保育園の子供と幼稚園の子供 Vol.3 「視点」への意識 - 2014.04.13 Sun
前回の続きです。
幼稚園というのは学校ですので、そこでの大人から子供へのアプローチは「指導」という形を取ることになります。
これは小学校も同様ですね。
幼稚園と保育園の違いを知らない人がいたりしてときどき混同されるのですが、保育園というのはその本来の目的が、「モノを教える」ことではありません。
保育園というのは家庭に代わって生活の場を提供するところなのです。
そのなかで健やかな育成、成長に必要なことを子供にしていくことろです。
なので、「指導」という概念はそもそもありません。
しかし、かつては今ほど保育園が家庭の肩代わりをしなければならないところも多くなかったですから、むしろ学校的・指導的な関わりや子供へのアプローチを取っているところもけっこうありました。
中にはいまでも、あることでしょう。
ですが、いまは「援助」という見方が広まってきました。
幼稚園は「指導」することが本来課せられた役割であり、そのこと自体はもちろん否定されるべきことではありません。
しかし、その考え方に凝り固まって省みることもなくなってしまうと、そこからは硬直化した問題というものが生まれてきます。
「指導」というのは概念的なその構造上、子供より上の位置に立って子供を導く、引っ張り上げるということです。
でも、この方法もそれにあぐらをかいてしまうと、「子供を大人の望む形にする・望む行動を取らせれば良い」ということになり、そこでの子供自身の力としてその行動をとらせるのではなく、単に大人が子供を動かすうまい方法を駆使すればいいということにもなりかねません。
『人はなにで動くか Vol.1』
などで、関連の事柄が述べられています。
むーちゃんの幼稚園の先生方の対応を見ていても思いますし、幼稚園教諭をして保育園に転職した人の子供への関わり方などを見ていても感じることがあります。
それは『ごまかし』の多さです。
ベテランも新人も関係なく同じように多いです。
『やさしさ保育園とさばさば保育園』の記事の中でも指摘しましたが、
一見丁寧に見えても、それは子供を低く見た対応であるという側面があります。
ぐずってどうにもならない子の気持ちを切り替えるくらいならばまだしもですが、多くの局面で多用するようになると、それは行き過ぎともなりかねません。
過去記事でも述べたように、している人に悪気がないのはわかります。
でも、「ごまかし」によってとりあえず大人の望む行動を取らせてしまえばいいというのは、子供を侮った対応なのです。
「相手はおこちゃまだから、こうやっていうこときかせちゃえばいいわよねー」
ということを前提としているわけです。
悪意でやっているのでなくとも、その本質は変わりません。
子供関連の多くの施設で、その目標の中には「子供を尊重して」というような文言や理念が必ずと言っていいほど掲げられています。
そして、そこにいる人たちは例外なく「自分たちは子供を尊重して対応している」と思っています。
でも、それは自分たちの理解の範囲内で「子供を尊重している」と思っているに過ぎず、実際の子供への関わりの中で、子供をごまかしてどうにかしてしまっているような関わりを常態として行っていたらそれは、客観的には「子供を大人と同じだけの人格をもった一個人として尊重している」ということにはならないのです。
この点に気づいて、そこをもう一度見直していくということをしなければ、前回のところで述べたようなこれからの状況というのに対応できなくなってしまうでしょう。
この原因というのは、「指導」という概念の持つ構造的なものがそれをだんだんと醸成していったと僕は思います。
「指導」というのは、目標とするものを設定してそれを学ばせる、身につけさせるということです。
極端な言い方をすれば、「型にはめるためのアプローチ」です。
「型にはめる」というとなんとなく良くないニュアンスを感じる人もいるかもしれませんが、それを無理矢理にではなく良い形で行えるということが指導者の力量ということでしょう。
教育において指導というアプローチを大人がとるというのは、当然間違ったことではありません。
ですが、ともするとその目標に合わせることが重視されてしまって、その過程というものが問題視されなくなってしまうという側面があります。
指導において視点の柔軟さが発揮されないと、つねに大人の立ち位置が上で子供の立ち位置が下という構造になります。
それゆえ、子供を「ごまかしてしまえばいい対象」とも見ることができるのです。
「ごまかし」程度ですんでいればまだいいのですが、この「子供への視点の問題」はこれからもっと傷を大きくしていきかねません。
それは、例えば前回で見たような、3ようなの子への対応です。
それだけではなく、発達障がいやグレーゾーンの子供などへの対応でも同様のことが起こりえます。
こういった子供は、カリキュラムに合わせて活動したり、集団での行動や他児との協調ということが難しいということがあります。
その他大勢の子供に比べ、大人の思い通りに動かそうとすること自体が困難になります。
もちろん「ごまかし」くらいでは思う通りにはなりません。「ごまかし」というのは、子供の大人への信頼を逆手にとってできることなので、もともと信頼感を持っていない子や、集団での行動、規範に沿っての行動をとる力の弱い子には通じないことも多くなります。
そうすると、注意や規制・制止・叱責という対応で子供に対峙していくことになります。
それでもそれを根気よく続けていくことで、それなりの信頼関係というものが生まれるということももちろんあります。
その結果適応する方に向けばいいですが、そうならなかったときに問題児のレッテル貼りをし積極的なアプローチをしない方へいってしまうこともあります。
『減点法の子育て』
の事例の中で出てきた男の子の話ですが、
幼稚園にいたときに、合奏の練習をしていてその子が全く従えないというので、楽器を取り上げられしなくていいという扱いにされ別室に行かされていたという話をその担任だった幼稚園の先生本人の口から聞きました。
その先生の話では、いかにその子がそのようにされても仕方のないことで、それが必要な対応だったのだという主張でした。
これは、硬直した「指導」という観点がこのような子供への見方を導き出してしまっているのだと感じます。
「これをすべき」という目的があるなかで、それを否定し従わない存在というのは、異質な存在であり、注意や叱責といった指導の対象となります。
この事例においては、楽器を取り上げ、属する集団から切り離すという対応までしています。
集団への帰属意識というものをすでに持っているはずの年齢の子供に対してこのようなことをするというのは、一種の苦痛を味あわせるということであって、これは「懲罰」と言えます。
しかし、その先生の中ではこれは正当な指導であるという理解でいるのです。
子供がもし、「お前なんかいれてやんねー」と一人の子供を仲間はずれにしたとしたら、それは意地悪でしょう。
おそらくその先生がクラスで子供たちがそういうことをしているのに直面したら、それはやめさせるように考えるのではないでしょうか。
でも、楽器を取り上げて別の部屋に行っていなさいというのは、これと同じかもっとひどいことです。
個人の尊厳というものを傷つける行為です。
この指導法は、ある種の懲罰を課すこと、懲罰を課せるという大人の立場・権力を意識させることで、子供に従うことを要求するものです。
「大人が上で、子供が下」なのです。
やさしさ風味で「ごまかし」を使うことと、子供を問題児扱いして落ちこぼれにしていくのとは、一見遠いいことのようですが、実は同根のところにあります。
ですから、「ごまかしが当たり前」のようになっていると、そこと同じ環境で子供をおとしめる行為が醸成されてもおかしくないのです。
この事例の男の子は、「従わない」のではありません。
「従うに足るだけの信頼感」をその大人に対して持てないから、したくてもできないのです。
「指導」という高みからの視点だけで子供をみるのではなく、もしこの先生がこの子の横に寄り添うところまで下りてきて信頼関係を作ろうとするプロセスをそれ以前から持っていたり、その子の背景までも含めて包括的に援助してあげようという柔軟な視点を持てていたならば、また結果は違っていたことでしょう。
駆け足でしたが、以上が幼稚園での関わりを考えて気づかされる「視点への意識」の問題でした。
くどいですが、この記事も含め関連のところで書かれていることは、保育園がよくて幼稚園がよくないということでも、その逆ということでも、指導がよくないということでもありません。
そこは誤解のないようにお願いします。
保育園でもまだまだこれと全く同じ問題は多数あります。
子供へのプロ・専門職としてのその質の向上を願っています。
なんども繰り返してしつこいので、この種のお断りは今回までにしておきますね。
否定しようと思って書いているわけではないので、どうぞご了承ください。
そう言ったばかりで恐縮ですが、幼稚園のなかでここだけはすぐにでも直したほうがいいと思う点があります。
それについてはまた別の機会に述べていきます。
幼稚園というのは学校ですので、そこでの大人から子供へのアプローチは「指導」という形を取ることになります。
これは小学校も同様ですね。
幼稚園と保育園の違いを知らない人がいたりしてときどき混同されるのですが、保育園というのはその本来の目的が、「モノを教える」ことではありません。
保育園というのは家庭に代わって生活の場を提供するところなのです。
そのなかで健やかな育成、成長に必要なことを子供にしていくことろです。
なので、「指導」という概念はそもそもありません。
しかし、かつては今ほど保育園が家庭の肩代わりをしなければならないところも多くなかったですから、むしろ学校的・指導的な関わりや子供へのアプローチを取っているところもけっこうありました。
中にはいまでも、あることでしょう。
ですが、いまは「援助」という見方が広まってきました。
幼稚園は「指導」することが本来課せられた役割であり、そのこと自体はもちろん否定されるべきことではありません。
しかし、その考え方に凝り固まって省みることもなくなってしまうと、そこからは硬直化した問題というものが生まれてきます。
「指導」というのは概念的なその構造上、子供より上の位置に立って子供を導く、引っ張り上げるということです。
でも、この方法もそれにあぐらをかいてしまうと、「子供を大人の望む形にする・望む行動を取らせれば良い」ということになり、そこでの子供自身の力としてその行動をとらせるのではなく、単に大人が子供を動かすうまい方法を駆使すればいいということにもなりかねません。
『人はなにで動くか Vol.1』
などで、関連の事柄が述べられています。
むーちゃんの幼稚園の先生方の対応を見ていても思いますし、幼稚園教諭をして保育園に転職した人の子供への関わり方などを見ていても感じることがあります。
それは『ごまかし』の多さです。
ベテランも新人も関係なく同じように多いです。
『やさしさ保育園とさばさば保育園』の記事の中でも指摘しましたが、
一見丁寧に見えても、それは子供を低く見た対応であるという側面があります。
ぐずってどうにもならない子の気持ちを切り替えるくらいならばまだしもですが、多くの局面で多用するようになると、それは行き過ぎともなりかねません。
過去記事でも述べたように、している人に悪気がないのはわかります。
でも、「ごまかし」によってとりあえず大人の望む行動を取らせてしまえばいいというのは、子供を侮った対応なのです。
「相手はおこちゃまだから、こうやっていうこときかせちゃえばいいわよねー」
ということを前提としているわけです。
悪意でやっているのでなくとも、その本質は変わりません。
子供関連の多くの施設で、その目標の中には「子供を尊重して」というような文言や理念が必ずと言っていいほど掲げられています。
そして、そこにいる人たちは例外なく「自分たちは子供を尊重して対応している」と思っています。
でも、それは自分たちの理解の範囲内で「子供を尊重している」と思っているに過ぎず、実際の子供への関わりの中で、子供をごまかしてどうにかしてしまっているような関わりを常態として行っていたらそれは、客観的には「子供を大人と同じだけの人格をもった一個人として尊重している」ということにはならないのです。
この点に気づいて、そこをもう一度見直していくということをしなければ、前回のところで述べたようなこれからの状況というのに対応できなくなってしまうでしょう。
この原因というのは、「指導」という概念の持つ構造的なものがそれをだんだんと醸成していったと僕は思います。
「指導」というのは、目標とするものを設定してそれを学ばせる、身につけさせるということです。
極端な言い方をすれば、「型にはめるためのアプローチ」です。
「型にはめる」というとなんとなく良くないニュアンスを感じる人もいるかもしれませんが、それを無理矢理にではなく良い形で行えるということが指導者の力量ということでしょう。
教育において指導というアプローチを大人がとるというのは、当然間違ったことではありません。
ですが、ともするとその目標に合わせることが重視されてしまって、その過程というものが問題視されなくなってしまうという側面があります。
指導において視点の柔軟さが発揮されないと、つねに大人の立ち位置が上で子供の立ち位置が下という構造になります。
それゆえ、子供を「ごまかしてしまえばいい対象」とも見ることができるのです。
「ごまかし」程度ですんでいればまだいいのですが、この「子供への視点の問題」はこれからもっと傷を大きくしていきかねません。
それは、例えば前回で見たような、3ようなの子への対応です。
それだけではなく、発達障がいやグレーゾーンの子供などへの対応でも同様のことが起こりえます。
こういった子供は、カリキュラムに合わせて活動したり、集団での行動や他児との協調ということが難しいということがあります。
その他大勢の子供に比べ、大人の思い通りに動かそうとすること自体が困難になります。
もちろん「ごまかし」くらいでは思う通りにはなりません。「ごまかし」というのは、子供の大人への信頼を逆手にとってできることなので、もともと信頼感を持っていない子や、集団での行動、規範に沿っての行動をとる力の弱い子には通じないことも多くなります。
そうすると、注意や規制・制止・叱責という対応で子供に対峙していくことになります。
それでもそれを根気よく続けていくことで、それなりの信頼関係というものが生まれるということももちろんあります。
その結果適応する方に向けばいいですが、そうならなかったときに問題児のレッテル貼りをし積極的なアプローチをしない方へいってしまうこともあります。
『減点法の子育て』
の事例の中で出てきた男の子の話ですが、
幼稚園にいたときに、合奏の練習をしていてその子が全く従えないというので、楽器を取り上げられしなくていいという扱いにされ別室に行かされていたという話をその担任だった幼稚園の先生本人の口から聞きました。
その先生の話では、いかにその子がそのようにされても仕方のないことで、それが必要な対応だったのだという主張でした。
これは、硬直した「指導」という観点がこのような子供への見方を導き出してしまっているのだと感じます。
「これをすべき」という目的があるなかで、それを否定し従わない存在というのは、異質な存在であり、注意や叱責といった指導の対象となります。
この事例においては、楽器を取り上げ、属する集団から切り離すという対応までしています。
集団への帰属意識というものをすでに持っているはずの年齢の子供に対してこのようなことをするというのは、一種の苦痛を味あわせるということであって、これは「懲罰」と言えます。
しかし、その先生の中ではこれは正当な指導であるという理解でいるのです。
子供がもし、「お前なんかいれてやんねー」と一人の子供を仲間はずれにしたとしたら、それは意地悪でしょう。
おそらくその先生がクラスで子供たちがそういうことをしているのに直面したら、それはやめさせるように考えるのではないでしょうか。
でも、楽器を取り上げて別の部屋に行っていなさいというのは、これと同じかもっとひどいことです。
個人の尊厳というものを傷つける行為です。
この指導法は、ある種の懲罰を課すこと、懲罰を課せるという大人の立場・権力を意識させることで、子供に従うことを要求するものです。
「大人が上で、子供が下」なのです。
やさしさ風味で「ごまかし」を使うことと、子供を問題児扱いして落ちこぼれにしていくのとは、一見遠いいことのようですが、実は同根のところにあります。
ですから、「ごまかしが当たり前」のようになっていると、そこと同じ環境で子供をおとしめる行為が醸成されてもおかしくないのです。
この事例の男の子は、「従わない」のではありません。
「従うに足るだけの信頼感」をその大人に対して持てないから、したくてもできないのです。
「指導」という高みからの視点だけで子供をみるのではなく、もしこの先生がこの子の横に寄り添うところまで下りてきて信頼関係を作ろうとするプロセスをそれ以前から持っていたり、その子の背景までも含めて包括的に援助してあげようという柔軟な視点を持てていたならば、また結果は違っていたことでしょう。
駆け足でしたが、以上が幼稚園での関わりを考えて気づかされる「視点への意識」の問題でした。
くどいですが、この記事も含め関連のところで書かれていることは、保育園がよくて幼稚園がよくないということでも、その逆ということでも、指導がよくないということでもありません。
そこは誤解のないようにお願いします。
保育園でもまだまだこれと全く同じ問題は多数あります。
子供へのプロ・専門職としてのその質の向上を願っています。
なんども繰り返してしつこいので、この種のお断りは今回までにしておきますね。
否定しようと思って書いているわけではないので、どうぞご了承ください。
そう言ったばかりで恐縮ですが、幼稚園のなかでここだけはすぐにでも直したほうがいいと思う点があります。
それについてはまた別の機会に述べていきます。
| 2014-04-13 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 27 | トラックバック : 0 |
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