先日、いじめを苦にして自殺した子供の家族が、市と学校の責任を問うて起こした裁判で勝訴し約7000万円の損害賠償判決がでた。しかし、市と学校側はそれを不服とし控訴するつもりであるというニュースがありました。
数々のいじめ事件の報道をみていて当局や学校の姿勢に感じるのは、とにかく責任を回避しようと数々の手管を弄するその不誠実な態度です。
お子さんのご家族は、自分の子供がいじめの被害にあっているという状況を、学校側は知らなかった、もしくは知っていても問題視しなかった、さらには問題視していたのに適切な対応・最低限必要な対応すらとらなかった、このような本来の責任を全うせずに子供を守ってくれなかった学校に対しての怒りや、責任をとってももらいたいという痛切な思いなどがあることでしょう。
<いじめっ子と学校の利害が一致する悲しい現実>
最初から当局や学校が誠実に対応していたのならば、裁判など起こさなかったというケースも多々あるのではないかと思われます。
しかし、そこに誠実さがない、責任を果たそうとも、取ろうとしないという印象しか受けないから裁判ということにならざるを得ないのでしょう。
自分の子供の命と引き換えに7000万円もらったとしても、それで納得できるものではありません。その10倍でも100倍でも同様です。
しかし、市と学校はそれにすら不満だという。
つまり、「子供の命を失った責任は自分には少しもないのだ」と言わんとしているわけです。
このようになると、学校側は「いじめの事実はなかったのだ」「あれはいじめではなく子供同士の許容範囲の関わりだったのだ」そのような主張になっています。
つまり、学校といじめっ子の利害は一致して、その気はなくとも結果としては学校といじめっ子はタッグを組むことになります。
過去のいじめ関係の事件を見ると、このようにいじめっ子と学校の利害は完全一致、被害者は泣き寝入り、というケースのなんと多いことか・・。
挙げ句の果ては、政治家やえらいおじさんたちがそれに便乗して「いじめられる側にも問題があるのだ」などと援護射撃をするようなこともありました。
このような体質でいいのでしょうか。
僕はいいわけないと思います。
こういうことで得をするのは誰なのでしょう。
おそらく本来責任を取らなければならないポストに立っている関係者たちだと思われます。
少なくとも、子供や一般市民ではありません。
現政権はいじめ問題の多発(実際は表面化にすぎないが)などを受けて、教育改革を掲げると言っていますが、その実態は教育を政治に取り込む方向に持っていこうとしていることが明らかです。
例えば、このいじめ問題のネックになってくるのが「教育委員会制度」ですが、これの掌握をさらに強めようとしています。
現在の教育委員会が形骸化し、このようにことにあたって責任を果たすつもりも、取るつもりもないただの官僚組織になってしまったのは、実は教育委員会に対する国・文科省(文部省時代含む)の支配を強めてきた結果です。
むしろ、僕は教育委員会を市民の手に返す、つまり「教育を市民の手に返す」ことが、このようなおかしくなってしまった体質を改善するために必要な唯一の策ではないかと思います。
「7000万円であなたのお子さんの命を売ってください。いや、やっぱりもうちょっと値切らせてもらいますわ」
そのようなことを恥も外聞もなくできる市や学校・教育委員会、そこにいる人たちというのが僕には恐ろしくてたまりません。