いじめについて考える Vol.9 - 2015.10.23 Fri
似たようなケースでは、「虐待」の問題があります。
これは、かつてといまでは社会通念が変わって、以前よりは対応が踏み込めるようになりました。
なにが変わったかというと、それは「通報義務」ができたことです。
「たとえ確証が持てなくても、虐待の疑いがあるときは必ず児童相談所などの関係部署に連絡しなさいよ。もし、それをおこたった場合は罰せられますよ」
と罰則つきで制度ができました。
それが学校、幼稚園、保育園などの児童施設、医師など子供に関わるところに義務づけさています。
それによって、以前に比べるとかなり問題を未然に防いだり、事態の悪化に歯止めをかけられるようになりました。
それでもまだまだ完璧ではありませんが、着実な進歩が見られています。
そのように、いじめ問題に関しても現行の方法以外の、社会通念を変えるようなあらたな切り口を作ることでより効果的な対応を模索していくことが必要ではないでしょうか。
例えばの考えですが、子供と家庭への支援のノウハウをふんだんにもっている児童相談所の機能を拡充して、いじめ問題に関しても学校と児童相談所とが連携して対応するなどです。
学校であれば難しい、家庭に踏み込んでの対応にも、児童相談所がなんらかの法的裏付けをもって取り組むのであれば、より実効的なアプローチが可能になります。
また、学校外部の組織が加わることで、ニュースになるような深刻ないじめ問題に見られた、学校側の隠蔽体質、いじめ被害者ばかりが泣き寝入りさせられるような不誠実な学校側の対応などにも歯止めをかけやすくなります。
学校側にとっても、家庭問題への高い専門性を持っている児童相談所と協力してことにあたれることは大きなメリットではないでしょうか。
そのように、いじめをする側への援助を適切に行うことの方が、「罰則を強化」するといった「押さえつけ」の対応をするよりもはるかに児童に対する教育としてふさわしいはずです。
また、実際にいじめ問題を元から解決することにつながることでしょう。
試みに、もし厳罰化を行ったときどうなるかを考えてみましょう。
学校でいじめ行為を行ったときに厳しい処分をされるというのであれば、いじめをする側が狡猾な場合は、学校以外の例えば塾などでそれをするようになるでしょう。
もしくは、学校外の子供に対して、例えば公園で遊んでいる子や、乳幼児に対して意地悪やいじめをします。
部活などで、後輩指導の名のもとにパワハラや過剰な”しごき”などをすることもあります。
学校を卒業するまでは出さずとも、社会にでてからパワハラやモラハラなどをするかもしれません。
それでは、学校に在籍している間、厳罰があることによって問題を顕在化させていないだけで、やはり「臭いものに蓋」の教育的とは言えない対応です。
掲示板などを使った、ネット上での匿名のいじめになることも考えられます。
すでにそれは多発していますので、仮定の話ではありません。
もしくは、犬猫などの動物をターゲットとした虐待に発展することもありえます。
これまでにも、野良猫や野生の鳥類、学校で飼っているウサギやニワトリが惨殺されたニュースを多くの方が知っていることでしょう。
また、狡猾なタイプのものでなく、衝動的ないじめの場合は厳罰化したところで、そのような後先を考えずにいじめは行われるので、必ずしも抑止力にはならないでしょう。
ほかにも、集団心理で行われるいじめには、明確な首謀者がいなかったり、いじめる側といじめられる側が入れ替わるといったケースもあります。
厳罰化がいじめ対応の切り札になった場合、そのようなケースにはどう対応するのでしょう。
もし、一部の子を罰することで「一罰百戒」(見せしめ)のような対応をした場合、それをされた子供はその恨みや疎外感を抱えて成長していくことになりはしないでしょうか。
それだけでなく、いまだにいじめ問題があることを不祥事ととらえ、隠蔽する体質を学校側が持ち続けるのであれば、罰則の強化という制度を導入したところで問題解決につながるわけではありません。
むしろ、強い罰を振るえるという強権を学校に与えることにより、それを不適切なかたちで行使する学校側のある種の暴走すら懸念されます。
この辺りの学校側の意識改革も急務です。
以前紹介しましたが、静岡県などいじめ問題を「なかったこと」にするのではなく、これだけ把握して対処しているとおおっぴらに打ち出すことで問題対処するように意識改革に成功したところも現にあります。
実際のところ、いじめ問題に厳罰化が必要だと言っている政治家たちの主張には、いじめの解決のためだけではない思惑があります。
その点が僕には非常に恐ろしく感じられるのです。
おそらく気づいている人は気づいているのでしょうけれども、いまの世の中の流れではそれに歯止めがかからなそうでとても心配です。
これについては、またの機会にまとめるとして、もう少しいじめ問題解決のための手段について僕の思うところを述べていこうと思います。
とりあえず今後述べようと思っていることには、あと2点あります。
・地域参加の取り組み
・乳幼児期への育児支援アプローチ
です。
また、そこからの発展として、社会全体で子育てを考える取り組みについて、カナダでの実際に行われている政策を紹介したいと考えています。
ただ、しばらく講演等が多くあり、来週からまた多忙になってしまいますので、更新に時間がかかってしまうかもしれません。あしからず。
| 2015-10-23 | 日本の子育て文化 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
いじめについて考える Vol.8 - 2015.10.22 Thu
の続きですが、しばらく「いじめ」についての話をしますので、連番で書いている『いじめについて考える』のタイトルにしました。
しかし、いまだに教員のなかにも「体罰」が必要だと考えている人がいるようです。
一般の人ではさらにそれは多いです。
その原因のひとつは、「子供を低く見る」先入観であろうと思います。
『子供を”伸ばす”より、”コントロール”を目指してしまう』
の記事のなかでもその先入観に触れていきました。
これが日本人が強く持つ子供観としてありますので、乳幼児期から子育てが「押さえつけ」の連続となっています。
「押さえつけ」を積み重ねられてきた子供は、「押さえつけ」をしなければ大人の考える適切な範囲での行動を取ろうとしなくなります。またその「押さえつけ」自体が、適切な範囲での行動から逸脱する衝動を子供に持たせてしまいます。
まさに悪循環になっています。
かつて体罰が盛んであったころ、中学校、高校の「荒れ」が問題になっていました。
例えば高校において、すでにそれまで「押さえつけ」をされることでコントロールされてきた生徒に適切な行動を求めようとしたら、より強い「押さえつけ」をするしか方法がなくなってしまうでしょう。
高校で荒れている原因は、その前の中学校ですでにあり、中学校で荒れている原因はその前の小学校にあり、小学校で荒れている原因は保育園、幼稚園、家庭にあるわけです。(もちろん家庭の問題は常にあるわけでもありますが)
子供の姿は積み重ねで作られます。
前の段階が「押さえつけ」で子供を形作ろうとすれば、後の段階も「押さえつけ」をするよりほかうまい方法がなかなか見つからなくなってしまうのです。
僕はこの問題を解決する鍵は、「連続性」にあると思っています。
”その子の問題解決のための「援助」の「連続性」”
です。
これまで、子供へのアプローチは細切れ、ブツ切れでした。
クラス担任になっても、学年が上がって担任からはずればそこまでです。
どこまで、どのように、その子へのアプローチをするかもその教員しだいです。
学校全体で高い意識をもってその問題に取り組んでいたとしても、学校を卒業して上の学校に進んでしまえばそこまでです。
あとは、行った先の学校しだいです。
もし、そこでの連絡が不十分であったり、上の学校が引き継がれた内容を重視しなければ、その子への対応は問題を見つけるところ、つまり0から再スタートです。
その子その子への援助が、一貫した連続性をともなっていないのです。
やる気のある人、援助を適切にできる人が関わってくれればよいが、援助する気がない人、「不適切な行動を取る子は罰すればいい」、「”おちこぼれ”にしてしまえばいい」と考える人、適切な援助をしない人が関わった場合、それ以降「押さえつけ」でいくしかなくなってしまいかねません。
いま少しずつこの状況は変わる動きはあります。
保育園、幼稚園、小学校、学童クラブなどが連携をとるようになりました。
しかし、まだまだ形だけで、なかなか実のあるものにはあまりなってはいません。
”個々の子供”への援助という段階まではいっていないからです。
連絡会議といったようなものが重ねられていますが、「え、この施設・学校ではまだこんな古い考えでいるのか・・・」と驚くようなことがたくさんあったり、現実にはそんな段階ですので、これからいい方へと発展することに期待したいところです。
ただ、この各施設の連携の動きは、必ずしも「いじめ」などの問題解決のためだけにというわけではないので、「いじめ」をはじめ、子供の心の問題解決についての実効的で明確な対応策は必要だろうと思います。
そこで、僕は「連続性」を持って問題を抱えている子供に援助していけるシステムの構築が必要だと思うのです。
実際の所、学校の先生は教科内容が複雑化していたりして、難しくなっている子供の問題に対応しきれる状況にはなくなりつつあります。
それどころか、ベテラン教師が一気に退職を迎えて、若い教員を伸ばせる人材が足りない深刻な状況であると言われています。
普通に授業を受けさせて勉強を教えることすら危ぶまれている状況で、もしそのクラスにいじめがあったとして、適切な対応がその担任にできるかといったらできるわけがないのです。
いわゆるところの「しつけ」を学校の役割とすることや、担任個人になにからなにまでの対応を求めることなど、これまで持ってきた日本の価値観はすでに終わりを告げているだろうと僕は思います。
担任個人にその責任を押しつければ、その能力はバラバラですので、1年ごとの細切れの対応しか望めません。またどんなに力量のある人であったとしても、ずっと同じポテンシャルを維持できるとは限りません。
力量のある人ほど、大きな難しい問題を押しつけられ、その責任感からかえって燃え尽きてしまったりすることだってあります。
責任感がなく意識の低い人であれば、1年間その子を押さえつけて、その年度が終われば「はい、さようならー」をするだけです。
そのような「連続性」のないシステムでは、いじめのような根の深い問題を解決することは難しいのです。また、教員の「熱意」によって解決できると考えることも無理があるのです。
もはや個人の力量や熱意に頼った対応を求める時代ではありません。
力量や熱意が無限にあり、絶対に間違わないスーパーな人がたくさんいるのならそれでいいかもしれませんが、そんなことはないのです。
どんな人が担任になろうとも、一定程度の対応ができるような「システム」が必要なのです。学年や学校施設を超えて、連続性をもった横断的な対応といったことを考えなければならないでしょう。
いま小中学校をくっつけた、9年制の学制が議論されていますが、この点でもそれのメリットがあるかもしれませんね。
「いじめ」問題を考える上で、今後もうひとつ考えていかなければならない点が「家庭」をどこまで巻き込めるかということです。
いじめをする子の問題で、家庭が関係ないということはありません。
「いじめをする子」は「いじめをする理由を持たされた子」なのです。
その問題がなんであるかはケースによりさまざまでしょう。
親の放任、育児放棄、ネグレクト、虐待。
または過剰な子供への要求や、過干渉。管理、支配のいきすぎ。
貧困や複雑な家庭環境。
またはその家庭の養育力からくる場合、過保護、甘やかし、などなど。
いじめをする子に対して「厳罰化」を行うというのは、一見、合理性があるように感じられますが、子供はひとりひとりが社会的にも養護され大切に育まなければならない存在です。
家庭での育て方が不適切で、子供がそのようになってしまったことに対して、「その子を罰する」というのは、「臭いものに蓋をする」という対応なのです。
「子供を罰すること」では、教育者の責任はまっとうされないのです。
その子の抱えている根本的な問題に手をさしのべる必要があります。
しかし、現状深刻ないじめ問題が起こっても、家庭・親への明確なアプローチというのは規定されていません。
例えばの話ですが、自動車免許で何点以上の違反をすると、通常の免許更新よりも余分にみっちりとした講習を受けなければならないといったことがありますよね。
いじめの問題が起こったとき、学校が積極的なアプローチを可能なのは主にその子供に対してだけです。
家庭に対しても話を聴いたりということはできるにはできますが、それはさほど実行力のあるものとして規定されているわけではありません。
もし、その親が「先生の話なんか聞く耳持ちません」と言ってしまえばそれまでです。
これでは本当の子供の問題は解決できるわけがないのです。
子供を4時間監禁して体罰を加えたり、力を振るって物を破壊するところを見せつけてたりして、最終的に泣いて謝らせたところで、それは暴力や強権に屈しさせているだけであって、その子の問題のなにものも解決してはいないはずです。
その人自身は、大変自己満足感、達成感を得るかもしれませんが。
しかし、学校からのアプローチが子供のみに限定されてしまえば、そのような対応を考える人もでてきてしまいます。
家庭に対しても、根本的なアプローチが可能になるなんらかのシステムの構築が必要です。
いじめをする側の家庭に対しても、責任追及ではなく、”解決のためのカウンセリングを受けさせる”といったことが、当たり前という社会通念を作り上げることなど問題解決のためには大切ではないでしょうか。
つづく
| 2015-10-22 | 日本の子育て文化 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
ほいくみーコラム 連載5回目 - 2015.10.21 Wed
| 2015-10-21 | その他 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
イニシアチブは大人でいい - 2015.10.20 Tue
『“王様子ども”にしないために、親が日々心がけることは?』
その関連で、先日あったこんなことを紹介したいと思います。
パン屋さんでのこと。
3歳くらいの男の子とそのお母さん。
そのお母さんが、お店に入ってくると同時に「なんでも好きなもの選んでいいわよ」と子供に伝える。
それで、男の子はチョコパンを選んでくるが「それは虫歯になっちゃうからダメ」とお母さん。
また、別の物を持ってきて「それはダメ」をお母さんは繰り返している。
第三者的にみていると、これは「えっ?」となって「オイオイ・・・」と思うわけですが、当のお母さんは自分の言動と行動に矛盾があることに気がついていません。
実は似たようなことは、多くの人の子育てのなかにしばしば見られます。
なんでそうなってしまうのでしょう?
その背景には、大人の持つ「価値観」と「実際の子育て」にギャップがあることが一因ではないかと思います。
僕自身も、「子供を尊重すべき」とか「個々を大切にして」と言ったことを述べています。
世間でも同様の考え方はたくさん流布しており、多くの人がそれらに接しています。
そんななかで、漠然と「子供の意見を聞く人が、いい親」といった意識を多くの人が持っています。
「子供も一人の人格であり、大人と対等の尊重すべき意思や意見を持っている」というのが日本も批准している『子どもの権利条約(児童の権利に関する条約』にもいわれているところです。
僕もそのことは、子育ての上でも、現代の子供の教育や未来を考える上でとても大切なことだと考えています。
こういった理念は、ちょっとずつにしても多くの人に浸透しています。
でも、意識にあるだけで、なかなか実際の子育てにはマッチングしていません。
子供の存在は、大人と同等のものであるといっても、子供は大人の導きがあって過ごし、学び、成長していくものです。
ですから、実際の育児のなかでは、「”なんでも”子供の意見を聞く、従う」というわけではありません。
この例でいえば、”子供がなにを食べるか”ということは子供の健康に直結するものです。それは大人がきちんと管理、判断すべきものです。
ですから、ここで「好きなものをなんでも選んでいい」などという必要はないのです。
大人が、”食べさせたくないものがある”のならば、「今日はこれにします!」で何ら問題ありません。
なんでもいいと言っておきながら、「それはダメ、それはいい」と矛盾した対応をするほうがよほど問題です。
選ばせたいと思うのならば、大人がよいと思うものから「こっちとこっちで、どちらがいい?」と選択させればいいでしょう。
子供の意思を「”なんでも”聞く親」が「いい親」なわけではありません。
それを子育てのなかで積み重ねてしまうと、親はものごとをイヤイヤ子供に許容することで、日々の子育てストレスを増大させたり、「ダメダメ黙認」のような子供の姿が大変になる関わりにおちいって、そこから抜け出せなくなったりしてしまいます。
◆「必要なこと」は堂々と
これの類似、派生で、こんなことも多くの人に見受けられます。
おむつ替えの際に、
「おむつ替えてもいい?」と子供に聞いて、子供がそれを嫌がって逃げるところを、うんざりした顔で追いかけているといったケース。
おむつを替えることは、これは「必要なこと」なのですね。
衛生面や、健康面でもそれは必要です。
そういうものですから、子供に「おうかがい」を立てなければならない種類のことではありません。
とはいえ、子供は「モノ」ではありませんから、黙って持ち上げて移動させて替えていいということでもありません。
ですから、ここは大人が「おむついっぱいだから替えますよ」、「これから外出するから替えますよ」などと事実を告げて替えればいいのです。
「〇〇してもいい?」と聞くということは、「〇〇するのも、しないのもお好きにどうぞ」ということです。
最初のチョコパンの事例と同じですね。
大人が困ることまでその選択肢に入れる必要はないのです。
それをしていれば、子供にとっては「”すべきこと”や”大人の思い”に寄り添わない行動」を取るよくない習慣をつけてしまうし、大人にとっては育児における大変さをたくさん感じさせることになります。
そこで育児ストレスを増大させて、子供との関わりに余裕がなくなれば、子供はその人との受容関係、信頼関係に不安・不満を覚えやすくなります。
すると、そこから子供のネガティブな行動が増えたり、大人からのアプローチが余計に通じにくくなるという悪循環をもたらします。
それと同様の構造を持っているものは他にもあります。
例えば、「子供を保育園にあずけること」。
また、「下に弟妹が生まれたこと」などです。
子供を保育園に預けるのは、なんらかの必要があって預けているわけですよね。
ですから、それは「生活のために必要なんだ」と割り切ったブレない気持ちを大人が持っていた方が子育てはすんなりいきます。
しかし、最近の人はそれを子どもに対して負い目や引け目に感じたり、そこから「かわいそう」という意識で子供を見てしまいます。
そのために、本当ならば許容したくない”わがまま”などを、「かわいそうなことをしているから」といった意識から認めてしまったりしています。
子育ては積み重ねですから、そういったわがままの許容がその場だけのことで終わればいいですが、子供にとってはそれが習慣・既得権になってしまうこともあります。
すると、あとになって子供のそういった要求・行動を、たくさんうんざりして聞くことにもなりかねません。
そういったところから、子育てを投げ出したくなってしまう人もいるのも事実です。
しかし、もとはというと、それは大人自身の”ブレ”にあったわけです。
弟妹がいることで、負い目や引け目、「かわいそう」になる人も少なくありません。
弟妹が生まれたことは、まったくなにも悪いことなどありはしないのですから、それは堂々としていていいことです。
大人が「かわいそう」と思うと、子供は「ああ、やっぱり自分はかわいそうなことをされているのだ」と感じます。
そこから卑屈になったり、やさぐれた行動をするようになりかねません。
例えば、”わがままな要求をして親を困らせていいのだ”といった意識や、”弟妹がいることで自分はかわいそうにされているから、弟妹を攻撃していいのだ”といったものなど。
下に弟妹ができたということは、上の子自身が乗り越えなければならない課題です。そしてそれはみな乗り越えることができる課題でもあります。
しかし、大人の方が負い目や「かわいそう」という意識を持つことで、進んで子供にそれを乗り越えなくていいという依存をもたらしてしまっています。
そしてそれが乗り越えられないまま年齢を重ねている子が少なくありません。
最近、兄弟仲がよくない家庭が増えています。こういう点も大いに関係あるのではないかと感じます。
負い目や引け目、「かわいそう」はなにほども、その子供のプラスにはなりません。
大人は必要なことなのだと、ブレずに割り切って、堂々としていた方が子供は安心して過ごせます。
もし、それによってその子に負荷をかけてしまっていると感じるならば、「ありがとう」を伝えればいいのです。
「あなたが保育園で元気に過ごしているから私もお仕事頑張れるよ、ありがとう」
「赤ちゃんのお世話の間、ひとりで遊んでいてくれるから助かるわ、ありがとう」
などなど。
親から向けられる「かわいそう」という意識は、ネガティブな感情を子供に持たせてしまいますが、「ありがとう」という感謝の言葉は子供にとって肯定であり、前向きのモチベーションをたくさん与えてくれます。
「イニシアチブは大人でいい」、「必要なことには堂々と」というお話しでした。
| 2015-10-20 | 子育てノウハウ? | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
mamatenna[ママテナ] 『急増中!優柔不断な親を翻弄する“王様子ども”』 - 2015.10.17 Sat
にて、僕の監修した記事が載りました。
急増中!優柔不断な親を翻弄する“王様子ども”
全3回のうち、いまのところ1つめがUPされています。
「過保護」についてのテーマです。
| 2015-10-17 | その他 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
文部科学大臣の体罰謝罪からいろいろ考えてみた - 2015.10.15 Thu
しかし、これは大臣になったことを契機に体罰を無くすため『隗より始めよ』とばかりに、自発的に口火をきったわけではありません。
ネットのこちらのサイトの記事(『生徒を4時間監禁、竹刀が折れるまで…新文科相の馳浩と副大臣の義家弘介が教師時代の体罰自慢対談』)
で、文科省副大臣である義家弘介 参議院議員との対談で体罰肯定論をぶち上げていたのを指摘されたことが発端で、ネットメディアであるIWJ(Independent Web Journal)の記者から会見でそれを質問され、結果として謝罪がなされたものです。(最近、既存の大メディアは仕事しないね・・・)
馳大臣は謝罪のなかで
「体罰は絶対反対です。(『正論』の)記事全体を読めばお分かりいただけると思うが自戒・反省・謝罪を込めて発言した」
と述べていますが、該当の対談の元記事を見ても、反省・謝罪の意図はあまり感じられません。
元記事の該当部分です。↓
『では殴ったことがなかったかと言えば、必ずしもそういうわけでもない。 私は高校のレスリング部の監督を務め、石川県で強化委員長をやってましたけど、私の高校はそう強いチームではなかったのです。 ですから一週間に一本くらいは竹刀が折れてましたよ。 これは理由はハッキリしている。 短期間でチームをまとめ、強くするには基礎体力をつける以外にない。 私は、できるのに、できないふりをする生徒には一貫して厳しく臨んだのです。 周囲からはまずいんじゃないかという声も聞こえてきましたが、生徒の親にも積極的に自分の考えを分かってもらうよう努めましたね。』
元記事はこちら。『正論』2008 6
”熱血対談 いまどき古くさいとは言わせない【教師の奮起こそ 教育再生の原動力だ】萎縮するな。恐れず胸を張って子供と向きあおう”
参議院議員 義家 弘介 衆議院議員 馳 浩
どこにも、自戒・反省・謝罪は入っていませんよね。
むしろ、
「(周囲からたしなめられているのに、体罰が必要であることを)生徒の親にも積極的に自分の考えを分かってもらうよう努めましたね。」
と読めるのですが、違いますかね?
つまり、謝罪と言いつつ、さらっと嘘ついていますよね・・・・・・・。
嘘つきながらの謝罪には、反省の色は見られないと思われます。
長くなるので、義家議員の体罰をしていた、またそれを肯定する部分は引用しませんが、さらにあけすけに述べています。興味ある方は、元の対談の記事でご覧下さい。(その際は、もしかすると消されてしまうかもしれませんので、早めの方がいいかもしれません)
テレビなど大手マスメディアのなかでは、「謝罪したことを評価したい」という風潮になっているようですが、ここまでごまかしきれないほど明らかに体罰を振るっていたことを自分たちの口から述べている以上、謝罪をしなければ就任直後にもかかわらず大臣、副大臣ともに辞任しなければならない事態になっていたからではないかと感じられます。
現状でも十分、大臣、副大臣ともに辞任すべきではないかと僕は思いますが。
さすがに現役の教師を引退して大臣になっているのですから、これから学校の生徒に体罰を振るうことはないでしょうけれども、施策のなかに二人の大臣の思想は投影されていくでしょう。
「いじめ」などには厳罰化、「国立大学の教育学部をなくせ」発言など、すでに両者には威圧的、統制的な思惑が明らかになっています。
まさにこの対談の記事のなかにもありますが、「いじめ」をする生徒に体罰を振るってやめさせたところで、それは本当の問題解決にはなりません。
表面上の問題を押さえつけただけで、その「なぜその生徒がいじめをするのか」という根本の所を解決してはいないからです。
それは「教育」ではなく、むしろ「調教」に近いものです。
体罰を容認する教師、体罰を肯定する人たちに共通する点は、「主観的」にしか相手をとらえようとはしないことです。
自身が体格・体力に優れていたり、精神的に強いものを持っていたり、頭脳明晰であったり、または社会的な成功者であったりする人は、しばしば自身の成功例や経験を重視して他者へ同じ価値観を求めます。
「自分は体罰を受けても立派に育った。他者も同様だろう」
「私が使うのは暴力ではなく”愛の鞭”だ。だからこの生徒のためになるだろう。いまはわからなくてもきっと感謝するようになるだろう」
自分が「絶対に正しい」と考えられなければ、不可逆的な行為である暴力を使ったりすることはそうそうできません。
こういうことは別の言葉で言うと「独善的」と呼ばれるものです。
しかし、「絶対」なんてことはないわけです。
以前、高校のバスケットボール部で顧問教師から体罰を振るわれていたことが原因でキャプテンである生徒が自殺した事件がありました。
その教師は、体罰を振るうことによって、子供をそこまで追い詰めるかもしれないという予測や想像力が欠如していたのでしょう。
「その暴力が教育的に必要である!」と揺るぎなく考えていた、もしくは思考停止して考え以前に身体に染みついたものとなっていたのではないでしょうか。
体罰を振るう人の立ち位置は、つねに上からです。
そういう人たちも言葉ではなんとでも言えるでしょうけれども、子供を真に伸ばしていこうと考えられる人は、上からの視点だけでなく。”当事者性”、相手の立場になって考えるという視点を持ちます。
僕はこれを「援助の視点」と呼んでいます。
体罰を振るって教育になると考えられる人は、「私の主張は絶対正しい。だからその子供が、それを”ごもっともです”と言うまで痛い目をみせればいい」という思考をしてしまっています。
こんなのは教育ではありません。
例えば、「いじめをなくすために体罰を振るう」というのは、どう考えても論理矛盾があります。でも、それを矛盾だと感じさせない、なんらかの先入観をいまだに多くの人が持っているようです。
”「いじめ」に対して厳罰化”というのも、”上から”押さえつける対応になっています。根本のところで、”いじめをする子に体罰を振るってさせないようにする”こととあまり変わらないとも言えます。
「いじめ」問題の難しいところは、いじめをする側も生徒であり、教育の対象であるところです。
大人の犯罪のように「罪だから罰」と考えるのは、短絡的にすぎるというものです。
”厳罰があるから「いじめ」をしない”というのは、大人の意図する結果だけをつくり出すアプローチです。
なかにはそれですむケースもあるかもしれませんが、根深いものは表面的に見えなくはなってもなくなりはしないでしょう。
いまは、ラインやネットを使った見えない、見えにくいいじめが、すでに大きな問題となっています。
本当に教育的な視点でいじめを考えるならば、「いじめをする側」も救わなくてはならないのです。
それをしなければ、いじめはずっと連鎖していってしまいます。
”上から”しか子供を見ることができない人には、そのことがわからないようです。
その視点で教育を考えると、必ず「おちこぼれ」を作り出していきます。
いじめをする側の子も、家庭での養育が適切でなかったりといった理由があるものです。そういった意味では、あたたかな援助の手を必要としているのはいじめの被害を受ける子と同様に、いじめをする側の子でもあるのです。
もし、本当に「教育」で考えているのであれば、罰することでその問題解決がまっとうされるとは思わないのではないでしょうか。
つづく
| 2015-10-15 | 日本の子育て文化 | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
落ち葉の魚釣り - 2015.10.11 Sun
公園などに行ったら、まず手頃な落ちている木の枝を見つけて、それを釣り竿に見立てます。
それを持って、今度は落ちている葉っぱを魚に見立てて、枝の先端でエイッ~! プスッ!と刺して
「やったーまぐろ釣れた~~」
ちっちゃい葉っぱだとメダカとか、大きいとクジラとかね。まあクジラは魚じゃないけどっ。
石を集めて丸く囲んで、そこを池にして釣った魚を集めたり、キッチンなり、たき火なりを作ってそこで焼いて食べたりなどなど。
大物捜しの旅にでて公園を散策したりと、その内子供のイメージの世界が広がっていろいろ自由に遊んでました。
自然物を使った遊びって、最近の子供はなかなかしなくなってしまったので、小さい内にこういうのに触れておくといいかな~と思います。
| 2015-10-11 | あそび | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
子供を”伸ばす”より、”コントロール”を目指してしまう - 2015.10.06 Tue
レストランでのこと。
家族連れのお客さん、2歳と3歳の子ども。
席に着くとおもむろにタブレットを出して、アニメを子供に見せ始める。
最初こそ、それを少し見ていたが、じきに周囲のことに興味をひかれたりして見なくなり、騒ぎ出してしまう。
それをお菓子を食べさせることで釣ったり、
「しっー」 → 「静かに」 → 「うるさい」 → 「いい加減にしなさい」
とだんだん押さえつける関わりが強くなっていく。
それでも聞かないので、「オニから電話がかかってくる」と脅していた。
大人から子供へのこのアプローチですが、これは子供を大人の”望む姿”の範囲に”コントロール”しようとする関わりです。
では、そういった”コントロールしようとする関わり”で、子供はその通りになるかというと、実際のところなっていません。
関わりの度合いを強めることで、なんとか”押さえつけ”をしているに過ぎないのです。
しかし、そういった子供への関わり方は、日本では一般的なものです。
むしろ、多くの人が、親になると進んでこの”コントロール → 押さえつけ”の子育てをしていると言えるでしょう。
ほとんど意識されることはないと思いますが、これは多くの人が持つ「先入観」が影響しています。
その先入観とは「子供にはどうせ言ってもわからない」というものです。
とくに年配の人、いまの祖父母世代の人などはこの意識を強く持っています。
そのように子供を決めつけて見てしまうことは、とても大きな誤りです。
しかし、大変残念なことに、大人からそのように思われて、育てられてきた子は、実際に「言ってもわからない子」に成長してしまいます。
先に大人が「子供はどうせ言ってもわからない」という価値観を持っていて、そうであるからと最初から子供を”コントロール”してしまおうと関わったり、”言うことを聞かせるためのテクニック”を使って、その結果として”強い押さえつけをされなければ大人の望む姿で過ごせない子”を作り出してしまうことは、社会で子供が歓迎されないひとつの大きな原因となってしまっているでしょう。
幼少期から親や、そのほかの大人が、”子供はどうせ言ってもわからない”というスタンスに立って、最初から”子供をコントロールすること”を「子育て」にしていくと、その子たちは”言ってもわからない子”に育ち、その子たちへの大人の関わりは、だんだん強くなる”押さえつけ”にならざるを得なくなってしまいます。
それは、親にとっては子供をみること、一緒に過ごすことを大変なものにし、子供にとっては親からの関わりを”嫌なもの”にしていきます。
そのことは、本当にもったいないことだと僕は思います。
いま「ベビーサイン」ってありますよね。
僕はそれを赤ちゃんの内に親子ですることで、とても大きなメリットがあると思っています。
それは子供の成長うんぬんのメリットではなく、親の方へのメリットです。
親自身が、簡単ではあるけれども赤ちゃんと意思の疎通を経験することで、”子供は言ってもどうせわからない”という先入観から離れられるからです。
以前に紹介したことのある、遠野地方に伝わる”うんこ鳴き”もそれと同様の効果があるのではと思います。
実際に、小さな子供はたとえ赤ちゃんだったとしても、たくさんのことをちゃんと感じ取っています。むしろ、大人の保護なしでは過ごせない赤ちゃんは、大人の感情や思いを敏感に感じ取っているのではないかと思います。
多くの人がいまだに「子供はどうせ言ってもわからない」という先入観を持ったまま子育てをスタートしてしまうことは、とても大きな損失です。
子供にもさまざまな個性がありますので、一概に言えることではありませんが、「子供だってわかる、伝わる」ととらえて関わっていくことが大切でしょう。
また、大人の方にそういう姿勢がなければ子供自身が”伸びる”ことはないのです。
レストランの例では、アニメを見せることで”静かにさせておこう”とコントロールしようとするところから関わりが始まっています。
しかし、これはもったいない関わりにしてしまっています。
なぜなら、むしろこういった機会は、子供を成長させる大きなチャンスなのです。
これは、レストランに食べに行くという非日常の経験です。
「家のなかとは違う特別な場所なのだから、特別な行動をとりましょう」と子供に求め、成長をステップアップすることができる絶好の機会です。
例えば「レストランなのだから座ってお食事を楽しみましょう」とか、「ここは静かに過ごすところですよ」といったことを伝えて、経験させてみることをまずやってみるのは子供の成長にとっても、とてもいいことなはずです。
もし、その後子供をコントロールしなければならない場面が出てきてしまったとしても、最初からそれをしてしまうこととは大違いです。
しかし、多くの人が子供自身を伸ばそうとするよりも、大人の求める姿にあてはめるために”コントロール”や”押さえつけ”、釣りやごまかし、脅しを弄することを当たり前のことと考えてしまっています。
祖父母世代の人たちも、これを多用しています。
そのことはつまり、現在の親世代の人たちが、すでにそうやって育てられてきたことを意味しています。
ですから、なおさらこのような関わりに「おかしい」とは感じさせず、子育ての「当たり前」になっているのがいまの現実です。
「子供はどうせわからない」という先入観・価値観は変えていかなければならないと思います。
| 2015-10-06 | 日本の子育て文化 | Comment : 10 | トラックバック : 0 |
ワークショップ 第3シーズン開始 - 2015.10.01 Thu
子育てについて話すことには、とても難しい点があります。
それは、その話を聞いた、もしくは読んだ人が、さまざまな”悪い方”に取りやすく、話すだけ、書くだけといった一方向からではそれをなかなか防げないことです。
ですから、それを防ごうとすると、当たり障りのないこと、耳に聞こえのよい「おためごかし」になってしまうきらいがあります。
とくに現在の”孤立した子育て”が多くなっている現状では、伝える方に責める気持ちはなくても、子供の姿や子育ての問題点を指摘したりすると、「自分が責められている」と取りやすい傾向があります。
それによって反発する人もいれば、「自分がいたらないのだ」と自己否定の方向へいってしまう人もいます。
(なぜいま、人がそのように感じるようになってしまっているのか?ということに対する僕なりの考察もあるのですが、それについてはまたの機会にまとめられたらと思います)
僕は講演でもできる限り、質問の時間を多くしたりして、少しでも一方向にならないようにしたいと考えているのですが、どうしてもそれは万全にはなりません。
子育てワークショップでは、回数を重ねられることや順序立てて丁寧にお伝えできる点、また誤解やマイナスの方へとらえてしまうといったことがあったとしても、それをつかむことができフォローできるという点から、微妙なニュアンスのことまでも踏み込んでお伝えしていけるかたちだと感じています。
もちろん、僕もすべてが見通せるわけでもないし、子供個々人により対応は違ってくるものなので、必ずしも適切なことをお伝えできるとは限らないのですが、一緒に考えたり悩んだりすることにも意味があるのではないかと思います。
少しでもこのワークショップを通して、子育てが無理のないになったり、楽しくなったりしてくれたらと思います。
これから涼しくなって、子供の体調も崩れやすい時期でもあるので、まずはみなさん健康で無事参加していただきたいです。
| 2015-10-01 | 講座・ワークショップ | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
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