なにを「アレ?」と感じていたかというと、「僕が親を受容してくれている」と言われる、またはそういう雰囲気を持っていると言われることに対してです。
確かに子育ての改善をするために、子育てする人つまり親そのものを否定せず受け止めることが大切だとは思っています。
僕に子育て相談をされた方や、直接あって悩みを聴いた方なんかにはそれは伝わっているかもしれません。
しかし、文章の中でその意図を持って直接的に書いたつもりは、自分では一度もないのです。
間接的にそういう意味合いになっていることはあるかもしれないのですが、「親を受容することが大切と考えています」というようなことを直接言ったことはないはずなのです。
でも、「そういうメッセージをもらいました」と言ってくれる人が明らかに増えてきたことを僕自身不思議に感じていたのです。
もし、それが本当にそうならば、僕のまことにつたない文章の行間にあるものを感じ取って下さる方がいるということになるのでは・・・・・・半信半疑ながらそんな感覚を持っていました。
今度のプラユキ師との講演の企画をいただいたときにそれがはっきりとしました。
この講演の副題が「うけとめちゃえばいいんだよ」となっています。
プラユキ師はお坊さんですから、それは必ずしも子供に対してに限定されていません。
むしろ、プラユキ師が指し示すところの「受容」は大人に対して向けられています。
僕は、さんざん「受容」という言葉を使っていますが、主に明言されているのは子供に対しての関わりにおいてです。
僕の最初の著書である『保育士おとーちゃんの「叱らなくていい子育て」』で述べているところの「受容」はほぼ徹頭徹尾、子供への関わり上での「受容」です。
二冊目の『保育士おとーちゃんの「心がラクになる子育て」』では、後半部分「親自身の肯定」に比重を置いていますから、「子供の受容。親の受容」という内容にとれなくはありません。しかし、直接的に親に対して「受容」とは述べていなかったはずです。
「プラユキ師のお話に共通する部分がある」とこの企画があったときに言われたことで、まったく変な話ですがあらためて自分が伝えていることを認識させられたのでした。
(ご著書の『苦しまなくて、いいんだよ。』の「受容」についてのくだりでは、僕もびっくりするほど同じ文脈が書かれておりました)
実は僕は子育てで子供に関わってしまう大人の行動の背景にあるものの存在について関心を持っています。
例えば少なくない人が人が子供に怒らずにはいられない、イライラせずにはいられない、叩くことを我慢するのがしんどい、といった気持ちを感じています。
それらには理由があるのです。
しかも、自分の責任ではない理由です。
もし、自分がそうであってもその理由に気づくことで、それを改善できたり、前向きに対処したりできるようになるかもしれない、そんな思いを持っています。
今回の講演でそこまでまだつまびらかにお伝えはできませんが、子育てする大人の気持ちになにかプラスになるものをお話したいと考えております。