条件付きの肯定はいらない vol.8 - 2015.03.31 Tue
そこから子供に対して出てくる感情と言葉は、「ごめんなさい」になっています。
子育ての時期が終わって大人になってしまった子供に対してならばいざ知らず、乳幼児を子育てしているときには、この「ごめんなさい」はあまり子供のプラスにはなっていきません。
「よくない(と思っている)関わり」 → 「ごめんなさい」
の繰り返しをしているだけになってしまいます。
「ごめんなさい」という言葉は、いくら誠実に重ねたところで、子供を「肯定」する言葉には少しもなりません。
その子供が子育ての中でたくさんされてしまっていることは「否定」であり、望んでいることは、それの逆、つまり「肯定」なわけです。
自己肯定感が低く、子供へ肯定的に関わることが出来ない人が発するこの「ごめんなさい」は、子供を折り返し地点にしているだけで、実は自分に向けられている言葉です。
そして、その返ってきた「ごめんなさい」が運んでくる意味は、「私はやっぱりだめな親なのだわ」といった、自分に向けられた否定です。
子育てをよいものにしていくきっかけとなる、その人が子供に掛けるべき言葉(もしくは普段向けている感情)は、本当は「ありがとう」なのです。
「いつも頑張って保育園に行ってくれてありがとう」
「健康でいてくれてありがとう」
「ご飯を残さずたべてくれてありがとう」
「私は怒ってばかりいるのに、いつも笑顔でいてくれてありがとう」
「私の子供に生まれてきてくれてありがとう」
何に対して「ありがとう」と言うかは、なんでもいいし、その人次第ではあるけれども、「ありがとう」というのはまぎれもない肯定の言葉です。
(もちろん、嘘をつく必要はありません。自分を偽って無理やり「ありがとう」を言いましょうという意味ではありません)
その「ありがとう」という肯定の言葉で、子供と、親である自分を含めた子育てそのものを包み込んでしまうのです。
子供も親も、家庭もそれぞれ違います。
正解の子育てなどないのだし、ちょっとやそっと、それどころか結構な失敗・間違いですら、子供の育ちは許容していってくれます。
正解を求める必要も、失敗を怖れる必要も、周りと比べて自分の子供や家庭を不憫に思う必要もありません。
自己肯定感が低く、自分に自信を持てない人は、子育てという未知のものに直面して、不安になり恐れを抱きます。
不安だからこそ、子供にたくさんのものを持たせなければと考えてしまうし、早くに能力を獲得させなければと考えてしまう、出来ないことが多いことや、発達が遅いことなどが必要以上に気になってしまいます。
やはりこの一連の記事を書いている中で、ネントレをさせなければならないのか?、排泄の自立が遅いことを気にするコメントがありました。
世間で言われることを気にして「正解を求める子育て」をする必要はないのです。
その家庭の状況でネントレがどうしても必要ならばすればいいし、別にその必要性がなければしなくたっていいのです。ただそれだけのことです。
でも、自分の心に不安があり、子育てに自信がないと、まるで「それをしなければ子育てが大失敗でもしてしまう」かのように感じられてしまいます。
こういうことは、なんでもない人にはなんでもないことなのだけど、生育歴や自己肯定感に引っかかるものがある人には、とても大きな問題です。
排泄にしても、焦りが排泄の自立以上の問題を生んでしまうことは、排泄についての箇所や、相談の返信で繰り返し述べてきたことです。それは問題はもはや排泄のことではなくなっています。
そのまま「排泄の自立」のために「トイレトレーニング」をしたところで意味はないでしょうから(僕は元々トイレトレーニング自体を勧めてはいませんが)、一旦すっぱりやめてフラットなところに戻った方がずっといいでしょう。
「不安と心配」を子育ての原動力にしない方がいいです。
「失敗のないように、失敗のないように・・・」と考えながら日々の子育てを送っていたら、子育ては本当に大変なばかりです。
明確な正解もなければ失敗もないのが子育てで、もし、うまくいかないことがあったとしてもそこからでも取り返しがつくのが子供というものです。
まず何を目指せばいいかは、「かわいい子に育てる」の記事で述べたとおりです。
| 2015-03-31 | 心の育て方 | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
条件付きの肯定はいらない vol.7 - 2015.03.30 Mon
このシリーズは、もうあと1~2回でまとめますね。
『子は親を救うために「心の病」になる』 高橋和巳(筑摩書房)
という本があります。
この本は精神科医でカウンセリングの経験の豊富な著者が、親子関係から起こる心の病について、事例をあげながら解説をしているものです。
親の期待に応え高い学歴を得て一流企業に就職した男性がそこから引きこもりになったり、子供の甘えを許容できない母親のケースや、娘が思春期に拒食症になってから自身の成育歴を見つめなおした母親の事例、虐待がどのような人間を作っていくかなどをわかりやすく書かれています。
それによると、
子供は、親からいいも悪いも含めて生き方を引き継ぎ、その生き方が矛盾を多く抱えており窮屈であると、その親の窮屈さと矛盾を取り除くために、最後の手段(もちろん意図的なものではないが)として、心の病となるのだそうです。
それが最初に端的に表わられるのが思春期であると述べられています。
僕は保育士として多くの子供の幼少期の育ちを見ていて、ここで述べられていることが実感的によく理解できます。
なぜなら、それらの現在進行形の姿をいくつも見てきたからです。
その中で、本当に深刻なものはA子の事例のように、親がなんの疑問も葛藤も持たず、強烈に大人から子供へ要求を重ね、感情や行動を支配し、しかもそれを「正しいこと」をしていると信じて疑わないケースです。
子供は、親の生き方や価値観、他者への関わりをトレースしていきます。
やがて思春期になって適度に親に反発したり、家庭外の世界に居場所を見つけて新たに自分の価値観を構築できたりすればいいですが、それができなければ、その親からトレースされたものはそのままその人への呪縛となってしまいます。
この問題が根深いのは、当の親自身がすでにその親から引き継いだ価値観に束縛されてしまっているために、理屈では解決しない点です。
A子の事例では、母親の代では母親はそれに窮屈さを感じる問題としては表れてきていないようですが、その子であるA子にそれが濃縮された問題として出てきてしまっています。
先ほど紹介した本の中では、子供が心の病になって、それをきっかけに親が自分の生育歴や人生、子供に対してしてきた関わりを見つめ直すことで、親子間にある種の和解ができて解決する事例が描かれています。
現実にはそのようにカウンセラーにかかったりすることもなく、大人になっても親からの束縛に苦しむ人もたくさんいることでしょうし、親にとことん反発してそれでも親が後悔も反省もすることなく和解できずに、心苦しくも疎遠にならざるをえなかったり、絶縁してしまう人もいるでしょう。
近年話題になるものとして増えているのが、親から強烈に支配的な育ちを与えられて、挙げ句の果てに他者へと怒りや殺意を向けて犯罪を起こしてしまうものが見られます。
秋葉原通り魔殺人のケースは、子供の非を見つけては床に食事をばらまいて食べさせたり、友達を作らせなかったり、感情・行動を異常なまでに支配し束縛していった子供時代があります。
そのように極端なものは普通はそうそうないでしょうし、A子の事例のような徹底したケースもそんなに多いわけではありません。
ですが程度の差こそあれ、そういったA子の事例のような傾向の子育て家庭が増えているのは確かです。
A子の事例では、A子の母親自身は自己肯定感に問題はなく、むしろ「正しいこと」と信じて疑わないがために問題が大きくなっている特徴のものでした。
コメントでたくさん寄せられたもので多かったのは、親である自分が、支配や否定の子育てを受けてきて自己肯定感も低く、子供へも同じように関わってしまう。またそれらの関わりがよくないことには気づいているのだが、そこで起こってしまう感情が止められない。子供への見方・関わりがコントロールできずに苦しい、といったものでした。
A子の事例で起こっていることとは、ちょっと違うようにも見えますが、根っこのところはかなり近いところにあるのだろうと思います。
否定や支配の子育てを受け、そこでの親の価値観をトレースされ、その人の性格からや親を尊重しているがゆえに親の存在や行為を否定できずに、結果的にそれらが自分の内に自己肯定感の低さを作り出してしまっています。
ですが、それらの人は「子供への関わり方の問題」、「自身の感情の問題」のどちらにも「気づいて」います。
その気づきゆえに、大変なときさえ乗り切ってしまえばそうそう大きな問題としてはでてこないとも言えますし、出てきたとしても解決が可能だろうと思います。
これは大人の問題であり、さらには個別の問題なので、僕からこうすれば解決しますよといったことは言えないのですが、子育ての面から切り替えるきっかけになりそうなヒントだけでも述べておきましょう。
長くなってしまったので分割して次回につづきます。
↓こちらの本は同じ著者の方が、そういったケースのまっただ中にいる子供(小中高校生)向けに書いたものです。
自分の置かれた状況を客観的に見て、その問題を乗り越える助けとなるようにまとめられています。
| 2015-03-30 | 心の育て方 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
条件付きの肯定はいらない vol.6 - 2015.03.29 Sun
「子供に教育熱心な母親」という程の意味合いですが、
もうすこし大きく見ると、子供への要求が増大し、核家族の中で母子の密室化(母子のみで構築される人間関係、そこから過剰になる過保護・過干渉)の問題が社会的に表れてきた時代を象徴する言葉だったと言えるでしょう。
ただこの頃は、専業主婦でいることがよしとされている時代でしたので、そのように教育熱心になる層、社会的ステータスが高かったり、資力があったり、親の学歴が高かったりする家庭は、比較的、母親が専業主婦でそれを行っているというケースが多かったはずです。
それがA子の事例と、大きく違うのは少なくとも「家庭」があり、家庭にいる時間はかなりあったこと。まだこの時代の教育熱心は、いまほどは対象年齢が低くなく、子供時代はいまよりはゆるやかに確保されていたことがあげられるでしょう。
この「専業主婦至上主義」の時代にかもし出された考え方として、子供は「勉強や習い事に専念させる」ことです。
それまでの時代(核家族に移行する前の時代)は、家内制労働が多く、家族みんなでその家業をしている家の割合が圧倒的に多かったですから、母親も重要な働き手で、少なからず子供が家事やそれに類することを行っていました。
社会が都市化し、父親が勤め人になることで、「核家族」や「専業主婦」が生まれてきました。
そこでは、専業主婦が家事の一切を行うことがその職務と義務なって、子供はそれらから解放されます。
その結果、子供は親の意図する勉強や習い事に専念しなければならない状況が生まれました。
現代の家族のあり方、そこでの子供のポジションのひな形がこの時代にできたといってもいいでしょう。
すでに子供時代を、そのように送ってきた人がいまの親世代となっています。
親が「教育ママ」であったという人も、もちろんその中にはいることでしょう。
その子育ての形が、男女フルタイムの共働き家庭という、その当時よりも余裕の失われた状況で、同じように、もしくはもっと過剰になって行われています。
A子の事例は、その極端な例と言えます。
親の期待に応えることを、その生き方の核としてきた人は、自分の子供へも知らず知らずそれを要求していってしまいます。
それはその人にとって「正しいこと」であり「正義」なので、それを小さな子供に要求して、子供がそれに耐えきれなくなっていてもなかなか気づいてあげることができません。
低年齢の子供では、すぐそれも限界を迎えてしまいます。
そこから子供は様々な問題行動を出してきますが、「頑張ること」「我慢すること」、またそれらの元になっている「子供への要求」は、その大人にとっての「当たり前の生き方」であるので、それら問題行動の原因であるとはなかなかとらえられません。
結果、子供は問題行動を募らせ、ときに人格形成をねじ曲げさせていきます。
A子の事例で言えば、
母親はA子に負担をかけていることや、過剰な要求をしていたという認識はほとんどなかった。
母親にとって「頑張ること」「我慢すること」は、自身の人生のかたちであり、それを子供に要求することはどこもおかしなところはない。
だがそれは子供の視点から見れば、それらの要求に留まらず、行動や感情を支配することにまでつながっており、さらに大きな影響を与えてしまっている。
A子は情緒の不安定や、爪かみ、イライラなどだけでなく、乳児から幼児への成育歴の中で、他児への意地悪や、支配的な関わりが性格として身についてきてしまっている。
A子に悪意はないのだが、家庭で支配的に関わられることや、慢性的にため込んでいるストレスから他児への関わりが陰湿なものとなってきている。
悪意がないので、最初のうちはそういった関わりも相手を選ばない。
相手が発達の進んでいる子、気の強い子だと、その内相手にしてもらえなくなるので、自然とその対象が幼い子や気の弱い子になっていく。
保育園の段階では、このような関わり方をしていても、まだ周りの子供からも「意地悪」であるとか、「いじめっこ」であるとはレッテルを貼られるようなことはそうそうないので、こういった関わり方が身についていても、その集団に居場所がなくなることはない。
また、そこの大人である保育士もそういったA子の状況を理解して受け止めているので、A子にとっても自分が許容されていることを感じていられる。
だが、これが保育園をでて就学してしまえば、絶えずA子から目を離さず直接A子のことを援助してくれる大人の存在はなくなってしまう。また、友達との関わりももっとシビアなものとなってしまう。
当然ながら出来ることなら、A子の成育上の問題を保育園の間に解決に向かっての道筋をつけてあげたいと思う。
しかし、このA子の問題を対症療法的に押さえていくアプローチをすることは出来るが、根本的に解決しようと思ったら問題は母親の気持ちの在りようが焦点になるだろう。
保育士は、カウンセラーでも精神分析医でもないので意図的にそのような働きかけが出来るわけではないが、自分の子供の子育てをするなかで、自身の成育歴を客観的に見つめられるようになる人もいる。
A子の育ちが安定したものとなるには、母親が少しでも自身の成育歴や親子関係を冷静に見つめ直すきっかけが必要になる。
それが出来ないことには、A子へのさまざまな要求は今後も留まる事はないだろうし、むしろ年齢を重ねていけばさらに過剰になっていくだろう。
こういった、親の成育歴から子供への問題が出てくるケースで明暗を分けるのは「気づくか気づかないか」の一点にあるでしょう。
つづく。
| 2015-03-29 | 心の育て方 | Comment : 14 | トラックバック : 0 |
条件付きの肯定はいらない vol.5 - 2015.03.25 Wed
スイミング、リトミック、算数教室、英語教室、バレエなどの習い事が3歳になった頃から徐々に増えていった。(それ以前の2歳くらいからも、英会話教室や家庭で行う早期教育などは行っていた)
それにいつ通うかというと、園の閉所時間の迎えに来て、そこからその習い事教室へ行くまでの間に菓子パンを食べさせて、それから習い事である。
また、土曜日はふたつみっつの習い事のはしごをする。
あるとき、他児とモノの取り合いでトラブルになった。
普段からイライラや情緒不安定を抱えているA子には、これはしょっちゅうあることなのだが、このときは特に怒りが激しく、激高して大泣きし、保育士が受け止めていると、さらにその後感情を吐露するように「わたしは、〇〇の習い事なんかしたくなかったんだ。いきたくないよー」と何度も繰り返しつぶやきながらさめざめと泣き続ける。
さて、もしこれが大人だったとして考えてみましょう。
なにか関係のないことで激高し、暴れ、その後何時間にもわたって、泣きながら独り言をつぶやいていたとしたら、その人は相当に精神的に追い詰められていると誰しもが感じることでしょう。
このA子にしても、3歳になったばかりの状況で、平日は毎日12時間近くの保育時間を生後4ヶ月くらいの時点から現在まで続け、多少の熱や体調の悪化でも休むことが出来ず、食事の多くは外食、睡眠以外で家庭で過ごす時間はほんの2~3時間あるかないか、休日の内の1日は習い事の掛け持ち、残りの1日は親の買い物やレジャーに付き合わされることも多いという生活を続けてきています。
さらに、親からの関わりは疎外や無関心が強い。
これだけのことが積み重なっていれば、このA子に問題行動がでるのは必然的なことでしょう。
問題が習い事だけでないことはわかっているのですが、それを伝えてもなかなか実際の親の対応に響くことがないので、
このときは、子供が明確に意思表示をしていることでもあり、習い事についてを母親に伝えました。
現状は明らかにA子に負担であり、さらに習い事を増やすことはリスクが大きいこと。実はこの時点で、母親はもうひとつ習い事を増やすことを考えていた。
結果的に、なんとかさらに習い事を増やすことは思いとどまってもらったのですが、このときに、「習い事は、全部A子がやりたいと言っているからやらせている」と話していました。
このA子が「〇〇をやりたくない」と言っている習い事に対しても、「A子が自分からやりたい」と言っていたと母親はかなり本気で思っているのです。
経験上、この、親の願望を子供が「したがっている」と子供に言わせてやらせるケースは深刻なものが多いです。
このスタンスで子育てに臨んでいるケースは、あとあとまでひきずることがあります。(あとあとというのは、思春期や青年期以降もです。)
なぜなら、親が子供にさせていることに対して、自分で責任をとろうとはしていないからです。
子供を追い詰めていたとしてすら、自分が間違っていた、子供に悪いことをしてしまったとは、親は感じてくれません。
子供はそのことで、あとあとまでも苦しむことになります。
ちょっとそれますが。
これまでの記事にとても深刻なコメントがいくつも寄せられました。
前の記事のコメントには、「まさに・・・」で始まるコメントがいくつもあって、最初は同じ人が間違って二重に投稿してしまったのかと見間違えるほどでした。
この事例と、そのコメントをした人たちが決定的に違うのは、子供にするべきでない関わりをしてしまったと後悔や、反省があることです。
もし子育てがうまくいっていなかったとしても、このことは子供の心の成長にとって大きな意味を持ちます。
詳しくは、今後の続きの記事の中で参考図書をあげて述べますが、それがある分には大丈夫です。
では、話をA子のことに戻します。
子供は柔軟ですから、そのように負担の大きな生活であっても、それなりに楽しさを見いだしたりして乗り切っていきます。
習い事についても、習い事そのものが嫌なわけではないのです。
子供が本当に辛いのは、「お母さんが私にそれを望むから、私はそれを一生懸命頑張っている」ということを理解してもらえないことがとても辛いのです。
親から子への関わりが、「条件付きの肯定」になってしまっているケースでは、子供は親に認めてもらいたくて親の要求することを頑張ります。
このA子で言えば、親に自分を好意的に受け止めてもらうために、一生懸命親を喜ばせようとしています。
親が喜ぶと思うから、親の意向を汲んで親に話を向けられたときに「その習い事をしたい」と言ってしまいます。
しかし、親が「子供がしたいからやらせてあげたんだ」という姿勢でいたり、そう言ってしまうと、子供は自分の思いが親には届いていなかったという事実を突きつけられることとなります。
この状況での習い事そのものの精神的、身体的負担というのももちろんあるのですが、子供にとってはこのことが一番心をすり減らし、荒れさせることになるでしょう。
つづく。
少し所用があり、以降の更新が遅めになります。あしからず。
| 2015-03-25 | 心の育て方 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
条件付きの肯定はいらない vol.4 - 2015.03.24 Tue
また、最後にDVやモラハラなどの話を出してしまったので、その印象が強くなってしまったかもしれませんが、そういったややレアなケースでなくとも、親から、「いい子」でいることや、お兄さんお姉さんでいることを望まれていたり、父母が厳格であったり、勉強が出来ることを期待されてきたといった普通によくあるケースでも同様の、「親の期待に応えることが自分の人格の支柱になっている」という生育歴は作り出されます。
この生育歴を持って、子育てのスタートラインに立っている人は多いです。
さらに、これまでの日本の子育てが「しつけ」を特に重要視してきましたので、多少なりともそういった、「親である自分の期待に応えない我が子」に直面したときのストレスはより大きなものとなります。
ストレス程度の問題で済んでいればいいですが、前回見たように、子育て以前の問題(自己の生育歴に起因するものが、我が子の子育てに直面して顔を出すもの)から起こってくるしんどさは、悪循環を生むし、子育てを頑張っても容易に解決しないために、より難しいものとなってしまいます。
僕は子供への関わり方や、子育ての方法をお伝えすることはできるのですが、こういった親の心の成り立ちにその原因があるケースに対する、明確な解決方法は持ち合わせません。
これは僕に限らずその他の子 育ての情報もやはり同様でしょう。
なぜなら、それは本当はその子の子育ての問題ではなく、子育てする人本人の心のあり方の問題だからです。
程度が軽いものであれば、「くすぐり」や「先回りした関わり」「受容を最初に持ってきて子育てすること」など、子育ての無理を減らす・ストレスを小さくする具体的な関わり方を示すことで、子育てを安定させていくことはできるとは思います。
しかし、どれだけそういった働きかけをしても、子育ての安定化や、親子の良好な関係にいたらないケースもあります。
今回は、そんな事例を紹介してみようと思います。
女の子(以降、A子とする)。産休明けの0歳児から保育園に入園。きょうだいはなし。
日々の保育時間は、ほぼ園の開所時間~閉所時間という12時間近くにわたる長時間保育。
父親は、ときどき登園時に、保育園に連れてきたりといった育児参加はしているも、さほど積極的というほどではない。また、子供の養育や日々の生活に関してもあまり自分の意見を持たず、母親にまかせているといった感じ。
母親は、いわゆるキャリアウーマン、相当に勉強をしてこなければ入れないだろうとすぐわかる一流企業に勤めている。
子供と一緒にいるときは、温かく関わったりするよりも、自分に迷惑をかけないこと要求する雰囲気を全面に出している。ベタベタとした関わりはせず淡泊なタイプ。
A子は、年齢にしては身体が大きく、行動面もそこそこしっかりとしているので、年齢以上のことを要求されてしまうところがある。
0歳の頃から、長時間の保育に加えて、家庭でも甘えや感情を好意的に受け止めてもらえないことが重なっていて、爪噛みや他児への噛み付きなどが慢性的に出ていた。
1歳後半くらいから、ちょっとしたトラブルや、転んだりぶつけたといったことをきっかけに、感情を爆発させることがしばしばある。
また、突然部屋の隅やカーテンの陰でシクシクと泣き出したりする情緒の不安定さがあった。
休日明けの週初めなどは、特に情緒不安定になっている。
休日の過ごし方などを聞くと、大人本意で連れ回されているといったことが多かった。(親の社交に付き合わされて夜遅くまで外出したりなど)
ふだんも、保育園を延長番の時間に迎えに来て、夕飯を外食で済ませて家に帰って風呂には行って寝るといった日も多い(家庭で過ごす時間が著しく少ない)。
また、降園後に友人宅にいってそのまま遅くまで過ごすといったことが乳児期から続いており、情緒が安定しない原因のひとつとなっていたと考えられる。
簡単に言ってしまえば、大人中心の生活スタイルに乳飲み子のときから合わせられているという生育歴を送っていた。
その間、親といるときは極力「いい子」でいて、親の期待に応え、我慢したものを無意識に親の前以外で出していた。
母親に対して、わがままやゴネ、甘えを出すと、怒られたり叱られたりということはそう多くないが、疎外によって冷淡に対応されるので、知的な理解の進んでいるこのA子はそのようなかたちでは出せなくなっていた。
1歳児クラスの時点で、噛み付きやひっかきなどのA子の荒れた行動やキレ、チックなどの心身症、情緒の不安定さは、はっきりとこのままではまずいというレベルを示していた。
噛み付きなどがあることもあり、折にふれて母親とはA子の様子について話をしたり、面談をする。
母親からも、「心配しているんです」、「困っています。どうしたらいいでしょうか?」といった言葉が出てくる。
それに対して、乳児期からの長時間保育はそれだけで子供にも負担がかかっていること。家庭でのんびりと安心して過ごせる時間が必要なこと(1歳の頃から家庭で出来る早期教育の勉強をさせられていた)。甘えや頑張っている気持ちを受け止められないと、情緒の不安定さが引き起こされること。
くすぐりをしたり、一緒に遊んで楽しい時間を持ったりすることで安定させていけること、などを伝えていった。
こちらから押しつけがましく話をしているわけではなく、「どうしたらいいでしょう?」という母親の相談を受けてから伝えているのだが、どうにも、その母親の口調ほどには、実際の行動にはあまり反映されておらず(忙しくてできないといった感じではなく、その気持ちが薄いという様子)、同様のことが何度も繰り返された。
印象としては、話を聞いてもらったことで満足してしまっている様子や、子供のことを心配している親というポーズをとっているような様子がうかがえた。
そのような中であまり改善は見られないにしても、このA子の担任保育士が専門性があり受容のできる保育士だったので、表面的にはある程度のバランスを保ちながら年齢が進んでいく。
そして、3歳になった頃から、さらに習い事が増加していく。
つづく。
| 2015-03-24 | 心の育て方 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
条件付きの肯定はいらない vol.3 - 2015.03.22 Sun
この状況にある大人には必然的に、「自己肯定感」「自尊感情」「承認欲求」の問題がついて回ります。
こういった育ちを送ってきた人は、
自分が頑張って、親の期待に応えるための具体的な行動を努力し、それを親に認めてもらうことで初めて、自分の存在が肯定・承認されてきました。
この形は、大人になり周囲にいる人が変わっても引き継がれていきます。
例えば、この人は他者の目がとても気になります。
周囲の人間に自分が承認されていると思えてこそ、初めて自分の存在が自分で肯定できるからです。
ただ、そのように他者から、そのときそのときでもたらされるような肯定は、あまり強いしっかりした肯定とはならないものです。なので、自己の承認欲求に対する満たされなさ、不安を抱えていることも多いです。
ときどき、周囲の人がどう思っているかなど我関せずで、自分のしたいことを自分のしたいように平気で出来る人がいますが、それの真逆の状態です。
ですから、この人は例えば、公園にいった先で我が子が周囲の子供のモノをとってしまったりすると、その相手の親から自分が否定的に見られはしないかと大変強く気にしてしまいます。
そのため、我が子への関わりが、「問題を起こさないように、起こさないように」と先回りした過干渉を過剰にしていったり、自分が「子供をしつけられない親」と周囲から思われないようにと、とても激しく我が子を怒ったりする姿を出してしまいます。
実際はそのように周りから思われていないとしても、子供がそういった適応的でない姿を出すことが、結果的に周囲からの自分へのダメ出しをされるのではないかと感じてしまうので、我が子を許容的・肯定的に見ることが出来ずに、いらだちや、子育てに対する徒労感を強く感じさせていきます。
過保護や過干渉、受容できない態度、子供を肯定的に見れない姿勢は、当の子供の姿を難しくする方に持って行きますから、ますます子供の行動はコントロールしづらいものとなってしまいます。
これは、子育てが難しくなる悪循環を生みます。
その関わりが年齢を重ねるにつれて積み重なっていくと、いつも怒ってばかりの親や、イライラが抑えられず子供に手をあげてしまう親、子供を極力見たくなくて放任になっていく親、ネグレクトになっていく親を作り出してしまいます。
これは子育ての問題のように見えて、その実、子育て以前の問題になっています。
またはこんな状況も生みます。
その人は自分の子供時代から思春期・青年期と、常に親の顔色をうかがって過ごしてきました。
この生育歴がどのような人格を作るかというと、自分に自信のない人間を育ててしまいます。
「自分がどういった行動をとるべきか、とっていいのか」という問い(こう書くと難しいですが、つまりは日常での行動のいちいちや人生の選択)、に対する答えを自分で出せないということになります。
その人の立場から言うと、「これをしていいんだろうか?」「自分は間違ったことをしてはいないか?」「こうしたら誰かに怒られてしまいはしないか?」といった不安にいつもさいなまれているわけです。
なかには「自分でした選択」と思っていることが、実は親の願望に合わせていただけといったケースもあることでしょう。
自分では行動に対する答えを自信を持って出せないので、子育てするときの子供への関わり方にも、その傾向が顕著に出ます。
そのため、子供に振り回されて「いいなり」や「甘やかし」になりやすいです。
また、自分がする子育てに自信が持てないので、「正しい」子育てを求めて、様々な情報にも振り回されてしまいます。それがこうじて、不安を煽って「トンデモ」なことを主張する悪質なものにすらとらわれてしまうこともあります。
前半に出てきた怒ってばっかりや、放任などの「強い大人」傾向の人と、このような子供に振り回されてしまう「弱い大人」傾向の人のどちらもが、この、支配的もしくは、親の願望や要求に従うように関わられてきた生育歴にその原因を見いだすことが出来ます。
余談ですが、この傾向が非常に顕著な人は、自分のことを強引なくらいに引っ張ってくれる人に、無意識にですが安心感を見いだします。
それがいい形でできていればいいですが、DVやモラハラをする父親のいる家庭で育った人が、自分の恋人や夫に、DVやモラハラをする男性を選んでしまう傾向があるのはこのためもあるでしょう。
| 2015-03-22 | 心の育て方 | Comment : 10 | トラックバック : 0 |
条件付きの肯定はいらない vol.2 - 2015.03.20 Fri
なぜ出来ないのかというと、親やその大人が自身の成育歴の中で「無条件の肯定」の経験が少なく、「条件付きの肯定」の関わりを多くされてきているケースが少なくないからです。
いまよりは緩やかかもしれませんが、いまの親世代が子供時代をおくった頃はすでに、子供の頃からたくさんのことを要求される時代になっていました。
親から笑顔を向けてもらった経験が少ない人は、自分に子供が出来て、いざ親として関わるようになったときに、知らず知らず笑顔を向けることができなくなってしまいます。
普段から、ただ受け止めてもらったことが少なく、なにか親の機嫌を取ったときにだけ受け止めてもらえる。親が普段は不機嫌な態度を取っており、親のめがねにかなう行動をしたときだけ、普通の雰囲気になって接してくれる。
そういった状況の下で育ってきた人が、今度は自分の子供に親として関わるようになったとき、それをそのまま繰り返してしまいかねません。
しかも、そういう状況を自分では自覚していないこともしばしばです。
もちろん、なかにはそれを自覚して乗り越えていこうとする人もいるでしょうし、その人の持ち前の個性で自然とそうならない人もたくさんいます。
ですが、幼少期の自分がされた経験は理屈でどうこうできるものでもありません。
いつのまにかそういう関わり方をしてしまうし、関わり方そのものではなく、そもそも感情のわき出し方自体がそれにとらわれてしまっています。
例えば、父や母、またはその両方がとても厳しく、小さいときから「よい子」であることを頑張ってきた人が、子供の親になり子育てをするようになったとき、その子供の個性が奔放で「よい子」でいてくれない子だったとしたら・・・。
その人は、その子の姿を見て「あるべき(と自分が思っている)姿からかけ離れた子」ととらえてしまいます。
するとその姿に対して、「どうしたらいいかわからない」という「困惑」を感じたり、「この子はどうしてこうなのか・・・」と「落胆」したり、なぜ「あるべき正しい姿をしないのか」という「怒り」などの感情を覚えてしまいます。
また、子供の姿が適応的でないことを「自分が悪いからだ」と「自己否定」に向かってしまう人もいます。
これらのことは、子供に対してとる実際の関わりの前の段階にあることです。
まずネガティブな感情があるので、理屈ではなく、その感情から行動が規定されてしまいます。怒ったり、イライラしたり、嫌気がさしたり・・・。
つまり、こういったケースは
「子供に対してこういう関わりをしてみるといいですよ」
といった、具体的な関わり方を伝えられてそれをやってみるだけで、子育てが安定していけるわけではないのです。
問題は、子供への関わり方の前にある、大人自身の感情のわき上がり方から始まっているからです。
子育てに対してこのポジションにいる人は、なかなか子供を無条件に肯定していくことができません。
端的に言ってしまえば、親の意思に応えることを頑張ってきた人は、我が子にも自分の意思に応えることを無意識のうちに要求してしまうのです。
つづく
| 2015-03-20 | 心の育て方 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
条件付きの肯定はいらない vol.1 - 2015.03.17 Tue
「笑顔」って、子育てしているときの大きなバロメーターになっています。
それまで笑えていた子が、笑わなくなったら、なにかわだかまりがある証しでしょうし、子育てする大人に笑顔がでなくなったならば、なにかどこかにつまづきが(子育て以外のことでかもしれません)あるからでしょう。
そんなときは、子供にしても大人にしても、なにをやってもなかなかうまくはいかないものです。
なにかをしようと努力を重ねるよりも、まずは互いに無理なく笑顔が出せることを目指したほうがよいでしょう。
さて、そんななんとはなしにどこかひっかかるものがある子、どこかに屈託を抱えたような子の中には、親子関係の中でなにか満たされないものを感じている子がいます。
親からしっかりと関心を向けてもらってはいるのだけど、なにかにつけてゴネが多かったり、ネガティブ行動が出ていて、どうにも満たされていない姿を出しています。
もちろんすべての子がではないですが、その子たちの中には、親からの関わりの多くが「条件付きの肯定」になってしまっている子がいます。
「条件付きの肯定」とはなんでしょう?
子供には親から認めて欲しいという思いがどんな子にもあります。
一番いいのは、「あるがままの自分」を認めてもらうことなのですが、人によってはそれができない親もいます。
例えば以前、「子供を褒めて伸ばす」には落とし穴があるというお話しをしました。
「褒める」ことは、「〇〇がよく出来たから、認める」ことです。
褒めること自体が悪いわけではありませんが、子供をそれによって「大人の意図する姿にしよう」と、その「褒め」をひんぱんに使うようになってしまうと、それは「〇〇が出来るあなたが好き」というメッセージになってしまいます。
ときに子供を思い通りにするために「疎外」を用いたりする人であれば、その親から子への関わりは、「〇〇が出来ないあなたは好きじゃない」という否定のメッセージにすらなってしまいます。
この「条件付きの肯定」は、「褒めること」ばかりではありません。
普段の生活の中でや、習い事や早期教育などでの達成を求めていくことでも、しばしば出てきます。
「嫌がれば」、「素直にしなければ」大人が不機嫌な顔をしていたりそういった雰囲気をかもし出していて、
子供の方が積極的に喜んでしたときだけ笑顔を向けていたら、結果的にその笑顔は「条件付きの肯定」になっているのです。
まあ、多少そういったところがあったとしても、そうそうは子供への大きな問題にはならないのですが、なかには深刻な影を落としていくケースがあります。
それが「満たされなさ」と「自己肯定感の欠如」として出てきます。
さらに具体的な現れ方は、様々ですが、自信のなさや寡黙、委縮、自己表現への恐れ、ダダやゴネ、大人をいいなりにさせる、大人の言葉を聞かない、大人への反発・反抗、爪かみや指しゃぶり、落ち着きのなさ、奇声をあげる、乱暴さや他者へのいじわる、笑わない、無感情・無表情などの姿が見られます。
「条件付きの肯定」そのものがけっして悪いというわけでもありません。
年齢が上がれば上がるほど、子供への肯定の仕方がなんらかの条件付きが多くなるのは普通のことです。
しかしながら、子供のごく小さいとき、それこそ1歳や2歳などからそのような「なにかをしなければ自分のことを好意的に見てもらえない」と、子供が感じながら成長していくと、子供はとてもたくさんの「頑張り」を積み重ねなければなりません。
それがつねに、ずっと、であるととてもしんどいです。
子供が大人と一緒に過ごしていて、その大人がくつろいで、笑顔でいれば、子供はそれだけで自分が肯定されていると感じられます。
しかしその逆、その大人がいつも不機嫌な様子をしていると「自分はこのままでいいのかな?受け入れてもらえていないのかな?」とつねに不安な気持ちを持ち続けなければなりません。
こういった大人と子供の関係は、それだけで様々なネガティブ行動などの「育てにくさ」をもたらしてしまいます。
ですから、子供が小さいうちほど、「条件付きの肯定」ではなく、あるがままをみて笑顔を向けてあげたり、無邪気に過ごしている様子を見て「かわいいね」と言ってあげられる「無条件の肯定」をたくさんしてあげてほしいと思います。
ということなのですが、実はこの話はこれだけでは解決しません。
もちろん、「あーついつい、ただかわいいって言ってあげられる余裕がなくなっちゃうんだよね。気を付けないと」で済むケースもたくさんあることとは思います。
しかし、それだけでは解決しないケースも少なからずあります。
なぜなら、もうひとつ深い段階が隠れているからです。
つづく。
| 2015-03-17 | 心の育て方 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
「息子と僕のアスペルガー物語」 - 2015.03.14 Sat
奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」 -テレビ制作マンが語る発達障害との戦い-
発達障がいに対する視点を当事者の側から与えてくれます。
以前にも書いたことがありますが、発達障がいはそうでない状態と必ずしも線引きの出来ることではありません。
似たような特徴が、どんな子にもある年齢に一時でることがあったり、弱く出ていることもあります。
子供のそういった姿に対して、理解のない自分の主観的な立場からだけで対応をしようとすることは、その子への正しい援助ができなくなってしまう原因になります。
このように当事者の視点から語られる内容はとても保育の参考になります。
読みやすく、またある種のドキュメントとしてもおもしろく読めます。
直接子育てに関してではないですが、こちらを拝見していて興味深かったことが、
「人間関係を円滑にするためには、思っていることをそのまま言ってはならない」
のくだりです。
筆者は、他者の感情を推し量って会話をすることが困難な性質なので、相手が傷つくようなこと、不快に感じることをそれとわからずにしてしまいます。
そのため、人に嫌われる経験を経て、どのように人間関係を維持できるか、観察と熟慮の上に編み出すのですが、それが「思っていることをそのまま言ってはならない」でした。
こういう話を聞くと改めてわかるのだけど、普段は当たり前にしていることなので、そのようなことにあまり気がつきもしません。
しかし、確かにそう言われてみると、人との関係の中で本音は言わずにやり過ごしていることって少なくないのでしょうね。
そういうことでもやっぱりストレスはあって、それを知らず知らず娯楽をしたり、息抜きをしたり、お酒を飲んだり、愚痴をこぼしたり、スポーツの応援に熱狂したりすることで、実はみな解消しながら生活しているのでしょうね。
それが大して害にならないことで収まっていればいいですが、そのようなストレスが、他者への大きな怒りに転化してしまったり、途切れることのないイライラになってしまうと、これは本人にも、周囲にも大変です。
人間の心のメカニズムは興味深くもあり、また難しくもありますね。
| 2015-03-14 | 心の育て方 | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
隠れた貧困 vol.6 - 2015.03.10 Tue
なんか気の重くなりそうな内容を長々とすみませんでした。
子育てについて考えていると、こういう問題や、子供たちの生きる社会の平和といったものも無視できないものとなってきてしまうのですよね。
『子宮に沈める』という映画があります。
2010年にあった大阪二児遺棄死亡事件をモデルにしたドキュメンタリータッチの映画です。
まだ印象に残っている人も多いのではないかと思います。
この当時、母親に対してや、訪問したけれども強硬な手段をとらなかった児童相談所の職員に対して、かなりつよい攻撃的な意見がありました。
小さな子供が放置され餓死していったというニュースには、怒りや憤りを感じます。僕もその当時は真っ先にそういった感情にとらわれました。
でも、冷静になって考えれば、水商売や風俗業をしなければならない状況、男性に逃げたり、男性を頼らなければならない状況を生み出したものがあるのではないかと気づくこともできます。
この事件でなくとも、同様に女性が生活のために男性に(不本意であっても)依存しなければならないケースなど、これまでの日本には数え切れないほどあるはずです。
しかし、報道により顕著に取り上げられた部分だけ見れば、なかなかそうはなりませんでした。
やはり母親を責める文脈で取り上げているものが多かったように感じます。
識者の意見でも、包括的な、貧困や母子家庭への援助などを述べる意見はそう多くなく、わりと冷静なものでも、児童相談所の現代での限界について触れている程度だったと記憶しています。
この事件に限らず他の多くの事件に対してでも同様ですが、月日がたってもその事件からの問題意識を持ち続ける人はどのくらいいることでしょうか?
そのとき憤って、怒りをぶつけ、罰が下されて溜飲を下げるだけで満足しているだけでは足りないと僕はと思います。
でも、そういった問題解決のための視点で物事を考えてみましょうといった教育を、義務教育なり高校なりでされた覚えはないので、多くの人がそうであるのも仕方のないことなのかもしれません。
犯罪に対する考え方も、国によってずいぶんと変わってきます。
なかには、犯罪者に対する「罰」という側面を極力切り取って、終始「更正」を旨に報道や、裁判、量刑を行っている国もあります。
そういったところと比べると、日本はまだまだ前近代的な、「罪に対して罰」という意識が強い国であるということがわかります。
一例を挙げますと、少年だけでなく成人に対しても、顔写真や実名や犯罪の詳細を出した報道をしない国があります。
これは、犯罪者に対してもその後の更正による社会復帰を前提としているからです。(また模倣犯を防ぐという意図もあるようです)
そして、当然ながらそのための犯罪防止教育、更正や社会復帰などのシステムにも注意を払って、そもそもの犯罪の少ない社会を目指しています。
このような、考え方の立場に立っている国があることを知ることは、ちょうどいま日本で起こっている議論。「少年であっても重罪を犯したのならば、名前や顔をさらすべきだ」という意見が、現代的な立ち位置よりも、より前近代的な刑罰の概念に近いことを教えてくれます。
さて、こういった状況を改善していくためになにができるでしょうか?といったご質問を頂きました。
僕もこの方面の専門家ではないので、あまり詳しいことはわかりませんが、
ひとつには、今年4月より
『生活困窮者自立支援制度 』というのが実施されます。
これは、これまでの生活相談などよりも、もっと踏み込んだ形で援助することを可能にしているものです。
もし、困っている人がいたら、「こういうものがありますよ」と教えてあげるだけでも助けになるかもしれませんね。
本当に困窮している人たちは、このような情報からも孤立してしまっているからです。
ほかにも、これまでの行政的な社会保障の不備から、実際に困窮している人たちを支援することを目的としたNPO法人などがいくつも活動しています。
これらの活動を援助、支援することも、実際に取れる具体的な手段となるかもしれません。
あとは、基本中の基本ではありますが、選挙で候補者を選ぶ際に貧困問題や社会保障などをきちんと考えている人に投票するということがあります。
選挙になりますと、各政党がマニフェストを出します。
そのなかで貧困対策などを主要な問題と捉えている政党もあります。
そうかと思うと、貧困や、社会保障といった問題の改善には、ただの一行も記載のない政党すらあります。
国民向けのポーズやリップサービスすらしないというのは、存外、政治家も正直なのかとも思いますが、貧困対策などが必要ないと感じる層を主要な票田としているということなのかもしれませんね。
社会の下位層への視点を持たない人であれば、事件や犯罪に対して簡単に「厳罰化」という意見になるのは必然的な流れであることでしょう。
追記
子供に対してできることとしては、「孤立を作らない」ということがあげられます。
すごいことはできないにしても、挨拶をする間柄の大人がいる、言葉を交わす人がいるといった些細なことが、その子を社会的な側、安全な側につなぎとめてくれるかもしれないからです。
関心、関係を持ってくれる大人がいなくなり孤立してしまうと、その子は社会的な側に居場所を見いだせなくなり、学校などの教育の場からも遠ざかってしまいます。
小さくとも自分に関わりを持ってくれる大人が存在することは、そのような表の社会につなぎ止めてくれる役割をになってくれています。
そういったことが、子供のドロップアウトを防いだり、ドロップアウトをしたとしてもまた戻ってこれる理由のひとつとなるのではと思います。
参考 『福祉が人を殺すときー貧困大国ニッポンで機能しない社会福祉ー』
| 2015-03-10 | 日本の子育て文化 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
隠れた貧困 vol.5 - 2015.03.08 Sun
実は、このことを書こうと思っていたわけではなく、別のテーマの導入のお話として頭の中でまとめていました。
ごく短く触れるつもりだったのですが、それを書き出したらいつのまにか長くなったというわけです。
保育園で働いていると、様々な家庭があることを知ります。
なかにはそれこそお金持ちがたくさん住んでいる地域の園もあるし、困窮した人が少なくない地域もあります。
でも、そういう地域で働いていたからと言って、すべての保育士にそういった貧困から引き起こされる家庭や、子供の育ちの問題が見えるかというとそうでもありません。
前回記事のリンクで紹介した、放送大学副学長 宮本みち子さんのおっしゃるように
「まずは周りの大人が『アンテナ』を張らなければ、問題は解決しないのです」
ということがとても大切だと感じます。
ここに
『ユニセフ調査にみる児童虐待と児童の貧困』 (法政大学大学院 星野信也教授)
という論文があります。
これなどを拝見いたしますと、
貧困が、教育格差、児童虐待・虐待死、家族崩壊、障がいや精神疾患、アルコール・薬物依存、などと相関関係があることがわかります。
またそこから、就職・所得格差、非行、犯罪(被害、加害とも)などへと派生する可能性も無視できません。
いま、中1リンチ殺人事件が世間を賑わせています。
こういった、事件が起こるとここ最近は決まってと言っていいほど、少年法の厳罰化という意見が席巻します。
人は怒りや、憤りを感じると、それの解消を求める心理作用が働きます。
「許しがたい犯罪だ。極刑を科すべし!」
そう思うのが人の常というものです。
そこに理由をつけようとすれば、「厳罰化による犯罪抑止力の効果」や「再犯率の高さから、罰を強化する必要性」といった根拠をくっつけることもできます。
でも、刑罰を強化するだけで、本当にこのような痛ましい犯罪がなくなるでしょうか?
再犯率が高いことの原因には、実際の更正のためのシステムに不備がありはしないのでしょうか?
犯罪や非行に走る子供を、そうなってしまう前にどこかで助けたり、支援することを考えなければ、問題の火種は少しも減りはしないのです。
「黒子のバスケ脅迫事件」の犯人が言っていました。
「社会と無縁の人間である自分たちを死刑にして命を絶ってもらうために、今後も無差別な犯罪を犯す若者は増えていくだろう」
そのような人の前には、刑の厳罰化などさして意味はありません。
衝動的な犯罪をおかす人は、いちいち捕まったときの量刑を考えながらしているわけではないのです。
貧困への対策や、家庭支援、児童虐待への対策が適切なかたちで実を結んでいれば、そもそも犯罪に走る人を作り出さずに済むかもしれないのです。
そしてもちろん、犯罪の被害に遭う人の数も。
事件が起こるたびに、「あいつが悪い」と犯人を断罪することだけで満足していたらいつまでたっても同様の犯罪はなくならないでしょう。
近現代的な国家では、人々の生活に対して国や行政などが少なからず責任を負っています。
人が困窮して餓死をしたり、虐待によって子供が死亡させられたり、子供が適切な教育の場からドロップアウトして非行や犯罪に走ってしまうことは、その人個人の責任によるだけではなく、「社会システムの不備」といった問題があると言えます。
日本ではなかなか生活保護の受給がされないこともあります。
最初に申請した段階では受けてもらえず、病気や精神疾患を負ってどうにもならなくなってようやく生活保護が受理されるというケースも多いそうです。
所持金が20円しかないのに、受理を拒否されたケースなどもありました。
最初のときにその支給が始まっていれば、その人が生活基盤を整え、就業に必要な訓練なり、就職の斡旋などを受けて、安定し早期に生活保護の必要がなくなるといった可能性も高いのに、いたずらに支給を渋るあまり、返って生活保護から抜け出せない状況などを生んでしまっています。
生活保護は、「個々の人間を尊重する」という、現代的な人間観に基づいた社会保障というものです。
けっして「貧しい人間にあたえる施し」といった意味合いのものではないのです。
生活保護の話で有名なのは、『ハリー・ポッター』の作者のJ・K・ローリングです。
イギリスの人ですが、この人は生活保護をもらい母子家庭で子供を保育園に預けながら、喫茶店に通いコーヒーを飲み執筆をして、あの世界的ベストセラーを書き上げました。
このイギリスと日本では、生活保護に対するとらえ方がまったくと言っていいほど違うのです。
まだまだ、日本にはこういった困窮したときに社会的に扶助していくシステムに、多くの改善の余地があると言えるのではないでしょうか。
| 2015-03-08 | 日本の子育て文化 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
隠れた貧困 vol.4 - 2015.03.06 Fri
仮に、母ひとりで保育園児を抱えた人が、生活に不安があって生活保護を申請しようとしたけれども、「女性ならばより好みしなければ、あなただって十分稼げるでしょ」などと、窓口で追い返されたとしましょう。
日本のいまの社会では、「生活保護をもらうことは恥ずかしいこと」といった先入観が少なからずありますので、申請しに行く人がすでに負い目を感じていることも多く、そのように突っぱねられてしまうと、そこで食い下がって「私には必要なのです、きちんと受理して審査して下さい」とはなかなか言えません。
そもそも、受理や相談も受けずに追い返すことが、違法であるという認識も多くの人は持っていないでしょう。
たいていの人は「私が悪いのだ」とそのまま引き下がってしまいます。
その人がもし、高度な教育という「資本」を持っているのならば、女性一人で子供を預けながら、しかも将来の生活の蓄えや、子供の学費など育てるのに必要な資金を貯めながら生計を立てていくことができるかもしれません。
もしくは、
夜の商売に就きながらも、子供をきちんと養育してそれなりに一人前に育て上げる人もいるかもしれません。
または、いくつもの仕事を掛け持ちしながら、苦労もそれなりに多かった。つつましやかではあったけれども、温かい家庭を築いた、という人もいることでしょう。
そのようなケースでは、あとで大きくなった子供から「うちの母ちゃんはすごい。女手一つで苦労しているはずなのに、泣き言一つ言わず自分のことを育ててくれた。本当に尊敬している」と言われるようなことになるでしょう。
こういう話も実際にあって、それらはそれを聞いた人の心に感動や勇気を与えてはくれますが、こういうことは「美談」というものです。
場合によっては、そのような美談が世間にあるからといって、「あなたたちもこのように努力して、頑張っていきなさいよ」と困窮している人に、自助努力を説く人もいます。
しかし、実際にはそのようにうまくいく例ばかりではありません。
母親がいくつもの仕事をかけもちして、忙しさ、疲れ、お金や将来への不安・心配、困窮すればするほどついてまわるような人間関係の問題などを抱えて、子供の世話をする余裕もなく、それどころか子供に八つ当たり的な感情を向けたり、それがエスカレートして虐待になったり。そのような事態のほうが容易に起こりうるのです。
水商売についたけれども、困窮しているという足下を見られて、「衣装代だ、まかない費だ」などと就労に当たってあらかじめ借金として負わされて、それをかたに不当な労働をしいられたりするといったこともあります。
当然このような就労のさせかたも違法行為ですが、知識・教育がなければそれにおかしいと思えませんし、思ったとしても訴えるべきところがわからない。訴えても相手にされない。金銭・再就職の不安でひどい状況でも耐えて働かなければならないといったことが引き起こされてしまいます。
「生活のため」との理由で、子供への養育・教育が後回しにされていってしまうと、子供は健全な育ちを得られないことが多くなってしまいます。
生活の大変さから、ネグレクトや虐待になってしまえば、それがなおさらなのは言うまでもありません。
本来そのような事態にならないように、社会保障があるのですが、残念なことにそれがまだまだ適切に機能しておりません。
こういった状況が増えてくれば、その家庭の子供が適切に教育を受けられなかったり、教育内容が身につかなかったりすることが引き起こされます。それはまたその子にも就労の困難さ、生活の安定の困難さとして、貧困の拡大再生産を伝えてしまいます。
また、以前に述べたように犯罪やそれに類するようなところへからめとられてしまう可能性も高くなります。
それがひいては、社会全体を住みにくいものへとするリスクを上げていくことにつながります。
外国へ行くと、
「街のあの地域へは行ってはいけないよ」
「その盛り場は何時以降いては危ない」
「その辺は、女性一人では近づかないほうがよい」
といった場所が必ずと言っていいほどあります。
日本ではいまのところ、そこまで露骨なところはそう多くはありません。
しかし、弱者へ冷たく、人の困窮を救えない社会になっていけば、そういった社会状況を生んでしまうリスクは確実に上がっていきます。
我が子が将来住みよい社会で過ごせるように、現在の大人は少しでいいので、そういったところへも思いをはせる必要があるかと考えます。
最近、放任や放置子といった事例が増えています。
これらが単に親の怠慢からではなく、そういった生活の困難さが背景にあって引き起こされているケースだとしたら、そのような事態になってしまう前に適切な援助の手がさしのべられていれば、そうはなっていなかったのかもしれないのです。
このようなことに対して、「地域で助け合ったりすることがなくなったから引き起こされているのだ。もっと互いに助け合いましょう」といったことを言う人もいます。
たしかに、それもそうなのでしょうけれども、これまでに述べたような生活保護・社会保障の不備などのハード面をそのままにしているのでは、「自分たちで勝手にどうにかしなさいよ」と投げ出しているのと変わりません。
それでは社会はよくなっていかないでしょう。
少なくとも、安易な感情論による生活保護へのパッシングなどは、回り回って自分や自分の子供へと返ってきてしまうことを認識する必要があるかと思います。
参考 『道具が買えなくて部活を辞める・・・「家が貧しいから」と言えない日本の子どもたち』
| 2015-03-06 | 日本の子育て文化 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
隠れた貧困 vol.3 - 2015.03.04 Wed
しかし、これがこれまでの日本ではそれがなかなか適切に機能していないことがあり、「生活保護を申請したのに受理されず、餓死した」「生活が立ちゆかなくなり自ら命を絶った」「年老いた親の介護が限界になり、泣く泣く殺めた」といった事件すらあります。
そういったものに対して同情の声もあがる一方で、不正受給のニュースがあったり、ギャンブルで浪費する人の問題が取り上げられたりすると、「生活保護そのもの」へのパッシングも起こります。
「不正受給や浪費」と「生活保護自体」の議論は全くの別物のはずなのだけれど、どうも感情的に一括にされて「生活保護」をやり玉に挙げるような意見の流れとなることしばしばです。
こういった流れが、例えば自身の生活に不満を抱えている人がそのはけ口として感情的に言っているのかというと、それがそうとだけでもないようです。
持てる人たち、豊かな人たちからも、「自己責任論」などを理由として同様の意見がでてきます。
そしてそれは、政治的な現実へと影響していっています。
実際にいま現在、生活保護に関する予算は着々と削減されつつあります。
最近の物としては「住宅扶助基準」の引き下げがあります。
これはその理由からして事実にそぐわないものとして、日弁連(日本弁護士連合会)が反対声明を掲げています。
『生活保護の住宅扶助基準、冬季加算の引下げに改めて強く反対する会長声明』
世間が、生活保護など社会保障に関するものを否定的に見ていくと、そのときの政治は社会保障に掛ける予算を削減しやすくなります。
日本は、生活保護費の負担額が、国は75%、自治体が25%となっています。(ちなみにイギリスでは国が100%負担)
地方議会や、自治体は保護費への負担が大きくなれば、暗黙の内に現場にプレッシャーを与え、実際の窓口はその受理を渋るようになります。
結果として、困っている人を助ける制度であるにも関わらず、驚くべき事態が起こっています。
孫引きで申し訳ありませんが、わかりやすいのでこちらを紹介。
『市民の相談窓口を封鎖した鎌倉市~生活保護相談窓口封鎖事件を考える~』
『生活保護申請の女性に「ソープで働け!」という対応 大阪市だけでなく「氷山の一角」』
こういったことを「水際作戦」というのだそうです。
「制度としてはあるけれども、実際には活用させないように、受理窓口で申請させる前に拒む」ということです。
(受理をすると記録にも残り、審査をしなければならない。そして要件を満たしていれば受給しなければならない。受理を拒否することは本来、違法行為)
これらの明るみに出た事例では、当事者がNPO法人や弁護士に相談したので明らかになっていますが、こういったことはこれらの報道では影になっている部分にこそ問題の根深さがあります。
それは、困窮している人、社会的弱者はこのような扱いを受けても、そうそうNOと言うことができない現実です。
上の鎌倉市のケースでは、この男性の訴えで発覚するまでの2年間もの間、生活保護相談窓口を棚でふさいでいるという事態を続けています。
その間、それらを必要とする人たちが門前払いされてきているわけです。
そのようなありえないようなことが、2年間も続けていられたことにも驚きます。
普通だったら、相談窓口が棚でふさがれていて誰も相手にしてくれないなどということがあったらば、とっくに大問題になっているはずです。
今回、生活保護の話を切り口にはしましたが、本当の問題はここにあります。
つまり、社会的弱者、教育や知識の不足、困難・困窮に置かれた人にとっては、普通には当たり前と考えられるようなことが当たり前に行えなくなってしまうことです。
つづく。
| 2015-03-04 | 日本の子育て文化 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
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