具体的にはどんなことに厳しさをもっているでしょうか。
例えば、
・食べ物を粗末にしない
・他者を傷つけない
・他者を馬鹿にしない
・モノを大切に扱う
・意地悪はしない
・他者に迷惑をかけない
・危険なことをしない
こんなことが挙げられます。
こういったことに関しては妥協しない姿勢というものを持っています。
冒頭で「いまとなっては」と書いたのは、幼児期に入ってものごとの理解が進んできた今の段階でこのようなことを親である僕が許容しないということを十分に理解しているからです。
しばしば、「子供だから言ってもわからない」などという考えの人もいますが、このようなことはものごとの理解ができるようになって、そこから身につけさせるものではないと僕は思います。
ものごとの理解ができる段階になったときは、それがもう身についている時期です。
それを可能にするのは、親の姿勢が「一貫している」ということです。
人として身につけなければならないことであれば、年齢による限定解除というものはないわけです。
小さかろうと大きかろうと、すべきでないことはすべきでないことのはずです。
このような点に関しては、乳児期からすでに親として一貫した姿勢を持っています。
例えば、0歳の子であれ1歳の子であれ、食べ物を粗末にしたら笑って見過ごすわけでなく、それは困ると真顔で真剣に伝えます。
言葉で伝えても繰り返したりするようであれば、時に怒りもします。
成長期にもなってくれば、人を馬鹿にしたり親を馬鹿にしたりする言動をとったりすることもあります。
イライラをコントロールできずにモノに当たったり、人に当たったりすることもでてもきます。
それらが許容できないものであるならば、それに見合っただけの強さ・厳しさをもって子供のそのような行為に応じます。
とうてい目に余る行為であったとしたら、子供が泣いて震え上がってでも「二度としない」と思える程に叱りもするでしょう。
子供の行為に対して大人としての強さを持って臨めない人や、子供を叱ったりできない人・叱ることはよくないことだと思ってしまっている人などは、ときとしてそういう場面において、モノで釣ってごまかしたりしてしまうことがあります。
でも、僕はすべきでないことを子供がしたときは、それに見合っただけの強さを持って応じてあげることが大人の役目であり、大人・親の誠実さというものだと思うのです。
そしてこのような態度というのは、一貫していることが大切です。
そのときそのときの気分で子供に当たっていたり怒っていたりすると、子供はその怒られている内容を疑うようになります。
あるときはよくて、あるときはダメというのでも、子供はその大人の主張を信頼しなくなります。
0歳の時も、1歳の時も、2歳のときも一貫してその姿勢を大人が持っていたとしたら、3歳か4歳の段階では子供はそれは当然のことだという認識をもつことでしょう。
しかしこの「厳しさ」というものは、子供を怖がらせてその行為を禁じるということではないのです。
これらはあくまで、その子供とその大人との信頼関係の上に成り立つことです。
信頼している大人が、大好きなお父さんお母さんが、強烈に不快感を示すからこそその行為はすべきでないことなのだとと理解にいたるプロセスであることが大事だと思います。
なので、このような厳しさを大人が表すことの前提には、信頼関係が必要であり、それが健全に維持されていることというのが大切です。
普段の日常における、満たされていることや受容されていることがここで大きな意味を持ちます。
信頼関係のないところで叱ったり怒ったりしても、それはその場で子供を怖がらせてその行為を禁じるだけのことです。
(ただ、年齢が大きくなり一般的な大人に対してや社会全般に対しての信頼感などが形成されたあとであるならば、見知らぬ大人に叱られたりすることでも、その意味合いは大きなものとなりえます。しかし、この記事では親や身近な大人の関わりを前提としていますので、信頼関係というものを重視します)
以前の記事のコメントで、鬼が子供を叱るために電話をかけてくるスマホのアプリがあるというお話を聞きましたが、そのような行為は子供を怖がらせてその行為をさせないというだけのことなので、本当の意味での子育ての積み重ねとはなりえません。
また、そのようなごまかし・脅しというのは、むしろ大人と子供のあいだにある信頼関係を低下させる行為であるとすら言えます。
もし、子供のその行為が子供を震え上がらせてでもさせてはならないことだと思うのであれば、その役を親が自分でするというのが親としての子供に対する誠実さというものです。
歳をとってそのような強さや活力を表すことができなくなったお年寄りが、鬼などを引き合いに出すというのならばまだしも、
本当に子供に伝えなければならないことを、誰かにそれを肩代わりしてもらうというのは、親としての誠実さがあるとは言えないと僕は感じます。
さて、このような大人の姿勢が一貫していることにより、子供は小さなうちからそれらのことをだんだんと理解していくことができます。
成長期などの大人を試すような行動をとるときには、それに見合って大人も強くその姿勢を打ち出すということもあるかもしれませんが、たいていは一貫した姿勢を示すことで徐々に理解していくことが子供はできるので、実際にはそのように強硬な姿勢をたくさん示さなければならないということはありません。
そのことが冒頭に書いた
「いまとなってはその厳しさを出すことはほとんどありません」
ということにつながります。
つまり我が家では、実際に怒ったり叱ったりしなければならないという場面はほとんどなくなっています。
可愛がること、受容すること、認めること、見守ることなどが、子供との信頼関係を下支えしてくれているので、子供は大人の持つ一貫した姿勢という部分を尊重します。
ことさらそれに挑戦して大人を怒らせたりする必要がなくなっているのです。
なので、それらの「厳しさ」を僕は明確にもっていますが、その明確さゆえにむしろそれを出さずとも子育てができているのです。
そしてさらに、可愛がることでその大人との信頼関係のパイプは大きくなり維持されていくので、さらにその厳しさを出さずに済むようになっていけます。
こういうのは子育ての好循環だと思います。
平たく言うと、子供の相手の上手な人や、ベテランの保育士などを見ていると、普段はとても優しくて、一緒に楽しく過ごしているけど、怒ると怖いという人がいますね。
ああいう状態というのは、子供に対する優しさと厳しさというものがバランスよくとれているわけです。
それにより身につけるべきものを身につけ、子供は安定した成長をおくりやすくなります。
僕はこのブログで、受容すること、認めること、肯定すること、可愛がることといった関わりの重要性を中心に述べてきていますので、なかには「子供に強く対すること」「子供を叱ること」などをいけないことなのだというように感じてしまっている人がいるかもしれません。
しかし、その一方で大人として伝えなければならないものに対しての、大人の一貫した姿勢、一貫した厳しさというものもまた子供を育てる上ではとても大切なわけです。
「厳しさを出さないこと」と「厳しさを持っていないこと」は似ているようでいても、全然違うことです。
追記
ここで述べていることの趣旨は、「乳児期にたくさん叱れ」というような意味ではないですからね。
基本的にはことさらそのような部分を強調する必要はないということは、「叱らなくてよい子育て」のカテゴリに述べた通りです。
念のため。