文部科学大臣の体罰謝罪からいろいろ考えてみた - 2015.10.15 Thu
馳浩 文部科学大臣が教員時代に生徒に体罰を振るっていたことを謝罪しました。
しかし、これは大臣になったことを契機に体罰を無くすため『隗より始めよ』とばかりに、自発的に口火をきったわけではありません。
ネットのこちらのサイトの記事(『生徒を4時間監禁、竹刀が折れるまで…新文科相の馳浩と副大臣の義家弘介が教師時代の体罰自慢対談』)
で、文科省副大臣である義家弘介 参議院議員との対談で体罰肯定論をぶち上げていたのを指摘されたことが発端で、ネットメディアであるIWJ(Independent Web Journal)の記者から会見でそれを質問され、結果として謝罪がなされたものです。(最近、既存の大メディアは仕事しないね・・・)
馳大臣は謝罪のなかで
「体罰は絶対反対です。(『正論』の)記事全体を読めばお分かりいただけると思うが自戒・反省・謝罪を込めて発言した」
と述べていますが、該当の対談の元記事を見ても、反省・謝罪の意図はあまり感じられません。
元記事の該当部分です。↓
『では殴ったことがなかったかと言えば、必ずしもそういうわけでもない。 私は高校のレスリング部の監督を務め、石川県で強化委員長をやってましたけど、私の高校はそう強いチームではなかったのです。 ですから一週間に一本くらいは竹刀が折れてましたよ。 これは理由はハッキリしている。 短期間でチームをまとめ、強くするには基礎体力をつける以外にない。 私は、できるのに、できないふりをする生徒には一貫して厳しく臨んだのです。 周囲からはまずいんじゃないかという声も聞こえてきましたが、生徒の親にも積極的に自分の考えを分かってもらうよう努めましたね。』
元記事はこちら。『正論』2008 6
”熱血対談 いまどき古くさいとは言わせない【教師の奮起こそ 教育再生の原動力だ】萎縮するな。恐れず胸を張って子供と向きあおう”
参議院議員 義家 弘介 衆議院議員 馳 浩
どこにも、自戒・反省・謝罪は入っていませんよね。
むしろ、
「(周囲からたしなめられているのに、体罰が必要であることを)生徒の親にも積極的に自分の考えを分かってもらうよう努めましたね。」
と読めるのですが、違いますかね?
つまり、謝罪と言いつつ、さらっと嘘ついていますよね・・・・・・・。
嘘つきながらの謝罪には、反省の色は見られないと思われます。
長くなるので、義家議員の体罰をしていた、またそれを肯定する部分は引用しませんが、さらにあけすけに述べています。興味ある方は、元の対談の記事でご覧下さい。(その際は、もしかすると消されてしまうかもしれませんので、早めの方がいいかもしれません)
テレビなど大手マスメディアのなかでは、「謝罪したことを評価したい」という風潮になっているようですが、ここまでごまかしきれないほど明らかに体罰を振るっていたことを自分たちの口から述べている以上、謝罪をしなければ就任直後にもかかわらず大臣、副大臣ともに辞任しなければならない事態になっていたからではないかと感じられます。
現状でも十分、大臣、副大臣ともに辞任すべきではないかと僕は思いますが。
さすがに現役の教師を引退して大臣になっているのですから、これから学校の生徒に体罰を振るうことはないでしょうけれども、施策のなかに二人の大臣の思想は投影されていくでしょう。
「いじめ」などには厳罰化、「国立大学の教育学部をなくせ」発言など、すでに両者には威圧的、統制的な思惑が明らかになっています。
まさにこの対談の記事のなかにもありますが、「いじめ」をする生徒に体罰を振るってやめさせたところで、それは本当の問題解決にはなりません。
表面上の問題を押さえつけただけで、その「なぜその生徒がいじめをするのか」という根本の所を解決してはいないからです。
それは「教育」ではなく、むしろ「調教」に近いものです。
体罰を容認する教師、体罰を肯定する人たちに共通する点は、「主観的」にしか相手をとらえようとはしないことです。
自身が体格・体力に優れていたり、精神的に強いものを持っていたり、頭脳明晰であったり、または社会的な成功者であったりする人は、しばしば自身の成功例や経験を重視して他者へ同じ価値観を求めます。
「自分は体罰を受けても立派に育った。他者も同様だろう」
「私が使うのは暴力ではなく”愛の鞭”だ。だからこの生徒のためになるだろう。いまはわからなくてもきっと感謝するようになるだろう」
自分が「絶対に正しい」と考えられなければ、不可逆的な行為である暴力を使ったりすることはそうそうできません。
こういうことは別の言葉で言うと「独善的」と呼ばれるものです。
しかし、「絶対」なんてことはないわけです。
以前、高校のバスケットボール部で顧問教師から体罰を振るわれていたことが原因でキャプテンである生徒が自殺した事件がありました。
その教師は、体罰を振るうことによって、子供をそこまで追い詰めるかもしれないという予測や想像力が欠如していたのでしょう。
「その暴力が教育的に必要である!」と揺るぎなく考えていた、もしくは思考停止して考え以前に身体に染みついたものとなっていたのではないでしょうか。
体罰を振るう人の立ち位置は、つねに上からです。
そういう人たちも言葉ではなんとでも言えるでしょうけれども、子供を真に伸ばしていこうと考えられる人は、上からの視点だけでなく。”当事者性”、相手の立場になって考えるという視点を持ちます。
僕はこれを「援助の視点」と呼んでいます。
体罰を振るって教育になると考えられる人は、「私の主張は絶対正しい。だからその子供が、それを”ごもっともです”と言うまで痛い目をみせればいい」という思考をしてしまっています。
こんなのは教育ではありません。
例えば、「いじめをなくすために体罰を振るう」というのは、どう考えても論理矛盾があります。でも、それを矛盾だと感じさせない、なんらかの先入観をいまだに多くの人が持っているようです。
”「いじめ」に対して厳罰化”というのも、”上から”押さえつける対応になっています。根本のところで、”いじめをする子に体罰を振るってさせないようにする”こととあまり変わらないとも言えます。
「いじめ」問題の難しいところは、いじめをする側も生徒であり、教育の対象であるところです。
大人の犯罪のように「罪だから罰」と考えるのは、短絡的にすぎるというものです。
”厳罰があるから「いじめ」をしない”というのは、大人の意図する結果だけをつくり出すアプローチです。
なかにはそれですむケースもあるかもしれませんが、根深いものは表面的に見えなくはなってもなくなりはしないでしょう。
いまは、ラインやネットを使った見えない、見えにくいいじめが、すでに大きな問題となっています。
本当に教育的な視点でいじめを考えるならば、「いじめをする側」も救わなくてはならないのです。
それをしなければ、いじめはずっと連鎖していってしまいます。
”上から”しか子供を見ることができない人には、そのことがわからないようです。
その視点で教育を考えると、必ず「おちこぼれ」を作り出していきます。
いじめをする側の子も、家庭での養育が適切でなかったりといった理由があるものです。そういった意味では、あたたかな援助の手を必要としているのはいじめの被害を受ける子と同様に、いじめをする側の子でもあるのです。
もし、本当に「教育」で考えているのであれば、罰することでその問題解決がまっとうされるとは思わないのではないでしょうか。
つづく
しかし、これは大臣になったことを契機に体罰を無くすため『隗より始めよ』とばかりに、自発的に口火をきったわけではありません。
ネットのこちらのサイトの記事(『生徒を4時間監禁、竹刀が折れるまで…新文科相の馳浩と副大臣の義家弘介が教師時代の体罰自慢対談』)
で、文科省副大臣である義家弘介 参議院議員との対談で体罰肯定論をぶち上げていたのを指摘されたことが発端で、ネットメディアであるIWJ(Independent Web Journal)の記者から会見でそれを質問され、結果として謝罪がなされたものです。(最近、既存の大メディアは仕事しないね・・・)
馳大臣は謝罪のなかで
「体罰は絶対反対です。(『正論』の)記事全体を読めばお分かりいただけると思うが自戒・反省・謝罪を込めて発言した」
と述べていますが、該当の対談の元記事を見ても、反省・謝罪の意図はあまり感じられません。
元記事の該当部分です。↓
『では殴ったことがなかったかと言えば、必ずしもそういうわけでもない。 私は高校のレスリング部の監督を務め、石川県で強化委員長をやってましたけど、私の高校はそう強いチームではなかったのです。 ですから一週間に一本くらいは竹刀が折れてましたよ。 これは理由はハッキリしている。 短期間でチームをまとめ、強くするには基礎体力をつける以外にない。 私は、できるのに、できないふりをする生徒には一貫して厳しく臨んだのです。 周囲からはまずいんじゃないかという声も聞こえてきましたが、生徒の親にも積極的に自分の考えを分かってもらうよう努めましたね。』
元記事はこちら。『正論』2008 6
”熱血対談 いまどき古くさいとは言わせない【教師の奮起こそ 教育再生の原動力だ】萎縮するな。恐れず胸を張って子供と向きあおう”
参議院議員 義家 弘介 衆議院議員 馳 浩
どこにも、自戒・反省・謝罪は入っていませんよね。
むしろ、
「(周囲からたしなめられているのに、体罰が必要であることを)生徒の親にも積極的に自分の考えを分かってもらうよう努めましたね。」
と読めるのですが、違いますかね?
つまり、謝罪と言いつつ、さらっと嘘ついていますよね・・・・・・・。
嘘つきながらの謝罪には、反省の色は見られないと思われます。
長くなるので、義家議員の体罰をしていた、またそれを肯定する部分は引用しませんが、さらにあけすけに述べています。興味ある方は、元の対談の記事でご覧下さい。(その際は、もしかすると消されてしまうかもしれませんので、早めの方がいいかもしれません)
テレビなど大手マスメディアのなかでは、「謝罪したことを評価したい」という風潮になっているようですが、ここまでごまかしきれないほど明らかに体罰を振るっていたことを自分たちの口から述べている以上、謝罪をしなければ就任直後にもかかわらず大臣、副大臣ともに辞任しなければならない事態になっていたからではないかと感じられます。
現状でも十分、大臣、副大臣ともに辞任すべきではないかと僕は思いますが。
さすがに現役の教師を引退して大臣になっているのですから、これから学校の生徒に体罰を振るうことはないでしょうけれども、施策のなかに二人の大臣の思想は投影されていくでしょう。
「いじめ」などには厳罰化、「国立大学の教育学部をなくせ」発言など、すでに両者には威圧的、統制的な思惑が明らかになっています。
まさにこの対談の記事のなかにもありますが、「いじめ」をする生徒に体罰を振るってやめさせたところで、それは本当の問題解決にはなりません。
表面上の問題を押さえつけただけで、その「なぜその生徒がいじめをするのか」という根本の所を解決してはいないからです。
それは「教育」ではなく、むしろ「調教」に近いものです。
体罰を容認する教師、体罰を肯定する人たちに共通する点は、「主観的」にしか相手をとらえようとはしないことです。
自身が体格・体力に優れていたり、精神的に強いものを持っていたり、頭脳明晰であったり、または社会的な成功者であったりする人は、しばしば自身の成功例や経験を重視して他者へ同じ価値観を求めます。
「自分は体罰を受けても立派に育った。他者も同様だろう」
「私が使うのは暴力ではなく”愛の鞭”だ。だからこの生徒のためになるだろう。いまはわからなくてもきっと感謝するようになるだろう」
自分が「絶対に正しい」と考えられなければ、不可逆的な行為である暴力を使ったりすることはそうそうできません。
こういうことは別の言葉で言うと「独善的」と呼ばれるものです。
しかし、「絶対」なんてことはないわけです。
以前、高校のバスケットボール部で顧問教師から体罰を振るわれていたことが原因でキャプテンである生徒が自殺した事件がありました。
その教師は、体罰を振るうことによって、子供をそこまで追い詰めるかもしれないという予測や想像力が欠如していたのでしょう。
「その暴力が教育的に必要である!」と揺るぎなく考えていた、もしくは思考停止して考え以前に身体に染みついたものとなっていたのではないでしょうか。
体罰を振るう人の立ち位置は、つねに上からです。
そういう人たちも言葉ではなんとでも言えるでしょうけれども、子供を真に伸ばしていこうと考えられる人は、上からの視点だけでなく。”当事者性”、相手の立場になって考えるという視点を持ちます。
僕はこれを「援助の視点」と呼んでいます。
体罰を振るって教育になると考えられる人は、「私の主張は絶対正しい。だからその子供が、それを”ごもっともです”と言うまで痛い目をみせればいい」という思考をしてしまっています。
こんなのは教育ではありません。
例えば、「いじめをなくすために体罰を振るう」というのは、どう考えても論理矛盾があります。でも、それを矛盾だと感じさせない、なんらかの先入観をいまだに多くの人が持っているようです。
”「いじめ」に対して厳罰化”というのも、”上から”押さえつける対応になっています。根本のところで、”いじめをする子に体罰を振るってさせないようにする”こととあまり変わらないとも言えます。
「いじめ」問題の難しいところは、いじめをする側も生徒であり、教育の対象であるところです。
大人の犯罪のように「罪だから罰」と考えるのは、短絡的にすぎるというものです。
”厳罰があるから「いじめ」をしない”というのは、大人の意図する結果だけをつくり出すアプローチです。
なかにはそれですむケースもあるかもしれませんが、根深いものは表面的に見えなくはなってもなくなりはしないでしょう。
いまは、ラインやネットを使った見えない、見えにくいいじめが、すでに大きな問題となっています。
本当に教育的な視点でいじめを考えるならば、「いじめをする側」も救わなくてはならないのです。
それをしなければ、いじめはずっと連鎖していってしまいます。
”上から”しか子供を見ることができない人には、そのことがわからないようです。
その視点で教育を考えると、必ず「おちこぼれ」を作り出していきます。
いじめをする側の子も、家庭での養育が適切でなかったりといった理由があるものです。そういった意味では、あたたかな援助の手を必要としているのはいじめの被害を受ける子と同様に、いじめをする側の子でもあるのです。
もし、本当に「教育」で考えているのであれば、罰することでその問題解決がまっとうされるとは思わないのではないでしょうか。
つづく
| 2015-10-15 | 日本の子育て文化 | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
NEW ENTRY « | BLOG TOP | » OLD ENTRY