【まとめ】 『叱らなくていい子育て』 - 2016.10.31 Mon
この記事で970記事目になります。
これまでいろいろと子育てについてのことや、その他のあれこれを書き綴ってきたわけですが、あまりに膨大な量になっていますし、計画的に書いているわけでもないのでまとまりもありません。
そこで、7周年の記念事業ということでもありませんが、僕の伝えたい子育ての骨子を少しずつまとめていこうかなと思い立ちました。
多忙になってきているのでどこまでできるかわかりませんが、とりあえずまずは僕のお伝えしたい”『叱らなくていい子育て』とはなんなのか?”を今回まとめていきたいと思います。
はじめてこのブログを読んだ方や、概要を手っ取り早く知りたい、再確認したいといった方にお読みいただければと思います。
では以下をどうぞ。
(イレギュラーな書き方ですが、まとめ記事なので理解しやすいようにセンテンスごとに丸数字を頭に振っています)
【まとめ】 『叱らなくていい子育て』
①僕の伝える「叱らなくていい子育て」は「叱らなくなる子育て」とも言えます。
「叱らなくていい子育て」として僕がお伝えしたいと思っているのは、「子供のことを叱ってはいけないよ」という意味ではありません。
世間には他にも「叱らない子育て」のたぐいの話はいくつもありますが、単に「叱ってはいけない」と言うだけでは、
叱らないよう努力してみる →実際の子供の姿は注意や叱る必要のある行動ばかり →叱るのを我慢するストレスの増大 →蓄積されたストレスや怒りからより強い叱り方や怒り方になり自己嫌悪・自分を責める気持ち →親として子供に関わる自信の喪失
を子育てする人に与えるだけになりかねません。
僕は、子供に関わるときの具体的なテクニックとして、「叱るのか?」「叱らないのか?」というレベルでのことではなく、もっと大きな子育ての枠組み自体に着目し子育ての仕組みそのものに働きかけることで、子育てを安定した状態に持っていくことをねらいとしています。
②なぜなら、多くの人が考えるところの「子育て」のやり方は、現代ではもはやそぐわなくなってきているからです。
その背景には、家族構成の変化、社会や教育が子供に要求するものの変化、女性のあり方や価値観の変化、親自身の生育歴などの、子供や子育てを取り巻く様々なものの変化があります。
そういった背景に気づくことも無理のない子育てを送るために有用であり、ケースによっては大きな意味をもつ場合もありますが、ここではそれを述べていると長くなるので割愛します。
(過去記事や著作の中では述べています)
③では、多くの人が「子育て」として理解しているこれまでの子育てのあり方とはどんなものでしょうか?
これもきちんと見ると長くなってしまいますがごくごくざっくりと言えば、「しつけ」の子育てに代表されるような、画一的に「こうあるべき」「こうしなければならない」といった関わり方。
そういった「子供をちゃんとさせなければ」といった姿勢で子育てをスタートしてしまうと、それは過干渉や過度な抑圧を生み、頑張っても頑張っても子育てが大変になってしまうという悪循環から抜け出せなくなるといったケースが大変多く見られます。
つまりは、「しつけ」や「○○できる」といった目に見えるような正解を子供に持たせていくという多くの人が自然と「子育て」と考えているものをそのまますると、現代では大人のその関わりがみずから「叱らなくてはならない状態」を子供に持たせてしまう傾向があるということです。
④そこで子供の成長を「○○できるようにしなければ」とか、「ちゃんとさせなければ」と関わってしまう前の段階を明確に意識することで、無理のない子育てのかたちに持っていくことが必要です。
その「前の段階」として僕は、「受容」のプロセスをしっかりと意識して子供に関わっていくことが、現代では不可欠になっていると考えています。
⑤これまでの日本の子育てでは、「子供を甘やかしてはならない」ということを大変重視していました。その当時はその子育ての考え方は必要なものだったのです。
たしかに「甘やかすこと」は、基本的には好ましいことではありません。
しかし、「甘やかすこと」を避けることが、いつのまにか「甘え」までも否定的にとらえるようになってしまっています。
その結果、現代ではごく子供が低年齢のときに本来もらうべき成長に必要なものが得られなくなっているケースが大変多いのです。
それゆえに、年齢を重ねるごとに子育てが思うようにいかないシーンに否応なく直面する可能性が高まります。
かつての日本の子育て状況では、「受容」は意識せずとも自然となされるものとなっていました。
現在では、その状況がなくなってきているので、そこを意識的にしなければ子育ての最初の段階でつまづきやすいのです。
⑥では、「受容」とはどういうことなのでしょう?
また、「受容」によってなにが得られるのでしょうか?
「受容」はその字面からもわかるように、「うけいれる」ということですね。
「甘え」を受けることもそのひとつではありますが、そればかりではなく子供の存在そのものを受け入れていくといったより大きなことともつながっています。
人間の子供は非常に未熟な存在としてこの世に生を受けます。
それは、子供が生きていくためには、大人による保護が不可欠であるということです。
それゆえ子供は、大人による自分へのあたたかい関心や保護を得て安心できなければ、大きな不安を持つことになり安定して成長していくことができません。
例えば、赤ちゃんは自分が一人であることに気づくと、クーンクーンと鼻を鳴らしたり、激しく泣いたりすることで大人を呼ぼうとしますね。大人に守られていることを確認して安心したいというとても強い欲求があるわけです。
子供はそれを、自分に対しての身の回りの世話をしてもらうこと、安心して睡眠をとること、授乳や食事をもらうこと、遊びの相手をしてもらったり、可愛がってもらう関わりをすることなどで健やかな成長のスタートをきることができます。
「甘え」としてでてくる子供の行動も、根っこにはこの「自分が守られていることを確認して安心したい」という欲求があります。
ですから、「甘え」は悪いものではないのです。それどころかそれを受け止めてもらうことは子供の成長には欠かせないことですらあると言えます。
しかし、現に子育てをしている人にとって「甘え」と「甘やかし」の違いがよくわからなくなっており、それゆえに子育てを難しくしてしまっているといった実際上の問題点も出てきています。(ここでは話がそれるのでこの問題にはこれ以上は触れません)
それら子供の基礎的な安定に必要なことをひっくるめて見ると広義の「受容」と言えるでしょうし、直接的な子供の甘えや欲求を満たすといったことが狭義の「受容」になるでしょう。
⑦では、次に「受容によってなにが得られるか?」を見ていきます。
子供は赤ちゃんのとき、特定の人間を頼ってそれに応えてもらうことで、その人との絆を深めていきます。
これを愛着形成といいます。
そこでの、人に世話してもらうことの心地よさ、相手をしてもらうことの楽しさ・安心感などが基礎になって、人間全般への信頼感を持てるようになります。
そうしてだんだんと信頼できる人の範囲や、その度合いが深まっていきます。
これが根底にあるので、子供は自発的に「大人に従う」といった行動がとれるようになっていくのです。
子供を「受容」すること、安心させ満足させる「満たす」という関わりを積み重ねることが子育ての基礎になるわけですね。
⑧この部分が足りない子供は、ネガティブな行動を出して大人の関心や目を惹こうとしたりする行動を取らざるを得なくなります。
それは大人からすると、「言うことを聴かない子」「手のかかる子」として見えてしまいます。
この状態に対して、「しつけ」などの既成の子育て概念で見てしまうと、その「すべきでない行動をさせない」という、子供を管理したり抑圧する行動をとってしまいがちです。
それが、怒ったり叱ったり、または「おだて」や「モノで釣る」「脅す」「ごまかす」などでその大人の望む行動を作り出そうとするといった多くの人が取りがちな子供への関わりになっています。
しかし、それでは足りていないものが満たされなかったり、より足りなくなるので、子供の姿はいつまでたっても大人の目から見て安定したものとなりません。
建物を作るときも、目に見える上物だけでなく、地中などの基礎にある部分が大切ですよね。
子育てもそれと同じで、なんらかの「結果」としては目に見えない基礎固めからスタートしていく必要があるのです。
これまでの日本の子育てでは、その基礎固めの部分が自然発生的にまかなわれていたので、ことさら意識する必要がありませんでした。
しかし、現代は子供と子育てを取り巻く様相が変わってしまったので、この基礎の部分を子育てする人が明確に意識する必要があるわけです。
⑨この「受容」という子育ての基礎の部分を、大人が意識的にしていくことで子供は大人に対する信頼感を高く維持するので、大人の要求をスルーしたり、反発したりする姿をそもそも出す必要がなくなり、子供の方から大人の気持ちに「寄り添う姿」が多くなってきます。
それは結果的には、叱ることや怒ることが少ない安定した子育てのあり方をもたらしてくれることでしょう。
これが本来の子育ての前提だったのです。
しかし、この部分が見失われてしまいがちなために、大変な子供の姿を導き出してしまい、それを押さえつけたり、なにか上手いテクニックによってコントロールする必要ばかりが多くなっているのが現在多く見られる子育てのかたちです。
⑩というわけで、僕がお伝えしたいと考えている「叱らなくていい子育て」は、「受容」という子育ての基礎の部分を明確に子育てのプロセスに組み込むことで、結果的に叱ったり怒ったりすることの少ない無理のない子育てを送ることに子育ての枠組みそのものを変えてしまうという考え方なのです。
以上が、「叱らなくいい子育て」のおおまかな説明になります。
その具体的な関わり方や、こういうときにどうしたらいいのだろうといった事例は過去記事および、拙著『保育士おとーちゃんの「叱らなくていい子育て」』 『保育士おとーちゃんの「心がラクになる子育て」』をお読みいただけたらと思います。
『保育士おとーちゃんの「叱らなくていい子育て」』では、「受容」に焦点を当て、なぜそれが必要になっているのか、具体的にはどうしていけばいいのか、子供の姿をどのようにとらえればいいのか、などを主にまとめてあります。
『保育士おとーちゃんの「心がラクになる子育て」』では、具体的な子育てのシーンでのQ&Aや「排泄の自立」の無理のないとらえ方など、そして子育てする人自身の心のあり方に触れて、その人に寄り添ったかたちで無理のない子育てを目指せるような本としてあります。
どちらも既存の育児本にはない視点が盛り込まれていると思います。
人によっては「この本によって人生が変わった」とも言っていただけました。
多くの人に無理のない子育てをしてもらって、子供と過ごす日々をよいものとして過ごしていただけたら幸いです。
| 2016-10-31 | 【まとめ】記事 | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
「いい保育」と「上手い保育」 vol.8 『包括的受容』 - 2016.10.29 Sat
多くの人は、「子供になにかをすること」が「立派な子育て」なのだという無意識の先入観を持っています。
ですから、子育てや保育を「頑張る人」ほど、かえって大変な子供の姿に直面しかねません。
なぜなら「過干渉」になってしまうからです。
「そのとき大人が介入して子供が正しい行動をとることができた」というのは、逆に考えると「大人が介入しなければ正しい姿を出すことができない子供に大人がしている」ということになりかねません。
ケースは多種多様ですから、必ずそうなるとは限りません。しかし、無自覚でやっていればそうなる可能性を高めてしまうことになるでしょう。
実を言うと、この「介入しない」というアプローチは、介入することよりもはるかにする側にとっては難しいことです。
なぜ難しいかというと、大人は心理的に「正しい結果」を作り出してしまうと「安心」できるからです。
しかし、いま即座に「正しい結果」を出さずに、長い目で子供自身でその地点へ成長してくることを待つというのは、心情的な「もやもや」をずっと感じさせてしまいます。
その「もやもや」を乗り越えるためには、「子供の成長、発達への十分な理解」「経験に裏打ちされた保育への自信」「子供の個性や尊重などへの理念的理解」「保育者自身の精神的余裕」などなどが必要だからです。
子供の成長は「いまがゴール」ではありません。それは皆さん言葉としては理解することは難しくないですよね。
しかし、実際にはひとつひとつのことに対して「いますぐ」結果を出さなければとアプローチしてしまいます。心情的にも納得のいく結果を目の前に作り出して、「すっきり」したくなってしまうのが人情です。
そこに無自覚であると、それはやがて過干渉となり、管理や支配としての関わりになっていってしまいます。
保育士は、保育の専門家としてそこを明確に踏まえた上で子供に関わる必要があります。
さもないと、子供を思い通りに動かすスキルばかりが身につき「上手い保育」を目指すことになりかねません。これまでの時代の保育はそれで済んだ部分もありますが、確実にこれからはそれでは不十分になります。
子供自身を適切に成長させられることが要求されています。
僕はこのことをまとめて「保育士は子供の成長の果実を食べなくていい」とお伝えしています。
成長の果実を食べなければならないのは、当然その子供自身なのです。
「保育士である私」が自己満足するために子供を思い通りにしていかないよう、自分を省みる視点が専門性の高い保育には必要だと言えるでしょう。
さて、それではvol.7で予告した「包括的受容」のお話です。
おそらくこの「包括的受容」という言葉は、保育書や育児書には載っていないのではないかと思います。僕が子供への関わりについて研鑽する中で作り出した、考え方であり言葉です。
子供が注意されるようなネガティブな行動をとるとき、特に慢性的にそれを行うケースでは、その多くはなんらかの「理由」と「背景における原因」(根っこ)があるものです。
それに対して大人はその子供の行為しか見ず、大人の持つ「規律」や「規範意識」「善悪の判断」「正義感」で対してしまえば、「否定のアプローチ」をすることになってしまいます。
例えば、その子が単に気が強く他児のモノを取ってしまったり、手が出てしまうというだけのケースであれば、それでも問題ないかもしれません。
しかし、現代の家庭、就労状況、長時間保育などの背景があるなかでは、そんな風に単純に考えられるようなケースは少なくなっています。
子供がネガティブな行動を取るのは、「その子が悪い」からではなく、「なんらかの理由」があって子供はやむを得ずそのような行動がでてしまうのです。
それに対して、ひとつ覚えに「否定」のアプローチをし続ければ、その子供の大人に対する信頼感は低下し、自分に対する肯定感やものごとに前向きに取り組もうとする意欲などは減らす一方になります。
そこでそういったケースに対するアプローチとして、「包括的受容」ということを僕は広めています。
その言葉の意味は「包み込んで受け止める」ということですね。
ではなにを「包み込む」のでしょうか?
それは第一にはその子供のネガティブな行為です。
本来ならば注意や叱られるようなことであっても、その子の背景にあるものを踏まえて肯定を積み重ねなければならないケースであると判断されるならば、あえて注意や叱るといった「否定」のアプローチをせず、むしろ受け止めてしまうのです。
そして第二には、それらがひいては子供の存在そのもの「ありのまま」を包み込んで受容するということになっていきます。
具体的に例をとって見ていきましょう。
1歳10ヶ月の子供で、たびたび机の上に登ることを遊びとしてしまうというケースがあったとします。
この子が単に上に登ることが楽しくなってそれを遊びにしてしまっているだけであれば、「そこは登るところではありませんよ」ときっぱりと伝える対応をし、一方で外遊びなどでその登りたいという欲求を満たす遊びを提供していきそれを楽しみながらさせるといったメリハリのある対応をすることで改善が可能です。
そのケースならば、「机に登ったそのときの対応」は、注意や否定のアプローチでいいわけです。
でも、その子が机に登ることが保育士の気を惹くためであって、その背景には家庭での受容不足や情緒的な安定の欠如があったという場合は、それを注意するだけではなにも改善しない可能性が高いです。
そういうケースだと、中には保育士に「注意されること」すら自分に関心を向けてもらえる実感が得られることから、心地よくなってしまうということもあります。
そうなってしまえば、その机に登ることだけでなく、その子はさまざまなネガティブな行動をすることが増えていきかねません。それは保育士の対応が裏目に出たばかりではなく、保育士もその子への対応に振り回され、やがてはその子を許容する精神的余裕すらなくなっていきます。
(こういう状況でしばしば耳にするのが、「無視する」という対応です。無視することにより、その子供の行為を無意味化させる意図のアプローチなのでしょうけれども、それが好ましい対応でないことは考えればわかることと思います)
そこで「包括的受容」の出番です。
本来ならば注意することも、ひっくるめてさらに大きな見地から受容へと転化してしまいます。
子供が机に登ったとき。
「そんなことしなくても、私はあなたのことを見ていますから大丈夫ですよ。はい、こっちへいらっしゃい」と保育士のところへ来させ抱きしめてあげます。
いいも悪いもひっくるめて受容してしまうのです。
その基礎には当然ながら普段からの信頼関係の構築が前提としてあります。
「この人は受け止めてくれる人なんだ」と思っているところに、「こうすれば気持ちよく受け止めてくれるのだ」という道筋を実感として子供に持たせていきます。
「素直な甘え」ですね。
また、子供にとっては同時に「甘えていいという自信」でもあります。
「こうすればネガティブな行為をしなくても受けてもらえる」と子供がわかれば、わざわざ目を惹くようなことをしなくても良くなります。
素直に甘えるほうがよほどその子にとっても心地よいからです。
しかし、大人に受けてもらう経験の少なかった子は、受け止めてもらう自信がないので、素直に自分を出せず、ネガティブな行動に駆り立てられてしまいます。
「包括的受容」をすることで、その子供に「甘え方」と「甘えを出せる自信」を与えていくのです。
それによって、その子の問題の根っこから解決し、長い目で見てネガティブな行動をなくし、その子の生育を良いものへ転換していくきっかけとなります。
普段から安定しておらず、他児にちょっかいを出したりちょっとしたことで手が出る子に対して、その場面に対して注意の声をあげるのではなく、「どうしたんですか?」と問いかけて受け止める姿勢を持って関わります。
そこでは大人が善悪の判断をつけることや、子供に善悪の判断の意識を刷り込むことが重要なのではないのです。その子供がなんらかの問題の根っこを抱えている場合は、そこに手をさしのべなければなりません。
「どうしたんですか?」と問いかければ、そこでその子供がなんらかのリアクションをとることでしょう。
それを「ああ、そうだったんだね」。”ウンウン”とうなづくような気持ちで一拍二拍おいて、「うん、わかったよ。でもそんな風にしなくても私はちゃんとあなたのことを見ていますよ」と受け止めてあげます。年齢が小さい子であれば抱きしめてあげます。
それにより、その子の何らかの根っこが、もし氷のようなものだとしたらそこをあたためて溶かしてあげるアプローチとしていくのです。
または、普段から抑圧が多い関わりをされている子供も、大人の行動に反することをせずにはいられなくなってしまいます。
その子たちも、ネガティブ行動に対して「否定」の関わりをされることは、「抑圧に抑圧を重ねること」になるので、保育士は問題を解決しているつもりで火に油を注ぐことになってしまいます。
ですので、こういったケースも注意(否定)では解決しないものです。
このケースにおいても、そのアプローチのスタート地点として「包括的受容」の考え方は応用して生かせることでしょう。
この「包括的受容」の対応は年齢が小さい子ほどやりやすいです。
年齢が上がっても基本的な同様のこと(細かな関わり方は年齢に合わせて変化するが)はできますが、諸条件から0~3歳の子供に対してがやりやすく、またそういった低年齢のときこそ、基礎的な肯定感を持たせるアプローチを大人がすることで、精神的・情緒的な成長の援助を専門性をもった保育士としてするべきことでもあります。
別の見方をすれば、幼児になる前の段階で意図的に子供の基礎的な心の成長の問題をクリアしていくことが大切であるということでもあります。
そのように保育は、「目の前の子供の姿」だけを見てアプローチしていくのではなく、長期的な子供の成長・発達を考えていく視点が大切です。
これを僕は「保育の連続性」と呼んでいます。
この視点をもたないと、”担任になったときの自分のクラスだけしか意図しない保育”や”施設としての理念のかけた保育”になりやすいです。
考えていた以上に長くなってしまいましたが、今回でこのシリーズは区切りとしたいと思います。
保育実践に少しでも役立てていただければ幸いです。
保育士の本分は目先の何かを「できるようにすること」ではなく、「幸せな人生を歩める人間を世に送り出すこと」だと僕は思います。
そしてそれこそが本当の「保育の力」なのではないでしょうか。
| 2016-10-29 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
「いい保育」と「上手い保育」 vol.7 ~「介入しない」というアプローチ~ - 2016.10.25 Tue
家庭の子育てならば、あまり細かい点まで気にしなくてもいいので少し割り引いて読んで下さいね)
少し日にちが空いてしまいましたが、前回のおわり部分。
>では次に、子供が大人に一瞬視線を送ったけれども、そこで止まらずに他児の遊具を奪ってしまった場合の対応についても見てみましょう。
の続きからです。
こういう場面に直面したとき、一般的な大人の対応だったら「注意」をすることになるでしょう。
もし、その子が保育時間も負担になるほど長くはなく、家庭でも両親や家族が子供を自然に受容することができており、家庭に安定した生活基盤や経済基盤があり、家族自身もなんらかの大きな精神的負担を受けていることのない状況があり、話をしたり相談をする相手がいるなど育児に大きな不安や心配のない状況があり、子供自身も精神的身体的な安定を得られている子であれば、そこで「注意」や、「叱る」などの対応をしたとしてもそれでよいかもしれません。
かつては都市部でもそういう子供は多かったですし、現在でも地域によってはそういう子供が主流であるところもあることでしょう。
しかし、現在はさまざまな子供や家庭、就労する保護者やなんらかの理由で保育所に預ける人を取り巻く状況は変わってきており、そのような対応しかできないのであれば専門性のある保育士というには不十分になってしまいます。
では、「注意」ではないどんな対応方法が考えられるのでしょうか?
保育として考えるのであれば、ひとつは「介入しない」です。
「介入しない」というのは、イコール「放っておく」ではありません。
介入はしないのだけど、「見守る」のです。
このときの「見守る」のニュアンスは、「積極的な肯定はしないけれども否定もしない態度」です。
否定的な気持ちを持って保育者が見ていたら、その取ってしまう子はさらにそういったネガティブな行動をする理由を募らせてしまいます。かといって、好ましくないことを許容や肯定する必要もありませんね。
×「してはならないことなのに、なんであなたはするのかしら・・・・・・」
○「ああ、そうなのだね。ではこれからあなたはどうするのかな?」
これまでの既成の保育・子育てのアプローチでのもっとも大きな特徴は、「○○できる」「正しいこと」「結果」を求める余り、大人が「過干渉」になってしまうことです。
干渉をして子供にその場での正解の行動をとらせたからといって、それがそのまま子供に身につくわけではありません。
しかし、それを繰り返すことが「子供への関わりである」というのが、一般的な子育てへの認識になっています。
子供自身の力や成長として身につけさせるのならば、介入することで「正しい結果」を持たせるのではなく、子供が自分でその行動を身につけられるように導くことが大切です。
ですから、そこで注意をしてしまうことはあまり上手い対応ではないのです。
介入せずに見守っていたとします。
すると、とられてしまった相手の子ははどうするでしょうか?
それはその子によりますね。
取られたことを大して気にもとめず遊び続ける子もいます。
取られても、すぐに別の遊具を自分で見つけて遊びを切り替える子もいます。
または、
泣くことで感情を表す子。
取られることに抵抗する子もいます。
反撃する子、取り返そうとする子もいます。
そのとき噛みつきや叩くなどの行動になってしまう子もいることでしょう。
そのような相手のことも考えて保育士は、その場その場で適切な対応を取る必要がありますね。
相手が普段から噛みつきが出ていて、大きな怪我になってしまうようなことが予測されるのならば介入することも選択肢のひとつです。
そのように、「こうすべき」という正解がきまっているわけではありません。保育士ならばそのことは理解していることでしょうけれども、一応明確にしておきますね。
もし、その相手の子が取られたことによって大人に助けを求めてきたとき、それをそのまま受けて上げます。
このときも、余計な干渉にならないようにします。
どういうことかというと、ただ受けるのです。
どうすべきかを伝えたり、「返してもらってあげるから」などと大人が介入を申し出る必要はありません。
「ああ、とられちゃったんだね。それは嫌だったね」
と、ただ受けます。
「そこからどうするか?」はその子に考えさせるのです。
子供によっては、受け止めてもらったことである程度満足して、別の遊びに切り替える子もいますし、「かえして」とその子にいいにいく子もいます。
この受け止めるときに、その取られた子を「かわいそうだ、かわいそうだ」「あなたが正しい」といった大人の価値判断や主観の入った対応をすると、それを見ている取ってしまった子が疎外感を持ち(つまりはその子に否定を積み重ねること)、その子は余計に意固地にならざるを得ません。そうなればそれは、その子が自発的に正しい行動をとれるようになる芽をつむことになります。
なので、「ただ受ける」のです。
するとどうなるでしょうか?
その取ってしまった子と保育者の間に信頼関係が築かれていれば、ことさら注意などをせずともその行動が良いものではなかったことをその子は自覚し、「どうするべきなのか?」「どうすればよかったのか?」を自発的に考えるようになります。
取られてしまった子にとっては、自分でその後の行動を考え決め実行する経験となります。
このとき、大人が介入して「正しい結果」を出すことをアプローチとして繰り返していくと、子供は自分で考え行動する習慣を最初から持たなくなります。
それが積み重ねられていけば、子供たちは子供たちだけで仲間関係を営む力を何歳になっても持てなくしかねません。
このシーンを僕は2歳前後の子供で想定して書いていますが、そういった介入の多い保育を続けていればその子たちは年長になってすら、トラブルばかりの友達関係ともなりかねないのです。
ですから、大人は「正しいこと」を「作り出す」アプローチをすることは保育としては不十分なのです。
そのように、大人の意図的な介入や、「取った子に返させる」「あやまらせる」といった「落としどころ」を保育者があらかじめ設定せずに、その子への「否定」を積み重ねないで対応することができていくと、その取ってしまった子が次から取らなくなったり、取る前に大人をかえりみて踏みとどまることができたり、自分で取ってしまったものを返す姿が見られるようになっていきます。
そうしたら、そこにニッコリと肯定的な笑顔を向けたり、「うん」とうなずくなどの「認める」アプローチ(つまり肯定)を積み重ねることができます。
こうすると、「プラスの積み重ね」によって子供をより適切な姿に導いてあげることができるのです。
「正しいこと」の刷り込みのアプローチや、「しつけ」のアプローチは、「否定」になることを避けられないので、「マイナスの積み重ね」になってしまいます。
否定になってしまうところを否定にならずに子供を導ける。このことはまさに保育の専門性のあらわれではないでしょうか。
この「認める」の部分をオーバーな「褒める」ですれば、より子供を適切な方に導けるのではないかとしてしまう人もいます。
しかし、それは大人の作為が子供に見透かされるので、かえってあまりよろしくないのではないかと思います。
今回の例にとったケースはあくまで一例です。この通りにしなければならないのでもなく、この通りになるというわけでもありません。
「否定の積み重ね」にならないアプローチのモデルにしていただければと思います。
次回はまた別のかたちでのアプローチ「包括的受容」について見ていくことにします。
つづく。
| 2016-10-25 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
『ジョブデポ保育士』監修のお仕事 - 2016.10.20 Thu
『ジョブデポ保育士 「保育のヒント」』 を監修することになりました。
保育士の方はもちろん、子育て中の方にも役に立つヒントがたくさん載っています。
どうぞご覧になってみてください。
<僕が選んだ子育てにも役立つ『保育のヒント』記事5選>↓
| 2016-10-20 | 雑誌・メディア | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
「いい保育」と「上手い保育」 vol.6 - 2016.10.18 Tue
子供は、管理や支配をせずとも大人の目指す方へと成長していくことができます。
そのためには「信頼関係」から子供への関わりを組み立てることです。
「信頼関係」をあつくするためには、「肯定」で子供に関わる必要があります。
しかし、これまでに述べたように、「正しい姿」を目指して、目の前にある子供の姿をその位置から見てしまうと、否定の関わり、もしくは否定の感覚・ニュアンスをもっての子供への関わりになってしまいます。(その否定のアプローチが極限までいってしまったもののひとつが「体罰」)
だからこそ、善意であっても最初から「この姿ではいけない。直さなければ」と子供を見てはならないわけです。
子供へのアプローチの最初のピースを「ああ、そうなんだ。この子はいまこの姿なのだな」とすることで、否定のニュアンス抜きの肯定の関わりにすることが大切になります。
だから、保育のプロは子育てを「しつけ」で考えては取りこぼす子を生んでしまいます。
保育園では、0~1歳児からの子供をみています。
なので、低年齢のときから「肯定」を積み重ねる保育を意識していくことができます。
このことも大変重要な点です。
これは「保育の連続性」へとつながります。これについてはまたの機会に。
では、「肯定」の関わりとはなんでしょう?
わかりやすいところでは「褒める」が思い浮かびますが、「褒める」は実は使い方・大人の姿勢しだいで「否定」にもなってしまう諸刃の剣です。
(「褒める」=「結果がよかったときに与えられる肯定」=「条件付きの肯定」 → 裏を返すと「大人の眼鏡にかなう姿(結果)でなければ肯定しませんよ」という「否定」のメッセージとして子供に伝わることもある)
本当は、そういったはっきりとした直接的アプローチよりももっと基礎的なところから肯定はあります。
まず、「見守る」ということが「肯定」です。
「見守る」といってもいろいろあります。
・「危ないことをしやしないかとハラハラ見守る」
・「他児に噛みつきや手出しをしないか見守る」
・「他児のモノを取ったりしないか見守る」
これらは、「肯定」になっているでしょうか?
これはむしろ「否定」になってしまっています。その後導き出される大人の実際の関わりを見ても「否定」の方向であることは否めません。
・「危ないことをしやしないかとハラハラ見守る」→「危ない危ない」と注意や制止、行動の牽制のアプローチ。
・「他児に噛みつきや手出しをしないか見守る」→大きな声を出して止めたり、怖い顔になっている。
・「他児のモノを取ったりしないか見守る」→注意したり、子供の関心を他に向けるようなアプローチ。
などなど、「見守る」をそのように使っている限りは、それは「肯定」になりません。
僕は「見守ることは子供へのプレゼント」であると考えています。
あたたかく子供を見守ることによって、子供に「私はあなたのことを守っていますよ、ここは安全です、あなたの居場所ですよ、私はあなたのしていることを認めていますよ」というメッセージを視線や表情によって日常の多くの場面で子供にその「肯定」を伝え続けていくわけです。
そのように「子供に○○をする」といった直接的なアプローチ以前のところから「肯定」はあるのです。
そこから肯定を積み上げていけば、その子への関わりの多くが子供を認めるニュアンスをもったアプローチになり、子供はその大人への信頼感を大きくしていきます。
子供の話を聴くこと、遊びの相手をすること、着替えや食事の介助、午睡の見守りなどの生活面の世話、これらも大人の意識しだいで「肯定」のニュアンスを持ったアプローチになり得ます。
「なり得ます」と言っているのは、「なり得ないこと」もあるからです。
それは大人の姿勢しだいなのです。
だから、「どうすべき」抜きの「ああ、そうなんだ」と子供の姿を受けることからスタートすることが非常に大切です。
最近の保護者の子供への関わり方で多く見られるのが、「子供の姿を”ちゃんと”させなければ」と真面目に一生懸命関わっている人が、年齢を重ねるほどに子供が手に余っていく状況です。
それは、上で述べたような「見守ること」が「否定」につながってしまう人に顕著です。
「”ちゃんと”させなければ」と思うあまり、結果的に子供に山ほどの「否定」を積み上げてしまいます。
それが日常における信頼関係の低下を招き、かえって子供が大人の望む姿になっていけない状況を生むケースがあります。
一緒に暮らす親子であればそうであってもカバーはできますが、本来他人であるところの保育士が「否定」をたくさん積み重ねる関わりをしてしまえば信頼関係はあつくなりません。(”その人に頼らなければ園で過ごせない”という最低限の信頼しか寄せられない。それは子供を導いていくにはほど遠いい信頼感にしかならない)
ですから、一般的な「しつけ」の感覚で子供に関わるのは保育士としては相応しくないのです。
しかし、そのような肯定的な姿勢・関わりを積み重ねた後であれば、子供を管理・支配をせずに望ましい姿を持たせていくことが可能になります。それも子供自身の自発的な姿としてです。
例えば、他児に乱暴な子がいたとします。
その子に、怒ったり叱ったりを重ね「怖い大人」になることで、その子が他児に乱暴するのを止めたり、事前に大人がそれをさせない雰囲気をかもし出すことも可能です。
しかし、それは否定の積み重ねの末に生み出された「威圧」であって、子供が自発的に乱暴しないようになっているわけではありません。
威圧でそれを押さえ込んだところで、別のところでその乱暴さを出すか、別のかたちで出させるようになるだけです。
それでは子供の成長とは言えません。
大人がその子との間に信頼関係を築く関わりを積み重ねていると、その子は例えば他児のモノを横取りしそうなになったときに、その大人に一瞬視線を送るようになります。
そのとき、「そのまま取ってしまったらその大人がどう思うだろうか?」という気持ちが、その行動をその子に思いとどまらせます。
そこで、もしその子が奪う行動を止めることができたら、すかさずそこを認めてあげます。するとその子はそうやって叩くことを思いとどまることが「よい行動なのだ」と学習し、自分から「どうすべきか、どうすべきではないか」を身につけていくことができます。
その保育士が、その子を行動でも心情でも肯定することができず、信頼関係をあつく形成していなかったら、もしくは威圧などの否定的な関わりを積み重ねていた場合は、他児のモノを取ろうとするときに一瞬その大人に視線を送る行動そのものを取りません。
子供がなぜ大人の言うことを聴こうとするかといえば、それは「大人が怖いから」ではないのです。
その大人が「好きだから」その人の言うことを聴こうとするのです。
好きだからその人の意に沿いたいと思うようになります。
これが、子供と保育士が「寄り添った関係」であるということです。
大人と子供が「支配・被支配」の関係になるのを目指すことは、保育では本来不適切なことです。
「しつけ」の子育ての考え方では、「叱ること」を積み重ねることで子供を大人に従順な状態を作り出そうとします。
それが可能なケースは、すでに人への信頼感をあつく形成している子供に限られるのです。
ごく低年齢からあずかる場合や、家庭で過ごす時間が短かったり、家庭の養育力が低下しているような保育園で直面することの多いケースでは、そのように大人が子供の上に立った状態で考えるかたちの子育てはどこかで限界がくることでしょう。
では次に、子供が大人に一瞬視線を送ったけれども、そこで止まらずに他児の遊具を奪ってしまった場合の対応についても見てみましょう。
つづく。
| 2016-10-18 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
子育て座談会 11月27日(日) in名古屋 - 2016.10.17 Mon
名古屋の講演終了後には、お父さんお母さんからたくさんの質問やお悩みの相談が寄せられました。
講演でまとまった話を聴くのもそれはそれで意味あることですが、子育てはひとりひとりが違うものですから、「これでいいのかな?」とか「こんなときどうすればいいのだろう?」というようなことは、子供の数だけあることでしょう。
自分の悩みに答えてもらうだけでなく、他の人がどんなことで悩んでいるのか知ることも子育てのプラスになることが多くあります。
今回の企画はそういったところを目指して、小規模の人数でじっくりと子育ての話をしていくものにしていきます。
「子育てのいい話」をすることのできる人は割合たくさんいると思いますが、子育ての難しさに対して実際にどうすればいいか具体的なことをお伝えできるのは僕の本領発揮の部分であるでしょう。
子育てに悩みがある人も、そうでない人もどうぞいらしてください。
なにか心がラクになるヒントが見いだせるかもしれません。
お申し込み、詳細はこちらからどうぞ。↓
(少人数制のため要予約です)
『名古屋市中村区 育児サロン ふれんど』ホームページ
| 2016-10-17 | 講座・ワークショップ | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
「いい保育」と「上手い保育」 vol.5 - 2016.10.13 Thu
なぜそのような呼び方をしたかというと、「それこそが目指すべき保育だ」と考えている人が少なくないのと、保育士のスキルの「上手さ」によって子供の行動を作り出してしまう保育の問題点に気づいて欲しいからです。
大人が介入することで正しい姿を作り出すことは、保育・子育ての終点ではないのです。
でも、一般にはそのように考えられがちです。
本当に目指すべきところは、子供が自身の力で、その姿(行動)や成長を得られることなのです。
この違いを理解することは、頭の中だけでも結構難しいです。それを実践的に理解し習得することはさらに難しいでしょう。
保育士になったばかりの人は、まずほぼすべての人が程度の差こそあれ前者のポジションにいます。
そこに気づかないまま新人時代が終わってしまうと、その人は自分のしていることにある種の自負やプライド、または「こういうものだ」という先入観が生まれてしまって、それを変えることは非常に難しくなってしまいます。
だから、僕は保育を身につけるにおいて、新人時代のアプローチが非常に重要だと思います。
しかし、保育士の問題点は、それらのことを適切に習得している人であっても、そういった子供への関わり方や姿勢を感覚的にしか理解していないので、他者・後輩にそれを的確に伝えることが不得意である点です。
適切な保育ができる力量のあるベテランが、子供を力業で管理や支配をしてしまう新人保育士を止められずに対応に苦慮しているといった話をしばしば耳にします。
その新人の方にも、自身の生育歴に由来するものなどなんらかの根深い問題があることもありますが、やはり理論と実践の両方で保育を理解する必要が現代の保育士にはあるでしょう。
さて、ではここで「上手い保育」に対しておかれている「いい保育」とはどんなものなのでしょうか?
それは、大人の介入や強制力によって、子供を管理や支配、またはうまくおだてたり釣ったり誘導して大人の思うようにコントロールしてしまう関わり方をせずに、子供をその大人の目指すところに成長させていける保育のことです。
そのようなことを言うと、「この人はなにを言っているのだろう」とポカンとされてしまったり、そんなのは「理想論や机上の空論だ」といった反応がかえってくることもしばしばです。特に、その人自身がそれが緩やかなものであったとしても管理的支配的な関わり方をしてしまっている人の場合はなおさらです。
しかし、そのように子供を伸ばしていくことは、さして難しいものではなく可能なのです。
ただ、難しいのは大人の方の問題です。
日本の子育ての概念の中には、そのように「子供自身に発育させる」という考え方が希薄で、「大人が介入することで子供の正しい姿を作り出す」という見方が非常に濃厚だからです。
ですので、まずはその先入観を乗り越える必要があります。
記憶に新しいところでは、北海道の森林で「しつけのため」と小学生を放置し遭難した事件がありましたね。
このケースに見られる、”子育て観”がまさにこれまでの日本の子育ての典型なのです。
あれはたまたま遭難という事件になってしまいましたが、多くの人があのケースと同じ文脈での子育てをしています。
大人の考える「子供のあるべき姿」に従わせるべく、そこに大人が介入をするのです。
その介入の仕方は「否定」というかたちです。
子供が従わなければこの「否定」のかたちをより強めていきます。
これが日本の子育ての典型です。
多くの人にとって、これが「子育て」としての先入観になっています。
また、それがいわゆるところの「しつけ」の子育ての構造でもあります。
このあたりのことは「しつけ」についての過去記事でも述べました。
この子育て観の本質は「否定」の羅列であるところです。
現代の大人が「自己肯定感の低さ」で悩んでいるのも、この子育て観と無縁ではないと僕は強く感じます。もっとうがった見方をすると、「肯定で人と関わることを知らず、否定ばかりが多くなってしまう日本人の対人関係のあり方」にまでつながっているかもしれません。
さて、この先入観にとらわれている内は、自然自然と”大人が介入することで正しい姿を作り出そうとする”「上手い保育」を目指してしまうことでしょう。
ですから、保育士はひとつ大変重要な事実を理解しておかなければなりません。
それは、
「子供は、子供自身で育つ力を持っている」
ということです。
これが「子供の尊重」のひとつの大切なあり方です。
「どうせ子供はわからない」
「できないに決まっている」
そのような軽視した見方をしてしまうと、管理・支配のレベルでの子供への関わりに留まってしまいます。
そして、大人がその思いで子供にアプローチしていくと、子供はその管理や支配をされることが当たり前となって、「自分自身で育つ力」、「大人にさせられなくても、それらのものごとに自分から前向きに取り組むこと」などを、停止してしまいます。
すると、その管理や支配で関わる人にとっては、永遠に子供は「どうせわからない」「自分からはできない」存在にしか映りません。
なので、
「子供は、子供自身で育つ力を持っている」
このことを、頭でも実感でも保育士は理解していなければならないでしょう。
それをするのは、先輩保育士の役目です。
多くの新人保育士が、程度の差こそあれ「大人が介入して子供の姿を作り出すことが保育」という認識を持っています。
それを、支配しないでも子供が自分から大人の望ましいと考える姿に育ってくれることを実践で示して、
「子供は、子供自身で育つ力を持っている」ことを実感させていかなければなりません。
またそれが、「たまたま」とか、「その保育士が特別優れたパーソナリティを持っていた」から、「子供がいい子(安定した子)たちだった」からそうなったのだと理解させてしまうのではなく、「保育の力」によってその姿が導き出せたことを認識させる必要があるでしょう。
それを明確にしておかないと、「楽な道」=「管理や支配」に安住してしまうからです。
では、その管理や支配せずとも子供を伸ばしていく手段はどうするのでしょうか?
それが「信頼関係」を明確に意識した保育です。
つづく。
| 2016-10-13 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 2 | トラックバック : 0 |
「いい保育」と「上手い保育」 vol.4 - 2016.10.12 Wed
「正しいこと」という決めつけをせずに、子供に向き合っていく必要があるというところまでお話ししました。
では、それをせずに子供に関わるにはどうすればいいのでしょうか?
「ああ、そうなんだ」という言葉。
この意識で受け止めることが現代の子供への適切な関わり方のスタート地点になります。
それは「あるがままを受け止める」ということです。
例えば「○○がいい。○○は悪い」という価値判断抜きで、対象(この場合は”相手である子供”)を受け止めることが必要です。
「ああ、そうなんだ」というのは、いかにも平易な言葉ですが、これができるかできないかが現代の保育士の専門性の分かれ目となるでしょう。
「どうあってほしい」「このような成長を獲得して欲しい」ということを、考えてはならないといっているわけではありません。
でも、「○○できる」を求めて「現状の否定」から出発しても、すべての子供を本当の意味で伸ばすことはできないということに気づかなければなりません。
なかにはもちろん「現状の否定」から関わりをスタートしても、問題なく育っていける子もいます。
しかし、このやり方ではそういった「元々伸びる子」しか伸ばせないのです。
現代は、かつてよりも保育園、幼稚園、学校に入ってくる時点で、そこでのものごとが無難に送れる基礎条件を備えた子ばかりが入ってくるわけではありません。
(昔だってもちろんそういう子ばかりではありませんでしたが、現代はそのあり方がより多く、デリケートになり、多様化・個別化しています)
この「ああ、そうなんだ」という「あるがままを受け止める」姿勢から始めることによって、価値観の押しつけではない適切な援助がスタートできます。
そこを踏まえたところから、その子が必要なものを獲得させたり、問題となっていることを改善していく、次の具体的アプローチを考えなければなりません。
たったワンクッション。
「ああ、そうなんだ」と目の前の子供の今ある姿を受け止めること。
このことは、些細なことでしかないようですが、その子への関わりの最初のピースをこれにすることで、大人が行うその子への対応、そしてそれが子供に与える影響は大きく違ったものとなっていきます。
これは、カウンセリングの世界で言うところの「傾聴」と、ほぼシンクロして考えられるかもしれません。
子供は、”もの言わぬ存在”なので、「ああ、そうなんだ」と汲み取ろうという姿勢が保育者の側には不可欠なのですね。
クライアントの話も聴かず、受け止めず、自身の考えや正論を押しつけてくる人はカウンセラーとして失格という話は聞いたことがあるのではないかと思います。
子供を本当に伸ばそうと思ったら、保育にもこの「受け止めるプロセス」が重要です。
| 2016-10-12 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 4 | トラックバック : 0 |
「いい保育」と「上手い保育」 vol.3 - 2016.10.09 Sun
これは、人としての自然な気持ちでもあり、親心でもあり、善意でもあります。
だからそのように感じてしまうのも当然といえば当然なのですが、保育士は子供を育てる専門家としてそこにあえて「まった」をかけねばなりません。
なぜなら、その「できていないものをできるようにすること」が保育士の職務だと考えると、それが適切な援助にならなかったり、行き過ぎを生んでしまうからです。
(またもっと突っ込んだ話をすると、必ずしも大人が「できていないものをできるようにすること」という関わりをすることが、子供の成長のためにならないこともあるからです。
このことは、子育ての本質に関わるお話になってくるのでまたの機会に)
さて、そこで現代の保育士が理解していなければならない大事なことのひとつ。
それは、「”正解”を決めつけてはならない」ということです。
そのことは
「子供の理想像をあらかじめ頭に置いておかない」
「正しいか、正しくないかで子供を判断しない」
「すべての子供はみな違う」
「子供の姿を否定でとらえない」
「私が子供の姿を作り出さない」
「子供自身の成長を待つ」
などなどのことに派生していきます。
つまりは、「正しい子供像の型に大人が子供を押し込んではならない」ということです。
それをなんらかのテクニックや管理的関わり方を使って子供に「上手く」実行させていたのが、これまで一般に「保育」と考えられていたところの「上手い保育」です。
子供を「こうしなきゃ、ああしなきゃ」という思いが、念頭に強くあればあるほど保育は難しくなってしまいます。それが善意からのものであってもです。
これには、理屈ではなく心理的な面が多分に影響します。
人間は、一度「○○しなければ」といったことを決めてしまうと、それを守りたくなってしまう生き物です。特に自分の管轄下にある子供に対しては強く「守らせなければ」と考えてしまいます。(それこそ自分が守らないことであってすら、それを子供には要求してしまうこともあります・・・・・・)
「○○しなければならない」という目線で子供を見てしまえば、その○○が立派にできる子供は好意的にあたたかく見ることが簡単にできます。
しかし、そうでない子だったときはどうなるでしょう。
その大人が好意的に子供を見られる人であればまだしも、そうでなければ簡単に感情的な不快感がそこには生まれてしまいます。
「○○すべきだ!」
「しかし、この子はそれに従わない」
その状況にある保育士はどうなるでしょう。
そうなると、そこに心情的な波立ちが生まれます。
要するに、イライラやストレスを感じます。
そのイライラやストレスを、プロフェッショナルとしてコントロールし押さえられる人もいるでしょう。
しかし、それが山ほどたくさんになってくれば、そうそうはコントロールしきれません。
イライラやストレスをそこで解消する行動をとるようになります。
そして、怒ったり、叱ったり、冷淡さ、意地悪さを子供に向けかねないのです。
「その子に正しいことを身につけさせる」という大義名分の元に、自分のストレス解消のために子供に強く当たったり、疎外をし始めかねないのです。
ある大人の人が、自分の幼稚園時代の忘れられない出来事としてこんな話をしてくれました。
その人は子供のとき、食が細いタイプで給食を全部食べきることが難しい子でした。
しかし、「残してはならない」「きれいに食べなければならない」としきりにそこの先生から指導されるので、それでもなんとか頑張って食べようとしています。
しかし、食べきれないことが多くその先生からはたびたび冷たく当たられていました。
あるとき、頑張って無理して食べていたため、食べたものを吐いてしまいました。
すると、その先生は「吐いたものも全部きれいにたべなさい!」と怒ったとのことです。
大人になった今でもそのことは忘れられず、時々思い出すことがあるそうです。
現代でそのようなことをしたら、明らかに虐待です。
それは当時でも虐待ではあるのですが、そういった関わりを許容してしまう時代の空気があって、似たようなことがたくさんありました。
いまでも、そこまではしていなくとも本質的にはさして変わっていない人が存在していることを僕は感じます。
この人は、「子供は食事を残さず食べられるようになるべき」という強い信条があるわけですね。
それは職業的善意かもしれないし、その人自身の性格や、生育歴に由来するその人の持つ性向から来ているのかもしれません。
それ自体は必ずしも間違っていなかったとしても、実際にやっていることは「虐待」になってしまっています。
その人が考える「正しいこと」を、子供に「刷り込もうとすること」「実行させようとすること」、それは必ずしも適切な保育にならないのです。
しかし、往々にしてその「正しいこと」を子供に押しつける保育は蔓延してしまいます。
では、どのように関わっていけばいいのでしょうか?
つづく。
| 2016-10-09 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
「いい保育」と「上手い保育」 vol.2 - 2016.10.07 Fri
子育てに余裕のあったかつての時代であれば、その方向性の保育でもまあなんとか可能ではありました。
しかし、現代はもはやそうではなくなっています。
(これは地域によってはまだそういう状態が確保されていて、それでも無理がないということもあるかもしれませんが、それでも全体的な傾向としてはどこもまぬがれないのではないかと思われます)
かつては、子育ての基礎的な部分が家庭でそれなりに確立されることが多かったです。また、そうでない状況があったとしてもそれを望むことがさして問題ではありませんでした。
それゆえ、そのような「できる」の獲得を積み重ねていくところから保育をスタートし、多少なりとも管理や支配になってしまったとしてもそれなりに保育が無理なくまっとうできてしまいました。
保育所の本来の設置意義は、「家庭の代わりになって幼い子供たちが過ごす場所になること」ですが、その「家庭」の部分は実際の家庭でかなりの部分をまかなうことが可能だったので、保育所があえて「家庭」にならずともなんとかなってしまっていたわけです。
だからむしろ、かつての保育所のあり方は「学校」に近かったとすら言えるでしょう。
何らかの能力の獲得や集団行動などの確立、運動会、発表会や学芸会などの出し物的な部分を頑張るところにウエイトが持ってこられていました。
「家庭に代わって過ごす場所」という第一義的な機能よりも、「学んだり、習得させる」といった第二義的なところがクローズアップして当の保育士たちも考えていたわけです。
しかし、その頃から時代は大きく変わりました。
以下は、第二回保育セミナーのレジュメからの一部抜粋です。
<現代の子供たちの背景にあるもの>
a,家庭・家族のあり方 →核家族
b,親族との関わりの減少
c,地域のつながりの減少
d,保育の長時間化
e,保育の低年齢化
f,親のあり方の変化
・女性のあり方(教育・人生観など)の変化
・他者とのコミュニケーション力の低下
・子供と関わった経験
・就労の長時間化、激化 →余裕のなさへ
g,子供のあり方の変化
・きょうだいの減少
・他者のとの関わり・社会性の減少
・家庭での過保護・過干渉の影響の増大
・さまざまな経験の減少(遊び、生活)→幼さ
・親から受ける期待の増大
・早期教育、習い事の激化
h,親の関わり方の問題
・「負い目」「かわいそう」
・距離感 →どう関わったらいいかわからない
→「いいなり」や無視など。子育てそのものへの意欲がなくなってしまう
・「子供の尊重」のはき違え
・「不安、心配」の増大 →「正解探しの子育て」、早期教育などの与える「安心感」
i,親自身の生育歴上の問題 (子育てを機に表面化する諸問題)
・過度な期待 →作られた人生
・過保護・過干渉
・支配の連鎖(支配的人格の獲得)
・自己肯定感の低さ
・アダルトチルドレン
・孤立
こういった社会的、家族観的変化などが、「いい悪い」ではなく否応なしに存在していて、現代の子供たちに必要なものも確実に変化しているわけです。
これまで、学校的な第二義的な保育の職務が中心だったところから、第一義的な本来の「家庭の代わりとしてその子供の育ちの基礎的な形成を支える」ことに立ち返らなければならない時代になっています。
しかし、現行の保育施設や、保育士の意識は、それらの状況の変化や子供たちに必要なものの変化を認識しておらず、まだまだこれまでの「上手い保育」を目指してしまっています。
それが結果的に引き起こしてしまうのは、「落ちこぼれ」にされてしまう子供や、「取りこぼされてしまう」子供たちの存在です。
また、本来くつろいで過ごす場所になるはずのところで、威圧や管理、支配を受けてなければならなくなってしまう子供たちへの影響です。
さらには、本来ならば子供たち一人一人のケアをし、子育てする保護者の助けにならなければいけないのに、かえって子供に負荷をかけて家庭に返すことで子育ての負担を大きくしてしまうといったことが起こってしまっています。
もう、「上手い保育」をしていれば済んだ時代はおわったのです。
子供だましなどのテクニックや、威圧や疎外などの力業で、子供を管理・支配をして自分の目の前でだけ「いい子」にして自己満足をしていたら、保育士の専門性を世の中の人たちが認めてくれることはありません。
本当に必要なものを見据えて保育をしなければならない時代になっています。
目に見える「できる」を達成させて満足するのではなく、その子自身の本当の成長や発達として適切に獲得させる「伸ばす」ということを理解し目指さなければなりません。
そのためには、「正しいこと」「○○しなければならない」「○○できなければならない」、「ちゃんと、きちんと、しっかり」はいったんどこかに置いておく必要があります。
それらの、燦然と輝く「正義」を念頭に描いて保育をしている内は、それを力業で子供に「させる」ことが保育士の関わりになってしまいます。
実は保育士の仕事が素晴らしい点は、「あるがままを受け入れてよい職業であること」なのです。
つづく。
| 2016-10-07 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
「いい保育」と「上手い保育」 vol.1 - 2016.10.06 Thu
これは「子育て」で言い換えることもできますが、今日のところは「保育」で話を進めていきます。
これまでの保育は「上手い保育」を目指してきたといえるでしょう。
そしていまだに、それは主流であるとも言えます。
例えば今の時期であれば運動会で考えてみましょう。
その集団の子供たちに、「競技や演技を習得させてそれを見る人から立派に見える形で実演させる」ということを上手にできることが保育士には要求されていました。
ほぼすべてのことがそのように「上手に」子供に「実行させること」「能力として獲得させること」が保育の仕事だったと言えるでしょう。
おむつを外すことやお箸の使い方から、座って話を聞くことなどなどの、「できる」という目に見える力を「上手に」獲得させられることが「上手い保育」であり、それができる人が「上手い保育士」でした。
それはさらに、言うことをきかない子であっても「きちんと従わせること」もそうです。
いかに「上手く子供をコントロールできるか」がその力量の重要な点だったのです。
「きちんと」「しっかり」「ちゃんと」
そこでは、これらのフレーズをいつでも無意識に大人は考えています。
「きちんとさせなきゃ」
「しっかりやらせなきゃ」
「ちゃんとさせなければ」
それは、大人が頭の中に「子供のあるべき姿」をあらかじめ設定しているということです。
そして、そこに「上手く」近づけることが、「保育」であると考えていたわけです。
もし、「座って話を聞けない子」がいたら・・・・・・。
その子に「座って話を聞かせる」ことが目的になってしまいます。
「上手い保育」では、それは長期的な目的でなく、ごく短期的に考えてしまいます。
「いま、目の前で!」。「座って聞かせなければならない」。
そして、そのために子供を動かしてしまいます。
そこで例えば威圧的に子供に関わる人であれば、「座りなさい!」といかめしい顔で注意したり、怒ったり叱ったりしてしまう人もいます。
「ごまかし」や「脅し」を使って怒ったり叱ったりはしていなくとも、それが力業の保育であることは結局のところかわりません。
それらによって、大人の望む姿を作り出すこと。
かつてはそれが「上手い保育」でした。
いまでも、この保育になってしまっているところは少なくありません。
しかし、それは必ずしもその子供自身の獲得した育ちにならないです。
なかには、それを繰り返す内にその子がそういう習慣を獲得できる子もいるかもしれませんが、結局のところ力業でその行動を作り出しているだけなので、多くの場合は「させられているから、従っているだけ」です。
つまり、その子自身の力にはなっていないのです。
その子自身が自分から、「なぜ、座って、話を聞かなければならないか」を理解したり、「話を聞く力」を育てたり、獲得しているわけではありません。
その人が力業で子供が従っている状態で満足している内は、子供を「伸ばしている」とは言えないのです。
しかし、少なからぬ人がその状態が、「保育の成功している状態」であると勘違いしてしまいます。
その背景には、日本でこれまで一般的に行われていた子育て、学校で行われていた教育の方向性が、管理的・支配的なものであったことも大きく影響しています。
本来の保育の目的は、そのように子供を「上手く」従わせることではなかったのですが、いつの間にかそれが「上手い保育」となってしまいました。
そういう保育が当然だと思っている人、「上手い保育」ができるようになってしまっている人は、例えばこのように考えます。
その人は、その「上手い保育」の経験を積んで、それが上達してしまっていますから、ことさら怒ったり叱ったり、大きな声を出したりすることもなく、威圧的な雰囲気をかもし出して、子供の方から顔色をうかがわせて言うことをきかせることができるようになってしまっています。
そこでの子供は、その人に逆らえないので、その保育士の要求にしぶしぶ従っていきます。
従ってはいても、その人に押さえつけられたり、自我を出したりすることを我慢しているので、抑圧されたもの、ストレスが溜まっています。
若い職員や、優しく受け入れる姿勢を出している職員がいる場合は、その人に何とか受け止めてもらおうと、そこで自我を出したり、要求をつきつけたり、甘えを出したりします。
その状態を「上手い保育」を獲得してしまった人から見ると、「子供を甘やかしている」「わがままを助長している」と見えてしまいます。
その本当の原因になっているのは、その人自身がする普段からの威圧的な雰囲気や、くつろぐことができない保育施設の雰囲気なのですが、そのことに自分から気がつく人はまずいません。
子供を「言うことをきかせることが当然」だと思っているので、そういう人からはその構造が目に見えなくなってしまうのですね。
また、その子たちは、園で過ごす間「とても頑張らなければならない」ので、親が迎えに来たときや、家庭に帰ってから、その反動を出してしまいます。
親に対して、イライラをぶつけたり、理不尽なわがままとして出したり、大人が受けきれないほどの過剰な甘えとして出しがちになってしまいます。
長時間の保育は、ただでさえ子供に少なからぬ負荷をかけるものですが、子供に管理的・威圧的・支配的な保育を重ねてしまえば保育士がさらにそれを助長してしまいます。
「上手い保育」が当たり前だと思ってしまっている保育士には、やはりそこでも自分がその原因になってしまうということが見えてきません。
すると、「親が甘いからだ」とか、「ちゃんと見ていないからだ」という判断をしかねません。
このような力業で子供に言うことをきかせてしまう「上手い保育」を、その施設がし出すとその施設ではそういった力業の保育しかできなくなってしまいます。
受容的な保育をそこで展開しようとしても、まず確実にそれが確立するところまで持って行けません。
なぜなら受容よりも、管理や支配、威圧が与える影響の方がずっと多くなってしまうので、何人か受容できる人がいたとしても追いつかないのです。
受容といった心のケアはコツコツとしかできないのに対して、威圧や子供の疎外、尊厳をくじくなどの強い行為は簡単に蓄積されるからです。
ですから、それら「上手い保育」ができてしまう人は、余計にその自分の保育の仕方が正しいと思い続けることになります。
受容的な優しい人や威圧のスキルが十分でない若い保育士が保育をしている状況だと、子供が「(その”上手い保育”をする人から見て)いい子」にできていないように見えるので、「やはり私のやり方でなければダメじゃない」と思えてしまいます。
日中、その威圧や管理をする「上手い保育」をしていた人が保育して、遅番の当番にはそれをしない人が保育した場合、子供たちの姿が激しいもの、落ち着きのないものになってしまうことがあります。
そうなってしまうのは当然なのです。
その「上手い保育」はバネを上から押さえつけているようなものだから、その重しがなくなってしまえば、ぴょーんと飛んでしまいます。
押さえつけ方が強ければ強いほど、その反動は大きくなることでしょう。
保育時間が短かったりすれば、まあ多少はそのような傾向があったとしても、子供の持ち前の柔軟さで乗り越えもいけますが、長時間だったり、その押さえつけが強すぎれば子供への影響は大きくなっていくことでしょう。
つづく。
| 2016-10-06 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
保育監修のお仕事 - 2016.10.05 Wed
いまはまたその研修のアフターフォローとして、その内の何園かを回って、保育運営や環境、子供への実際の対応法などの相談を受けております。
僕自身も保育士のときから感じていたのですが、保育の学びというのは、理論や理念、他者のやり方、事例だけを聴いていてもなかなかそれを「実践的に理解」し、自分の保育で活かすことは簡単ではありません。
講演のような形で保育のお話を伝えることももちろん意味があるのですが、できることならばもう一歩も二歩も進んだところでのアプローチがあるといいと思います。
その一歩、二歩というのは、
●「園としての保育の方向性を見いだせること」
●「その人の保育の中でのケースで具体的アドバイスを示すこと」
(さらにはその経過を確認し合うことで、明確にその人自身の保育スキルとして確立できること)
ここまでできると、実際の保育の質としてその学びが反映されるのではないかと思います。
講演だけだと「ああ、いい話聞いたわ」で終わってしまうことも珍しくないからです。
また、子供へのアプローチのところで大切になってくるのは、大勢に向けた話では伝えきれない気持ちの機微みたいな部分もあり、その人の感じている問題を一緒に考えるということが大切ではないかとも感じます。
保育はいま、量的拡大のまっただ中にいます。
しかし、これが10年後には量的には飽和状態になるとも言われています。
そのとき、選ばれるか選ばれないかは、「保育の質」にかかってくるでしょう。
そのときになってからあわてて保育の質を上げようと思っても、上がるものではありません。
むしろ、質のかえりみられない保育の積み重ねからの転換(質の向上)は望めないものとなります。
保育の質は「個人として経験」や「組織としての蓄積」が重要であり、付け焼き刃的に向上するものではありません。
保育の質について考えているところは、すでにいまから始めています。
| 2016-10-05 | 講座・ワークショップ | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
第二回保育セミナーを終えて - 2016.10.03 Mon
わざわざ遠方からいらしていただいた方もおり、本当にありがとうございました。参加して下さったみなさんおつかれさまでした。
ちょうだいしたアンケートの内容も、そのすべてが「セミナー内容が良かった」と言っていただけるものばかりでした。
保育をよりよくしてもらいたい思いが伝わったこととてもうれしいです。
ひとつ反省点を言えば、これは僕のいつもの悪い癖でもあるのですが、ついつい「あれも伝えたい、これも伝えたい」と思ってしまうので、内容を詰め込みすぎてしまった点です。
3時間、話し通しになってしまい、ディスカッションや質問の時間を十分とることができませんでした。
内容をこの6割くらいにして、皆さんのディスカッションの時間を確保しても、十分一本のセミナーとして成立したと反省しております。
二回連続セミナーみたいな企画が実現できたら、内容量も減らさずにいけるのですがこれだと企画自体が難しくなるので悩ましいところです。
今回ちょっと運動会シーズンにもかかってしまっておりましたので、日程が合わず参加できない方もいらっしゃったかもしれません。
まだ未定ではありますが、第3回目も行いますのでぜひまたいらして下さい。
今回の企画は、現在の保育の問題点。
・「保育が管理や支配になってしまう。それがよくないことはわかるが、それに変わる保育方法がわからない」
・「支配的な関わりになってしまう職員がいて、園全体の保育が安定しない」
・「年々保育の難しい子供が増えている。そこへのよりよいアプローチを模索したい」
・「若い職員へ適切な保育の方法を身につけてもらいたい」
そういったところに、ダイレクトに届くものであったと思います。
今回のこのセミナーの内容は、今後も広くお伝えしていきたいと考えております。
セミナーの中でもお伝えしたのですが、こういった保育の学びがもっとも効果を上げるのは、園の職員全体で共有できたときです。
保育のやり方や、多少の考え方の差はあれども、職員みなである程度同じ方向を向いて保育ができること、このことが実現できるととても大きな効果をあげます。
ぜひ、園内研修などで呼んでいただければと思います。
現在ホームページはまだ作成中ではありますが、こちらの保育研修事業を行っている『HOIKU BATAKE』さんでも、僕も講師の一人として保育研修を承っております。
こちらを通しますと、国の助成金を活用して、保育園でも安価にもしくは全く費用がかからずに研修を依頼することも可能です。
先日の保育シンポジウムでも言われておりましたが、外部の保育研修を受けることの効果は非常に大きいです。ぜひ、こういった機会を活用していただければと思います。
| 2016-10-03 | 講座・ワークショップ | Comment : 1 | トラックバック : 0 |
明日の保育セミナー - 2016.10.01 Sat
僕自身このセミナーにかける思いはとってもたくさんあるのですが、まずは事務的な連絡から。
明日の会場である『八広地域プラザ「吾嬬の里」(あずまのさと)』は、もともと、統廃合されて使わなくなってしまった小学校でした。
それを地域の住民で活用するべく、体育館や運動施設、公園、乳児の遊びスペース、喫茶室、また100名規模のホール、会議室、音楽室、工作室などを備えた住民施設へと改装されました。
また、その運営に地域の人の雇用も確保しているようです。
統廃合で使わなくなった学校がただの廃墟になってしまっているところもありますが、有効な活用方法のひとつの実例ではないかと思います。
いらした方は、ぜひそんな視点ももって施設をご覧になってみてください。
ただし!
はい、こことても重要です。
そのように地域の小学校を改装したものですので、立地に関してだけは難があります。
駅(最寄り駅 京成八広駅)から10分ほどですのでそう遠くもないのですが、住宅地の中にある小学校だったため広い通りに面しておりません。むしろごちゃごちゃとした下町の宅地の中にポコンとあるため、大変場所がわかりにくいです。
HPのアクセスや地図、ナビなどで事前にしっかりと場所、経路を必ず確認していらして下さい。
本当に必須です!
1階には軽食が食べられる喫茶室もあります。
また、お弁当など持参される方は、1階の和室を自由に利用して食べることができます。
この和室構造がちょっとおもしろくて、となりの乳児室がガラス越しに見えるようになっています。
近隣でお食事をしていらっしゃるのならば、ちょうど通り道にある王監督ゆかりのお店「洋食 50番」もおいしいです。
もともと王監督の生家があった場所で、現在は従兄弟の方が洋食店をなさっています。王監督にとてもよく似ていますよ。下町な洋食やさんですが、お安めでおいしいので混んでいて入れないこともあるくらいです。もし、いかれるならば時間に余裕をもってのほうがいいでしょう。
ちなみに墨田区は王監督のおかげで少年野球がとても盛んです。
もうひとつ連絡です。
セミナー会場は『吾嬬の里』の2階にある中会議室になります。
利用登録に団体名が必要だったので、以前に作っていた『子育てサークル 積み木舎』のアカウントで利用申し込みしておりますので、もしかすると掲示にその名前で書かれているかもしれません。それであっていますので、ずずいっといらして下さい。
まあ、2階のさほど広くないところに、中会議室と大会議室がとなりあっているだけですので、迷われることはないと思います。
セミナー中の水分補給は自由ですので、どうぞお持ちになって下さい。ディスカッションの時間もありますし、結構長いですからね。
セミナー後も、質問や話足りなかった、聴き足りなかった、「これについてアドバイスがもらいたい」などなどありましたら、どうぞ遠慮なくいらして下さい。
僕は一方的に話をするだけの講演は好まないので、現実に生かせるものにしてもらいたいと思っています。そのためにであればいくらでもお応えします。
その日は一日セミナーのために開けてありますので、できうる限りお付き合いいたします。
どんな些細なことでも、個人的なことでも、「こんなこと聴いたら恥ずかしいかしら」といったことでも全く遠慮する必要はありません。
保育は言葉だけでは伝えきれない部分もあります。
でも、こういった場では言葉で伝えるしかありませんので、でしたら、僕は少しでも疑問の残らないようにとことんお応えしていくしかないのだと思っています。
第一回セミナーは、実践の前段階にある理念をしっかりと理解することに重点を置きました。
今回二回目のセミナーでは、いよいよ保育の具体的な部分に踏み込んでいきます。
保育の核になる部分であり、おそらく多くの方の関心の高いところだと思います。
僕は子育てについてでもそうですが、うわべのテクニックでは考えていません。
これまでの保育の方向転換への理解や納得。
さらには「ああ、この難しいと思っていた子供への対応はこうすればいいのか」と、いままで気づかなかった新たな関わり方などを提示できるかと思います。
保育は一人でできるものでもありませんので、すぐに園の保育に反映できるとも限りませんが、必ずやなんらかの学びになるものをお持ち帰りいただけるのではないかと思っております。
では、明日を楽しみにしております。
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