「子供のあるべき姿」のようなものを設定して、そこに子供を「当てはめようとする」というのは、まさに日本の子育ての考え方であり、学校の先生方がおちいりやすい関わり方です。
一度「正しいこと」を設定すると、大人はそれに当てはまっていない状態を許容できなくなります。
結果的に、子供の行動に「干渉」をせざるを得なくなり、それが募って「過干渉」を生み出します。
しかし、子供は「過干渉」になると、かえって大人の言うことに耳を傾けなくなるので、大人は子供を従わせるために強制力を用いなければならなくなります。
その結果として、日本の子育てでは「叱る」「怒る」「威圧する」「脅す」が導き出されてしまいます。
それら強い関わりが苦手な人は「ごまかす」「子供だまし」「釣る」「おだてる」を使うことになります。
僕はその先生たちが一生懸命、使命感や善意でやっているのはわかるのだけど、子供に関わるプロとしてはとても大切なことの覚悟が欠けていると感じます。
それはどういうことかというと、「子供を信じる」ということです。
その人たちが悪いと言っているわけではありませんよ。
おそらく多くの人がここを実践的に習わないことには、みなそのようになってしまいます。
どういうことかというと、みな無意識に「子供は大人が管理すべきもの」という先入観を持っているのです。
だから指示や命令がいきなり出てしまいます。
実は、この場面ではたった一言で子供たちは大人の望む行動をとってくれるようになるのです。
たった一言です。
では、それはどんな言葉でしょうか?
それは、状況により、そのときどき、その子たちにより多少変わっては来るでしょうけれども、例えばこうです。
「周りの人の迷惑にならないように待っていて下さい」
もしくは、「他のお客さんの通行の邪魔にならないように並んでいて下さい」といった言葉です。
どうして、これでいいのでしょうか?
また、どうしてこれだと子供を「信じていること」になるのでしょうか?
それは、大人が結果を作り出そうとはしていないからです。
子供に問題を投げかけ、それを子供たち自身で解決することを促す言葉掛けになっているからです。
大人はそこで「どうしなさい!」とは言っていません。
「○○という必要なことがあります。それを達成できるようにあなたたちが自発的に行動して下さい」という問題提起になっているのです。
(もし、この子供たちが対等の大人だとしたら、先生たちもそのような指示的な関わり方をしなかったはずです。
例えば「そこだと他の人が通れなくなってしまうので、もう少し端によって下さい」などのように、問題提起&提案のようなかたちになったのではないでしょうか。
それは相手の能力を信頼でき、それを尊重して信じているからです。
いきなり指示や命令をしてしまうというのは、相手を下位の存在と考えているか、その能力に欠けていると判断しているからです。)
これを子供と大人の信頼関係に基づいて(ここが重要です、昨日まで管理や支配しかしていなかった人が言葉だけ上のように使っても子供には通じないことでしょう、その場合は信頼関係を作るところからがスタートです)、伝え、待ち、実行してもらいます。
その実行の仕方は、ある程度ばらつきのあることでしょう。
もし、そのばらつきが必要条件を満たしていなかったら、またそこを指摘して子供の行動を待てばいいでしょう。
そうすると最終的に、大人は子供の行動とその結果に対して、「肯定」や「認める」ことができます。
「はい、長い間待たせてしまったけれども、皆さんのおかげで周りの人の迷惑にならずにすみました。ご協力ありがとう」
例えば、こんな風にね。
しかし、多くの人がするのは、直接的に子供の姿をこねくり回すことで、大人の望む「結果」を子供に短絡的に持たせる関わりです。
毎回、最終的に叱ったり、怒ったりになっているとすれば、子供が獲得するのは「叱られないと実行しない」「怒られないとやらない」という習慣です。
「怒られるからやる子」は、もし怒られない状況だったら、例えば誰も見ていないところや、怖い大人が見ていないところではやろうとしない子に育つ可能性はぐっと高まってしまうことでしょう。
「もっと叱りなさい」、「怒りなさい」、「子供をたたいてしつけなさい」という人たちが作り出すのはそういう子です。
子育ては短絡的に「結果を作る」のではなく、「子供を伸ばす」必要があるのです。
さて、ではこれを乳幼児の子供の関わりのシーンで見てみましょう。
子供が食事をしていて、口の周りを汚してしまうなんていうことはよくありますよね。
1歳でもあるし、小学校高学年だって汚したまま気づかないなんてことは普通にあります。
相手が小さい子だとすると、大人はついつい親切心で、子供の口の周りをいきなり拭いてしまったりします。
実は、これは「結果を作り出す」関わりなのです。
「口元をきれいにする」という結果を大人が作り出してしまったのです。
これが例えば0歳や1歳でも前半の子供だったとしたら、それでもいいかもしれません。(本当はその場合でも一声かけるべき ex.「ついているから拭きますよ」)
でも、子供の発達段階が進んで、口の周りを拭くことができる子供が相手だったら、その関わりは実は子供の力を奪うことになっています。
どういうことでしょうか?
もし、子供を伸ばす関わりを目指すのであれば、このとき手拭きなどが用意してある状態で、またはなにか拭くものを渡しながら、「口の周りが汚れていますよ」と伝えることで、それが達成できます。
子供は、それを受けて「自分が口の周りを汚していること」「食べ方によって汚してしまったこと」などに気づくことができ、さらに自分で気に掛け、考え、実際に拭くという行為を経験することができます。
これは相手が1歳の子供であったとしても、その積み重ねはきちんと活かされます。
大人が親切心だとしてもおもむろに口の周りを拭き取ってしまうといった対応だと、場合によっては子供はなにが起こったのかも理解することなく、その経験が過ぎ去ります。
なにが必要かを伝え、子供にどうすべきかを考えさせ、そして実行させる。
それでもうまくいかなかったり、失敗したら、そこにサポートをする。
それでもできなければそこから大人が手を貸すのでも遅くはありません。
いい結果が得られたならば、大人はそこに自然に肯定を送る。
こういったことが、日々の生活習慣の中で行われていれば、それをしないケースと比べて子供の成長にどれほどの違いがでてくるでしょうか。
些細なことであっても、日々の積み重ねは大きな違いをもたらします。
行動の自立は精神の自立をうながし、精神の自立は行動の自立をうながします。
それらは互いに車輪の両輪のように、子供を大きく成長させていきます。
小学生も同じです。
管理と支配がいかに上手にできたとしても、子供を伸ばさなければそれは大人の自己満足に終わりかねません。
子供自身を伸ばす視点を持って関わったら、6年間の積み重ねはどれほど大きいでしょうか。
しかし、日本の子育て観では、どうしても子供の管理と支配になりやすく、大人は「結果」を作り出したくなってしまいます。
以前にも書いていますが、「信じて待つ」。
このことは子供を伸ばす上でとても大切なことです。
そのような対応は、それを大人が身につけるまでは、意識的な配慮がいるけれども、一度身につけてしまえば自然とできるようになることでもありますよ。
自分のしていることに無自覚になってしまうと、ときとして保育士も学校の先生も「もっとも子供を信じない人」になりかねません。
しかし、仕事で長いことしていると自分のしていることには無自覚になりやすいものです。気をつけたいですね。