保育士を目指す人は、保育士というのは子供に優しく接して慈しみ、暖かく育てていくものだと多くの人が考え、保育士の資格を取るための学校などにいくことでしょう。
あんまり具体的には考えていなくとも、子供と楽しく明るくというような漠然としたイメージがあるとは思います。
しかし、就職してみてそういう場面が思ったほどない、または全然ない、むしろ逆のことをしている、などと驚いたり、疑問に感じたりする人がいます。
それでも、その保育園の先輩たちや園長などがそのように子供に接し、自分にもそう求めてくるので、自分の認識が甘くて先輩たちのしていること言っていることが正しいのだろうと自分を納得させる人もいます。
そのままその言われた通りの保育を身につけていってしまうひとも少なくありません。
しかし、新人の人たちが、素直な気持ちで素朴に感じるその「なんか違うな」という感覚は間違ってはいません。
なぜなら間違った保育をしているところがたくさんあるからです。
今回はそれについて、なぜそのようなことが起こるのか。そして本当はどうすればよいのかについて見ていきたいと思います。
そういうわけで今回は、どちらかというと保育士向けの保育のお話です。
ではまず、どんなことがあって疑問に感じているのかというところから見ていきます。
最近頂いたコメントがまさにテンプレ通りなので、まるまる転載してみます。
保育園にパートで勤め始めて3週間目です。
2歳児担当なのですが、ここの園の保育は朝の会は椅子に座っている、座っていないと注意を受ける。保育室内の自由遊びでは柵をつけ、出たら注意をされる、何回も出たら中にいれてもらえないなどのペナルティーがある。給食は叱咤激励、物でつるなどして全部食べさせる。食べさせられないとできない保育士になってしまう。お茶も含めて全てです。子供同士で叩いてしまう場面では、子どもがわんわん泣くまで向かい合って叱る、謝らせる。などなどあります。先生方はすごく怖いというわけではないのですが、叱る、注意する、疎外する、ごまかすなどは多用しています。
自分のことで悩んでいます。子供たちに伝えたいことがあるときに、新入園児は話を聞いてくれるのですが、前からいる子たちの多くが、何かを話しても聞かない振りをするなど、なかなか聞いてくれません。他の先生方に給食や子供同士のトラブルのようなものに対してなど「もっとしっかり叱った方が良い」と言われてしまいました。もっと強く言って言うことを聞かせればそれでいいのか、とても悩んでいます。自分は子どもをもっと待ちたいと思ったり、食べ物も叱って食べさせたくないと思ったり、葛藤しています。こちらの記事、「新米保育士」さんのコメントより
以前「しつけ」について述べた記事のなかでだったでしょうか、
「日本の子育ては、子供に○○できる、○○すべきでないということを目指してその型にはめるような関わりが顕著である」
「それにとらわれるあまり、子供自身を伸ばすよりも、手段を選ばず子供の姿を大人から見て適応的な姿にするということに終始してしまう」
というようなことを述べました。
多くの新人保育士が、保育園に初めて入って「アレ?」と感じることの原点はほぼここにあります。
そこの保育園は、この上記のことを一生懸命やろうとしてしまっているわけです。
また、人員に余裕がなかったりして運営に余裕のない園は、良心的にこのことを一生懸命しようとしているよりも、むしろ「大人の望む行動をとってくれる子」「手のかからない子供」でいてもらわなければ、仕事が回らないという必要に迫られてというようなところもあります。
こういうレベルにありますと、子供への関わりが良かれという気持ちからの「する・させる」というものでなく、保育士の方にも余裕がないのでさらに冷淡さも加わっていたりします。
『保育園の子供と幼稚園の子供 Vol.2 「信頼感」を持ってきてくれる子供』の記事で書いたように、かつてはそのような保育士が上からの関わりだけで、「○○すべき・○○すべきでない」ということを子供に仕込んでいくことが可能であり、それだけで事足りていました。(中にはそうでないケースももちろんありましたが、比較的には可能だったのでしょう。でも昔だってよくよく見たら同様の問題はあったのだけど)
しかし、現代では保育の長時間化、家庭での養育力の低下、父母(特に母親の)就労時間の増大そこからくる忙しさ余裕のなさなどなどにより、今の子供には「○○すべき・○○すべきでない」ということをたくさん課していけるほどの余裕というものがなくなってきています。
また、保育士が不勉強だったり無自覚な保育をしていると、能力に合わない「○○すべき」ということを要求していくという不毛なことも起こります。
上記の2歳児に朝の会を強要するというのも、そういうもののひとつでしょう。
・2歳児が集中して話を聞ける、集団行動に参加できる持続時間というのはどのくらいか?
・社会性の育つ3歳以前であるのに、そもそもそれをする必要性は?
・個々の状況の見極め、配慮は?
・クラスの2歳児全員が本当にそれが可能な発達段階にいたっているのか?到達していない子にも強要するのはなぜか?
・2歳児ならば個人カリキュラムというものがあるのに、十把一絡げの行動を要求するのはなんのため?個人カリキュラムを立てる必要性の意味合いを理解しているのか?
はっきり言ってしまえば、2歳児にしかもこの4月の段階からそれを要求するのはほとんど意味のないことです。
むしろ、4月で新入児がいたり、環境が変わって子供が慣れていない・不安になっている状況というのを考えたら、そんなことよりももっと大切なことがほかにもあります。
しかし、そこの保育士は、世間一般で流布するような「話を聞けるべき」「集団に足並みを揃え、じままな行動をすべきでない」「最後まで座っているべき」「大人に従うべき」ということなどから、なんの自省もなく子供に課してしまいます。
そしてそのこと自体が目的となってしまい、子供は変わっても毎年毎年繰り返し続けていくということをしてしまいます。
まだ、話を聞けた子を褒めるなどのプラスの部分に着目して子供に関わっているのならば、まあ発達が進んでいてそれらができる子にとっては、認めてもらえるという機会ともなりえるでしょう。
しかし、従えない子を注意したり、引き戻したりすることを中心にしていってしまったら、否定やダメだしを多くして子供の自己肯定感を減らし、保育士との信頼関係を減らし、子供を伸ばすよりも、その反対へと作用してしまうでしょう。
たいていは、前者ではなく後者の関わりとなってしまいます。
それは、最初に述べたように、「大人から見て適応的な行動をする子に育てる」ということが目的として根底にはあるからです。
こういった関わりを子供に対して保育士が徹底してやっていると、「適応的でない子供」というのを否定的に捉えることとなっていきます。
なぜならそもそもの目的である、↑の「大人から見て適応的な行動を望む」という目的に合致しないからです。
保育の職場に余裕がないと、これは簡単に冷たい対応を引き起こすようになります。
この「子供は○○すべき。○○すべきでない」というところから出発し、保育士の子供への関わりが「いかに子供に○○をうまくさせるか」というところに着目するようになると、こういうのは生活のすべての局面ででてきます。
・食事を残さず食べるべき。残すべきでない
・仲良く遊ぶべき、ケンカはすべきでない
・ものの貸し借りをできるべき、貸さないのはよくない
「○○すべき」で子供を見ていると、「○○しない子は悪い」ということになりかねません。
そこでは好き嫌いがあったり、食べきれなかったり、他児とトラブルを起こしたり、ものを貸せなかったり、横取りしたりする子は「悪い子」となります。
もちろんそれをしている人たちは「悪い子」などという言葉は使っていませんが、本質的には「否定すべき存在」と考えていることに変わりはありません。
なので、「叱ったり」「怒ったり」などの威圧的な態度を保育士が強化することで、子供にそれをしないよう求めることとなります。
新人さんが徹底して求められ、「アレ?」と感じることもここに多いのではないでしょうか。
優しく暖かく関わるものだと思っていたのに、叱ったり・怒ったりすることばかりを先輩から要求されます。
しかし、それをしても子供は心から従っているようには感じられません。
その感覚は間違っていないと思います。
そのような保育の仕方のところでその保育を身につけてきた保育士は、子供を従わせるスキルばかりが高くなります。
怒ったり、叱ったり、または怒る叱るをしなくても子供に言うことを聞かせる威圧的な態度を普段から醸し出したり、またはほかの方向性で「やさしさ風味」の関わりや、ごまかし、誘導、釣り、疎外感を利用した子供の動かし方 などなど、そのような「子供を大人から見て適応的な行動をさせるためのスキル」ばかりが高いのです。
こういうスキルをたくさん鍛えたら、大勢の子を効率よく言う事を聞かせ、一定程度の時間預かるということは上手にできるようにはなるかもしれません。
でも、それは「子育て」ではありません。どんなにうまくても「子守り」でしかないのです。
なぜなら子供そのものを伸ばしているわけではないから。
そういった子供への関わりは「とりあえず今だけ大人に従う子」を作っているにすぎません。
なかにはそのまま順応する子というのもいるかもしれませんが、その反動を家庭に返ってからだしたり、いまは溜め込んで精神的肉体的に成長してから大人に反発するという形で出す子もいるでしょう。
しばしば保育士をして子供を育てる仕事の経験がたくさんあるにも関わらず、いざ我が子の子育てをしたときにちっともうまくいかないという人がいます。
そういう人の中には、こういった子供の行動だけを大人のいいようにすることばかりがうまくなり、それでもって自分の子供へと接しているからという人もいることでしょう。
子供を育てるというのは、「大人の望む行動をする子」にするだけでは全然足りないのです。
心を育てる必要があるからです。
保育の現場において、子供が大人からみて望ましい行動をとらないときは、そこを叱ったり怒ったり、ごまかしなどを使って無理やり行動だけ取らせる前に、
「なぜ、その子はそういう行動をするのか」という視点を持たなければなりません。
これが「援助の視点」です。
例えば、他児を頻繁に叩く子がいたとしたら、それを叱ってやめさせるのは大人のとる行動としては簡単です。
でも、なにかやむにやまれぬ原因があってしているのだったら、それだけでは解決しません。
そして子供の不適応な姿というのは、ほとんどの場合なにか必然的な理由があるからです。
そこで「なぜその行動をするのか?」です。
その子はお母さんが子育てに無関心でネグレクト気味になり、心が満たされていないためにそのような他児を叩くという行動がでているのかもしれません。
ならば、その子をしっかりと保育士が暖かく見守ったり、積極的によい関わりをしたりすることで心を満たし、安定させそれにより、結果的に他児を叩くことをやめさせるというアプローチが必要になるわけです。
また、保護者へもそのケースにおいて最適と思われる関わりを模索していくというような方向性のアプローチもそこからでてきます。
子供の大人から見ての行動だけを望み、「悪い子」として捉える保育をしているところは、平気で家庭に対して子供を非難するようなことを言います。
叱るだけ、怒るだけで、子供の不適応な行動をなくさせるというのは、「私の前ではさせない」というだけで、子供を伸ばすことにはなにもつながらないのです。
預かるだけの子守りならばそれでもいいかもしれませんが、本当の「保育」を身につけようとしたら、それでは全然足りないのです。
つづく。