こどもの城 閉館 - 2015.02.01 Sun
(今日は記事2本をUPしました)
本日、青山にあります『こどもの城』が閉館となってしまいました。
ここは宿泊施設もある、都内唯一の大型児童館です。
イベントなどがあれば、全国からの子供が泊まりがけで来ることもできる、日本全国の児童館を牽引するフラグシップ的な存在でした。
青山劇場や、全国でも珍しい青山円形劇場も併設されておりました。
各地の児童館などで行われる演劇クラブなどの全国大会がここで行われ、その子供たちが本格的な劇場の舞台に立ったりということもありました。
単に、東京の大きな児童館というだけでなく、ここは全国の子供たちとつながっている場所だったのです。
僕はここには学生時代、障がい児の校外活動支援のボランティアなどでしばしば訪れておりました。
他にはない子供の好奇心をかき立てるような大がかりな設備を持っており、またそこで子供が安全に安心して遊ばせることができる場所でもありました。
代わるところのない特別な場所だったと思います。
象徴的な岡本太郎のモニュメント『こどもの木』もここにあります。
以前から、日本は文化が大切にされない国だとしばしば言われてきました。
歴史的な伝統文化もそうですし、自然環境などもそうです。
また、美術・芸術などの文化でもそれは同じです。
古くからある価値ある建造物などを、保存するよりも壊してそこに近代的な施設を建てることが発展であると考えてきました。
自然を残すことよりも、そこを経済的価値の高いものに作り替えることを意味あることとしていました。
教育も、美術や音楽で情操を培うよりも、知識を詰め込むことに偏重しており、それはさらに年を追うごとに先鋭化しています。
直接的な収益性や、実用性がないことは重要ではないと考える向きがあるようです。
しかし、それは本当にそうでしょうか。
イギリスで、音楽教師が合唱を通して、勉強への意欲の低い生徒や、社会からドロップアウトしそうな学生にその意欲と社会参加を高めていくドキュメンタリーが近年話題になりました。
ご存じの方も多いのではないでしょうか。
演劇を通しての教育などもいまでは試みられています。
伝統文化に取り組むことで、地域や人々との連帯を持たせたりすることも人を育てる上ではとても大きな意味を持ちます。
いま、青年期の若い人たちは、生きることに目的を持てず、ただ生活のためのお金を稼いで家庭を持つ意欲もなく、無目的にただただ日々をやり過ごしているという人が大変増えているようです。
そのような現実の中で、文化をさらに軽視してくような動きというのは、僕には大変恐ろしく感じます。
こどもの城の閉館の理由とされているものには、いくつもの嘘や詭弁が織り交ぜられています。
結局のところ、国の思惑というのは子供に金をかけても利得にならないのでなくしてしまえ、というところにあるのだと感じさせられます。
こういう動きをそのまま座視していたら、今後さらにこのようなことは広がっていくでしょう。いまでも、学校では美術の時間、音楽の時間は削られ、そこに英語の授業の早期化などを当てはめようとしています。最近の人は文学作品などはなから手に取ろうともしなくなっています。
結果的に、こういった文化軽視の動きは何十年後にはすさんだ国をつくってしまうリスクをあげてしまうのではないでしょうか。
このこどもの城閉館という動きは、それの嚆矢になりはしないかと暗澹たる思いがします。
ヨーロッパなどでは、美術館・博物館などは子供たち、学生は無料で、学校でも意欲的にそういった場に足を運びそれらに意義を持てるような教育に取り組んでいます。美術館では模写をすることなども可能です。
そこの人たちは、家に絵を飾ったり、花を飾ったりすることを特別なことではなく普通のこととして行うことが出来ます。
人間はお金をたくさんもっているからといって「豊か」になるわけではないのだと思います。
日本は不景気とはいえ、世界の多くの国の人々の生活に比べればまだまだ非常に恵まれた国です。
しかし、毎日80人を超える人たちが自殺する国です。
もっと、質的な、精神的な豊かさというものを目指してもいいのではないでしょうか。
そのためにも、文化、またそれを伝えていくことを大切にすべきだと強く思うのです。
参考:
こどもの城HP
naverまとめ 『思い出が詰まった「こどもの城」閉館を惜しむ声、疑問の声』
『こどもの城、青山劇場、青山円形劇場の存続を願う有志の会』
change.orgではまだ、こどもの城、青山劇場、青山円形劇場の存続のデジタル署名を受け付けております
本日、青山にあります『こどもの城』が閉館となってしまいました。
ここは宿泊施設もある、都内唯一の大型児童館です。
イベントなどがあれば、全国からの子供が泊まりがけで来ることもできる、日本全国の児童館を牽引するフラグシップ的な存在でした。
青山劇場や、全国でも珍しい青山円形劇場も併設されておりました。
各地の児童館などで行われる演劇クラブなどの全国大会がここで行われ、その子供たちが本格的な劇場の舞台に立ったりということもありました。
単に、東京の大きな児童館というだけでなく、ここは全国の子供たちとつながっている場所だったのです。
僕はここには学生時代、障がい児の校外活動支援のボランティアなどでしばしば訪れておりました。
他にはない子供の好奇心をかき立てるような大がかりな設備を持っており、またそこで子供が安全に安心して遊ばせることができる場所でもありました。
代わるところのない特別な場所だったと思います。
象徴的な岡本太郎のモニュメント『こどもの木』もここにあります。
以前から、日本は文化が大切にされない国だとしばしば言われてきました。
歴史的な伝統文化もそうですし、自然環境などもそうです。
また、美術・芸術などの文化でもそれは同じです。
古くからある価値ある建造物などを、保存するよりも壊してそこに近代的な施設を建てることが発展であると考えてきました。
自然を残すことよりも、そこを経済的価値の高いものに作り替えることを意味あることとしていました。
教育も、美術や音楽で情操を培うよりも、知識を詰め込むことに偏重しており、それはさらに年を追うごとに先鋭化しています。
直接的な収益性や、実用性がないことは重要ではないと考える向きがあるようです。
しかし、それは本当にそうでしょうか。
イギリスで、音楽教師が合唱を通して、勉強への意欲の低い生徒や、社会からドロップアウトしそうな学生にその意欲と社会参加を高めていくドキュメンタリーが近年話題になりました。
ご存じの方も多いのではないでしょうか。
演劇を通しての教育などもいまでは試みられています。
伝統文化に取り組むことで、地域や人々との連帯を持たせたりすることも人を育てる上ではとても大きな意味を持ちます。
いま、青年期の若い人たちは、生きることに目的を持てず、ただ生活のためのお金を稼いで家庭を持つ意欲もなく、無目的にただただ日々をやり過ごしているという人が大変増えているようです。
そのような現実の中で、文化をさらに軽視してくような動きというのは、僕には大変恐ろしく感じます。
こどもの城の閉館の理由とされているものには、いくつもの嘘や詭弁が織り交ぜられています。
結局のところ、国の思惑というのは子供に金をかけても利得にならないのでなくしてしまえ、というところにあるのだと感じさせられます。
こういう動きをそのまま座視していたら、今後さらにこのようなことは広がっていくでしょう。いまでも、学校では美術の時間、音楽の時間は削られ、そこに英語の授業の早期化などを当てはめようとしています。最近の人は文学作品などはなから手に取ろうともしなくなっています。
結果的に、こういった文化軽視の動きは何十年後にはすさんだ国をつくってしまうリスクをあげてしまうのではないでしょうか。
このこどもの城閉館という動きは、それの嚆矢になりはしないかと暗澹たる思いがします。
ヨーロッパなどでは、美術館・博物館などは子供たち、学生は無料で、学校でも意欲的にそういった場に足を運びそれらに意義を持てるような教育に取り組んでいます。美術館では模写をすることなども可能です。
そこの人たちは、家に絵を飾ったり、花を飾ったりすることを特別なことではなく普通のこととして行うことが出来ます。
人間はお金をたくさんもっているからといって「豊か」になるわけではないのだと思います。
日本は不景気とはいえ、世界の多くの国の人々の生活に比べればまだまだ非常に恵まれた国です。
しかし、毎日80人を超える人たちが自殺する国です。
もっと、質的な、精神的な豊かさというものを目指してもいいのではないでしょうか。
そのためにも、文化、またそれを伝えていくことを大切にすべきだと強く思うのです。
参考:
こどもの城HP
naverまとめ 『思い出が詰まった「こどもの城」閉館を惜しむ声、疑問の声』
『こどもの城、青山劇場、青山円形劇場の存続を願う有志の会』
change.orgではまだ、こどもの城、青山劇場、青山円形劇場の存続のデジタル署名を受け付けております
| 2015-02-01 | 日本の子育て文化 | Comment : 9 | トラックバック : 0 |
支配しなくても子供はまっすぐ育つ vol.4 - 2015.02.01 Sun
街中で、または保育園の降園時、こんな親子の姿を見かけます。
・子供が親を置いて走って先に行ってしまっている親子
・大人が先を歩いて、子供がその少し距離の開いた後ろをとぼとぼとついていっている親子
これらの背景として多いものが、
前者の子供が先に行ってしまうタイプは、
親が子供をコントロールしきれずに、本当は先に行って欲しくないと思ってはいるのだが、それを子供にさせることができずに半ばあきらめてしまっているというもの。
これは「弱い大人」に多いです。
後者の子供が後ろからとぼとぼついて行っているものは、
子供を親の行動に従うようにと、子供の自ままな行動になってしまう前に先手を打って強い態度を示すことで、子供の本質的な怖れである「置いていかれてしまう」という心を刺激し、それによって大人の困る子供の勝手な行動をさせずについてこさせようとするものです。
これは、「疎外」を利用して子供を思い通りに動かしているということです。
傾向としては「強い大人」に多いでしょう。ですが、こういう対応は多くの人がわりと何気なく使ってしまっているかと思います。
前者は、子供の方が大人に寄り添う姿勢がなくなってしまっています。
後者は、大人の方の子供に寄り添う姿勢が減少してしまっています。
また、子供にとっても大人が取り付く島を与えていないということから、寄り添おうとする気持ちが大人によってふさがれてしまっている状態になっています。
ときには、子供がその日なにかに興奮してしまっていて、先に走って行ってしまったり、子供の方になにか気持ちがつまづくようなことがあったりして、とぼとぼとついていく姿になってしまうようなことはあるでしょう。
しかし、これがいつもの様子であるとすると、そのどちらもが子育てを難しくしてしまうだろうし、子供の育ちそのものにも問題を作っていくことになりかねないと思われます。
このことは、その子供の年齢が小さいならばなおさらです。
今回は「支配」ということをテーマにしていますから、後者について見ていきたいと思います。
この姿を、特に保育園の遅い時間帯にお迎えに来る親子で多く見かけます。
遅い時間の迎えということは、つまり保育時間が長い子供ということです。
保育時間が長い子というのは、その分疲れてもいますし、頑張っていた時間も長いわけです。
素直な甘えが自然に出せる子ならばよいですが、それが出来ない子も多いです。
そうなっていると、ぐずりやゴネでそういった感情を表したり、勝手な行動、親が注意するような行動をとって親の注目を惹こうとする姿が多くなりがちです。
一方で親の方も、仕事を終えて疲れていますし、これから急いで帰って食事の支度をしたり家事をしなければならないといった焦りもあります。
そんなときに、子供が大人の気持ちを逆なでするようなゴネを出したり、ネガティブな行動をとられるのはとてもイライラさせられることです。
ですので、その大人ができるもっとも効率的な支配の方法で子供に対処することになってしまっています。
それが人によっては、「いいなり」だったり、「モノで釣る」だったり、「無視する」や「ガミガミ怒る」、「疎外をする」だったりになっています。
僕はこのようになってしまっている親を責めようというわけではありません。
こういう状況は、「子供を支配すること」が「子育て」であり「しつけ」であると考えてきたこれまでの子育ての「常識」や、「受容」というプロセスが明確に存在していなかったこれまでの子育て観が招いてしまった、一種の「ボタンの掛け違え」なのだと思います。
小さい内から保育園で過ごしている子供たちにとっては、このボタンの掛け違えがずいぶん長いこと積み重ねられてしまいます。
本当は「ママーさみしかったよーだっこしてー」とでも素直に言うことが出来ればなんでもなかったものなのです。
しかし、その道が閉ざされてしまっているがゆえに、ゴネやネガティブ行動にならざるを得ず、それを力で抑えつけられ、結果親の後ろをとぼとぼとついていくしかない状況になっているのです。
まだ小さな2~3歳の子供がこのような状況になっているのを見るのはとても胸が苦しくなるような思いがします。
「満たされなさ」で子供をいっぱいにしてしまう前に、「受容」ということを知っていれば、そしてそれが少しでも出来ていれば、十分にはできずとも親の方にその姿勢が少しでもあれば、そのようにことさら子供を抑えつけるような関わりにならずに済んだことでしょう。
しかし、現実には小さい頃の些細なボタンの掛け違えが、年齢を重ねるにつれてどんどん大きな難しさへと発展してしまっています。
このような、「置いていくぞ」という無言の圧力を掛けられていたり、親が不機嫌さや憮然とした態度を終始示すことで「言うことを聞かされてしまっている子」がどのような姿になっているかというと、気になる姿がまったくない子はほとんどいないと言ってもいいのではないかと思います。
子供の個性により様々ですが多かれ少なかれ、こういった姿がでてしまうことが比較的多くなっているでしょう。
・他児と一緒になって遊ぶよりも、遊びを壊したり、ちょっかいを出すことで関わろうとする。(適切な関わり方ができない or わからなくなっている)
・場面の切り替えのときにすんなりいかない
例えば遊びから生活に切り替えるとき。着替えや食事、片づけになるときなど。
(自分の感情をコントロールしきれないことに加えて、無意識に大人の注目を惹きたがっている)
・集団での行動に消極的
・遊びや生活面にもモチベーションが低い
・絵を描いたり、歌を歌うなどの自己表現に消極的
(自己肯定感が低いゆえに、自分を出すことに恐れがある)
・人が嫌がるようなことを言う、する
(注目をネガティブな行動で求めてしまう)
・他児に手が出る
・意地悪をする
・可愛がることが出来ない(年下の子、生き物、人形など)
これらは一部ではありますし、必ずこのような姿がでるとも限りませんが、子供の受け止めて欲しいという気持ちを、疎外や威圧で常習的に抑えつけられている子では、こういった何らかの子供の姿の難しさがでる可能性は高くなります。
最後の「可愛がることが出来ない」という状況で、もし下に弟妹が生まれた場合、そこからさらに子供のネガティブな行動は増えることでしょうし、親にとっては子育てそのものがさらに難しいものへとなってしまうでしょう。
このボタンの掛け違えは、子育てを「支配のレール」に載せることで引き起こされてしまったことだと思います。
特に保育園のように、長い時間親元から離れるという状況は、「受容不足」になりやすいです。
「受容」のプロセスなしに、「支配」で子育てを組み立ててしまえば、あっという間に「子供は面倒なもの」「子供はムカつくもの」「子育ては大変」ということになりかねません。
どうか多くの人にそのことを知っておいて欲しいと思います。
・子供が親を置いて走って先に行ってしまっている親子
・大人が先を歩いて、子供がその少し距離の開いた後ろをとぼとぼとついていっている親子
これらの背景として多いものが、
前者の子供が先に行ってしまうタイプは、
親が子供をコントロールしきれずに、本当は先に行って欲しくないと思ってはいるのだが、それを子供にさせることができずに半ばあきらめてしまっているというもの。
これは「弱い大人」に多いです。
後者の子供が後ろからとぼとぼついて行っているものは、
子供を親の行動に従うようにと、子供の自ままな行動になってしまう前に先手を打って強い態度を示すことで、子供の本質的な怖れである「置いていかれてしまう」という心を刺激し、それによって大人の困る子供の勝手な行動をさせずについてこさせようとするものです。
これは、「疎外」を利用して子供を思い通りに動かしているということです。
傾向としては「強い大人」に多いでしょう。ですが、こういう対応は多くの人がわりと何気なく使ってしまっているかと思います。
前者は、子供の方が大人に寄り添う姿勢がなくなってしまっています。
後者は、大人の方の子供に寄り添う姿勢が減少してしまっています。
また、子供にとっても大人が取り付く島を与えていないということから、寄り添おうとする気持ちが大人によってふさがれてしまっている状態になっています。
ときには、子供がその日なにかに興奮してしまっていて、先に走って行ってしまったり、子供の方になにか気持ちがつまづくようなことがあったりして、とぼとぼとついていく姿になってしまうようなことはあるでしょう。
しかし、これがいつもの様子であるとすると、そのどちらもが子育てを難しくしてしまうだろうし、子供の育ちそのものにも問題を作っていくことになりかねないと思われます。
このことは、その子供の年齢が小さいならばなおさらです。
今回は「支配」ということをテーマにしていますから、後者について見ていきたいと思います。
この姿を、特に保育園の遅い時間帯にお迎えに来る親子で多く見かけます。
遅い時間の迎えということは、つまり保育時間が長い子供ということです。
保育時間が長い子というのは、その分疲れてもいますし、頑張っていた時間も長いわけです。
素直な甘えが自然に出せる子ならばよいですが、それが出来ない子も多いです。
そうなっていると、ぐずりやゴネでそういった感情を表したり、勝手な行動、親が注意するような行動をとって親の注目を惹こうとする姿が多くなりがちです。
一方で親の方も、仕事を終えて疲れていますし、これから急いで帰って食事の支度をしたり家事をしなければならないといった焦りもあります。
そんなときに、子供が大人の気持ちを逆なでするようなゴネを出したり、ネガティブな行動をとられるのはとてもイライラさせられることです。
ですので、その大人ができるもっとも効率的な支配の方法で子供に対処することになってしまっています。
それが人によっては、「いいなり」だったり、「モノで釣る」だったり、「無視する」や「ガミガミ怒る」、「疎外をする」だったりになっています。
僕はこのようになってしまっている親を責めようというわけではありません。
こういう状況は、「子供を支配すること」が「子育て」であり「しつけ」であると考えてきたこれまでの子育ての「常識」や、「受容」というプロセスが明確に存在していなかったこれまでの子育て観が招いてしまった、一種の「ボタンの掛け違え」なのだと思います。
小さい内から保育園で過ごしている子供たちにとっては、このボタンの掛け違えがずいぶん長いこと積み重ねられてしまいます。
本当は「ママーさみしかったよーだっこしてー」とでも素直に言うことが出来ればなんでもなかったものなのです。
しかし、その道が閉ざされてしまっているがゆえに、ゴネやネガティブ行動にならざるを得ず、それを力で抑えつけられ、結果親の後ろをとぼとぼとついていくしかない状況になっているのです。
まだ小さな2~3歳の子供がこのような状況になっているのを見るのはとても胸が苦しくなるような思いがします。
「満たされなさ」で子供をいっぱいにしてしまう前に、「受容」ということを知っていれば、そしてそれが少しでも出来ていれば、十分にはできずとも親の方にその姿勢が少しでもあれば、そのようにことさら子供を抑えつけるような関わりにならずに済んだことでしょう。
しかし、現実には小さい頃の些細なボタンの掛け違えが、年齢を重ねるにつれてどんどん大きな難しさへと発展してしまっています。
このような、「置いていくぞ」という無言の圧力を掛けられていたり、親が不機嫌さや憮然とした態度を終始示すことで「言うことを聞かされてしまっている子」がどのような姿になっているかというと、気になる姿がまったくない子はほとんどいないと言ってもいいのではないかと思います。
子供の個性により様々ですが多かれ少なかれ、こういった姿がでてしまうことが比較的多くなっているでしょう。
・他児と一緒になって遊ぶよりも、遊びを壊したり、ちょっかいを出すことで関わろうとする。(適切な関わり方ができない or わからなくなっている)
・場面の切り替えのときにすんなりいかない
例えば遊びから生活に切り替えるとき。着替えや食事、片づけになるときなど。
(自分の感情をコントロールしきれないことに加えて、無意識に大人の注目を惹きたがっている)
・集団での行動に消極的
・遊びや生活面にもモチベーションが低い
・絵を描いたり、歌を歌うなどの自己表現に消極的
(自己肯定感が低いゆえに、自分を出すことに恐れがある)
・人が嫌がるようなことを言う、する
(注目をネガティブな行動で求めてしまう)
・他児に手が出る
・意地悪をする
・可愛がることが出来ない(年下の子、生き物、人形など)
これらは一部ではありますし、必ずこのような姿がでるとも限りませんが、子供の受け止めて欲しいという気持ちを、疎外や威圧で常習的に抑えつけられている子では、こういった何らかの子供の姿の難しさがでる可能性は高くなります。
最後の「可愛がることが出来ない」という状況で、もし下に弟妹が生まれた場合、そこからさらに子供のネガティブな行動は増えることでしょうし、親にとっては子育てそのものがさらに難しいものへとなってしまうでしょう。
このボタンの掛け違えは、子育てを「支配のレール」に載せることで引き起こされてしまったことだと思います。
特に保育園のように、長い時間親元から離れるという状況は、「受容不足」になりやすいです。
「受容」のプロセスなしに、「支配」で子育てを組み立ててしまえば、あっという間に「子供は面倒なもの」「子供はムカつくもの」「子育ては大変」ということになりかねません。
どうか多くの人にそのことを知っておいて欲しいと思います。
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