(本当に誠実な教師の方がいらっしゃるのは重々存じています。しかし、するべき批判がなければ、良くなるものも変わらないと思うので思うところを述べさせて下さい)
学校や教員、文科省といった関係各所も、いくら口では「体罰はあってはならない。なくなるよう全力を尽くす」と言ったところで現に変わっていないのだから、本気で体罰を無くす気はないんだろうと言われても仕方がないのではないかと思います。
「これで先生がくびになったら一生許さない」と小5男児に体罰後暴言 30代教諭、大阪市立小女子ソフト部員9人に「指導」称し暴力…大阪市立中教諭を停職3カ月最近起こったふたつのニュースをあげましたが、下のケースの教員は「24年の市立桜宮高のバスケットボール部主将の自殺問題」を受けた体罰防止のための研修を受講していたとのことです。
それでもなおかつこれだけの常習的な体罰をしているのですから、完全な確信犯と言えます。
学校における「体罰」は「研修」では防げないのです。
研修、その他の「自助努力まかせ」では防ぐことができないのです。
本当に体罰を無くそうとするのなら、そのことを認識した上で対応策を考えなければなりません。
上のケースは、「異動」でチャラになっています。
まったく皮肉なのは、当の体罰している教員自身が、「クビになるかもしれない行為」と認識しているにもかかわらず、ばれても無処分なことですね。「クビかと思ってたけど、なんだチョロいじゃん!」って感じですね。
下のケースでは中学生に対して63回にもわたって殴る、平手打ちするといった暴行を繰り返し、さらには頭部に4針縫うケガまでさせておきながら、3ヶ月の停職処分で済ませています。
いや、ありえないでしょ。
これは立派な刑事事件ですよね。
懲戒解雇した上で告発、刑事告訴すべきではないでしょうか。
なんで、こんな処分軽いの?
もし、誰かが街に出て女子中学生をつかまえて、平手打ちしたらたった1回でも確実に逮捕されていますよね。
これでは、体罰なくなるわけがない!
それ自体、是非を問うていかなければと思うけれども、現実には日本の学校において教員は子供に対する「権力者」になってしまっています。
権力が与えられてしまっている以上、そこには抑制する因子が働かなければこれが暴走するのは起こるべくして起こることです。
本当に体罰すべきでないと、文科省はじめ、学校関係者が考えているのならば、こういった明らかな犯罪行為に対しては断固とした処分をするべきなのです。
僕は別になにも突飛なことをいっているわけではありません。
民間企業ならば、そんなことはどこでも当たり前だからです。
63回も暴行事件を起こしている人間を雇っておくまっとうな会社などありません。懲戒解雇が普通のことです。
ましてや、職業上のクライアントに対して暴行を振るったなどということになったら、さらにそのジャッジは重いことになるでしょう。
なんで、学校は「治外法権」なの?
大人が子供に暴力を振るう。
これは異常な事態なんですよ。学校の教員はそういうことが当たり前の環境に居続けたせいで、その感覚が麻痺してきてしまっているのでしょうか?
子供は、二重に守られています。
一般の大人でも、暴力行為から守るために、暴行罪・傷害罪という罪が法律で規定されていて守られています。
子供の場合は、児童保護の観点から、さらに手厚く守るべきと法律上でも考えられています。
二重に守られているはずなのに、本来はその守るべき存在となる教員が暴力を振るう。
これは決してあってはならないことです。
本当にあってはならないと考えているのならば、こんな甘い対応はでてくるはずはないのです。
異動で済むとか、犯罪行為なのに告発もされず「3ヶ月ほとぼりをさましてきてね」で済んでいる現状は、どうぞ「体罰おやりなさい」と言っているのとさして変わりません。
公務員はどんなに問題がある人でもなかなクビにすることができません、刑事事件を起こしたときすらかばうようでは、学校は恐ろしすぎる場所であり続けはしませんか。
僕らが子供の世代は、理不尽な暴力を振るう教師やセクハラ教師がわんさかいて苦しめられました。大人になっても心に傷を負っている人もいます。
もう、そういうのは僕らの世代までで終わりにしましょう。
でも、「昔、自分たちはもっとひどいことをされていた。いま起こっている程度のことは些細なものだ」ということを述べる大人が少なくありません。それは大人として情けないこととは思わないでしょうか。
一般に「体罰が指導になる」と考えている人は、少なくありません。教員の中にすらいます。
しかし、よく考えてみればすぐわかることなのですが、体罰が指導になるのであったら、なんのために学校の先生は勉強して資格をとっているの?
教育学部や、教育課程はなんのためにあるの?
体罰にいきつくのは、指導力、教育力のなさの露呈にすぎないのです。
「熱意があるから体罰になってしまった」
この論法をしばしば耳にしますが、本当の熱意があるのならば、もっと指導法を学ぶ方にその意欲を向けたはずです。
「より適切な指導法を学ぶ意欲もないから、体罰という安易な手段を用いる」というのが本当のことなのです。
体罰に行き着く「熱意」とは、自分勝手で独善的なモラハラ的「熱意」にすぎません。
「熱意があったから体罰がでてしまった」のではないのです。
人間は権力があればそれを行使したくなる誘惑に勝つのが難しい存在なのです。
「殴っていい」、「セクハラしていい」といった状況があったら、それを防ぐのはただ倫理観などだけでは無理なのです。
教員による体罰を、もっと重く捉えて対応を考えていく必要があります。
警察官が犯罪行為を犯したら、それは一般の人がするよりも重く受け止めるべきことですよね。教員が体罰を振るうのはそれと同様に深刻に考えるべきことなのです。「ほとぼりを冷まして終わり」のような形であってはなりません。
権力を振るうのは、そういったことを好む人間にとってはとても楽しいことです。
人間相手、子供相手の職業には、この傾向を持つ人が必ず潜り込んできます。しかも、少なからず・・・・・・。
厳然としてNOと言わなければ、決して学校から体罰がなくなることはないでしょう。
ある学校の先生が、イジメについてこういったことを生徒に話していました。
「自分はイジメに参加していなくても、そのイジメを見て見ぬふりをしていたら、イジメをしているのと同じことだ。自分で防げないと思うのならば、身近な大人でいいから必ず相談しなさい」
このことは、体罰問題にもそのままあてはまるでしょう。
同じ学校で、同僚の教員が常習的に体罰を振るっている。
「それはおかしいと感じていても、あからさまに否定することはしにくい」そんな状況があるのならば、匿名だっていいから警察なり行政なりに相談をする必要があるのではないでしょうか?
「荒れている生徒がいる学校では、教員が体罰を振るわなければ子供を押さえられない」そんな論調もあります。
そういうことを言う人はおそらく門外漢の一般の人なのだろうけれども、教員にもそう考えている人がいるとしたら、それこそゆゆしき問題です。
暴力で押さえつけて、見た目の平穏を作り出せばいいのだったら、それは子供のなにものも伸ばしてはいませんよね。
本当に子供のためを思う熱意があるのだったら、そのような子にほど根本的な援助の手が必要なはずです。
体罰ではなにも解決しません。
「叩かれるからしない」「叩かれるからやる」といった人間を作ることは、本来「教育」がずっと否定してきたことです。
そのような野性的な存在から、理知的な存在になるべく近代の教育は整備されてきまました。ルソー以降ですね。それが教育の原理になっています。現在でも教員になる人はみなそのことを学んできているはずです。
にもかかわらず、体罰に陥る教員が大勢いるというのは、極端な言い方をしてしまえば、「ある意味で現状の教育体制は破綻している」という事実をあからさまにしてしまっているのです。
かといって僕は教員に、子供のなんでもをうまくやってもらおうという責任を押しつければいいと言っているのではありません。
むしろ、逆に教員の職務を単純化していくことで解決につながるのではないかと思うのです。
教員に、年々高度になる勉強を上手に教えることも望み、子供の心のケアや、親のケア、さらには部活動の指導まで責任を負わせるのは実際問題無理なのです。
しかも慢性的なタダ残業で。
だったら、それぞれの必要な分野に、それぞれの人間を手当するようにするべきです。
最近では、スポーツ指導の専門家は研鑽を深めて、体罰に行き着かない科学的な指導法が当たり前のこととなってきています。
例えば、そういった人をコーチとして部活の顧問などに任じて、教員の負担を減らすべきではないでしょうか。
荒れていて問題のある生徒がいたら、その子の対応を担任教師が一人で全責任を負っていくのではなく、専門のスクールカウンセラーや心理士などと一緒に対応を考えていくべきです。
負担が多いところに、教師にひとりに様々な分野のスペシャリストであることを望むから、さらなる無理がでるのです。
そういう状況におかれれば、体罰といった安易な手段に陥るのはいつでも紙一重です。
また、外部の人間が加わることによって、自浄作用、浄化作用が機能し始めます。
「教員はなんでもできなければならない万能の存在」みたいな神話やプライドは捨てて、本当に子供のために必要なことを考える時代になってほしいと思うのです。
もし本当に「体罰をしなければ学校が運営できない状態」になっているのだとしたら、学校の先生たちは「自分たちに与えられたカードでは対応できない現実が到来している」とそう主張するべき状態なのではないでしょうか?それは決して職務の放棄ではないと思います。
本来与えられていない手段を使って平穏を保っていたというのは、むしろそれが異常な状態を続けてきたということですよね。そのために取りこぼされてきた子供たちが必ずいて、この方が職務の放棄です。
それを専門家として堂々と主張し、社会でそれを真剣に考える方向に持って行っていいのではないでしょうか?
学校の先生が、子供の家庭の問題からなにからなにまで自分の責任として背負い込むことは現実的でないし、実際無理なことですよね。
いまの状態をただつづけているだけだったら、学校の問題も、家庭の問題も、イジメの問題もなにもかわらないですよね。
教員だけでなく、社会で議論し考えていく必要のある時代にきていると思います。
そのように考え方を変えていけば、取りかかれるいとぐちは無数にあるのではないでしょうか。