続『目が合わない、受容してこなかった』(1歳9ヶ月)むにむにさんスレ - 2014.08.17 Sun
相談 目が合わない、受容してこなかった(1歳9ヶ月)
こちらに上げた相談記事に対しての、むにむにさんの再コメント(↑の記事のコメント最上段)と、その他にそれ以前もうひとつの相談コメが投稿されていました。
最新のコメントでは返信はいいとのことですが、おそらく同様の状況になっている人は多数いると思いますので、その相談に答えつつこういったケースについて掘り下げてみたいと思います。
ただ例によって、推測を一般論で補って書いていきますので必ずしも相談内容にうまく適していないかもしれません。そのあたりはご了承ください。
こちらに上げた相談記事に対しての、むにむにさんの再コメント(↑の記事のコメント最上段)と、その他にそれ以前もうひとつの相談コメが投稿されていました。
最新のコメントでは返信はいいとのことですが、おそらく同様の状況になっている人は多数いると思いますので、その相談に答えつつこういったケースについて掘り下げてみたいと思います。
ただ例によって、推測を一般論で補って書いていきますので必ずしも相談内容にうまく適していないかもしれません。そのあたりはご了承ください。
↑記事への再コメントは転載省略。
以下は、先に寄せられていた31日のコメントの転載(↑の記事は7月20日のコメントへの返信、間をあけて相談がふたつあったため)
最近、息子の成長期がはじまり
自分の思うようりならないと手が付けられないくらい泣き叫びます。
その際、私の顔をみると余計に泣いてしまうため
いつも息子の好きなぬいぐるみ(困ったときにしか登場しません)を通して
息子と話をするという形をとっています。
その際、私はソファーや壁に姿を隠し
ぬいぐるみが『○○くんの気持ち、わかるよー。でも、ここは危険なところだから
登るのはやめよう』と話しかけをしています。
息子が泣き止んだところで『わかってくれてありがとう』とぬいぐるみから感謝の気持ちを伝えたところで
私も登場してぬいぐるみも交えて遊ぶという流れが
手に負えなくなった泣きの際にとる手段なのですが
最近では、そのぬいぐるみが出てきた時点で
泣き止み、遊ぶという感じで大切なことを伝えられずにご機嫌をとるような流れができてしまっております。
これは『ごまかし』になってしまっているのでしょうか。
また、こちらのブログにある『おしおき』にあるような
ちょっとしたミステイク、間違え、失敗といった
おとーちゃんのボーダーラインのようなものがあればご教示頂きたいです。
こういう対応が「ごまかし」になってしまっているか?
ちょっとした失敗を気にせずに過ごしていい基準はどこか?
という質問なのですが、このふたつの質問に対する答えを僕が答えたとしても、それが子育てを安定化させる助けにはならないだろうと思います。
なぜなら、そういった「子育ての正解」というものを知って、それに子どもを当てはめようとしても必ずしもそれがプラスにはならないからです。
例えば、↑これは確かに「ごまかし」なってきてしまっています。
でも、これが「ごまかしだからすべきではない」という『正解』に子どもを合わせようとして、こういったごまかし的な関わりをやめたからといって、それで子育てが安定化、子どもの姿が関わりやすいものになるわけではありません。
相談者さんの現在の段階では、この「正解」を実行したとしてもそれを下支えするいくつもの前提条件になることがまだ未達成であるからです。
現状 → 〇〇 → 〇〇 → 〇〇 → ごまかさないで済む状態
(〇〇の部分は例えです。特になにか想定しているわけでも、その数が3つとも限りません)
現在の状況から、いくつかの〇〇をすっとばして、「正解」であるところの「ごまかしをしない」ということだけを実行してみても、それは現状ではとうていできっこないことだし、むしろ大変さを募らせてしまう結果にしかならないだろうからです。
『相談 目が合わない、受容してこなかった(1歳9ヶ月)』(以降、前記事 と表記) この記事でとにかく現段階は「受容」の貯金だけをまず目指していいこうということを伝えましたので、いまはむにむにさんもそのことはおわかりだと思います。
これまでむにむにさんの子育てが難しくなっていた原因のひとつはここにあります。
子どもに「正解の姿」を求める余り、その「正解の姿」、「あるべき子どもの姿」、「世間で望まれるような子供の姿」とはかけ離れていく実際の子供の姿とのギャップにより、子育てのストレスばかりが増大してしまっていたのです。
このことは、現代の子育てをする人の多くに共通する問題です。
正しい子供の姿を作らなければならないと感じている親のあせりや、なまの子供の姿についての知識や経験がないのに、理想像ばかりにとらわれてしまい子育てが迷走してしまうこと、まじめに一生懸命に子育てしようとするあまりに余裕がなくなってしまう子育てなどから、結果ばかりを望み、子育ての本当の基礎の部分が見えなくなってしまうのです。
こういった子育ての落とし穴にはまってしまう人はとても多いです。
僕が子育ての第一の目標は「かわいい子供にしよう」ですよと何度かいっているのは、ここに手当をするためです。
↓関連記事
http://hoikushipapa.blog112.fc2.com/blog-entry-536.html
http://hoikushipapa.blog112.fc2.com/blog-entry-612.html
正解を出さなければと考えるあまりに基礎をすっとばして、子供をとても難しい姿にしてしまうひとはおおいです。
子育ては正解を大人が作り出すことではありません。
基礎の部分を固めていけば、そういったことは後からついてくる性質のものなのです。
むにむにさんのケースではその基礎というのが「受容」でした。
前記事ではとにかく「受容」を積み重ねることで、とりあえず基礎の第一歩を固めることを伝えています。
「ごまかし」も「釣り」も「無視」も無理にやめないでいいとも伝えています。
いま現在ごまかしやつりや無視があってぎりぎりのラインで子供との生活が成り立っています。
「ごまかし」も「釣り」も「無視」もすべきではないことではあるでしょう。しかし、それらがすべきでないことだからといって、それをしてはならないと縛ってしまったら、現在のぎりぎりの安定も崩れてとても「受容」を積み重ねるどころではなくなってしまいます。
「受容」の貯金ができてくれば、そのあとに「ごまかし」も「釣り」も「無視」もしないで済むような瞬間というのが少しずつかもしれないけれども持ててくるはずです。
前記事では、「受容」以外のアドバイスにはあまり触れていませんが、本当はもうひとつ「イニシアチブ」の問題があります。
>泣き止み、遊ぶという感じで大切なことを伝えられずにご機嫌をとるような流れができてしまっております。
相談者さん自身も気づいているように、↑の部分です。
現状では、子供が「受容」をしてもらうかわりに、親を振り回したり「いいなり」にさせることでその代用としてしまっています。
それは本当はいいことではありません。
ですが、それがいいことではないからといって「受容」の貯金が貯まる以前にそれをするまいと大人が考えてしまうと、子供は「受容」の代わりとしているものまでが奪われるので、さらに行動が荒れたり壁に頭をぶつけたりする自傷行為が激しくなりかねません。
それでは子育ての安定化が遠のいてしまいます。
なので、ここでも「正解の姿」は求めてはいけないのです。
「受容」をすることでふたつの効果が生まれます。
なにかというと、もちろんひとつは子供自身の「受容」=「満たされる」ということです。
もうひとつは、大人の方に「子供をしっかり受け止めてきた」という事実から来る「自信」です。
子供を満たす貯金をするとともに、大人の方にはこの自信をたくさん貯めて欲しかったのです。
なぜかというと、この自信がたくさんたまることによって、大人の方が「イニシアチブ」を持てるようになるのです。
たとえば、子供が困るような要求をしてきたときに、「NO」と言えます。
子供がすべきでない行動ととったときに、「怒る」ことができます。
「叱らなくていい子育て」のところで僕が「叱ること、怒ることなどは子供の否定なのですべきでない」と言っているじゃないかと気がつく人もいるかもしれません。
しかしこの場合は当てはまりません。
なぜなら、ここでの「NO」も「怒る」ことも、許容すべきでない子供の行為に対して毅然と「否定」をしなければならないことだからです。
大人が「それはすべきではない」と思っていることに対して、子供を腫れ物に触るように触れることを避けて、「NO」といえなくなってしまったら、それは「いいなり」です。
それではけして子育ては安定化していけません。
子供が上で大人が下にいる状態だからです。
大人は子供を導いていかなければならないものです。なのに「いいなり」であったらそれはいつまでたってもできません。
ですから、「怒るべきときに怒る」「NOというべきときにNO」といえるということは非常に重要なことなのです。
世間で言う「叱らない子育て」で失敗している人はここを勘違いしてしまっている人が多いです。
相談者さんが、これまで「いいなり」と「無視」を使って子供に対してきてしまっていましたが、実はこの関わり方では「強い関わり」と「弱い関わり」をするべきときが逆だったのです。
「いいなり」という弱い関わりになってしまっているところで、毅然とNOと言うような「強い関わり」をするべきで、
「無視」という強い関わりをしていたところでは、「受容」などの「弱い関わり」をした方がよかったのです。
でも、これもあくまで「正解」であって、最初の段階でこれをしなさいと言っても逆効果になったり、その努力は途中で破綻してしまったはずです。
大人と子供のふたつの貯金がまだ貯まっていないからです。
前記事では結局のところ「受容」しましょうということしか言っていません。
それだけではおそらくすべての問題は解決はしないでしょう。
でも、それがなければ結局のところなにもはじまらないのです。
まじめな人、正解を求めている人に他のことも要求してしまうと、それも一生懸命にしなければならないと思ってしまいます。
それでは貯金がなかなか貯まらないので、返って前に進めません。
「いいなり」になったりする「弱い大人」の傾向のある人に、「受容」ばかりを強調すると、甘やかしになったり過保護になったり、依存を助長したりというデメリットもあります。
でも、「受容」や「満たす」そこから生まれる「信頼関係」のない状態に比べたら、過保護や甘やかしなどはあとからどうとでもできる問題に過ぎません。
ましてや自傷行為まで出ているのですから、なんとか現段階からは早めに脱する必要がありました。
なので「受容」を第一にすることで良いだろうと判断しました。
「無視」も本当は避けたいところです。「無視」は子供の問題行動を大きく助長してしまうからです。
でも「無視するな」といっても問題は解決しません。
それよりも「受容」をコツコツと積み重ねさえすれば、子供に「満たす」が形成されて結果的には無視をする必要はだんだんと減ってくるでしょう。
だから、当事者に「無視はイカン」ということはさして意味が無いのです。むしろ自分を責めることにしかなりません。返って受容的態度をもつための心の余裕を奪います。
「受容」ができて子供に「満たす」の貯金が貯まってくれば、精神的なことだけでなく、着替えやお風呂などの生活の切り替えのときがすんなりといくようになったり、昼寝に入れるようになったり、またその昼寝のできる時間、夜の入眠がしやすくなったりという副次的な効果があとからついてきます。
それが養育者の負担を軽くしていってくれるので、大人の方にも余裕ができ、その余裕がさらに受容をしやすくするという好循環を生み出します。
「受容」や「満たす」がたまることにより、「信頼関係」が厚くなります。
その信頼関係が子供へのさまざまなアプローチを、子供が受け入れやすくなります。
このことも養育者の負担を軽くします。
現在「じーー」や「いいきかせ」がうまく通用しないということの原因はここです。なので「じー」や「いいきかせ」は今の段階ではしても逆効果です。
「信頼関係」の構築が進んで、子育てが安定化したあとにだんだんとできるようにはなるでしょう。
でも、本当にいいのは「じーー」や「いいきかせ」が通じる状況が終点ではなく、そうしなければならないことをそもそも子供が自分からしないという「大人の気持ちに寄り添った状態」を目指すことです。
ですがこれも目指して作り出す「正解」ではなく、「受容」、満たす、信頼関係のあとに勝手についてくることがらです。
中には「受容」ということを、「いいなり」や「甘やかし」と混同してそれらのメリハリをうまくつけられない人もいます。
それではさして満たされないので、気をつけて欲しいところです。
「イニシアチブ」のところで言い忘れていました。
大人がイニシアチブを持てない状態が子供の心理状態に何を引き起こすかというと、これが「混乱」なのです。
大人が適切にあるべき姿を指し示して、導いてあげないことで子供はその状況に「混乱」を覚え、イライラしてしまいます。
このイライラが、キーキーした関わりにくい姿の原因のひとつとなったり、大人を叩いたりする攻撃的な姿勢を示す原因となったりします。
「放任」も同様に子供にこの「混乱」をもたらすことがあります。
どういう態度をとったら大人が好意的に受け止めてくれて、どういう態度を取ったら大人は嫌がるのかということが明確に身につけられなくなってしまうのです。
すると、そのもどかしさから子供は大きなイライラを感じます。子供自身良い関わり方を身につけられないので、それはネガティブ行動として出てきます。
「1~2歳の子供が親を叩いてくる」ということをしばしば相談で受けます。
それらの原因にこの、イニシアチブを持てない大人の姿がある場合があります。
なので、「いいなり」や、「子供の意思を尊重していつまでも待ちます」のような大人の姿勢は、ときに子供の姿、子育てを難しいものとしかねません。
「いいなり」になったりするくらいならば、「怒ったり」「叱ったり」といった「NO」を明確に伝えられる親の方が子育てが安定化できることがあるのはこのためです。
31日のコメントに対する返信、および前記事の補足でした。
以下、再コメントに対する返信。
>息子はよく絵本を読んでもらいたいようで 私のところに持ってきますがたいてい、途中まで読んだ段階で他の絵本をまた探しにいき『今度はこっち』とばかりに持ってきます。
これはよくある姿です。
子供がこれにより何を求めているかというと、本の内容ではないのです。
「本を読むことを受け入れてもらうことで、自分を受け入れてもらっているという再確認」なのです。
なので、読んでもらいさえすればいいので内容には実のところさして興味はありません。でも、途中でやめるということは「受け入れてもらえていない」と取れることなので、抵抗するわけです。
本当はこれはまだ「素直な甘え」までは到達していません。
「理由をつけなければ甘えられない」状態です。
大人の「受容的態度」に信頼感が持てるようになれば、だんだんと素直な甘えになっていけるでしょう。
目指すのはその素直な甘えですが、現在の理由をつけての甘えを否定する必要もありません。
現状で、お子さんがすりあわせを行って得た落としどころがそこなのでしょう。いまは子供の方もいろいろやってどこまで受け入れてくれるのかを試しているのでしょうね。
ただ、様子を見て「絵本じゃなくても抱っこしてあげるからおいでー」などと素直な甘えに大人が手助けして変えてあげてもいいかもしれません。無理強いする必要はありません、試行錯誤してみればいいところです。
遊びに関しては後からついてくることです。「できる」を求めなくていいでしょう。
絵本の読み方も型にとらわれることはないです。
いろいろ試してみて、子供が満足できるものを見つけてあげてもいいことです。
一生懸命に子供に「合わせよう合わせよう」とすることも、子供の機嫌を取るように考えてしまうことも、「腫れ物扱い」になってしまうことも、子供に素直な甘え方をだせなくしてしまったり、依存心を高めてしまうということもあります。
無理はせずにだんだんとむにむにさんの自然体で関わっていけるようにするのがいいと思いますよ。
「受容」をためて、自分にも自信をためることができたら、すべきでない、してほしくないことをしたときに、「ごまかし」ではなく、毅然と怒るでも叱るでもしてみてください。
それで怒られたことが悲しくて「エーン、エーン」と泣けるようになったら、そのときが信頼関係が戻ってきたということです。
もし、そのとき子供が反発して叩いてきたりしたとして、そのときに大人がどうしたらいいか途方に暮れてしまったりしたら、イニシアチブがまた子供に戻ってしまいます。
子供の感情に負けないで「叩くんじゃない」と毅然と「NO」を再度つきつけて、そこで「エーン、エーン」と泣けるようになったらばそれでもいいです。
「受容」が足りておらず、自分が受け入れられているということに自信の無い子は「エーン」とは泣けずにずっと抵抗を示さなければなりません。
「受容」をすることが怒られることを受け入れられる子供にできるのです。
子供が泣くことを恐れる必要はありません。泣くことは子供の言葉であり、感情の表現手段です。
「エーン」と素直に子供らしく泣けたのならば、「そういう素直なあなたが好きだよ、ちゃんとお母さんの気持ちがわかったんだね」と抱きしめてあげればいいでしょう。
子供が泣いたからといって親が謝る必要はありません。
それでは何が正しかったのか子供は混乱してしまいかねません。
大人と子供の間に信頼関係がきちんと築かれさえすれば、叱られたり怒られたからといってその関係が揺らぐものではありません。なんといっても自分のおなかを痛めて生まれた子どもなのですから、そこには自信を持ちましょう。
そういうわけで、「受容」のあとに子供の育ちのなにかが見えてきますよ。
以下は、先に寄せられていた31日のコメントの転載(↑の記事は7月20日のコメントへの返信、間をあけて相談がふたつあったため)
最近、息子の成長期がはじまり
自分の思うようりならないと手が付けられないくらい泣き叫びます。
その際、私の顔をみると余計に泣いてしまうため
いつも息子の好きなぬいぐるみ(困ったときにしか登場しません)を通して
息子と話をするという形をとっています。
その際、私はソファーや壁に姿を隠し
ぬいぐるみが『○○くんの気持ち、わかるよー。でも、ここは危険なところだから
登るのはやめよう』と話しかけをしています。
息子が泣き止んだところで『わかってくれてありがとう』とぬいぐるみから感謝の気持ちを伝えたところで
私も登場してぬいぐるみも交えて遊ぶという流れが
手に負えなくなった泣きの際にとる手段なのですが
最近では、そのぬいぐるみが出てきた時点で
泣き止み、遊ぶという感じで大切なことを伝えられずにご機嫌をとるような流れができてしまっております。
これは『ごまかし』になってしまっているのでしょうか。
また、こちらのブログにある『おしおき』にあるような
ちょっとしたミステイク、間違え、失敗といった
おとーちゃんのボーダーラインのようなものがあればご教示頂きたいです。
こういう対応が「ごまかし」になってしまっているか?
ちょっとした失敗を気にせずに過ごしていい基準はどこか?
という質問なのですが、このふたつの質問に対する答えを僕が答えたとしても、それが子育てを安定化させる助けにはならないだろうと思います。
なぜなら、そういった「子育ての正解」というものを知って、それに子どもを当てはめようとしても必ずしもそれがプラスにはならないからです。
例えば、↑これは確かに「ごまかし」なってきてしまっています。
でも、これが「ごまかしだからすべきではない」という『正解』に子どもを合わせようとして、こういったごまかし的な関わりをやめたからといって、それで子育てが安定化、子どもの姿が関わりやすいものになるわけではありません。
相談者さんの現在の段階では、この「正解」を実行したとしてもそれを下支えするいくつもの前提条件になることがまだ未達成であるからです。
現状 → 〇〇 → 〇〇 → 〇〇 → ごまかさないで済む状態
(〇〇の部分は例えです。特になにか想定しているわけでも、その数が3つとも限りません)
現在の状況から、いくつかの〇〇をすっとばして、「正解」であるところの「ごまかしをしない」ということだけを実行してみても、それは現状ではとうていできっこないことだし、むしろ大変さを募らせてしまう結果にしかならないだろうからです。
『相談 目が合わない、受容してこなかった(1歳9ヶ月)』(以降、前記事 と表記) この記事でとにかく現段階は「受容」の貯金だけをまず目指していいこうということを伝えましたので、いまはむにむにさんもそのことはおわかりだと思います。
これまでむにむにさんの子育てが難しくなっていた原因のひとつはここにあります。
子どもに「正解の姿」を求める余り、その「正解の姿」、「あるべき子どもの姿」、「世間で望まれるような子供の姿」とはかけ離れていく実際の子供の姿とのギャップにより、子育てのストレスばかりが増大してしまっていたのです。
このことは、現代の子育てをする人の多くに共通する問題です。
正しい子供の姿を作らなければならないと感じている親のあせりや、なまの子供の姿についての知識や経験がないのに、理想像ばかりにとらわれてしまい子育てが迷走してしまうこと、まじめに一生懸命に子育てしようとするあまりに余裕がなくなってしまう子育てなどから、結果ばかりを望み、子育ての本当の基礎の部分が見えなくなってしまうのです。
こういった子育ての落とし穴にはまってしまう人はとても多いです。
僕が子育ての第一の目標は「かわいい子供にしよう」ですよと何度かいっているのは、ここに手当をするためです。
↓関連記事
http://hoikushipapa.blog112.fc2.com/blog-entry-536.html
http://hoikushipapa.blog112.fc2.com/blog-entry-612.html
正解を出さなければと考えるあまりに基礎をすっとばして、子供をとても難しい姿にしてしまうひとはおおいです。
子育ては正解を大人が作り出すことではありません。
基礎の部分を固めていけば、そういったことは後からついてくる性質のものなのです。
むにむにさんのケースではその基礎というのが「受容」でした。
前記事ではとにかく「受容」を積み重ねることで、とりあえず基礎の第一歩を固めることを伝えています。
「ごまかし」も「釣り」も「無視」も無理にやめないでいいとも伝えています。
いま現在ごまかしやつりや無視があってぎりぎりのラインで子供との生活が成り立っています。
「ごまかし」も「釣り」も「無視」もすべきではないことではあるでしょう。しかし、それらがすべきでないことだからといって、それをしてはならないと縛ってしまったら、現在のぎりぎりの安定も崩れてとても「受容」を積み重ねるどころではなくなってしまいます。
「受容」の貯金ができてくれば、そのあとに「ごまかし」も「釣り」も「無視」もしないで済むような瞬間というのが少しずつかもしれないけれども持ててくるはずです。
前記事では、「受容」以外のアドバイスにはあまり触れていませんが、本当はもうひとつ「イニシアチブ」の問題があります。
>泣き止み、遊ぶという感じで大切なことを伝えられずにご機嫌をとるような流れができてしまっております。
相談者さん自身も気づいているように、↑の部分です。
現状では、子供が「受容」をしてもらうかわりに、親を振り回したり「いいなり」にさせることでその代用としてしまっています。
それは本当はいいことではありません。
ですが、それがいいことではないからといって「受容」の貯金が貯まる以前にそれをするまいと大人が考えてしまうと、子供は「受容」の代わりとしているものまでが奪われるので、さらに行動が荒れたり壁に頭をぶつけたりする自傷行為が激しくなりかねません。
それでは子育ての安定化が遠のいてしまいます。
なので、ここでも「正解の姿」は求めてはいけないのです。
「受容」をすることでふたつの効果が生まれます。
なにかというと、もちろんひとつは子供自身の「受容」=「満たされる」ということです。
もうひとつは、大人の方に「子供をしっかり受け止めてきた」という事実から来る「自信」です。
子供を満たす貯金をするとともに、大人の方にはこの自信をたくさん貯めて欲しかったのです。
なぜかというと、この自信がたくさんたまることによって、大人の方が「イニシアチブ」を持てるようになるのです。
たとえば、子供が困るような要求をしてきたときに、「NO」と言えます。
子供がすべきでない行動ととったときに、「怒る」ことができます。
「叱らなくていい子育て」のところで僕が「叱ること、怒ることなどは子供の否定なのですべきでない」と言っているじゃないかと気がつく人もいるかもしれません。
しかしこの場合は当てはまりません。
なぜなら、ここでの「NO」も「怒る」ことも、許容すべきでない子供の行為に対して毅然と「否定」をしなければならないことだからです。
大人が「それはすべきではない」と思っていることに対して、子供を腫れ物に触るように触れることを避けて、「NO」といえなくなってしまったら、それは「いいなり」です。
それではけして子育ては安定化していけません。
子供が上で大人が下にいる状態だからです。
大人は子供を導いていかなければならないものです。なのに「いいなり」であったらそれはいつまでたってもできません。
ですから、「怒るべきときに怒る」「NOというべきときにNO」といえるということは非常に重要なことなのです。
世間で言う「叱らない子育て」で失敗している人はここを勘違いしてしまっている人が多いです。
相談者さんが、これまで「いいなり」と「無視」を使って子供に対してきてしまっていましたが、実はこの関わり方では「強い関わり」と「弱い関わり」をするべきときが逆だったのです。
「いいなり」という弱い関わりになってしまっているところで、毅然とNOと言うような「強い関わり」をするべきで、
「無視」という強い関わりをしていたところでは、「受容」などの「弱い関わり」をした方がよかったのです。
でも、これもあくまで「正解」であって、最初の段階でこれをしなさいと言っても逆効果になったり、その努力は途中で破綻してしまったはずです。
大人と子供のふたつの貯金がまだ貯まっていないからです。
前記事では結局のところ「受容」しましょうということしか言っていません。
それだけではおそらくすべての問題は解決はしないでしょう。
でも、それがなければ結局のところなにもはじまらないのです。
まじめな人、正解を求めている人に他のことも要求してしまうと、それも一生懸命にしなければならないと思ってしまいます。
それでは貯金がなかなか貯まらないので、返って前に進めません。
「いいなり」になったりする「弱い大人」の傾向のある人に、「受容」ばかりを強調すると、甘やかしになったり過保護になったり、依存を助長したりというデメリットもあります。
でも、「受容」や「満たす」そこから生まれる「信頼関係」のない状態に比べたら、過保護や甘やかしなどはあとからどうとでもできる問題に過ぎません。
ましてや自傷行為まで出ているのですから、なんとか現段階からは早めに脱する必要がありました。
なので「受容」を第一にすることで良いだろうと判断しました。
「無視」も本当は避けたいところです。「無視」は子供の問題行動を大きく助長してしまうからです。
でも「無視するな」といっても問題は解決しません。
それよりも「受容」をコツコツと積み重ねさえすれば、子供に「満たす」が形成されて結果的には無視をする必要はだんだんと減ってくるでしょう。
だから、当事者に「無視はイカン」ということはさして意味が無いのです。むしろ自分を責めることにしかなりません。返って受容的態度をもつための心の余裕を奪います。
「受容」ができて子供に「満たす」の貯金が貯まってくれば、精神的なことだけでなく、着替えやお風呂などの生活の切り替えのときがすんなりといくようになったり、昼寝に入れるようになったり、またその昼寝のできる時間、夜の入眠がしやすくなったりという副次的な効果があとからついてきます。
それが養育者の負担を軽くしていってくれるので、大人の方にも余裕ができ、その余裕がさらに受容をしやすくするという好循環を生み出します。
「受容」や「満たす」がたまることにより、「信頼関係」が厚くなります。
その信頼関係が子供へのさまざまなアプローチを、子供が受け入れやすくなります。
このことも養育者の負担を軽くします。
現在「じーー」や「いいきかせ」がうまく通用しないということの原因はここです。なので「じー」や「いいきかせ」は今の段階ではしても逆効果です。
「信頼関係」の構築が進んで、子育てが安定化したあとにだんだんとできるようにはなるでしょう。
でも、本当にいいのは「じーー」や「いいきかせ」が通じる状況が終点ではなく、そうしなければならないことをそもそも子供が自分からしないという「大人の気持ちに寄り添った状態」を目指すことです。
ですがこれも目指して作り出す「正解」ではなく、「受容」、満たす、信頼関係のあとに勝手についてくることがらです。
中には「受容」ということを、「いいなり」や「甘やかし」と混同してそれらのメリハリをうまくつけられない人もいます。
それではさして満たされないので、気をつけて欲しいところです。
「イニシアチブ」のところで言い忘れていました。
大人がイニシアチブを持てない状態が子供の心理状態に何を引き起こすかというと、これが「混乱」なのです。
大人が適切にあるべき姿を指し示して、導いてあげないことで子供はその状況に「混乱」を覚え、イライラしてしまいます。
このイライラが、キーキーした関わりにくい姿の原因のひとつとなったり、大人を叩いたりする攻撃的な姿勢を示す原因となったりします。
「放任」も同様に子供にこの「混乱」をもたらすことがあります。
どういう態度をとったら大人が好意的に受け止めてくれて、どういう態度を取ったら大人は嫌がるのかということが明確に身につけられなくなってしまうのです。
すると、そのもどかしさから子供は大きなイライラを感じます。子供自身良い関わり方を身につけられないので、それはネガティブ行動として出てきます。
「1~2歳の子供が親を叩いてくる」ということをしばしば相談で受けます。
それらの原因にこの、イニシアチブを持てない大人の姿がある場合があります。
なので、「いいなり」や、「子供の意思を尊重していつまでも待ちます」のような大人の姿勢は、ときに子供の姿、子育てを難しいものとしかねません。
「いいなり」になったりするくらいならば、「怒ったり」「叱ったり」といった「NO」を明確に伝えられる親の方が子育てが安定化できることがあるのはこのためです。
31日のコメントに対する返信、および前記事の補足でした。
以下、再コメントに対する返信。
>息子はよく絵本を読んでもらいたいようで 私のところに持ってきますがたいてい、途中まで読んだ段階で他の絵本をまた探しにいき『今度はこっち』とばかりに持ってきます。
これはよくある姿です。
子供がこれにより何を求めているかというと、本の内容ではないのです。
「本を読むことを受け入れてもらうことで、自分を受け入れてもらっているという再確認」なのです。
なので、読んでもらいさえすればいいので内容には実のところさして興味はありません。でも、途中でやめるということは「受け入れてもらえていない」と取れることなので、抵抗するわけです。
本当はこれはまだ「素直な甘え」までは到達していません。
「理由をつけなければ甘えられない」状態です。
大人の「受容的態度」に信頼感が持てるようになれば、だんだんと素直な甘えになっていけるでしょう。
目指すのはその素直な甘えですが、現在の理由をつけての甘えを否定する必要もありません。
現状で、お子さんがすりあわせを行って得た落としどころがそこなのでしょう。いまは子供の方もいろいろやってどこまで受け入れてくれるのかを試しているのでしょうね。
ただ、様子を見て「絵本じゃなくても抱っこしてあげるからおいでー」などと素直な甘えに大人が手助けして変えてあげてもいいかもしれません。無理強いする必要はありません、試行錯誤してみればいいところです。
遊びに関しては後からついてくることです。「できる」を求めなくていいでしょう。
絵本の読み方も型にとらわれることはないです。
いろいろ試してみて、子供が満足できるものを見つけてあげてもいいことです。
一生懸命に子供に「合わせよう合わせよう」とすることも、子供の機嫌を取るように考えてしまうことも、「腫れ物扱い」になってしまうことも、子供に素直な甘え方をだせなくしてしまったり、依存心を高めてしまうということもあります。
無理はせずにだんだんとむにむにさんの自然体で関わっていけるようにするのがいいと思いますよ。
「受容」をためて、自分にも自信をためることができたら、すべきでない、してほしくないことをしたときに、「ごまかし」ではなく、毅然と怒るでも叱るでもしてみてください。
それで怒られたことが悲しくて「エーン、エーン」と泣けるようになったら、そのときが信頼関係が戻ってきたということです。
もし、そのとき子供が反発して叩いてきたりしたとして、そのときに大人がどうしたらいいか途方に暮れてしまったりしたら、イニシアチブがまた子供に戻ってしまいます。
子供の感情に負けないで「叩くんじゃない」と毅然と「NO」を再度つきつけて、そこで「エーン、エーン」と泣けるようになったらばそれでもいいです。
「受容」が足りておらず、自分が受け入れられているということに自信の無い子は「エーン」とは泣けずにずっと抵抗を示さなければなりません。
「受容」をすることが怒られることを受け入れられる子供にできるのです。
子供が泣くことを恐れる必要はありません。泣くことは子供の言葉であり、感情の表現手段です。
「エーン」と素直に子供らしく泣けたのならば、「そういう素直なあなたが好きだよ、ちゃんとお母さんの気持ちがわかったんだね」と抱きしめてあげればいいでしょう。
子供が泣いたからといって親が謝る必要はありません。
それでは何が正しかったのか子供は混乱してしまいかねません。
大人と子供の間に信頼関係がきちんと築かれさえすれば、叱られたり怒られたからといってその関係が揺らぐものではありません。なんといっても自分のおなかを痛めて生まれた子どもなのですから、そこには自信を持ちましょう。
そういうわけで、「受容」のあとに子供の育ちのなにかが見えてきますよ。
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