「子供を可愛く思えるかどうか」というのが、僕は子育ての重要なバロメーターなんだろうと思います。
子供の姿がどうにも可愛げがなくなってきたら、それは子供の方のなんらかのサインだろうし、大人の方に子供を可愛がる余裕がなくなってきたら、それは大人の方のなんらかのサインなのでしょう。
そういうときはちょっとスローダウンしたり、無理がなかったか振り返って点検してみたり、大人の方がリフレッシュしてみたり、誰かに助けを求めたり。
子育ては納期のある仕事ではないので、がむしゃらに進むよりも、立ち止まってしまったり、後戻りしたっていいと思う。
親の「○○できる」の要望に応え続けるあまり、ひねてしまって可愛げがなくなるなんてこともありますし。
話は少し変わりますが、そのような「マイナスを見つけてそこを埋めるような関わり」というのは、集団の中・保育の中でもこれまでたくさん行われてきました。
例えばですが、並ばせたり、待たせたりというのを多用します。
それが無理なくできることならばなんの問題もありませんが、「○○すべし」という理想像に当てはめる保育になっていると、その子供たちに照らし合わせた「無理なくできることか否か」という視点がそもそもなくなります。
むしろ、できないことを課すことが目的となりかねません。
そしてそのできない部分を指摘すること(ときに注意や叱責)をすることが、子供に対するアプローチになっていってしまいます。
それができてしまう子ならばさして問題も生まれませんが、集団の場合その中にいる子には当然能力・発達状況のバラつきというものがあります。
するとそのできない子にとっては、否定されることばかりが大人からの関わりとなりかねないのです。
極端な話、このようなマイナスを見つけてそこを埋めようとする関わりというのは、「落ちこぼれ」を作ることを前提とした関わりとすら言えます。
多少ならまだしも、これを徹底的にやっていくとそれは子供を伸ばすよりも、おとしめる方へと作用していってしまいます。
年長の時に幼稚園から保育園へと転園してきた男の子の事例。
その子が前に通っていた幼稚園というのが、「できる」を子供に身につけさせることに大変熱心なところでした。
しかし、その男の子は母子関係が良好でないことが背景にあって、ネガティブ行動が多かったり、集団での行動を受け入れたりできるほどの情緒の発達・安定が得られておらず、はっきり言ってそこで望まれる「できる」とは程遠いい状況。
注意されること、叱られることばかりが多くなっていました。
親もそれを園側から指摘されるので、なおさら子供を肯定的にみれず、もともと子供にあたたかく接することがすくなかったものが余計にそうなってしまっていました。
この子が保育園の年長に転入してきた時点で、驚く程自己肯定感の育っていない子になっていました。
みんなで絵を描こうとしたり集団での遊びをしようとしたりすると、「そんなのどうせできない、やだっ」とわめいたり怒り出したり、またはシクシクと涙をこぼしたり。
これは極端な例だけど、減点法で子育てをする必要はないと思うのです。
否定することありきで子育て・保育を考えているから、並ばせたり待たせたりにしても、個々の状況を斟酌せずに、画一的な押し付けをしてしまいます。
15分しか集中力の続かない子に、30分の課題をさせることはありません。
15分楽しんで、「ああ、おもしろかったね」で終わっていたとしても、1ヶ月後2ヶ月後、1年後にはその子の成長に合わせて、その持続する時間というのはどのみち延びるのです。
その15分の能力を超えたあとで、「座りなさい」「話を聞きなさい」「しっかりやりなさい」というアプローチをしたからといって、飛躍的にその成長スピードがはやまるわけではないのです。
むしろ、そこで大人への信頼感を損なったり、モチベーションや自己肯定感を下げてしまうくらいなら、むしろそれは無駄な努力ということです。
特に子供の小さいうちはそうです。
「あるがままを認める」というのが、簡単なようで難しいいまの時代の子育ての課題というような気がします。
このブログに寄せられる子育ての相談のコメントなども、このあたりのことを踏まえてみてみると、このパターンの悩み、例えば「できるはずと世間で言われていることが我が子にはできていないようにみえる」だとか、「来年あたり必要な能力が、今まだ全然できていない」というような相談がとても多いことに気づかれると思います。
つまり、この今の日本に特徴的なこういった子育ての考え方が、子育ての悩みを作り出して増大させていってしまっているとも考えられるのです。