隠れた貧困 vol.2 - 2015.02.27 Fri
これは、漱石の弟子でもあった小説・随筆家の内田百閒(うちだひゃっけん)の後半生を描いた物です。
ついでに言うと、鈴木清順監督の代表作『ツィゴイネルワイゼン』は百閒の『サラサーテの盤』という小説が元になっています。
この内田百閒は貧乏で有名な人です。
学生の頃から終始、お金に困り続けるのですが、この「貧乏」は「貧困」とはやや異なっています。
なぜなら、物やお金はないとしても、身の内に「教育」というある種の資本が入っているからです。
百閒の貧乏は、世渡り下手だけど節を曲げなかったことから来る面もあって、崇高な貧乏とでも言える部分があります。(まあ、大酒飲みであったこともあるのでしょうけれど・・・)
「貧困」は単にお金や物がない状態だけではありません。
最近流行の自己責任論に依る人からは、例えば、「当人がよい職業に就けなかったのはその人の努力が足りなかったからだ」、「お金がないのならば、自分で勉強して株でもなんでもして儲ければいいじゃないか」といった言葉を聞きます。
しかし、そういった言葉は当事者性を無視した強者の弁であろうと僕は思います。
難なく教育が得られたという人は、学資はもちろん、その間の生活、そして家庭の安定といった背景に支えられて、その人の現在があります。
これらは、単にその人の努力だけではなく、家庭のバックアップがあって教育が得られたということです。
また、成人して一家をなしていたとしても、いざなにかあったときに頼れる家族、親類縁者がいることは、いま現在直接の利益をそこから得ていなかったとしても、実は間接的にその人の生活を支えてくれています。
今回テーマにしている「隠れた貧困」におちいってしまう人には、こういったバックアップが得られないといった事情もその背景にはあるのです。
例えば、最近よく耳にする「毒親」(子供に不利益を重ねてしまう親の意)が、子育てしている人の親であったりすれば、そこに頼ることはそうそうできません。
また、夫のDVが原因で、なんとか離婚した人、逃げてきた人が母子家庭となっていれば、その夫から養育費をもらったりすることは難しいですし、そもそも逃げる段階でそれまでの生活基盤のすべてをなげうって転居せざるを得なかったりということもあります。
このような、手助けしてくれる人と断絶した状態で、親一人で生活し子育てをしていくことは大変に困難な状況を生みます。
現在の生活を維持するのがやっと、将来に展望も持てない状況では、その生活を向上させる努力ができる余裕自体がそもそも持てないのです。
その子供にしても、自己責任論による個人の努力だけに問題をおしつけられるような単純な問題ではなくなっていきます。
前の記事にはケースワーカーをなさっている方からもコメントを頂きました。
そのなかで奨学金についてのお話しがありました。
「勉強したいならば奨学金をもらってすればいいじゃないか」と考える人がいるかもしれません。
近年では奨学金の制度もずいぶんと変わってしまって、通常の貸し付けよりもやや優遇されているところがあるとは言え、普通の借金とほとんど変わらなくなっています。
そういった状況で、高校・大学を出て働いたとしても、すぐに借金の返済が始まります。
また、そういった家庭では、最初から親を養わなければならない、援助しなければならないということもかかってきます。
もし、その家庭がそれまでの生活費を借金していたり、父親の残した借財などを引き継いでいたら、なおさら大きな負担です。
学校を奨学金で出ても、もし就職がうまくいかなければ、たちどころに生活が立ちゆかなくなってしまいます。
なので、この「奨学金をもらって、あとは自分で努力しろ」ということも、現実にはそうそう簡単ではありません。
このように自己責任論だけでは、解決できないさまざまな背景、問題があるのです。
同じ記事に、アメリカ在住者さんからもコメントを頂きました。
アメリカはずいぶん前に軍隊の徴兵制をやめて、志願制になりました。
そして、志願者不足にいつも悩んでいます。
その解決策として、志願して何年間の兵役をこなすと、大学の学費を援助するといった制度があります。
アメリカは日本以上に大学の学費がかかります。
貧困家庭ではそれをまかなうのは困難です。
しかし、教育レベルが低ければ、所得の高い仕事にはつけません。
格差の進んでいるアメリカでは、その生活水準の違いは格段の物です。
なので、その生活から抜け出ようと思ったら、志願して軍隊に行くという選択肢が出てきます。
極端な言い方をしてしまえば、自分の命を掛け金にして生活の向上を目指すのです。
アフガン戦争や湾岸戦争では、実際に戦死者も出て、この問題がクローズアップされていました。
日本でも、将来その気になれば徴兵制をしなくたって、文科省の大学への助成金を減らしてこういったことは簡単にできてしまえます。
特にそのとき格差が進んだ社会になっているならば、それはなおさら余裕です。
実際にいま大学への助成金はどんどん削られています。
助成金が減れば、学費は高くなります。すると、裕福でない家庭の子供は進学しにくくなります。そうなると、その家庭の生活水準が(特に上昇できない方に)固定化されて、社会全体としてはさらに格差が進むことになります。
しかもそうなってしまうと、持てる人たちは自分の命を張る必要がないので、よりアグレッシブな外交や政権が支持されて、実際にそのようなことが出来易くなるわけですね。
次回は貧困と教育の不備がどのような現実をもたらすかについて。
| 2015-02-27 | 日本の子育て文化 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
隠れた貧困 vol.1 - 2015.02.25 Wed
服や学用品が潤沢には買えなかったり、衛生的でなかったりと、子供にも目に見える形で貧困というものが存在していました。
近頃では、その事情が変わってきているようです。
最近の貧困さは、目に見えなくなってきており、「隠れた貧困」としてあるようです。
いまは、物自体がさほど貴重ではなくなった時代なので、服が買えなかったり、文房具がそろえられなかったりということは、昔ほどはありません。
それどころか、子供だけみれば携帯ゲーム機のようなそれなりに高価なものなど、他の子が持っているような物まで一通りそろっています。
しかし、それら一見すると普通の生活レベルであるものが、家庭単位ではギリギリのバランスで行われているのです。
もし、不測の事態で大きな出費があったり、働き手である親が短期間にしろ身体を壊してしまったり、職場からリストラされてしまえば、ただちに生活が立ちゆかなくなってしまうような状況があります。
ギリギリにしろ生活が送れているのならばいいじゃないかという人がいるかもしれません。
しかし、子供が小さい内ならば済むとしても、貯蓄も出来ない状態で過ごしていると、だんだんと無理がかかってきます。
それが顕著に表れるもののひとつが、教育面です。
学資という点だけではありません。
”生活の余裕のなさ”は、その家庭の子供に”勉強をする余裕”を奪い取ってしまいます。
「貧しいけれども苦学して勉強を頑張った」というのは、美談ではあるけれども、現実の多くはそのようにはいきません。
それらは「美談」であるがゆえに、大きく語られはしますが、美談はごくごく一部であるからこそ美談として存在しているのです。
実際ははるかに「貧すれば鈍する」という言葉の方が真実を表しています。
そのようなギリギリの生活状態は、勉強をする余裕、学校に行く余裕、学校に行ってもそこで勉強をする余裕、また勉強以外のことを身につける余裕を奪っていってしまいます。
そういった状況で子供たちの人生がスタートすると、就業において不利になったり、資質そのものが就業に適さなくなってしまっていたり、またはちょっとしたきっかけで社会的にドロップアウトしてしまうようなことが起こります。
社会的にドロップアウトとはどういうことでしょう。
普通に生活している人には縁がありませんが、そういう子供を狙い澄ましてすくい取るような受け皿が世の中にはあるのです。
それは「拾う神」というような、よい存在ではありません。
例えば昔であれば、男子にはシンナーを末端で売らせたり、女子であれば売春やそれに類するようなものへと斡旋したり。
最近では、「オレオレ詐欺」のような知的犯罪の検挙者の中に未成年が含まれており、年々それが増えているそうです。
昨年の未成年の、その検挙者数は一昨年の倍にもなっているとのこと。
家庭の貧困、教育の不備はそのようなところに子供をからめとらせてしまう遠因ともなってしまいます。
現代型の貧困は、とくに母子家庭に起こりやすいです。
母子家庭の3世帯に1つが、貧困もしくは貧困の予備軍となっているともいわれています。
子持ちの女性は、就労において不利になりやすいです。
結果的に、賃金が安かったり、労働条件が悪いところになりかねません。
仕事が厳しければ、子供を十分にケアすることも出来にくくなってしまいます。
慢性的に満たされず、荒れた子供になってしまえば、それこそ早ければ小学校の段階から勉強についていけなくなります。
単に学力が低いというだけでなく、素行が悪いということになると、場合によっては学校からも見放されかねません。
そうなってしまえば、その子をケアできる存在が無くなってしまうこともあるので、より救われなくなってしまいます。
貧困と教育は密接な関係があって、しかもそれが世代をまたいで拡大再生産されることもあります。
日本はまだそれほど目に見える状況ではありませんが、アメリカなどではこの貧困の拡大再生産がとても大きな社会問題となっていますよね。
先日、トマ・ピケティが来日して政府があわてて「格差なんてない」と言いつくろっていたのには失笑しか出ませんでしたが、貧困や社会的格差といったものは、それが小さい段階ですら大きくなりすぎないように努めなければならないのに、「ないこと」にして対応を放棄してしまったら、後々本当に対処の難しい大きな問題になってしまうことでしょう。
つづく。
参考 『貧困はなかったのではなく、見えてなかった〜現代の貧困の捉え方』 日本女子大学教授 岩田 正美 (MAMMO.TVより)
| 2015-02-25 | 日本の子育て文化 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
本当は誰かの役に立ちたい - 2015.02.24 Tue
子供は「子供らしさ」をふんだんにもっていると、素直で、純粋で、子供らしい正義感にあふれています。
「子供らしい正義感」というのは、信頼している人が言ったこと・したことなどを、そのまま「正しいこと」として持っている気持ちです。
そういうものがあるので、人に親切にしたり、なにかを手伝ってあげたりということにも積極的です。
人と関わるのが得意・苦手といった個性によりその出し方はさまざまではありますが。
そういった他者への行動を、子供同士の間で自発的にすることもあれば、大人からきっかけをもらってそれを自分の役割として「したい!」と思うようになることもあります。
人の役に立つことにも、子供はきちんと満足感を見いだすことができているわけですね。
しかし、自分のことで精一杯な子は、なかなかその気持ちに到達しづらいです。
また、普段からたくさん指示や命令・支配されてしまっている子も、あまり他者のための行動に意欲を示しません。
ではどんな子が、人のために行動することに喜びを見いだせるかというと、人に優しくされ大切にされた経験をたくさん持っている子が、そうなりやすいようです。
保育園の子供たちには、年々この「自分のことで精一杯な子」が増えているように感じます。
別の言い方をすれば「満たされていない子」です。
滑り台で遊んでいるだけで、「はやくいけよ」と後ろから突き飛ばしたり、手を洗うのに水道に並んだといったちょっとしたことでも、「ボクのほうがはやくならんだ」「いいや、ボクだ」と言い争いになってしまったり。
クラスの中でそんな子の割合が高くなってしまうと、満たされていて他者に優しい行動を示せる子も、なかなかそのままの形でその優しさを発揮することが出来にくくなってしまいます。
逆だと、ちょっとしたことでも突っかかるような子のほうが、「自分の行動は友達同士の中で許容されないのだ」と感じることができるので、自然と収まりやすいのですが、(そういう子に対しても気持ちを慮ってあげられるようなとても優しい子も出てきます)
同じような子がたくさんいる環境だと、「売り言葉に買い言葉」のようなことが日常茶飯事になって、子供たちだけの集団の関係の中だけでは収まっていきにくいです。
これは年齢が上がれば上がるほど大変さが増していきますので、小学校などでこのような問題が出た場合は随分と対応が難しいのではないかと思います。
「本当は誰かの役に立ちたい」ということは、実のところ大人もそうなのですよね。
大人であっても自分が誰かの役に立っていると感じることは、精神的な満足感、自身の存在肯定を得られることです。
でも、いまの時代は大人も子供と同じように「自分のことで精一杯」になってしまっている状況がたくさん増えてしまっているのでしょう。
仕事も忙しかったり、単に忙しいだけではなくそれがストレスフルだったり、納得がいかない状況でも我慢して働いていたり、時間に余裕もなく、気持ちにも余裕がない、そんな状態で家庭のことや子育てもしなければならない。
子供たちの余裕のなさ、「自分のことで精一杯」になっている原因の根っこをたどっていってみると、この大人の方の「余裕のなさ」がその大元にはあるようです。
| 2015-02-24 | 満たされた子供 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
注目されることで安心感と満足感を - 2015.02.20 Fri
お兄ちゃんとむーちゃんでなにかしているようなときに、コソコソッと近づいて、こっちを気にしたら止まって、また遊びだしたら近づいて・・・。
ときどきやっているせいか、子供たちも空気を読んでくれて、止まっているとまた遊び始めてくれて、こちらが動くとぱっと見てきます。
十分近づいたところで、「ワッ」とか、コチョコチョーっとしたり。
近づいていく間に、子供たちの顔がわくわくしているのがおもしろいです。
小さい子にとって「注目してもらう」ということは、遊びの大きなエッセンスになっていて、うちの子はもうそんなに小さいわけではないけれども、それでもやっぱり大人の方から注目してもらえることは楽しいことで、それを大人が積極的にしてくれるというのは気持ちに満足感をもたらすものであるようです。
| 2015-02-20 | 我が家の子育て日記 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
レゴの飛行機 - 2015.02.19 Thu

大人にはなかなか見えないのだけど、子供にはこれがはっきりと飛行機に映っているわけですよね。
子供のそういう力って本当に素敵だなと思うのです。
子供はみんなそれを持っていたはずなのだけど、大人になる過程でどこかでブロックはブロックとしか見えなくなってしまう分岐点があって・・・。
大人になるとそれができなくなってしまうので、その分を派手なエンタテインメントで満たしたり、金銭でバーターできるもので満足感を得たりするわけだけど、もし、戻れるものならばただのブロックが本物の飛行機に見えたあの頃に戻ってみたいものです。
でも、それはできないので、いま現にそのまっただなかにいる子供たちのしていることや、その気持ちを大切に見守ってあげたいと思います。
現代に生きる子供たちの子供時代が余計なものに邪魔されず一日でも長いものになるといいな。
でも、それがいまはなかなか難しくなってしまっているのだよね。
| 2015-02-19 | おもちゃ | Comment : 11 | トラックバック : 0 |
図書の日 - 2015.02.17 Tue
そのおもしろいことというのは、お兄ちゃんはむーちゃんのために本を選んできて、むーちゃんはお兄ちゃんのために本を選んでくることです。
お兄ちゃんは、むーちゃんが喜びそうな読み物、かいけつゾロリとか生き物の本、絵本を借りてきて、むーちゃんはお兄ちゃんが好きそうな昆虫や自然科学の本を選んできます。
どうも、まだむーちゃんが幼稚園に行く前のときから、お兄ちゃんがむーちゃんに読んであげられるモノを借りてきていたので、それがいつのまにかむーちゃんにもそういうものとして伝わっていたようです。
そんな感じなので、よく二人で一冊の本を一緒に見ておりなんとも微笑ましいです。
| 2015-02-17 | 我が家の子育て日記 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
保育 信頼関係構築の具体的な出発点 - 2015.02.17 Tue
(ときどき保育関連のことも書いているのですが、分類がいい加減なので申し訳ありません、このカテゴリーや、「心の育て方」その他にもちらばっています。興味のある方は探してみてね)
園全体が、子供に言うことを聞かせようという支配傾向の保育になってしまっているところがあります。
こういった施設では、経験の少ない若い保育士は、違和感を感じながらも適切なモデルを見ることが出来ないので、おかしいと思ってもそこで周りの職員がしている支配的だったり威圧的な関わり方の保育をせざるを得なくなってしまいます。
子供の大変な姿がでたら、そこを大人の強さで抑えつけたり、正論を展開して叱ったり、怒ったり、それで問題なく安定化していけるのならばいいですが、そうでなければいたちごっこになってしまいます。
子供の問題行動が出る、大人がそれを抑える、また別のところで問題行動がでる、抑える、しばらくするとまた同じ問題行動がでる、さらに強く抑える・・・。
これを繰り返しても、なかなか子供自身が伸びていくわけではありません。
その保育士自身、はっきりとではなくともそれを感じることでしょう。そのような保育の仕事は、徒労感ばかり多いものです。日々大きなストレスを感じもします。
そのストレスをそれをなんとか処理して、また次の日も頑張ります。でも、また同じことの繰り返しです。
子供を優しく受け止めたい、子供と楽しく過ごしたいと思って保育士になったものが、そのうちそういった気持ちよりも、イライラや大変さばかりが心の前面にでてくることになってしまいます。
でも、それ以外の解決のしようがわからなければ、そういうものなのだと自分を納得させて、結局はそこでの「効率的」とされている、「支配の強化」という保育を続けることに・・・。
家庭に養育力がふんだんにあれば、日中そのような保育でも、家庭で受け止めてもらうことで、それなりに年齢とともに落ち着きを得て、安定した姿になっていくということもあるでしょう。
でも、そういうケースばかりではありません。
保育の中で、しなければならない役割があるわけですね。
では、具体的にどのようにしていけばいいのでしょうか。
ここが問題ですよね。
正確に言うと、
「子供と保育士の間に、大人の力で抑えつけて支配しなくてもよいだけの信頼関係を築くためにはどうしていけばいいか?具体的になにから始めたらいいのか?」
という問いです。
難しいことはとっぱらって、本当に具体的なことを挙げましょう。
保育士がその気になりさえすれば、必ず出来ることを二つ。
1.スキンシップ
・毎日必ずクラスの子全員に触れること
大仰なことでなくていいのです。
頭をなでる、手をつなぐ、ほっぺをむにゅっとする、背中に触れる、くすぐる などなど。
大人の意識さえあれば、時間がなくともできることです。
しかし実際のところ、簡単なようで実は簡単ではありません。
例えば、定数30人の年長クラスでそれをやろうと思ったら、大人がよっぽど意識しなければできません。
まあ、そういう場合は朝の挨拶で握手をするとかにしてしまってもいいのですが、できればそのような決めたところでするよりも、なにもない普段の生活の中で触れる方がより望ましいです。
なぜなら、「大人が自発的に積極的に自分に関わってくれている」という実感が子供に大切だからです。
保育士がくすぐり魔になってしまうなんていうのもいいかもしれませんね。
乳児クラスであれば、着替えなど生活の中で触れることは当たり前に出来ていることですから、それをさらに一歩進めて密度を濃くしてみるといいでしょう。
0歳児 おむつ替えできれいにしたら、服を着せる前におへその周りをコチョコチョしてみる
1歳児 室内遊びの時間、ひとりひとりに顔遊び、手遊びをしてみる
2歳児 食事を終えたら「ご飯おいしかったね」とおなかをなでてあげる
などなど。
2.笑う
必要があるのならば、怒ってもいいです、叱ってもいいです。
でも、笑わない保育士になったら、子供と信頼関係を結ぶことは極端に難しくなります。
子供は大人が自分を見て微笑んでくれていたら、「自分が肯定されている」と実感します。
自分がなにかしているところを大人が見て微笑んでくれていたら、「その行為が肯定されている」と感じています。
大人がその空間で、声を出して笑っていたら、「ここは安全なんだ、自分は心配なくここで過ごしいていいのだ」と安心感を得られます。
保育は相手のあることですから、「こうすればこうなる」という決まったものがあるわけではありませんが、このふたつを「きちんと意識を持って」(←ここ重要)できていれば、それを一週間、二週間、一ヶ月、二ヶ月と続けていれば、きっとなんらかのいとぐちがつかめてくることでしょう。
それが、「大変さ」を抑えるだけの保育から抜け出す具体的な突破口になるのではないかと思いますよ。
◆保育のステップアップのために
もし、ただ子供を預かって時間を過ごして家に帰すだけの子守り的な保育から、個々の子供の健全な育成を援助するという保育にしようと思ったら、日々の仕事の中でしていることのなかにその大きな助けになることがあります。
それの仕事量は同じでも、意識を持つだけでそれが自分の糧になります。
それはなにかというと、毎日の「保育日誌」です。
保育日誌は、その日何があったかという、こと細かな「日記」である必要はありません。
ひとつのビジョンを持った研究記録にしてしまうのです。
例えば、
「いつも問題行動の多い〇〇君を安定させたい」
「集団での遊ぶ力を伸ばしたい」
そのようなねらいを、週案でも月案でも、個人カリにでも入れてしまって、それとリンクさせて日誌に記録をつけていくのです。
そこで優れた結果を出すことを目指さなくていいのです。
「〇〇君にスキンシップを意図して増やしてみた。でも、いつものようにトラブルが多かった。」
”うまくいかなかった”という経験も実はとても大切なことです。
たくさんの”うまくいかない”を積み重ねた上に見えてくるものもあります。
それを記録していきましょう。
「〇〇君の受容のために手遊びを一緒にした。他児もそれをみてしてもらいたがった。」
ビジョンを持って保育に取り組むことで、それまで日々大変さばかりだった保育が意味のあるものとなっていけます。
”うまくいかない”を積み重ねていく内に、なかにはこれは効果が出てきたのかなということも見えてくることでしょう。
それが見え出すと、保育士のモチベーションも上がってきます。
「室内での遊びを向上させたい」
というねらいのもとに、その週の計画を立てれば、そのために「なにをやってみよう」というアクションを作りやすいです。
遊びのコーナーの配置を変えてみよう
遊具の入れ替えをしてみよう
じっくり遊べない子向けに乳児クラスから、対象年齢が低めの遊具を借りてこよう
ままごと遊具がたりないから、新たに用意しよう
などなど。
”うまくいかない” → 反省 〇〇〇〇 → 新たなアクション(遊具を入れ替えてみるなど)
それも、日誌に書いていきます。
「男児数人が積み木でタワーを作っていると、〇〇君がわざとそれを壊す。ここ数日〇〇君にそういう姿が続いている。」
→「明日は朝の遊びの時間から〇〇君に、彼の遊べる遊具を提供しよい遊びでスタートさせることで、〇〇君の安定化を目指してみる」
次の日それをやってみて、
「〇〇君に机上でできるパズルを提供した。保育士が〇〇君の近くで見守るようにしできたものをそのたびごとに認めていった。その後、男児のしていた積み木遊びに自分から入り、短時間だが他児とトラブルなく積み木遊びができていた」
そんなふうに、日誌に意味を持たせることで有機的な保育を展開していく習慣を持つことで、保育の向上に生かすことができます。
なので保育日誌は、日記ではなく事例研究として活用するといいです。
日記として書いても、事例研究として書いても仕事中に使う時間はそう変わりません。なのでどうせなら自分の保育の力量のステップアップに使った方がいいよね。
ポイントは、
ねらい → 姿 → 考察 → 反省 → リアクション です。
保育関連の本は、定番と言えば定番ですが、
佐々木正美先生や、汐見稔幸先生、諏訪きぬ先生、大日向雅美先生など、これらの諸先生方が書いてらっしゃるもので一般向けのでもいいのですが、出来れば保育士向けの本がよいでしょう。
また汐見先生が編集している
『エデュカーレ』もおすすめです。
http://ikuji-hoiku.net/educare/
セミナーや研修の情報などもありますので、出来る機会に参加してみるのもいいかもしれませんね。
| 2015-02-17 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
保育士の定着率 - 2015.02.14 Sat
東京都内の公立保育園で非正規として働く職員の割合が4割を超えることが14日までに、明星大(東京都日野市)の垣内国光教授らの調査で分かった。年収は200万円未満が8割に達し、うち100万円未満も4割超に上った。
垣内教授は「公立でも非正規雇用が進み、労働環境が悪化しているのが実態だ。非正規職員は低賃金で、仕事もきついため、保育士不足につながっている」と指摘する。
垣内教授の研究室が2013年、都内の62市区町村を対象にアンケートを実施し、31自治体が回答した。また、公立保育園で働く非正規職員約3600人も調査した。(共同通信)
『保育施設での増加する死亡事故と保育のあり方』
以前こちらの記事で、補助金や手当によって保育士の給与を上げる動きが出ているという報告をいたしましたが、
そのときから気にはなっていたのが、なぜ本給ではなく補助金や手当なの?ということです。
職務に対しての手当が不当に低いというのならば、普通は給与そのものを上げるのが当然なのですが、手当であげるというのは、
給与そのものを上げるための制度を整えるのが間に合わないから、とりあえずまずは手当として先行して増額しておこう、というものか、一時的に上げておいて大きな人材不足が解消されたら、また下げればいいやというものであるかということが考えられます。
上の報道で言うところの、非正規雇用で年収200万円以下という人がフルタイム労働でその給与だとしたら、生計を立てていくことは難しいですよね。しかも家賃、物価の高い都内でのことですからそれはなおさらです。
労働条件がよくないところでは、事故などの確率があがりやすいと考えられます。
人手も少なく、自分も疲れ切っている中で、大勢の子供を長時間見なければならない、そんな状況で怒ったり大声を出したりして子供を抑えつけて、なんとかぎりぎり怪我のないようにするのが精一杯という話を保育士の声としてしばしば聞きます。
いい保育しようにも、人的資源にも厳しい、労働条件も悪いということでは、なかなかできないのですよね。
いま、公立園でも非正規の職員の割合が高まっています。
認証保育所などでも、パート職員がメインのクラス担任をしているということも珍しくなくなっています。
給与や労働の条件が悪いのに、仕事は大変でその責任も重いとなると、なかなか安心してその仕事を続けることは困難です。
よく、園選びでどんなところに注意して選べばいいですか?といった質問を受けることがあります。
僕は思うのだけど、園側が職員の離職率や定着率、もしくは勤続年数などの情報を上げてくれたら、園選びの参考になるのではないかなあと感じます。
別に個人名まで挙げなくてもいいから、「A保育士勤続10年 B保育士勤続6年 ・・・」みたく
いい保育をしているところは、比較的勤続年数は長くなります。
よくない保育をしているところは、なかなか人が定着しません。これはもうてきめんです。
公立だと、雇用の形が変わってしまうので、これではわからないかもしれませんが、私立なんかでしたらできるかと思います。
いい保育をしていると自信のある園からでも、こういった情報を堂々と上げていってよいのではないでしょうか。
これで保育のすべてがわかるというわけでもないけれども、少なくとも働き手が逃げ出すような施設に大事な子供を預けないで済むようにはなっていけるような気がします。
| 2015-02-14 | 保育園・幼稚園・学校について | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
子育ての「うまくいかない」は、必ずしも「愛情不足」ではない - 2015.02.12 Thu
子育てが安定してうまくいっている状態であることと、愛情があるかないかということは、実は確実なことなど何も言えないのです。
逆もまたそうです。
子育てがうまくいっていないから、愛情がないなどということも断定できるものではありません。
子供への愛情はたくさんあるのだけど、子育ての状況が行き詰まり手を上げて虐待状態になってしまっている人もたくさんいます。
別に、子育ての中で「愛情」という言葉を使うことが悪いわけではないでしょう。それを述べる人を責めるつもりもありません。
でも、僕は子育てにおいて使われる「愛情」という言葉によって、傷つく人、自分を苦しめてしまう人がたくさんいることを知っているので、それを使うことにはとても慎重になってしまいます。
僕は、いまの人の子育ての「うまくいかない」は、実際的な関わり方や子供への見方がわからなかったり、先入観によって適切で無いものになってしまっているがゆえに、引き起こされていることが非常に多いのだと感じています。
『支配しなくても子供はまっすぐ育つ vol.4』
つまり、↑こちらの記事で述べたような「ボタンの掛け違え」が起こってしまっているわけです。
子供の育ちは「積み重ね」で出来ています。
子育てがにっちもさっちもいかなくなってしまっている人が、どのようにしようとしているかというと、その状態からなんとか「正しい状態」「理想的な状態」「人に否定的に見られない状態」に持って行こうと考えてしまいます。
でも、本当ににっちもさっちもいかない状態から、いきなり正しい理想的な状態にすることはできないのです。
もし、みなさんがシャツや、コートのボタンを掛け違えたらどうしますか?
当然、掛け間違えたところまで、ひとつひとつ外して戻って、またあらためてボタンを掛け直していきますよね。
子育てがどうにもならないという場所から、「正しい子供の姿」に持って行こうとすることは、子育てを前進させようとすることです。
その子育て前進させて子供に正しい姿を持たせるために、大人はさまざまなアプローチをして子供のいまある姿を改変しようと働きかけます。
具体的には、叱ったり、怒ったり、叩いたり、疎外を用いたり、ということが実際のところ多いでしょう。
でも、本来積み重ねで形作られている「子育て」というものを変えて行くには、遠回りなようだけれども、前進ではなく後戻りをすることが必要なのです。
シャツやコートのボタンの掛け違えを直すとき、それ以外に方法はありませんよね。
「しつけが足りない」「甘やかすからだ」「叩いて教える」
そのように子育てにカンフル剤を打てと主張する人は大変多いです。
なかにはそれで改善し安定化していける子育てもあるのでしょう。
でも、いまの時代の子育ての難しさは、なかなかその方法では解決しなくなっているのだと感じます。
では、どこまでその子育てを戻せばいいのか?
僕は子育ての出発点は、いつでも「受容」だろうと考えています。
受容が足りているならば、それはそれでいいでしょう。
でも、だからといって受容に、受容の追加をしたから悪いということなど少しもありはしません。
ダメ元でもいいから、受容に戻ってみればいいと思います。
受容はたっぷりされているのに、ちっとも子育てがうまくいっていないというようなこともあります。
例えば、過保護や過干渉などで、子供と大人の間の「信頼関係」が低いものになっているときなどはそうです。
こういう人は、そこでの関わり方を見つめ直してみればいいでしょう。
その人にとっては、そこにボタンの掛け違えがあったわけですね。
ですから、そこに戻ってもう一度かけ直していくことで子育ての安定化が図れるはずです。
子供も違うし大人も違う、「子育て」には本当のところモデルケースなどないのです。
子育てがうまくいっていないと、周りと比べて我が子の子育てを劣っていると比較して考えてしまいたくなります。
でも、それは多くの場合苦しめるばかりで、あまりプラスにはなりません。
「自分の子育てはいまこの状態」
そのことを否定することなく、出発点としてみましょう。
その上で、
「今日は昨日よりは子供を怒鳴りつけなかった」
ということがあれば、そこをプラスに考えていきましょう。
世間で言うところの「正しい子育て」「うまい子育て」と自分の状況を比べてしまったら、その状態はいつでもマイナスです。
「あーあ、怒鳴ってはよくないのに、また怒鳴ってしまった。私はなんてひどい親なのだろう」
このように考えていたら、子育てを送ることは大変つらいものになってしまいます。しかもそれは出口の見えないものになります。
人と比べても意味はありません。
それよりも、自分の昨日や過去と比べて、どんな些細な一歩でもそこをプラスに見ることで、本当の意味で子育てを前進させていきましょう。
上の記事のコメントでは、
ご自分のことを、「犯罪者」、「だめな大人」、「悪い大人」と言っている方が何人かおられました。
僕はその記事中で(過去記事も含めても言えますが)、そのように子育てがうまくいっていない人を指して「だめな大人」であるとか「悪い大人」であるとかに類する言葉を使ったことは一度もないはずです。
それは、文脈としても同様です。
でも、自分の子育てに対して自分で「マイナス点」をつけてしまっている人は、もともと自分で自分を責めている気持ちがあるので、僕がうまくいっていない例をあげたときに、それを自分が責められているととってしまうのでしょう。
子供を相手にすることでもっともいいことのひとつが、子供には未来が大きく開けているということです。
なので、間違ったとしても戻ればいいし、人より遅いからといってそれが必ずしもその子供の結果を決めてしまうわけではないのです。
世間の基準ではなく、自分の基準で、戻ってでも少しずつでも進めばいいし、ときには今日一日いいところがなかった、後戻りするばかりだったという日だってあることでしょう。
それでも、子供には未来がありますから、明日でも明後日でもいくらでもそれは取り返しがつくことなのです。
だから、子育てがうまくいっていないとしても、自分を責めることなく、もちろん子供も責めることなく、「出来ない状態のいま」を出発点として、そこから1ミリでも前進したのならば、そこを見て子育てしている自分を褒めてあげて下さい。
「偏差値70の人の偏差値をさらに上げることは大変だけれども、偏差値30の人の偏差値をあげることはたやすい」
などと言われますよね。
なぜなら、偏差値30の人はどこか前の段階でつまづいてしまっているところがあるからです。
そのつまづきに戻って、そこからコツコツとやっていけば、必ず偏差値が伸びるというわけです。
マレフィセントさん
相談は休止中ではありますが、偶然にもちょうど記事にしようとしていた内容とお悩みが近いようだったので。
子育ては一人で全部抱えようとする必要はないのです。
大変なときは人の協力を求めていいのです。
自分一人を悪者にしては自分ばかりが辛くなってしまいます。
自分がどういう状況になってしまっているか、(叩いたり、暴言を吐いたりが悪いとわかっていても止められない、自分自身それがとても辛い、自身の生育歴の中で排除されてきていたのでうまく関われる自信がないなど)
伝えながら、助けを求めてみるのも手です。
もしかすると、子育ての問題としてよりも、ご自身のカウンセリングなどにいってみることがプラスに働くかもしれません。自分の感情が自分でコントロールしきれない状態というのは、大人であってもとても辛いものです。
家族がだめなら、友達、保育園、行政の子育て支援や、児童相談所などなど、本当に役に立つところに出会えるとは限らないかもしれませんが、ダメ元でも当たってみるだけ当たってみるのも無駄ではないかもしれません。
「捨てる神あれば拾う神あり」ということもあります。
また、自分を責めないで、無理をせず、過剰な我慢をせず、ということも大切です。
本文にも書きましたが、自分の「出来ない」ところの否定を重ねるのではなく、いまあるところからスタートして、そこを見ていきましょう。
できるときにくすぐりからはじめてみましょう。自分がその気になれないときは、お父さんにしてもらってもいいでしょう。
>頑張ってよい関わり
目指すのは「頑張って」よい関わりをすることではありません。
自分自身として「無理のない」関わりを続けられることです。
| 2015-02-12 | 相談 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
どうして勉強ってするの? - 2015.02.10 Tue
それまではやはり、しなければならないのはわかってはいるけれども、どうにもやらされてしている感があったものです。
子供が学齢期に入ると、最初の頃はよくてもだんだんと勉強をめんどくさがったり嫌がったりする子もでてくることでしょう。
子供によって口に出すかどうかはわかりませんが、「どうして勉強ってするのだろう?」という疑問を多かれ少なかれほとんどの子供が感じるのではないでしょうか。
僕は、どうせなら勉強は「やらされるもの」ではなくて、「いいもの」として子供たちには受け止めていってもらいたいと思います。
そうは言っても、子供に自然とそう思わせるのは簡単ではないかもしれませんね。
でも、子供にそういう疑問を向けられたときに、大人の方が「子供なんだから勉強するのは当たり前だ!」というように、木で鼻をくくるような態度で返してしまうよりは、なにかしら誠実に答えてあげたいものです。
それを考えることは、勉強の意味を大人ももう一度見つめ直すことにもつながるのではないでしょうか。
「勉強の大切さ」といってもいろんな切り口がありますよね。
人としての人格形成という面もあれば、生涯学習的に「学ぶ」ということの大切さを説くこともできるでしょうし、きちんとした職について安定した人生を送るためといった実利的な面から伝えることもできるでしょう。
他にもまだいくらでもあることでしょう。
とかく日本人は、勉強や学歴を重視するわりには、「学校の勉強は社会に出たら役に立たない」とか、「微分積分など実際一度も使うことはない」などと、勉強することを馬鹿にするような風潮があります。
また、テレビなどでもタレントが知識のないことや学力のないことを、ことさらにおもしろおかしくアピールするような文化もあります。
こういう土壌であっては、なかなか子供たちも学ぶことの大切さ、おもしろさにたどり着くことは難しかろうなと感じます。
親自身が、ただ漠然と「勉強は必要だ」としてしまうのではなく、「勉強はいいものなのだよ」、「大切なのだよ」と、言葉で、また態度で示して伝えてあげられたらいいですよね。
しばしば、
「勉強が得意な子(勉強を嫌がらない子)はリビングで勉強している子」
であると言われることがあります。
そこには、リビングという生活空間の一部として「勉強すること」が自然に含まれていたり、家族とも適度な距離感で見守られていたり、または親もそこで落ち着いてなにかに取り組むといった習慣が、子供のそういった無理なく勉強に取り組む姿勢というのをかもし出してくれているのかもしれませんね。
また、ゆとり教育の成功している国として知られるフィンランドでは、大人も学校を卒業した後でも、なにかを学び続けるという生涯教育的な文化がもともと強くあるのだそうです。
そのような子供の周囲の土壌、風潮というものも、子供の学びの意識へと大きく影響を与えているのではないでしょうか。
「どうして勉強ってするの?」
という問いには、本当にいろいろな答えがあるのだとは思うのだけど、昨日たまたま考えていて思いついたのは、
「勉強は自分を自由にしてくれる」
のではないかということです。
勉強を通して、ものごとを正しく理解したり、考えることが出来るようになり、それはなにものかにとらわれてしまうことを防いでくれることでしょう。
そういった意味でも、自分を「自由」にしてくれるし、
また、自分のやりたいことへの可能性を広げてくれるという意味でも「自由」にしてくれることでしょう。
勉強って覚えなければならないことはたくさんあるし、している子供たちにとってはむしろ「自由」とは正反対に感じられているのではないでしょうか。
それは重石であり、閉塞感を感じさせますよね。
でも、勉強とはあなたを押し込めるための窮屈なものではなくて、あなたが自由に羽ばたけるためのいいものなのですよと、
大人は言葉と、言葉だけでもだめなので、態度や行動でも伝えてあげられたらいいなと思います。
| 2015-02-10 | 心の育て方 | Comment : 13 | トラックバック : 0 |
チョコレート - 2015.02.10 Tue
以前にも歯磨きの話で、「健康な歯はおとーちゃん、おかーちゃんからの贈り物なんだよ」とコミュニケーションをしながら仕上げ磨きなどをしているということを書いたことがありますが、ケーキやチョコレートなどを食べたときは、「今日はチョコレート食べたから、しっかり磨いておこうね」といったことをしていました。
小さい頃はおやつにチョコをだしたりはしませんでしたが、むーちゃんも大きくなったいまでは、なんだかんだでもらったりするものもあるので、チョコレートやチョコのかかったお菓子などを出すことがあります。
本当はおやつの時間も子供と一緒に会話しながら過ごせたらよいのですが、僕も原稿を書いたり仕事をしたりできる時間なので、子供たちにまかせて僕は別室で仕事をしていることが多くなっています。
そんなときでも、ふと気がつくと兄妹でふたりして洗面所で歯磨きしているのですね。
別に普段からおやつのあとに歯磨きさせたり、チョコレートを食べたらすぐ歯を磨きなさいといったことを教え込んだことはないのですが、自分たちで自発的にしているのです。
僕自身が子供のとき親に「歯を磨け、歯を磨け」と言われるのが嫌で嫌でたまらなく感じており、言われれば言われるほど意地でも従ってやるものかなんて思っていたものですが、支配したわけでなく信頼関係の上に関わってきたこの子たちはそれを押しつけられたわけでもないのに、その気持ちが通っているのを目の当たりにさせられるのです。
「子供になめられるな」ということを子育ての信条として言ったりするように、日本のこれまでの子育てはことさら、子供を支配することを強めようとする傾向があるのだけど、そういうのを見ていると、たぶんそれはむしろ難しくする道を選んでしまっているのではないかと僕は実感的に思うのです。
ひとりの人間として子供と関わることで、なんの無理もなく子育てが送っていけるのだと僕は感じています。
まあ、あまりに大人に素直すぎるというのも大きくなればそれはそれで問題も出るのだろうけど、、こういう大人の気持ちにぴったりと添ってくれるのは、年齢が上がるにつれてや思春期などが来るにつけて、だんだんと自立の方に向かっていってそれで適度にバランスがとれていくのではないかな。
| 2015-02-10 | 我が家の子育て日記 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
『PHPファミリー』にて紹介していただきました - 2015.02.08 Sun
手がかかる子、かからない子の違い
まだお持ちでない方には、本書の一部「クッキーの缶」のお話しを読むことができます。
よろしかったらご覧下さい。
また、PHP研究所から『のびのび子育て』という育児雑誌が月刊(および増刊号)で出ております。
僕は思うのですが、どうも最近育児雑誌の傾向というのが変わってきているように感じるのです。
以前は、子育てのイメージ優先で、「こんな素敵な子育てライフを!」とか、「子育てしながらバリバリ働ける女性ってかっこいい」とか、「子供をこんな風にかわいらしく飾り立ててみたら素敵ですよね」といった、アピールするイメージありきで、そこにこんな「便利な子育てグッズが」、「こんなにかわいいアイテムが」というような宣伝要素があって成り立っているものが多い印象だったものが、
最近になって、イメージ先行ではなく、実際のお父さんお母さんの目線から、子育ての悩みや、将来に向けてのことを具体的に考えたり、問題解決の助けになるようなものを中心としている雑誌が増えてきているように感じます。
こちらの『PHPのびのび子育て』も、そんな地に足のついた子育ての雑誌であると思います。
内容も僕から見てもしっかりしたものがギュッと詰め込まれております。
雑誌自体も手に取りやすい大きさで、値段も安価で読みやすいものとなっています。
全国の本屋さんで手に取ってみることができますよ。
| 2015-02-08 | その他 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
電子書籍版 発売しました - 2015.02.06 Fri
の電子書籍版が本日発売になりました。
電子書籍をご希望だった方には、大変お待たせいたしました。
各電子書籍ストアにて本日より発売、ご予約して頂いていた方には本日配信されていることと存じます。
Amazonや楽天ブックスなどレビューにも、すでにいくつもの高評価を頂きましてありがとうございます。
第二弾に向けてまた頑張っていこうと思います。
| 2015-02-06 | その他 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
洗濯物 - 2015.02.02 Mon
取り込んだ洗濯物を、畳まずにリビングのソファーの上に積んでおいたことがありました。
子供たちのおやつを用意した後、僕が別室で仕事をしてそろそろご飯でもとリビングに行くと、なんと洗濯物が全部畳まれているではありませんか。
子供たちに聞くと、「あ、それむーちゃんたたんどいたよ」と。
どうも、大人が忙しいというのがわかっていて自発的に手伝ってくれたみたいです。
このような子供の心の成長は、大人の支配的な関わりを積み重ねられて育つことではなかなか得られないのではないかと思います。
信頼関係の上に子育てを組み立ててきて本当によかったなーと感じさせられるエピソードでした。
| 2015-02-02 | 我が家の子育て日記 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
こどもの城 閉館 - 2015.02.01 Sun
本日、青山にあります『こどもの城』が閉館となってしまいました。
ここは宿泊施設もある、都内唯一の大型児童館です。
イベントなどがあれば、全国からの子供が泊まりがけで来ることもできる、日本全国の児童館を牽引するフラグシップ的な存在でした。
青山劇場や、全国でも珍しい青山円形劇場も併設されておりました。
各地の児童館などで行われる演劇クラブなどの全国大会がここで行われ、その子供たちが本格的な劇場の舞台に立ったりということもありました。
単に、東京の大きな児童館というだけでなく、ここは全国の子供たちとつながっている場所だったのです。
僕はここには学生時代、障がい児の校外活動支援のボランティアなどでしばしば訪れておりました。
他にはない子供の好奇心をかき立てるような大がかりな設備を持っており、またそこで子供が安全に安心して遊ばせることができる場所でもありました。
代わるところのない特別な場所だったと思います。
象徴的な岡本太郎のモニュメント『こどもの木』もここにあります。
以前から、日本は文化が大切にされない国だとしばしば言われてきました。
歴史的な伝統文化もそうですし、自然環境などもそうです。
また、美術・芸術などの文化でもそれは同じです。
古くからある価値ある建造物などを、保存するよりも壊してそこに近代的な施設を建てることが発展であると考えてきました。
自然を残すことよりも、そこを経済的価値の高いものに作り替えることを意味あることとしていました。
教育も、美術や音楽で情操を培うよりも、知識を詰め込むことに偏重しており、それはさらに年を追うごとに先鋭化しています。
直接的な収益性や、実用性がないことは重要ではないと考える向きがあるようです。
しかし、それは本当にそうでしょうか。
イギリスで、音楽教師が合唱を通して、勉強への意欲の低い生徒や、社会からドロップアウトしそうな学生にその意欲と社会参加を高めていくドキュメンタリーが近年話題になりました。
ご存じの方も多いのではないでしょうか。
演劇を通しての教育などもいまでは試みられています。
伝統文化に取り組むことで、地域や人々との連帯を持たせたりすることも人を育てる上ではとても大きな意味を持ちます。
いま、青年期の若い人たちは、生きることに目的を持てず、ただ生活のためのお金を稼いで家庭を持つ意欲もなく、無目的にただただ日々をやり過ごしているという人が大変増えているようです。
そのような現実の中で、文化をさらに軽視してくような動きというのは、僕には大変恐ろしく感じます。
こどもの城の閉館の理由とされているものには、いくつもの嘘や詭弁が織り交ぜられています。
結局のところ、国の思惑というのは子供に金をかけても利得にならないのでなくしてしまえ、というところにあるのだと感じさせられます。
こういう動きをそのまま座視していたら、今後さらにこのようなことは広がっていくでしょう。いまでも、学校では美術の時間、音楽の時間は削られ、そこに英語の授業の早期化などを当てはめようとしています。最近の人は文学作品などはなから手に取ろうともしなくなっています。
結果的に、こういった文化軽視の動きは何十年後にはすさんだ国をつくってしまうリスクをあげてしまうのではないでしょうか。
このこどもの城閉館という動きは、それの嚆矢になりはしないかと暗澹たる思いがします。
ヨーロッパなどでは、美術館・博物館などは子供たち、学生は無料で、学校でも意欲的にそういった場に足を運びそれらに意義を持てるような教育に取り組んでいます。美術館では模写をすることなども可能です。
そこの人たちは、家に絵を飾ったり、花を飾ったりすることを特別なことではなく普通のこととして行うことが出来ます。
人間はお金をたくさんもっているからといって「豊か」になるわけではないのだと思います。
日本は不景気とはいえ、世界の多くの国の人々の生活に比べればまだまだ非常に恵まれた国です。
しかし、毎日80人を超える人たちが自殺する国です。
もっと、質的な、精神的な豊かさというものを目指してもいいのではないでしょうか。
そのためにも、文化、またそれを伝えていくことを大切にすべきだと強く思うのです。
参考:
こどもの城HP
naverまとめ 『思い出が詰まった「こどもの城」閉館を惜しむ声、疑問の声』
『こどもの城、青山劇場、青山円形劇場の存続を願う有志の会』
change.orgではまだ、こどもの城、青山劇場、青山円形劇場の存続のデジタル署名を受け付けております
| 2015-02-01 | 日本の子育て文化 | Comment : 9 | トラックバック : 0 |
支配しなくても子供はまっすぐ育つ vol.4 - 2015.02.01 Sun
・子供が親を置いて走って先に行ってしまっている親子
・大人が先を歩いて、子供がその少し距離の開いた後ろをとぼとぼとついていっている親子
これらの背景として多いものが、
前者の子供が先に行ってしまうタイプは、
親が子供をコントロールしきれずに、本当は先に行って欲しくないと思ってはいるのだが、それを子供にさせることができずに半ばあきらめてしまっているというもの。
これは「弱い大人」に多いです。
後者の子供が後ろからとぼとぼついて行っているものは、
子供を親の行動に従うようにと、子供の自ままな行動になってしまう前に先手を打って強い態度を示すことで、子供の本質的な怖れである「置いていかれてしまう」という心を刺激し、それによって大人の困る子供の勝手な行動をさせずについてこさせようとするものです。
これは、「疎外」を利用して子供を思い通りに動かしているということです。
傾向としては「強い大人」に多いでしょう。ですが、こういう対応は多くの人がわりと何気なく使ってしまっているかと思います。
前者は、子供の方が大人に寄り添う姿勢がなくなってしまっています。
後者は、大人の方の子供に寄り添う姿勢が減少してしまっています。
また、子供にとっても大人が取り付く島を与えていないということから、寄り添おうとする気持ちが大人によってふさがれてしまっている状態になっています。
ときには、子供がその日なにかに興奮してしまっていて、先に走って行ってしまったり、子供の方になにか気持ちがつまづくようなことがあったりして、とぼとぼとついていく姿になってしまうようなことはあるでしょう。
しかし、これがいつもの様子であるとすると、そのどちらもが子育てを難しくしてしまうだろうし、子供の育ちそのものにも問題を作っていくことになりかねないと思われます。
このことは、その子供の年齢が小さいならばなおさらです。
今回は「支配」ということをテーマにしていますから、後者について見ていきたいと思います。
この姿を、特に保育園の遅い時間帯にお迎えに来る親子で多く見かけます。
遅い時間の迎えということは、つまり保育時間が長い子供ということです。
保育時間が長い子というのは、その分疲れてもいますし、頑張っていた時間も長いわけです。
素直な甘えが自然に出せる子ならばよいですが、それが出来ない子も多いです。
そうなっていると、ぐずりやゴネでそういった感情を表したり、勝手な行動、親が注意するような行動をとって親の注目を惹こうとする姿が多くなりがちです。
一方で親の方も、仕事を終えて疲れていますし、これから急いで帰って食事の支度をしたり家事をしなければならないといった焦りもあります。
そんなときに、子供が大人の気持ちを逆なでするようなゴネを出したり、ネガティブな行動をとられるのはとてもイライラさせられることです。
ですので、その大人ができるもっとも効率的な支配の方法で子供に対処することになってしまっています。
それが人によっては、「いいなり」だったり、「モノで釣る」だったり、「無視する」や「ガミガミ怒る」、「疎外をする」だったりになっています。
僕はこのようになってしまっている親を責めようというわけではありません。
こういう状況は、「子供を支配すること」が「子育て」であり「しつけ」であると考えてきたこれまでの子育ての「常識」や、「受容」というプロセスが明確に存在していなかったこれまでの子育て観が招いてしまった、一種の「ボタンの掛け違え」なのだと思います。
小さい内から保育園で過ごしている子供たちにとっては、このボタンの掛け違えがずいぶん長いこと積み重ねられてしまいます。
本当は「ママーさみしかったよーだっこしてー」とでも素直に言うことが出来ればなんでもなかったものなのです。
しかし、その道が閉ざされてしまっているがゆえに、ゴネやネガティブ行動にならざるを得ず、それを力で抑えつけられ、結果親の後ろをとぼとぼとついていくしかない状況になっているのです。
まだ小さな2~3歳の子供がこのような状況になっているのを見るのはとても胸が苦しくなるような思いがします。
「満たされなさ」で子供をいっぱいにしてしまう前に、「受容」ということを知っていれば、そしてそれが少しでも出来ていれば、十分にはできずとも親の方にその姿勢が少しでもあれば、そのようにことさら子供を抑えつけるような関わりにならずに済んだことでしょう。
しかし、現実には小さい頃の些細なボタンの掛け違えが、年齢を重ねるにつれてどんどん大きな難しさへと発展してしまっています。
このような、「置いていくぞ」という無言の圧力を掛けられていたり、親が不機嫌さや憮然とした態度を終始示すことで「言うことを聞かされてしまっている子」がどのような姿になっているかというと、気になる姿がまったくない子はほとんどいないと言ってもいいのではないかと思います。
子供の個性により様々ですが多かれ少なかれ、こういった姿がでてしまうことが比較的多くなっているでしょう。
・他児と一緒になって遊ぶよりも、遊びを壊したり、ちょっかいを出すことで関わろうとする。(適切な関わり方ができない or わからなくなっている)
・場面の切り替えのときにすんなりいかない
例えば遊びから生活に切り替えるとき。着替えや食事、片づけになるときなど。
(自分の感情をコントロールしきれないことに加えて、無意識に大人の注目を惹きたがっている)
・集団での行動に消極的
・遊びや生活面にもモチベーションが低い
・絵を描いたり、歌を歌うなどの自己表現に消極的
(自己肯定感が低いゆえに、自分を出すことに恐れがある)
・人が嫌がるようなことを言う、する
(注目をネガティブな行動で求めてしまう)
・他児に手が出る
・意地悪をする
・可愛がることが出来ない(年下の子、生き物、人形など)
これらは一部ではありますし、必ずこのような姿がでるとも限りませんが、子供の受け止めて欲しいという気持ちを、疎外や威圧で常習的に抑えつけられている子では、こういった何らかの子供の姿の難しさがでる可能性は高くなります。
最後の「可愛がることが出来ない」という状況で、もし下に弟妹が生まれた場合、そこからさらに子供のネガティブな行動は増えることでしょうし、親にとっては子育てそのものがさらに難しいものへとなってしまうでしょう。
このボタンの掛け違えは、子育てを「支配のレール」に載せることで引き起こされてしまったことだと思います。
特に保育園のように、長い時間親元から離れるという状況は、「受容不足」になりやすいです。
「受容」のプロセスなしに、「支配」で子育てを組み立ててしまえば、あっという間に「子供は面倒なもの」「子供はムカつくもの」「子育ては大変」ということになりかねません。
どうか多くの人にそのことを知っておいて欲しいと思います。
| 2015-02-01 | 心の育て方 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
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