるほど、怒ったり叱ったりしなければならないこともどうしたって増えてくるでしょう。
それはそれでいいのです、でもだからこそ0~2歳のこの乳児期に、たくさん可愛がられて素直に可愛さを表現できる子になっていることは大変重要なのです。
「子供とは生まれただけで可愛い」わけではないのです。
「可愛い子」に大人がしていかなければならないのです。
「支配的な子供」について書いたところでも、可愛げがなくなってしまった子に対するアプローチはとても大変というお話をしました。
子供らしい可愛さを小さいうちに身につけて、それをふんだんに持っているということは、プラスになることはあってもマイナスになるということはないでしょう。
「可愛い子供にする」ということが、乳児期の子育てのとても大事な目標のひとつだと思ってください。
次の「甘えをだせる・甘えられる子にする」というのは、「受容」ということを何かにつけて言っている僕のブログを読んできた人にはお分かりになると思います。
素直に「甘え」を出せない子というのは、心を満たすために、 別の手段をとらなければならなくなってしまいます。
その多くがネガティブな行動になって出ます。
結果的に「育てにくい子」「子育ての大変な子」になってしまいます。
多少幼くてもなんでも、親や大人に対して「甘えられる子」というのは、子育て上のリスクを大きく下げてくれます。
よく世間では「子供を甘やかすな」と言います。
言葉は似てますが、「甘やかす」ことと、「甘えを出すこと、それを受け止めること」というのは全然違うことです。
この違いがわかりにくい人に、これの線引きを言葉で説明するのはけっこう難しいのですが、これが全てではないですけれどもひとつ基準になるかなあと思うのは、大人が「してほしくない・すべきでない・させたくない」と感じていることまでさせてしまう・認めてしまうというのは、それは受容とは別のことになってしまうでしょう。
では、子供が素直な甘えを出せるためにはどうすればいいでしょうか。
これは親の方にある姿勢がないと、なかなか「素直な甘え」「可愛い甘え」とはならないのです。
その姿勢というのは、「あなたを受け止めますよ」と両手を広げる気持ちとでもいいましょうか。
子供の気持ちを受け入れる姿勢を、大人の方から示していないと子供はなかなか素直には出せないものです。
なので、いつも怒っている人や、無表情な人だと子供は甘えたい気持ちを我慢しなければなりません。
慢性的に我慢しているとその気持ちはネガティブな形として出てきたり、溜め込んでいってもっと悪い形であとあと出したりしなければならなくなってしまいます。
ですから、「子供を受け止める姿勢というのを大人の方から子供に示している」ということが欠かせないことです。
甘えの出せない子の、育てにくさや問題行動というのは、もうてきめんにでてきます。
そしてこれは何歳になってもあとを引きます。
あとからでは、なかなか大人の受け入れやすい、お互いに心地のよい関わりとしての「甘え」を出すのはなかなか大変です。
ですから、乳児期のうちに大人が受容する姿勢を常に持って、「可愛い素直な甘えを出せる子供」にすることがとても重要なことです。
よって、この「可愛い子供にする」ということと「甘えの出せる子供にする」ということを、0歳1歳2歳時期の子育ての課題として僕は挙げたいと思います。
この二つのことができていないのに、そのほかの様々なことを身につけさせようとしても、それは必ずしもプラスにならないと僕は思います。
例えば、小さいうちからたくさんの習い事や早期教育をさせている家庭もたくさん見ていますが、この二つができていないのに、そういったことをさせられている子は、けっして安定した育ちを送っていません。
もし、そういったことがどうしても必要だと考えているのでしたら、なおさらこの二つのことをしっかりとしておくべきだと僕は思います。
しかし、これらができる家庭ほどそういったことは子供に望まず、できないうちほどそういう方面に子供を駆り立てる傾向があるというのは、以前早期教育について書いたところで述べた通りです。
習い事や早期教育といったものでなくとも、子育ての課題の中でこういうことはいろいろあります。例えばトイレットトレーニングや人見知りなんかもそうです。
この二つがそれなりにでも達成できていないと、なかなかそのような精神的な成長をベースとして発達するものはすんなりといかないものです。
素直な可愛い子にするということと、甘えの出せる子にするというのは、そういう関わりが自然にできてしまう親にとっては、さしてなんの意識することもなく達成できてしまうようなありきたりなことでしょう。
でも、「しつけをきちんとしなければならない」とか「甘やかしてはならない」といった知識から、あえてそれができなくなってしまっている人もたくさんいます。
しつけだとか、他者との関わりのルールだとか、一般常識だとか、善悪の判断などというのは、そのずっとあとでいいのです。
子供の小さいうちには、まずはありきたりなようだけれども、「可愛い子」「甘えられる子」を目指してみることをおすすめします。
この二つのことを乳児期にしっかりと心がけておくだけで、なにより親自身にとって、子育てがより楽しく、好ましいものへと後々までなっていくことでしょう。
| 2013-06-18 | 日本の子育て文化 | Comment : 22 | トラックバック : 0 |
無関心をつくらない - 2013.06.17 Mon
以前にも似たようなケースについて書いていますが、子供に無関心な母親がいました。
病院の待合室でこういうことにあたることはとても多いです。
おそらく同じような光景を目にしている人もたくさんいるかと思います。
男の子は落ち着かず、あれやこれやと病院のものをいじったり、うろつきまわっているので他の患者さんの通行の邪魔になったり、看護師や職員の妨げになってしまったりしている。
母親は、子供に目を向けたり話しかけたりということを一切しないが、まるで子供が困ったことをしている時ほどさらに見ないように視界に入れないようにしているかのような様子。
ついには診察中の診療室のドアを開けて中を覗きだしてしまう。
母親はそれを目に止めたが、なんのリアクションもとらなかった。
というものです。
さすがに診察室を開けてしまうというのはまずいですよね。
病気というプライバシーに関わる話をしていたり、服を脱いだりしていることだってあるわけですから。
さて、別に僕はこの母親を責めようと思って、この記事を書いているわけではありません。
なぜなら、どうしてこういった無関心な親になってしまうか、その理由をよく知っているからです。
子育てをしている中で、人はときどきこういった子供への無関心な状態が作られてしまいます。
誰によってかというと、その本人になのですが。
その原因にはこのブログの最初の方でよく書かれていた、「子育ての当たり前になっていることの落とし穴」や、価値観として浸透してしまっている「日本の子育て文化」といったことが大きく関わっていると思います。
いまの人が、ただ親になって「子育てというのはこういうものだろう」という認識にのっとって子育てをしていると、もともと子供を放置したり、放任したりする悪意がなかったとしても、だんだんと「子供を見たくない」という状態になってしまうことがあります。
あきらかな無関心というのでなくとも、保育園の2~3歳クラスあたりから、「子育ては大変、できるなら見たくない」といった様子になってくる親が急速に増えてきます。
冒頭に書いたケースのように、注意すべきようなことをしていてすら無関心といった状態になってから、そこを改善していくのは大変難しいです。
変えるのは不可能ではないのですが、それにはどうしても欠かせない条件があります。
まず、ここまでの状態になってしまうと、好意で伝えていてすら他者からの忠告やアドバイスといったことには耳を貸さなくなってしまいます。
もしくは、聞いてくれたとしても、「この子は大変な子だから、自分にはどうせできない」といったネガティブなとらえかたになってしまって、なかなかプラスには転じません。
ときには激しく反発されたり、怒ってしまうこと、落ち込んでしまうこと、関係を悪くしてしまうということも少なくありません。
なぜなら、こういう子供に対する無関心は、ネグレクトや放置をしているようなケースとは違って、そういった思い通りにならない子供の状態を大変心苦しく思っているからです。
それだけでなく、非常に負い目に感じており、他者には出さなくとも自分自身や子供自身を責めたりする気持ちを持っていることもあります。
こういった状況を解決するためには、自分自身の考え方や力だけではなかなか難しいのですが、上記のようにとりつくしまのない様子になってしまいますと、本当に子育てをそこから安定化していくのは困難になってしまいます。
先に書かれた変えていくための「条件」というのは、その親本人が現状を変えたい・打破したいと思えるということです。
それがなければ、もしくは中途半端な気持ちでは援助をしてもなかなかうまくいきません。
なので、そういう風に思ってもらえるようなアプローチをしなければならないのですが、今日のテーマはそこではないので省きます。
僕は題名を考えるのが本当に下手だなあと自分でも思うのですが、この記事の表題はそのまんま『無関心をつくらない』としました。
なってからどうこうするよりも、大変な姿を作らないようにするのが一番いいのはもちろんです。
冒頭で無関心になる理由をよく知っていると述べました。
つまり、そういった問題を引き起こしてしまう根っこというのも、実は目に見えてあるものなのです。
それは0、1、2歳の関わりにあります。
具体的には主に1、2歳の関わりがあとあとそれを引き起こすのですが、子育てというのは積み重ねなので当然ながら0歳での子供の見方なども無視できないことです。なので一応0、1、2歳と書きました。
この1、2歳の時期にしていることで、一般に子育てに「当たり前」だと思われていることが、実は落とし穴だとしたら・・・。
このへんのことはすでにブログの中でいくつも書かれてはいます。
「甘やかさない」「きちんと叱って育てろ」「怒ったり叱ったりするのはよくない」「過保護」「過干渉」「支配的な関わり」、そのほか日常的にある刺激過多なメディアや玩具などなど・・。
当たり前と思っていることのなかにも、その程度や使い方によっては、子育てを難しいものにしてしまうということもあります。
子育ての専門家のあいだではとっくに否定されていることが、まだまだ当たり前の子育て方法としてたくさん残っていたりもします。
子育てを仕事にしている保育士のような人たちまで、まだそのレべルの人もたくさんいます。
本当にそのときにしなければならないことをせず、その反対のことを積み重ねてきたとしたら、親からも子供がお荷物になるような姿がでてきてしまうのは、当然とも言えることでしょう。
なので、そうなってはいけないのです。
援助する側の人間からすると、そうさせてはいけないのです。
そこで、子供をお荷物にしないために必要なことを、あらためて簡単にまとめておこうと思います。
あらためてというのは、どれもほとんどこれまでにも書いていることばかりだからです。
その内容については次回に続きます。
| 2013-06-17 | 日本の子育て文化 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
保育士の援助と公的保育 - 2013.06.15 Sat
しかし、この高い専門性があってできる援助というものですが、実のところなかなか人の目には写りません。
一般の人からだけではありません、同じ職場にいる保育士からすらなかなかわからないのです。
もちろん、同じような意図を持って子供に援助ができる保育士からならば、それはわかります。
あまり年齢が若いとか経験年数が多いとかも関係ありません。その人の資質によるものでしょう。
子供に対しての、そういった子供自身を伸ばすといった意図や援助についての理解がそれなりにあって、それを踏まえたうえでの知識や経験がともなっていなければ、自身でそれを実践するどころか、他者がしているそういったことすら見えてきません。
そういう人からは、ただ「あの人は子供の相手がうまい」とかそのようにしか見えないようです。
そのような知識や経験を吸収して、体系だてて身につけていくべき技術というようにはみなされていません。
保育士の学校でもそういうことは教えていません。
(もし、どこかの学校で若い人たちにそういうことを教えて欲しいというのであれば、僕は喜んで教えにいきますよ)
現在では乳幼児における諸問題というのは、かつてよりも圧倒的に増大し、その内容も難しいものになりつつあります。
そういったなかで、預かっているあいだだけ怪我をさせなければいいというような子守り保育では、もう専門的な資格に裏打ちされたはずである保育士としては通用しなくなっていくはずです。
いま現在でも子供に適切な援助をできる保育士や、そういった姿勢をもった保育園というものは多くはありません。
今後もっとこのような専門性をもった保育士や保育園が増えてもらわなければならないと思うのです。
しかし、残念なことに現実は逆の方向へ進むでしょう。
なぜなら、現行の政府は認可保育園設置の基準を大幅に緩和して、営利企業の参入を許可する方向だからです。
これまでは、認証制度など一部自治体による「認証保育所」だけが、そういった営利目的での設置を許されていました。
(認証保育所に関しては過去記事に詳しいところがあります)
どういうことかといいますと、公立・私立を問わず、「認可保育園」というのは、「利益追求を目的として行ってはならない」と『児童福祉法』によって定められています。
そのため、自治体や福祉法人などの営利を目的としない団体にしか、設置が許されていませんでした。
しかし、安倍政権によってこの枠組みが取り払われてしまえば、認可保育園も少なからず営利を目的とした企業が参入することになるでしょう。
少なからずどころか、取って代わられるということもありえます。
実質的にはすでに起こりつつありますので、まずその多くがそうなっていくでしょう。
もちろん、営利企業であってもきちんとした理念をもって運営してくれるところはあるでしょう。
しかし、それはごく一部にしかならないでしょう。
先立って行われた認証保育所や、すでに以前に実施されている老人福祉関連の市場開放による老人福祉施設の実態がそれを物語っています。
質の高いものを展開しようと思えば、それはすなわちコストに跳ね返ります。
経営戦略のなかで、そのコストを支払うことをいとわない企業も中にはあるでしょう。
老人福祉施設などでみても、他と同じ利用料でそれを行っているところは圧倒的な人気を博すでしょうけれども、たいていそういうところは高い利用料となっています。
さて、そこで前半で書かれた「専門性をもった保育士の援助」についてですが、利益追求型の施設になってしまえば、このような職人技であるかのようなスキルというのは減っていってしまうでしょう。
なにしろ、そのものとして目に見えないようなレベルの技術なのです。
もし企業がコストをかけるならば、もっとスマートで宣伝になるような方向へコストをかけるでしょう。
「たくさんあった待機児童を新しい市長の手腕で大幅に解決しました」という某自治体で、その際にできたある企業が経営する園がニュースに出ているのを見ましたが、そこでは「こんなに綺麗で立派な施設」「親のニーズに応えた早期教育などを実施している」というようなところが取り上げられていました。
保育でお金を儲けようとするならば、そういう方にさえ力を入れればいいのが現実です。
お金を儲けるために運営するのであれば、わざわざわかりにくい専門的なそういった援助について職員に身につけさせるようなことをするでしょうか?
そもそも、それを教えられるだけの人がいるだろうか?
そういう疑問があります。
というのも、認証保育所や認可外の利益中心の施設では、人件費を圧縮するために年齢の若い職員を中心に雇い、また昇給なども少なかったり、労働条件等も厳しいので長く勤められるひとは多くありません。
現実にそういった施設では、労働条件の厳しさ、のみならず職員への様々な不当な扱い、給与の低さ、離職率の高さなど、様々な問題がたくさん報告されています。
そしてそういったところでは、まずたいてい良い保育は実施されていないのです。
このブログをコメントまで読んでいる方は、現役の保育士からそういうコメントがあることに気づいていると思います。
また、僕のように保育の周辺にいると、そのような話は山のように見聞きします。
先ほど子供に適切な援助をするのに、年齢の多い少ないは関係ないと述べましたが、やはりそれを伝えられる職員もいないのでは、なかなか個人の努力だけで身につくものでもありません。
もし、そういうスキルを持った人がいたとしても過酷な労働条件や、子供がめいっぱいに詰め込まれたような状況で、それを行うことは大変難しいことです。
僕だって多分できないでしょう。
認可園で基準があるだろうから、上のように「子供がめいっぱいに詰め込まれたような状況」というのはないのではないかと思うかもしれませんが、それがそうでもありません。
というのも、もともとのその床面積に対しての子供の定数といったことや、子供何人に対して保育士何名といったことは、昔に定められた数字なのでいまではかなり、きつきつなのです。
かつてのように、保育園に預けている人の多くが4時5時に迎えに来ていたという状況とも当然変わっています。
そのため、児童福祉法に定めるところの国の基準では、子供に適切な保育が難しいということで、長年かかってそれらを緩和する方向に保育園・保護者・保育士で要求していって現在の状況があります。
僕の住んでいる東京都で言えば、国基準よりも都基準でさらに保育士をプラスして、そこからさらに区基準で職員を増やして保育をしています。
しかし現状それでも十分とは言えません。
もし、営利企業として認可保育園を展開する場合、自治体が独自の基準で加算をしたりしない限り、そのはるかに足りないであろうところの、国基準で運営することも可能になってしまうでしょう。
それでも「認可」基準は満たしていると言えますので。
床面積に関しても、この10年くらい、まただんだんシビアになってきています。
「廊下も屋内なのだから、保育室の面積として計算しなさい」
「調理室なども園の施設のうちなのだから、それも床面積のうちになるだろう」
ある自治体では、そんな話もでています。
調理室を保育の床面積とするかどうかどちらに判断されたのかわかりませんが、廊下は保育室のうちと数えてよいという風になっています。
また、保育定員の流動化というのも今は行われています。
それは、どこかのクラスに定員に空きがあるならば、それはそのクラスの欠員とせず、他クラスの子供をその分受け入れてよいというものです。
例えば、5歳児クラスに応募がなくて2名空きがあれば、1歳児クラスに待機している2名をいれてよいというわけです。
園としては定員数に収まっているとはいえ、それで1歳児クラスの保育室が広くなるわけでもありませんから、1歳児にとって実質的には窮屈な状況となります。
それでも待機児童問題は社会的に言われているし、待機待ちしている人にとってはよいことなのではないかと感じる人もいるでしょう。
しかし、実はここに現在と近年の政治の流れ・姿勢というもの問題があるようです。
なぜなら、児童福祉法に保育園は「国や自治体の責任において必要な分を設置する」といった趣旨が述べられています。
つまり、それだけの保育の要求があるならば、国や自治体に設置する義務があるわけです。
ですから、本来ならばおかしな方法で待機児童を解消するのではなく、きちんとその義務と責任において保育園を設置すべきなのです。
しかし、福祉として行われているものですから、それ自体が利益を生んでいるわけではありません。
なんか最近の風潮としては、利益を生まないものは悪いというような雰囲気がありますが、福祉というのは国民がよりよい生活を送るためにあるわけですから、そこで利益を得るようになってしまえば国民に不利になるということでもあります。
本当は国や自治体の責任において設置・運営しなければならないのに、近年予算を削るための対象として保育園は捉えられています。
東京の23区においても、どんどん議会でその予算の削減や民営化などの削減案が可決しています。
国からも都からもそういった風が吹いていますので、そういう風潮はとどまるところを知りません。
これまで長いあいだかかって、子供たちの健やかな育ちのために改善してきた諸条件も、なし崩しにされつつあります。
いま国に潤沢な予算がないことはわかりますが、このように国民の福祉のためにコツコツと獲得してきたものがなくなってしまうと、それをまた取り戻すことはとても難しいものです。
僕は政治や経済のことは詳しくありませんが、アベノミクスというのがとても世間では支持されているようです。
しかし、安倍総理は第一次安倍内閣のときから、かなりの福祉予算・教育予算を削ることをはっきりと計画していた人ですから、もしそれで経済が潤うにしてもそれは一般の国民のためになるような形とは違うのではないかという気がしてなりません。
また、まだまだいろいろなところにおかしな支出がたくさんあるのを聞いて愕然とします。
本来ならば国や自治体が予算のなかから支出して設置しなければならない保育園。
しかし、国や自治体はそのお金を出したくないので、一般企業に市場開放してしまえという段階に来ています。
本来ならば、法律にのっとってきちんと質の高く維持された保育園を公的責任で設置すべきだと国民には言う権利があるのです。
でも、国は法律にバイパスを設けて、営利化することで「国民の保育所増設の要求に応えた」という形を取ろうとしています。
これは本来の法律の趣旨から言ってズルなのです。
「雇用は増えるし、いいでしょ」と国は言います。
でも、公的保育として増やしても当然雇用は増えるのです。それが保育を営利化する理由にはなりません。なのでそれは聞こえがいいだけの詭弁でしかないでしょう。
そして、国はそれによって税収が増え、企業は多くの利益を得るでしょう。
また、もしかすると企業の認定などにともなって、政治家や官庁にも利権が発生するのかもしれません。
おそらく結果的に損をするのは国民になるのではないかと僕は思います。
また、国はもはや保育の中身ということまでは考えていないようです。
昨年に続き今年も学校の「いじめ対策」に多くの予算を計上しました。教育関連の予算も減らす方向ではありますが、そこに関しては大盤振る舞いしました。多くの国民の注目があったからなのでしょう。
でも、僕からするといろいろ腑に落ちません。
いじめの根っこはすでに保育園時代に明らかにあるのに、保育の予算を削るどころか、保育の仕組みそのものを悪い方へと持っていきつつあります。
専門性の高い保育園と保育士を増やす方に舵をきってくれれば、いじめだけでなく社会をよくする方へといろいろなアプローチができると僕は思うのだけどね。
保育園がどういうもので何が行われているのか、本当のところは政治家の人たちはしらないのでしょう。
入園に便宜を図ることで票の獲得につなげようと思っているような人もまだまだいるようですから。
| 2013-06-15 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 20 | トラックバック : 0 |
支配的な行動を示す子供 Vol.4 ―保育士としての子供への援助― - 2013.06.11 Tue
(いつも話が横っ飛びするのが僕の悪い癖なので、今回は補足的な部分は下に(注)として書き加えるようにしてみました)
様々なケースとは、まだ保育士とその親との信頼関係ができておらず、こみいった話ができない場合や、話してみても理解をえられなかったとき、理解はしてもらえても親自身が効果的な関わり方をできない場合、支配的に関わっているのがその親ではなく祖父母などの第三者である場合などなど、いろいろな理由があります。
そして前号でみたような事例のように、親と話し合うことですぐ解決のいとぐちにつけるようなケースだけでなく、そのようにすんなりといかないこともまた現実には多いです。
その際は保育士が、そのたりないものを補えるだけの関わりをその子供へしていってあげるべきでしょう。
今回はそのアプローチについて書いていきます。
しかし、このことはどれほどうまく保育士が子供に援助できたとしても、次善の策にすぎません。
やはり一番良いのは親から子への関わりがいい形で行われることです。
親へのアプローチよりも、子供へのアプローチに重点をおくことにしたとしても、そのことは忘れずに視野の内においておきます。
また、それが可能になるような子供・親へのアプローチも配慮します。(注1)
まず、子供への対応の基本になるのは保育士と子供との信頼関係です。
このような大人から支配的に扱われたり、親の思い通りの子であることを要求され満たされていない子は、おおむね大人への信頼感が薄くなってしまっています。
大人への信頼・期待が高ければ、もっと大人を直接困らせたりするような形で出せているのです。
しかし、それができないからこそ、自分と同等か下の立場の人間に支配的な行動をとることで自分の心のバランスをとろうとしてしまっています。
ゆえに、信頼関係を作ることがまず第一に必要であり、重要なのです。
その後に「受容」のプロセスがくるのですが、その子のその大人への信頼が薄ければいくら受容的行為を重ねてもその効果は低いままです。
だけど、この信頼関係を作るのが現実には、なかなかに難しい仕事です。
以前にも書いたように年齢が低いうちであれば対応はしやすいのですが、もともとの大人への信頼や期待が薄い子で心の発達も進んでいる子と信頼関係を築いていくのはそうでない時に比べて大変です。
また、「可愛げがなくなってしまっている」状態にまできていればそれはなおさらです。
保育士も人間ですから、ここは言葉でいうほど簡単ではありません。ですが、これができるかどうかが保育士としての腕の見せどころでしょう。
こういった対応ができる人は「高い専門性をもった保育士である」と言えると思います。
具体的には、取ってつけたような褒め言葉などは、このような精神的な発達の進んだ子供には見透かされてしまいます。
むやみに子供に迎合するような関わりをするのではなく、「いいものはいいよくないものはよくない」と本音で関わるような誠実な態度もきちんと信頼関係を築くためには必要かと思います。
素直な部分、子供らしい部分もたくさん残っていればいいですが、そうでないところまでいってしまっていれば「ほめる」ところなど見つからなくなっているケースだってあります。
「ほめる」ことよりも「認める」ことをきちんとしていくことが、発達の進んでいる子供には大切でしょう。
作ってでも「認めて」いきます。
なにかお手伝いをしてもらったり、仕事や役割を任せたり、他児への支配的な関わりをいい形にするようにアプローチしてそのまま遊びの中心的な存在に育てて、そういったところを認めたり、達成感を持たせていくというような関わりが効果的になると思います。
こういった事例に限りませんが、子供がネガティブな部分を持っていたとしても、いい部分を増やしていってあげることでネガティブな出し方をする必要がなくなっていくようにすることができます。
怒る・叱るという関わりから出発し、それに終始してしまってはなかなかその段階に到達することは難しいです。(注2)
保育士と子供とのあいだに信頼関係をつくり、子供に自己肯定感を持たせていくこのようなプロセスを積み重ねていけば、その保育士に対して「甘え」を出してくることがあります。
これは個々によりけりですが、出せる子もいれば、自分からは出せない子もいます。
しかし、それを出させてあげることがこういった子供への援助のためにはとても大切です。
出せる子にももちろんですが、出せない子には特に意識して出せるように関わっていく必要があるでしょう。
どのようにすればいいかというと、関わりの中に常に「あなたを受け止めますよ」とでもいうような「受容的態度」をもって接することです。(注3)
直接的には、「先回りした関わり」などで引き出していくことも大切でしょう。
ここで「甘え」がでてくることも大きな前進なのですが、それは次の難しい局面に入ったということでもあります。
ここでもまた保育士の力量が試されることがあります。
なぜなら、これらの子の多くは大人への「甘え方」というものを知りません。
それを知っている子、出来ている子ならば、本当に生育上の問題となるような他者への関わり、ここでは支配的な態度、までは発展しないものです。
そういう「甘え」を出せる子ならば、「問題は一時的なもの・軽いものだった」ということが言えるでしょう。(注4)
大人への「甘えの出し方」というものをあまりわかっていない場合、その出し方が受ける大人にとって「心地よくないもの」であることがあります。
嫌がるようなことを言ったり、不快になるようなちょっかいを出したり、困らせること、その大人に対して支配的な態度をとったり、イライラするくらいまで極端にベタベタとしてきたり、などなどです。
ケース(注5)にもよりますが、やはりよい関係というのは「お互いが心地いい」ということが欠かせません、そのためにときには「それは困る・嫌だ」ということも伝え、一方で「素直な甘え」「よい甘え方」というものを子供に実地に伝えていかなくてはならないでしょう。
この点も保育士自身が、普段から子供を肯定する姿勢や受容を受け止めるという姿勢を持っている人でなければ、なかなかうまくいきません。
ここも「保育士の高い専門性」の部分だと言えると思います。
実際やってみると、とてもストレスを感じる大変な部分ではありますが、保育士には子供のより良い育ちを援助する職務についたものとしての意識とプライドをもって臨んでもらいたいです。
平たく言ってしまえば、「可愛い子」にしていくのです。
互いに心地よい、大人からすれば「この子は可愛いなあ」と思えるような「甘え」を出せるような子供にしていくことが必要だと僕は思います。(注6)
この状態まで到達し、それを維持していくことができれば、支配的な行動にもある程度目に見えたよい変化というものがでていることでしょう。
それですっかり他にも問題がないと判断されるのケースであれば、それはそれでよいでしょう。
でも、他にもなにか気になる行動があったり、問題を抱えているならば、この到達点をジャンプ台にして、注1に書いたような、「親へのフィードバック」に特に配慮していく必要があるかと思われます。
そういったケースでは、ここまできてそれはゴールではなく、ようやくスタート地点です。
そこで得られたものが、「以前より少し可愛げがでてきたかな」程度のわずかなものであっても、それを親に示しそこから母子関係・親子関係をよりよくするための援助ができることで、保育士としてはその後まで続く子供の成長に寄与したことになるでしょう。
注1 例えばこの後に述べられているように、「素直な甘え」の出せる子供に保育士がすることで、子供には自分の親に「甘え」を出せる子、親からすれば子供を「受容」しやすい状態にし、その上でもう一度親子間でよいアプローチを取れるようにしていくなどが挙げられる。
注2 このことは「してはならないことにまで目をつぶる」ということを意味するのではない。
よくないことならば、怒ったり叱ったりすることも大人の誠実な態度というものであり、それは信頼関係を築く上でも大切なことである。
ここで怒る・叱るの対象にすべきでないと述べているのは、子供が「他児へ支配的な態度を示す」という行為そのもののこと。
注3 このことは過去記事にある「全面肯定」とも関連が深い。
注4 今回は説明のためにモデルとして、根が深いケースを想定して書いています。
ご家庭で気づくような「ちょっとした気になる態度」程度であれば、ここまで深刻なものでないことが多いでしょう。
また、ご家庭では上記のように「甘え」の出せるかどうかというところが、ひとつのバロメーターになると思いますので、それによっても「成長の中で出るちょっとしたこと」なのか「きちんと向き合って対応すべきこと」なのかの違いがわかることもあるかと思います。
注5 被虐待児などでこういうものでも甘んじて受容したほうがよい場合というのもあるだろう。
注6 本来ならばこのプロセスというのは1~2歳のときに、子供は成長の段階として持っているのですが、こういうケースではそこから引きずってきていることが多いです。
| 2013-06-11 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 23 | トラックバック : 0 |
支配的な行動を示す子供 Vol.3 ―保育士としての親への援助― - 2013.06.06 Thu
この問題は親から子供への関わりが最大のポイントですので、できうるならば子供の様子を認識してもらって、関わり方を考えてもらうことが一番です。
年長クラス、6歳の女の子でこんな事例がありました。
0歳児クラスから保育園に入園していましたが、とても真面目でおとなしいタイプの子でした。
引っ込み思案でもあり、自分をださない子であまり慣れない大人には積極的にしゃべったりもしませんでした。
成長期の時ですらごねたりすることが、ほぼ全くなかったそうです。
クラス内や友達同士ではしゃべったり笑い合ったりもしているので、特に問題視するでもなく保育士にはそういう個性の子供なのだと考えられていました。
あるとき、一番仲が良いお友達のBちゃんのお母さんから「子供が冴えない顔をしているので、話を聞いたところAちゃんに○○をしろと指図されることが辛いらしい」という相談を受けました。
保育士にとっても、そういう様子があることにこう言われるまでわかりませんでした。
あとあとよく観察していてそのわけがわかってくるのですが、この年齢での普通こういった支配的な行動を示す子は意図的というよりも、気持ちの満たされなさからくる衝動的な部分が多いので、わりとおおっぴらに行います。
それに対して叱られたりすることが積み重なったとき、大人に隠れてするようになるということは場合によりありますが、あまり最初から隠れてというケースはありません。
あまり自分を出さないというAちゃんの性格的なものもあったのでしょうし、とても頭がよかったこと、それと大人の視線を非常に意識する子だということが、Aちゃんのそうさせたのかもしれません。
Bちゃんとはおなじ0歳からの保育園仲間で、性格も似たタイプで最も仲が良い、というよりも唯一心を許しあえる関係だったと思います。
むしろそれだからこそ、Bちゃんにそのような関わりを出せたのかもしれません。
その後、特に気にかけて見守っていると確かにそのような行動がありました。
「○○もってきて」Bちゃんが持ってくると「やっぱりいらないー」というものから、「○○ちゃんに、△△って言ってきて」(△はわりとネガティブな内容)などでした。
そして大人が見ていることに気づくと、すぐにそういったことをやめたり、なかったことにしたりしていました。
また別に、お迎えに来てくれるおばあちゃんに対する暴言などもあることがわかりました。
担任と園長と相談の上、両親と面談して事情と様子を伝え、対応を考えてもらおうということになりました。
両親とも学校の先生でした。
Aちゃんを大切にしていないわけではなく、むしろまじめでしっかりとしている人たちでした。
しかし、できることやきちんとしたことを求める気持ちが強いことと、それに加えて両親とも接し方がかなり淡白なところがありました。
普段から表情が固く笑っている姿を見たことがないくらいです。
Aちゃんの3歳上には兄がおり、このお兄ちゃんを担当していた保育士から聞いたところ、Aちゃんにはそうではないようだけれども、お兄ちゃんに対してお父さんはかなり厳しく接していたとのこと。
その後お兄ちゃんにも小学校で問題が顕在化してくることがわかるのだけど、もしかするとAちゃんはこのお兄ちゃんにそのような支配的な行動を受けていて、それを他児に出すようになってしまったということも考えられます。
面談では、事情や状況の説明のほかは、叱らなくていいことそれは逆効果になりかねないことをきちんと伝え、受容すること、その上で自分の気持ちを溜め込まないでいいような方向に関わっていってあげることなどを園側からはお願いしました。
ご両親とも、どうも思い当たるところがある様子で、すんなりと話が通じそのようにしみてるとのこと。
もともと、可愛がったりをストレートに出したりすることが得意でないタイプの人たちでしたので、それでいきなり受容的な行動などがたくさんできるようになるというわけではありませんが、意識をもつだけでも子供には伝わるものですし、それなりに努力や配慮もしてくださったようです。
常におばあちゃんまかせのお迎えだったのに、週に一度くらいは仕事を早く切り上げてご両親のどちらかがお迎えに来てくれたり、どちらかがお休みの日はAちゃんも保育園をお休みして一緒に過ごす時間を増やしてくれたりするようになり、Aちゃんにも自然な笑顔が増えてきた様子がありました。
その後、程なくしてBちゃんへの支配的な行動というのはなくなり、二人でまた仲良く遊ぶようになりました。
小学校入学前に一応の解決がみられてよかった事例です。
小学校に入ってしまうと、小学校の先生からは家庭の様子、ご両親のひととなりなどはわかりにくくなってしまいます。
保育園では送り迎えや親の参加する行事、布団のシーツやら着替えやら日々のさまざまな用意などもあり、わりとその距離が近いと言えます。
また、継続して通っていることで子供や家庭の様子がよくわかったり、関わる職員が増えたり、信頼関係が作れたりなど学校に入ってからよりも対応しやすいという点もあります。
これでこの事例についてはおしまいですが、これに関連していくつか個人的に思ったところをつけたしておこうと思います。
確かにこの時点で親に、「できる」ことなどだけでなく「受容」という視点が必要なことを理解してもらえたことで、その後の問題が大きくなることを防げたかもしれないけれど、反省点をあげるとしたら、保育園はもっと早くになにか対応をできていたのではないかとも感じます。
0歳児から入園していて、保育時間が長いこと、休みも少ないこと、受容が得意でないこと、関わり方が淡白なことなど把握していたわけです。
もちろん先のことは誰にもわかりませんから、こういった問題が先々起こるなど予想つくはずもないのですが、でも普段から保育士として「受容がなにより大切ですよ」「たくさん笑う子にしていきましょうね」など大きな声で言っている人間がいれば、こういったことが起きないばかりか、もしかするとこのAちゃんの性格そのものが、もっと我慢しないで自分を出せるような方向に変わっていたかもしれません。
もともとの子供の気質で、引っ込み思案だったりしゃべったり人と関わることが苦手というのならばいいのです。でも、大人の関わりの積み重ねの結果として「萎縮した性格になってしまった」ということはまた違います。
親への働きかけでなくとも、乳児期のうちにでももっと信頼関係を深めて心を許せるような保育士がひとりでもいたとしたら、また状況はかわっていたかもしれません。
過ぎたことを言っても仕方ありませんが、仕事としてやっている人間にとっては、こういった事例をとって考察や反省を残しておくことが、その後の経験や教訓ともなっていくかと思います。
またこれはまったくこの件とは関係ないですが、もうひとつ感想があります。
しばしばコメントで「成長期の自我の爆発に困っている」とか「なんらかの問題があって、そのサインとしての問題行動が出ている」相談などを受けます。
そういうとき、こういった事例を経験していると、「素直に出せる」っていうのは実は信頼関係や親に期待する気持ちの表れであり、実はある意味でいいことなんですよと思えるんです。
もちろん、その当事者にとってその状況は大変だということもわかるんですけどね。
| 2013-06-06 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 23 | トラックバック : 0 |
支配的な行動を示す子供 Vol.2 - 2013.06.05 Wed
体調の方はだんだんと良くなっておりますので、無理しない範囲で更新していきます。
暖かい応援のお言葉本当にありがとうございます。
では、前回のつづきです。
前回のところで、叱ることや怒ることは根本的には解決にならないと述べていますが、なかにはそれで解決してしまうこともあります。
これは問題の根っこや程度の差によるのですが。
例えば、周りにそういった強い口調などをする友達がいて、子供はそういう強さとかに惹かれたりすることもありますので、ちょっと真似してみたというようなこともよくあります。
そういうケースの場合、たしなめられたり注意されて、それで解決というようなこともあるのです。
こういうのはほとんど問題というほどのこともなく、育つ過程でのさまざまな経験のひとつに過ぎないでしょう。
また、特に「満たされていない」という原因がなくても、成長の中でそういう関わり方を身につけてしまったりすることもまたしばしばあることです。
こういうのも、その問題の根っこは深くないので、時間の経過やちょっと叱られたりということで解決してしまうこともあるでしょう。
わりと、この「他者に対して支配的なふるまいをする」という行動はよくあることです。
もし、自分のお子さんにそういう姿がでたりしたとしても、満たされていないのではないかというような過剰は心配はしないでください。
普段、受容したり、共感的に関わっている積み重ねがあるならば、成長の中ででる姿でありそういうのは深刻な問題にはなりません。
前号にあった①、②、③に該当するような覚えがあるときは、早いうちに向き合って対応することが必要でしょう。
ちなみに③に関しては、過保護や過干渉、「弱い大人」といった別個の問題になるので、このシリーズでは深く触れません。
親自身が気づいて、前向きに対応しようと思うならば解決することはそう難しいことではありません。
子供を肯定し、認め、受容し、気持ちに余裕を持たせ、普段の生活の中で安心感を感じさせ、親に暖かく見守られていると実感し、そういったものの積み重ねで心が満たされていけば、他者への支配的だったり攻撃的だったりする姿は自ずとやんでいきます。
これらのことはなにも特殊なことではなく、どれももともと子育てに必要なことでしかありません。
ときに、子供とどう関わればよいかわからなかったり、その親の考え方、人との接し方によっては、こういった子供の育ちに必要な精神的なものが、必要な分に足りなくなってしまうことがあります。
それに気づいたら、不足分をそのときから足していけばいいのです。
それで子供は軌道修正してまっすぐに育っていくことができるものです。
とはいえ、この問題はなかなかそういったように、親が自分から気づいて子供に対するアプローチを変えていこうというふうにはあまり進みません。
子供に対してのそういった見方を普段からしている人ならば、この手の問題で深刻なところまでそもそもいかないからです。
本当に深刻なものは、そういう方向に自分では持っていけないタイプのひとだからこそ、そこまで発展してしまうことが多いわけです。
また、この①②のようなタイプの子供は、幼かったりするわけでなく、むしろしっかりしていたり、なんでもできたり、体も大きい子だったりします。
そして同じ年齢の子供たちに比べて、精神的にも発達が進んでいたりもします。
(だからこそ他児に支配的な関わりができるのですが)
このことが実は解決に至る道を狭くしているとも言えるのです。
4~5歳よりも大きくなっていて、自分でなんでもできる、ほかの子に比べてもしっかりしている。
そういう子をそこから、甘えさせたりということを親はできるでしょうか。
ましてや、子供が自分の言う事を聞くことを求めていたり、いろんなことが「できる」こと、「お兄さん・お姉さん」でいることを望んでいる親にそれが自然とできるでしょうか。
実際難しいのです、これが。
しっかりした子、できる子、成長の早い子にこの種の問題が起こったときの方が、難しくなりかねないのです。
幼かったり、子供っぽかったり、甘えん坊だったりする子供の方が、多少人よりも成長は遅く感じていたとしても、この手の問題は深刻にならずに成長していきやすいと僕は感じています。
もちろん、しっかりしていることは悪いことではありません、こういう子も甘えや受容を出しているとき、出すべき年齢の時にしっかりと出せて、それを受け止めてもらってきていれば、おそらくこの種の問題がでることなく成長していけたことでしょう。
しかし、そういった「満たされなさ」を乳児期からひっぱってきたことで、対人関係上や性格上の問題として、こういう時期にでてしまっています。
しかし、この場合はもうすでに幼児になってしまっていますので、乳児期のことをとやかくいってもしょうがありません。
僕のように保育士として子供に関わっている場合、この時点でできることをしていくしかないわけです。
次回はそれについて書いていきます。
| 2013-06-05 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
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