保育は二階建ての家―目には見えない「生活の力」―後編 - 2017.03.27 Mon
ようやく後編がかけました。
保育・子育てのエッセンスが詰まっていると思います。
この前コメントでご質問いただいた早期教育への疑問に対してのある種のヒントも隠れております。
| 2017-03-27 | 雑誌・メディア | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
「道徳」が危険信号になっている - 2017.03.26 Sun
「教科化」とはどういうことかというと、その習得度によって評価をしたり・点数をつける科目になることです。
それにともなって道徳の教科書も今度から国の検定を受ける必要がでてきました。
そのニュースがこちら↓
「道徳」教科書の初検定 8社すべてが一部修正し合格
はっきり言って、これにより日本の教育はまずい方向へ行くことでしょう。
そしてそれは教育だけに留まりません。
この問題は単に学校の教科の一部が変更になったというだけではなく、人々の「内面の自由」に国が介入することを制度化したことに他ならないからです。
極端な言い方をすれば、「はい、みなさん。これが正しい価値観ですよ。覚えましたか、テストに出ますからね。それ以外の答えを書いたら間違いですよ!」
というようなことになりかねません。
テスト云々は誇張にしても、実際にやっていることの本質はそれと変わりなくなります。
例えば、今後展開されるこの「道徳」の中で重視されるもののひとつが、「伝統的家族観」や「家族愛」なるものです。
「家族を大事にしましょう」「家族は互いに助け合いましょう」
こういったことを字面だけで読めばそれはいかにも「正論」に聞こえます。
しかし、これを価値観として押しつけていくのはとてもとても怖いことになります。
僕、ひとつ予言をします。たぶん、これは残念なことに当たるでしょう。
近い将来、5年遅くとも10年以内に、「学校の教師が、ひとり親家庭の子を、ひとり親家庭であることを理由に差別したり、いじめに荷担する」といった事件を目にすることになるでしょう。
おそらく複数件こういったケースを目にするようになってしまいます。
ある種の理想像をして、「これが正しい価値観ですよ」と言ったり、「これが正しい家族のあり方ですよ」と考えることは、結果的に「排除の論理」を生むことになります。
そうでない状態を「否定する」心理を人に持たせてしまうことを防げません。
正しいものをひとつに決めてしまうことを僕は「統一的価値観」と呼んでいますが、それを持ってしまうと、それ以外の状態を人は許容できなくなってしまう心のクセを人間は持っているものです。
学校の先生が、「そういった家族観が正しいのだ」と考えるようになると、そうでない状態の子供を許容できなくなります。
すると、そうでない家庭の子に対して否定的な見方や対応をしていくことになります。それはその内、無自覚な行動になり差別的な対応を生むことにつながりかねません。
また逆に、それに適合する家庭の子供をえこひいきするといったことも起こりうるかもしれません。
なぜそんなことが言えるかというと、これまでさんざんそういうことが現にあったからです。
しかし、そういった統一的な価値観でものを判断するのではなく、当事者の立場になった考え方などが普及することにより、だんだんとそのような不適切な対応を克服してきたという経緯があります。
その間、何十年とかかって現場の心ある先生やそれを指導する立場の人たちの努力によって、本当に少しずつ改善されてきたのです。
そして、そのように統一的な価値観によって、それに合わない子を否定してしまうような教員が居ても、それをしてはよくないことという空気を作ってなんとか押さえられるようにしてきました。
しかし、今後、国のお墨付きを得て「これが正しいのだ!」ということを教えられるようになると、その空気は吹き飛んで、差別やえこひいきをする教員がその主張を強めていくことでしょう。
そもそも現代の「道徳」のあり方として、「これが正しい考え方です」という押しつけがそもそも間違った方向性です。
これからの「道徳」はとりもなおさず、「多様性の許容」である時代になっています。
「これが正しいものです」をしていくと、それはマジョリティにのみ都合のよいものとなっていきます。
「お父さんお母さんそしておじいちゃんおばあちゃんと一緒に暮らしているのが正しい家族のあり方です」なんてことを教えれば、それを教わった子供にとって「排除の論理」を生み出しかねません。
例えば母子家庭や児童養護施設の子供は、それを理由にいじめられたりするでしょう。
そのようになってしまえば、「道徳」がむしろ「いじめ」を助長するということです。
なんとも本末転倒ですが、それが現実のものとなるでしょう。
昨今ではよくLGBT(性的少数者)のことが話題になりますが、こういった人たちもその道徳が説くところの「正しい家族のあり方」の前には排除されることとなってしまうでしょう。
発達障がいなどがあって、他の子と同じように行動できない子も排除されることになるでしょう。
上のリンク先の記事の中でも
>小学1年生のある教科書では、申請段階では、物語に友達の家のパン屋を登場させていましたが、「国や郷土を愛する態度」などを学ぶという観点で不適切だと意見がつけられ、教科書会社は「パン屋」を「和菓子屋」に修正しました。
というところがありますが、これもよくよく考えると少しおかしいのです。
このごろ教育の現場などで「愛国心」を取りざたされることをよく見かけますが、
そもそも「道徳」と「日本を愛する心」はイコールでしょうか?
現在の小学校には、日本以外にルーツを持つ子供もたくさん通っています。
僕が直接知っているだけでも、ロシア、ブラジル、フィリピン、中国、韓国、台湾、メキシコ、アメリカ、イギリスなど、それらの国の子だったり、両親のどちらかがそのような外国の人というケースの子供も普通に小学校に通っています。
「日本って素晴らしい、日本人であることに誇りを持ちなさい」的なことを学校で子供に教えはじめたら、それ自体は悪いないようでなかったとしても、結果として「排除の論理」を生み外国にルーツを持つ子供たちはいじめられたり否定されかねません。
いまですら、外国の血が流れている子供の多くがいじめや嫌がらせにあった経験を持っているのに、学校がそれを助長するようなことになるでしょう。
国は一方で「グローバル化」を進めているのだから、道徳もそれにあった形で「多様性の許容」でなければならないはずなのに、矛盾した状態になっています。
本来の、人としての基本的な「道徳」には、「どのどこの国」は関係ないですよね。
どの国の人であれ、人としての道徳は共通するものがあり、それらこそ普遍的な道徳と考えられるものです。
ましてや、「”パン屋”をわざわざ”和菓子屋”に変える」なんていうのは、あまりに稚拙すぎるこだわりで恣意的な介入であることを隠す気もないかのようです。
でも、「道徳」=「日本を愛する心」にしたい人が、この道徳をめぐるところではロビー活動などを今に始まったことではなく何十年も前から暗躍していて、その人たちの主張がこうして現実のものとなってきてしまっています。
このまえの教育勅語の問題もそうですが、「道徳」=「日本を愛する心」にしたいのは、戦前の道徳の教科であった「修身」に通じる思想なのですね。
今、森友学園問題を契機として、ようやくそのことが一般の人にも見え隠れしはじめています。
しかし、マスメディアはこの問題を理解しているはずなのにきちんと伝えようとしていません。
それも不安をかき立てます。
この問題に興味がありましたらどうぞ↓
『特集ワイド「家庭教育支援法」成立目指す自民 「伝統的家族」なる幻想 家族の絆弱まり、家庭の教育力低下--!?』(毎日新聞)
『議事録から臭い立つ、「道徳」の教科化を目論む文科省のホンネ』(武田砂鉄)
『幼稚園は「能力」を育てる場所なのか 2018年度改訂「幼稚園教育要領」への疑問』(Newsweek ニュースの延長戦 武田砂鉄)
『道徳教科化 皇民化教育の再来を危ぶむ』(琉球新報)
これは何かの冗談ですか? 小学校「道徳教育」の驚きの実態(現代ビジネス 木村草太)
『道徳教育の充実に関する懇談会』(文部科学省HP)
(↑委員の中には今話題の日本会議系の人もしっかり入っています)
今後の道徳教育の改善・充実方策について(報告) (↑の報告書)
| 2017-03-26 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 7 | トラックバック : 0 |
必要な行動の「カード」を提示すること - 2017.03.25 Sat
のお話からもう少し考えてみたいと思います。
「ママ友と電車で出かけたら、他のお母さんたちがみんな電車に乗ったとたん自分の子供にお菓子をあげだしてびっくりしました」というお話を聴きました。
僕もこういった関わりはよく見ます。
この背景にあるのも「子供の行動・感情は大人が作るものという意識」です。
・電車の中で静かにさせる
・ちゃんと座っているようにする
など、を達成させるために、お菓子で子供のコントロールをしようとしてしまおうと関わっているのだと思います。
「子供の行動・感情は大人が作るものという意識」に自分で気づいていなければ、こういった「子供の行動のコントロール」は無意識に行われてしまいます。
これを「当たり前のこと」としていくと、子育ては知らず知らず難しいものになっていく可能性を秘めています。
お菓子で子供を「正の状態」にすることは、ともするとお菓子がなければ「正の状態」にならない子供に育てていることになりかねないからです。
・お菓子が使えない場面
・通用しない年齢
などになれば、別の手段で子供をコントロールする必要がでてきてしまいます。
人によっては、スマホやゲーム機、はたまた脅しや怒る叱る、叩くなどが導き出されかねないでしょう。
「子供の行動・感情は大人が作るものという意識」が、そもそも子育ての方向性としては、あまり適切ではないのです。
子供はどんなに小さくとも一人の人格です。
コントロールするのではなく、必要なことを嘘やごまかしでなく大人として誠実に伝えることが大事です。
このケースで言えば、最初に「電車には他のお客さんも乗っていますから騒がずに座っていて下さい」など「必要なことのカード」を子供に提示して、子供自身に考え行動させる必要があったのです。
まさに、このことに子供を依存ではなく自立の方に向けて育てていく秘訣が隠れています。
よしんばどうしてもそれができない状況になってしまったら、それから「じゃあお菓子でも食べて静かに座っていて下さい」なり、「他のお客さんの迷惑です」と叱るなりしても遅くはありません。
必要なカードを子供に提示することもなくいきなりコントロールの関わり方を大人がしてしまうのは、実は子供の力を見くびっているということです。
子供の「管理・コントロール」で子育てを組み立てていけば、それでもはみ出してしまう子供に必要になってしまう次の子育てのステップは「支配」になっていきます。
日本の子育てがどんどん迷走して行ってしまう所以です。
| 2017-03-25 | 心の育て方 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
「感情」は学んで身につけている - 2017.03.24 Fri
しかし、子供は感情を確かに学んで身につけています。
では、どういうときに学んでいるのでしょうか?
赤ちゃんをあやしてにっこり笑う姿を見て、「楽しいなぁ、かわいいなぁ」と感じて自然にほほえむ、すると赤ちゃんも釣られてまた笑う。
そのとき赤ちゃんはその互いに通じ合う心地よい心の動きを「いいもの」だと無意識に感じて身につけます。
他者と、他者のアプローチと、自身の心の動き、これらが一体となって「人と関わることの心地よさ」につながっていきます。
また例えば、
子供をくすぐって遊びます。
大人から関わってもらい、そこで互いに「楽しい」という感情を共感します。そのとき心が心地よく動きくことにより、心が動く行為を「いいもの」「楽しいもの」と理解していきます。
そうやって子供は、「楽しい、うれしい、おもしろい」などの心の動きを経験し、繰り返す中でその感覚を育てていきます。
それが「感情」となっていきます。
これは今例に挙げたようなことだけでなく、ほぼすべての子育てのシーンで行われています。
ご飯を食べたとき、お弁当を作ってもらったとき、なにかをしてもらったとき、遊びの相手をしてもらったとき、誕生日を祝ってもらったとき・・・・・・などなど。
こういった、「心地よい心の動き」を経験しないまま育ってきた子供はどうなっているでしょうか。
そのような情緒的な関わりを親子や家庭でしてもらうことがない、もしくはとても少ないまま育ってきた子も実際におります。
そのような生育歴をおくると、どのように感情を動かしたらいいのかがわからなくなってしまいます。
親子で楽しい時間を共有したりして、「楽しい」という感情とそこへの至り方を経験している子は、これが他の人、例えば友達であるとか、保育士であるとかにも同じようなアプローチをとることで、「楽しい」ということを再現することができます。
しかし、その経験がないとそれを再現することはできません。
他の子がするのを見て見よう見まねで同じようなことをして、だんだんそれを獲得してしまうといった子もなかにはいるでしょう。
一方で、そういった子がはまりやすいのは、「意地悪」という行為です。
例えば、他の子が大事にしているものを取り上げて、その子が困ったり悲しんだり泣いたりする姿を見るとそこで心が動きます。自分のアクションによって他者を動かすというリアクションがおもしろく感じるのですね。
その子は、他に心を動かす道筋を持っていないので、その行為を繰り返すこととなります。
感情を動かすこと自体は心地よいことだからです。
この状態にある子に、「意地悪はいけないことだ」という「道徳」は通用しません。
その子が心を動かす手段が現状それしか持ち得ないのであれば、意地悪を押さえつけること(一時的に出させないこと)はできても根本的な解決にはならないからです。
このような子を「断罪」することで落着としてしまう人を僕は専門性を持った人だとは思いません。
この子の問題は、理解し援助してもらうことを必要としています。
そのように、ほとんど誰も意識することはありませんが、「感情」は経験することで学び、育てていくものとしてあるのです。
このことに難しいところがあるのは、それが理屈ではないということです。
多くの人はそれを意識することもなく、子供と関わる中で自然に獲得させてしまうことができます。
ただ、現代では子供との関わり方をほとんどまったく知らない中で我が子の子育てに直面する人も増えており、ある程度意識的に「そういうことが必要ですよ」と伝えなければならないことも大きくなっています。
僕が、「受容が大切ですよ」「くすぐって遊んでみて下さい」などと言うのはその側面もあります。
しかし、本当にこういった「情緒的な子供との関わり」(心地よく心が動く子供との関わりのこと)がまったくできない人もおります。
例えば、
・自身が親からそういったことをしてもらったことのない人
・そういった情緒的な関わりを良くないものと認識している人
・うつや育児ノイローゼなどになっている状況で子育てしている人
などなど。
こういった人が子育てをしている状況では、誰かがその問題に気づいて教えてあげたり、その人に成り代わって子供と意図的に情緒的な関わりをしてあげることが必要になってきます。
もっと深刻なものになると、心地よく心が動くよい関わりがないだけでなく、その逆の関わり、責められたり、否定されたり、疎外されたり、自尊心を打ち砕く関わりなどをたくさんされてきてしまった子もおります。
悪意があってそれをしていたら精神的な虐待と言えるところですが、そのような意識なくそういった子供への関わりを積み重ねている人もおります。
そういった子供の出す姿はとても大変なものとなります。
僕が保育に携わっていてとても歯痒く感じるのは、こういった子供のケアが日本の一般的な子育て観ではできないことです。
例えば、こういった子が3歳なり4歳なりで保育園や幼稚園に入ってきたとします。
子供の姿に深い洞察と理解をもった人でなければ、多くの場合このような子に積み重ねられるアプローチは「否定」の方向でのアプローチになります。
注意したり、叱ったり。
子供が不適切な姿を出していると、多くの人が感じるのが「この子は甘やかされている」という認識です。
ですから、厳しさで関わることが必要と見え、否定の関わりばかりを積み重ねてしまいます。
これではその子の問題は解決するどころか悪化していきます。
さらに、大人一般への信頼感を低下させていくことになり、大人を信頼できないものとの認識を持たせてしまうので、その後、よりその子へのアプローチは難しくなります。
結果的に、その子は「大人の言うことを聞かない子」とそこの大人からは見えるようになり、「押さえつけることが必要なのだ」という認識を正当化していってしまいます。
これは悪循環です。
しかし、日本の子育てにおける子供の姿の認識は、この傾向がとても強いです。
意識している人は少ないけれど、子供の「感情」はそのように作られるものです。
かつての世代では、これは誰に教わる必要もなく大人たちは自然と身につけていたようです。
それができない人がいたとしても、親族や家族や隣のおせっかいなおばちゃんなどが、「あんたね~あかちゃんてのはこうしてあやすもんだよ」と実演して教えてくれたり、それでも足りない分は自発的に肩代わりしてくれたりといったことで補完されているといったこともありました。
しかし、現代は社会や人とのつながりの形が変わったので、そういうことは望めない時代になっています。
それ自体は僕は悪いことではないと思います。
それは時代の変化であって、それがよくないから昔に戻せという考えは幻想を追いかけるようなことです。
これからの時代はそれを社会福祉が補っていく時代になっているのだと考えられます。
それが本当に必要な育児支援だと僕は思っています。
先日、6ヶ月の赤ちゃんをあやす機会がありました。
僕が赤ちゃんをあやすと、それを面白がって笑ってくれたり反応してくれる。すると僕も楽しくなってまたそれを繰り返す。
こうやって、大人と子供は心地よく心を動かすキャッチボールをしているわけですね。
僕は、そういうことができない・知らない・わからないという人がいることを知っていますし、理解しています。そういう人がいたらなんとか力になってあげたいとも思っています。
だからこそ、自分がそういった赤ちゃんとの関わりを楽しいと感じられることが、どれほど幸運なことかをあらためて感じるのでした。
| 2017-03-24 | 心の育て方 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
「介入しない」の裏にある保育士の配慮 - 2017.03.23 Thu
(保育の話なのでカテゴリーは「保育の質」のところにしておきます)
その中で保育士が「介入しないこと」にこそ高い専門性があると述べました。
せっかくですからそこをもう少し書いてみます。
「介入しない」のと「子供を見ていない」のは当然ながら違います。
例えば、保育士が保育士同士の私語で盛り上がって子供を見ていないような状態が慢性的になっていたら・・・・・・。それでも「介入しない」には違いありませんが、保育としてみたとき子供の様子はまったく違ってきます。
それだと子供たちは「見守られている」安心感がないので、危険なことの頻度があがったり、子供同士のトラブルなどもより余裕のない形で出てしまったりします。
「見守られている安心感」というのは無形のものなので、目に見えませんがこれの積み重ねはとても大きな影響を与えます。
ですから、子供を見ていないがゆえに介入しないことと、見守られてはいるが介入しないことはまったくといっていいほど違います。
(ただ、これはあくまで保育上でのことです。
家庭での子育てであれば、もっと気をゆるめて考えてもいいかもしれません)
では、「私語は一切禁止!子供にケガや不適切なことがないようにしっかりと見ていなさい!」と保育士が上から命令されているような保育もまた違います。
そのような姿勢では、大人のピリピリとした緊張感があり、笑顔や保育士の心が開示された状態(受容的な姿勢)が失われがちで、子供は心から安心感を持って過ごしたり遊んだりすることができません。
子供をまったく見ていないよりははるかにましではありますが、あまり好ましいこととは言えません。
この「保育士の心が開示された状態」(受容的な姿勢)というのは、保育士をする上でとても重要な適正ではないかと僕は感じています。
これが元々その人の性格やセンスでできてしまう人もいますし、経験を積む内に習得できるようになる人もいます、演技や意識的な努力・職業的な人格(ペルソナ)を使ってそれを打ち出せるという人もいるように思います。
しかし、これができない、不得意という人がいるのもまた現実ではないかとも思います。
それが下手な保育士を責めるわけではありません、僕自身ももともとそのセンスがない人間です。
僕は経験により習得しました。
まあ、難しいことを考えずに「リラックスして保育ができる」くらいにとらえてもいいかと思います。
さて話を戻しましょう。
この「介入しない」というのも、なんでもかんでも「介入してはならない」ということではありません。
臨機応変に、そのとき、その子、その状況を踏まえて判断していくことが大切です。
例えば、噛みつきが慢性的に出ている子や、なんらかの問題を抱えていて他児を傷つけるような行為が普段から出ている子と、トラブルやケンカになっても他児を傷つけるようなことをしないとわかっている子だとしたら、どの程度介入するべきかはおのずと変わってきます。
また、そういった判断も日々、そのときそのときで違います。
普段は他児を傷つけることをしないような子でも、なんらかの事情で疲れていてイライラしていたり、朝登園前にお母さんに激しく怒られて不安定になっているなどといった様子があれば、どこまで介入しないで見ていられるか、どこから介入すればいいか、また相手によっても「ああ、あの子相手だと激しいケンカになりかねないな」などなど、いろいろな要素がありそれらへの判断と対応が要求されます。
また、その子たちを見守っている間も、その子たちだけを見ていればいいのではなく、子供全体への視点を維持しています。
「まだ幼くて公園から出て行ってしまいかねない○○ちゃんはどこにいるな」「他児に手が出てしまう○○ちゃんは、だれとどうやって遊んでいるかな」「滑り台で遊んでいる子たちは安全に遊べているかな」「なんでも拾って食べてしまうくせのある○○ちゃんからは目を離せないな」などなどを同時進行で意識しています。
一見、公園で子供たちと楽しそうに遊んでいるだけに見える保育士も実はその背後でなかなかの職人芸を発揮しているのでした。
しかしまあ、保育士になって2~3年目でそれができてしまう人もいれば、30年やっているのに全然できないなんて人もいて保育って難しいなとも思います。
そのようにそういったさまざまな配慮を勘案して、「介入しない」という専門性が発揮されるわけです。
ですから、前の記事でも誤解のないように(ここは誤解されることがおおいので)括弧付きで書いていますが、「介入してはならない」という意味ではないことをご承知置き下さい。
以上は保育上のお話ですが、別に家庭で我が子の子育てをする分には、そのように厳密に考える必要はまったくありません。
子供の「依存」の問題は、大人の姿勢・考え方から無意識に作られる部分が大きいですので、「できるか、できないか?」よりも、「気づいているか、気づいていないか?」に左右される部分があります。
だから、「依存ってものがあるんだな。このようだとなりやすいらしい、ちょっと心に留めておこう」くらいでも家庭の子育てであればずいぶん軽減されるところがあるのではと思います。
| 2017-03-23 | 子供の人権と保育の質 | Comment : 0 | トラックバック : 0 |
依存を生み出す大人の気持ち vol.3 子供の行動・感情は大人が作るものという意識 - 2017.03.22 Wed
このことは依存のみならず、現代の子育ての多くの面でとても影響を与えていることではないかと感じています。
多くの人が「これが子育てだよね」と考えているその子育ての形が最初からとても過干渉な形で認識しているという現実があります。
今子育てしている人たちの非常に多くが、子育てが過干渉になるようなある種の呪縛とでもいうものにかけられていると僕は感じます。
例えば、排泄の自立にしても、それは「トイレットトレーニングをして大人がおむつを取るもの」と多くの人が認識しているでしょう。
食べ物の好き嫌いにしても、大人が食べなさいとうながしたり、野菜をみじん切りにしてこっそり混ぜ込むなどして慣らして食べられるようにするものと考えています。
「保育園に行きたくない」と子供に言われれば、なんとかなだめたりすかしたりして大人が「行く気にさせる」「行くように説得する」ものと思っています。
「公園から帰りたくない」と言われれば、やはりなだめたり、説得したり、納得するまで待ったり、ごまかしたりをして、大人が子供をその気にするものだと考えています。
洋服がうまく着られなければ、それができるように教えたり、自分でその気になるようにうながしたりしなければ・・・・・・などというように、ありとあらゆることに対して大人が子供の行動や感情に介入することで「正の状態」にしてあげることを子育てだと考えている人が大変多いです。
保育士や学校の先生なども必ずしも例外ではありません。
「○○させる」ことをなんの疑問もなく子供に施していっています。
本当は、子供は心や情緒の安定さえ大人が形作ってあげれば、あとは自然に必要なものを習得していきます。
ですから、上にあげたようなことやその他の子育ての諸々も、必要なものを持たせ過剰な保護や干渉をせずに見守っていれば、あとは勝手に身についてくることにすぎません。
それが本来の子供の成長のメカニズムとして素直な形です。
むしろ、大人が介入や保護を厚くすることで子供の姿を形作ろうとする子育てにはある種の無理がかかってくることでしょう。
しかし、このことを理解してもらって実際の子育てでもしてもらうことはなかなか難しいことです。
なぜなら、先ほど呪縛といったように、子育てする人は最初からこの考え方に縛られており、それ以外のことを実際にするのは簡単ではないからです。
なぜ、そのやり方に縛られてしまっているのでしょうか?
それは、いま子育てする世代の人たちの多くが、自身この方向性の子育てをされてきて、それで育ってきているからです。
自分がされた子育てがその形であれば、それ以外の子育てをやってみることは、これはけっこう難しいことです。
この「子供の行動・感情は大人が作るもの」という大人の気持ちのあり方を現在子育てする人の多くが持っています。
ですから、「依存」という観点から見た場合、その人たちはみんな「依存」になりやすい傾向を”持たされてしまっている”ということになります。
僕はそれを「悪い」とは言いません。
だって、最初から持たされているのだから、いい悪いで言えることではないですよね。
(ただ、前の世代の子育てのツケを払わされていて、今の子育てする人はしんどいなぁと思います)
だから、この記事の趣旨はもし自身がそういう傾向があると感じるのであれば、そこにできる範囲でいいからちょっと意識をしてみて、あまりそこからくる「依存」を強めないように折り合いをつけていくように子育てをおくってもらうことではないかと思っています。
保育士の研修でも、過保護・過干渉にならないようにポイントを伝えながら子供の自主性・主体性を尊重した子育てについてを徹底的に教えても、なかなかそれを頭だけでなく実践面でも理解し実行できるようになるのはとても難しいことです。
それを踏まえながら長年経験を高めていって、ようやくできるかできないかといったところです。
例えばこんなことがあります。
保育園の1歳児クラスです。
外遊びを見ています。
子供が転んで泣いていたとします。
このとき、そこに行って助け起こしたり、心配して声をかけない新人保育士はまずいません。
子供が泣いたり失敗するとついつい心配してしまったりする気持ちや、そのように声をかけるのが大人として優しいこと・親切なことなのだという先入観を多くの人が持っています。
子供の自主性・主体性を本当に理解していてそれを保育実践できる保育士は、こういった場面でやたらと声をかけません。
過剰にならない程度の、その子がそのときに必要なだけの最低限の援助を見極めて、極力介入をしないで見守ります。
その手を出さずに見守ることによって、子供の大人への依存を防ぎ、適切な経験を積ませたり、心の成長を援助していきます。
(子供がもし自分から大人の所にきたときは「ああ、そうだったんだね」「そう、痛かったのね」などと受け止めます。”介入しない”というのは受け止めることがよくないから冷たく突き放しなさいという意味ではありません)
子供の姿に手を出すよりも、手を出さないことの方がずっと難しく保育士としての専門性が要求されることなのです。
これと同じことは何歳のどの場面でも言えることです。
家庭で我が子を育てている親は、もちろん保育士とは違いますからそこまでの多様なケースを習得することも、経験を積んでいくこともできるわけではありませんね。
ですから、なにもこのようなことがバッチリできる必要はありません。
とりあえず、家庭では過剰な保護や過干渉になりすぎないように少し意識してもらって、あとは保育園や幼稚園、学校、習い事などといった外の社会での経験によって、依存と自立のバランスをとっていくようにすればいいのではないかと思います。
関連記事:「子供の感情は子供のもの」 vol.1 ~2
http://hoikushipapa.blog112.fc2.com/blog-entry-890.html
http://hoikushipapa.blog112.fc2.com/blog-entry-891.html
| 2017-03-22 | 心の育て方 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
教育勅語問題から見えてくるあるレトリックについて - 2017.03.18 Sat
問題になっているだけでなく、復活させたくてしようのない人たちが元気になっています。
ついに松野博一文部科学大臣までが
”憲法や教育基本法に反しないような配慮があれば「教材として用いることは問題としない」との見解を示した”
とのことです。
1948年にすでに他ならぬ国会で教育勅語は「排除および失効確認」が決議されているのです。
国会議員が国会の議決を無視するってどうなのという問題はさておいて、そもそもすでに「公的に使わない」ということが決まっていることなのですから、いまさら議論をする余地もないことです。
先般、稲田防衛大臣は「道徳的に見るべき部分はある、だからごにょごにょ」的なことを言って人を丸め込もうとしていました。同じ文脈でこの問題を提起する人たちが少なくありません。
教育勅語についてはすでに失効が決まっていることなので、その再利用を議論すること自体に意味はありませんし、その問題点についてもすでに多くの人が語られていることなので僕が言うことはなにもありません。
ただ、ここに気づいておくと、弱者を攻撃したり国民を丸め込んで自分たちの利益にしようという人たちにだまされにくくなるというポイントがひとつ隠れていますので、それについてだけ書いておこうと思います。
この頃、こういった論法の意見をたくさん目にするようになっています。
いわく、
「障がい者は国の税金で生かされているのだから、もっと納税者に感謝しろ」
「生活保護をもらうことをもっと恥じるべき。昔の日本人は恥ということを知っていた」
「大学は国の助成金をもらっているのだから、学生に国歌を歌うことを義務づけろ」
「人工透析が必要になった人間は自堕落な生活をしたからそうなった。健康保険など払う必要がない」
「保育園は国の助成金でできているのだから、入れたことに感謝しろ文句を言うな」
あと原発事故避難者へのいじめにも同じ文脈が見えていましたね。
「お前たちは賠償金をや助成金をもらっているんだろ!」
などなど。
これらの論法には、なんとなく「そのとおりだ」と同調させるものがあり、うなずけるものがあるように聞こえてしまいます。特にそれを聞く人の側に、それらとはまったく関係ないことであってもなんらかの不満や不公平感、怒りなどを抱えていればなおさらです。
実はこの論法は現代においては、そこには聞く人をだまくらかそう、もしくは扇動しようという作為が隠れています。
今回、教育勅語がクローズアップされたことで、逆にそのことが顕著にわかりやすくなりました。
いま上に上げたようなことは、ともすると教育勅語が実効性を持っていた時代においては至極正当な言説となり得ます。
そのポイントは、「国」と「国民」の位置関係の定義づけにあります。
明治憲法下=教育勅語の精神の元においては、「国」があって「国民」があります。
つまり、「国民」は「国」のために存在しているわけです。
「国」が主で「国民」が「従」ということです。
現代はもはやそうではありません。
それが真逆になっています。
教育勅語は道徳的な部分が問題なのではなく、この国と国民のあり方を現代からすると逆転した状態で固定化する概念になりうるところが問題なのです。
現在は、「国民」があって「国」があるということですね。
「国民」が「主」で「国」が従ということです。
国民は国に奉仕する存在ではなく、国が国民に奉仕するというあり方に変わったのです。
「奉仕する」という語にはやや違和感がありますから、「国民の幸福のために国がある」と言い換えてもいいかと思います。
このようなことを言うと、「人権意識ばかりを肥大化させた甘っちょろい人間の世迷い言」のように批判する人がいるかもしれませんが、そうではありません。
誰もが知っている文章にそれが明文化されています。
それは日本国憲法です。
「主権在民」ときちんと明記されています。
国の「主権」を持っているのは、国家元首でもなく、議会でもなく、「国民ひとりひとり」ということですね。議会などはそれを代行しているにすぎません。
あくまで、国民が主なのです。
これが戦後以来現在の日本という国のシステムのあり方なのです。
これが「主権在民」ということであり、そしてそれが民主主義というものです。
いまの与党の中にはこの「主権在民」や「基本的人権」まで「なくせ!」と言う人がいるには驚きを隠せません。
もし、そうなったらそれはすでに民主主義国ではないよね。
それでも民主主義といっている国はいまのところ「北朝鮮民主主義人民共和国」だけだと思います。
さて、このことを理解していると、上であったような人の頭を押さえつけたがる人の主張に恐れ入る必要がなくなります。
「お前たちには税金から金を出してやっているんだ。もっと小さくなって生きろよ」と言ってくる人がいたら、「あなたはなにを言っているんだ、それであたりまえじゃないか。私たちこそが国の主権者だ」と堂々と言っていいわけです。
しかし残念ながらこのように補助金や助成金などを盾にとって、また、それに同調する世論をバックに様々なところで自由を削り取る動きがすでに出てきてしまっています。
教育や福祉にもそれは顕著です。
それらは国民の幸せや豊かさに直結することでしょう。
この論法には「おかしい」と気づけることが大切ではないかと僕は感じます。
ここ最近文科大臣、副大臣になっている人たちはあわよくば本気で今の子供たちに教育勅語を刷り込ませたいと思っている人たちばかりなので、下手をすると日本全国が森友学園化しかねないかもしれません。
僕は基本的に政治には興味のない人間なのですが、直接子供たちに害が及ぶとなれば座視することもできませんね。
| 2017-03-18 | その他 | Comment : 3 | トラックバック : 0 |
依存を生み出す大人の気持ち vol.2 - 2017.03.18 Sat
まず、語の定義として「過保護」とは「行きすぎた保護」と僕はとらえています。
あまり使っているシーンは多くないですが、それに対して「行きすぎではない保護」のことをさす場合は、「適度な保護」「適切な保護」と僕は使っています。
「何事も過ぎたるは及ばざるがごとし」というのは孔子の言葉ですが、やり過ぎても物事はうまくいかないということは、これは子育てに限らないことでしょう。
まったくの余談ですが、僕はこの言葉を見るといつもクルトンを思い浮かべます。
高校生のときレストランでウエイターのバイトをしていて、自分が好きなものだからついポタージュスープの上にクルトンをやや多めに載せていたら、シェフから「お前、多ければいいってもんじゃないんだぞ!」といわれたことを思い出すからです。
と、まあそういうわけで、何事もやり過ぎなのはうまくいないもので、子育てでは特にバランスが大切ですので、「過保護」に「過」という接頭語がついているのは、通常あまり適切でないことを意味すると考えられるでしょう。
では、なぜ佐々木正美先生が「過保護くらいでちょうどいい」といった表現をしているかというと、これはこのとき俎上に載せている対象、想定している親の姿によっているから、ではないかと僕は思います。
佐々木先生は世代的に、いまよりも一世代もしくは二世代まえの子育てする人たちを対象として子育てのお話をしていると考えられます。
その状況の親の傾向を考えると、「過保護くらいでちょうどいい」という言葉でバランスを取る必要のある人が多かったのではないでしょうか。
例えば、子供を「甘やかしてはならない」とばかりに厳しくするだけで子供が萎縮してしまうような子育てをする人や、叩いたりすることで子供をなんとか正しい姿にしようとしているなどなど、そういった人を念頭に置きつつ語るとすると、「過保護くらいでいいんじゃないですか」という言葉が出てきたとしても不思議ではありません。
ここも前回のポイントであった、「大人の心持ち」というところがあるわけですね。
現在だって、厳しい一方で子育てが難しくなってしまうような人には僕もそれを和らげる方向で「甘えさせていいんですよ」とか伝えます。
逆に、依存を強めたがために子育てを難しくしてしまう人に相談をされた場合は、「そういうときは自分の感情を出してきっぱり言うくらいでいいんですよ」といったことをお伝えします。
以前にも書いていますが、そのように子育ては「これが正解」ということがあるわけではなく、それはいつでも相対的であったり機会的に、その人その人そのときそのときで違う答えが導き出されてくるわけですね。
さて、ではこの一連のテーマである「依存」を考えたとき、過保護はまずたいてい依存を助長する方向に作用するでしょう。
また、佐々木先生の頃は依存の問題よりも、強い関わりの弊害が多かった状況であったのに対して、現在は依存が問題となってしまう比率が多くなっていると言えます。
ですから、子供に依存を強めるタイプの子育てになってしまう人に対してであれば、「過保護にならないように、無理しない範囲でいいから気をつけるといいですよ」と伝える必要がでてきますね。
次に「どういう状態が依存でしょうか?」という質問もありました。
実はこれを説明するのはなかなか難しいです。
というのも、そもそも子供はみんな大人に依存しているからです。
依存していて普通のことです。
例えば、生まれたばかりの赤ちゃんを考えてみて下さい。
生活、もっと言うと生存のほとんどを大人に頼っています。
大人に「依存」していますよね。
ですがこのことを問題視する人はいないと思います。
だって、それで当たり前の状態だものね。
また例えば1歳の子が遊んでいて転んでしまったとします。
子供にはいろいろな性格があるから、そんなのまるでなかったかのように気にも留めずまた走って言ってしまう子もいれば、誰かが助け起こしてなだめてくれなければてこでも動かないといったタイプの子もいます。
なぜそうなるかというと、まだ感情のコントロールをする心の発達が未熟な段階にいるからです。
その転んで痛かった気持ちや、失敗してしまったという気持ちなどを、自分でコントロールして安定させることがその子にはまだ難しいわけです。だから大人にヨシヨシとしてもらうことで、心のコントロールを手伝ってもらってようやく必要なことができるようになります。
これは依存しているということですが、1歳くらいではまだその心の成長がそれを十分にできるほど成長しているわけでもないので、その依存はあったとしてもおかしなことではありません。
でも、例えば同じことを10歳の子がしたとします。転んでも誰かが起こしてくれなければ納得しないという状態ですね。
それはみなさんもおわかりのように、10歳の発達段階としては幼すぎますよね。
ですから、この状況ではそれは「よくない依存」になっています。
では、それが5歳だったら?
5歳でもその状況だったら、それはちょっと幼いよね。
でも、個々の状況によっても、それがよいかよくないかは変わってくることなので、年齢だけですべてそうとも言えません。例えば発達に特徴を持っていてそういったことの感情のコントロールがまだうまくできない子がいたとしても不思議ではありません。その場合はその依存は「あって当然の依存」ということになります。
そんなように「依存」とは相対的で、「これだから悪い」とはっきり取り出せるようなものではないのです。
なので、こういったことを頭にインプットだけとりあえずしてもらって、我が子の子育ての中で意識しておいてもらいたいと思います。
◆さらに「依存」の見極めを難しいものにしているのが、次のことです。
例で話します。
ご飯を「たべさせてー」と大人に食べさせてもらいたがる子がいたとします。
この「食べさせて欲しい」という要求がいったいどこから来ているものなのでしょうか?
①単に甘えたい、その大人と関わりたいという気持ち
②疲れているためにぐずっている
③受容を欲していてそのための要求
④これまでの関わりゆえに依存が大きくなっていて、自分で食べる意欲自体が育っていない
①~④のどれかかもしれないし、その全部が組み合わさっているのかもしれません。はたまた別の理由かもしれませんね。
我が子のそういった姿を見て、「あ~これは依存がつよくなっているわ。気をつけなくちゃ」と的確にわかる人はどうでしょう?
もしグラフに描くとしたら、たぶん山形のグラフに分布するでしょうね。
両端に少数のそういうことが敏感にわかる人とわからない人がいて、中央(どちらでもない人)によるほど多くの人数になるというグラフに。
そして、難しいのは次の点です。
そもそもそれがわかる人ならば依存になりにくいですよね。
子供の依存を強めてしまって子育てを難しくしてしまうケースの人は、その子供が依存になっていることに気づきにくい、もしくは気づいていてもそれに対処することが難しい人であるということです。
ながなが書いてしまいましたが、なのでなにをもって「依存」かを理解できるようにするということはとても難しいです。
事例にをあげるようなことや、そこから類推できることで、自分は依存になっているかなとかなりやすいかなと思い当たるところがあったら気をつけるということでどうでしょうか?
このシリーズの最初に、「とりあえずお手伝いさせていきましょう。まだその年齢でなければゆくゆくはお手伝いをさせることを念頭に置いておきましょう」とだけをあげたのはそういう理由からです。
もし、そのあたりをわかりやすくまとめている育児の本などどなたかご存じでしたら教えて下さい。
僕もそれを読んで参考にしたいと思います。
なかなか依存に触れている本自体あまりないんだよね・・・・・・。
ただ、自分が「依存を生みやすい大人」なのかどうかの判断基準になることがあるにはあります。
コメントでもありましたが、それは自分自身が「過保護・過干渉」で育てられたことに思い当たる場合です。
ここは前回書き切れなかった、
「◆子供の行動・感情は大人が作るものという意識」にも密接な関係があります。
これについてはまとまって書く時間がとれたときに続きを書きますね。
ちょっとこのところ忙しくまとめるのが難しいものを書く時間がなかなかとれなくて・・・・・・。
| 2017-03-18 | 心の育て方 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
依存を生み出す大人の気持ち - 2017.03.12 Sun
前回のところで、「お手伝いしたらお小遣いをあげるのはよくないのでしょうか?」といった質問がありましたがこれなどもそれで、その答えは「人による」というのが実際ではないかと思います。
子供自身の意欲(内的なモチベーション)を作り出せない状況で、その子に対してお駄賃で釣ってやらせる(外的モチベーション)だけになってしまえば、それはそれだけの意味しか持たないでしょうけれども、すでに子供に内的なモチベーションを持たせることができているのならば、それはちょっとしたチャームとしてのものであってさほど気にすることもないケースにもなりえるでしょう。
そのようにネックになるのは、大人のそもそもの「気持ちのあり方」とそこから導き出される子供への関わりにあるのだと考えられます。
子供に依存を強めてしまうか、そうでないかは、これはもう人によりけりではっきりわかれます。
そもそも依存させずに育てられる人にとっては、特別に意識することもなくそれができてしまうでしょうし、依存させてしまう人にとっては意識して関わり方に気をつけてもなかなか変えられないということがあるようです。
例えばこんなことがあります。仮定のお話です。
自身がとても過保護・過干渉な子育てをしているAさんという人がいたとします。
このAさんの子供は、過保護・過干渉の積み重ねの結果とても依存が強くなっており、Aさんや周りの大人から見てもその子は難しい子となっています。
もうひとり、さばさばあっけらかんとした性格で子供に依存を強めることなく無難に子育てができているBさんという人がいます。
AさんはBさんの子供への関わり方をしばしば間近で見ることがあるのだけど、AさんからするとBさんの子育てはまるで「放任」しているかのように見えます。また、子供が泣いたりしているときの対応もなんだか子供を大事にしていないような印象を受けてしまいます。
と、こんなことがあります。
実際の所は、Bさんは放任やネグレクトをしているわけではありません。
ただ、Aさんの感覚からするとそのように見えてしまうということです。
どちらの子育てがより適切かといえば、それは実際の子供の姿に表れているわけですね。
Aさんの子は他児とのトラブルが多かったり、大人に対してわがままやゴネが多かったり、大人の話を聞こうとしなかったりかわいげのない態度をしきりに取ることに対して、Bさんの子は情緒的にも安定していて、他児のモノを取ったり意地悪をすることもなく、子供らしいかわいさを自然に出すことができています。
(念のために言っておきますが、誰かの子育てを責めているわけではありませんよ。そういった状況を改善するためのお話をしているのであって、僕は誰も責めていません。
しかしながらこういう例を出すと、感情的に「自分が責められている」と取る方がおりますので一応お断りしておきます。僕はそういう状況をよくしたり、そのようにならない方法をここでお伝えしているわけです。このAさんは架空の人ですが、このAさんの子育ても責めているわけではなく、そのようになってしまう理由も理解しております。)
この事例からわかることは、Aさんが子供に依存傾向を強めてしまうのは、Aさん自身の感覚に起因しているものがあることです。
だからこの問題は簡単ではないのですね。
このAさんが育児書などで「子供にこういう関わり方をするといいですよ」というのを読んでそれを実践したとします。とりあえず上辺の行動を取り入れてみるということですね。
それをしてなにがしかの好転のきっかけになる場合も中にはもちろんあるかと思いますが、上辺の行動だけ変えてもその根っこにある大人の意識感情の部分はかわらないので、さほど実際的な効果がないということも少なくありません。
そこでこのAさんが本当に取り組むべき所はどこかというと、自身の感情や意識の部分であるということになります。
依存の問題の背景にはこのような大人自身の心持ちの部分が大きいわけです。
そこで少しでも参考になればと、どういった意識や感情が子供に依存をもたらしやすいかを述べることで、なにがしかの子育ての助けになればと思い、以下にそれを記します。
Bさんのような人はこれを読む必要もありません。感覚的にそれが自然とできてしまうからです。しかし、現代はある理由からAさんタイプの人が増えていると言えます。
◆「この子はどうせできないだろう」「できないのではないか?」という意識
・「子供」全般の力を低いものとみなす感覚
例:「小さいんだからできないに決まっているわよねぇ~」
・我が子のウィークポイントを心配するがためにそのように思う感覚
例:「うちの子は引っ込み思案だから、それは無理じゃないだろうか」
◆「かわいそう」と子供をみる意識
例:「保育園に行かせてかわいそう」
→それにより依存が助長されかえってゴネなどが多くなることに
例:「まだ公園で遊びたがっているのにここで家に連れ帰るのはかわいそう」
→子供はその大人の気持ちを敏感に感じ取りよりゴネる心境に
◆子供の行動・感情は大人が作るものという意識
↑これを文章で説明するのはなかなか難しいので次回に続く。
| 2017-03-12 | 心の育て方 | Comment : 6 | トラックバック : 0 |
子供の依存を強めないためにできること - 2017.03.05 Sun
これはその人その人の感覚の問題が関わってくるからね。
それでもこれは現代の子育てが難しくなってしまう大きな要因のひとつになっていて、なんとか伝えたいとおもうところです。
根本的に解決できるとは限らないし人によりけりな所もあるけれど、難しい話抜きで具体的なところからこれをするようにしていけばある程度防げるかなということがありますので今日はそれをお伝えしたいと思います。
それはなにかというと「お手伝い」です。
要点から述べるとこういうことになります。
●「子供にお手伝いをさせるようにしましょう」
●「まだお手伝いが難しい年齢の子供の子育てをしている人も、将来的にはお手伝いをすることを目指していきましょう」
「子供はお客様ではなくて家族という共同体の一員なんですよ」というお話を講演などではすることがあります。ブログの中でも似たようなことは書いているかな。
子供は「お客様」でも「私が作り上げなければならない繊細な芸術作品」でもありません。
「共同体の一員」であり、「一人の人間(人格)」ですから、できることや必要なことはやってもらっていいのですね。
ニュアンスの問題だからちょっとわかりにくいかもしれませんが、「やらせる」わけでも「やってもらう」わけでもないところがポイントかもしれません。
子供に強い関わりを好んでしまう人は、「やらせなければ」と支配や管理としてお手伝いをさせていく人がいるかもしれません。
逆に、子供に弱い関わりを好んでしまう人は、手伝いを要求することを申し訳なく思ったり、お願いやおだてをして「やっていただく」という気持ちで手伝いを求めてしまうかもしれません。
前者だと自主性や積極性を損なって結局子供は自分で好んでやろうとはしなくなるし、後者だと結局のところ依存から抜けられません。そしてどちらのケースも手伝いに満足感や達成感を感じることもなくなっていきます。
ただ「必要だからやってもらう」くらいのフラットな気持ちで求めていっていいと思います。
いやがることを無理矢理させる必要も、できないことを無理にやらせる必要もありません。
その子ができる範囲のことや、少し慣れてくれば達成できる範囲のことで求めればいいのです。
子供だからできないときもあるし、失敗することもあります。教えてもすぐ上達するわけでもないでしょう。そこは許容できないとね。
失敗に神経質になると子供の意欲や自主性は伸びないし、失敗を恐れるためにお手伝いそのものを好んでしなくなってしまいます。もちろん、失敗したら本当に困るようなことを子供に求める必要はありません。
また、子供になにかしてもらうことを申し訳なく思う必要はありません。
子供だって誰かの役に立つことをうれしく感じる気持ちはきちんと持っています。
それを義務にしてしまえばやがてその気持ちはしぼんでいきますが、そこで親子のあたたかい心の交流を持ちながらであれば子供はむしろ自己肯定や自信をはぐくむ機会としていけます。
子供に手伝いや家の仕事をしてもらうことを申し訳なく感じるようになったのは、いま子育てしている人の親の世代かもう少し上の世代からです。ごく最近のことですね。
子供を手伝いなどから解放することを子供の自主性の尊重であると考えたり、またはその分の時間を勉強や習い事にあてることを価値観の上位におくようにその頃からなってきました。
しかし、その一方で子供の「依存」の問題が大きくなり、それに対処する手段を持ち得ないまま現代まで来てしまったと言えるでしょう。
| 2017-03-05 | 心の育て方 | Comment : 5 | トラックバック : 0 |
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