「子供の感情は子供のもの」 vol.2 - 2016.04.23 Sat
昨日の続き。
そのように見てあげられるようになると、子供の泣きを怖れる必要はなくなっていきます。
子供がぐずっていると大人はそこにイライラを感じます。
なぜイライラするかというと、大人がいくら頑張っても思い通りの状態(この場合、泣き止ませる・ぐずりをやめさせる)にならないからです。
だから、大人は子供の”泣き”や”ぐずり”にストレスを感じます。
「泣き止ませなければならない」
しかし、
「泣き止んでくれない」
↑このような姿勢で子供に関わっていると、とてもストレスが大きいのです。
子供の泣きやぐずりをまるで「大人への脅迫」のように感じてしまうこともありますね。
でも、
「泣き止ませなければならない」 ← この部分をもっとおおらかに見てみます。
”子供の感情は子供のものであり、大人が一から十まで始末をつける必要はないのです。むしろそれはかえって子供の心の育ちを奪ってしまうことにもなりかねません”
そう思うことで、大人自身も「泣き止ませなければならないのに泣き止んでくれない」と過剰なストレスを抱え込むこともなくなりますし、子供の方も、自分の感情を自分で乗り越える経験を積んでいくことができます。
ここで注意して欲しいのは、「子供の感情のサポートを大人がすることが”悪い”」と言っているわけではないことです。また、必要に応じて子供の気持ちを他に振り向けて気分を紛らわせたりすることなどをしてはいけないわけでもありません。
子供の心の発達段階が幼い内は、たしかに子供の感情に手を貸してサポートしてあげる場面はあります。
例えば、1歳の子が転んでちょっとしたケガをしたときなど、子供によっては自分で立ち直れないくらい感情的になってしまうことなどあるでしょう。
そういったとき、大人が”よしよし”としてあげますね。
でも、それが過剰だったり、年齢や発達段階が上がっても幼いときと同じように対応していたら、それは心の成長を押しとどめることになりかねません。
ここで大事なのは、以前お伝えした「一のことには一の援助。十のことには十の援助」の精神ですね。
サポートは必要な分だけすればいいのです。
大人の不安・心配が大きいと、「この子にはこの課題が乗り越えられないのではないか」と子供の力を低く見積もりがちになります。
すると、サポート・援助が過剰になってしまいます。
そうなるとかえって子供は、その課題が乗り越えられなくなってしまいかねないのです。
もうひとつ補足ですが、ここで「(大人が)泣き止ませなくてもいい」と言うのは、”困った状態”を放置してもいいという意味でもありません。あくまで、大人が子供の感情を”作り出すこと”をしなくていいと言う意味です。
例えば、子供がなにかを買って欲しくてお店で泣いてごねていたとします。
このとき、子供の感情に大人が手を貸して気持ちを整えてあげようとする必要はありませんが(したら悪いというわけでもないですが)、「ここでそんな風に泣いていたら困るから、泣き止みなさい!」ときっぱり言えばいいのです。
大人が子供の感情を整えるのではなく、必要なことを伝えて子供自身にそれの方向へ歩ませるのです。
成長の途中ですから、それを伝えたとしてもすぐにできるわけでも、習得するわけでもないかもしれません。
でも、子供の姿を大人が作るのではなく、子供に投げかけ自分で考えさせ自分で達成する方へ向かわせるのです。そのために大人は必要なことは伝えます。
子供が泣いていて、大人である私がそれが困るならば、「困る」と言っていいのです。
子供が長泣きしていて、ある程度はそれに付き合ったけれどもそれでも泣き止まなければ、
「あなたの気持ちはわかるけど、そんなにずっと泣いていたら僕もイライラしちゃうから、もう自分で気持ちを落ち着けて泣き止んでください!」そう要求してしまいます。
必要なことを伝えて求めるけど、その状態を作り出すのは子供本人なのです。
昔の子育ての”当たり前”だと、
「そんなに泣いていると鬼が来る」などと脅す(子供だまし)ことやお菓子をあげることなどで、子供の状態を大人が作り出そうとしていました。
僕らの親の世代はこれが当たり前でしたので、いま子育てしている世代もこういったことを”当たり前”だと思ってやっています。
それゆえに心にまで過保護をし、子供自身を成長させない方向に子育てが向かってしまっています。
それが多くのところで子育てを迷走させる一因ともなっています。
実を言うと、この4月から小学校に通い出したうちの娘も学校に行く前、しばしばメソメソしています。
だからといって、「あら、つらいのね。かわいそう」とも「ぐずったりして、しょうがない子ね」とも思いません。
「否定も肯定もしない」といった態度でおおらかに見守っています。
「否定も肯定もしない」というのは、「冷淡に放置する」という意味ではありません。
新しい環境や生活に不安があって気弱になってしまうことは、誰しもあることです。それを泣いたりすることで出さない子もいるでしょうけれども、出したから”悪い”わけではありません。
子供「行きたくない」
大人「行かせなきゃ」
↑”(子供の心情への)否定の見方”
かといって、「つらいのね。かわいそうね。じゃあ行かなくていいわよ」と言ったり、そう思うわけでもありません。「行かせない方がいいのかしら」と不安になることもありません。
子供「行きたくない」
大人「行かなくていい」
↑”(子供の心情への)肯定の見方”
「ああ、そうなんだ」といった心持ちでおおらかに受け止めつつも、それを「いい」とも「悪い」とも言わず、過剰に心配・手助けをせずに自分で乗り越えさせます。
ここで、大人が不安・心配を大きくすれば、子供はその大人の気弱な心に「依存」してしまって、前向きになれなくなってしまいます。
また上で述べたように、「なんとか泣かないで行けるようにしなければ(大人がしむけなければ)」とも僕は考えません。
なぜ、そのようにおおらかに見守っていられるかというと、子供はそういったことに直面して乗り越えていける力を持っていると知っているから、信じられるわけです。
なぜそう思えるかというと、これまでの乳幼児期にたくさん受容してきた関わりの蓄積がそれの源泉になっているからです。
ただ、それが「いつになるか」は誰にもわかりません。子供には個性もあるからね。
来週には笑って元気に登校するようになるかもしれないし、そうなるのに1年かかるかもしれません。
でも、いつかはそうなるでしょう。
それだけの蓄積が、子供誰しもが持つ成長の力と、これまでの家庭・その他での関わりから娘の中にはあるはずだからです。
それを僕は「信じて待つ」だけです。
大人が信じて待つことができずに焦ってしまえば、大人が手を出すことでその結果を急いで作ろうとしてしまいます。つまり過干渉ですね。
それをすれば、たしかに成果はあがるかもしれません。
でも、そうやって作為的に作り出せば、その幾分かは大人が自分の焦りを納得させるために作り出したものであって自己満足になりかねません。そして、その分は子供が自分で乗り越えて獲得した成長ではありません。
「成長の果実を味合うのは、大人ではなく丸々子供」であったほうがいいだろうと僕は思うのです。
子供の持つ「不安」を大人がそのまま「心配」に変換してしまったら、それは依存を生んだりして成長の足かせともなってしまいます。
でも、「あなたはいずれできる」と信じてあげることは、子供にとって前に進もうとする力となります。
だから、子供の泣きやぐずりを否定する必要を感じません。
一方で、あまりにメソメソが強かったりするときは、「はい、もう自分で泣き止んで準備しなさい」などと、きっぱり強くいうこともできます。それができるのも子供の持つ力を信じているからです。
そのように見てあげられるようになると、子供の泣きを怖れる必要はなくなっていきます。
子供がぐずっていると大人はそこにイライラを感じます。
なぜイライラするかというと、大人がいくら頑張っても思い通りの状態(この場合、泣き止ませる・ぐずりをやめさせる)にならないからです。
だから、大人は子供の”泣き”や”ぐずり”にストレスを感じます。
「泣き止ませなければならない」
しかし、
「泣き止んでくれない」
↑このような姿勢で子供に関わっていると、とてもストレスが大きいのです。
子供の泣きやぐずりをまるで「大人への脅迫」のように感じてしまうこともありますね。
でも、
「泣き止ませなければならない」 ← この部分をもっとおおらかに見てみます。
”子供の感情は子供のものであり、大人が一から十まで始末をつける必要はないのです。むしろそれはかえって子供の心の育ちを奪ってしまうことにもなりかねません”
そう思うことで、大人自身も「泣き止ませなければならないのに泣き止んでくれない」と過剰なストレスを抱え込むこともなくなりますし、子供の方も、自分の感情を自分で乗り越える経験を積んでいくことができます。
ここで注意して欲しいのは、「子供の感情のサポートを大人がすることが”悪い”」と言っているわけではないことです。また、必要に応じて子供の気持ちを他に振り向けて気分を紛らわせたりすることなどをしてはいけないわけでもありません。
子供の心の発達段階が幼い内は、たしかに子供の感情に手を貸してサポートしてあげる場面はあります。
例えば、1歳の子が転んでちょっとしたケガをしたときなど、子供によっては自分で立ち直れないくらい感情的になってしまうことなどあるでしょう。
そういったとき、大人が”よしよし”としてあげますね。
でも、それが過剰だったり、年齢や発達段階が上がっても幼いときと同じように対応していたら、それは心の成長を押しとどめることになりかねません。
ここで大事なのは、以前お伝えした「一のことには一の援助。十のことには十の援助」の精神ですね。
サポートは必要な分だけすればいいのです。
大人の不安・心配が大きいと、「この子にはこの課題が乗り越えられないのではないか」と子供の力を低く見積もりがちになります。
すると、サポート・援助が過剰になってしまいます。
そうなるとかえって子供は、その課題が乗り越えられなくなってしまいかねないのです。
もうひとつ補足ですが、ここで「(大人が)泣き止ませなくてもいい」と言うのは、”困った状態”を放置してもいいという意味でもありません。あくまで、大人が子供の感情を”作り出すこと”をしなくていいと言う意味です。
例えば、子供がなにかを買って欲しくてお店で泣いてごねていたとします。
このとき、子供の感情に大人が手を貸して気持ちを整えてあげようとする必要はありませんが(したら悪いというわけでもないですが)、「ここでそんな風に泣いていたら困るから、泣き止みなさい!」ときっぱり言えばいいのです。
大人が子供の感情を整えるのではなく、必要なことを伝えて子供自身にそれの方向へ歩ませるのです。
成長の途中ですから、それを伝えたとしてもすぐにできるわけでも、習得するわけでもないかもしれません。
でも、子供の姿を大人が作るのではなく、子供に投げかけ自分で考えさせ自分で達成する方へ向かわせるのです。そのために大人は必要なことは伝えます。
子供が泣いていて、大人である私がそれが困るならば、「困る」と言っていいのです。
子供が長泣きしていて、ある程度はそれに付き合ったけれどもそれでも泣き止まなければ、
「あなたの気持ちはわかるけど、そんなにずっと泣いていたら僕もイライラしちゃうから、もう自分で気持ちを落ち着けて泣き止んでください!」そう要求してしまいます。
必要なことを伝えて求めるけど、その状態を作り出すのは子供本人なのです。
昔の子育ての”当たり前”だと、
「そんなに泣いていると鬼が来る」などと脅す(子供だまし)ことやお菓子をあげることなどで、子供の状態を大人が作り出そうとしていました。
僕らの親の世代はこれが当たり前でしたので、いま子育てしている世代もこういったことを”当たり前”だと思ってやっています。
それゆえに心にまで過保護をし、子供自身を成長させない方向に子育てが向かってしまっています。
それが多くのところで子育てを迷走させる一因ともなっています。
実を言うと、この4月から小学校に通い出したうちの娘も学校に行く前、しばしばメソメソしています。
だからといって、「あら、つらいのね。かわいそう」とも「ぐずったりして、しょうがない子ね」とも思いません。
「否定も肯定もしない」といった態度でおおらかに見守っています。
「否定も肯定もしない」というのは、「冷淡に放置する」という意味ではありません。
新しい環境や生活に不安があって気弱になってしまうことは、誰しもあることです。それを泣いたりすることで出さない子もいるでしょうけれども、出したから”悪い”わけではありません。
子供「行きたくない」
大人「行かせなきゃ」
↑”(子供の心情への)否定の見方”
かといって、「つらいのね。かわいそうね。じゃあ行かなくていいわよ」と言ったり、そう思うわけでもありません。「行かせない方がいいのかしら」と不安になることもありません。
子供「行きたくない」
大人「行かなくていい」
↑”(子供の心情への)肯定の見方”
「ああ、そうなんだ」といった心持ちでおおらかに受け止めつつも、それを「いい」とも「悪い」とも言わず、過剰に心配・手助けをせずに自分で乗り越えさせます。
ここで、大人が不安・心配を大きくすれば、子供はその大人の気弱な心に「依存」してしまって、前向きになれなくなってしまいます。
また上で述べたように、「なんとか泣かないで行けるようにしなければ(大人がしむけなければ)」とも僕は考えません。
なぜ、そのようにおおらかに見守っていられるかというと、子供はそういったことに直面して乗り越えていける力を持っていると知っているから、信じられるわけです。
なぜそう思えるかというと、これまでの乳幼児期にたくさん受容してきた関わりの蓄積がそれの源泉になっているからです。
ただ、それが「いつになるか」は誰にもわかりません。子供には個性もあるからね。
来週には笑って元気に登校するようになるかもしれないし、そうなるのに1年かかるかもしれません。
でも、いつかはそうなるでしょう。
それだけの蓄積が、子供誰しもが持つ成長の力と、これまでの家庭・その他での関わりから娘の中にはあるはずだからです。
それを僕は「信じて待つ」だけです。
大人が信じて待つことができずに焦ってしまえば、大人が手を出すことでその結果を急いで作ろうとしてしまいます。つまり過干渉ですね。
それをすれば、たしかに成果はあがるかもしれません。
でも、そうやって作為的に作り出せば、その幾分かは大人が自分の焦りを納得させるために作り出したものであって自己満足になりかねません。そして、その分は子供が自分で乗り越えて獲得した成長ではありません。
「成長の果実を味合うのは、大人ではなく丸々子供」であったほうがいいだろうと僕は思うのです。
子供の持つ「不安」を大人がそのまま「心配」に変換してしまったら、それは依存を生んだりして成長の足かせともなってしまいます。
でも、「あなたはいずれできる」と信じてあげることは、子供にとって前に進もうとする力となります。
だから、子供の泣きやぐずりを否定する必要を感じません。
一方で、あまりにメソメソが強かったりするときは、「はい、もう自分で泣き止んで準備しなさい」などと、きっぱり強くいうこともできます。それができるのも子供の持つ力を信じているからです。
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