保育園の子供と幼稚園の子供 Vol.4 保育園における「指導から援助へ」 - 2014.04.15 Tue
前回のVol.3読み返していましてみたらなんかすごく長くなっていましたね。
分割すればよかったかな。読んでいただいた方お疲れ様です。
前回保育園も、「指導」的なことをしていたというくだりがありました。
いい機会なので、そのあたりのことも簡単に触れておこうと思います。
分割すればよかったかな。読んでいただいた方お疲れ様です。
前回保育園も、「指導」的なことをしていたというくだりがありました。
いい機会なので、そのあたりのことも簡単に触れておこうと思います。
かつて保育園もずいぶんと「施設、施設」していました。
大勢の子供を預かって、効率よくそこでの生活を送らせるというようなものでした。
今より基準が不十分で狭いところにたくさんの子供を受け入れていたり、人員も十分には配置されていなかったのでそうせざるを得なかったという理由もあります。
そこで求められる、つくられる子供というのは、「大人の言うことをよくきくいい子」だったり、「○○ができる子」です。
子供の頃、保育園で苦手なものを無理やり食べさせられたなんていう嫌な思い出をいまだに持っているという人も少なくないのではないでしょうか。
(これは「ご飯を好き嫌いせず・残さず食べられる子」という一種の「○○できる子」像に子供を当てはめるという行為ですね。)
このように、保育士が上からの視点で子供に「○○を課す」という「指導」の色が濃厚だったわけです。
そういう中で、保育園では一種の意識改革が起こります。
保育園は施設ではあるけれど、「施設」としてのあり方に甘んじてはいけないのだ。
個々の子供ひとりひとりを大切にして、施設でありながら家庭に代わるものとしてのあり方を目指さなければならない。
というものです。
個人のお名前など残っていませんが、その当時の保育士にはとても意識の高い尊敬すべき方々がいたようです。
そういう動きを牽引した人としては、元明星大学教授の諏訪きぬ先生などがあげられるでしょうか。
いまでもたくさんの著作があるので、諏訪先生の保育論は読むことができます。
そういった意識の変革のなかで、子供に対しての関わり方もさまざまに変化していきます。
例えば象徴的なものとしては、散歩の際に「前へならえ」をしたり笛で指示するというようなことをやめるようになったということがあります。
これらは「指導」であり、また「子供の管理」なのですね。
それまで何の疑問もなく「前へならえ」で子供たちを並ばせたりしていたところに、「まてよ、それは本当に必要なことなのか?」
という疑問が投げかけられたのです。
子供を集団で統御し、大人がもっとも管理しやすいという形で従わせるには効率のいい形かもしれません。
集団行動を身につけたりすることを大きな目標として持っている学校ならばそれも必要かもしれません。
でも、家庭の代替を目指すべき保育園にそれは必要なのだろうか?
もし、いくら子沢山だとしても家庭でそのように子供を従える家などありません。
あるとしたら、映画『サウンドオブミュージック』で最初に描かれるトラップ一家のような異様さがあることでしょう。
前へならえをしなければ子供が安全に歩けないということはありません、家庭に代わるものを目指すのですから、軍隊や学校のようになる必要はないわけです。
笛を鳴らして指示するようなことも同様です。
笛で呼ばなければ従えない子供をつくるのではなく、「帰りますよー」とお母さんが呼びかけたら、それに「ハーイ」と駆け寄ってくるような家庭で普通に見られる子供を目指せばいいわけです。
いまからすると、さしてなんでもないことのようだけれど、当時それまでは必死に一生懸命に「前へならえ」して並べる子供に大真面目にしていたのでしょうね。
でも必要なところで手をつなぐなどして安全に歩くことができるのであれば、そのようなことを子供に仕込むこともいらなかったのです。
ほかにも象徴的なこととしては、誕生日をその子のその日に祝うなんていうことも挙げられるでしょう。
いまでもしているところは結構ありますが、月に一度日を決めてその月生まれの子供の誕生祝いを一斉に行うなんていうのがあります。
何日に生まれようとも、十把一絡げにその月生まれだからということでひとくくりにして考えているわけです。
日本では数え年で年齢を考えていた時代だと、誕生日というのは個人に属するものはありませんでしたが、当然ながら現代ではとっくにそうではありません。
誕生日というのはパーソナルなものとして認識されています。
「○○ちゃん」の誕生日があるのであって、「4月生まれの子」として誕生日があるのではないわけです。
「まとめて祝う」というのは施設の都合であり、個人としてその子を尊重しているというのとはずれたこととも考えられます。
そんなところから、派手な出し物つきでなくても、全園児を集めなくてもいいから、個々の誕生日としてその子のお祝いをしてあげましょう、という方向へ考えていったりしました。
そのようなことが、微に入り細に入りたくさんあって保育が変革されてきたのです。
それもその大元にある、「子供への視点」の問題に気づいた人達がいたからこそできたことです。
個々の子供を尊重する(そしてそれが可能になる視点が伴っている)というところからすれば、「手のかかる子」というのは、「集団行動を乱す異分子」ではなくて、より手厚い援助を必要としている子供です。
「視点」の違いだけで、本当に多くのことが変わります。
余談ですが、近頃園児が散歩しているとき、「お散歩ロープ」なるものを使用しているのを見かけることがあります。
特に営利で保育しているところや、「子守り」としてしか保育を認識していないところで多く見られるようです。
これは便利ではあるのかもしれないけれども、「どうせ子供は手を振りほどいてしまったりして歩けないのだ、大人が引っ張らないとついてこれないのだ」というようはある種の子供の能力を低く決めつけた視点というものがあったり、「子供にそれを理解させることは大変だからそれよりも物理的にどうにかしてしまえ」というような「子供を伸ばす」という働きかけの放棄というものが背景にはあるのです。
ただ、それをしている多くの人たちもそういった子供への視点の問題には気がついていません。
「周りがそうやっているから」、「自分が就職したときから先輩たちがしているので」「便利だからいいだろう」「どうせ言うことを聞かない子達だから」などなど、でさしてなにも考えずに利用しているというのが現実でしょう。
これはしばしば、僕が子供に携わる職業の人たちのずさんさをさして言う「無自覚」というものです。
これを自覚的に判断してそれでも使う必要があるというのならば、もしそれを使っていたとしてもさして問題はないでしょう。
例えば、その地域の歩道の整備が十分でなく最大限の注意を払って歩かなければならず、安全確保のために必要であると判断される場合や、発達上そうすることが難しいという子供たちが通常の方法では大人の手に余る程の人数がいてその安全のためであるとかなど。
しかし、実際のところは不十分な人員や、保育士の能力が不十分な状態で大勢の子供を管理するために便利使いされているのではないでしょうか。
便利なら結構と考える人もいるかもしれませんが、これは「子供への援助」や「育ち」というものに目をつぶった結果大人が得ている「便利」というもの、「大人の都合」です。
もっと言えば、その施設にとってはそのような「大人のための便利」を重ねた分だけ「金銭的な利益」があげられるわけです。
「便利」を考えるならば、子供のためになる便利を考えるのが、本来の福祉としてのあり方だろうと僕は考えます。
そして、これは象徴的なことに過ぎません。
ひとつのところでこのような子供への見方というものが市民権を得ているということは、その内実には様々な同種の「子供そのもの」や「子供への援助」を低く見た保育というものがなされているということです。
これまで少しずつ子供に対して真摯な保育者や研究者によって子供への対応の質を上げてきた保育ですが、昨今の「質より量」「福祉から営利へ」という社会の動きの中で、徐々に「保育の退化」が始まっているという気がします。
大勢の子供を預かって、効率よくそこでの生活を送らせるというようなものでした。
今より基準が不十分で狭いところにたくさんの子供を受け入れていたり、人員も十分には配置されていなかったのでそうせざるを得なかったという理由もあります。
そこで求められる、つくられる子供というのは、「大人の言うことをよくきくいい子」だったり、「○○ができる子」です。
子供の頃、保育園で苦手なものを無理やり食べさせられたなんていう嫌な思い出をいまだに持っているという人も少なくないのではないでしょうか。
(これは「ご飯を好き嫌いせず・残さず食べられる子」という一種の「○○できる子」像に子供を当てはめるという行為ですね。)
このように、保育士が上からの視点で子供に「○○を課す」という「指導」の色が濃厚だったわけです。
そういう中で、保育園では一種の意識改革が起こります。
保育園は施設ではあるけれど、「施設」としてのあり方に甘んじてはいけないのだ。
個々の子供ひとりひとりを大切にして、施設でありながら家庭に代わるものとしてのあり方を目指さなければならない。
というものです。
個人のお名前など残っていませんが、その当時の保育士にはとても意識の高い尊敬すべき方々がいたようです。
そういう動きを牽引した人としては、元明星大学教授の諏訪きぬ先生などがあげられるでしょうか。
いまでもたくさんの著作があるので、諏訪先生の保育論は読むことができます。
そういった意識の変革のなかで、子供に対しての関わり方もさまざまに変化していきます。
例えば象徴的なものとしては、散歩の際に「前へならえ」をしたり笛で指示するというようなことをやめるようになったということがあります。
これらは「指導」であり、また「子供の管理」なのですね。
それまで何の疑問もなく「前へならえ」で子供たちを並ばせたりしていたところに、「まてよ、それは本当に必要なことなのか?」
という疑問が投げかけられたのです。
子供を集団で統御し、大人がもっとも管理しやすいという形で従わせるには効率のいい形かもしれません。
集団行動を身につけたりすることを大きな目標として持っている学校ならばそれも必要かもしれません。
でも、家庭の代替を目指すべき保育園にそれは必要なのだろうか?
もし、いくら子沢山だとしても家庭でそのように子供を従える家などありません。
あるとしたら、映画『サウンドオブミュージック』で最初に描かれるトラップ一家のような異様さがあることでしょう。
前へならえをしなければ子供が安全に歩けないということはありません、家庭に代わるものを目指すのですから、軍隊や学校のようになる必要はないわけです。
笛を鳴らして指示するようなことも同様です。
笛で呼ばなければ従えない子供をつくるのではなく、「帰りますよー」とお母さんが呼びかけたら、それに「ハーイ」と駆け寄ってくるような家庭で普通に見られる子供を目指せばいいわけです。
いまからすると、さしてなんでもないことのようだけれど、当時それまでは必死に一生懸命に「前へならえ」して並べる子供に大真面目にしていたのでしょうね。
でも必要なところで手をつなぐなどして安全に歩くことができるのであれば、そのようなことを子供に仕込むこともいらなかったのです。
ほかにも象徴的なこととしては、誕生日をその子のその日に祝うなんていうことも挙げられるでしょう。
いまでもしているところは結構ありますが、月に一度日を決めてその月生まれの子供の誕生祝いを一斉に行うなんていうのがあります。
何日に生まれようとも、十把一絡げにその月生まれだからということでひとくくりにして考えているわけです。
日本では数え年で年齢を考えていた時代だと、誕生日というのは個人に属するものはありませんでしたが、当然ながら現代ではとっくにそうではありません。
誕生日というのはパーソナルなものとして認識されています。
「○○ちゃん」の誕生日があるのであって、「4月生まれの子」として誕生日があるのではないわけです。
「まとめて祝う」というのは施設の都合であり、個人としてその子を尊重しているというのとはずれたこととも考えられます。
そんなところから、派手な出し物つきでなくても、全園児を集めなくてもいいから、個々の誕生日としてその子のお祝いをしてあげましょう、という方向へ考えていったりしました。
そのようなことが、微に入り細に入りたくさんあって保育が変革されてきたのです。
それもその大元にある、「子供への視点」の問題に気づいた人達がいたからこそできたことです。
個々の子供を尊重する(そしてそれが可能になる視点が伴っている)というところからすれば、「手のかかる子」というのは、「集団行動を乱す異分子」ではなくて、より手厚い援助を必要としている子供です。
「視点」の違いだけで、本当に多くのことが変わります。
余談ですが、近頃園児が散歩しているとき、「お散歩ロープ」なるものを使用しているのを見かけることがあります。
特に営利で保育しているところや、「子守り」としてしか保育を認識していないところで多く見られるようです。
これは便利ではあるのかもしれないけれども、「どうせ子供は手を振りほどいてしまったりして歩けないのだ、大人が引っ張らないとついてこれないのだ」というようはある種の子供の能力を低く決めつけた視点というものがあったり、「子供にそれを理解させることは大変だからそれよりも物理的にどうにかしてしまえ」というような「子供を伸ばす」という働きかけの放棄というものが背景にはあるのです。
ただ、それをしている多くの人たちもそういった子供への視点の問題には気がついていません。
「周りがそうやっているから」、「自分が就職したときから先輩たちがしているので」「便利だからいいだろう」「どうせ言うことを聞かない子達だから」などなど、でさしてなにも考えずに利用しているというのが現実でしょう。
これはしばしば、僕が子供に携わる職業の人たちのずさんさをさして言う「無自覚」というものです。
これを自覚的に判断してそれでも使う必要があるというのならば、もしそれを使っていたとしてもさして問題はないでしょう。
例えば、その地域の歩道の整備が十分でなく最大限の注意を払って歩かなければならず、安全確保のために必要であると判断される場合や、発達上そうすることが難しいという子供たちが通常の方法では大人の手に余る程の人数がいてその安全のためであるとかなど。
しかし、実際のところは不十分な人員や、保育士の能力が不十分な状態で大勢の子供を管理するために便利使いされているのではないでしょうか。
便利なら結構と考える人もいるかもしれませんが、これは「子供への援助」や「育ち」というものに目をつぶった結果大人が得ている「便利」というもの、「大人の都合」です。
もっと言えば、その施設にとってはそのような「大人のための便利」を重ねた分だけ「金銭的な利益」があげられるわけです。
「便利」を考えるならば、子供のためになる便利を考えるのが、本来の福祉としてのあり方だろうと僕は考えます。
そして、これは象徴的なことに過ぎません。
ひとつのところでこのような子供への見方というものが市民権を得ているということは、その内実には様々な同種の「子供そのもの」や「子供への援助」を低く見た保育というものがなされているということです。
これまで少しずつ子供に対して真摯な保育者や研究者によって子供への対応の質を上げてきた保育ですが、昨今の「質より量」「福祉から営利へ」という社会の動きの中で、徐々に「保育の退化」が始まっているという気がします。
| 2014-04-15 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 14 | トラックバック : 0 |
NEW ENTRY « | BLOG TOP | » OLD ENTRY