雑記 11月30日 - 2013.11.30 Sat
ほんと全然子育て関係ないのでスルー推奨です。
食品偽装のニュースが相次いで表沙汰になりましたが、このことはこれだけの問題ではなく日本の社会のひずみのようなものを象徴的に示しているような気がします。
・報道とコマーシャリズム
・国民よりも企業を支持する国の姿勢
・犯罪まがいの行為を強制される労働する立場の人間の問題
報道によっては、『誤表記』もしくは『虚偽表示』『食品偽装』というように、その表現の仕方もまちまちでした。
『虚偽表示』『食品偽装』 という表現ならば、それはある程度恣意的にしていることが含まれていますが、『誤表記』というのは「ミステイクでした」ということであって、報道する側がずいぶんとそれら企業に配慮した言い方となっています。
しかし、1円単位の経費まで考慮している大きな企業がそのような「ミス」などするわけがありません。
当然それらは恣意的になされたと考えるのが普通です。
実際のあれらの行為は、それを騙されて買わされた消費者の立場から考えたら、『虚偽表示』でも甘くてそれらは『詐欺』にほかならない行為です。
一般の個人消費者には、それらが詐欺であるということを立証する手段がありませんから刑事告訴などにはそうそうなりませんが、やっていることは詐欺なのはあきらかです。
ここでひとつ浮かび上がるのは、マスコミのさじ加減によって企業はいかようにも責任逃れができてしまうのだなということです。
かつて、雪印乳業は消費者を騙したことによって会社が潰れました。
あのときは世論がものすごく高まりました。
でも、もしかしてマスコミに太いパイプをもっていて、世論をそうならないように誘導できたならばそうまではいかなかったかもしれません。
もしかするとマスコミと癒着することで、世間をのうのうと欺いている企業というのは実はたくさんあるのかもしれないという懸念を覚えます。
取り立てて刑事罰とかにならなかったとしても、社会的信用を失うことである程度の制裁は受けるのだという考え方もあります。
しかし、日本人は不買運動などを積極的に行ったりする国民性ではありませんから、たいていのことはしばらくすれば水に流れてしまうことが多いです。
いわゆる禊が済んだというやつですね。
『虚偽表示』であれば、罪に問われても罰金刑で済みますから、大手企業にとってはそうなったとしてもさしたる痛手ではありません。
個人や個人商店にその罰金が科されたらけっこうな痛手ですが、大企業は圧倒的にそれ以上の利益が見込めますので、「やったもの勝ち」になってしまっています。
この点日本の制度・法律・官庁は個人を守るよりもずっと企業よりです。
ときどきアメリカでの、トラストが発覚したときの罰金などが報道されるのを目にしますが、日本のそれらとは数桁も違う金額なので驚かされます。
ほかにも「懲罰的損害賠償」の判決などもありますので、企業もおいそれとはズルをできなくしているというのがわかります。
日本はその点、ザルですね。
企業が倫理を持っていてなおかつそれを守らなければ、消費者は騙され放題です。
我々が普段買うようなものも、わざわざ企業が消費者を欺けるシステムを国は認めてしまっています。
豆腐をかっても「国産大豆使用」と書いてあります。
でも、日本の表示の規則では、数%使っていればそう表記できるそうです。
正確なパーセントまで表記するように指示すればそれですむところ、わざわざ騙せる方法を国は定めているわけです。
なので、普通に我々が手にする商品には「嘘言っていないけど、本当のことは言っていない」というものが山ほどあります。
なんでこんな国になってしまっているのでしょう。
さまざまな利権や、天下りの制度などが国民を欺くシステムを作ってきてしまったのでしょうか。
悪いことがどうどうと許容されて、正直者が馬鹿を見るという社会はなんともいやなものです。
考えると怖くてモノが買えなくなってしまいますが、食品添加物の表記など抜け道だらけです。
他国では禁じられているようなものが、名前をその物質名ではなく種類名にしたりすることでどうどうと使われたりしています。
(例えば[ph調整剤]など)
話を戻しまして、食品偽装の問題に。
僕は今回の件は悪質なものは、しかるべく刑事事件として立件すべきではないかと思います。
でないとまた繰り返すだけでしょう。
今回名前の出ている企業のいくつかは、以前にもすでに同じことをして明るみに出ています。
これがまたうやむやのうちに終わればまた繰り返されるでしょう。
ここで災難を被るのは、騙されて買わされる立場の消費者もそうですが、そこで上から指示されてそれらの不当な行為をさせられる働き手たちもそうだと思うのです。
そこにいる人たちが良心に呵責を覚えているからこそ、「内部告発」ということがでてくるのでしょうし。
それらが社会的に「犯罪」と認識されるようになってこそ、働き手たちが「それは犯罪なので自分はできません」と言えるようになるのではないだろうかと思います。
もうひとつ、「うゎぁ~」と思ったこと。
オリンピックを開催するにあたっての国立競技場の整備費用が、誘致している頃は1200億円と言っていたものが、開催が決まって予算を計上する段階となった最近では、「あれ計算間違いでした、実は3000億円かかります」というのがニュースになっていました。
マスコミはあまりつっこんでいないようでしたが、「そんな計算間違いがあるかっ」となんで誰も怒らないのか不思議でした。
つい最近さらに計画を縮小して3000億円から予算を切り下げようということになっているそうですが、それでもなんだかなぁと感じます。
よしんば百歩譲って、それだけの金額が支出として決まるにしても、いったいそのうちのどれだけが、談合や利権や天下りなどの本来の目的以外のところに消えていくのだろうかと考えてしまいます。
日本は本音と建前の国というけれども、よからぬことがどうどうとまかり通っているところがあるような気がします。
建築業者がどうどうと「官製談合が一番楽でいいや」などとなにも悪びれずに言っていたり、談合をなくすと公約で掲げていた市長が脅迫されて辞めさせられたり。
なんかこの本音と建前の使い分けというのが、昔は是正するために働いていたのかもしれないけど、これからはこういうものが既得権となって国を食いつぶしていくような気がしてなりません。
この国立競技場の話を聞いて感じたことがもうひとつ。
今回のオリンピックは国民を欺いて開催にこぎつけたのだなということです。
なかんずく、震災の被災地の人たちを騙したと思う。
オリンピック誘致にあたって、国内向けには既にある施設を改修して使うので費用は少なくできるということが言われていました。
あまりにも莫大な金額がかかるということだと、震災復興もまだ半ばなのにという意見に対しての配慮もあったのでしょう。
しかし、実際にはそうではありません。
まさに競技場の1200億円が3000億円にというのはそれですよね。
建設重機を扱う会社に勤めている友人の話では、もしオリンピック関係の特需がきたら建設のリソースというものは旨みの多いそちらに確実に流れるということを話していました。
小学校に通う息子が、学校で「オリンピック誘致応援」のピンバッジをもらってきました。
都が配布したもののようですから、都内の小学生全員に配られたのでしょうか。子供向けではなくかなり立派なものです。
僕は正直このような予算があるならば、いまだに仮設住宅で暮らす人や、被災地の復興、原発の処理に向けたほうがいいのではないかと悲しくなりました。
この子供にバッジを配ったのもそうだけど、ずいぶんと世論を操作されてオリンピックムードを作ったというのも気になるところです。
あと、大人の思惑のために子供をダシに使うのはどうにも好きになれません。
また、「オリンピックの経済効果」ということが方々で言われていますが、お金のためにするものなのかとも思います。
低迷の日本にとって背に腹は代えられないのかもしれませんが、あまりにも露骨です。
子供達まで巻き込んで、このオリンピックは本当のところお金儲けのためにやっているのだよなどとは言えません。
先の東京オリンピックは戦後復興の象徴として日本中が熱狂したそうです。
もちろん、それによっての経済効果ということも莫大なものにのぼったのでしょうけれども、そういう意義のあるオリンピックだったのだと思うことができます。
もし、また日本でオリンピックをするのだったら、震災の復興がきちんとなってから、それも一緒に心から祝えるようなオリンピックに出来たらすばらしいものになっていたのではないかと感じてしまうのです。
| 2013-11-30 | その他 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
可愛がられなくなっている子供たち - 2013.11.29 Fri
保育園でそういう親子の関わりで見ていて心がえぐられるように辛いと感じることがあります。
それは特に具合が悪くなって連絡した時です。
最近の保育園は、昔のようにちょっと具合が悪いだけでも「すぐ迎にこい」などという連絡はしません。(まだそういうところもあるかもしれませんが)
仕事や諸事情で預けているのですから、出来る限りは対応しようという姿勢でいます。
それでも、高熱だったり、熱性痙攣などの持病のある場合、感染する病気である場合、または水・木曜日や週末などで早めに段取りをつけないと医者にいけなくなってしまう状況などでは連絡をします。
これは一刻の猶予もないというときは「すぐに迎えに来てください」という連絡をすることもありますが、様子を伝えるという意味でや、仕事の算段をつけて早めの迎えにこられるようにと事前に連絡することもあります。
こちらから連絡を入れずとも、保護者の方から「子供の様子はどうでしょうか」と様子を聞きに電話をくれる人もいます。
でも、「いまお子さんが39度の熱があって、昼食も全く取れずなんとか水分だけとらせて様子を見ている状況です」そういう連絡をしたとしても、
「そんなことでいちいち電話してくるなっ」と腹を立ててしまうような人もいます。
まあ、いまは年々職場環境も厳しくなってしますから、そのような感じてしまうことも理解できないことではありません。
ほかにも具合が悪くなって職場に連絡したら「今日は○○さんお休みしていますよ」などということも増えています。
でも一番辛いのは、具合が悪い子供に文句を言ったり、怒ったり、怒鳴りつけたりするような親の様子を見かけることです。
高熱で涙目になりながらも迎えに来てもらうのを待っていた子や、「ママ、ママ・・」とうなされるように頑張っていた子供たちが、親の顔を見てやっと安心出来たと思ったら、開口一番「なんで熱なんかだしてるんだよ」とお母さんに怒鳴られてしまったりね。
子供にはなんの罪もないことなのに、そもそも保育園に来るということ自体子供からしてみれば親の都合以外のなにものでもないことだし、保育園で過ごすということはそれなりの頑張りを要求されることでもあるのに、それでも具合が悪くてもなんとか耐えて頑張っていた子に取るべき態度ではないと思う。
しかも、こういう態度をとる親の場合、週末親に付き合わせて遅くまで連れ回していたことで体調を崩していたり、具合が悪いのがわかっていながらずっと医者にも行っていなかったり、逆に解熱剤などを使って無理をして通わせていたり、体調が悪いのをおして習い事に行かせていたりなどの、親の側にも原因のあることが多々あったりするのも経験しています。
大人ですら体調を崩したときは、気が弱くなって誰かに頼りたくなったりするものです。
子供ならなおさらですから、そんなときほど親からの暖かい関わり、大事にされる関わりというものを求めています。
でも、そのようなときですら可愛がってもらえない、大切に扱ってもらえないというのでは、子供は心に慢性的に飢えを持ち続けかねません。
そうだとしたら、そのことはまずたいてい子育てを大変なものとしていってしまうでしょう。
もし将来逆の立場になったとしたらどうだろう。
親が歳をとって介護が必要になったようなとき。
「なに熱なんかだしてるんだよっ」と怒鳴りつけられていた子供は、「なに寝たきりになんかなってんだよっ」と親に対して言うようになったとしても不思議はないですよね。
| 2013-11-29 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 14 | トラックバック : 0 |
子育ての第一歩はかわいがること - 2013.11.27 Wed
特にここ最近は、仕事・生活・時間・お金・人間関係といろいろなことに余裕のない世相になりつつあります。
保育園の子供たちをみていると、親はそういったものに追われていて、子供に必要十分なだけの「かわいがる」という暖かい関わりができている家庭はそう多くはないように感じます。
もちろん子育てに一生懸命で熱心な人も少ないわけではないのだけど、なにかを身につけさせることや、なにかを「できる」ようにすることなどに目が行きがちで、ただ純粋に「かわいがる」ということができなくなってしまっている人がたくさんいます。
不思議なことに、かわいがることよりも子供にそういった「できる」を中心に子育てされてきた子と、ただ単に可愛がられてきただけの子との差がある程度の年齢になるとほとんどないように感じるのです。
もちろんこれは個々の違いのあることなので、あくまで僕が見てきたことの一般論としての印象にすぎませんが。
以前にしつけについて述べたところでも引き合いに出していますが、それがはっきりわかるのがフィリピン人のお母さんの子育てです。
例外もありますがフィリピンのお母さんたちはとても家族主義です。
子供を大変かわいがります。
日本人の基準から見たら、「甘やかしている」と見えるほどです。
実際子供の姿は、幼く、わがままだし、偏食は多いし、自分勝手で集団行動はなかなか慣れません。
でも、これらの子供も年長も半ばを過ぎた頃になると、(おそらく学齢期としての成長に達すると)それらの姿がほんとんど気にならないほどのレベルまでの成長を示すようになります。
そして特筆すべきなのは、その時期が来るまでのわからんちんでわがままな段階でも、一貫して情緒の安定を欠くという状況にはあまりおちいりません。
つまり、それらのわがままなどは、これまでブログで紹介したりしたようなネガティブ行動としての、大人の関心をひくようなわがままではなくて、純粋なわがままであるのです。
「ジュースがのみたい」とわがままになる状況で言っていたとしても、それは純粋に言葉通りの意味で、「大人の良い関わりが欲しい」というような裏の意味はありません。
猫っ可愛がりされるものだから、幼かったり、自立心が弱かったりということもあります。
でも、そういうものも学齢期が見えてくる頃には、おおむね追いつきます。
幼いというのも別の見方をすれば、子供らしく純真で可愛げがあるという姿です。
ただ可愛がられてきただけの子供達ですが、そのいい点は、親子関係における自信のなさや満たされなさからくる、精神的な飢えとでもいうものとは無縁であるということです。
ここが、今の日本の親子のあいだで起こっているさまざまな「育てにくさ」と大きく違うところです。
多少できないことがあっても、幼いところがあっても、成長というのは年齢ベースで追いついてくることも多いです。
むしろそこで得られる十分に満たされている気持ちや「情緒の安定」というものと、大人の要求するところの「できる」を天秤にかけた時、前者の方がずっと子育ての上では重みのあることだと僕は思います。
これまでにも時々言っておりますが、「子育てが下手でも可愛がることができていれば、どうにかなってしまうもの」だといろいろな子育てをみていて思うのです。
別になんらかの「できる」を持たせることが悪いことだと言っているのではありません。
でも、それらは「かわいがる」を十分したあとですればいいことだし、むしろそれでこそ無理なく、バランスのとれた子育てになるだろうと感じます。
| 2013-11-27 | 日本の子育て文化 | Comment : 10 | トラックバック : 0 |
かわいがらない見栄 - 2013.11.25 Mon
そこではそれは連れ合いに対して向けられているのですが、子供にも同様の感覚というのをどうも日本人は持っているのを感じます。
たしかに指摘されると不思議なもので、なぜか本来愛しい存在としてある恋人や配偶者や我が子に対してなんとはなしに、その大事にするという素振りを無意識にセーブしてしまうところがあるようです。
日本人はシャイなので「照れ」ということもあるのでしょうけれども、子供と一対一のときですらそうですからどうも「照れ」というだけでもないのかもしれません。
「自分の愛情に大きな自信があるからわざわざ言うまでもない」というような、バンカラな考え方がそこにはあるような気がしないでもありません。
特に男の人にはそういう風があるようです。
おじいちゃんおばあちゃんになるとそういう見栄をはる必要もなくなるのか、我が子の子育てとは打って変わってベタベタとできるようになる人もいます。
子供の子育て真っ最中の人にも、どうも我が子を可愛がることを無意識にセーブしてしまうという人が少なくありません。
この「かわいがることをセーブする」ということに、なんらかのメリットがあるのだろうかと考えるのだけど、僕が思いつくことでしいてあげるとすれば、「かわいがり=甘やかし・過保護」になってしまう人の場合それを少なくすることができるかもしれないということくらいでしょうか。
そう考えると「甘やかさない」というこれまでの日本の子育ての中心課題が、この「かわいがらない見栄」というのをもたらしてしまっているのかもしれないというような気もしてきます。
なかにはかわいがることがそのまま甘やかしになってしまう人もいますが、それはそもそも同じものではありませんので、かわいがることを押し止める必要はないと僕は思うのです。
実際にたくさんの子供たちを見ていて、この日本の子育てしている人の少なからぬ人たちが持っている「かわいがらない見栄」というものが子育ての足かせとなってしまっていると感じることがたくさんあります。
子供というのは成長のために自分が守られている・大切にされているという実感が必要です。
これは精神論として述べているのではなくて、一卵性双生児の片方には暖かい関わりをした養育をし、もう一方には無表情で冷たい対応しかしないで育てた時に、明確な身長体重・知能の発達に差がでたという実験結果があるほどです。(ひどい実験ですが昔のアメリカではこういう実験ができたようです)
その例はともかくとして、子供が大事にされているという感情をもつことは成長の上でどうしても必要なことです。
普通の子育てのなかでは、上のような身体的な発育や知能の発達まではいかなくとも、日々の情緒の安定や人間関係、生活や遊びに取り組む姿勢など多くのことにその実感が関係してきます。
子供もいろいろですから、「自分の想いに自信があるからわざわざ具体的に伝えるまでもない」という親の姿勢でもすんなりといってしまうこともあるでしょうけれども、子供はなかなかそういった空気を読むというようなことは得意ではありません。
また、ネガティブな感情というものは伝わりやすいけど、ポジティブな感情というのはむしろ伝わりにくいもののようです。
そして、子供は日々の中で、その「大事にされているという感情」を確かめようとしています。
それを確信できると、日々のものごとに積極的に自信をもって取り組みやすくなります。
それに自信を持てない子は、どうにかして誰からでもいいからそのような関わりというものを求めようとします。
普段からかわいがられている子はかわいい出し方をしっていますが、そうでない子はあまりかわいいだしかたというものをそもそも知りません。
なので、その出し方も大人を困らせるようなものの方がずっと多くなってしまいます。
ネグレクトの子などをみているとこういうのは顕著にわかります。
つまり「かわいがらない見栄」というのは、それでうまくいくこともあるかもしれませんが、でもリスクを抱えているとも思います。
逆の見方をすると、「かわいがること」は保険にもなります。
大人が仕事で忙しかったり、育児のストレスがあったりすれば、そのつもりはなくとも子供に辛く当たったりということもこれはもう普通に起きます。
そんなとき、普段かわいがられている子であれば、そういうことが時にあったとしても、それは普段の自信がクッションとなってさほどの問題を引き起こさずともすみます。
でも、そもそもその自信が持てていなければ、そこでの大人の態度は子供に大きな影響を与えてしまうかもしれません。
僕は子供をたくさんかわいがります。
照れくさい恥ずかしいなどというのは、実のところ余計な自意識でそれによって見せてくれる子供の素直な姿などと比べたらどうということもないものです。
周りの人はあの人は親バカだとか変わった人だとか思うかもしれないけど、ぜんぜんそういうのは気にしません。
実際はむしろ優しいお父さんだとか、子供のことをしっかり見ているお父さんだというように好意的に見てもらえることのほうが多いように感じます。
子育ては究極のところでは、かわいがってさえいればどうにかなってしまうのではないかとも思っています。
かわいがるということをしていることで、子育てする人が悩むけっこう多くのことが軽くすんだり出なかったりするのではないかと思うこともあります。
保育園で見ていた家庭でも、子育ての難しくなってしまっているうちには、家で過ごす限られた時間のなかで「かわいがる」というプロセスが持てなくなってしまっている家庭がたくさんありました。
かわいがられている、大事にされているという実感・自信なしに、さまざまな「出来る」を要求されたり、行動の制止・禁止を重ねられたり、親の思い通りにしようという関わりだけたくさん増やしたとしても、それらはなかなかうまくはいきません。
子供の問題行動をさせない努力を大人がするくらいならば、親子が向き合ってかわいがる時間を少しでも設けてもらったほうがずっと問題の適正化に効果があります。
そういう実例をたくさん見ていますから、僕には「かわいがらない見栄」みたいなものはどうにももったいないと感じられます。
かわいがられている子は、子供らしい素直さを人にも見せるし、生活や遊びの中でもそれをだして微笑ましい姿を見せてくれるし、とてもいいものですよ。
かわいがることはそれがそのまま、「受容」にもなることです。
かわいがられるということは、当然ながら相手に受け入れてもらえているからそうしてもらえるということですので、子供からすると受容される満たされるということにもつながります。
「子育て大変スパイラル」になってしまっている親は、気持ちに余裕がなくなり、表情も硬くなったり無くなったり、声がけもネガティブな制止や命令が多くなったりして、かわいがる余裕が失われてしまっています。
子供のごくごく小さいうち(生まれたとき)から、たくさん「かわいいかわいい」をしていたら、そもそもそのスパイラルにおちいる可能性が少なかったのではないかとも思います。
ただ、なかには産後うつや育児ノイローゼなどで本人の気持ちとはうらはらにそれができなくなってしまう人もいます。
そういう人は、その人がそれをできなくても別の家族にたくさんかわいがってもらうことで埋め合わせてもらうことをおすすめしています。
また、健康が回復してそれができるようになってからすればいいのです。
日本人はかわいがることを無意識にセーブしてしまうけど、それはさして意味のないことだし、気にせずたくさんしてあげたほうがずっと子育ては楽に楽しくできるのではないかと僕は強く感じています。
人前でするのがはばかられるならば、家庭内で遠慮なくしてもいいでしょう。
やはり「思っている」だけでは伝わらないこと、伝わりにくいことはあるのです。
子供が小さいうちにすらそれを伝えられなかったら、大きくなればなるほど心の行き違いというものは増えてしまうと思います。
もちろん、そう心に思っているのであれば旦那さんや奥さんにだってきちんと感謝や、気持ちを伝えることも大事なことでしょう。
「前に言った」「伝わっているはず」ではなくね。
| 2013-11-25 | 日本の子育て文化 | Comment : 12 | トラックバック : 0 |
『星の王子様』 - 2013.11.22 Fri
多くの人は「子供が欲しがっているもの」ということを一番に考えるのではないでしょうか。
僕もそれはもちろん考えないではないのだけど、それ以上に
「どんな子供になってほしいか」
ということを考えて選んでいます。
プレゼントって、単なる「買ってあげる」ということとは、ちょっとだけかもしれないけれどもそれとは違うものだと思っています。
そこにはモノを贈るというだけでなく、一緒になんらかの贈り手の想いというものも入っていますよね。
お世話になった人にならば感謝の気持ちだとか、お祝いの贈り物ならば祝福する気持ちだとか、その人のことを考えて贈るからこそプレゼントです。
子供に贈るのもやはりそれは同じで、単に欲しがるものを買い与える行為ではなくて、その贈ったものを通してどんなことを感じて欲しいとか、どういう子供に育っていって欲しいとか、贈る側のどんな気持ちを伝えたいかということを考えてプレゼントしたいと僕は思います。
とくに誕生日やクリスマスなどの特別な贈り物は、より一層そう感じます。
玩具なんかをあげる場合、大人の想いだけで子供の遊ばないものを買ってもしょうがないじゃないかという人もいるのだけど
まあ、大人の押し付け一方ではそうなってしまうこともあるけど、それなりに子供の興味もすりあわせて考えていればまるっきりそうはならないのではないかと思います。
でも、よしんばそれがそうでもかまわないのではないかとも思うのです。
子供の姿というのはすぐに結果を出さなければならないというものでもないので、そのときは使わなくてもあとになってそれがあることによって興味がでてくるということもあるだろうし、その大人の想いに合わせて子供をそういう風に育てていけばいいということでもあるからです。
息子も今度8歳になるし、たくさんの物語も楽しめるように育ててきたので、そろそろ『星の王子様』の絵本を贈ろうかと思っています。
これの面白さというか良さがわかるようになるのはちょっと難しいのですよね。
なので急いで与える必要もないのだけど、それのもつ独特の世界観や雰囲気だけでも味わえるようになってきたような気がします。
『星の王子様』とひとくちに言ってもいろいろな本がでているのだけど、素晴らしいなと感じたのは池澤夏樹さんが訳したもののポップアップ絵本(仕掛け絵本)。
物語のなかでも特にすごいものというのは、ひとつの世界観を作り上げてしまったものであると思います。
絵本というのは基本的に短いお話なので、なかなか大きな世界観を構築するというところまではいかないですが、『星の王子様』というのはそれを作り上げてしまった稀有な絵本ではないでしょうか。
サンテグジュペリの挿絵の入った普通の『星の王子様』を読むのもそれはそれでいいものですが、このポップアップ絵本はその独特の世界観・空気感というものにページをめくるたびに引き込んでくれるような心持ちがします。
特別なときに読む特別な絵本として今年はこれを贈ろうと思います。
| 2013-11-22 | おすすめ絵本 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
こたつ生活はじめました - 2013.11.13 Wed
![]() 【送料無料】出っぱらない超薄型マイカヒーター使用のモダンデザインこたつ!長方形こたつ コタ... |
気に入ったものが見つからなければ、ダイニングテーブルのままでいいかと思っていたのだけど、すてきなこたつを見つけてしまい即購入。
木の質感がとてもよくてその木のぬくもりもあいまってまったりとできそうです。
こたつってどちらかというと家電になるらしくて、あまりデザインや素材を重視したものってないようだけど、これはテーブルとして使う分にもよさそうです。
ファンなしなのでモータ音がしないのもいいです。
この冬は、10年ぶりくらいのこたつにみかんの生活を満喫しようと思います。
| 2013-11-13 | おすすめグッズ | Comment : 13 | トラックバック : 0 |
ニュースが安心して見れない Vol.2 ―コメントを受けて― その2 - 2013.11.13 Wed
こういった伝承的なものというのは、なんらかの意味のあることであることも多いです。
多くの文化でそういうものが残っているということは、そういったある種の恐怖体験というものが、子供の育ちにとってなんらかのプラスの作用をするということが考えられます。
人間には不思議なことに、「怖いもの見たさ」や「スリル」を求める気持ちなどがあります。
ギリシャ哲学の中には、「エロスとタナトス」という対立する概念があります。それは「生への欲求と死への欲求」と解釈されます。
ジェットコースターのようなスリルという安全とは程遠い「死への欲求」によって人はそこに快を見出します。
それによって精神のバランスを取るというのです。
もしかすると、子供における恐怖体験の通過儀礼というものも、それとは同じではないけれどもそれに通じるようななんらかのプラスの作用があるのかもしれません。
これらの伝統的通過儀礼というものは、日常的にでてくるものではなくて、ある決まりきった祝祭において登場するものです。
それによって日常の子供を脅し、大人の思い通りにしようという意図で使うというよりも、それとは別の面での意味合いが本来あるのではないかと僕には思われます。
それらを脅しに使ったと思えない理由には、それらのものがたんに恐怖対象というわけでなく、神的な意味合いを帯びたものであるというのもひとつにはあります。
ある種の神聖なものであるそれらを、子供を脅すという卑近な目的として、今の時代の人間よりもはるかに敬虔に自然や神仏への尊崇の念を持っていた人達が使うだろうかという疑問があるからです。
また例えば「鬼」などはときにそういった神的なものでありつつ、ときに「邪」なものを象徴する姿でもあります。
疫病、自然災害、あらがえないような大きな戦乱・暴力など、それらを総じて暗喩的に「鬼」としている部分もあります。
節分での鬼というのはおもに「疫病」のことですね。
このように、昔においては「鬼」というのは完全に架空のものであったわけではありません。
そこにおいて大人たちは「鬼」というものの実態的な恐ろしさというものも感じていたはずです。
日本の思想のなかには「言霊(ことだま)」ということもありますし、子供を脅す目的として軽々しく使っただろうか?僕にはあまりそうは思えないのです。
大人が子供に対して「鬼が来る」というのは、「あなたは疫病のような重い病にかかる」「あらがえない暴力に蹂躙される」というようなことと、昔の人にとっては同義であっただろうと思われるからです。
まあ、僕の勝手な推論なので、実際どうなのかはわかりませんけどね。
そうそう、『ねないこだれだ』のような絵本・お話というものも、大人がそれを脅しに使ってやろう思って提供すればそうもなるし、そう思わずに純粋にお話として提供してあげようという気持ちで読めば、それは「怖いもの見たさ」や「通過儀礼としての怖さ」というような気持ちの範囲で楽しめるお話になると思います。
「怖がり」だとか子供の個性も加味して考えなければならないのはもちろんですが。
コメントで教えていただいたのですが、鬼が電話をかけてくるというスマホのアプリがあるそうです。
子供によってはトラウマになったりしないかちょっと心配です。
別記事で書いた「地獄絵」で子供を脅すというのも、本来の仏教説話のなかでは極楽との対比があって描かれるものですから、それなしに地獄だけ示すというのも逃げ場のない恐怖になりはしないかと心配になります。
子供は恐怖によってわりと簡単にトラウマを持つことがあるからです。
そのように怖がらせてまで、子供に○○させたくないとか、○○させたいということがあるのならば、大人がその鬼と同じくらい本気で怒ればいいことだと僕は思います。
実際そうするかどうかは別として、本当に親が子供に厳しく伝えなければならないことがあったとき、子供が「もう絶対にしない」などと震え上がって心から思える程に強く言えるという心構えというのが親には必要だと常々感じます。
子供が道路に飛び出したりするような命の危険がともなうクセがついていてすら、あきらめてしまっているような人が多くなっているという気がします。
「大人の本気」というものがあるということを子供が知っているということも、長い子育てをしていく上で大切なことだと思うのです。
次に、物語での暴力と視覚から入る暴力の違い。
例えば絵本やおはなしなどのなかでも、争い合うシーンなどはでてきます。
これらが生の暴力と違うのは、その受け手(子供)によってその表現で想像されるものというのは変わってくるということが言えます。
つまり、その子その子によって無理のない範囲でのイメージとしてしか結実しないわけです。
なにしろ自分でイメージするわけですから、自分のなかで処理不可能な暴力表現にはそうそうなりません。
これに対して映像で入ってくる暴力のイメージというのは、個々の処理のリミットを詮索してはくれません。
それにさらされると、処理不可能なものとしてひたすら怖がるか、その表現に慣れるかという大きく分けて二つの結果になるでしょう。
慣れるといっても、慣れたから問題ないというわけでなく、本来ならば処理不可能であった部分は「過剰な刺激」として子供のなかに蓄積されるということになります。
別の記事で暴力的なものを見たとしても、それを使わないことを大人が言葉で教えればいいのではないかというコメントがありましたが、他者に暴力を振るわないということならば大人が教えられるかもしれませんが、それ以外の影響というのはどこででてくるか大人からは予測できないものですし、必ずしも言葉でそれをどうこうできる類のものである保証もないわけです。
「映像から入った暴力表現は取り消しができない」ということを大人は忘れてはならないと思います。
最後に、「適齢」ということ。
特に男性の意見として、子供は発散や欲求の開放の手段としてそういったものも必要になるのではないか、というものがありました。
これはそれなりにわかるのですが、いろんな子供を見てきて僕が感じるのは、そういったことが必要になる段階になれば、子供はおのずとその子その子の必要な範囲でそれらをするということです。
例えば、小さい時おとなしかった子も、それが必要な年齢になればことさら大人がやらせずとも、そういったことを遊びとして消化し始めます。
なので、大人が率先して映像としてのそれらを与えて「暴力の早期教育」をわざわざ施し、子育てにおけるリスクというものをなにも増やすことはないのではないかと僕は思うのです。
要するにそれが必要な「適齢」になれば、暴力的な表現をことさら見せておかずとも、子供は自分で必要なだけのことをするので、大人の先回りした心配はいらないと僕は感じています。
| 2013-11-13 | 日本の子育て文化 | Comment : 9 | トラックバック : 0 |
ニュースが安心して見れない Vol.2 ―コメントを受けて― その1 - 2013.11.09 Sat
やはり、ニュース映像などの子供への影響、またそれらが過激になりつつあることを感じている方は少なくないのですね。
しかし、そういう人がいる一方で、そういうものに慣れてしまって気にならなくなってしまっている大人や、いつのまにか慣らされてしまっている子供も少なくないのだろうという気もまたします。
これまで日本の社会というのは、総じてモラルや倫理というものを高くもっていたので、そのようなマスコミにしても、企業にしても、行政にしても、多少の不合理はあるにしてもおおむね「悪いようにはしない」という水準は維持されてきたように思いますが、近年はそれがそうでもなくなって、個々が自衛するなり情報や知識、意識を高く持っていないとまんまと飲み込まれてしまうというような事態が増えているように感じます。
いただいた多くのコメントのなかでひとつの焦点になっていたのが、「暴力的な表現をどこまで子供に伝えていいか」という部分でした。
「無制限にそれらを与えてしまっていいものでもないし、かといって大人が何でもかんでもシャットアウトしてしまうのも良くないのではなかろうか」という疑問がでてきています。
これに関しては、「こっからこっちはOKでこっからこっちはNO」と誰にでも適応できるような基準という答えが明確にでるものではないと思います。
それは大人の感覚によっても、子供の成長によっても違うかもしれません。
結局のところ現代では、子を持つ大人が常に意識を持って対峙していく問題なのでしょう。
参考になるかどうかわかりませんが、僕のそれらに対する考え方や、コメントの中でいくつか疑問として挙げられていたことに関して少し書いてみようと思います。
まず、「童話の中で本来おどろおどろしい表現があったりするので、そういうものは子供にとっても必要なのではないか」というけっこう多くの人が持っている疑問にはいくつか知っていることがあります。
これらはそもそも「子供向けなだけではなかった」という歴史的経緯があるのです。
昔話というものは、それを編纂することを「再話」と言います。
各地に残っているおはなしを聞き取って、文章にし本となります。なのでまれに「採話」という字を使うこともあるようです。
それを編纂した人の名をとって「○○童話」などといまに残っています。
なかにはその人が創作した話があることもありますが、それもお話の核になるものは、伝承されたものをふくらませたということもあります。
さて、そうやって「童話」というものが形成されてきたのですが、もともと各地に残っていたそれらのお話は、子供向けだけだったわけでなく、大人や大人に近い年齢の人達に対する「社会教育」的側面もあるものだったのです。
なぜなら、近代よりも前の時代は一般庶民の教育水準というのは、とても低いものでした。
(日本は近世から高かったむしろ例外的な国)
「読み書きそろばん」といった基礎的な学問を身につけることも、そうする場も発達してはいなかったのです。
現代では、とくに意識せずとも身につくような知識も、そういった状態においてはなかなか吸収することができません。
そこで、「寓話」としてそれらの社会教訓を伝える必要があったのです。
例えば有名でわかりやすいところでは、「赤ずきん」というものがあります。
ここで出てくる「赤ずきん」というのは「初潮の来た女性」という暗喩であり、「狼」というのが女性を性的に見る男性という暗喩となっています。
このような「寓意」というものをお話にのせて、人々に伝え知識とするという社会教育的な側面がこれらにはありました。
「本当は怖い昔話」といったものは、子供を脅すためではなくて、これらの時代には世の現実を伝えるための手段として必要だったわけです。
なので、このような「昔話は本当は怖いものなのだから子供に怖いものを与えることは必要なのだ」ということには直ちにはあたらないだろうと思います。
こういう社会教育としての昔話としてもっともその色がいまでも残っているのは、シャルルペローの編纂した童話です。
これには、ひとつひとつのお話の末尾に、「教訓」としてそのお話の意図することがまとめられて書かれています。
日本では子供向けにしたのではなく、それらの社会教育的な側面を残したまま澁澤龍彦が訳したものが河出書房新社よりでています。
のちのち流行った童話の残酷な部分などをアピールして出版されたものよりも、適切にもともとの意図が現れている名訳だと思います。
ちょっと長くなったので分割します。
![]() 【送料無料】長靴をはいた猫 [ シャルル・ペロー ] |
| 2013-11-09 | 日本の子育て文化 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
人はなにで動くか Vol.5 ―まとめ― - 2013.11.08 Fri
ときには対価を示したり、強制したりすることも長い子育てのなかでは出てくることでしょう。でもそれらは最初から取るべき手段として考える必要はないと思います。
これまでにも書いているように日本の子育ては、大人が上にいて子供が下にいるという構造が濃厚なので、「否定」のメソッドを用いて子供に対していくことがとても多くなってしまいがちです。
その類の関わりの積み重ねは、「やれと言われたからそれなりにはやる、でもそれは自分で意義を見出した自発的なものではない」という子供の姿をつくりかねません。
この姿は「ゆとり世代」と言われる人たちにも同様の姿が顕著に見られています。
もっと小さい年齢であっても、否定の方向性の関わりの上で作られてしまう「育てにくい子供の姿」というものが出てきます。
多くの場合そういった「育てにくさ」というものが出てきたとしても、それがそれまでの大人の積み重ねにあったとは気づきません。
そうなってしまうと、どこを改善すべきなのかもわからないということになります。
それらはそのまま「子育ての難しさ」という問題になり、余裕のない子育てになったり、子育ての迷走という事態につながります。
激しくこんがらがった毛糸玉をほどいて、もとのまっすぐな一本の糸にするのはとても大変です。
もっともよいのは、糸がこんがらがってからうまくほどく方法を考えるのではなく、糸をこんがらせない知識を持つことだと僕は思います。
この考え方は、ここであげているモチベーションのことだけでなく、子育て全般に向けてのこのブログの通奏低音のようなものだと思っています。
ですから、ここでは子供を大人の意に沿う方向へ動かすのに、「あなたはそれができない。だからもっとしっかりやりなさい」という方向の関わりではなく、まずは大人と子供の関わりの積み重ね・信頼関係によって否定の方向でない関わりがあるということを提示したいと考えました。
そういった積み重ねによって、無理な関わりをせずとも子供と関わっていくことはできるし、よしんば対価なり強制なりを使うにしても、それらを試したあとでも遅くはないと言えるのではないでしょうか。
| 2013-11-08 | 心の育て方 | Comment : 15 | トラックバック : 0 |
人はなにで動くか Vol.4 - 2013.11.06 Wed
その時は知らなかったのですが、たまたま楽天ブックスで絵本を探していたとき、その本がランキングの上位にあったので見てみました。
すると驚いたことに、ユーザーレビューが200件くらいついていました。
要するに、子供に地獄絵を見せることで、言う事を聞かないとこうなってしまうのだという「脅し」として利用し、それで子供に大人の言う事を聞かせるためということで、その絵本が多くの人の支持をえているというわけです。
正直言って、僕はなさけなくなりました・・。
そんなものを使って子供を脅さなければ2~3歳の子供すらコントロールできないというのは大変悲しいことです。
コメントをいくつか読むと、「大変役に立った」と胸を張って述べているものもあれば、本当は使いたくはないがというニュアンスでありながら、それでも子供を動かすためにはしょうがないだろうといった、やむを得ないので使っている派とだいたい二分されていました。
子供が怯えすぎてしまって後悔したというものはいくつかありましたが、そのような脅しで子育てする必要はないといったコメントはほとんど見られなかったような記憶があります。
おそらくそれを買う人の多くが、そのように子供に言う事を聞かせることを目的としているので、そのようなコメントが多くなるはずはないということかもしれません。
それは3の関わりを親が率先してとっているということです。
年齢のごく小さい子供に対して、そのようなアプローチは方向性がそもそも違っているのです。
結果的にはプラスにならなくなるだろうと思います。
そのようなことをしなくても、子供をきちんと大人に寄り添うように育てる方法はあるのです。
1の子育てを知らず、2と3ばかりを多用するようになっていくと、それらの2と3の程度はどんどんエスカレートせざるをえなくなってしまいます。
2の方法でモノで子供をつってばかりでいれば、その餌はだんだん大きくせざるをえなくなります。
また3を使っていれば、その強制力は子供が大きくなるに従って、強めていかなければならなくなるので、それはより先鋭化していってしまいます。
脅しで子供を誘導していた人は、そのように地獄絵などを頼らなければならなくなってしまうし、叱ること・怒ることで子供を思い通りにしようとしていた人は、だんだんそれがエスカレートして暴言や叩いたりという方向になることもあるでしょう。
これらは大変残念なことです。
大人の方に子供と関わる適切な知識がないばかりに、こういう事態をつくってしまっています。
子育ての早い段階で子供と関わる適切なすべを身につけることができれば、こういう事態を避けられるばかりか、子育てそのものを楽しいものとすることができます。
この部分に関しては、そもそものこのブログの主要テーマなので、過去記事にもたくさんあります。
「心の育て方」のカテゴリや、「信頼関係」「モチベーション」で検索すると該当の記事がひっかかることでしょう。
| 2013-11-06 | 心の育て方 | Comment : 22 | トラックバック : 0 |
人はなにで動くか Vol.3 - 2013.11.05 Tue
なかなか返信が追いつかないので、今のところ10月25日前後に頂いたコメントへの返信中です。
相談の方は順番に返信していきますので、いましばらくおまちくださいね。
では、前回の続きです。
子供と信頼関係を作ること自体は難しいことではありません。
それこそ一緒にご飯を食べたり、添い寝をしたりするような日常することでも、子供はそこに大人への信頼感を形成していきます。
なので、親子として一緒に生活していればそれは自然と蓄積されていくことでしょう。
でも、ここで述べているような、何事かへのモチベーションとなるような、信頼関係の場合はそのような受動的な信頼関係の構築だけでなく、子供が行動への意欲となるだけの積極的な信頼関係の蓄積というものがあるほうがよりよいだろうと思われます。
そのような積極的な信頼関係というものは、なにによって育まれるかというと、それは「肯定」されることです。
この人は自分を褒めてくれる、認めてくれる、笑いかけてくれる、抱きしめてくれる、などなど、様々な肯定のうえに子供はなんらかの行動へのモチベーションを見出していけるでしょう。
具体的には、大人もいろいろだし、子供もそれ以上にいろいろですし、そのような関わりというのは無数にありますので、こうするのがよいということは一概に言えません。
なので、前記事から例にとってきている保育園での片付けの事例でもって、関わりの方向性だけ示すこととしたいと思います。
かの園では、1歳児であっても繰り返し「やるべきこと」をやらせることで、次第に子供への習慣化をしようと対応していました。
Vol.2の中で指摘したように、その1歳児がその「やるべき」ということを理解していなかったとしても、それの繰り返しでそのうちに「やるべきことなのだ」というなにがしかの理解には達するようになることでしょう。
それはその通りですので、そのやり方が必ずしも間違っているというわけでもないということは前号でも述べました。
ただ気になるのは、このケースではほかの子が外遊びをしているにも関わらず、その片付けをしない子を部屋に留めおいて片付けをするまで外遊びはさせないということを片付けをするための原動力・モチベーションとしてしまっています。
言い方は良くないですが、ある意味では、「外遊び」ということを大人が人質にとって、子供に片付けをしいているわけです。
また、ひとりだけ集団から引き離すという、子供の「疎外感」をも利用してしまっています。
こういうことは、場合によっては子供の持つ自発的なモチベーションや、大人への信頼感ということを損なうこともある行為です。(注1)
1歳児という成長段階を考えれば、まだことさら「やるべき」を課してやらせなくとも十分に自発的な片付けの意欲をつくる余地もあるだろうというのがポイントです。
さてそこで、そのためにはどういうアプローチをしていくかということですが。
できないからとあとから呼んで、その子に片付けさせて「片付けた」という事実を積み上げるよりも、片付けるべき時間、つまり周りの子が片付けをしている時間にひとつでも片付けるように大人が関わってみて、それを認めていく、褒めていくという対応がいいのではと思います。
まず、そのことは「生活の流れ」を理解するのに必要です。
室内遊びがあって、片付けをして、外遊びに行くという生活の流れがあるのでしたら、その流れをまずは身につけることで片付けの時間、ひいてはそれの必然性というものも子供には理解できてきます。
また、片付けの時間にすることによって、得られるものがほかにもあります。
それは周囲の子供たちの行動です。
子供は、大人に「しなさい」と言われることよりも、周囲の子供たちの行動を目にすることによってはるかに多くを身につけます。
周りの子がしているという状況の中に身を置いたほうが、はるかに片付けの必然性を感じられることでしょう。
これに比べたらよほど、外遊びを人質にとられたり、疎外感をことさら刺激されるのは「むりやり」に感じてしまいます。
子供は小さい子であっても、その集団に入っているという意識を一旦もったらそれを大切にします。
なので、疎外することで子供を意のままに動かそうというのは、子供を尊重しない行為であり、ときに傷つける行為です。
先日もらったコメントの中にもありましたが、「言う事を聞かない子は赤ちゃん組にいきなさい」と脅したり、そういうことを実際にするのは大人の立場をかさに着たずるい行為ですよね。
大人中心に子供を短絡的に動かそうとしたら、そういう疎外を使うのは簡単だけど、本当は集団の強みを適切なかたちで利用したほうが、子供には無理のない成長を与えることができます。
なので、周りの子が片付けをしている、もしくはその雰囲気がある中で、その子を導いたほうが子供の力となっていけるでしょう。
ですので、その時間にその子に大人がアプローチをします。
その雰囲気の中で、大人が主体になって片付けをしてそのお手伝いをその子にさせるという程度からはじめてもいいでしょう。
この行為は、その子と大人との信頼関係の上に成り立ちます。
信頼関係がそれ以前からあることで、このお手伝いということが可能になります。
そこでその子がお手伝いをしたら、「ありがとう」「よくできたね」などと認めていくことで、さらに信頼関係も強まるでしょうし、片付けという行為としてみたとしてもその習慣化の第一歩くらいにはなるでしょう。
さらに、続けていくことでその子が自発的に片付けることができたりすれば、そこもすかさず認めていくことでモチベーションとなっていけます。
時間はかかりますが、これの積み重ねで信頼関係を使い潰すことなく、むしろより強めながら行動を身につけさせるという方へ導いていけます。
この点がのちのちモチベーションの高い子供を作ることの分かれ目になるような気もします。
「認める」というのは紛れもなく「肯定する」ことです。
たくさん肯定されて育った子というのは、一言で言うと「子供らしい活気にあふれている」というような状態になります。前記事で「目の輝き~」と言ったのもこのことです。
こういう状態にある子というのは、大人がなにかを教え込まずとも、たくさんのことを吸収していけるようです。
人格がすでに出来上がってしまった年齢の高い子を、こういった状態にしていくというのは、関わる時間も関係性も親とは比べ物にならないほど小さい保育士というものではそう簡単ではないですが、乳児期ましてや1歳というなんでもすんなりと入る時期であるならば、このような状態、またはその下地を作ることはそう難しいことではありません。
このように子供のちからそのものを伸ばしてあげられる関わりというのが、それができる状況であるならば、より望ましいと僕は思います。
ちょっと回りくどくなってしまいましたが、こういうようなことが信頼関係の上に築いていくモチベーションの関わり方の一例です。
これが全てではないですから、あくまで方向性としてヒントくらいに思ってくださいね。
前回にも書いていますが、大人が子供の成長を焦っていたらなかなかこれはできません。
「子供への結果は今日出すものではない」
ということを大人の方が理解していることもやはり大事だと思います。
(注1)
保育方法として深く考えると、このような保育は古い・昔のやり方と言えます。
なぜなら、子供がもともともっている大人への信頼感というものがふんだんにあることを前提にしているからです。
それらは保育園で築き上げたものというよりも、家庭で形成されたものを利用しているといえるでしょう。
それが十分に期待できるならば、このように子供の大人への信頼感を逆手にとって、大人の思い通りにさせたりする対応や、疎外感を利用してしまうようなネガティブな関わり方も無理なくできてはしまいます。
しかし、『保育 第三の道』の記事でもちらっと触れていますが、現在はそうでないことも少なくないのです。
なので、この方法がうまくいく率というものも、それに応じて下がってしまっているでしょう。
| 2013-11-05 | 心の育て方 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
人はなにで動くか Vol.2 - 2013.11.02 Sat
これは信頼関係の積み重ねによってであると考えます。
大人だって、もし職場の上司が自分のことを適切に評価してくれており、成長を援助する姿勢があり、真摯に対応してくれるのであれば、対価とは別のところで期待に応えようという気持ちをもちます。
子供はもともと大人の期待に応えようという気持ちがあります。
なので、ことさら信頼関係ということを普段から意識していなくとも、大人の意思に沿うように行動しようするものですが、でも、この「期待に応えよう」というリソースにはおのずと限りがあります。
その子供のもともと持つ自発的なモチベーションをあてにしているだけで、それに大人が「すべきこと」を多くして早々に使い潰してしまうと、そのリソースはなかなか回復しません。
ある面では、大人は自分の立場に寄りかかりすぎています。
「大人だから」「親だから」「先生だから」と自分の立場ゆえに、子供を従わせることが当然であるかのように振舞ってしまうと、そうそうにこのリソースは尽きてしまいます。
子供は大人の存在なしには生活していけないので、もともとそのような大人だとか親だとかといった立場を慮っています。
そういった立場は、その大人がなにを努力した結果でもなくもともと持っているものですので、その立場を子供にたいしてかさに着る必要もないのです。
問題は、そういった立場からさらにどうやって信頼関係を築いていくかということになるでしょう。
子供との信頼関係を築くのは、多くの場合年齢が小さいほど容易です。
前回あげた保育園の1歳児に対する片付けの例でひっかかるのは、この点です。
1歳児に対してことさら「○○すべきだから、やりなさい」というある種の強制力を働かせてやらせてしまうのは、もったいないこと、場合によっては無駄な努力になってしまうのではないかと感じます。
これがもし5歳児という年齢であれば、「外遊びに行く前に自分の使ったものを片付けていく」といったルールや規範というものを理解して、それなりには身につけていると考えられます。
それならば、「あなたのすべきことだから、やりなさい」というアプローチは無理のないものだと思います。
しかし、1歳児の段階では、「毎日先生がやりなさいというからやることなのだろう」ということが、漠然とわかっているに過ぎない状態です。
とくに、この何度も呼び戻されてしまう男の子の場合は、おそらくその漠然とした「すべきなのだろう」という感覚もまだ、理解できていない段階にいます。
それに対して、「やるべきことなのだから、やりなさい」という理屈を押し付けていくことは、ケースバイケースですから必ずとは言いませんが、子供がもともと持っている大人の期待に応えようというリソースを急速に使い潰していく可能性があります。
その結果がなにをもたらすかというと。
のちのち、大人の言う事を聞かない子、大人の言葉に耳を傾けない子を形成してしまう可能性があるのです。
結果的にそれは、世間でよく言われる「落ち着きのない子」や「男の子は大変」というような状態につながっていくかもしれません。
僕がこういった低年齢の子供にまで、大人が「すべき」を押し付けていってしまうことで「もったいない」と感じるのは、子供がもともともっているモチベーションのリソースというのは、子供が自分で自分のために使ってよい貯金のようなものだと思うからです。
子供が実際に頑張れることというのは、やはり現実的には無限ではないわけです。
そこで大人が上からかさにかかって、たくさんの「やるべき」「すべき」を課していくと、子供は持ち前の素直さでそれに一生懸命応えはしますが、子供の自発的なモチベーションはそこで使い尽くされてしまいます。
それを多用しすぎてしまうと、子供が新しいものに触れて感動したりする感受性や、じっくりと遊びや物事に取り組んだり、大人と一緒になにかをしてみたいとか、大人や大きな子の真似をして成長の前進の糧とするような力になるエネルギーというものは少なくなってしまうのではないかと感じます。
こういうのは、保育園やそのクラスごとの関わりの違いで見えてきます。
普段からたくさんの「すべき」で大人に関わられているクラスと、子供のモチベーションを重視してなにかさせるべきことを「やらせる」前にそのやらせるためのモチベーションを作るところから関わっているクラスでは、なんらかの遊びを提供したとしても、その食いつき、楽しもうという姿勢、目の輝きが違うのです。
前者のクラスでは、遊びを説明する大人の話を聞こうとしない子供たちが一定の割合でいます。
後者のクラスではその割合がとても少なかったり、いなかったりします。それだけでなく、ルールのわからない子やうまくできない子を子供同士で助けようとしたりする姿もでてきます。
前者ではそれどころか、そういった助けあったりする姿はないばかりか、その遊びの中でのトラブルなどもはるかに多く出てきます。
すべてが大人のモチベーション作りの影響だけではないでしょうけれども、こういった違いというのははっきりとみられます。
なので特に低年齢の子に対しては子供の持っているリソースに頼って、「やらせて」しまうのではなく、それだけのモチベーションを信頼関係の上で大人が提供し、それをもって子供の力に変えていくプロセスを忘れてはならないと思います。
「すべき」を課していく関わりを見ていて気づくのは、「能力の発現を短期的に求めている」ということです。
要するに、すぐに結果を出そうとするので、強制力をもって「やらせて」しまいます。
スポーツにおける体罰なんかもここに起因するものがあるのですよね。
結果ありきで、指導をしているのでそれに間に合わせるために、体罰といったような極端な強制力を用いて能力の発現を求めてしまっています。
しかし、それは短期的には効果があるように見えても、そうそうにモチベーションが枯渇して燃え尽きてしまったりという可能性もともなっています。
ひるがえって考えてみると、子供の成長というのはそんなに短期的に結果をだす必要というのはあるでしょうか。
これについては過去記事『子育ての時間制限』のところでも触れていますが、子育てする大人が焦っているほどには、本当に実際の結果をだす必要のある時期というのはそんなに早くはないのです。
子育てする人が1歳の子に対して、1歳や2歳のうちには結果を出さなければならないと思っていたら、「やらせなければ」になりやすいです。
さっきの片付けの例で言えば、強制を繰り返すことで早々に身につけさせようと大人は働きかけてしまっているのです。
おそらくその保育園ではそういう関わり方がもはや当たり前なので、実際はそれらを思ったり考えたりすることもなく、ただそのメソッドに則ってやらせているのでしょう。
でも、これが例えば幼児期の中頃くらいを目当てに、それまでに「自発的に」やろうとする子を目指そうと思うことができれば、ことさら強制を多用する必要はさしてなくなってきます。
そして子供の成長というのはそういうものだと思います。
「どうしてもいついつまでに○○ができなければならない」というようなことは大人の都合以外ではさほど多くはないのです。
ましてや、保育園というのはまだ人格が出来上がってしまう前の子供に対するわけですから、強制によってさせる以外にも取れる方法というのはたくさんあるはずなのです。
もちろん家庭でもそれは同様です。
僕が言いたいのは、必ずしも小さい子に対して「○○しなさい」と関わることが悪いということではありません。
ときにはそういうこともあるでしょう。
でも、結果を求めることに大人が気を向けるあまり、子供の成長のもっと基礎になる部分を損なわないような配慮というものを大人の方ももう少しもってもいいのではないかという点です。
次回は、そこでの信頼関係の形成について書こうと思います。
| 2013-11-02 | 心の育て方 | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
NEW ENTRY « | BLOG TOP | » OLD ENTRY