隠れた貧困 vol.2 - 2015.02.27 Fri
黒澤明の晩年の作品に『まあだだよ』というものがあります。
これは、漱石の弟子でもあった小説・随筆家の内田百閒(うちだひゃっけん)の後半生を描いた物です。
ついでに言うと、鈴木清順監督の代表作『ツィゴイネルワイゼン』は百閒の『サラサーテの盤』という小説が元になっています。
この内田百閒は貧乏で有名な人です。
学生の頃から終始、お金に困り続けるのですが、この「貧乏」は「貧困」とはやや異なっています。
なぜなら、物やお金はないとしても、身の内に「教育」というある種の資本が入っているからです。
百閒の貧乏は、世渡り下手だけど節を曲げなかったことから来る面もあって、崇高な貧乏とでも言える部分があります。(まあ、大酒飲みであったこともあるのでしょうけれど・・・)
「貧困」は単にお金や物がない状態だけではありません。
最近流行の自己責任論に依る人からは、例えば、「当人がよい職業に就けなかったのはその人の努力が足りなかったからだ」、「お金がないのならば、自分で勉強して株でもなんでもして儲ければいいじゃないか」といった言葉を聞きます。
しかし、そういった言葉は当事者性を無視した強者の弁であろうと僕は思います。
難なく教育が得られたという人は、学資はもちろん、その間の生活、そして家庭の安定といった背景に支えられて、その人の現在があります。
これらは、単にその人の努力だけではなく、家庭のバックアップがあって教育が得られたということです。
また、成人して一家をなしていたとしても、いざなにかあったときに頼れる家族、親類縁者がいることは、いま現在直接の利益をそこから得ていなかったとしても、実は間接的にその人の生活を支えてくれています。
今回テーマにしている「隠れた貧困」におちいってしまう人には、こういったバックアップが得られないといった事情もその背景にはあるのです。
例えば、最近よく耳にする「毒親」(子供に不利益を重ねてしまう親の意)が、子育てしている人の親であったりすれば、そこに頼ることはそうそうできません。
また、夫のDVが原因で、なんとか離婚した人、逃げてきた人が母子家庭となっていれば、その夫から養育費をもらったりすることは難しいですし、そもそも逃げる段階でそれまでの生活基盤のすべてをなげうって転居せざるを得なかったりということもあります。
このような、手助けしてくれる人と断絶した状態で、親一人で生活し子育てをしていくことは大変に困難な状況を生みます。
現在の生活を維持するのがやっと、将来に展望も持てない状況では、その生活を向上させる努力ができる余裕自体がそもそも持てないのです。
その子供にしても、自己責任論による個人の努力だけに問題をおしつけられるような単純な問題ではなくなっていきます。
前の記事にはケースワーカーをなさっている方からもコメントを頂きました。
そのなかで奨学金についてのお話しがありました。
「勉強したいならば奨学金をもらってすればいいじゃないか」と考える人がいるかもしれません。
近年では奨学金の制度もずいぶんと変わってしまって、通常の貸し付けよりもやや優遇されているところがあるとは言え、普通の借金とほとんど変わらなくなっています。
そういった状況で、高校・大学を出て働いたとしても、すぐに借金の返済が始まります。
また、そういった家庭では、最初から親を養わなければならない、援助しなければならないということもかかってきます。
もし、その家庭がそれまでの生活費を借金していたり、父親の残した借財などを引き継いでいたら、なおさら大きな負担です。
学校を奨学金で出ても、もし就職がうまくいかなければ、たちどころに生活が立ちゆかなくなってしまいます。
なので、この「奨学金をもらって、あとは自分で努力しろ」ということも、現実にはそうそう簡単ではありません。
このように自己責任論だけでは、解決できないさまざまな背景、問題があるのです。
同じ記事に、アメリカ在住者さんからもコメントを頂きました。
アメリカはずいぶん前に軍隊の徴兵制をやめて、志願制になりました。
そして、志願者不足にいつも悩んでいます。
その解決策として、志願して何年間の兵役をこなすと、大学の学費を援助するといった制度があります。
アメリカは日本以上に大学の学費がかかります。
貧困家庭ではそれをまかなうのは困難です。
しかし、教育レベルが低ければ、所得の高い仕事にはつけません。
格差の進んでいるアメリカでは、その生活水準の違いは格段の物です。
なので、その生活から抜け出ようと思ったら、志願して軍隊に行くという選択肢が出てきます。
極端な言い方をしてしまえば、自分の命を掛け金にして生活の向上を目指すのです。
アフガン戦争や湾岸戦争では、実際に戦死者も出て、この問題がクローズアップされていました。
日本でも、将来その気になれば徴兵制をしなくたって、文科省の大学への助成金を減らしてこういったことは簡単にできてしまえます。
特にそのとき格差が進んだ社会になっているならば、それはなおさら余裕です。
実際にいま大学への助成金はどんどん削られています。
助成金が減れば、学費は高くなります。すると、裕福でない家庭の子供は進学しにくくなります。そうなると、その家庭の生活水準が(特に上昇できない方に)固定化されて、社会全体としてはさらに格差が進むことになります。
しかもそうなってしまうと、持てる人たちは自分の命を張る必要がないので、よりアグレッシブな外交や政権が支持されて、実際にそのようなことが出来易くなるわけですね。
次回は貧困と教育の不備がどのような現実をもたらすかについて。
これは、漱石の弟子でもあった小説・随筆家の内田百閒(うちだひゃっけん)の後半生を描いた物です。
ついでに言うと、鈴木清順監督の代表作『ツィゴイネルワイゼン』は百閒の『サラサーテの盤』という小説が元になっています。
この内田百閒は貧乏で有名な人です。
学生の頃から終始、お金に困り続けるのですが、この「貧乏」は「貧困」とはやや異なっています。
なぜなら、物やお金はないとしても、身の内に「教育」というある種の資本が入っているからです。
百閒の貧乏は、世渡り下手だけど節を曲げなかったことから来る面もあって、崇高な貧乏とでも言える部分があります。(まあ、大酒飲みであったこともあるのでしょうけれど・・・)
「貧困」は単にお金や物がない状態だけではありません。
最近流行の自己責任論に依る人からは、例えば、「当人がよい職業に就けなかったのはその人の努力が足りなかったからだ」、「お金がないのならば、自分で勉強して株でもなんでもして儲ければいいじゃないか」といった言葉を聞きます。
しかし、そういった言葉は当事者性を無視した強者の弁であろうと僕は思います。
難なく教育が得られたという人は、学資はもちろん、その間の生活、そして家庭の安定といった背景に支えられて、その人の現在があります。
これらは、単にその人の努力だけではなく、家庭のバックアップがあって教育が得られたということです。
また、成人して一家をなしていたとしても、いざなにかあったときに頼れる家族、親類縁者がいることは、いま現在直接の利益をそこから得ていなかったとしても、実は間接的にその人の生活を支えてくれています。
今回テーマにしている「隠れた貧困」におちいってしまう人には、こういったバックアップが得られないといった事情もその背景にはあるのです。
例えば、最近よく耳にする「毒親」(子供に不利益を重ねてしまう親の意)が、子育てしている人の親であったりすれば、そこに頼ることはそうそうできません。
また、夫のDVが原因で、なんとか離婚した人、逃げてきた人が母子家庭となっていれば、その夫から養育費をもらったりすることは難しいですし、そもそも逃げる段階でそれまでの生活基盤のすべてをなげうって転居せざるを得なかったりということもあります。
このような、手助けしてくれる人と断絶した状態で、親一人で生活し子育てをしていくことは大変に困難な状況を生みます。
現在の生活を維持するのがやっと、将来に展望も持てない状況では、その生活を向上させる努力ができる余裕自体がそもそも持てないのです。
その子供にしても、自己責任論による個人の努力だけに問題をおしつけられるような単純な問題ではなくなっていきます。
前の記事にはケースワーカーをなさっている方からもコメントを頂きました。
そのなかで奨学金についてのお話しがありました。
「勉強したいならば奨学金をもらってすればいいじゃないか」と考える人がいるかもしれません。
近年では奨学金の制度もずいぶんと変わってしまって、通常の貸し付けよりもやや優遇されているところがあるとは言え、普通の借金とほとんど変わらなくなっています。
そういった状況で、高校・大学を出て働いたとしても、すぐに借金の返済が始まります。
また、そういった家庭では、最初から親を養わなければならない、援助しなければならないということもかかってきます。
もし、その家庭がそれまでの生活費を借金していたり、父親の残した借財などを引き継いでいたら、なおさら大きな負担です。
学校を奨学金で出ても、もし就職がうまくいかなければ、たちどころに生活が立ちゆかなくなってしまいます。
なので、この「奨学金をもらって、あとは自分で努力しろ」ということも、現実にはそうそう簡単ではありません。
このように自己責任論だけでは、解決できないさまざまな背景、問題があるのです。
同じ記事に、アメリカ在住者さんからもコメントを頂きました。
アメリカはずいぶん前に軍隊の徴兵制をやめて、志願制になりました。
そして、志願者不足にいつも悩んでいます。
その解決策として、志願して何年間の兵役をこなすと、大学の学費を援助するといった制度があります。
アメリカは日本以上に大学の学費がかかります。
貧困家庭ではそれをまかなうのは困難です。
しかし、教育レベルが低ければ、所得の高い仕事にはつけません。
格差の進んでいるアメリカでは、その生活水準の違いは格段の物です。
なので、その生活から抜け出ようと思ったら、志願して軍隊に行くという選択肢が出てきます。
極端な言い方をしてしまえば、自分の命を掛け金にして生活の向上を目指すのです。
アフガン戦争や湾岸戦争では、実際に戦死者も出て、この問題がクローズアップされていました。
日本でも、将来その気になれば徴兵制をしなくたって、文科省の大学への助成金を減らしてこういったことは簡単にできてしまえます。
特にそのとき格差が進んだ社会になっているならば、それはなおさら余裕です。
実際にいま大学への助成金はどんどん削られています。
助成金が減れば、学費は高くなります。すると、裕福でない家庭の子供は進学しにくくなります。そうなると、その家庭の生活水準が(特に上昇できない方に)固定化されて、社会全体としてはさらに格差が進むことになります。
しかもそうなってしまうと、持てる人たちは自分の命を張る必要がないので、よりアグレッシブな外交や政権が支持されて、実際にそのようなことが出来易くなるわけですね。
次回は貧困と教育の不備がどのような現実をもたらすかについて。
| 2015-02-27 | 日本の子育て文化 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
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