本当は、ああいったけっこういいものができていてすら自信がもてないで、うまくいくものもうまくいかなくなってしまっているという今の大人の子育てと重なるところがあると思い、それの例としてあげようかと構想していました。
子供のレゴの話と同じように、「子育て」ということも必ずしもうまく出来る必要はないと思います。
自分の作った車がそれなりにうまくできていても、「これでいいのかわからない」「これではこの先失敗してしまうのでは」などと自信がもてなかったり、「ひとのものよりおとっているのでは」と考えてしまったりしてそれを肯定できずにいるのと、
>その子達が作るものより、ずっと大したことのないものしか作っていないのに、「みてみてー、すごいかっこいいのできたよー」と見せびらかしに来て、さらにそれでどんどん遊び込める子もいます。
のように、うまいへたということ関係なしに、そのこと自体を肯定できているのとではあとあと大きく違ってきます。
「車」のところを「子育て」に、「子供」のところを「親」に置き換えてみると、それと同じことが子育てでも起こっているようです。
子供の育ち・成長発達の具合そのものの優劣よりも、親がその状態を自信をもって受け入れているか・肯定できているかということの方が、先々の成長によほど影響を与えるように思います。
子育ての終点は「今」ではありません。
はるかずっと先です。
なにか気になることがあったとしても、そのずっと先で折り合いがついてさえいれば問題はないことです。
なかには放っておいても時間の経過・年齢が解決してしまうこともあるでしょうし、まったくの取り越し苦労ということだってあるでしょう。
もし、なにかその子育てのなかに失敗していることがあったとしても、取り返しのつかないような失敗などというものはそうそうありません。
しかし、いまの現実の中では、そのような子育てに対する「自信」というものが持ちにくくなっているのでしょうね。
>>その子達が作るものより、ずっと大したことのないものしか作っていないのに、「みてみてー、すごいかっこいいのできたよー」と見せびらかしに来て
↑この状態って、子育てに置き換えるとなんだかんだで、「親バカ」という状態かなと思うのです。
「まだまだのところはあるけど自分の子供がかわいくてしようがない」
そういう心持ちが子育てを円滑にしていってくれるのではないかと、いろいろな子供・大人を見ていて思います。
昨日の記事の反響で、お子さんについての萎縮してしまっている姿があるとか、いろんなことに自信をもてていないというコメントが多数寄せられたのだけど、基本的に子供が小さいうちは「その萎縮してしまっている部分」をどうにかしようではなくて、たくさんの笑顔とともに生活して「かわいいかわいい」をしていれば、子供のそういった「全般的な自信」というようなものはいずれ育ってくるのではと思います。
親の気持ちが子供に投影されるということもあるので、親自身が「現状の肯定」・「自信」を持てていないという人の場合だったら、そこも意識して変えていく必要もあるかもしれませんね。