”our side”と”other side” vol.1 - 2016.04.28 Thu
あの記事は指導する側の姿勢についてのことなので、直接的にテーマが関連しているものではないのですが、僕自身もその問題にはいろいろと考えるところがあるのでいい機会なのでまとめてみようかと思います。
実際に僕自身も、そういった若い人たちの姿に接してきました。
ちょっとした指摘でいじけてしまったり、反動でふてくされてしまったり、その関わり方には難しいものを感じます。
また、周囲の人からも、そういった若い人たちの根気や熱意のなさ、自主性・主体性のなさ、人付き合いの悪さ、一般常識に欠ける点などなど、とてもたくさん耳にします。
世間ではこれらを表して「ゆとり」「ゆとり世代」などと呼んだりもしていますね。
そこから、「”今時の若い者は”論」にしてしまっているものを多く見かけます。
この「”今時の若い者は”論」を僕は好きではありません。
「今時の若い者」を作ったのは、いつの時代も常にそれよりも前に生きている年長者であり、またその年長者たちが作り上げてきた社会であるからです。
それをおしなべて若い者に責任があるかのような結論にしてしまうのは、思考停止と同じことだと思います。
今時の若い者の問題の原因は、必ずそれ以前のところにあるはずなのです。
そこを見なければなりません。
しかし、それは多くの人にとって、自分たちの非や間違いを見つけ出しそれを認めることになるので、そのような思考をしたがらないものです。
だから、いつの時代でもこの「”今時の若い者は”論」は人気のある考え方なのでしょうね。
さて、ではここからが本題です。
今時の若者がなぜ、打たれ弱かったり、熱意が低かったり、逆ギレしたり、引きこもりやニートになったり、恋愛に関心が低かったり、友達を作ることに消極的だったり、飲み会に行きたがらなかったり、その他諸々の活力のない体質をもっているのか・・・・・・。
その理由はどこにあるのか?
これらの解は、実はたったひとつのことに集約されるのでした。
それが、タイトルに挙げてある「”our side”と”other side”」の感覚です。
(この概念は、心理学用語やどこかの本に書いてあることではなく、僕自身が考え導き出したことなので、他を当たっても出てこないだろうと思います。専門の研究者などがもっと適切な語で定義しているかもしれません、もしご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。)
ほとんどの人は、意識・無意識の内に、その対象の人が”自分の側”にいるのかそれともそうでないのかを判断して関わっています。
外であった人が、同じ県の出身だったり、同じ学校の出身だったりするとなにか親近感を感じてうれしくなったりしますよね。
それらは、意識的で明確な”our side”の認識です。
人は普段からもっと無意識の内に、この”our side”かどうかの判断をし続けています。
その人が”our side”と思えれば、その人と親しく付き合ったり、友達になろうと思えたり、その職場で頑張ろう、そこでの勉強や部活動などを頑張ろうという気持ちになることができます。
でも、もし”our side”と思えなければ・・・・・・。
その人は、「”our side”の人間ではないので、味方ではない」と無意識に思ってしまいます。
例えば、
その人は、そこでのなんらかの”些細な失敗の指摘”を、まるで自分への全面否定かのように受け取ってしまいます。
コメントで多く寄せられていた、職場に来る新人たちの打たれ弱さの正体は、ここにあるのです。
僕はこれまでにもしばしば、「同じマンションの住人に挨拶しても挨拶が返ってこない、その人たちが子供を育てるのは困難がともなう」という話をしています。
それらの人は、どういう思考・もしくは感情のプロセスを踏んでいるかというと、
マンションの廊下でそこの同じ住人とすれ違ったとします。
そのときその人の心の中で、「同じマンションの住人であるこの人は、自分の”our side”か?」という問いが瞬時に発生し、心が無意識にそれを判定しています。
そこで「知り合いではないけれど、同じマンションの住人であるその人は、”our side”である」とイエスの答えが出る人は、挨拶を返すことができます。
逆に「”our side”ではない。”other side”だ」とノーの答えが心の中で出る人は挨拶を返すことができません。
人間はそのような「”our side”か”other side”か?」の問いを、すべての他者との関わりの場面で常にし続けています。
しかし、現代において「”our side”と思える範囲」が、非常に狭くなってきてしまっているのです。
実はこの問題は、若い人たちだけの問題ではありません。
現在の祖父母世代の人たちにも少なからず見えている問題です。また、僕のような子育て世代は言うに及ばずです。
若い人たちは、それらの影響を子供時代から受けて、より濃縮されてしまっているのです。
また、職場の新人教育という視点で考えてみると。
いま就職してくる若い人たちは、「ブラック企業に入らないようにしなければ」といった実際の問題に直面してきています。また、圧迫面接といったことも現実にあるところで就職活動をしてきています。
その会社ではそういったことをしていないとしても、そのような警戒心は簡単にぬぐいがたいものとして少なからず残っている人もいるはずです。
だから、おいそれと「もう会社の一員になったのだから、この先輩や上司は”our side”なんだ」と脳天気には思えないことも不思議ではないでしょう。
「やる気がないなら来るな」という指導した先輩社員も、それは善意からしていることなのかもしれません。
しかし、その先輩と新人とは大した年齢の差はなくとも、生きてきた社会が大きく違っているので同じ見方ができないギャップがあるのでしょう。
僕が大学を出た頃は、就職氷河期と呼ばれるころでしたが、まだ小泉政権以前なので、「終身雇用」といった概念が少なからずあった時代です。
そのような頃を知っている人にとって、入った会社を”our side”と感じられることはそう難しいことではありません。
だから、そこでの厳しい指導をしてくれる先輩も「ああ自分のために一生懸命言ってくれているのだ、この人も”our side”なんだ」と思えます。
でも、いま現在の若者は、そのような人間観を持つことが困難な状況で育ってきているのです。
それは誰が悪いというものでもありません。
ただ、そういった現実を踏まえて、これからの時代の子育てや教育を見直していく必要がある時期に来ているのです。
そこに気づかず、物事の事象の是非だけを見ていくと、問題はなにも解決しないどころかますますこじれていってしまいかねないでしょう。
だから、この点について多くの人、特に子育てする人や子供を教え導く立場にいる人には気づいて考えていって欲しいと思います。
そういうわけで、もう少しこの問題について見ていきます。
ちょっと他の仕事が忙しくなってきているので、記事の続きは時間が空いてしまうかもしれません。
| 2016-04-28 | 日本の子育て文化 | Comment : 14 | トラックバック : 1 |
「やる気がないならやめろ」 vol.2 - 2016.04.27 Wed
僕は、この「やる気がないならやめろ」といった「”否定”を用いた指導」が利用できる人が、ある意味ではうらやましいと思います。
おそらく「それをするのは当然だ」「それでなければ人が伸びない」と考えられる人は、もっとギリギリの状況で人を伸ばさなければならない局面にあったことがないのだろうと感じます。
「否定」を使って指導が成り立つ状況というのは、とても”ぬるい”状況でしかないのです。
否定的な手段を使ってすら、相手がついてきてくれると期待できるのだから楽なものです。
なかなかそういったシーンに実際当たる人は少ないかもしれませんので、考えるために例を挙げてみましょう。
例えば、児童相談所の相談員の立場です。
その人が指導や改善をしなければならない相手というのは、虐待をしている親や家族です。
そういった対象に、否定や威圧的な関わりは軽々しく使うことができません。
多くの場合、それは逆効果にしかならないからです。
単に虐待をしていることを責め改善を求めたところで、「お前のせいで文句を言われた」とより子供が責められる結果となります。また人によっては、その行為を責めたたところで自分が悪いのだと自己否定をするばかりで改善には向かえません。
それがどんなに納得のいかないようなことだとしても、相手の話や立場を汲み取りながら改善に向けての働きかけをしていく必要があるのです。
そこには、自分の感情をぶつけながらの指導などする余地はありません。
「否定」が使えない極限のところで相手を指導しなければならない状況をくぐって来た人にとっては、「やる気がないならやめろ」などというアプローチは「指導」の内に入るようには見えないのです。
それゆえ「やる気がないならやめろ」と、自分の感情を前面に出して相手からついてきてくれることを期待して指導の効果を出そうとするというのは、非常に”ぬるい”シーンでしか使えないことです。
また、それは”博打”でもあります。
それで発奮してついてきてくれる結果となればいいですが、そうでない場合、もうそこで指導は継続できなくなります。
受験勉強や職業上の指導などは、相手に退路がないことを指導者側は認識しているから、そのように自分の感情込みでの高圧的な指導が行えてしまいます。
つまりは、その指導の形は相手の”足下を見て”行っています。だからこそこれは相手を尊重せず、モラハラ的な指導と言えるのです。
「体罰」も、これらと同様「”否定”を用いた指導」ですが、
教育評論家の親野智可等(おやの ちから)さんは、「体罰は甘え」と言っています。
「体罰は甘え」とだけ聴いても、一般の人はその意図するところがつかみにくいかもしれません。
しかし、それは↑で述べているように、本来ならば根気強く努力や試行錯誤をすべき指導側が、対象の「否定」によって指導の効果を上げようとしているからです。本来すべき指導側の努力を放棄し、それを対象に丸投げしているのです。
だからこそ、「体罰は(指導する側の)甘え」でしかないのです。
僕は保育士として、子供たちを保育してきました。
”大人の指示に従うだけの子供”を作り出すのでしたら、「否定」の方向での関わりを積み重ねていくことでもそれは可能です。
例えば、怒ったり、叱ったり、他者と比べてできないことを指摘したり、はたまた「疎外」を使ったり。
それをすることでも、”従う子”や”ルールを守る子”を作り上げられます。
しかし、それはときとして”一過性の姿”にしかなりません。
本当の意味でその子の”成長として獲得させる”ことにならないこともあります。
中にはそれでも十分な育ちを得られてしまう子もおります。
だが、本当に考えなければならないのはそういった”どう関わってもそれなりに育っていける子”ではなく、より適切に関わらなければうまくいかない子のはずです。
そのようなどんな対象にしても適切な指導方法・関わり方であれば、”どう関わってもそれなりに育っていける子”にしたとしてもより効果的だからです。
本当に子供を伸ばそうと思ったら、「否定の積み重ね」は役に立たないのです。
むしろ、マイナスにしかなりません。
「否定」は、「意欲」「信頼」「自信」を損なっていくからです。
「やる気がないならやめろ」的な否定のアプローチは、この「意欲」(もしくは”やらなければならない切羽詰まった状況”といった「モチベーション」)が十分にあるときにだけ使える関わり方です。
子育てにおいて、それはほとんど当てにできないことです。
だから、本当の意味で人を伸ばそうというする指導者が持っている手札には、たくさんの「肯定」と、少しの”現状の否定”といった「部分否定」のカードしかないのです。
| 2016-04-27 | 日本の子育て文化 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
女性蔑視の流れは止めないとダメ! vol.2 - 2016.04.26 Tue
保育園に通っている家庭にはさまざまなものがあります。
母子家庭になっているケースも少なくありません。
そういったケースにも、「夫のモラハラが原因」で離婚に至ったもの。
また、保育園在園中は結婚していたが子供が小学校にいってしばらくして、夫のモラハラや身勝手な行動ゆえに離婚してしまったというケースもかなりあります。
モラハラに限らずハラスメントは全体的にそうですが、している側に「悪意がない」という特徴があります。
むしろ、それはその人の価値観の中では「正しいこと」として行われています。
そこがこの問題の難しいところです。
夫婦間の問題で、そのように「離婚」という結末になってしまうということは、そのモラハラをしている人は「離婚」という最後通牒をつきつけられてすら、自分の非が見えない人が多いということを意味しています。
個人のモラハラの背景には、その個人の性格や行いというだけではなくて、その人の人格や人間性に影響してくる価値観や社会的な通念の問題があります。
だから、この問題は個人としての視点だけでなく、社会としての視点も持って考えていかなければなりません。
なればこそ、公の立場にいる人間が女性蔑視・性差別的発言を臆面もなく出している現在の状況には危機感を感じるのです。
そのような蔑視的意見が世に広まりそれが蔓延していくと、蔑視的見解を拠り所とするモラハラもまた多くなっていくからです。
僕はこれまでの経験で、そういったモラハラゆえに辛い思いをしてきた人たち、子供たちを少なからず見ています。
モラハラを生み出してきたこれまでの女性差別的な見方は、明らかに負の遺産です。これは乗り越えなければならない社会的課題でしょう。
そのためにはいろんな努力がいります。
世界的にも、それについてたくさんの意見を出し、実行し、それが必ずしもみなはかばかしい成果を上げるものばかりではありませんが、それを乗り越えるべく努力を続けているのは間違いのない事実です。
日本では現状それが逆に向かっているようです。
先般、「保育園落ちた」の話題が活発になっていた頃、政治家たちから「そんなのは便所の落書きだ」などといった発言が噴出していました。
そういった意見に政治家らしからぬ違和感がありましたが、それはなにかというと、政治家としてのオピニオン・”論”ではなく、それがその人個人の感情的なところから発露している否定の言葉だったからです。
そういった感情的な否定の言葉の背景には、それらを発言する人の精神的な背景にこの「女性蔑視的」な感情があるからこそではないでしょうか。
くだんの不倫をして隠し子を作っておきながら、一方で世間には「子供を作ったのは親の責任だ」と発言した議員の意見の根底にはリンク先の記事で筆者が述べるように、本質的には「子育ては”母親”の責任」という価値観、ひいてはその背景にある女性蔑視的な価値観が見え隠れしています。
その観点でいろんなことを見直してみると、世の政治家のおじさんたちの中には女性蔑視的(もしくは男性中心主義的)価値観でものを見ていることがわかってきます。
その保育園問題を提起した山尾議員に対して、国会で品位を欠くヤジが多発したことも話題になりました。
そういった感情的な否定の根っこには、やはり女性蔑視的価値観があることが感じられます。
また、2014年6月の東京都議会で、「女性の妊娠・出産についての東京都の支援体制」について質問していた女性議員に対しても、「自分が早く結婚しろ」「お前は産めないのか」などのヤジが飛びそのヤジに周囲の議員も笑いの声を上げることで同調を示すといったことがありました。
これは「女性の妊娠・出産」に対する支援を厚くして欲しいという趣旨の質問内容だったのですが、そこでのヤジが単に一女性議員に向けられたわけではなくて、その根本には「女が子供を産むのになんで支援をしてやる必要があるのだ」といった女性蔑視的感情がそれらのヤジにつながったと考えられます。
これも明らかに女性蔑視がそれら政治家の人たちの根底にはあることを示唆しています。
つまり、”女性議員に対する蔑視”の他に、”女性の存在が社会の中で大きくなることに対する嫌悪”という二重の構造があるのです。
報道では、女性議員個人に対する風当たりのところだけしか取り上げていなかったけれども、問題はもっと大きいのです。
さて、興味深いのはこういった女性蔑視的な見解を持っている政治家たちが、子供に対する「道徳教育」にとても熱心であることです。
「親には孝」
「年長者には尊敬」
「子には慈しみ」
そういったことを子供たちにしっかり刷り込みなさいと考えています。
でも、他者を蔑視するような人が言うところの「道徳」を僕は素直には受け取れません。
「親には孝」 (特に父親には絶対服従。同じ理屈で国家や会社にも服従ね!)
「年長者には尊敬」 (目下の者には不当な扱いをしてもよい)
「子には慈しみ」 (体罰はOK。むしろするべき。子供を支配的に育て、個性や人権意識など持たせるな!)
そして、
(女は出しゃばるな。男の言うことを聞いて、子供を自分の努力でまっとうに育てて、親の介護をしろ。それの支援にお金は回さないけど、しっかり働いて税金も納めてね)
そのような本音が見えてしまうのです。
「いじめ」の社会問題化以来、政治が教育に強く口出しできるようになってきてしまいました。
これからの社会に生きていく子供たちが、そのような本来は乗り越えるべき昔の価値観をもった大人たちに蝕まれてしまわないかについても、僕は危機感を持っています。
とりあえず、いま表面化している問題でこういった流れを悪い方へ向かわせないために取り組めるところは、「女性蔑視的意見」に明確にNOと言っていくことではないかと思うのです。
| 2016-04-26 | 日本の子育て文化 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
女性蔑視の流れは止めないとダメ! - 2016.04.24 Sun
僕としては、”EXIT”の背景はとても見やすかったのですが、モニター輝度の設定などでもだいぶ違うのかもしれませんね。
それなりに事情や都合もあるので、いろいろ考慮してみてもし戻ってしまったらそのときはごめんなさいね。
そういわけで、当面コロコロと背景が変わってしまうかもしれません。あしからず。
ジェンダー論の専門家である勝部さんが、こんなことを述べていました。
『なぜ、「親の責任」を指摘する男たちは愛人・隠し子を作るのか?』
最近、女性蔑視の意見がものすごく元気になっていますよね。
僕が学生の頃から考えてみても、ここまで女性蔑視的意見が次から次へと出てくる時代というのは初めてではないかなと感じます。
これまでの時代は、それ以前の女性蔑視的社会観(男性中心主義的社会観)を反省して今後それを変えていこうという世界的な潮流があり、日本でももちろんそういった流れ・社会的コンセンサスのもと進んできました。
中には昔ながらの考え方でそういう見方が抜けきらない人などもいましたが、公のところではそれは許容されるものではなかったし、また心の中で思っていようともそういった蔑視的意見は少なからず自制されていたのではないでしょうか。
しかし、ここにきてまるでタガが外れたように、毎月と言わず毎週のように政治家や公的な立場にいる人から女性蔑視、性差別の言動や行動が頻発しています。
また、ジャーナリストや著名人のなかにも、ともすると戦前の価値観のような女性観・家族観を賛美する人も少なからず見かけるようになっています。
「こういうあり方は素敵だ」という賛美する価値観は、決して悪いものではありませんが、それらはあっという間に「そうでないものを否定する」という価値観へと変貌しかねません。
強い賛美は、差別を生む危険性と表裏一体です。
「女性の役割は子供を二人以上産むこと」と言った大阪の中学校長は、学校に旭日旗を掲げるなどの問題視される行動が他にもあり免職になりましたが、そのような過去の価値観に回帰する形での女性蔑視が、この現代に来て活発になりつつあるようです。。
以前、待機児童についてのところで紹介しましたが、政府が出した待機児童対策の一つが「三世代同居住宅に補助金を出す」というもの。
これも結局は、「女性が輝く」「一億総活躍社会」などと言う一方で、子供の世話・親の介護を女性にさせるだけの昔の価値観の押しつけでしかなくなってしまいます。
そして、同じ党派の政治家が「子供を産んだのは親の責任」などと言い放っています。
為政者の本音がどこにあるか、あまりにもありありと見えすぎて、もう少し隠す努力くらいすればいいのにとお節介にも思ってしまいます。
こういった女性蔑視的な潮流を放置してしまうことは、すべての人が幸せになれる社会を目指してきたこれまでの多くの努力を無にしてしまいかねません。
これは止めなければならないと僕は思うのです。
| 2016-04-24 | 日本の子育て文化 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
「子供の感情は子供のもの」 vol.2 - 2016.04.23 Sat
そのように見てあげられるようになると、子供の泣きを怖れる必要はなくなっていきます。
子供がぐずっていると大人はそこにイライラを感じます。
なぜイライラするかというと、大人がいくら頑張っても思い通りの状態(この場合、泣き止ませる・ぐずりをやめさせる)にならないからです。
だから、大人は子供の”泣き”や”ぐずり”にストレスを感じます。
「泣き止ませなければならない」
しかし、
「泣き止んでくれない」
↑このような姿勢で子供に関わっていると、とてもストレスが大きいのです。
子供の泣きやぐずりをまるで「大人への脅迫」のように感じてしまうこともありますね。
でも、
「泣き止ませなければならない」 ← この部分をもっとおおらかに見てみます。
”子供の感情は子供のものであり、大人が一から十まで始末をつける必要はないのです。むしろそれはかえって子供の心の育ちを奪ってしまうことにもなりかねません”
そう思うことで、大人自身も「泣き止ませなければならないのに泣き止んでくれない」と過剰なストレスを抱え込むこともなくなりますし、子供の方も、自分の感情を自分で乗り越える経験を積んでいくことができます。
ここで注意して欲しいのは、「子供の感情のサポートを大人がすることが”悪い”」と言っているわけではないことです。また、必要に応じて子供の気持ちを他に振り向けて気分を紛らわせたりすることなどをしてはいけないわけでもありません。
子供の心の発達段階が幼い内は、たしかに子供の感情に手を貸してサポートしてあげる場面はあります。
例えば、1歳の子が転んでちょっとしたケガをしたときなど、子供によっては自分で立ち直れないくらい感情的になってしまうことなどあるでしょう。
そういったとき、大人が”よしよし”としてあげますね。
でも、それが過剰だったり、年齢や発達段階が上がっても幼いときと同じように対応していたら、それは心の成長を押しとどめることになりかねません。
ここで大事なのは、以前お伝えした「一のことには一の援助。十のことには十の援助」の精神ですね。
サポートは必要な分だけすればいいのです。
大人の不安・心配が大きいと、「この子にはこの課題が乗り越えられないのではないか」と子供の力を低く見積もりがちになります。
すると、サポート・援助が過剰になってしまいます。
そうなるとかえって子供は、その課題が乗り越えられなくなってしまいかねないのです。
もうひとつ補足ですが、ここで「(大人が)泣き止ませなくてもいい」と言うのは、”困った状態”を放置してもいいという意味でもありません。あくまで、大人が子供の感情を”作り出すこと”をしなくていいと言う意味です。
例えば、子供がなにかを買って欲しくてお店で泣いてごねていたとします。
このとき、子供の感情に大人が手を貸して気持ちを整えてあげようとする必要はありませんが(したら悪いというわけでもないですが)、「ここでそんな風に泣いていたら困るから、泣き止みなさい!」ときっぱり言えばいいのです。
大人が子供の感情を整えるのではなく、必要なことを伝えて子供自身にそれの方向へ歩ませるのです。
成長の途中ですから、それを伝えたとしてもすぐにできるわけでも、習得するわけでもないかもしれません。
でも、子供の姿を大人が作るのではなく、子供に投げかけ自分で考えさせ自分で達成する方へ向かわせるのです。そのために大人は必要なことは伝えます。
子供が泣いていて、大人である私がそれが困るならば、「困る」と言っていいのです。
子供が長泣きしていて、ある程度はそれに付き合ったけれどもそれでも泣き止まなければ、
「あなたの気持ちはわかるけど、そんなにずっと泣いていたら僕もイライラしちゃうから、もう自分で気持ちを落ち着けて泣き止んでください!」そう要求してしまいます。
必要なことを伝えて求めるけど、その状態を作り出すのは子供本人なのです。
昔の子育ての”当たり前”だと、
「そんなに泣いていると鬼が来る」などと脅す(子供だまし)ことやお菓子をあげることなどで、子供の状態を大人が作り出そうとしていました。
僕らの親の世代はこれが当たり前でしたので、いま子育てしている世代もこういったことを”当たり前”だと思ってやっています。
それゆえに心にまで過保護をし、子供自身を成長させない方向に子育てが向かってしまっています。
それが多くのところで子育てを迷走させる一因ともなっています。
実を言うと、この4月から小学校に通い出したうちの娘も学校に行く前、しばしばメソメソしています。
だからといって、「あら、つらいのね。かわいそう」とも「ぐずったりして、しょうがない子ね」とも思いません。
「否定も肯定もしない」といった態度でおおらかに見守っています。
「否定も肯定もしない」というのは、「冷淡に放置する」という意味ではありません。
新しい環境や生活に不安があって気弱になってしまうことは、誰しもあることです。それを泣いたりすることで出さない子もいるでしょうけれども、出したから”悪い”わけではありません。
子供「行きたくない」
大人「行かせなきゃ」
↑”(子供の心情への)否定の見方”
かといって、「つらいのね。かわいそうね。じゃあ行かなくていいわよ」と言ったり、そう思うわけでもありません。「行かせない方がいいのかしら」と不安になることもありません。
子供「行きたくない」
大人「行かなくていい」
↑”(子供の心情への)肯定の見方”
「ああ、そうなんだ」といった心持ちでおおらかに受け止めつつも、それを「いい」とも「悪い」とも言わず、過剰に心配・手助けをせずに自分で乗り越えさせます。
ここで、大人が不安・心配を大きくすれば、子供はその大人の気弱な心に「依存」してしまって、前向きになれなくなってしまいます。
また上で述べたように、「なんとか泣かないで行けるようにしなければ(大人がしむけなければ)」とも僕は考えません。
なぜ、そのようにおおらかに見守っていられるかというと、子供はそういったことに直面して乗り越えていける力を持っていると知っているから、信じられるわけです。
なぜそう思えるかというと、これまでの乳幼児期にたくさん受容してきた関わりの蓄積がそれの源泉になっているからです。
ただ、それが「いつになるか」は誰にもわかりません。子供には個性もあるからね。
来週には笑って元気に登校するようになるかもしれないし、そうなるのに1年かかるかもしれません。
でも、いつかはそうなるでしょう。
それだけの蓄積が、子供誰しもが持つ成長の力と、これまでの家庭・その他での関わりから娘の中にはあるはずだからです。
それを僕は「信じて待つ」だけです。
大人が信じて待つことができずに焦ってしまえば、大人が手を出すことでその結果を急いで作ろうとしてしまいます。つまり過干渉ですね。
それをすれば、たしかに成果はあがるかもしれません。
でも、そうやって作為的に作り出せば、その幾分かは大人が自分の焦りを納得させるために作り出したものであって自己満足になりかねません。そして、その分は子供が自分で乗り越えて獲得した成長ではありません。
「成長の果実を味合うのは、大人ではなく丸々子供」であったほうがいいだろうと僕は思うのです。
子供の持つ「不安」を大人がそのまま「心配」に変換してしまったら、それは依存を生んだりして成長の足かせともなってしまいます。
でも、「あなたはいずれできる」と信じてあげることは、子供にとって前に進もうとする力となります。
だから、子供の泣きやぐずりを否定する必要を感じません。
一方で、あまりにメソメソが強かったりするときは、「はい、もう自分で泣き止んで準備しなさい」などと、きっぱり強くいうこともできます。それができるのも子供の持つ力を信じているからです。
| 2016-04-23 | 心の育て方 | Comment : 12 | トラックバック : 0 |
「子供の感情は子供のもの」 vol.1 - 2016.04.22 Fri
大人だって、もし新しい職場だとか久しぶりの復帰ということになれば、それに対する不安や、慣れないゆえの疲れなど感じることでしょう。
子供も同じで、新しい場所や初めて出会う大人や子供がいることによって、少なからず不安や疲れを感じます。前年度から通っているところだとしても部屋が変わったり大人が変わったり、新しい子供が入ってきたりするだけでも、子供にはけっこうな負担を感じるものです。
しかし、それを”悪いもの”と考える必要もありません。
もちろん、それにあぐらをかいて無頓着でいていいということでもないのですが、それを”よくないものなのだ”と見て、過剰に気にすることが「子供のため」とは限らないのです。
子育てに慣れていない人やまじめで一生懸命な人は、「子供(の感情)をどうにかしてあげなければ」と考えてしまいます。
「子供はか弱い・幼いものなのだから、私が手を貸すことで助けてあげなければ」と思ってしまうのです。
例えば、子供が登園時にグズグズと涙ぐんでいたりすると、「かわいそうだ」と不安になって大人の方もおろおろしてしまいます。
そこから、なんとか「大人が介入することで、その子供の状態を解決しなければ」と考えがちです。
すると、おもちゃを持たせることでそちらに気を向かせようとしたり、「〇〇ちゃんがいるわよ」とお友達のことを引き合いにだしたり、「先生があなたのことを待っているわよ」などと頑張ります。
さらには、「帰りにお菓子買ってあげるから」と言ったりすることで、なんとかその”泣いてぐずっている状態”から脱却させようとしたり、「いつまでも泣いているとお化けがくるよ」などと脅しを使ってみたりという人もいます。
これは、前々回の記事で述べた「よかれと思って”子供だまし”」を積み重ねています。
それらは、ある意味では大人が「子供の精神的な面に対する過保護」になっている状態です。
「子供の感情をコントロールすることまでもが大人の仕事」と思ってしまっているわけです。
これは、現代の人の「子供が大事なゆえ」に出てきてしまっている過剰な関わり方の傾向です。
僕は、この記事のタイトルにした「子供の感情は子供のもの」という言葉を広めようと思っています。
子供は、精神面や感情もまた成長をしています。
しかし、目に見えないところなだけに、それの”成長のさせ方”を理解することはなかなか難しいです。
具体的な様子を例にとって考えてみましょう。
朝、保育園に行くときにぐずってしまう子に、おもちゃを持たせたり、なにかに気を惹かせてなんとか泣かないようにと頑張っている人がいたとします。
大人がそういったアプローチをすることで、子供はその状態を乗り越えていけるでしょうか?
中にはそのようにその場しのぎの対応をすることでも、だんだん環境に慣れていったり、その子自身の成長によって解決してしまう子もいます。
だから、必ずしもそういう関わりがよくないと言い切れるものでもありません。
でも、そのようにうまくはいかない子もいます。
むしろ、そういったゴネや感情の出し方がエスカレートしていく場合もあります。
なぜか?
その子は、自分の「行きたくない」とか「さみしい」といった感情を自分で解決する経験をするよりも、大人が感情の手助けをしてくれることでようやく日常が進められる”及第点”になる習慣がついてしまうからです。
逆に言うと、大人がなだめたり、ものを与えてくれなければ、そのことが達成できないという経験を重ねてしまっています。
それでは、いつまでたっても精神面・感情面が成長の方へ進めないということです。
その状態のまま年齢を重ねていくと、親に感情をぶつけたり、他のものに当たり散らしたり、わがままや理不尽な要求、変なこだわりを出す行動を身につけてしまい、大変「育てにくい状態」にしてしまうことがあります。
そうなってしまい子育てが「うんざり」になってしまう人は少なくありません。
このようになると、親がよかれと思ってしていた頑張りは裏目にでてしまいますね。そういう事態は避けたいものです。
そもそも、大人は一生懸命目の前の泣いている子供を”なんとかしよう”と、あの手この手をしたとしても、それは結局の所根本的な解決にはなりませんよね。
最終的には、その子が自分で自分の置かれた状況を納得してそこで前向きに進んでいかなければならないわけです。
「子供の感情」を大人が、まるめこんだり、ごまかしたりまでして”整えてあげる”必要というのは(ときにはそれが必要なこともありますが)必ずしもないのです。
基本的に「子供の感情は子供のもの」です。
子供は「おうちにいたいな」「お母さんと離れたくないな」「保育園いきたくないな」などと思うことは当たり前のことです。
大人の側に「そう思わないようにしなければならない」必要なんて、そもそもなかったのです。
それ乗り越えていくのは、誰あろうその子供自身だからです。
”子供が園に行きたがらない”
そういったことは、当たり前のことで少しも怖れるようなことではありません。
”子供が泣くことを怖れてしまう”人は多いですが、子供は泣くことによって、感情や気持ちを表現するものなのですから、それも怖れるようなことではありません。
(子供が泣いているとその親を責めるような見方がいまの社会にはありますが、それはひと世代、二世代前の子育ての考え方が作ってしまった間違った子育て観です)
大切なのは、「子供の感情を”大人が介入して”整えてあげること」ではないのです。本当に必要なことは、その子供の気持ちを理解し受け止めつつも、「この子はいまの状況を自分の力で乗り越えていける」と”信じてあげること”なのです。
親が子供と一緒に不安がっていたら、子供はいつまでも不安を持ち続けてしまいます。
親が「あなたは大丈夫だよ。きちんと乗り越えていけるよ」そのように大きくみてあげられると子供は、だんだんと安心して自分で乗り越える方へ歩んでいくことができます。
長くなったので、続きにします。
| 2016-04-22 | 心の育て方 | Comment : 9 | トラックバック : 0 |
テンプレート変更 - 2016.04.21 Thu
しょうがないので3カラムのテンプレートを使うことにして、とりあえず2カラム表示ができるようにしてみました。
根本的には解決されていないのですが、暫定的にこれでやってみます。
どなたか直し方わかるかたいらっしゃいましたら教えてくださいませ。
| 2016-04-21 | その他 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
一般の人考える「うまい子育て」 - 2016.04.19 Tue
『本当に子どもの為になる教育とは?病院の待合室で見た、とある父娘の素敵な子育て』
ここに出てくるお父さんの病院でした関わり方「お医者さんとにらめっこをしてくるから、時間を教えて」を僕は、タイトルにあるように「素敵な」対応とは思わないのです。
決してこういった対応をしている人を責めているわけではありません。
”悪い”というのでもありません、子育てにはいろんな状況がありますから、こういった”方便”を使うことも一種の手段としてあっていいこととは思いますが、それは必ずしも”目指すべきもの”と考えてしまっては、本当の意味で子育てを安定化させていくことは難しいのです。
でも、この記事のシェアや”いいね”が多数あることが示すように、こういった対応を「素晴らしい」「素敵な」と思う人が少なくないのが日本の子育ての現実なのでしょう。
僕は、子育ての専門家として、その見方に敢えて水を差すようなことを述べようと思います。
この話の状況で、本当に理想的な状態は、そのように「ごまかし」を使って「子供だまし」をしてしまうことではなくて、「お父さんはお医者さんと大事なお話をしてきますから、その間ここで待っていてください」と伝えて、子供がその言葉を信じて戻ってくるまで安心して待っていられる状態のはずです。
それができない状況にあるのでしたら、それ以外の方法、たとえばここにあるような”方便”を使うこともあるかもしれませんが、本来目指すのはそれではなく、嘘いつわりなくストレートに事実を話して、通じる方がいいはずです。
そういった観点からすると、この文中の対応はテクニックをろうしたに過ぎないのです。
でも、この筆者もおそらくそうであるように、日本の子育てでは、テクニックを使って子供を思うとおりにすることが、”よい子育てである”と最初から考えられてしまっています。
筆者も文中で、”(子供を)うまくコントロール”という表現を何度か使っています。
多くの人が考える子育てでは、最初から「子供はコントロールすべき対象」になっているのです。
このスタンスから子育てを組み立てていくと、結果的には子育ては難しい・大変なものとなっていきかねません。
この文中で「素敵な子育て」とされているのは、「子供をコントロールする子育て」の中でのうまいバージョンにすぎないのです。
このことは、こちらの記事で述べた「支配のレール」と同じものです。
僕の”仕事” vol.2
同じ支配のレールの上でも、それのいろいろな方法があります。
上から叱ったり怒ったりすることで、子供を思い通りにするもの。
モノやお菓子で釣るもの。
いいなりや下手に出ることで、子供に言うことを聞いてもらおうとするもの。
ごまかしや脅しで、それをするもの。
携帯ゲーム機などで、コントロールするもの。
以前にも、地獄の絵本や鬼のアプリについても触れました。
これらも、それをよしとする人がたくさんいますが、それを子育ての”目指すべきもの”、”正当な手段”と考えることはとてもあやういことなのです。
そのように支配のレールの上でもやり方はいろいろです。
それらは一般の人からするとぜんぜん違ったものに見えることでしょうけれども、僕から見るとそれは同根のものに過ぎません。
結局どれもが、子供を支配したり、コントロールしようとしているからです。
文中のエピソードは、それが”うまい”というだけなのです。
繰り返しますが、それが「悪い」とは言いません。
しかし、それを「目指すべきものだ」と考えるようになってしまうと、子育ては迷走しかねないのです。
うまいひとが、そういった関わりを受け入れやすい子供にその関わりをする分にはいいでしょう。
でも、そうでないタイプの大人や子供だったら?
また、そういったことができていたケースでも、年齢が上がって「子供だまし」がすんなりいかなくなったら?
「子供だまし」はずっとは通じないのです。
小さい内は、そういった関わり方が有効であっても、ある程度の年齢になると、それまで通じていたと思っていた「子供だまし」の関わり方は全然通じなくなって、そこから子供へ関わることが重荷になっていく人。怒ってばかり、叱ってばかり、子供への関心の低下や放任になっていく人もいます。
このお父さんのようなことがうまくいけばいいですが、そうでないケースでこれを目指してしまうと、ゆくゆくは子供が思うとおりにしてくれないことに、始終、腹を立てたり、イライラを募らせたり、モノやお菓子などでコントロールせずにはいられない状況になりかねないのです。
だからこういった関わり方は「コントロールのテクニック」であって、本来「目指すべきもの」ではないのです。
この点を認識しないと、現代の子育て難しさはなかなか変えていけないだろうと感じます。
この背景には、日本人特有の「”子供”の尊重の意識」があります。
これもとても大切なことなので、いつかまとめたいと思います。
| 2016-04-19 | 日本の子育て文化 | Comment : 16 | トラックバック : 0 |
過保護的支配 vol.4 「気づき」 - 2016.04.16 Sat
「気づき」は救いになるからです。
子育てはうまくいくばかりではありません。
僕がする「受容」の話にしても、この過保護や過干渉にしても、すでに子供にしてきてしまって後悔したりという人も少なからずいるのではないかと思います。
僕にはそういう人を責める意図は一切ないのだけど、その人の心情のあり方によっては「自分のことを激しくせめられているのだ」と取ってしまう人もいるようです。
僕は「子育てを精神論にはしない」というのを持論としているので、「子育ては〇〇だから~~なのだ!」という主張にはしません。だから「~~でなければダメなのだ!」と、子育てをしている人への否定の意図はないのです。
それというのも、子育てを方法論として捉えているからです。
つまりは、「実際のしかた」の問題として考えればいいと思っています。
ですから、「これまでのやり方がうまくいかないなら、別のやり方に変えてみればいいじゃない」というわけです。
そして、子育ては「いまが終点」ではありません。
子供の素晴らしいところは、常に未来があることです。
それまでが失敗していたのならば、これから直せばいい。
間違ったことをしていたのならば、誤りを認めて変えていけばいい。
そう思うのです。
子供のことを「支配の対象」、「大人に従属するもの」などと見なす子供観のもとでは、しばしば、子供は「屈服させるべき対象」「子供の意思はへし折るもの」といった見方をされています。
この記事に先立つ「モラハラ子育て」の話では、まさにそういった子供観の元、従う子を作り上げるべく、子供を傷つけるまでになってしまう子育てについて触れてきました。
これまでの日本のスタンダードな子育ての考え方には、少なからずこういった子供への見方が存在していました。
それはまるで、子供は「敵」であるかのようなとらえ方です。
でも、僕がこれまで子供や子育てする人と関わってきて強く感じるのは、
「子供は宇宙で一番の親の味方」
であるということです。
子供はつねに「親のことを肯定したい」と強く強く思っています。
それがどれほどかというと、これはネグレクトや虐待をされている子供ですらそうなのです。
ならば、「子供のため」と思ってその人なりに一生懸命子育てしている人が、たとえ間違った関わり方をしてきたからといって、そこが子育ての「失敗としての終点」になるでしょうか?
当然、そうなりはしないのです。
間違いをおかしてしまったとしても、「ああ、これは間違っていた。もっと別のやり方を模索してみよう」と親自身が認めれば、子供はそれで救われるのです。
なぜなら、子供は常に「親を肯定したい」と思っているから。
だから、もし失敗したとしても「親の威厳」などとつまらないメンツにこだわって自己正当化などせずとも、子供は親の敵になったりはしないのですね。
さて、「気づき」の話をします。
もし、子供に対してそれまで、強い支配や、束縛してしまうような強い過保護、受容の少ない否定的な子育てなどをしてきてしまったとしましょう。
確かにその間、子供はたくさんの影響を身の内に溜め込んでいきます。
心の”こわばり”となったり、”冷えたもの”になったり、”激しい感情”となったり・・・・・・。
それらはときに、「萎縮」を生んだり、問題行動の遠因となったり、育てにくさとして現れてきたりします。
子供はそのようになっていてすら、どこかで常に「親を肯定したい」と思っています。
親に対して、怒りや憎しみを感じていてすらそうです。
どこかで「肯定したい」と思っているのです。しかし、「肯定できない」「肯定させてもらえない」ゆえに苦しみます。
例えば、子供をいつもヒステリックに怒ってしまうAさんと、Bさんがいたとします。
Aさんは、そうなってしまったあと、ときどき自己嫌悪におちいったり、「怒るような場面でもなかったのに感情的になってしまったこと」に後悔しています。
Bさんは、「私がしていることは正しいのだ」とずっと思い続けています。
こういったふたつのケースがあったとして、やっていることはどちらもまったく同じだったとしても、子供に与える影響はBさんの子供に強くでてきてしまうことでしょう。
AさんとBさんの違いは、Aさんには「気づき」があることです。
自分の行為に気づくことは、子供の心情への理解の第一歩です。
親が自分の行為に気づいていれば、子供はたとえひどい関わり方をされていたとしても、親を肯定することができます。
例えば、「お母さんも、忙しくて大変なんだ」「辛いんだ」「苦しんでいるんだ」・・・・・・と。
でも、まったく気づいていなかったり、親自身が「自己正当化」をし続けていると、子供は親のことを理解し、肯定し、許したいと思っていても、それをさせてもらえないのです。
ただただ、親のその関わりに耐え続けるしかありません。
それは場合によっては、それは心を病ませます。
親からされることがどんなに辛くても、親を肯定したいと思っているので親を責められない状態にある人は、他者を攻撃するようになってしまうこともあります。
いじめや学級崩壊の原因になっている子に、こういった育ちをおくっている子がどれほどいることでしょう。
モラハラや強い支配を受けて育っている子が、他者に「いじめ」をするのは、ある意味では「親のため」なのです。親を「否定することができない」、「肯定したい」と強く思っているからこそ、その矛先は親に向けられず他のところに向いてしまうのです。
自分に自信がなくて、ニートになってしまっている人や、引きこもってしまっている人にも、こういった生育歴をおくっている人は少なからずいることでしょう。
自己肯定感が低い人、自尊感情が低い人、他者の感情が理解できない人などを作るようになることもあります。
子供は一番の親の味方です。
つねに、親を肯定したいと努力を重ねています。
子育てに問題があったときそれの明暗を分けるのは、一見些細なことに見えるこの「気づき」ということです。
もし、「気づく」ことができたのならば、次のステップはそれを”親から子へ伝えること”です。
親子の関わりの問題を、人は場合により何十年も抱え続けています。
それを伝えるのに、何年過ぎてしまっていようとも時間はあまり問題ではないようです。
ましてや、いま子育て中の人ならばなおさらです。
例えば、
「あなたのこと一番目の子供で私はつい力が入りすぎてしまって、あの頃は厳しく関わりすぎてしまったよ。でもあなたのこと大好きだからね」
そのように言ってもらえれば、子供の心のこわばりは氷が日の光を浴びたように溶けていけます。
それは、親が「自分の心情への理解を示した」、「寄り添ってくれた」という証しです。
だから、それを頼りに子供は親を再び肯定することができるようになるのです。
場合によっては、そこから子供は我慢したり溜めていたものを親にぶつけ始めるかもしれません。
しかし、それは「問題行動」なのではなく、「心の浄化」のための行動であり、それを乗り越えたあとには子供の安定した姿、また安定した親子関係が待っていることでしょう。
子育ては”うまくなければいけない”わけでもないし、”失敗してはいけない”わけでもないのです。
なぜなら、「子供は親の一番の味方」だからです。
| 2016-04-16 | 日本の子育て文化 | Comment : 9 | トラックバック : 0 |
過保護的支配 vol.3 - 2016.04.15 Fri
まず、親の方に「子供を〇〇にしたい」という願望があって、それに邁進させるため一方では支配的になり、一方では過保護になります。
最近多いところでは、例えば”お受験”などです。
(全部が全部そうとは言っていませんよ、誤解しないでね)
親がまず、子供を「名門私立小学校に入れたい」といった願望があるとします。
そのために、勉強などたくさんの要求を子供には課していくことになります。
その人自身の考えは、「子供のために」「子供が大事だから」という強い意識です。
ですから、その受験勉強をさせるのと同じ感情のベクトルで、「子供が大事だから」ということで、様々な「過保護的行為」がたくさんなされてしまいます。
「過保護的行為」とは、本当はその子ができることであってもやって”あげて”しまったりという「直接的過保護」。
「うちの子はできなのだ」と決めつけて先回りして手を出したり、その物事に取り組ませなかったりといった「精神的過保護」など。
こういった傾向は、実際に多く見られるようになってきています。
お受験の勉強や、幼児教室に通わせたりして、そういった子は特にそのような早期教育をされていない子に比べて、先取りした能力を身につけています。
例えば、ハサミ使いや絵描きの上手さだとか、字が読める書けるなどなど・・・・・・。
言葉なんかも、その子の年齢にしてはボキャブラリーが多かったり。使わないような言葉を使ったり。
つまり、ある面では進んでいるわけです。
(発達が進んだり、頭がよくなったというわけではなく、訓練の結果「できる」を持たされた状態になったということですが)
しかし、そういう子たちの中には、生活面の能力がその年齢にしては伸びていないというケースがあることを感じます。
例:着替えができない。できないだけでなく、自分でしようとする意欲自体がない。
:5~6歳といった幼児なのに、指示待ち。ルーティンから外れたことが起こるとどうしたらいいかわからず、ボーッとなっている、など。
これは、早期教育がそうさせているというよりも、親の姿勢としての”過保護”が、生活力の幼さを助長してしまっているようです。
これだと、”ある面では進んでいるのに、それよりももっと基礎的な部分では幼い”という、アンバランスな成長をさせられてしまっています。
このように、片方で親の願望に子供を沿わせるための要求(過剰になれば支配・束縛)、片や「”幼い・できない”ものとされての過剰な保護」=「自分を信じてもらえない」という扱われ方。
こういうパターンが、「過保護的支配」として影響が大きくなるもののようです。
それでなにごともなくいくケースもありますが、問題を生むことも少なくありません。
実はこの形の子育ては、すでに親の世代が同じ子育てをされてきているのです。
その頃は、その対象年齢がいまのように乳幼児からと言うほど低くはなく、主に中高生もしくは小学生の頃からされていました。
親から「こうなりなさい」というレールをしかれて、子供は「親の期待に応えたい」と思うのでそのために努力し、一方で過保護をされながらなにか親によって自分の頭の上にフタをされているような閉塞感を感じながら人生を歩んできているのでした。
この同じ構造が、現代では顕著に、より低年齢にされるようになっています。
「小1プロブレム」といった問題が出ている背景には、この子育ての構造が無関係ではないのではないかと僕は感じます。
この過保護的支配の特徴は、「期待をかけられること(=願望を投影されること)」も、「過保護に扱われること」も、基本的には親からすると「子供のため」であり、子供からしても「大事さゆえに」と捉えられることです。
それはよくもあり、悪くもあります。
気が強かったり、自分をはっきりと持てている子であれば、適度に親に反発を出したりして、自分で過剰な親からの支配・束縛から距離を置くことができる子もいます。
その子は、ある程度自分でバランスをとることができるわけですね。
しかし、気持ちが優しかったり、親の気持ちに敏感だったり、強い自己を出すことが苦手な子供(ケースによっては大人になっても引きずっていますから子供に限りませんが)の場合、自分の中にその影響を蓄積・抑圧していくことになりかねません。
その影響は多岐にわたります。
精神科医や精神分析医、心理カウンセラーといった人たちは、もうずいぶん前からこのことに警鐘を鳴らしていましたが、あまり子育ての側からその実際とからめて伝えようとする人は多くありませんでした。
しかし、現実に多くの苦しんでいる人がいる時代になっています。
親の持つ「あなたのためだから」が、ときに子供を不幸にしてしまうことが起こっているのですね。
僕は乳幼児の子育てが専門なのでこういった精神分析の方面に詳しいというわけではないのですが、しばしばこの問題は現実に見ているので、多くの人にお伝えすることで子供と子育てする人が不幸になってしまうことを未然に防いでもらえればと思います。
リンク:子供に成功して欲しければ、これだけはするな スタンフォード大の元学部長が語ったこと
↓これらの本。レビューだけでも一見の価値があります。
| 2016-04-15 | 日本の子育て文化 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
過保護的支配 vol.2.5 ちょっと「過保護と排泄の自立」へ寄り道 - 2016.04.14 Thu
今日寝る前に3歳半の息子が「トイレはない」というのにオムツで寝てる間によく漏れることがあるので「ないかもしれないけどビチャビチャになったら困るからトイレ行っておいて」と言いましたらかたくなに「ない!」というのにいきなさい、いかないで小一時間揉めました。
何故行かないと行けないか説明したんですが結局、息子はいきなくない!だってないから!
で最後は「あるかないか行ってみてみよう」でトイレに行ったのですがこういうのも尊重して信じたほうがいいのでしょうか
子育てには「正解」があるわけではないから、こうだからこうと言えるわけではないのですが、
基本的には(繰り返しますが”いつでも””どんなケースにも”ではなくて、”基本的”にですよ)、僕はこの排泄のシーンでの子供の意思を受け止めることはとても重要なことだと思っています。
これはこのブログの排泄のカテゴリーにも、著作の中でもはっきりと述べられています。
読み返してもらえれば詳しく書かれているとは思いますが、排泄は「心の成長」と言いました。
子供を「幼いもの」として干渉を重ねてしまうタイプの過保護は、むしろかえって心を幼いままにしてしまったり、子供の上限を引き下げてしまうことがあります。
「ボクが何度も”デナイ”と言っているのに、なんで信じてくれないんだ」
と子供が感じれば、ここで蓄積された感情、例えば「イライラ」はどうなるでしょうか?
どこかで、それをイライラとして出したり、些細なことで泣きわめいたり、親を困らせること、わがままをぶつけることなどで解消させる”心の動き”に転化されるかもしれません。
または、今度は「本当は出そうなとき」に”デナイ”と言い張ることで解消しようとするかもしれないのです。
そうなってしまうと、排泄の自立は迷走をはじめてしまいます。
その場面において「自我を通すこと」が主になってしまい、排泄の自立が進むどころではなくなってしまいかねないわけです。
だから過保護や過干渉をする人はかえって排泄の自立を遅くさせてしまうケースがあります。
た・だ・し!
このコメントにあったシーンは、例外にあてはまるかもしれません。
もし、これが家庭で過ごしているケースで、日中室内で遊んでいる時間だったり、これから戸外に遊びに行こうかなというときに、
「これからお外に遊びにいきますけど、トイレにいっておきますか?」と大人が聞いて、子供が「デナイ!」と主張しているのだったら、「いや~、それはちょっと無理じゃないかな~」と大人が思ったとしても、「あ~、そうなんだじゃあトイレにいかなくていいね」と子供の主張を笑顔で受け止めて子供の言葉を信頼します。(このケースをAとします)
また別の場面。例えばこんなとき、
これから電車にのって出かけなければならないときだったり、これから飲食店に行くというときや、長時間トイレにいけないような場合だったとしたら、
「これから電車に乗らなければならないので、いまトイレに行っておきましょう」
などとメリハリを持ってきっぱりと伝えて、行ってもらいます。
(こういったケースをBとします)
Aのケースを、心から気持ちよく受け止めて子供の言葉を信頼することで、実は子供の心の成長に大きな寄与をすることができます。
例えば、それで失敗しておしっこを漏らしてしまうかもしれません。
それが家の中でならば、そのまま気持ちよく後始末をして「はい、きれいになったね」とまた遊びに戻してあげます。
(このときに「それ見たことか、やっぱり言わんこっちゃない」などと小言をいったりしたら、せっかく子供の言葉を信じたことも水の泡になってしまいますからね)
もし、散歩の途中や、外出した先の公園で漏らしてしまったのならば、そういった事態を見越して持ってきておいた着替えの服に替えてあげます。
こんなとき、イヤミや小言を言う必要は全くないのです。
なぜなら、子供自身が一番その「原因と結果」を理解しているからです。
比較的多くの子が、このパターンの失敗の経験を自分ですれば、次からその同じシーンで「(出そうなのに)デナイ!」の自己主張をせず、自分から行くようになります。
これはつまり、失敗により自分で学んだということです。
「出るんだから行きなさい」を大人からされて素直に従っている”だけ”の子では、この自分で本当の意味で学んで身につけるという成長になかなかたどり着かないのですが、
「自分の言葉を信じてもらった。しかし失敗をした」
というのは、全部がその子自身の学びになるわけです。それは本当の意味での成長です。
Bのケースは、いきなりこれと同じことをしてできるかというと、できないかもしれません。
でも、Aのケースを経験して、「大人は自分の言葉をきちんと信じて受け入れてくれている」という実感を積み重ねている子であれば、
Bの「必要なときなのだから行って欲しい」という大人の主張をはるかに聞き入れやすくなります。
だから、A(やそれに類似した経験の蓄積)があるからBの関わりが可能になるわけです。
子供に限らず、人間は「信頼には信頼で返す」だけなのです。
ですから、僕がここで述べたことは(まあいつもそうなのですが)、「こういうときこうすればいいですよ」という「コントロールのテクニック」ではないということを念頭に置いといてください。
「信頼してもらった人は、その人に対して信頼を持って返してくれる」という人間の関わりの基本原則を、子供に対してもそのまましたわけです。
逆を言えば、今回の過保護の話の焦点になっている「信じてもらえない」という実感を子供に抱かせることは、今度は子供から「(大人を)信じない」という行動になって返ってくるわけですね。
だから、過保護が慢性的になってしまうと、子供からの関わりが大変さを増してしまうことがよくあります。また、子供も普段からいつもイライラしているので、大人の方も子供に関わるのがしんどくなり、大人もイライラを終始募らせることになりかねません。
さて、もう一度最初の事例についてに戻ります。
この事例のシーンは、”就寝前”ということなのですよね。
これはどちらかというと、Bのケースに近いわけです。
なので、状況により、また相手(発達段階)により、A的な対応か、B的な対応か悩ましいところではありますね。
さらにここは、「生活習慣の形成」という視点も僕は加えたいと思うのです。
A的対応もB的対応も踏まえつつ(臨機応変に使い分けつつ)、生活習慣を伝えていく場面かと考えます。
実は、うちの子供にも同様のシーンがありました。
自己主張の強くなった成長期(イヤイヤ期)の一時ではあるのですが。
そのときどうしたかというと・・・。
基本はAの対応を普段においてはしていきます。これは前提です。
それなしに、Bはそうそう通じないからです。
ですが、Bをそのままするのではなく、Bの文脈で
「(いや、あなたはそういう主張をしたいのかもしれないけれど)寝る前はトイレに行くものなんですよ。お父さんもお母さんもいつもそうしていますよ。だからあなたも行きましょう」
と、「生活習慣」のルーティンとしての行動を伝えました。
うまく文章で伝えられないかもしれないけれども、
「あなたはそこで自己主張をしたいのかもしれないけれども、いやいやここは行くとか行かないとか押し問答するところじゃなくて、”寝る前にトイレはみんないくものなんですよ”」といった感じで、なんというか次元の違うところで伝えたというわけです。
”大人と子供の感情の応酬”にしてしまわないで、
「そういうものなんだから、はいはい、いってらっしゃい」
と、カラッと”いなして”しまうという感じでしょうか。
(ケースバイケースなので、「こうしなさい」「これが正解」というわけではなく、これはあくまで対応のヒントのひとつということでご理解ください)
そういうわけですが、それが通じるのもやはりAの関わり方があってこそのことです。
このAの対応は、排泄のやりとりに限りません。
多くの局面で、Aの対応を積み重ねるわけです。
例えばご飯の場面で、お腹いっぱいと言われたときに、
(この対応が”悪い”と言っているわけではありませんが、)「まだ残っているんだから、せめてあと一口食べなさい」などとスプーンを押しつけるのではなく、
「ああ、そうなんだ。じゃあもう終わりでいいね」と子供の言葉をそのまま受け入れて信じてあげるといった経験です。
そういった経験の蓄積があるから、メリハリを持って「ここは大人の要求にしたがってもらいます」というBの関わり方が通じるのです。
なので!
Aの対応というのは、子供の”いいなりになりなさい”、”要求はなんでもかなえましょう”という意味合いでつかっているわけではないのです。許容できる範囲のことならば、大人側の「こうしたい」「こうあるべき」というハードルを少し下げて対応してしまうといったことです。
人によっては混同しやすいので注意ですね。
このあたりのことは、感情の機微というか、ニュアンスというか、とても伝えるのが難しい点です。
実際にそういう対応をしているところを見せることができれば一番伝えられるのですが、なんとなくでもおわかりいただけたでしょうか。
| 2016-04-14 | 日本の子育て文化 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
過保護的支配 vol.2 - 2016.04.13 Wed
ブログなんだから、もっと肩肘張らずに気軽に書けばいいのだけど、ついきちんと伝えられるように書かなければという意識が前にでちゃうのですよね。
それでいてあまり考えずに勢いで書いたもののほうが、うまく書けたりするものだから文章は本当に難しいものです。
そんなわけで、今日は煮詰まり解消のためにあまり気張らずに書いてみようと思います。
コメントでも聞かれた、過保護的支配の具体的な姿についてです。
よくあるところでは、子育てに一生懸命な人、まじめな人で、子供の幼さやできないことに対して、「この子は幼いから手伝ってあげなければ」と大事さゆえに過保護になってしまうケースです。
これも程度の問題ですから、そういったお世話を手厚くすることが”悪い”というのではありません。行き過ぎになれば”よかれ”と思ったことも、かえって子供のためにならない場合もあるということです。
ただ、それが過剰になってしまう人の中には、大人の側になんらかの原因や傾向があるケースもあります。
例えば、
・自身が過保護・過干渉で育てられてきた人が、同じことを繰り返しているもの。
・他者の視線が気になるあまり、我が子を「正しい姿」にしなければと過剰に頑張ってしまう人。
・私は「子育てを頑張っている人なのだ」と、過保護・過干渉をすることで周囲にアピールしたくなってしまう、比較的自己肯定感が低い人に起こるケース。
・vol.1でも触れたように、お世話することが自分の生きるモチベーション、アイデンティティになってしまう場合。
・曲がったことが嫌いで、些細なミスや違いを許容できず、子供に「正しさ」の要求を積み重ねていってしまうもの。
これらも程度の問題だし、それらが複合している場合だってあるでしょう。
その出し方もさまざまで、優しく過保護になるタイプ、下手にでてしまうタイプ、上からの関わりで過保護をするタイプ、などなど。
それでも、こういうケースに比較的共通しているのが、「この子は”できないわよね”」という子供への見方です。
だから、「私が手伝ってあげなければ」「守ってあげなければ」「できるようにしなければ」
そのような思いをもって子供へ関わってしまいます。
もちろん、悪意からなどではなく”よかれ”と思ってなのですが。
僕がいろんな子育てを見てきて、また自分でもたくさん子供と関わってきて感じるのは、
「手を出すよりも、手を出さないで見守ることの方がはるかに難しい」ということです。
手を出さずに見守るというのは、自分がやってしまいたくなる気持ちにセーブをかけることだからです。
子育て初心者のお父さん、お母さんだってそうだし、新人保育士だってそうです。
慣れていない人ほど、手や口をついつい出してしまいます。待ったり、見守ったりすることの方が難しいのです。
ベテランならそれができるかというと、それがそうでもなくて、それなりに子供への関わりを意識してそういった経験を培ってきた人でなければ、手や口を出すことが止められません。
これは年配の人だとかえって顕著になったりしますよね。
おじいちゃんやおばあちゃんは、手や口を出すことを我慢するのはなかなかできない人も少なくありません。
さて、vol.1で書いた、
>強い過保護をされている子供が慢性的に持っている感情は「イライラ」です。
についてなのですが、
「この子は”できないわよね”」、「私が手伝ってあげなければ」「守ってあげなければ」「できるようにしなければ」
こういう子供の見方をする人の子供への関わりの端々には、ある気持ちがにじみ出てしまいます。
子供は、人の気持ちに敏感なのでそれを感じ取ってしまうのです。
それはなにかというと、子供からすると、
「ああ、この人はボク(わたし)のことを信じてくれていないのだな」
という気持ちになってしまいます。
過保護って、その根底には「その子の力を信じきれない」という大人の思いがあるのです。
それゆえに、過保護をされている子は、常に「自分は信じてもらえない」「なんで(お母さんは)ボクのことを信じてくれないんだ!」という気持ちが渦巻いているのです。
だからこそ、子供に向き合うときに大切な大人の姿勢のひとつが、
「子供には失敗をさせていい!」
ということになるのです。
| 2016-04-13 | 日本の子育て文化 | Comment : 9 | トラックバック : 0 |
厚生労働省パブリックコメント - 2016.04.11 Mon
厚生労働省がパブリックコメントで保育制度についての意見募集をしています。
「保育」について あなたの声を お聞かせください
厚生労働省の施策は、国民の目からするとあさっての方向に向かっているものもすくなくありません。
ぜひ、皆さんの意見を届けましょう。
僕も一筆したためるつもりです。
| 2016-04-11 | その他 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
「やる気がないならやめろ」 - 2016.04.08 Fri
新入社員教育や部活、塾などなどで使われるこの「やる気がないならやめろ」「来るな」という発奮を促す意味合いで使われるこの言葉。
議論の大元になったのは、新入社員を教育する立場の人が「そのように新人に言ったら本当に来なくなってしまった。今時の若い者は根性がない・・・・・・。自分の指導はおかしくないよな?」という話に対しての、さまざまな人からのリアクションだったようです。
特に若い人たちからは、「そのような言い方がよくない」とそれに対する「反対」、逆にある程度の年齢の人からは「賛同」の声が多かったようです。
僕ももちろん”ある程度の年齢の人”に含まれてしまうわけですが、この「やる気がないならやめろ」はたくさん耳にしてきました。
僕の世代では”当たり前”の言葉であることと思います。
しかし、この「やる気がないならやめろ」という言葉による指導は、指導法としては不適切なことなのです。
不適切どころか、むしろ最低ランクの指導法です。
いや、「指導」とすら言えないものです。
かつての僕自身も含めてですが、この言葉を”当たり前”なことだと受け止めている人はかなりゆがんだ価値観を持たされてしまっているといっても過言ではないかもしれません。
この言葉の問題点は、そこに「嘘」があることです。
この元の話の新人教育係の人は、そのように言ったら実際に来なくなってしまったことにショックを受けております。
つまり、この人はその人に本心から「来るな」と言ったわけではなく、発奮を期待してその言葉を発しているわけです。
ここにすでに矛盾がありますね。
「来て欲しい」のに「来るな」と言っている。
しかし、その結果を受け入れられない。
方便としての「来るな」が、相手には方便として受け取ってもらえていないわけです。
僕のような昭和世代のスポ根文化を知っている人間には、その方便が”お約束”とわかっています。
しかし、世代間に開きのある若い人たちには、頭の中では”お約束”を理解しているにしても、それを感情的に受け入れたくはないわけです。
実際の所、スポ根世代だって「やる気がないなら来るな」と言われてうれしい人などおりはしないでしょう。
若い人たちがそれを感情的に受け取るのは当然なのです。
なぜなら、この言葉には他にも問題点があるからです。
それは、「やる気がない人間だ!」と断定することにより、相手の人格を「侮辱」していることです。
また、「来るな」ということで、その人の帰属意識、居場所がないことを匂わせる「疎外」をしています。
これらはその相手の「否定」になっています。
「嘘」があり「侮辱」があり「疎外」がある。
そして問題点があることを「現状の否定」ではなく、「人格の否定」にしてしまっています。
さらに言うと、この”お約束”にはある種の「モラハラ」が含まれているのです。
この”お約束”は、指導側が”怒り”を見せ、教わる側が”謝罪・恭順”の姿勢を示すことで、”手打ち”になる伝統芸です。
「お前が下で、俺が上だ!」
という、階層、上下関係を再確認させるというプロセスになっています。
これは形は違えど、動物の調教の際にこのプロセスが重視されていますね。
(エサを目の前におきながら”ふせ”をさせて”よし”と言われるまで食べてはならない、など)
「俺を先輩として(先生として、上級者として)持ち上げ、お前がへりくだらなければ仕事(勉強)を教えてやらないぞ」
という、一種の「モラハラ」を利用した「脅し」となっているのです。
「嘘」「侮辱」「疎外」「人格の否定」「モラハラ」
これらは指導法として優れたものでしょうか?
もちろんその答えは「いいえ」です。
むしろ、すべてが”もっともしてはならないこと”なのです。
その相手に、指導して改善すべき点があるのだったら、まず嘘をなくすべきです。
その人に頑張って欲しいのであれば、「あなたには期待しているから現状を乗り越えるよう努力して欲しい」と正直に伝えればいいのです。
その人の至らない点を短絡的に、「やる気」「努力」「根性」といった”精神論”に置き換えてしまうのではなく、まずは自分はどのようなことを望んでいるのかを相手に適切に伝わる方法で伝え、それに対して「あなたはどう思うか?」と自分で考えさせ、
次に改善が必要であると自分が考える点を伝え、「そのためにあなたはどう考えるか?」と投げかけていけばいいのです。
本当に相手がやる気がなく、期待できず切り捨てたい人なのならば、そのままお断りすればいいのです。その場合ならば「やる気がないなら来るな」でも結構かもしれません。
でも、やる気があるにも関わらず侮辱をされるから、そんな人に従いたくない、つまりその指導者を信頼できないのです。
「やる気がないなら来るな」という指導の言葉は、「指導の放棄」と同義です。
その人への適切な指導の仕方がわからないから、精神論にして相手の自助努力に投げようとしている言葉なのです。
結果的に、自分がより適切な指導ができないことをその言葉によって露呈させています。
不適切な指導法をしておきながら、その相手を「今時の若者はやる気がない、根性がない」などの自己正当化をしては発展はありません。よい指導者は、「やる気」を高めることすら明確に意識してアプローチをしています。
しかし、日本にはこの考え方、蔓延していますよね。
若者が社会に出たがらないのもわかります。
僕の世代も、家庭で、学校で、部活で、たくさんこのような”指導”をされてきました。(これも「支配と管理のパラダイム」の産物なのだと思います)
なので、また下の世代に繰り返しています。
僕らの世代は、たくさんのモラハラが当たり前の中で育ってきたので、モラハラに鈍感になってしまっています。
相手をおとしめることで発奮させ伸ばそうというのは、自分たちにはうまくいった手法だとしても、むしろその自分たちが特殊な状況にあったのです。
そのことに気づいたほうが、自分自身も、周りの人も幸せになるのではないかと思います。
余談なのですが、この話題にともなってちょっと興味深いことがあったので書き添えておこうと思います。
それがこちら。
林修先生、「教え子のモチベーションを上げるためにすることは?」の答えが「ぐう正論」すぎて胸打たれる人続出
この林先生の話をもって、上のテーマでの「やる気がないならやめろ」は正しいのだという論説に解釈してしまっている人がいるのだけど、これは「論理の妙」「言葉のレトリック」というやつで、同じテーマを述べているように見えてまったく違う次元の話をしているのですね。
同じ「やる気がないならやめろ」という言葉をテーマにしているけれども、ここで林先生の語るエピソードの大学の先生が言う「やる気がないならやめろ」という言葉は、そのままの意味であるということ。
発奮を促すための「嘘」ではなくて、「やる気にならないのならば、やめればいいじゃないですか」とそのままの意味で使っているわけです。
つまり、まるでカードゲームの”UNO”のように、同じ数字(「やる気がないならやめろ」という言葉)を出し、それをポータルにすることで文字列の色を変えてしまっているのです。
色が変わったことに気がつかなければ、この二つは同じ文脈の上にあるように見えてしまうけれども、実際は全然別のことについて論じているので、この林先生の話は少しも最初の「やる気がないならやめろ」の議論の賛成する理由の援護にはならないのでした。
こういうのは言葉や論理のおもしろさだなぁと思います。
| 2016-04-08 | 日本の子育て文化 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
過保護的支配 vol.1 - 2016.04.07 Thu
しかし、支配的な子育ては、こういったある意味わかりやすい支配だけでなく別の形にもあるのです。
それは「過保護」です。
「過保護」も程度を強めれば、それは子供の支配となり、モラハラ的な子育てと同様に思春期や大人になるまで好ましくない影響を残す関わり方となる場合があります。
(子育てはなんにつけそうなのですが、)程度や個性、状況にもよりますので一概に言えるものではありませんが、強い過保護をされている子供が慢性的に持っている感情は「イライラ」です。
・自分の力を発揮させてくれないことへの
・自分の力を信じてくれないことへの
・自分の意思を受け止めようとしてくれないことへの
・自分の行動を制限されることへの
・自分の成長を認めてくれないことへの
・自分の成長を押しとどめてしまう関わりをされることへの(=幼く扱われる)
・親の意思、希望ばかりを押しつけられることへの
・親への依存を高めさせられてしまうことへの
・自分の「幼さへ依存」されることへの
など
※(「子供の幼さへの依存」とは? :親自身が”子供の世話を焼くこと”を生きるモチベーションにしてしまうこと。極端なものとしては「代理ミュンヒハウゼン症候群」などもある)
こういったことへの強いイライラを慢性的に感じている子供がいます。
これは強圧的な支配とはまた違って、子供を長きにわたって支配、もしくは束縛を生むことに発展するケースがあります。
強圧的な支配が「怒り」を生み親への反発をすることもできることに対して、このケースの特徴は「過保護的支配」は子供がなかなかそれに対して「NO」と言い切れずに、ゆるやかにその支配・束縛が持続していってしまうことにあります。
子供からすると、それらの過保護は「親の自分を大切に思う気持ちの表れ」であって、それ自体は否定するようなものではないのだけど、その関わり方は必ずしも自分も好ましいことではないので、そこに苦しさがあります。
子供は親が大好きだからです。
どんな関わりをされようとも子供は常に「親を肯定したい」と思っています。
これは虐待をされている子ですら、そうです。
「過保護的支配」は「好意」からされていることなので、なかなかつっぱねられないのです。それゆえに束縛が長期に渡って、また生活や人生の隅々にまで及んでしまいます。
僕や僕よりも上の世代は、「グレる」つまり「不良化する」ことが多く見られました。
人のバイクや自転車を盗んで乗り回したり、大人から隠れてタバコを吸ってみたり、徒党を組んでケンカをしたり、シンナーを吸ったり、暴走族化したり・・・・・・。
これには強圧的な支配をされることが背景にはあったのではないかと思います。
それが明確な「支配」だったからこそ、子供は明確な「反発」という形でだしていました。
昨今多い「過保護的支配」は、「半分は好ましく半分は好ましくない束縛」です。
だから子供は明確には「反発」しきれません。
それゆえに、「ひきこもり」や「過食・拒食」「リストカット」「他者へのいじめ」「学級崩壊」などの親への直接的でない形で抵抗を示さなければならなくなっているのだと思います。
この「強い過保護的支配」がさらに程度を高めていったものには、子供の「私物化」「ペット化」「偶像化」が見られます。
”子供を自分の望む形にすることでかわいがる”という形での関わりです。
(本来の性別と変えて可愛がったり、幼児や児童に必要のないダイエットをさせたり、性的な発達を促したり、過度に大人びた知識を習得させたり、などの行為もある)
このような傾向で子育てをしている人は、子供が思う通りになっている内はよいですが、子供の自我が強くなったり、反発を示すようになってくると、そこから攻撃的・支配的な関わりになってしまったり、ネグレクト・放任になってしまうケースも見られます。
虐待死の事例の中には、ある時点までは子供を着飾らせてはSNSなどにひんぱんに写真を投稿して子供を賛美していたといったケースが見られます。
虐待までにはならずとも、そういった「自分の思うとおりにすることでかわいがる(自分の思うとおりでなければかわいくない)」といった”自己愛的”子育てになっている、それらの相似的な子育ての形は一般の家庭にもしばしば見られるようになっています。
0歳~2歳くらいまでが極端な過保護で、2歳以降自我が強まってくると放任気味になっていくといったケースは少なくないので、僕はできるだけ0歳から2歳くらいまでの人へ適切な子供への関わり方を伝えることは特に重要だと感じています。
そこまで極端でないケースでも、過保護が強くなってしまっている子育てを見てみると・・・・・・。
過保護をされることでのイライラを、子供は親からされる過保護的関わりの中で出していきます。
よくあるところでは、「わがまま」です。
その「わがまま」が理不尽であるほうが、より反発や発散になるので、過保護的束縛が強い子ほど、「親を困らせる理不尽なわがまま」として出しています。
このときの大人の対応で多いものが、強い大人タイプの人だと、「無視」や「怒り」。弱い大人タイプの人だと「いいなり」を引き起こします。
その人は、子供への「強い過保護」をよかれと思ってしているので、その人からはなかなか自分の元の関わりが問題であるとは見えません。
なので、子供への対応は「対症療法的」になっていきます。
子供の「困った姿」をでないようにと、押さえつけたりコントロールする方向を頑張ってしまいます。
そのために例えば無視したり疎外したり、または子供の要求をなんでもかなえることで「困った姿がでないように」とするのですが、それでは問題は解決しませんね。
なので、さらに子育てが迷走してしまいかねません。
これを解決するためには、「〇〇すればいい」といった関わり方の問題ではなく、まず第一に「自分の子供への姿勢に”気づく”」ことが必要なのです。
これは一連の記事に書いてきた「支配的子育て」に対しても同様ですね。
「どう対応するか」というカードをいくら増やしたところで、その大人自身が自分の関わり方の「問題点」に気づかなければ根本的な改善には向かわないのです。
前の一連の記事へのコメントでも「どうすればいいか具体的な方法を書いてくれ」といったコメントがいくつかありましたが、これらの問題ではこの「気づき」の方が重要なのです。「どうすればいいか?」を聴いてきた人はおそらく「対症療法的な効果的な対応方法」としての解を求めていたのではないかと思いますが、それだけ知ったとしても場合によっては迷走に油を注ぐだけになってしまう可能性が考えられます。
また、具体的な対応方法であれば、本にもブログにもすでに書かれているのです。
僕は”カンフル剤”や”テクニック”的な関わり方はあまり勧められないのです。個々の事情を踏まえてならば「こういった対応をやってみては」と言えるケースもありますが、文章で書くことはどうしても一般論としてのものになってしまうので、万人に適用することができないからです。
本やブログにすでに書かれているというのは、遠回りなように見えて「受容と信頼関係」からコツコツとスタートしていくことが結局は一番の近道だと思うからです。
ただ、それらもまずは大人自身が自分の子供への姿勢に「気づき」を持つことが必須なのだと感じます。
その「気づき」が十分でないまま、対症療法を目指してしまうとかえって迷走してしまうことでしょう。
また、「気づき」のないまま「受容」の関わりをしてもそれはなかなか子供の心の奥深くまでは届きません。
そして、現実の事例を見ていくと、「気づき」が十分になされれば対応のうまい下手はさして問題ではないようなのです。(これについてはまたの機会に書きます)
また、僕も過去記事でも何度か述べておりますし、コメントでもいただきましたように自身で「受容」が困難な状況にあるのならば、”他者の助けを借りて受容を肩代わり”してもらってもいいのです。
「この子育ての問題は、子供の問題ではなく親自身のウエイトが大きい」といったケースの場合、これがアメリカだったら一も二もなく「まずはあなたがカウンセリングにかかってみるといいでしょう」といったことを伝えるのでしょうけれども、日本の保育園でそんなことを言ったらクレームになりかねないのでなかなか言えないと思います。
でも、その人自身が「気づき」に至っていれば、対応の幅は大きく広がります。
つづく
| 2016-04-07 | 日本の子育て文化 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
僕の”仕事” vol.3 - 2016.04.04 Mon
田舎や下町の人だともう少しお若い方にもいるようです。
大家族や、兄弟姉妹の多い中で育ち身近に子育てを見たり、よいことも悪いことも否応なしに他者と関わる経験が豊富にあった世代では、自然と身につけられた感覚だったのではないでしょうか。
現在それは難しくなっています。
それはいいとか悪いとかいう問題ではなく、時代の流れというものですから、それにあった形を模索していけばいいのだと思います。
しかし、それがなかなか難しい。
決して子供のためとはいいきれない不適切な子育ても内包した、すでに強い先入観になってしまっている既成の子育て方法。商業主義的目的のために流布されている新たな子育ての価値観。
この二つの子育ての考え方が圧倒的に根強くて、本当に必要なことがなかなか見えません。
現実に、子供の親になる人には子育ての基礎を教える講座みたいなものが必要な時代になっているのかもしれません。
保健所でそれらしきものはあるけれども、あれは新生児の身体的なケアが中心なので、なかなかそこまでの役割にはなっていないようです。
実際、カナダのようにそういうことに取り組んでいる国もあって、以前にも紹介しようと思っていたのだけどまだ記事にできないままでした。そのうちまとめたいと思います。
僕は保育士になってたかだか20年くらいです。
しかし、一生懸命見ていると見えてくるのは20年間の子育てだけではないのです。
なぜなら、否応なしに子供の親自身の生育歴が目に入ってくるからです。
今回一連の記事では、単なる支配的な関わりの子育てだけでなく、もっと踏み込んでモラハラにまでなる子育てについて述べました。
このことは、いま現在の子供の子育てにある問題なのですが、同時に子育てする親の世代にもある問題です。
モラハラや強い支配の子育て、親の願望や要求を強烈に投影されて育ってきた人が大人になり結婚し子供の親となって、さあ子育てだというときになって、それまで順調な人生だった人がつまづくのですね。
単に、子育てがうまくいかないということだけでなく、それまで「順調だ」と思っていた自分の人生は「実は親の要求に従ってきただけだったのだ」ということにハタと気づかされたり、自分が我が子に向ける子育ての関わり方によって、自分自身が子供時代どれだけ嫌な経験をしたのか、どれだけ我慢をしてきたのか、そういったことがフラッシュバックしてきてしまったり。
目の前の子供の問題と見えていたものの原因は、実のところ遠く数十年前からつづく親自身の生育歴にあったりします。
親がそれに気づく人もいますし、気づかずに繰り返したり、気づいてはいないのだけど苦しんだり・・・・・・と、さまざまです。
子育ての相談を受けていても、いろいろと話を聞いていると本当にいつの間にか話が親自身のことになっていくケースがあります。
それはその人自身も意識していなかったのに、子供の話をしていたら自然とそうなっているのです。
多くの人が根っこに自分の生育歴を抱えており、それがよくも悪くも我が子の子育てのときに顔を出してくるようです。
自分の親(祖父母)と互いに和解し合えて乗り越えられる人、一方的に親を許すことで乗り越えられる人、否定し続けたり憎むことで乗り越える人、否定も肯定もできないけどつかず離れずでやり過ごしていくケース、それもまたさまざまです。
これが、お金持ちから貧しい人まで、学歴の高い人から低い人まで、社会的地位の高い人から低い人まで、すべてのポジションの人にある問題になっています。
もちろん、なにごともなく円満な家もあります。
しかし中には、その円満さはものすごい努力の積み重ねや、よい人との巡り合わせによって作り上げられているというケースもあります。
現代において子育ては、ただ子供を育てるだけでなく子供を育てる人も自分の人生を考えたり、もしかすると「取り戻したり」する重要なポイントともなっているのではないかと感じます。
それを僕は「子育てによる自己肯定」と呼んでいます。
このことは、なかなかそこを直接実現させられるものではありませんがそれを目標として、まずは目の前の子育てを「いいもの」にしていくこと、そのためにはその人ができる具体的な子供への関わり方を示していくことが僕の仕事なのだと考えています。
さらには、いい関わりの方法だけではなく、問題点やそのままでは気づかないことを指摘したり、今回の記事のようにモラハラや支配してしまうこと、体罰などにはNOときっぱり言う人がいるのだと伝えることも必要なのだと感じます。
安定した子育てをすることができれば、子供がよりよい育ちを得ることができます。またそのようになれば、親自身も子育てを通して自分自身を肯定することができることでしょう。
一人の子供を安定して無理なく育てられることは、その周囲にいる何人もの人を幸せにできることでしょう。それは人によっては人生を大きく変えることができるものになるかもしれません。
なので、僕は子育てを通して社会貢献していくことを自分の仕事と決め、そのためにできることを微力ながら続けていこうと考えています。
| 2016-04-04 | 日本の子育て文化 | Comment : 8 | トラックバック : 0 |
僕の”仕事” vol.2 - 2016.04.01 Fri
その失敗を経験したことが、世の中の子育ての当たり前になっている「支配のレール」から別のレールへと乗り換えるきっかけになりました。
一般の人は、いきなり”我が子”の子育てになることでしょうから、もし支配のレールに乗っている人(まずほとんどの人はそうでしょう)でしたら、僕がした失敗と同じ状況になる可能性があります。
そして多くの人が、「支配のレール」に乗ってそのまま子育てが前に進んでいきます。ただ、そのやり方が強いか弱いかの差があるばかりです。
中には”モラハラ”になるほどに強い関わり方で子供を思うとおりにしようとするやり方もあれば、そういった強さはない代わりにモノで釣ったり脅したりする変則的な形で子供を思うとおりの姿にしようとするもの、優しい声がけをすることでうまく子供を動かしてしまうものまでさまざまです。
でも、結局の所それらは「支配のレール」の上で展開される子育てであることには変わりません。
僕がこのことを「レール」と表現しているのは、一度その方向でスタートを切ってしまうと、ずっとその方向でその関わりを強めながら子育てが進んでいってしまうからです。
それはまるで、ブレーキのあまり効かないトロッコに乗ってゆるやかな坂を下っていくかのようです。最初はゆっくりだとしても、いずれ加速がつきスピードは増す一方です。
乳児の頃、怒ったり叱ったり、感情をぶつけることで子供の姿を大人の望むものにしようとする関わりをしていたら、5歳の頃には怒鳴ったり、叩いたりしなければ言うことを聞かせられない子供にしてしまうかもしれません。
同じく乳児の頃から、”いいなり”やモノで釣ることで子供の姿を作ろうとしていた人は、5歳の頃には子供への関わりがお手上げになって放任になってしまうかもしれません。
さまざまな要素がありますから、必ずそのようになるわけではありませんが、なにも知らずに「支配のレール」に乗って子育てをしていて、そのように子育てが大変になるばかりだったり、自分ではどうにもならないところに行き着いてしまったりするケースは少なくありません。
ですから、「”支配のレール”に乗らなくていい子育ての仕方もあるんですよ」ということを伝えることが”仕事”なのだと思っています。
では、それ以外にどんな子育てがあるのかといえば、「受容と信頼関係」の子育てです。
この「受容と信頼関係」の部分は、かつての子育て環境では意識せずとも自然になされていたので、現代の人の目には見えない状態になっています。
しかし、いまは子育て環境が変わって意識しなければ達成されないようになったので、そこにさまざまな齟齬・難しさが生まれています。
でもやっぱり目に写らない状態です。
これを目に見えるものにして、体験してその子供の姿・子育てを実感できると、子育てはまったくと言っていいほど変わってきます。
僕は職務として子育てを経験することができたので、これがはっきり見え、それをしてみた感触をたくさん実感することができました。なので自信を持っていうことができるのだけど、一般の人にはなかなか見えない難しさがあります。
例えば、座って食事を食べない子に、座って食べさせたいと大人が思ったとき。
「大きな声を出して叱る」、「怖い顔をして怒る」
この関わり方ならば、「座って食べさせる」という目的に直結するアプローチなので、大人の目にも因果関係がはっきりと見える形で理解できます。
それ以前の「受容と信頼関係」になんら問題がなければその関わりでもよいのですが、そこになんらかのつまずきがある場合は、「支配や管理」の関わりを繰り返してもやがて効き目は薄れてきてしまいます。
効き目が薄ければ、「叩いたり」「疎外」するようなさらに強い関わりになってしまう人もいます。
お菓子やデザートで釣るといったコントロールもよく用いられるところです。
このとき、「食事になってそのとき叱ることを頑張るよりも、”公園に行って追いかけっこでもしてみて”とか、”気分のいいとき、くすぐり遊びをして親子で楽しく過ごす時間をもうけてみて”」と言っても、それは目的である「座って食べさせる」こととつながって見えないので、その関わりに意味があるようにはなかなか感じられません。
ここで出てくる課題が、「子供を信じられるか」という点です。
「受容と信頼関係」を厚くして、子供自身に自発的に大人の望む方向へ育っていかせるためには、子供の姿を直接型にはめるような支配的関わりを我慢してセーブしなければなりません。
大人からすると、支配的な関わりは子育てとしても「やった感」が得られます。
「大人の望む姿にする」という効果も、一時的なものならばすぐに出すことができます。
また、一連の記事で見たように、大人のストレスの問題、心の問題もあります。
さらに、それまで「受容と信頼関係」よりも「支配と管理」の関わりを積み重ねてきている子には、いきなり「受容と信頼関係」の関わりをしたところで、場合によりその効果が目に見えるまでより時間がかかります。むしろ、支配で関わっていた子供に、受容の関わりをし始めると、それまでの反動でしばらくの間、より大変な姿がでることもあります。
なので、「支配」や「管理」で関わる傾向が強い人にとっては、「受容と信頼関係」で子育てすることが余計に難しく感じられてしまいます。
「子供に勉強をさせたい」と考えている人は、子供をその「勉強ができる子」の型に押し込みたくなります。
子供の未来・成長は先行きの見えないものなので、大人自身がその姿にすることで結果を直接に出したくなってしまいます。
そのために例えば、「早期教育」をします。
子育ての専門家の多くが、発達段階にそぐわないことを先取りでさせるよりも、その子供の発達段階・状況に合ったことを無理なく楽しみながらたっぷりとすることが大切だと述べます。
しかし、一般の多くの人はそれをするよりも、「早期教育」を直接的に施すことの方に軍配を上げてしまいたくなります。
野山を駆けまわらせたり、自由に工作させるようなことが先行き勉強に取り組む力を作っていくということがつながって見えないので、そこに自信を持ちきれないのです。
「子供」に関する実感的な経験がないために、そのような”種まきだけして待つ”ということに自信を持てなくなっています。
これが「子供の力を信じられない」ということです。
この点、子供に関わることの非常に少ない現代の人にとっては、とても難しいことになってきています。
つづく
| 2016-04-01 | 日本の子育て文化 | Comment : 19 | トラックバック : 0 |
NEW ENTRY « | BLOG TOP | » OLD ENTRY