子供を子供にする - 2014.04.26 Sat
多くの親の関わり方を見ていてしばしば思うのだけど、子供を一生懸命大人にしようとしているのだなと感じることがあります。
とくに子供への関わりが熱心な人、教育熱心な人などにそれは顕著です。
例えば、フラッシュカードなんかもそうです。
まだなにものもわかっていない0歳、1歳の子にフラッシュカードを使って漢字や英語を覚えさせようとするわけです。
その能力というのは、学ぶのは子供時代だとしても実用に供されるのはそれなりの年齢になってからのことです。
0歳、1歳の子供にまでひと足飛び、ふた足飛びで要求されることを持たせようとしてしまっています。
以前あった(いまもあるのかな?)、子供向け株式投資講座なんていうのはその最たるものですよね。
株式投資などというのは、完全に大人がすることです。
しかし、それを子供に要求しようとする親がいるわけです。
僕からするとこれは異常事態です。
そこまで極端でなくとも、最近では保育園に通う子にも多く見られるようになってきた小学校受験する子なんかもそうです。
別にそれが悪いというのではないけれども、親は子供の将来を考えてとか、子供の可能性が広がるようにとかのスタンスでいるのだろうけど、なんかむしろそれによって子供の可能性を狭めてしまっているようなケースもあるように感じます。
子供っていうのは、まず「子供」にしてあげることが大事なのだと思います。
なんか今の時代は、そこをすっとばして「大人」にするための訓練を子供に課してしまっているかのようです。
今の子供たちを見ていると、「無邪気」でいられなくなっている子が多いです。
子供の無邪気さが最初からないわけではなくて、大人が「大人」にしようとばかりしているので、それに合わせていくうちに、とても「無邪気」ではいられなくなっているかのようです。
「大人」になるというのは、実はそんなに難しいことではありません。
誰でも年齢さえ重ねればなれます。あたりまえなんだけど。(笑)
でも、大人が子供になるということはできません。
子供のうちしか「子供」にはなれないわけです。
たいていの子供は生産性というものを持っていません。
マコーレ・カルキンのように子供時代に莫大な生産性を獲得した子供というのもいますが、まあそれはまれです。ついでに言えば、彼が必ずしも幸せな人生を送ったわけではないというのも広く知られているでしょう。
「子供」というのは、生産性とは無縁な、無邪気な状態であっていいのだと僕は思います。
そしてそこでしか獲得できないものがたくさんあります。
それは当然、お金では換算できません。
でも、現代の大人は子供に「大人」になることばかりを望んでいるかのような節があります。
ルソーが『子供』概念を発見するまでは、現代的な意味での「子供」というのはなくて、「生産性を要求される小さい大人」だったのですが、そこを考えると、いまの「子供」をすっとばして「大人にすること」を求めてしまう子育ての仕方は、ルソー以前の子供に逆戻りを目指しているともとれます。
いまでも子供が兵士にされたりする社会があります。
子供が「子供」でいられるということは、実はとても幸せなことで、大切なことでもあります。
以前事例で紹介した、早期教育を熱心にさせられたけど小学校受験に失敗し、卒園式で突然下着や性器を見せる行動をとったという子は、その後小学生になって山ほどの問題行動を示すようになりました。
これは早期教育だけが問題だったわけではなくて、ただでさえ過重な保育時間に加えて頑張りを要求されすぎたことや、もともとの親の無機的な関わりというものが背景にあったのだけど、これなどもやはり「子供」でいさせてもらえなかったケースのように感じます。
子供はまず「子供」にしようと僕は思っています。
大人にするのを考え始めるのは思春期くらいからでいいのではないかな。
子供時代が充実している人は、大人になっても充実した人生をおくり易いのではないでしょうか。
その逆でも、うまくいくひともいるだろうけど、あとからは取り戻せないことだけに「やり残した感」というのを引きずることになったらそれはその人にとってけっこう辛いことだろうね。
僕は卒園式なんかでスピーチするようなときは、「あなたがたの子供時代が一日でも長く続くことを祈っています」というようなことをいつも話しています。
それは「自立できない大人」としての状態のことではないですよ、もちろん。
屈託なく、無邪気でいられる子供時代というのはそのひとそのひとの人生の代えがたい基礎になることなのだと思うからです。
とくに子供への関わりが熱心な人、教育熱心な人などにそれは顕著です。
例えば、フラッシュカードなんかもそうです。
まだなにものもわかっていない0歳、1歳の子にフラッシュカードを使って漢字や英語を覚えさせようとするわけです。
その能力というのは、学ぶのは子供時代だとしても実用に供されるのはそれなりの年齢になってからのことです。
0歳、1歳の子供にまでひと足飛び、ふた足飛びで要求されることを持たせようとしてしまっています。
以前あった(いまもあるのかな?)、子供向け株式投資講座なんていうのはその最たるものですよね。
株式投資などというのは、完全に大人がすることです。
しかし、それを子供に要求しようとする親がいるわけです。
僕からするとこれは異常事態です。
そこまで極端でなくとも、最近では保育園に通う子にも多く見られるようになってきた小学校受験する子なんかもそうです。
別にそれが悪いというのではないけれども、親は子供の将来を考えてとか、子供の可能性が広がるようにとかのスタンスでいるのだろうけど、なんかむしろそれによって子供の可能性を狭めてしまっているようなケースもあるように感じます。
子供っていうのは、まず「子供」にしてあげることが大事なのだと思います。
なんか今の時代は、そこをすっとばして「大人」にするための訓練を子供に課してしまっているかのようです。
今の子供たちを見ていると、「無邪気」でいられなくなっている子が多いです。
子供の無邪気さが最初からないわけではなくて、大人が「大人」にしようとばかりしているので、それに合わせていくうちに、とても「無邪気」ではいられなくなっているかのようです。
「大人」になるというのは、実はそんなに難しいことではありません。
誰でも年齢さえ重ねればなれます。あたりまえなんだけど。(笑)
でも、大人が子供になるということはできません。
子供のうちしか「子供」にはなれないわけです。
たいていの子供は生産性というものを持っていません。
マコーレ・カルキンのように子供時代に莫大な生産性を獲得した子供というのもいますが、まあそれはまれです。ついでに言えば、彼が必ずしも幸せな人生を送ったわけではないというのも広く知られているでしょう。
「子供」というのは、生産性とは無縁な、無邪気な状態であっていいのだと僕は思います。
そしてそこでしか獲得できないものがたくさんあります。
それは当然、お金では換算できません。
でも、現代の大人は子供に「大人」になることばかりを望んでいるかのような節があります。
ルソーが『子供』概念を発見するまでは、現代的な意味での「子供」というのはなくて、「生産性を要求される小さい大人」だったのですが、そこを考えると、いまの「子供」をすっとばして「大人にすること」を求めてしまう子育ての仕方は、ルソー以前の子供に逆戻りを目指しているともとれます。
いまでも子供が兵士にされたりする社会があります。
子供が「子供」でいられるということは、実はとても幸せなことで、大切なことでもあります。
以前事例で紹介した、早期教育を熱心にさせられたけど小学校受験に失敗し、卒園式で突然下着や性器を見せる行動をとったという子は、その後小学生になって山ほどの問題行動を示すようになりました。
これは早期教育だけが問題だったわけではなくて、ただでさえ過重な保育時間に加えて頑張りを要求されすぎたことや、もともとの親の無機的な関わりというものが背景にあったのだけど、これなどもやはり「子供」でいさせてもらえなかったケースのように感じます。
子供はまず「子供」にしようと僕は思っています。
大人にするのを考え始めるのは思春期くらいからでいいのではないかな。
子供時代が充実している人は、大人になっても充実した人生をおくり易いのではないでしょうか。
その逆でも、うまくいくひともいるだろうけど、あとからは取り戻せないことだけに「やり残した感」というのを引きずることになったらそれはその人にとってけっこう辛いことだろうね。
僕は卒園式なんかでスピーチするようなときは、「あなたがたの子供時代が一日でも長く続くことを祈っています」というようなことをいつも話しています。
それは「自立できない大人」としての状態のことではないですよ、もちろん。
屈託なく、無邪気でいられる子供時代というのはそのひとそのひとの人生の代えがたい基礎になることなのだと思うからです。
| 2014-04-26 | 満たされた子供 | Comment : 33 | トラックバック : 0 |
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