最近の貧困さは、目に見えなくなってきており、「隠れた貧困」としてあるようです。
いまは、物自体がさほど貴重ではなくなった時代なので、服が買えなかったり、文房具がそろえられなかったりということは、昔ほどはありません。
それどころか、子供だけみれば携帯ゲーム機のようなそれなりに高価なものなど、他の子が持っているような物まで一通りそろっています。
しかし、それら一見すると普通の生活レベルであるものが、家庭単位ではギリギリのバランスで行われているのです。
もし、不測の事態で大きな出費があったり、働き手である親が短期間にしろ身体を壊してしまったり、職場からリストラされてしまえば、ただちに生活が立ちゆかなくなってしまうような状況があります。
ギリギリにしろ生活が送れているのならばいいじゃないかという人がいるかもしれません。
しかし、子供が小さい内ならば済むとしても、貯蓄も出来ない状態で過ごしていると、だんだんと無理がかかってきます。
それが顕著に表れるもののひとつが、教育面です。
学資という点だけではありません。
”生活の余裕のなさ”は、その家庭の子供に”勉強をする余裕”を奪い取ってしまいます。
「貧しいけれども苦学して勉強を頑張った」というのは、美談ではあるけれども、現実の多くはそのようにはいきません。
それらは「美談」であるがゆえに、大きく語られはしますが、美談はごくごく一部であるからこそ美談として存在しているのです。
実際ははるかに「貧すれば鈍する」という言葉の方が真実を表しています。
そのようなギリギリの生活状態は、勉強をする余裕、学校に行く余裕、学校に行ってもそこで勉強をする余裕、また勉強以外のことを身につける余裕を奪っていってしまいます。
そういった状況で子供たちの人生がスタートすると、就業において不利になったり、資質そのものが就業に適さなくなってしまっていたり、またはちょっとしたきっかけで社会的にドロップアウトしてしまうようなことが起こります。
社会的にドロップアウトとはどういうことでしょう。
普通に生活している人には縁がありませんが、そういう子供を狙い澄ましてすくい取るような受け皿が世の中にはあるのです。
それは「拾う神」というような、よい存在ではありません。
例えば昔であれば、男子にはシンナーを末端で売らせたり、女子であれば売春やそれに類するようなものへと斡旋したり。
最近では、「オレオレ詐欺」のような知的犯罪の検挙者の中に未成年が含まれており、年々それが増えているそうです。
昨年の未成年の、その検挙者数は一昨年の倍にもなっているとのこと。
家庭の貧困、教育の不備はそのようなところに子供をからめとらせてしまう遠因ともなってしまいます。
現代型の貧困は、とくに母子家庭に起こりやすいです。
母子家庭の3世帯に1つが、貧困もしくは貧困の予備軍となっているともいわれています。
子持ちの女性は、就労において不利になりやすいです。
結果的に、賃金が安かったり、労働条件が悪いところになりかねません。
仕事が厳しければ、子供を十分にケアすることも出来にくくなってしまいます。
慢性的に満たされず、荒れた子供になってしまえば、それこそ早ければ小学校の段階から勉強についていけなくなります。
単に学力が低いというだけでなく、素行が悪いということになると、場合によっては学校からも見放されかねません。
そうなってしまえば、その子をケアできる存在が無くなってしまうこともあるので、より救われなくなってしまいます。
貧困と教育は密接な関係があって、しかもそれが世代をまたいで拡大再生産されることもあります。
日本はまだそれほど目に見える状況ではありませんが、アメリカなどではこの貧困の拡大再生産がとても大きな社会問題となっていますよね。
先日、トマ・ピケティが来日して政府があわてて「格差なんてない」と言いつくろっていたのには失笑しか出ませんでしたが、貧困や社会的格差といったものは、それが小さい段階ですら大きくなりすぎないように努めなければならないのに、「ないこと」にして対応を放棄してしまったら、後々本当に対処の難しい大きな問題になってしまうことでしょう。
つづく。
参考
『貧困はなかったのではなく、見えてなかった〜現代の貧困の捉え方』 日本女子大学教授 岩田 正美 (MAMMO.TVより)