大人と子供の位置 Vol.2 「腫れ物あつかい」にはしない - 2014.03.24 Mon
前号のつづきより。
「子供への見方」が上がりすぎてしまった結果、現代では「子供とどうやって関わっていいかわからない」という感覚を多くのいま子育てしている人が持っている現実というものがあるように僕には感じられます。
例えば、
最近の真面目に一生懸命子育てを考えているお母さん方は、子供のダダっ子な泣きに対して「泣いたってダメなものはダメなんだからビービー泣くんじゃないっ!」なんて言い方はあまりしません。
むしろ、
「私の対応が間違っているのではないか」
「もしかしたらうまく泣き止ませるいい方法があるのではないか」
「私の普段の関わり方がよくないから、こういうダダをこねるのではないか」
「私の愛情が伝わっていないのではないか」
「私の愛情不足なのではないか」
などというような思考におちいってしまう人もいます。
このブログをコメントまで丹念に読んでくださっている人だと、しばしば相談に対しての返信で僕が「子供と大人は対等だと考えています」という一文から述べているくだりがあるのをご存知かもしれません。
ひところは世間で「子供と大人は対等」という文言は多くの場合、「子供を貶めた存在として扱ってはならない」という文脈で使われることが圧倒的に多かったと思います。
僕がそれらの相談にお答えするなかで用いているのは、やや逆の意味合いです。
子供のことをひたすら大事に考え、下にも置かないというような勢いで世話をし、子供によりよくしなければ、少しでもよくないことからは遠ざけねばなどと一生懸命考えるあまり、大人が無理に無理をして子供にひたすらに奉仕するような状況になってしまっている人に、「子供と大人は対等なものなのだから、無理をして自分の気持ちを押し潰して関わっていく必要はないのですよ」という意味合いで用いています。
子供を虐待し続ける子育てにいずれ破綻がくるように、子供を上げすぎた位置でしている子育てにもやがて無理がきてしまいす。
でも、いまの多くの人の子育てを見ていると、子供をやや上げすぎた位置で扱っているのがスタンダートな子育てになってしまっているように感じます。
実際それゆえに子育てが難しいものに、子供の姿が難しいものになってしまっているというものも数多くあります。
上記のように、子供を大切にするあまり無理をして一生懸命に関わりすぎ、それゆえに子育てのストレスが溜まりすぎて虐待や放任になってしまったり、それに近い状態になってしまっているなどということもよくあるわけです。
ほかにもよくあるところでは、子供の「いいなり」になって子育ての大変さばかり増大させてしまう親や、言い聞かせなければならないところで本当に必要なことでも伝えられる強さがなかったり、子供のご機嫌をとるために腫れ物を扱うような関わり方になってしまっている人などなど。
そういった、子供の「上がりすぎた」見方・位置というものをバランスのとれたものにすることで、現代型の子育ての難しさというものが軽減されるのではないかと僕は考えます。
注:子供を「上げる」「上がりすぎた」というような表現は本来は不正確で的確な表現というわけではないのだけど、ここではわかりやすさを重視してこのように書きました。あしからずご了承ください。
「子供への見方」が上がりすぎてしまった結果、現代では「子供とどうやって関わっていいかわからない」という感覚を多くのいま子育てしている人が持っている現実というものがあるように僕には感じられます。
例えば、
最近の真面目に一生懸命子育てを考えているお母さん方は、子供のダダっ子な泣きに対して「泣いたってダメなものはダメなんだからビービー泣くんじゃないっ!」なんて言い方はあまりしません。
むしろ、
「私の対応が間違っているのではないか」
「もしかしたらうまく泣き止ませるいい方法があるのではないか」
「私の普段の関わり方がよくないから、こういうダダをこねるのではないか」
「私の愛情が伝わっていないのではないか」
「私の愛情不足なのではないか」
などというような思考におちいってしまう人もいます。
このブログをコメントまで丹念に読んでくださっている人だと、しばしば相談に対しての返信で僕が「子供と大人は対等だと考えています」という一文から述べているくだりがあるのをご存知かもしれません。
ひところは世間で「子供と大人は対等」という文言は多くの場合、「子供を貶めた存在として扱ってはならない」という文脈で使われることが圧倒的に多かったと思います。
僕がそれらの相談にお答えするなかで用いているのは、やや逆の意味合いです。
子供のことをひたすら大事に考え、下にも置かないというような勢いで世話をし、子供によりよくしなければ、少しでもよくないことからは遠ざけねばなどと一生懸命考えるあまり、大人が無理に無理をして子供にひたすらに奉仕するような状況になってしまっている人に、「子供と大人は対等なものなのだから、無理をして自分の気持ちを押し潰して関わっていく必要はないのですよ」という意味合いで用いています。
子供を虐待し続ける子育てにいずれ破綻がくるように、子供を上げすぎた位置でしている子育てにもやがて無理がきてしまいす。
でも、いまの多くの人の子育てを見ていると、子供をやや上げすぎた位置で扱っているのがスタンダートな子育てになってしまっているように感じます。
実際それゆえに子育てが難しいものに、子供の姿が難しいものになってしまっているというものも数多くあります。
上記のように、子供を大切にするあまり無理をして一生懸命に関わりすぎ、それゆえに子育てのストレスが溜まりすぎて虐待や放任になってしまったり、それに近い状態になってしまっているなどということもよくあるわけです。
ほかにもよくあるところでは、子供の「いいなり」になって子育ての大変さばかり増大させてしまう親や、言い聞かせなければならないところで本当に必要なことでも伝えられる強さがなかったり、子供のご機嫌をとるために腫れ物を扱うような関わり方になってしまっている人などなど。
そういった、子供の「上がりすぎた」見方・位置というものをバランスのとれたものにすることで、現代型の子育ての難しさというものが軽減されるのではないかと僕は考えます。
注:子供を「上げる」「上がりすぎた」というような表現は本来は不正確で的確な表現というわけではないのだけど、ここではわかりやすさを重視してこのように書きました。あしからずご了承ください。
| 2014-03-24 | 日本の子育て文化 | Comment : 14 | トラックバック : 0 |
NEW ENTRY « | BLOG TOP | » OLD ENTRY