”弱さ”の尊重 - 2015.06.27 Sat
明日の発表では、時間の関係であまりここを掘り下げてお話しできないので、ここにわかりやすく書いておこうと思います。
この「”弱さ”の尊重」というキーワードは、人間を考える上での21世紀のもっとも大きなテーマのひとつではないかと思います。
それは例えば直近では、医療・福祉・介護・生命倫理・保育・教育などの分野に直接の影響を与えていますが、ひいては社会全体に関わってくることでしょう。
僕の小学校の記憶で鮮明に残っているものがあります。
クラスの中に、とても身体が小さくていつも給食の食べきれない子がいました。
その子は、掃除の時間にまでそのまま座らせて食事をたべさせられていました。
ときには、なにかの邪魔になると判断されたのか廊下に机をもってこられてそこで食べさせられていることもありました。
目に涙を浮かべて頑張って食べていることも少なくありません。
現代的な観点からこれを見たら、あきらかに精神的な虐待であると考えられます。
でも、当時はこういったことは日本中であたりまえだったようです。
多くの方にこれと似たような経験があるのではないでしょうか。
(似たような事例としては、アレルギーがあるのに教師に無理やり食べさせられて、発作を起こしたなどというものもありますね)
なぜ当時は、これが是とされていたのか?
それは、「食べきれるのはよいこと、食べきれないのは悪いこと」という考えがはじめに揺るぎなくあったからです。
「食べられない子」ならば、「食べられる子」に、”してやろう”。”する必要がある”。
と、大人はそれを絶対的な価値観としてもっていたので、それを子供に求めたわけです。
でも、この子はただでさえ、身体が小さく、自信の出せない子です。しゃべる声も小さい、運動をしても人に後れをとることばかり。
そこにさらに、教師は食事でその子に”疎外”を与えることをしています。
これが果たしてその子のプラスになったでしょうか?
こういったことをされた少なからぬ人が、その経験を一生忘れない嫌な思い出として覚えています。
大人が「正しい」と思って子供に押しつけたことが、どれほどの実を結んだと言えるでしょうか。
よしんばそれで食事がとれるようになったところで、自己肯定感や、自尊心を傷つけられてまですることなのでしょうか。
こういうことって、実は方法論の話のレベルではないのですね。
人の思考の根底に、20世紀的な観点では、「強いことがよりよいこと、弱いことは悪いこと」という意識がありました。
上の例では、「食事が食べきれないことは悪いこと」、「悪いことなのだから直さなければならない」という思考プロセスがあったというわけです。
別の例で見てみましょう。
病気の人がいたとします。
「強さを是として、弱さを否定する」観点から見ると、
「その病気は悪いこと、だから治さなければならない」
となります。
それが障がいならば、
「その障がいは悪いこと、だから克服しなければならない」
となります。
以前と、現在の違いをがんの治療を例に見てみます。
かつて、その人ががんであった場合、とことんまで治療を続け、患者がどんなにその苦痛をともなう治療や、回復の見込みのないただの延命治療であったとしても、それを拒否することは最初から選択肢にありませんでした。
「病気はよくない、ならばそれを治す努力をおこたってはならない」
と見ていたわけです。
現在は、それとはずいぶんかわりましたね。
延命治療などはその人の意思で拒否することもできます。
たとえ、一縷の回復の見込みがあったとしても、苦痛をともなう治療などを拒否したり、ホスピスや家庭で自分らしい生をまっとうするといった選択肢も持てるようになっています。
これは、その人の疾病という”弱さ”を、否定すべきもの、克服すべきものととらえるのをやめ、”弱さ”すらもその人の一部であると認められるようになってきたからこそのことです。
給食の例に戻ってその観点で考えてみましょう。
その子が給食を食べきれないのは悪意があってのことでしょうか?
そうではありませんね。
そもそもの体格自体、給食をもりもり食べる子よりもずっと小さいです。
その子が小さいのは悪意があってのことでしょうか?
もちろんそうではありませんね。
悪意もない子に、なぜそんな罰を与えるような行為を「教育」の名の下にできてしまえるでしょう。いいえ、できるはずがありません。
その子は、身体が小さかったり、食事がたくさんは食べきれないといった「個性」をもっているのです。
「食べられなければならない」というところからそれを見てしまえば、「それはよくない」「それは”弱さ”だ」ということになります。
じゃあ、それを「直してやろう」と、大人は善意や正義感や教育熱心さ・・・から思うわけですが、
それは”弱さ”をその子の個性の一部として許容できないがために、その子の個性そのものを否定するということになってしまっています。
ひとは”弱さ”をもっています。しかし、その”弱さ”とはその人から簡単には切り離せないなにものかです。
その”弱さ”を許容したり、尊重することができないと、ひいてはその人を許容しない、尊重しないということになります。
先日ニュースで、看護師がねたきりのお年寄りを、普段から叩いたり頭を踏んだりして虐待死させたことが裁判になっているという報道がありました。
人は、相手の”弱さ”を許容できないと、「できないあなたは悪い」という見方、気持ちになってしまいます。
「こんなに介護の手間をかけさせるおまえは悪い、だから暴力を振るわれて当然だ」といった気持ちが芽生えてしまったのではないでしょうか。
本来、看護師という職業は、人の疾病という”弱さ”につねに寄り添うべき存在です。おそらく伝統的にも、人の”弱さ”をもっとも理解していた職業の人たちではないでしょうか。
しかし、残念なことにそれが必ずしもすべての人に浸透しているわけではなかったようです。
人の上に立つ立場の人は、常に”強者”になります。
子供に対しての保育士しかり、教師しかり、患者に対しての医師しかり・・・。
ですから、その人に”弱さ”への理解がなければ、相手への関わりが”強者の弁”になる危険性をつねにはらんでいます。
ときに、強者は強者であるがゆえに弱者のことが理解、許容できなくなります。
「できないおまえは悪い。ならば直してやろう」
これはもはや過去の考え方です。
(現実レベルでは、ここから派生してさらにひどいことが行われてしまいかねません。
「できないおまえは悪い、だから不当に扱われて当然だ」
「できないおまえは悪い、だから叱られて当然だ」
「できないおまえは悪い、そうしているおまえの家庭も悪い、だからイヤミをいってやろう。嫌がらせをされても当然だ」
などなど・・・)
その人の「”できる部分”と”できない部分”」、「”強さ”と”弱さ”」、「”よい部分”と”悪い部分”」は、切り離して考えられるものではなく、つねに不可分な存在としてあるのです。
明日の発表では「全一性」(integrity)という言葉を使いますが、それはこういう意味です。
その人の強い部分と弱い部分を”合わせて”(統合、integrate)、はじめてその人であると言えるのです。
「できないあなたもあなた。ではそこからなにができるかを考えてみましょう」
と、寄り添っていく見方がこれからの21世紀には必要なものとなっていくことでしょう。
現実の世の中は、強者が強者のために動かしています。
でも、人はみな、子供という”弱さ”をふんだんにもった状態で生まれてきて、老人という”弱さ”をふんだんにもった状態として死にいたります。
誰しもが、”弱さ”として生まれ、”弱さ”として死ぬのです。
”弱さ”を尊重することが、ひいては多くの人々の幸福につながることなのではないか?
ということが、この21世紀の世界的なテーマともなっているのです。
それが、
『ユネスコ 生命倫理と人権に関する世界宣言』
〇第8条- 人間の脆弱性及び個人のインテグリティ (integrity)の尊重
・文部科学省HP 生命倫理と人権に関する世界宣言
として、かたちになりいま多くのところで、これを実際レベルでとりいれ始めています。
保育も、教育も、まだまだ変えていかなければならないところがたくさんあることでしょう。
現場の人たちには、それが必要として迫られている時代にきています。
| 2015-06-27 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 11 | トラックバック : 0 |
『子育てする権利』 - 2015.06.22 Mon
病児保育、夜間保育、24時間保育、などなど。
そういった多様な保育ニーズが現実にあることはよくわかります。
よくわかるのですが、それでも僕はあえて別の見方からの意見も出して、多くの方に考えてもらいたいと思うのです。
それは、むしろ、
”それらがなくても子育てがおくれることこそが目指すべきものなのではないか”
ということです。
福祉の先進国をみると、就労に柔軟性があって小さい子供がいれば時短勤務がだれしもが選択できたりするといった制度が一般化していて、社会もそれを子供の育成のためひいては国の将来のためと、進んでその必要性を認めています。
直近の現実だけ見れば、たしかに就労のために夜間保育などを実施するところが増えることがのぞまれているのかもしれません。
でも、目指すべき場所はそれだけではないと思うのです。
日本が男女共同参画化社会を選択して、まだ日も浅いです。
そこでの子育てのありかた、会社のあり方、社会のあり方など、まだまだ未整備、発展途上です。
病児保育や、夜間保育が完備された社会になったとして、それが目指すものでいいのでしょうか?
まるで、
”子供はできる限りどこかにあずけて、大人はひたすらに働きなさい”
というのが、いまの日本の社会が人々に求めていることのようです。
そして、それを多くの人が是として、病児保育や夜間保育の必要性を声を大にして叫んでいます。
でも、それはもしかするとうまいこと誰かに誘導されてしまっているのかもしれないと考えられなくもありません。
どうせ目指すのならば、子供が病気の時はだれに気兼ねすることもなく休んで看病できる環境であったり、子供の乳幼児期は早くにかえって一緒に過ごす時間が確保できる、子供の手が離れるようになったらまた仕事の第一線に復帰できるような社会ではないかと思うのです。
こういったことは、「子育てする権利」とでも呼べるものではないでしょうか。
いまはまだ日本では、それは十分ではありません。
むしろないがしろにされていると言ってもいいでしょう。
これからの社会は子供ができたら、それを安心して預けられる保育環境があり、なおかつ、男女問わず家族として家庭の中で子供を育む機会も適切に確保されるようなものであって欲しいです。
いまはまだ、そのような「子育てする権利」など、知っている人も考える人も少ないです。それゆえ人の口にのぼることもあまりありません。
でも、20年後30年後、できれば僕の子供たちが社会にでるくらいには、「そんなの当たり前すぎて口に出す人もいないよ」そんな風になってくれているといいのですが。
| 2015-06-22 | 日本の子育て文化 | Comment : 37 | トラックバック : 0 |
”小言過干渉” - 2015.06.18 Thu
「もう、あなたはまたこんなところに出しっぱなしにしてー」
と小言や文句をいいながら、その子供の後始末を”やってあげて”しまうこと。
これは単なる、過保護、過干渉ではなく、”小言過干渉”です。
その状態や子供の行動が気に入らないのならば、小言やグチ・文句言うのではなくはっきりと「どうしてほしい」といったメッセージとして伝える、そこを子供に伝え自分でやらせる、改善させる、などすればいいのですが・・・。
上の例のように、
”不満には思っている、でも実際の大人の対応としては後始末をつけてあげてしまっている”
つまり「言葉では否定、行動では肯定」をしています。
このことは子供にすると、追認してもらっていることになります。
”やってしまっている”ことで、おそらくは小言で伝えたかっただろうことは、無意味化してしまいます。しかも、それが繰り返しされればなおさらです。
ここには、親の感情と実際の行動のあいだに矛盾があるのです。
これは子供に対する”ブレ”になります。
子供にとっては、結局親が手を出すので自分で身につけたり、学習したり、行動したりする必要がありません。
なので、子供の姿は変わらないままです。
でも、大人の不満ばかりが回数を重ねるごとに、積み重ねられていきます。
このことは実は、大人が自分のイライラに自分から薪をくべて、沸騰させているのと同様です。
”小言過干渉”をするくらいならば、よっぽど気持ちよく手伝ってあげて、「こうやってやるんだよ、だんだんと自分でできるようになろうね」とあたたかい気持ちで見守ってあげた方がずっといいのです。
それは同じ過保護・過干渉だとしても、文句とセットのそれよりもずっと子供のプラスになります。
もしくは、きっぱりと言葉で伝えるなり、怒るなり、叱るなりしてでもいいから、自分の感情や意思、気持ちを明確に伝えるべきなのです。
ケースにもよるかもしれませんが、その方が小言過干渉をするよりもずっといいでしょう。
”小言過干渉”はいくらしても、子供のモチベーションのプラスにはなりません。
それは子供のモチベーションを奪うばかりです。そして大人のイライラを溜めるばかりです。
”小言過干渉”、覚えておいてください。
そしてそれに自分がなっていたり、なりそうだったらちょっとブレーキをかけましょう。
その方が、大人にも子供にもずっとプラスです。
| 2015-06-18 | 過保護と過干渉 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
リンク 『私ばかりが損している!不満を爆発させる前に気付くべきこと』 - 2015.06.16 Tue
『私ばかりが損している!不満を爆発させる前に気付くべきこと』 (PHPファミリー)
子育てのなかでも、これと同じことがよく起こります。
子供の世話を頑張り過ぎたり、ささいなことも気になってついついなんでもきちんとしなければ気がすまない人や、過保護、過干渉が慢性化していてそれに気づかずに子供への関わりに大変さを感じてしまっている人など。
実は、放っておいてもいいことを、過保護、過干渉なために、大人が手を出してしまうことをセーブできずに、「こんなに手伝ってあげているのに、なんでこの子は自分でちっともやろうとしないのかしら」などとイライラを蓄積させていってしまっていることなのかもしれません。
そういった過干渉は、かえって子供の自立をはばんで依存を高めてしまうので、余計に大人が大変だと感じる姿を大きくしていきかねません。
そうなると、このイライラはその人自身がマッチポンプで大きくしていることになってしまいます。
リンク先で言われるところの「他者中心」が、子育てでは
「子供のため、子供のため、子供のため」、で頭をいっぱいにしてしまったときに起こるでしょう。
でも、その「子供のため」というのは、冷静になってみると「子供のためと一方的に思っているだけ」なのかもしれません。そしてその意識が目の前のことをその人には、より大きな問題に映らせてしまいます。
前にもどこかで記事にしたけれども、「負い目」や「引け目」、「ごめんね」「申し訳ないことをしている」といった親の意識も同様に、「子供のためという思い」が、子育てを難しいかたちにする元になってしまっています。
子供に関わる大人が、いつもイライラしていたら、子供は安心・安定して過ごすことができませんので、受容不足やネガティブな行動の増加につながってしまいます。
そしてさらに大人のイライラがつのるという悪循環になっていきます。
このサイクルに入ってしまうと抜け出すのは大変です。
「私はこんなにあなたのために頑張っているのに、なんでその期待に応えないのかっ(怒)」
そういった怒りにまで発展してしまいます。
でも、そもそもその
「あなたのために頑張っている」
の部分は最初からしなくていいことや、その子に望むべきではないもだったのかもしれません・・・・・・。
現代の親は、たいへん過保護・過干渉になりやすいです。
これは、ライフスタイルなどからやむを得ないところではあります。
でも、だからこそ大人の方が過保護・過干渉を気をつける意識を持って、ときどき冷静に自分自身を見つめ直してみたほうがよいでしょう。
あとは”おおらか”でいられるように心がけることが大切だと思います。
1分電車が遅れてもイライラしてしまう現代人は、”おおらかさ”とはほど遠くなってしまっています。
でも、その心持ちで子育てするのはとても大変なのです。
無理なくできるときだけでもいいから、子供と過ごすときは”ちょっとスローな自分”を演出してみるといろいろ楽になってきますよ。
| 2015-06-16 | 過保護と過干渉 | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
敬心学園学術研究会 - 2015.06.12 Fri
僕は学生時代、大学でドイツ哲学を専攻していて、保育士になるなんてまったく思ってもいなかったのだけど、気の迷いとか若気の至りとかあんなこんながあって、なぜか保育士を目指すようになりました。
とはいえ、まったく保育について知らないし、適正もなさそう(周囲の人間からはほとんど反対される・・・)、そんななかでこちらの日本児童教育専門学校に通います。
当時は、まだ保育士資格がこの学校ではとれなかったので、国家試験の予備校という色合いが強かったようです。いま現在はカリキュラム内で資格取得ができるそうです。
その後、国家試験を受けて保育士になったわけですが。
そんなご縁がありまして、今度こちらの学校の学術シンポジウムで、研究発表をひとつすることになりました。
発表のテーマについては、いぜんこのブログでも掲載した、「ノーマリゼーションとノーマルシーの違い」、「指導の視点と援助の視点」の小論文を元にした内容です。
現実に、子供に対して好ましくない対応がなされていることが少なからずありますので、よりよい保育・教育の一助としてもらえるよう、その場をお借りして訴えていきたいと考えました。
といっても、発表8分、質疑応答4分とごく短い時間なので、概要をお伝えするのが精一杯になってしまうかとは思います。
また、学校のご厚意で、お昼の時間をランチミーティングとして、僕が自由にしゃべっていいとお時間をいただきましたので、こちらでは『子育ての極意! ”かわいい子”にする』のお話しをしたいと思います。
その講演自体は20分ほどで、さっくり聴けるものになっています。
さらに、その後質問を受けたり、子育てで悩んでいることとか、いろいろ聴いてみたいことを自由にお話できる時間をたっぷり用意しました。
どなたでも参加自由ですので、もしよろしければいらしてください。参加費もかかりません。
保育等はありませんが、お子さん連れでも大丈夫です。
もちろん、僕以外の方の研究発表もあります。
そちらも参加自由ですので、どうぞご興味ある方はのぞいてみてください。
午後のシンポジウム『健康に生きる ー地域・アート、医療の活動からー』では、保育園での芸術活動の実際の取り組みから興味深いお話しが聴けるそうです。
日時 6月28日(日)
場所 日本児童教育専門学校 (東京 高田馬場)
僕の研究発表は、
一般演題Ⅰ 保育 10:20~11:50
の6番目ですので、11時20分くらいでしょうか?
ランチミーティングは、12:25よりとなります。
| 2015-06-12 | 講座・ワークショップ | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
1のことに10の援助をしない - 2015.06.10 Wed
この数日、東京は湿度が高くて過ごしにくいです。
でも、クールビズはずいぶん定着してきましたね。
さすがに、こんな気候でネクタイ締めて背広着るのはしんどいですよね。
僕の方はこのところいろいろなオファーをいただいたり、ありがたい限りなのですが、ちょっと忙しくなってしまいまして、がっつりしたブログの記事はなかなか書き進められない状況が続いています。
「依存」に関してのお話しも、多くの方にご期待いただいていて、なんとかまとめたいのですが、そんなわけではかばかしくありません。
ちょこちょこと進めていきますので、気長にお待ち下さい。
この「依存」のテーマは、受容はしているのになんだか子供との関わりがうまくいかないという方や、いまコメントで悩みを寄せられている方たちなどにも、大きく関わっていることなのではないかと感じています。
なにも書かないのも申し訳ないので、今日は「依存」に関して触りだけ書いておきますね。
<1のことに10の援助をしない>
例え話です。
子供が、公園で走っていて転んだとします。
それがただこけただけで、はたから見ていても、さしたるケガもなにもしていないようなとき。
このときに、まるで救急車でも呼ぶかのように血相変えて走って行って、あわてて助け起こすような関わりをしていたとしたら・・・。
これは手の貸しすぎになってしまいます。
これをいつもしていたら、その子は些細なケガでも自分で立ち上がろうとはしなくなってしまうでしょう。
ずっととはいいませんが、年齢が上がって、本来自分で十分に立ち上がれる段階になったときにすらそうでしょう。
このような手の貸しすぎ、つまり過保護な関わりを生活の多くのところで積み重ねていたら、自分でできることも自分でやろうとはせず、最初から親を頼るように育っていきます。
これが、ごく単純な意味合いでの「依存」です。
本来は、1のことには1の手助けを大人はすればいいのです。
それが1のことに5どころか、10のことをしてしまうと、依存ゆえの子供の手に負えなさがでてしまいます。
これの問題の根っこはどこかというと、それをたどっていくと子供への関わり方そのものではなく、それ以前のところにあることがわかります。
それは、大人の方の心に、待てない気持ちや、不安や心配が大きすぎそれを適度にセーブできないことから、過剰な援助となってしまうことです。
この大人自身の心の部分を自分でコントロールできなければ、「こうするといいですよ」といった実際の関わり方だけなぞったところで、それはその意図通りにはいきません。
ですから、僕はこれまで「弱いタイプの大人」や大人の側の自己肯定感の問題などを折にふれて述べてきました。
この部分は、どうしてもその人自身が自分を客観視して多少なりとも乗り越えなければ、前に進めないことではないかと感じます。
ざっとですが、「依存」について述べました。
多忙につき、いまのところはこれでご勘弁を。
| 2015-06-10 | 心の育て方 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
「尊重」することは「支配」しないこと vol.3 - 2015.06.06 Sat
そうしたら楽天ブックスのランキングがすごいことになっていて驚いています。
これが品薄商法の効果か!(別にそんなのぜんぜん狙ってやっているわけではないと思いますが)
では、前回の続きです。
「焦り」や「ブレ」がないことも、同様に子供を信頼するためには大切です。
子供の行動の中には、やらせればできるというものもありますが、長い目で見てあげないと能力が発揮できないものもあります。
例えば、排泄の自立などはその最たるものです。
「はやくおむつが取れるようにしなければ」という気持ちが先にあって、その子が自分の力をつけていくのを待てずに焦ってしまい、「ああしろ、こうしろ、失敗するな」、「トイレにいきなさい」「行かないって言ってるけど本当に大丈夫なの?」
などとたたみかけてしまうのは、焦りからその子のことを信頼できなくなっている表れです。
こういったことも、子供には理屈ではなしに「自分は信頼してもらえていない」と感じさせられますので、モチベーションが上がりませんし、その後も自発的に期待に応えようとしなくなってしまうことがあります。
我が家は妻も保育士で、子供がどういう個性をもっていて、現在子供がどういう状況にあり、今後どうなっていき、いまできないこともおおよそどのくらいでできるようになるだろうと、ある程度見通しが持てるので、焦ることがありません。
また、「このままできなかったらどうしよう」などと、心配ばかりをつのらせてブレてしまうこともありません。
この点に関しては、保育士としての経験が相当ものを言っているだろうとは思います。
「信頼できる」から待てる、「焦らない」から待てる、「ブレないから」待てる、わけです。
この「待つ」は、”いま、目の前の行動が・・・”という短期的な「待つ」もそうですし、”その能力がいつになったら・・・”という長期的な「待つ」もあります。
このように、「信頼できる」=「待てる」から、子供に「やらせてしまう」といった支配的な関わりをせずに、子供の能力を自分のものとして開花させてあげられるのだと思います。
子供がなにものかを「できる」ようになる能力は、どの子もすでにその身の内には入っていて、それが然るべき時にかならず出てくるものなので、ですので子供のいまの姿を否定することなく、あたたかくみまもってあげていればそれで多くのことはすんでしまうものです。
今回のテーマは、これでおしまいです。
信頼すること、尊重すること、支配しないことが、子供自身が自分から育っていくためにはとても重要というお話しでした。
リクエストがありましたので、まだあまりうまくまとめられるかどうかわかりませんが、書けるときに少しずつ「依存」についてもまとめていこうと思います。
「依存」をつくってしまう背景にも、今回述べた「焦り」「ブレ」「心配」「不安」といったことが、また関係してきます。
| 2015-06-06 | 心の育て方 | Comment : 26 | トラックバック : 0 |
「尊重」することは「支配」しないこと vol.2 - 2015.06.05 Fri
もし、職場の上司に「どうせ君にはこの仕事できないよね。でもまあやるだけやってみてよ、たぶん無理だろうけどね」と言われながら仕事をまかせられても、そうそうやる気がでるものではありません。
それが一度や二度ならば、「見返してやろう」と発奮するかもしれませんが、うまくいっったときの手柄は上司が取り、失敗は自分のせいにされる、そしてほかに自分の努力を認めてくれる人もいない、という状況が繰り返されていたら、最初からやる気になどならなくなってしまいます。
子育てでは、ともするとこの状況が簡単に起こってしまいます。
「どうせあなたはできないよね、じゃあモノで釣っていうことを聞かせてしまおう」
「どうせあなたは口で言ってもわからないよね、だから身体ごと持ち上げて動かしてしまおう」
このような扱いを積み重ねられてしまうと、子供は最初から自分で進んでやろうという意思そのものを持たなくなってしまいます。
また、大人の方が子供の力を信頼していないと、子供がそれを自分からするまで、もしくは達成するまで、”待つこと”ができなくなってしまいます。
これはけっこう重要で、本当は子供自身やる気があったり、できる能力があるのに、それを待たずに大人が手を出してしまうと、子供は次から自分でしようとはしなくなってしまいます。
これらは実際には、大人は気にも留めないような些細なところにもたくさん現れています。
例えば、子供を移動させるときに、行くべき方向を向かせるために後ろから背中を押してしまったり、両肩をつかんで向きを変えさせてしまったり、多くの人がなにげなくやりますが、これが大人相手だったらばそういった行為は普通に失礼なことであると多くの人が考え、しないことでしょう。
しかし、子供にはそれを気にも留めずやってしまいます。
それは相手を「子供だから」と見くびった気持ちで捉えている心がどこかにあるからです。(ときに必要は場面はあるかもしれませんが)
それらは些細なことかもしれませんが、無自覚に積み重ねられてしまえば、その蓄積は大きなものとなりえます。
僕はいろんな大人の子供との関わりを観察していますが、「あ、もう少し待ったらその子は自分でしたのになぁ」ということが、とてもたくさんあります。
さらには、大人が待てずに手を出してしまったり、「できない」「やる気がない」と決めつけて、本来なら言う必要のない小言を言っていることも多々あります。
もちろん、そのようにされたら、子供はやる気が育ちませんから、次から自分でしようとはしませんね。
つづく。
| 2015-06-05 | 心の育て方 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
「尊重」することは「支配」しないこと - 2015.06.03 Wed
受容だとかそういった基礎的なことはもちろんなのですが、僕の場合はそのポイントはどこにあるかといえば、やはり「支配しないこと」だろうと思います。
「支配しないこと」については、前にも1~2度書いたことがありますが、これは言い換えると「子供を尊重すること」です。
「子供を尊重すること」は誰しもが口にするわりには、それは抽象的に考えられていて(はっきりいって言葉だけで実態がほとんどなにもない)、具体的には見えてこないので、僕は「子供を尊重すること」は「支配しないこと」+「信頼すること」+「一人の人として誠実に関わること」であろうと考えています。
これまで「しつけ」として考えられてきた子育てメソッドは、「子供を大人の望む姿に近づける」ことなので、非常に「支配型の子育て」になりやすい特徴があります。
支配的な関わりが常のものとなると、大人は上からの関わりで、指示する、禁止する、命令する、規制する、ルール(お約束)を課すといったことが、子供にたくさんなされます。
それがすんなりいかなければ、ごまかす、脅す、釣る、おだてる、機嫌を取る、怒る、叱る、威圧する、疎外する、という手段を用いられます。
そしてこれらのいくつかはしばしば、大人から発する「嘘」になっています。(脅したり、ごまかしたり、機嫌を取ったり、など)
このような大人の関わりは、実は子供を尊重したものではありません。
なぜなら、大人の方に「子供はこうすれば言うことを聞かせてしまえるだろう」という子供をみくびった気持ちがその背後にはあるからです。
モノで釣ったりすることもそうですし、「そんなことをしていると、後でお父さんに叱ってもらいますよ」「鬼がくるよ」「おまわりさんにおこられるよ」など、釣ったり脅したりすることで、”うごかせる対象”であると子供のことを見ているからできるわけです。
(”一個の人格”ではなく、”対象”と最初からとらえてしまっている)
このような、これまでの子育て世代が普通にしてきた関わりは、あまりに一般的なものであるので、それをしている大人自身が、それらが子供を尊重していない関わりであるとは気づいていません。
しかし、だれあろうそれらをされる子供たちは、そのような関わられ方が心地よくないものであると、みな感じています。
このことは、結果的に子供のその大人に対する「信頼感」を低下させます。
支配的な、”言うことを聞かされてしまう”大人からの関わりを不快なものと認識して、その大人からのアプローチ全体を真剣に受け止めようとはしなくなってしまいます。
「しつけ」のメソッドにのっとって、「支配」しようとすればするほど、よけいに思い通りにならないという悪循環が生まれてしまうのです。
僕は子供たちには、そのように支配で関わることを最初からしていません。
これは0歳の時から一貫してそうです。
子供のことを一人の人格として尊重し、同時に親である自分を尊重してもらいます。
子供はだれしも、親のことが大好きです。
親が先に子供に理不尽な関わりをしなければ、子供の方から理不尽な関わりをしてくることはまずありません。
信頼に信頼で応えていれば、その両者は互いの進む方向を一致させようとします。それが「寄り添った関係」ですね。
(言葉で書くと大仰ですが、ようはかわいがること、受容することを子育ての第一に置くことでこれは可能になります)
そういう関係ができているのであれば、例えば静かにして欲しいところで、親が望むように静かにしようとしてくれます。
でも、子供なのでそれがいつでも完璧にできるわけではありません。
そういうときは、理不尽にならないよう子供にわかる方法で伝えていけばいいわけです。
「ここは大きな声は出したら困りますよ」と。
それにたいして、最初から「うるさい!」など、上から威圧するような言い方をしていると、子供は積極的に大人に寄り添おうという気持ちがなくなってしまいます。
支配されることに慣れてしまうと、逆に支配されていないとき(支配が弱いとき)は自律的な行動をとらなくなるという反動を生んでしまいます。すると大人は注意すること、支配することが結果的にどんどん増えてしまいます。これも悪循環ですね。
でも、これまでの子育ては、「子供とはそういう言うことをきかないものなのだ」と最初から決めつけ、「だから強く支配していく必要があるのだ」、「子供はごまかしてしまえばいいのだ」などと、子供をみくびった捉え方をしてきてしまいました。
それは最終的には、「言うことをきかなければ、叩いてでもきかせる」という、体罰容認論を必然的にもたらしてしまいます。
大変残念なことです。
うちの子が、よく遊べたり、必要な場で静かにしていられたり、話を聞いていられたりする背景にはそういったことがあるのだろうと思います。
あとは、「子供を信頼していること」と、親の方に「焦り」や「ブレ」がないことがあげられるかもしれません。
長くなったので、今日はここまで。
| 2015-06-03 | 心の育て方 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
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